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2021年12月7日火曜日

「など」と「等」はどっちを使えばいい?

 最近しょうもないことばかり書いているのでたまには世のため役に立つことでも書くことにします。ちなみになんでしょうもないことばかり書いてるのかというと、ガチで最近ゲームで忙しいせいです。詳細は言えないけど、多分自分の一生の中で最高のゲームを遊んでいるという気がします。

 話を本題に移すと、たまに「など」と「等」、この単語はひらがなと漢字のどちらを使えばいいのかという質問を受けることがあります。結論から書くと、ひらがなの方が有利だと自分は考えています。

 この「など」は具体名は出さないけど手前の名刺単語に類する、近い意味の名詞に相当する単語がその後に続くことを示す単語です。また手前の単語が例えとして出した単語であるということを示す意味でも使われます。日常生活の口語においても使用頻度が高い単語なのですが、日本語文章での表記では「など」と「等」という具合でひらがなと漢字での表記が両方とも存在しており、どっちかを優先して使うような指針も特にないため、個人や状況によってどちらを使うかは完全に裁量に任せられています。

 私自身、言葉というのはたとえ同じ意味であろうと、よっぽど混同しやすかったり表記し辛くない限りはなるべく幅が広い方がいいと考えており、「こういう時はこっちを使わなきゃ」なんて偉そうに言って表現の幅を狭めようとする輩は殺したいくらい嫌いです。ただこの「など」に関してはあまりにも指針がなく、どっち使う方がいいのとガチで聞かれるくらい曖昧なところがあるのと、冒頭でも語った通りひらがなの方が表現上で有利であることから、漢字を使っても別にいいけどひらがなの方が有利であるということはここではっきり示します。

 では何故ひらがなの方が有利なのかというと、これもあんま表立って教えられていませんが、日本語文章はひらがな部分で文節や単語を区切ることが多く、読み手に文章における区切りを意識させやすいからです。
 これは一体どういうことかというと百聞は一見に敷かずなので具体例を出すと、

・東京法制局局長級幹部会議は午後開かれる予定。

・東京法制局の局長級幹部会議は午後に開かれる予定。

 敢えて漢字でいっぱいな短文を入れましたが、動詞の「開かれる」を除くと使われているひらがなは「の」、「は」、そして「に」だけです。
 日本人はあんま意識していませんが、単語と単語がどこで区切るのかというと間にひらがなが入っているかどうかで判断する傾向があります。逆に、漢字が続いているとその漢字の末端までを一単語として捉えがちです上の文章だと「東京法制局局長級幹部会議」が一単語に見えます。しかし間に「の」が入る下の文だと、「東京法制局」、「局長級幹部会議」という二つの単語に分かれ、でもって読み手としては多分こっちの分割版の方が読みやすいし誤読することも少ないのではないかと思います。

 ついでに書いておきますが、私の感覚では漢字が連続する単語をさらっと読み取れるのは5文字まで、ギリ許されるのは6文字までだと思います。7文字以上も漢字が続くと明らかに読み辛くなり、読み手に負担がかかるため、分割が可能であれば上の例のように間に「の」を入れるなどして5文字くらいの二単語に分けた方が読み手にやさしいです。
 逆を言えば、あんま細かく読まれたくない箇所は意図的に長めに漢字を繋げるというテクニックもああります。

 話を「など」に戻すと、「カレーなどのインド料理のように」といった比喩表現で使う場合ならあまり影響ないですが、並列表現で使う場合だと上記の「漢字とひらがなの境目で区切る」が大きな意味を持ちます。早速具体例を出すと、

・火星、水星、木星など惑星は常に公転している。

・火星、水星、木星惑星は常に公転している。

 一見してわかる通り、漢字の「等」を使うとその前後の「木星」と「惑星」の二単語がそのまま漢字で連結されて、一読して読みにくい印象を受けます。逆に上のひらがなの「など」を使ったバージョンでは、その直前までは並列として挙げられている単語だということがはっきりわかり、その並列対象を総括する単語が「惑星」であることがはっきりわかって見やすいです。
 一応、漢字のバージョンも「~等の」という風に「の」を入れることで見やすくすることはできますが、それでも「木星など」と「木星等の」だったらやはり前者の方が速読とかしたりするうえでは有利な気がします。並列表現では単語がずらっと並んで漢字が多くなりがちなだけに、このようにひらがなの「など」を使う方が単純に有利かなと思います。ついでに書くと「等の」だと発音する場合は音の数も多くなってしまうし。

