ページ

2017年8月17日木曜日

歴史解説記事の裏側

「応仁の乱」よりも前から鎌倉は戦国時代だった
かつて湘南ビーチは合戦の舞台だった!(どちらもJBpress)

 昨日今日とまたJBpressで自分の書いた歴史記事を配信してもらいました。普段中国ネタの記事ばかり書いているのになんで今回歴史ネタなのかというと、先週の安倍内閣改造の記事をそのニュースとしての鮮度を考慮し、定期ペースから一週間繰り上げて掲載してもらったところ、「来週も行ける?」と聞かれて、「密かに準備していたこれなら出せる」といって出したところ使うことになりました。そんな感じで、実はこの記事は7月くらいから準備していた物でした。
 なんで準備していたのかというと、急病や帰省などで記事が出せなかった時の保険として用意していて、歴史ネタなためもし向こうで使えないと言われたらブログに使おうとも考えていました。

 このブログの読者なら私が歴史ネタの記事を書くのに慣れているのはご存知でしょうが、今回戦国時代初期の関東を何故選んだのかというと、ちょっと理由があります。一つは最近応仁の乱ブームでこの時代にスポットが浴びていること、二つ目としては全く手垢がついておらず日本史におけるエアスポットみたいな時代と場所だったからです。
 戦国時代、それも初期の関東は太田道灌を始め面白い武将が数多く登場して戦乱も多分当時としては全国一なくらい激しくて面白い時代ですが、この時代について知識なり理解がある人は極端に少ないでしょう。何故面白い時代のに少ないのかというと理由はごく単純に理解し辛いからで、この時代を学ぼうと興味持った人を悉く挫折させてしまうことはおろか、ある程度理解している人でさえその複雑さから解説にあぐねるような特徴があり、いわば「登り甲斐はあるけど険しすぎるし、説明し辛い山」みたいなもんでした。そうした背景からざっとみたところ誰もまだきちんと解説できてないように思え、「俺の腕ならなんとかなるだろう」という妙な自信と勝算とともに手を付けたわけです。

 真面目に今回の一連の記事は、自分の「複雑な内容をわかりやすく解説する」という職人技が光った記事だと思います。Yahooの記事コメントでもわかりやすいとしてくれる人が存外多く、そこそこ苦労しただけあっていくらか報われました。

 そもそも何故この時代の関東が複雑で理解が難しいのかというと、まずやたらと登場人物が多いのと、その登場人物の名前がみんなに通っているからです。この時代は「偏諱」といって、有力者の名前から一字をみんなもらうため、例えば足利義満の時代であればみんな「満」の字が入ってたりして紛らわしいです。その上、利害関係というか対立構図も複雑で、前まで一緒に戦っていたもの同士が争い合ったり、遠くの同じ苗字の一族が突然出てきたり、挙句には下剋上も起こってもう何が何だかだんだんわからなくなってきます。
 そうした背景から、今回の記事では何よりもまずわかりやすさを追求し、いろいろと小細工を弄しています。

 具体的にはまず焦点を絞りました。前編では鎌倉府の成り立ちと、足利幕府と鎌倉府の対立のみにスポットを当て、本筋と関係ない話はなるべく排除しています。こうした考えから「上杉禅秀の乱」は当時の関東においてそこそこ争乱の規模が大きい事件ではあるものの、本筋からは外れるし理解を妨げる恐れがあることからバッサリカットしました。この判断は間違いなく正しいでしょう。
 次にやった小細工としては、登場人物を極力抑えたことです。一番この時代でやらしいのは上杉家の人物が何度も、多数出てきて、一体どこの上杉さんか途中で分からなくなってしまうところがあります。そこで前編、後編ともに登場する上杉さんは原則一人に抑え、後編では当初は享徳の乱まで入って解説しようかと思いましたが、そしたら上杉さんを量産せざるを得なくなるため、本筋をあくまで「足利成氏の生い立ちとその立場」に据え、享徳の乱直前でストップをかけました。当初は意識してませんでしたが、成氏についてその存在を強調したので今後においてイメージを植えるのには役立つ気がします。

