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2023年9月28日木曜日

「失われた十年」に関心を持つ中国人

 相変わらず「地球防衛軍4.1」にはまっててブログの更新すらさぼる有様です。これほど中毒性感じるゲーム、同じシリーズの「地球防衛軍3」と「真・三国無双2」以来だと思う。

 話は本題ですが同僚の中国人から、「今の中国は日本の『失われた十年』みたい(´・ω・)」と、ある日言われました。私自身もこのところこのブログで同じようなことを常々口にしていますが、中国人自身からもこっちが振っているわけでもなくそのような言葉を聞くとは思わなかっただけに、少々驚きました。
 そこで興味を持って「失われた十年」の中国語に当たる「失楽的十年」、「失去的十年」で検索してみたところ、自分でも思ってた以上に多くの記事や論評、ブログがヒットしてきました。特に去年と今年にかけて多くの記事が出ており、それも大手メディアも取り扱うなどその関心ぶりはまごうことなく高いと言い切れます。

 その論評内容を見ると、「日本はどうして失われた十年に至ったのか」という原因説について述べるものが多く、解説される内容も「プラザ合意がそもそものきっかけだった」とファーストアプローチは正鵠を得ています。
 なおプラザ合意の中国語は「広場協議」でした。「プラザ=広場」だけどこの訳でほんといいのとちょっと思いました。

 話を戻すとプラザ合意により円高が急激に高まり、日本の米ドル換算資産が急増したことで株価や不動産の高騰を招き、しばらく放置していた大蔵省が急に金融引き締めに動いたことでバブル崩壊が起こり、失われた十年が始まったという風に紹介されています。この一連の流れには自分も異議はなく、逆を言えば、多くの中国語記事で判を押したかのように以上の経緯が語られているあたり、中国人も日本のバブル崩壊、失われた十年に対して一朝一夕ではなく、かねてから多くの人が研究していたと窺われます。

 ただ、それら記事を見ていると肝心な点が抜けているという印象も覚えました。それは何かというと、失われた十年の中身、そして終焉についてほぼ全く触れられていないという点です。
 「失われた三十年「と言われるなど日本の失墜は今もずっと続いていると主張する人はいますが、私自身は2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災の以前、以後とは区別するべきだと思っており、2003年あたりが失われた十年はひとまず区切られると考えています。では何故そこで区切られるのかという、当時の日本の状況について中国語記事ではほぼ全く触れられておらず、突き詰めて言えば、中国人は日本のバブル崩壊のきっかけなり原因なりにしかほぼ着目していないという印象を覚えます。

 以上を踏まえると、中国に今後起こる出来事に対して果たして中国は本当に日本を反面教師にして打開できるかという点で、はっきり言って不安を覚えます。実際、そうした不安の兆候がはっきり出ているというか、「中国は日本のようにはならない!」という主張の論拠が、まさに日本と同じ轍を踏んでいるということに気が付いていません。
 その辺については、もう少し当時の日本と今の中国の共通点、相違点を整理したうえでまたご紹介します。

2023年9月26日火曜日

ジャニーズ問題に対してテレビ局は補償しないのか?

 関係ないけど中国語で「恵民」の発音は「ホイミン」となります、マジで。誰も気にしないけど、自分はこの文字が出てくるたびにあの触手クラゲを想像します。

 話は本題ですが今も燃え広がり続けるジャニーズ問題で、これまで大手メディアの中でもはっきり言って及び腰だったテレビ局側もここにきてジャニーズ事務所に距離を置き始めています。これまでジャニーズ系の番組が多いと指摘されていたテレ朝なんかも、社名変更の要求を含む質問状を送ったことを社長が明かしています。
 ただこうした大手マスコミの駆動については、これまで知ってて黙認し、被害拡大の片棒を担いでいた存在なのに何をいまさらという批判があります。とはいえ、事ここに至っても黙認を続けるのもどうかと思えるので、ジャニーズに対する姿勢で転向を見せたことについては私自身は仕方ないというか当然ではないかと思います。