 逆に漢字の「等」はどんな時に使うのかですが、はっきり言えば文字数が制限されてたり、パワポなどで入力欄が制限されている場合にだけ自分は使っています。もしくは前述のように、読み手に深く読んでもらいたくない箇所を漢字で目いっぱいにする時くらいかな。

 ちなみになんでこんなことに意識を配るのかというと、やはり中国語で苦労しているというのが大きいです。仕事の傍ら、中国語文章を翻訳する機会も多いのですが、中国語の場合だと全部が全部漢字で、この手の単語同士の区切りを探すのがかなり難しかったりします。下手したら名詞と動詞すら判別できず、前の単語の漢字を変に混ぜて読んでしまって誤読したりすることも多いだけに、日本語の単語や文節の区切りでひらがなは重要だという風に気が付きました。
 マジで中国語はその辺、句読点でしか区切り部分を示す手段がないしなぁ。

 最後に、最初に表現は広い方がいいと言いながらですが、「遵守」と「順守」に関してはどっちかに統一してほしいですマジで。両者とも意味はほとんど同じなうえに発音も一緒で、なのに漢字だけ違うので、無駄に紛らわしいことこの上ないです。どっちがいいかというと中国語でも「遵守」が同じ意味で使えるので、「遵守」に統一した方がいいと密かに願ってます。
 逆に「敷衍」って単語が日本語と中国語で全然違う意味になり、中国語だと「ごまかす」、「やり過ごす」という意味で頻繁に使われるのが結構意外です。

2021年12月6日月曜日

ゲーム規制記事の裏側

ゲームの代わりにTikTok?厳しすぎる中国ゲーム規制で起きたこと(JBpress)

 さて「来襲のサザエさん」の時間じゃないですが定期的な自分の記事紹介ですが、あんま今回はアクセスは奮ってないようです。

 記事内容は見出しの通りに最近日本でもよく取り上げられている「厳し過ぎる中国のゲーム規制」について報道目的で書きました。この辺のゲーム業界ネタはガチな業界人の友人がいてくれるおかげで取材に困らないため記事を書くだけなら楽でしたが、改めて読み返すとやや文章のリズムが良くなく、折角の取材内容を自分が料理しきれなかった感があります。

 仮に紙幅が余っていたら、民主的なプロセスを経ていない点で共通する香川県のゲーム規制条例と絡めたことも書きたかったのが本音です。記事中にも書いていますが、中国だとゲームをやらなくなった代わりにTikTokなどの動画サービスに子供が流れているようで、ただゲームを規制したところで他の娯楽に流れるだけというのを若干強調したかったです。要するに、勉強に向かわせたいのならゲームとかを断つのではなく、勉強をする楽しさとか意義を知らしめるべきだと訴えたかったのですが、多分この手のメッセージは文章が稚拙だっただけに伝えきれてないでしょう。
 ちなみに中学受験時に親にスーファミとサターン隠されて、泣く泣く自分は埃被ってたバーコードバトラーⅡを引っ張り出して遊んでました。マジシュールだった。

 敢えて今回の記事の良いところを出すなら、取材で友人が教えてくれた、規制によって中国文化の掘り下げが進んでいるという事実を報じた点だと思います。日本でもゲームから歴史や文化の掘り下げ、普及が進んだという事例は少なくなく、メイド文化なんかまずそれだし、また艦これなどによる二次大戦におけるミリタリーネタの掘り下げも案外馬鹿にならない水準だったと思っています。そういう意味ではこのところの中国のゲーム規制は、デメリットだけじゃなくメリット面にも目を配らなければと改めて感じました。