 それこそ、文字数の制限がなければいくらでも詳しく書ける時代ではありますが、詳しく書けばわかりやすくなるかといったらそうではありません。割とこの辺、歴史マニアが良くやらかすのですが、自分はわかっているからといって詳細に書いてしまうと初心者があまりついてこれず、誰も得しない解説記事になってしまいがちです。かといって短くまとめてしまって内容が薄くなってしまえば元も子もありません。
 突き詰めれば解説記事は「内容の深さ」と「文章の簡潔さ」のバランスをいかにうまく取れるかが重要であり、このバランスをいい方向へ誘導させるのが上記に挙げた「焦点を絞る」という作業だと思います。文章全体で中心線を常に意識して書き、場合によっては余計なものは排除するというのが重要となってくるわけです。その上で、簡潔にとはいっても結果だけを羅列するのではなく、何故その結果に至ったのかという過程をしっかり捉え因果関係を強く明示するのもテクニックでしょう。

 以前にも何度も自慢していますが、こういう複雑で難しい内容を解説するのを私は得意としており、内容が複雑であればあるほど真価を発揮するライターだと考えています。ただ今回の記事について友人は、「とても上海在住の人間が書く内容とは思えない」といってて、ちょっと前にも書いた通り脈絡のなさでも自分はライターとして無駄に高い位置にいる気がします。

2017年8月16日水曜日

ガンダムブレイカーの使用機体

 昨日の記事で散々疲れたしんどいと言いながら、ブログ書いた後はまたゲームして遊んでました。先ほど友人にも、「今日はもうすぐ休むの?」と聞かれましたが、「いや、ブログ書いてゲームする」といったら向こう黙ってしまいました。
 そんな私が今遊んでるのは「ガンダムブレイカー3」ですが、つい昨日に噂には聞いていたあるイベントシーンをようやく拝めました。そのシーンというのもウイルスに感染したロボットがヒロインを煽る場面で、

ロボット「アップルパイにはリンゴが入ってるけど、ペチャパイには何が入ってるの?」
ヒロイン(#;Д;)<何も入ってねーよ!!」(ガチ絶叫)

 見ていてマジ凄い煽り方だなと感心しました。

 そんなガンダムブレイカーですが、このゲームはガンダムに出てくるモビルスーツのパーツを自由に組み合わせて戦うゲームで、私が現在使用している機体の期待名、組み合わせは以下の通りです。

機体名:セカンドV
頭部、胴体、アーム部:Vガンダム
バックパック:V2ガンダム
脚部:V2アサルトガンダム
シールド:ビームシールド
武器:その日の気分によって

 見てわかる通り、V(ビクトリー)ガンダムをベースにして作ってます。知ってる人には早いですが「セカンドV」というのは原作の「Vガンダム」のアニメには出てこず、小説版にしか出てこない機体で、アニメ版では後半の主役機に当たる「V2ガンダム」の役割を果たしています。
 こんな機体名と構成にしたのはそこそこVガンダムが好きなのと、映像には出てこなかった機体を敢えてゲーム上で再現しようと考えたからです。もっとも本来のセカンドVならバックパックにV2ガンダムのいわゆる「光の翼」だけでなくメガビーム砲などもの兵装ついているのですが、ごてごてしたのは嫌いなのでシンプルに「光の翼」だけの外観にしました。
 あと脚部をV2アサルト版にしたのは、推力的に考えたらこの構成だと脚部がもっと強化されていて然るべきだと思ったためです。まぁ戦略的にもこのパーツなら副武装にヴェスバーが使えるようになるので、そうした戦闘でのメリット面も考慮してのことですが。

 なおなんでVガンダムが好きなのかというと、外観的にとにかくシンプルな機体だからです。配色もこれでもかというくらいシンプルで、見方によっては初代ガンダムよりもシンプルかと思えます。それでいてこの機体は劇中でもそうですが、兵器として「強さ」は追い求められず、主要パーツが交換、共用できるなど「効率」が徹底的に追及された機体であり、そうした設計思想が自分の価値観にものすごいハマって気に入るようになったわけです。
 大分昔にも書きましたが、無駄な要素を徹底的にそぎ落としシンプルに機能のみを追求した姿にこそ美は宿ると考えており、割とシンプルなデザインを好む傾向があります。自動車でもダイハツのストーリア(初期型)がデザイン的には一番好きですが、改めて考えるとかなり独特な美的感覚を持っているような気がします。