 ただその一方、彼らがジャニーズ事務所に対して一方的に被害者の補償を行うようように要求することには強い違和感を覚えます。新聞社や雑誌社などはともかくとして、テレビ局にに至ってはほぼ完全にジャニーズと結託して莫大な利益をこれまで稼いできました。だからこそテレビ局はこの問題を黙認してきたのであり、いわばジャニーズと一蓮托生な関係にあったと言い切れます。
 そうした関係を考慮すると、特にこれまでジャニーズのタレントを使って荒稼ぎしてきたことを感がると、私は少なくともテレビ局に関してはジャニーズ事務所と同じく、被害者に対し救済や補償を行う責任があると思っています。もちろん最大の責任者は法人であるジャニーズ事務所ですが、テレビ局が自分たちは関係ないと言って一切補償に与しないというのはそれは違うでしょう。

 仮に補償を行うとしたらどうするべきか。まず被害者に対する直接の補償はやはりジャニーズ事務所が行うべきであり、これに介在する必要はないと思います。ではテレビ局はどんなふうに補償をするべきかですが、複数の局が存在し、またジャニーズの出演度合いも局によって異なることを考えると、一律の金額で補償するかに関してはやや議論があるし、そこら辺を正確に行おうとすると逆に手間となります。
 であれば、この際に性的虐待被害者に対する基金をテレビ局が共同で設立し、その基金に寄付するという形にしてはどうかと考えています。過去の性的虐待を放置した代わりに未来の性的虐待を防ぐ団体を作るという形にして、また寄付形式を取ることにより税負担も軽減させるのであれば、実現しやすい形になるのではないかと勝手に考えています。

 少なくとも、テレビ局が自分たちは何も処分なり批判を受けず、上から目線でジャニーズ事務所に対し一方的に改革を促すという態度を取るというのは不遜もいいところです。当事者意識がなさすぎるというか、先ほどのテレ朝の社長の行動に関しては私は非常識もいいところだと思っているし、また批判の声が出ないということにも密かに失望しています。この辺、文春とかはどう思っているのか聞いてみたいものです。

2023年9月24日日曜日

国語力低下がもたらすディスコミュニケーション

 金曜夜、Steamでたまたまセールしてたので「地球防衛軍4.1」を購入して以降、マジで寝るかゲームするかの2日間をこの週末過ごしました。以前に3をやったときもそんな感じでしたが、麻薬並みの中毒性を地球防衛軍は持ってる気がします。


 話は本題ですが、上のまとめ記事は今日たまたま目にしたものですが、内容を簡単に説明すると部屋の内覧を頼んだ夫に頼んだ妻が部屋状態を確認するために撮影をお願いする際に、撮影は画像を中心にするよう伝えた上で、「補助的に動画があってもいいですが写真撮影もしてください」と伝えたところ、

夫「全て動画は禁止、写真撮影を中心で」
妻「禁止じゃない」

 という、一見するとよくわからないやり取りに発展したLINEの画像が載せられています。

 このやり取りを説明すると、妻としては部屋の確認資料として写真を撮り、一部補助的に動画を使ってもいいけど、動画で撮った部分も写真を撮っておくようにと伝え、この意図は夫に伝わっています。ただその意図を妻に確認する際に夫が復唱した際に、

「全て動画は禁止」

 と言っていますが、この言葉の意図としては、

 「全て動画(だけで済ませるのは)禁止(ということだね)」

 という意味で言っているのですが、妻はこれを見て夫は動画撮影が一切禁止だと勘違いしていると思い、「禁止じゃない」と言ってまたいろいろ混乱に拍車がかかっているわけです。
 自分の意見とすると、夫の方に問題があるというかあんな言い方したら相手が勘違いするのは当然だと思えます。そもそもどうして「全て動画は禁止」という言葉があそこで出てくるのかと思うのですが、実はちょうどこうした言葉が出る背景についてある本を読んでる最中でした。




 その本とは上記リンク先の、石井光太氏が書いた「ルポ 誰が国語力を殺すのか」という本です。石井氏については過去にもノンフィクションの著作を読んでおり、取材対象から本音のような話を聞きだす取材力にかねてから尊敬の念を抱いていましたが、こちらの作品は視野に富んだ分析もなされており、分析法面でもこの人はすごかったのかとまた強い敬意を覚えました。

 本の内容について触れると、近年、学校の子供や社会において言語不発達によると思われるディスコミュニケーションが多発しており、その背景を探るという内容です。言語未発達、というよりっ供御力低下によるディスコミュニケーションとはまさにさっきのLINEのやり取りみたいなものですが、まず下のコピペを見てください。