 ちなみに今思いついたけど、ゲームやアニメ発で歴史や文化の理解や普及が進む例といったら信長の野望や三国志などコーエーのゲームがありますが、改めて考えるとヨーロッパ史を題材にしたものはかなり少なく、二次大戦以外だとない気がします。ドイツ30年戦争辺りは十分ゲーム化とかできると思うのですが、この辺になると小説とかもあんま出てないので、単純になじみが浅いだけかもしれません。
 個人的には前から中世イタリア史を学びたいと考えていたのを思い出したので、また今度本読んでその辺で記事でも書こうかな。

2021年12月5日日曜日

30歳からの終活

 自分が「終活」という単語を初めて見たのは、当時いた新聞社でアジア各国の高齢者の「終活」を比較しながら取り上げようという企画に関わった時でした。日本本部から出された企画で、各地の支局に高齢者夫婦を見つけて話聞いてこいというお触れが届いたので、たまたま知り合いの両親に話を聞けそうだったから自分が中国分を担当しました。
 なおこの時に友人の両親に話を聞いた後、「君んちの両親は仲良さそうだね」と友人に行ったところ、「そりゃ人前では仲良さそうにするよ」と、中国人らしい妙なリアル感のある言葉を口にしました。

 話を戻すと、仮に自分の中での終活という話になれば、自分は30歳から既に始めています。30歳から老後の生活とか預貯金とかを考えるようになった、というわけではなく、30歳からもう必死に生きるのやめて、のんびりとした余生を過ごそう、でもってなるべく早く死のうという風に考え、そのように動いています。

 なんで30歳から終活始めたのかというと、端的に言ってやりたいこと全部やり終えたからです。元々小さい頃から血の気が多かったから20歳までは生きられないだろうと十代の頃からガチで考えていましたが、想定が外れて20歳を超えてしまった時、なら30歳までにとりあえず起業を目標に頑張ってみようと方針転換し、何もせずじまいだったけど起業を一回やって、一応悲願成就となりました。
 そんな感じで30歳をアラサーしたころ、もう完全に自分の想定寿命をぶっちぎった上にやることもないので、死なない程度に生きて、死ぬべき時が来たらすぐ死のうという風に考え、なるべく楽な仕事選んでのんびり余生を過ごすことに決めました。そうして選んだ日本での仕事が、「これ、むしろ存在しない方がいい仕事だよね」というくらいくだらないもので、ぶっちゃけ社会の足を引っ張るだけの仕事内容に呆然としたものです。

 自分自身としてはなるべくのんびり野心なく生きたかったのですが、既に当時の時点で日本にはまともな精神ではやれる仕事はないとはっきりわかり、こりゃなにがなんでもまた中国に戻らないと、のんびりどころじゃなく頭やられると考え、すぐまた中国に戻れる仕事を探すようになりました。そんなこといろいろやって、中国でまた更に転職したりして今に至りますが、根っこのところでは今も余生を過ごしているというはっきりした自覚を持っており、「いないよりいた方がいいから」という理由で今の仕事も続けています。少なくとも、社会の足は引っ張ってないつもり。

 こうした価値観について知り合いに話したところ、「大きな仕事を成し遂げたり、偉大な記事やルポを書き残したいという欲求はないの?」と聞かれ「ない」と即答しました。自分にできる仕事で頼まれるならやってもいいですが、わざわざ自分から率先して成り上がったり、何かしたりしたいというのはなく、過剰なストレス感じない範囲で適当に仕事してお金もらって食いつなぎ続けて、どっかのタイミングで交通事故とかで余計な事何も考えずに死ねればいいと今でも思っています。
 果たしてこれが終活と呼べるのか自分でも意味わからないですが、死んでもいいという覚悟に至ることが終活と呼ぶなら、30歳くらいからもう自分は始めています。

 ただ、今年に関しては無駄に途中で死なずに生きながらえて本当に良かったと思える出来事として、野球での大谷翔平選手の活躍が見られたことが挙がってきます。彼に関しては本当に同時代にその活躍を見ることができて、本当に幸運だったと感じるほどの活躍ぶりで、この点に関しては途中で無駄死にせず本当に良かったと思います。
 このほか今年あったいい出来事を挙げると、やっぱ元寇の記事あげたことかなぁ。強敵集うようになったJBpressで久々の大型ヒット記事になったし。これに限らず今年はアクセス数を狙った記事では確実にアクセス取れてて、大谷選手みたく狙ったところにホームラン打てたような年でした。