2017年8月15日火曜日

加計学園系列大学の偏差値

 今日はまだ元気ですが最近くそ忙しくて目が回ってます。っていうか中国で働くようになってから8月にやたらと休みを取る日本人が休み過ぎなように見えてなりません。ブログの更新がこのところ滞っているのは単純に疲れているのと、明日明後日JBpressで配信する記事の準備で忙しかったからですが、真面目に誰か自分と同じような生活をやってみて、自分がどれだけ馬鹿みたいに記事書いて疲労しているかを理解してもらいたいものです。
 ってわけで本題ですが、結論から言えばやっぱ加計学園はまずいなぁというのが私の本音です。

 ここしばらくノンフィクション本を読み漁って手を付けてこなかった文芸春秋を久々に買ったところ今回の加計学園について報じられていて、ネットニュースだけじゃいまいち理解していなかった事実というか構造がようやく理解できました。箇条書きで示すと以下の通りです。

・獣医学部を設置しようとしているのは加計学園系列の岡山理科大
・キャンパスはもちろん特区を設置する愛媛県今治市で、岡山理科大からすればリモートキャンパスとなる
・特区設置を図る今治市、獣医学部設置を図る岡山理科大の二つの思惑

 まず今治市について少し書くと、文芸春秋の記事によれば新しく特区法ができたから当時の記事が何かしら申請しようと考え、最初は造船所があったかあ海事特区みたいなのを案として出したら「ふざけるな!」と返され、ならニーズを考え獣医学部も置ける獣医特区で出そうとしたのがきっかけだそうです。この時2007年で、当時の市長によると報道では獣医特区を出して賛同する学校法人を募集したところ加計学園しか名乗らなかったと言われてますが、実際は募集を出す前に加計学園の方から「うちにやらせてくれ」と自ら売り込んできたそうです。

 そして加計学園理事長の加計孝太郎氏と接触した今治市職員によると、ものすごい酒飲む人で、なんていうか商魂たくましそうな人で金の話ばかりされたそうです。なんとなくですが、この辺読んでてもう一つの学園理事長が浮かんできました。ネットの情報によると安倍総理とは米国留学中に出会った頃からの仲で、まぁマブダチなんでしょう。

 私が今回何故加計学園ではまずいと思ったのかというと、率直に言ってこの学校法人、ひいては加計理事長に対し教育熱心であるとは思えず、完全にビジネスとして大学を経営し、今回の話にも噛んできたと思うからです。というのも加計学園には前科があり、千葉県銚子市に設置された千葉科学大学がやばい大学なんだなということを知ったからです。
 書いててなんか辛くてもうやめたいですが、頑張って最後まで書こう( ^ω^)・・・

千葉科学大学(Wikipedia)

 千葉科学大学は2004年に開校した大学で、運営はみんなお馴染みの学校法人加計学園です。この大学の何が問題なのかというとまず設立段階でキャンパスに使う土地の八割が銚子市から無償で譲渡され、さらに約92.15億円の助成金が加計学園に振り込まれました。当時からこの出費はその効果を疑問視した市民から反発されたこともあり助成金額は一部減額され約77.5億円になりましたが、銚子市が見込んだ経済効果は年間約69億円だったのに対し、実際は年間約23億円にとどまり捕らぬ狸の皮算用となったそうです。
 普通、経済効果って多めに見積もられることが多いのですがそれでも想定の半分以下って当時の銚子市の議員や市長はどれだけ質が低いんだと呆れる以外他ありませんが、それ以上に注目したのはこれです。

千葉科学大偏差値一覧(大学偏差値.biz)

 上記リンク先は千葉科学大学の偏差値一覧で、見てもらえばわかる通り偏差値40のEランクの看護学部を除きすべて堂々のFランクで、偏差値30台が主となっていてどこも定員割れしていると思われます。実際、文部科学省からも千葉科学大については、「大学レベルとは思えない低レベルな講義が展開されている」という調査報告書が出されており、また今年3月に行われた薬剤師国家試験の合格率は国立大が84.38%、私大が70.64%だったのに対し、千葉科学大薬学部は48.62%という驚異の数値を叩き出しています。

岡山理科大学偏差値一覧
倉敷芸術科大学偏差値一覧(どちらも大学偏差値.biz)

 となると気になるのは残りの加計学園系列の大学偏差値です。岡山理科大はさすがに本拠地なだけあって生物地球学部こそ50前後ですが、その下を見るとまた30台のFランクとされる学部がずらりと並んでおり、ぶっちゃけその存在価値を疑います。倉敷芸術科大学に至っては夢のオールFランクで、もはや大学単体というより学校法人まるごと取り潰した方がいいのではとはっきり思いました。言うまでもなくこんな大学にも助成金は毎年振り込まれており、銚子市に至っては何十億円を供出してFランク大学を誘致したのだと思うといろんな思いがこみ上げてきます。

 敢えてこの記事では獣医学部設置認可の手続き問題には触れず加計学園の大学運営だけに焦点を絞って書いていますが、種々のエピソードから察するに加計学園に至っては教育よりもビジネスとして大学を経営しているとしか思えず、且つその経営している大学の現状が上記のように惨憺たる有様であることから、こんなところが新たに獣医学部を設置するという行為について不安しか覚えません。
 そんなんだったらこの際、手続き上の疑惑もあることだしもっと別の、まともな学校法人に今治来てもらって獣医学部設置させた方がいいのではと私は思います。まぁそれだったら、既存の獣医学部がある大学に助成金入れて定員増やさせる方が確実ですが。っていうか底辺ランク大学については統廃合なり、助成金支給停止などをやってもっと教育資本を有効かつ効率的に集中させるべきだと思います日本は。

 あーしんど。ってわけでゲームして寝ます。

2017年8月12日土曜日

源氏方に与した平家武将

 この前の記事に続きというわけではありませんが、源氏でありながら平家武将と一緒に戦った源頼政がいたように、平家でありながら源氏方に与した武将もまたいます。その名も平頼盛といい、「頼朝」の「頼」という字がついているだけに名前からして源氏方っぽい武将です。

平頼盛(Wikipedia)

<清盛の弟>
 平頼盛とは誰かというと、平清盛の年の離れた異母弟です。その年齢差は15歳も離れており、清盛の長男である重盛の方が頼盛より5歳下でほぼ同年代という有様でした。そうした状況もあってか清盛が平家の棟梁として着々と権力を固めていくとその両脇を重盛と頼盛が支えるような立場となり、両者は官位昇進でもほぼ同時期になるなど「平家のナンバー3」としての役割を果たします。
 そんな頼盛が最も活躍したのは平治の乱で、平家物語上の記述ではありますが重盛とともに平家軍の大将として前線で戦い、大いに敵軍を打ち破るなどの活躍が記述されます。こうした記述と後にも軍勢を率いる場面が多く、軍事指揮官として平家内でも一目置かれていたのではないかと思われます。

<清盛からの警戒>
 しかし平治の乱後、重盛を後継者としたい清盛から頼盛は「その地位を脅かすもの」として警戒されたのか、これ以降も順調に官位昇進を果たす重盛に対し頼盛は抑えられ続けました。そうした兄・清盛との隙間風もあってか太宰大仁に任命されると、通常は代理人を現地に送るのが慣例なのにわざわざ頼盛本人が太宰府に赴任するなど距離を置き始めます。
 さらには念願かなって参議に昇進を果たすものの、その一ヶ月後には突然解任された上、軍事指揮権なども取り上げられます。表向きは役目を果たさず後白河法皇の怒りを買ったとされていますが、重盛へのレールを引く清盛の意向が左右したとも言われ、私もこの説を支持します。

 こうして一旦は頼盛を排除しようとした清盛でしたが、やはりその地位と立場、そして実力を買っていたのか、またすぐに頼盛を現場に復帰させ政務を行わせています。この政界復帰には頼盛の妻が昔仕えていた八条院(暲子内親王、鳥羽天皇の娘)との結びつきがうまく作用したとされ、この関係は後々にも頼盛の立場を大いに助けています。