2021年12月4日土曜日

またコルセア作ってた


 前にもタミヤ製キットで「F4U コルセア」という二次大戦期からしばらく活躍した米軍戦闘機のプラモを作りましたが、その際は翼を折りたためて組み立てられることから、折りたたんだ状態で組み立てました。ただ逆ガル翼という特殊な形状のこのコルセアなだけに、きちんと羽を広げた状態で作ってみたいと前から思っていたことから、今回改めて通常状態のコルセアを組み立てました。


 今回組み立てたのは韓国のアカデミーというメーカーのキットです。ここは以前にもF14とかF4も作っていますが、とにもかくにもデカールなどの絵柄が良く、見栄え良く組み上がる点で高い信頼を置いています。今回も最初はお店に置いてあったタミヤのモスキートを買おうと思っていたのですが、このコルセアのキットがアカデミーのコーナーにあり、しかもプラスチックが初めからネイビーブルーに着色されてあるのを見て、一瞬でこっちに切り替えて買ってきました。


 先に見せた同僚も「塗装したのかと思った」と言わせるほどの色合いで、自分の思った通り非常にいい見栄えのキットになったかと思います。塗装をやらずに素組みで済ませる自分からすると、こうしたプラ本体そのものに着色してくれる配慮はこの上なくありがたく、やはりこの点でアカデミーのセンスは頭抜けていると感じます。


 それで今回のメインイベントですが、以前に組んだ折りたたんだ状態のタミヤのキットと並べてみました。


 やはりどちらも味があり、前回に折りたたんだ状態を選んだことに公開はありません。でもってこうして並べてみると、やはり二つ揃ってなんぼな感じもします。


 組立てに関して言えばアカデミーのキットはパーツ数が少なかったこともありすぐ組み立てられたものの、やや古いキットなのか少し整合性が悪いところがありました。致命的っていうものはないものの、整合性さえ完璧であれば確実にタミヤのキットに全分野で勝ると感じただけにやや惜しいです。



 前に作ったフォッケウルフも気に入っていますが、このコルセアも逆ガル翼という、翼の根本がやや反り上がっている特殊な形状なだけに、それだけで他の戦闘機と比べても見栄えがいいです。特にこのアカデミーのキットはネイビーブルーないろなだけでなく、デカールも少ないながらいい絵柄が選ばれてて、家のどこに置こうかとかなりウキウキしました。

 しかし既に部屋の中は戦闘機と車のプラモでいっぱいで、洗面所はおろか、衣装棚、食器棚の中にすら所狭しと置いている有様で、暫定的に冷蔵庫脇に置いたけど若干納得いっていません。会社に持ってってもいいけど、既に会社にもインプとフェアレディZ置いており、このまま増えるとやばい人に認定される恐れすらあります。
 小さいボックス棚があれば収納が増え、且つその天板にプラモ置けるので、明日当たり探しに行くかもしれません。マジほんと作り過ぎた気がします(´・ω・`) 

2021年12月2日木曜日

岸田内閣の朝令暮改

 冬に備えて保温性高いふわふわもこもこなパジャマ買ったけど、これ来てるとやばいくらいダニにかまれまくってまじやばたにえん。今年夏場はダニ対策効いて久々に綺麗な太腿となっていたのに、いつの間にか再び蜂の巣ハニカム構造な感じで皮膚に穴開けられまくっています。っていうかなんでこの時期に噛まれるのかわかりませんが、気に入ってはいるものの、そろそろこのパジャマもあきらめざるを得ないかもしれません。意識ある状態ではっきり噛まれている感覚するのは辛い(´;ω;`)ウッ…


 さてそれで来世のサザエさんですが、オミクロン株を巡って国際線の発着や予約をどうするかでてんやわんやです。何気に自分の周りでもこの件に関しては注目が集まっており、特に年末年始に2年ぶりくらいに一時帰国しようとしていた同僚なんかも影響受けてそうです。また在中国日本大使館からも一昨日からひっきりなしにこの件でメールが来てて、ブログへのコメントかと思ってうきうきしてメール開けたらハイ残念ってことが多いです。