<清盛からの更なる警戒>
 平家の春が謳歌されていたころ、平氏打倒の謀議こと「鹿ケ谷の陰謀」が発覚して関係者一同が処分されるのですが、この謀議に頼盛も加わっていたのではないかと清盛は疑い、政界復帰をさせていながらまたも頼盛へプレッシャーをかけていきます。一時は「頼盛追討の兵が興された」という噂まで出たそうですが、これほどまでに頼盛が疑われていた背景には彼が平氏一門より八条院、ひいては後白河法皇との関係の方が強く、あっち側につくのではないかと警戒されていたためだと言われます。
 そのため、八条院に支援を受けて挙兵したことがほぼ確実視されていた以仁王の挙兵でも、裏切りがないかを証明させるために頼盛は追討軍の大将に指名されています。もっともこちらでは頼盛は淡々と仕事をこなしてかわしてはいましたが。

<まさかの前線置き去り>
 以仁王の挙兵以降、源頼朝を始め各地で反平氏の兵が興る中、清盛が突如病死してその後継には清盛の息子であり、先に病死した重盛の弟にあたる宗盛が継ぎます。大黒柱の清盛の逝去は平家側にとっては大きな打撃となりその後の源氏との戦いでも敗戦が続き、源義仲の軍勢が京都に近づく中、頼盛は京都山科に陣取って京都防衛の最前線を守るよう命令されます。
 しかしこの命令に従って頼盛が山科に陣取るや、なんと宗盛らは平氏の都落ちを決め、六原の邸宅に火を放って続々と京都を離れて行ってしまいました。これに慌てた頼盛は洛中に使者を送って事の子細を宗盛に尋ねるも要領は得られず、結果的には戦場に置き去りにされる仕打ちを受けます。

 この後頼盛は他の平家一門を追って西国へ落ち延びることはせず、むしろ彼らと離れるような形で単独行動をとるようになり洛中にて身を潜めます。この頼盛の行動について当時の日記などからは非難するような声はほとんどなかったようで、むしろ「彼がこうするのも当然」という形で同情視されていたとのことです。
 また京都で隠遁中はまた後白河法皇や八条院から支援があり匿われたとされますが、そうまでして京都に残った判断はその後すぐに生きてきます。

<頼朝からのスカウト>
 源義仲が京都を占領する中、頼盛は密かに頼朝と連絡を取り合い当時の京都の状況について細かく報告していました。特に頼盛からの「京都周辺は不作で兵糧難」という報告が頼朝自身の上洛を中止し、代わりに義経が派遣される判断の上で大きく影響したとされます。
 それほどまでに頻繁に連絡を取り合っただけでなく、なんと頼盛自身が息子ともどもわざわざ鎌倉くんだりまで行ってきて頼朝とも直接対面まで果たしています。頼朝もまた頼盛をこれ以上ないくらいの勢いで激しくもてなしたとされ、源氏と平氏でありながら仲良くやっていたそうです。

 何故頼朝が頼盛を厚遇したのかというと、彼が持つ後白河法皇周辺の人脈とパイプに期待していたとされ、実際にこれ以降の頼盛の活動や頼朝の京都工作において大いに貢献します。それに応える形で頼朝も頼盛の所領を安堵するなど、Win-Winの関係を築いていたと言えるでしょう。

<壇ノ浦後も生き残った平氏>
 その後、1185年に平氏は滅亡しますが、頼盛は生き残り続けました。彼がどのような気持ちで平家の滅亡を眺めたかについては特に記録は見当たりませんが、一方で彼が源氏の側で活動していたことについて非難するような声も見当たらず、私としてもこんな立場ならと同情する気持ちの方が大きいです。
 頼盛自身はその翌年の1186年に自宅で病死していますが、源氏方として平家の滅亡を眺めたという意味でこの人物は面白いと思い、今回紹介することとしました。

2017年8月8日火曜日

ジョジョ3部から4部へのリアルタイムでの移行

「ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章」70点(100点満点中)(超映画批評)

 上記は「また漫画の実写映画化よ!」と方々で言われている「ジョジョの奇妙な冒険」の映画に対する前田有一氏の批評記事です。「言われているほどひどくはないし見られるところも多い」というのが大まかな内容ですが、個人的に気になったのは末尾近くの以下の箇所です。

「私は週刊少年ジャンプ連載中のジョジョをリアルタイムで第一部から読んでいた、年季の入ったジョジョ読者であるが、ファンには申し訳ないのだが第四部についてそれほど高く評価はしていない。

 あの当時毎週読んでいた人なら同意してくれると思うが、ジョナサンの物語から始まるDIOとの因縁に決着がつく第三部の最終盤の展開のハイテンションたるや、本当にすさまじいものがあったのである。

 それはまさにページをめくる手が震えるような緊張感と衝撃の連続で、とくにヴァニラ・アイス戦以降はもう毎日ジョジョのことしか考えられない、そんな状況であった。

 だからあの、パーフェクトなエンディングのあとにやってきた第四部のテンションの低さには、たとえ吉良戦にいたっても没頭するまでには至らなかったのである。」

 この前田氏の言葉には私も深く同感します。私もちょうど第三部の終盤からジョジョを読み始め、そのまま第四部もリアルタイムで雑誌にて読み続けた世代ですが、第四部を読んでいたころは第三部と比べるとスケールダウンした話という印象を強く持っていました。そう思うほど、恐らく現在でも最も人気が高いであろう第三部のインパクトが強かったのです。

 当時の記憶を遡ると、最後の最後までその姿が影に包まれ現わされなかったラスボスのディオの迫力は凄まじく、またそのディオ戦直前におけるヴァニラ・アイス戦の激しい攻防と打倒される仲間達の姿には子供心に打ち震えるような感動がありました。
 そしてようやくベールが剥がされその姿を見せたディオですが、その圧倒的強さから、「どうやってこんなの勝てるの?」と当時真面目に思いました。案の定というか次々と仲間が倒され、主人公の丈太郎も同じ「時を止める」能力を身につけ抵抗を見せるものの全く歯が立たず、万事休すと誰もが思ったその瞬間にあの「俺が止めた」のセリフに始まる逆転劇は前田氏だけでなく自分も指が震えました。

 そんな激戦を見せられた後、日常、それもエジプトでなく日本の街中を舞台にした第四部はスケールといい戦闘といい、なんていうか物凄い物足りなさを感じました。唯一面白いと思ったのは漫画家の岸部露伴が出てくるところで、現在では当たり前ですが当時としては漫画の中に漫画家のキャラクターが出てくるのが珍しかったのもあって岸部露伴が出てきた辺りから少しは見直すようになりました。
 とはいえ第四部の連載中、ひいては第五部の連載中にあっても私の中では第三部が「至高にして究極のジョジョ」であり続けました。そして現在、第八部まで続くジョジョのエピソードでランクをつけるとしたらトップは第七部になりましたが、第二位はなんと第四部が来るようになっています。

 連載当時でこそ第三部と比較して物足りなさを感じた第四部でしたが、年月が経ち改めて読み直すとオムニバス形式の話が続く中で徐々に「おかしくなっていく日常の真相」が見えていく展開と、岸部露伴に限らずラスボスの吉良吉影をはじめとする各キャラクターがものすごい魅力を持つことに気が付くようになり、最高評価でこそ「ありがとう、ジャイロ」から続く怒涛のラストバトルが展開する第七部となりますが、それを除くとしたらこの第四部が私は一番好きで、特にラストシーン近くのある別れのシーンを見るたびにリアルで泣き出し、今こうして書いている最中も涙腺が緩んできます。
 こういう風に思うだに、自分の加齢によって見方が変わったのかと思うのと、年月を経てから価値が見えてくる作品なのだなとこの第四部については思います。特に吉良吉影の、「植物の心のように穏やかな生活を送りたい」という願望が年とともに深く胸に突き刺さるようになってきました。そう思うと作者の荒木氏は、あの激しい展開の第三部の後によくもこの第四部を描いたものだと改めて驚嘆します。

 最後、蛇足かもしれませんが最近「読者、視聴者が思い通りの展開でないと批判される」というクリエーター側の愚痴が波紋を広げていますが、私に言わせればこれは甘えに過ぎません。どんな展開が評価されるのか一言でいえば、「予想を超えた展開」こそが最も評価されるのであって、ある程度先が読まれる展開になってる時点でそれはもう駄作です。
 そういう意味でジョジョの展開はまさしく読者の予想を遥かに超えた、先が見えない展開が非常に多く、だからこそこの作品評価されているのだと思います。