 今回、自分は特に日本にとこする予定は一切ないため特に影響を受けていませんが、やはり海外駐在員に対する影響をかなり大きいです。それこそ数年ぶりに日本で家族と会おうとしていた人や、急な治療や親類の病気のため帰国しようとしていた人たちのことを考えるとやはり気の毒です。
 ただ日本政府が警戒されているオミクロン株の流入を防ごうとする方針も理解できなくもなく、海外で対症療法が確立するまではこうした発着規制についてもやむなしかと私は考えていました。

 そう思っていた矢先、「航空会社に予約受けんなと言ったように聞こえたかもしれないが、ありゃ嘘だ」とばかりに、あっさりと前言をひっくり返してきました。聞くところによると国土交通省への通知もこの過程で一切なかったらしく、まぁ一言でなんやねんと言いたくなります。

 ただこうした朝令暮改については、岸田内閣ができた時点ではっきり予見できていました。単純に岸田総理自体が優柔不断な性格しているくせに、思い付きですぐ口に出す癖も持ち合わせているため、総裁選においても「森友は再調査する→そんなこと言ったっけ( ^ω^ )」とすぐ手のひら返しムーブを見せてきました。この手のタイプって次々と問題が起こる現場でサクサク処理するのには向いているけど、しっかり方針を決めてそれをしっかり守って達成するような仕事は明らかに向いておらず、この辺の自分の適性を完全に間違えてしまっているようにも見えます。

 先の菅内閣も朝令暮改が非常に激しい内閣でしたが、恐らく今後も岸田内閣は決めたそばから撤回する、翻すことが多くなると予想します。無論、ダメな政策をいつまでも続けるというのは良くないのでダメならダメで撤回するのは決して間違いではないのですが、第一弾を出す前の段階でしっかり検討するというプロセスを怠るため、無意味な政策転換による混乱を今後も引き起こすんじゃないかな。

 ぶっちゃけこのオミクロン株に関して本当にやるべきは、海外からの入国者の徹底的隔離措置であり、それこそ強制的に空港脇のホテルに2週間隔離収容させるなどの措置だと思います。パイロットやアテンダントなどの国際線関係者に関しても、ほぼ空港内で過ごさせるなどの措置が必要でしょう。英国株第1例目なんか確か、無条件で帰宅させたパイロットだったらしいし。

 そういうわけでやけに尻と太腿が痛くなるパジャマズボンは脱ぎ捨て、以前のジャージに履き替えました。脱ぐ前なんか太腿をかいていた手すらかゆくなり始めてたし……。

2021年12月1日水曜日

日本人の宗教アレルギー

 結論から書くと、以前と比べれば大分緩くなったなという気がします。まぁ日本に住んでないで言うのもなんですが。

 日本人は海外でも平気で無宗教と自称(欧州などでは「=社会主義者」ととられることもある)するくらい宗教的色彩が弱い国ですが、1995年に起きたオウム事件、そして割と身近にいっぱいいる創価学会の勧誘や選挙運動などから、そもそも宗教そのものに嫌悪感を持つ人間は確実に少なくありません。大学時代の友人なんか中国よろしく「宗教は心のアヘン」だと言ってきかず、基本的に宗教に対する悪口しか言いませんでした。
 ただその友人、通っている大学がミッション系なのに、「講義で講師が『キリスト教は虐殺を繰り返して信者を増やしていった』と言ってて、やべぇなこの大学と思った(;´・ω・)」という一言も言ったことがあります。神学部もあるのに、実際その学校はフリーダム過ぎる。

 話を戻すとその日本人の宗教アレルギーは間違いなくオウム事件発生直後がピークで、当時流行ったカルト系団体の概念とも結びついて、印象的には木下都議くらい最悪でした。恐らく当時、仏教や神道を除けば何かしらの信仰を持っていた人はその信仰を口に出すのも憚るような思いをしたのではないかと思います。キリスト教にすら結構な警戒感が当時はあった気がしますし、イスラム教に至っては2001年の911によってテロリスト扱いするような風潮もありましたし。

 そうした約20年前と比べると、最近は宗教に対する批判が以前と比べると大分柔らかくなってきた、っていうか減ってきたなという印象を覚えます。イスラム教についてもなんとなくテロリスト団体との同一視は前より減ってきており、この点に関する偏見はなくなってきているように見えます。
 もっとも、そうした偏見を助長してきたのはマスコミであるような気がしますが。

 その一方で、日本人の宗教嫌いを最大化させた元オウムのアレフなどに対する警戒感も、同時に薄れてきているように思います。先日、定期提出が義務付けられている報告書を出さなかったことで公安から提訴されたところ、ようやく出したのでその提訴が取り下げられたというニュースを見ましたが、関連事件の被害者への補償などもあまり行われていないと聞き、やはり依然として私の中では信用のできない団体です。上祐氏の団体についても、うかつには信用できないように感じます。

 私自身は自分では宗教に寛容な方だと自認しており、出身が社会学ということもあって信仰を持ってる人に会うとあれこれその信仰の概念などについて質問することも多いです。一時期はプロテスタントに傾いた時期がありましたが現在は「神は存在しない」という考え方から無宗教であるものの、それはあくまで自分個人の考え方であり、信仰を持つ人を否定したりはしないように意識しています。
 なお神はいないけど、妖怪はいると信じています。

 私自身の考え方で言うと、信仰を持つと思考の幅や範囲が制限される一方、意思判断の基本コンセプトというか芯は確実に補強され、自我の安定や強化面ではプラスの面もあると考えています。そういう意味では自我が弱い、周りにひたすら追従して合わせようとする一般的な日本人にとっては、何かしらの信仰を持つ方が精神バランス的に悪くはない選択じゃないかとも思うのですが、前述の通り日本の宗教アレルギーの活発化に伴い、そうした動きはこれまでついぞ見られませんでした。

 その上で、やはりこういうのは定期的な波があるというか、最初に書いたように宗教アレルギーが和らいできている今だからこそ、またなんかその手の信仰ブームとか広がるのではないかという妙な懸念というか期待みたいなのがあります。イメージ的には戦前の昭和初期における新興宗教ブームみたいな感じで、令和のこの時代になんか新しい信仰とか広がってくるんじゃないかななどと勝手に思っています。

 なんでそう思うのかというと、地味に創価学会が弱体化しているとはっきり感じるからです。平成期にかけてブイブイ言わせた創価学会ですが、近年は従来信者の子息くらいしか新規獲得はなく、日本同様に少子高齢化が進んできていると言われ、某会長の安否などもいろいろ取り沙汰されています。
 そもそも創価学会自体、集団就職で上京してきた人たちが主要な加入者であったことから、時代的な流れを見れば縮小していくのも当然です。先の選挙においても、やはり平成中期の選挙と比べると創価学会の動員力や影響力、特に維新の党と比較した場合で明確に落ちてきていると感じました。

 そうした創価学会の弱体化を受けて、また何か新しめな信仰が流行るんじゃないかなと適当に感じただけです。流行るとしたらどんなものかですが、流行りそうで全然流行らないデジタルの神という概念がありますが、その逆転でアナログな神とか流行ったらの楽しげです。アナログな神ってどんなんなのかですが、ガラケーとかポケベルをご神体にするのかもと思うと、なんか面白そうな宗教な感じがします。
 でもまぁある意味で、デジタル化の波についていけない層を取り込む宗教あったら意外と伸びるかもしれません。メールやパソコンは禁止して、八木アンテナで電波飛ばし合う古い電波系な組織とかあったら加入はせずとも見てみたいです。

2021年11月29日月曜日

鬼束ちひろ容疑者の自称報道について

 具体名は明かせないけど、今月発売されたゲームが楽しくてしょうがない、というより感動して毎夜号泣しています。真面目にドラクエとかFFがかすんで見えるくらいの名作であるように思います。