平家側に与した源氏武将

何故保存したのかわからない画像第三段

 先日の記事で明智光秀が裏切った理由を三つ上げられないようでは歴女として認めないと私は書きましたが、もし仮に「げんさんみにゅうどう」と私が言ったら即、「頼政!」と言える人であればその実力を認めざるを得ません。といってもそんな人、男女問わず見たことないけど。

源頼政(Wikipedia)

 先の「げんさんみにゅうどう」とは漢字で書くと「源三位入道」となり、この言葉が指す人物とは上記の源頼政です。何故このような異名が付いたのかというと、「源氏で従三位の官位に就いたおじいちゃん」だったからです。この人がどんな人物だったかというと、源氏で唯一平家側に就いたとされる人物です。正確には多分違うでしょうが。

 源氏と平家と言ったら和田アキ子と小林幸子並みに因縁の相手同士であることは日本の常識で、中国でいえば「呉越同舟」の呉と越並に仲の悪い同士に取られがちです。しかし源氏も平家も実際は分家がたくさんあり、中には相手方に協力した武将も少なくないのですが、この源頼政はその中でも際立った存在であり平家側で活躍した源氏の第一人者であることには間違いありません。
 一般に源氏と呼ばれるのは頼朝、義経の家系に当たる「河内源氏」です。これに対し頼政は「摂津源氏」の家系で、この家系には「平安朝のゴーストバスター」であり土蜘蛛や酒呑童子とも戦ったとされる源頼光も含まれていて、恐らくそうした縁からか後年の講談では頼政も鵺退治を行ったという逸話が作られています。

 この摂津源氏というか頼光についてですが、鬼退治のエピソードもあるからさぞや武辺者だろうとみられているものの、実際には武家でありながら摂関家をはじめとする貴族らにべったりとくっつき、特に藤原道長については腰巾着も同然だったようです。ただその甲斐あって武家でありながら貴族高家とも交流のある一族で、そうした背景もあって頼政も天皇家との結びつきも強く、その延長から源氏ではなく平家、言い換えれば平清盛についたところもあるでしょう。

 頼政が歴史の表舞台に出てくるのは言うまでもなく保元・平治の乱で、天皇家や摂関家の主導権争いの中でどちらも勝者の側につき、特に後ろの平治の乱では頼朝の父である源義朝にではなく平清盛につき、戦後処理でも高く評価されたことからも相当活躍したものとみられます。
 平治の乱を経て平家が我が世の春を謳歌した時代も頼政は重用され続け、実質この時代においては源氏の中で最大の出世頭であったことから源氏長者にあったと言ってもいいかもしれません。官位も武家としては異例の従三位まで上り詰め、任命時は「ありえへん」などと当時の帰属の日記にまで書かれています。

 そんな頼政ですが、彼を有名たらしめているのは間違いなく平家物語の活躍でしょう。というのも頼政は従三位に昇進させるほど重用した清盛を裏切り、所謂「以仁王の反乱」に与して平家打倒の最初の反乱を起こした人物でもあります。

 平家政権で唯一と言っていいほど源氏で重用された頼政が何故裏切ったのか。理由について平家物語では清盛の馬鹿息子と言われ放題な平宗盛が頼政の息子に対し嫌がらせをした上に激しく罵倒したため、既に70を超える老齢でありながら息子の恥を雪がんと以仁王に対して積極的に働きかけ、反乱を起こしたと書かれてあります。
 ただこの理由は平家物語の創作と言われ、史実としてはやや疑問視されています。かといってほかに明確な反乱理由が記録されているわけではなく、明智光秀同様に裏切りの理由がはっきりしません。

 私の推測を述べるとすれば、頼政は源氏や武士以前に天皇家など貴族社会との結びつきが強く、清盛が孫の安徳天皇を即位させたことに対し、鳥羽天皇以来の直系こそが皇位を継ぐべきだと思い反感を覚えたことから、その系譜に当たる以仁王と手を組んだのではないかと思います。こうした「鳥羽直系」を主張する人物は当時の逸話を見ていると結構多かったように見えるし。

 ただこうして起こされた頼政の反乱ですが、実際に事を起こす前に清盛側に以仁王の謀議が感知され、当初は頼政もこの謀議に加わっているとは思われていなかったことから以仁王討伐隊に指名されます。この清盛からの命令に対し頼政は自邸を焼いた上で一族郎党を率いて以仁王と合流し、明確に反旗を翻します。
 しかしこの時期は腐っても平家、というよりまだ清盛が存命していたこともあり、改めて差し向けられた平家の軍勢に頼政軍は敗退し、頼政自身も御年77歳で戦場に立ちながらも息子らが次々と打たれ、本人も最終的に敗死してしまいます。しかしこの反乱を受けて各地で頼朝を含め平家打倒の兵が次々と立ち、中国でいえば「陳勝・呉広の乱」みたいな意味合いでその歴史的価値は非常に高いと言えるでしょう。

 といったのが頼政の一連の流れですが、平家物語を読んでいれば最初のげんさんみにゅうどうとは誰かと聞けばほぼわかるはずなので、あの質問で平家物語を扱った経験も一緒に確認できるというわけです。まぁ言うほど、私も古典はそんな強くはないのですがね。

2017年8月7日月曜日

経営者の質こそ日本の課題?

何故保存したのかよくわからない画像第二段

 知り合いに自家用車を決める際に何が決め手になるかと聞いたら、「ディーラ店員のイケメン度(母ちゃん基準)」と言われ、「そうか、そんな選び方もあったんだ」と妙に感心しました。

 話は本題に入りますが以前に「正常な判断の利かない経営者」という記事を私は書きましたが、そこそこアクセスが伸びているのと、書き終えてから私もやはりこの問題は根深いと思うようになり、そもそも日本経済の一番の癌は雇用慣行や過重労働とか以前にこれに尽きるんじゃないかなと最近思えてきました。言い換えれば経営者の質を高めれば日本経済は復興するかもという期待です。

 このように思う根拠としてはこのところの大企業の業績低迷はその大半が明らかに経営者の判断ミスにあり、もし経営者がまともであればそもそも何も問題がなかったと言えるものばかりだからです。それともう一つ大きいこととして、かねてから私の持論ですが「日本人は外国人に支配(マネジメント)された方が効率いい」というものがあり、実例としては自動車の日産……と言いたいところですが自動車での一番の成功例は実はマツダで、フォードから社長が来ていた時は最悪期から見事に脱しています。
 ついでに言えば今のシャープもある意味そうで、戦時中もそうですが一般兵は優秀ながらも弛緩が無能すぎるせいで米軍からも、「日本の将官こそ最大の味方だ」と言われたのもあながち間違いではありません。悲しい加奈子の現況は未だに続いており、企業経営者の質でいえば断言してもいいですが欧米はもとより中国や韓国にすら日本は劣っています。

 じゃあどうすればいいかですが、プロ経営者と呼べるのは意外と昭和期には多かったものの現代だと稲森和夫氏くらいしかビッグネームだとおらず、あと批判は多いものの個人的に私は評価している原田泳幸氏くらいです。そうした狭い選択肢の中から選ぶくらいならこの際外国から優秀な経営者を引っ張ってきた方がいいとすら思えるのですが、大手はともかく中小企業でそんなことはできないものの、実態としては中小企業ほど働かない年寄りが一番給与が高かったり、何故か頑張っている社員が陰口叩かれたりするほどマネジメントがおかしくこの方面の改革が必要だったりします。
 となればどうするかですが、第一にやることは見える化で、経営判断力の指標というか評価をもっと世間一般で議論すべきで、まともな人間とトチ狂った人間を比較し合うことです。日本だとどんな会社がブラックかそうでないかで議論することが多いですが、会社名ではなく経営者の名前でもっと議論すべきで、そうした情報をもっと共有するべきでしょう。

 その次に経営者の質を高める努力を国を挙げてやるべきで、優秀な経営者の表彰はもとより、頭のおかしい経営者というか違反例のある会社ではなく違反を行った経営者の名前を堂々と公開し、社会から排除するかにもっと力を入れるべきです。
 繰り返しになりますが会社名ではなく経営者の名前でもっと社会は判断するべきで、それこそ必要であれば社員がダメな経営者を排除できるような制度なり慣例を設けることも必要だと思います。日本人従業員が果たして本当に優秀かどうかは私にはわかりませんが、日本人経営者は平均的に無能であることは確実だと思うので、この辺にしっかりとメスを入れることが何よりも重要となってくでしょう。