 それで本題ですが、昨日に救急車蹴って逮捕された鬼束ちひろ容疑者、それとも鬼束メンバー?について、朝日新聞がその職業について「自称シンガー・ソングライター」と書いたことが各所で波紋を呼んでいます。この件について自分は最初、脳科学者(自称?)の茂木健一郎氏が違和感あると述べたことの報道を見て知りましたが、茂木氏の疑問には自分も同感で、誰もが歌手だと認識している鬼束氏についてなんで「自称~」と表現したのだろうと思いました。

 敢えて勝手な推測を述べると、往年と比べて歌手活動が目立たなくなっていたことから、今でも歌手と呼べるのかという点で変に慎重になって「自称」と朝日はつけたんじゃないかと思います。ただかえってこの表現は読者を混乱させる方向にしか働いておらず、はっきり言えば悪手この上ない表現だったと思います。実際に今回、朝日も修正に迫られてもいるわけだし。
 ちなみに自分だったら、どうとでも逃げられるように「シンガーソングライターとして活躍した鬼束ちひろ容疑者」と表現します。これなら過去形にしつつ現況に関してどうとでも取れるようになります。

 そもそもの話、個人の職業や肩書なんてその本人のみならず周囲の人間においても個人の裁量が大きく作用するものだと思え、むしろ自称以外の職業や肩書なんてあんのとすら内心思います。それこそ古いのだと「ハイパーメディアクリエイター」というのもありましたが、これについても「自称ハイパーメディアクリエイター」と書いた記事は過去に見たことありません。
 また複数の肩書がある場合、たとえば橋下徹氏なんかは「弁護士」とも書けるし「元大阪市長」とも書けるし「芸能コメンテーター」とも言えます。けどこれ全部羅列したら「弁護士兼元大阪市長兼芸能コメンテーターの橋下徹氏」になりますが、誰もこんな風に言う人はいないでしょう。でもって上記肩書のどれを使うかは、大きく事実から外れてさえいなければそれこそ紹介する人や記事書く人の裁量で好きに決めるべきであって、こうじゃなきゃダメと限定するのは野暮もいいところでしょう。仮に本人が、「こっちの肩書で紹介してほしい」と普段からアピールしてるなら別ですが。

 もっともそう言いながらですが、この件でちょっと思い出したのは過激な発言で知られる漫画家の平野耕太氏のエピソードでした。平野氏は以前、同じ漫画家(自称)の江川達也氏について、「現在漫画を一切書いてないのにテレビに出て漫画家と名乗っている」と述べて激しく批判していました。
 実際に江川氏は昔は売れっ子漫画家だったけど描かなくなって久しく、にもかかわらずテレビなどのメディアに出る際は漫画家という肩書を使っており、これにはこれで私もいくらか違和感を感じます。漫画家として名乗るには連載を抱えている必要はないとは思うものの、果たしていまの江川氏は立ち位置的に漫画家と名乗るのはどうなのかなというもやもや感は確かにあります。
 なおそういう平野氏は自分の職業について一時期、「江川達也をテレビで見るたびに舌打ちをする係」と名乗ってました。

 なお私は電話取材とかする際には「フリージャーナリストの花園祐です」と名乗りを上げますが、これはこれで実態とは少しずれがあります。実際の私はメディア業とは関係ないサラリーマンだし、生涯のキャリアにおいて正式な記者として活動した期間もわずか2年と極端に短いです。とはいえ取材でいきなり「某社でサラリーマンしている花園祐です」と名乗られたら企業広報もビビるだろうし、取材目的という立場をはっきり示すように敢えて「フリージャーナリスト」などとうそぶいて名乗っています。
 じゃあどんな肩書が自分には適切なのかですが、敢えて言うなら「兼業ライター」あたりが一番いいかもしれませんが、これはこれで名乗っても相手が分からなくなって困りそうです。ほか思いつく辺りで挙げるとしたら、

・歴史コラムニスト
・名ばかり松戸市民
・元品質管理従業員
・サイクリスト
・ハイパー中国記事クリエイター

 こんなのが出てきますが、意外と自分はハイパーメディアクリエイターって肩書気に入ってんだなって気がします。あと散々ネタにしている松戸市については、実は一度も住民票を入れたことがなかったりします。