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409 名前:本当にあった怖い名無し メェル:sage 投稿日:2006/05/06(土) 11:10:39 ID:O7/GBV4/0
それじゃあオレが悪い人みたいじゃん。


410 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2006/05/06(土) 11:19:40 ID:kNcqCVXDO
いや、そんなつもりで言ったんじゃないですm(__)m
ROMって勉強します!ちゃんと注意してくれたんだ死ね


413 名前:本当にあった怖い名無し メェル:sage 投稿日:2006/05/06(土) 11:26:03 ID:O7/GBV4/0
    ( ゜д゜ )
  _(__つ/???/_
    \/    /
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 このコピペはかなり昔の誤変換による面白さを共有するコピペだったのですが、この「だしね→だ死ね」という誤解がリアルで起きた事件がこの本に書かれててびっくりしました。どんな事件化というと、自分のようにゲームばかりしている子供に親が注意した際、「まぁ今日は少し宿題もしたんだしね」という風に、ゲームをやることに理解する発言を親がしたところ、子供が「まぁ今日は少し宿題もしたんだ死ね」と受け取り、親をその場で暴行したという事件があったそうです。

 このように単語を文章、文脈の中できちんと正確に理解できず、一部の単語を切り取って変な解釈をして諍いが起こることが依然と比べて増えてきているという、教育現場にいる教師の話がこの本に載せられています。いつ頃から増えてきたのか、一見すると短い単語でのコミュニケーションが主体となるスマホが流行ってきた2010年代のようにも思われますが、教師らの話ではゆとり教育が始まった2000年頃からこのように会話が成立しなくなる子供が増えていったそうです。

 こうした会話の成立しない子供の特徴としては、私のようにゲームのやり過ぎとかはそこまで影響度は高くなく、むしろ家庭内、特に自宅内の書籍量や親とのコミュニケーションの量が特に相関すると石井氏は分析しています。そうした傾向はネグレクト、ヤングケアラーといった問題を抱えている家庭ほど顕著で、いわゆる底辺校と呼ばれる学校の教師らもこうした子供たちに様々な手段を講じているものの、年々対策が難しくなっていることが語られています。
 特に、かつてであれば家庭内で不足するそうした言語コミュニケーションは学校での国語教育で保管されていたところがあったものの、ゆとり教育によって国語の授業時間数が減少させられたことが響き、まるで底を割るかのように2000年(正確には2002年以降)に子供の国語力が大きく低下していったそうです。

 なお当時の文部科学省の審議会に参加した人によると、国語は自宅で本を読めば補完できると役人は答えていたそうで、そういう本に囲まれているわけでない家の人のことなんか、まるで眼中になかったそうです。

 自分の周りでこの手のディスコミュニケーションを生むのは主語をやたら省略するというかほぼ確実に口にしない同級生の友人くらいで、そこまで国語力の低下を感じることは日常ありません。っていうか、日常では中国人に囲まれているので当然っちゃ当然ですが、ぶっちゃけ日本語使う中国人はちゃんと文法通りに日本語使うので、めっちゃコミュニケーションが円滑です。むしろ中国語でやり取りする、っていうか彼らが書きなぐってきたレポートを翻訳する際の方が、こっちも苦労が多いです。
 でもって、中国人でも最近若手の方がよくわからない文章を書いてくることが増えてきています。こっちでも地味にゆとり化が進んでいるのだろうか。

2023年9月23日土曜日

英海軍の奇跡の作戦「サン=ナゼール強襲」

ウクライナが露セバストポリ海軍基地への攻撃で狙った大きな成果(Forbes)

 先日、ウクライナ軍はクリミア半島にあるロシアのセバストポリ基地をミサイル攻撃し、収容中だった揚陸船と潜水艦を撃破するとともに、軍艦の修理、メンテナンスを行う乾ドックにも火災を起こすことに成功しました。潜水艦の撃破もさることながら、軍艦の補修を行う乾ドックに損害を与えたことは黒海艦隊の今後の活動にも大きく影響を与えるとされ、ロシア側もその被害の大きさを認めるほどのウクライナの大戦果となりました。
 上記リンク先はその今回の攻撃について報道、解説した記事なのですが、この記事の中で「サン・ナゼール」という単語が出てきます。この単語こそ、自分が今回のウクライナの攻撃を初めてみたときに頭に浮かべた単語でした。

サン=ナゼール強襲(Wikipedia)

 サン・ナゼールとはフランスにある港町です。二次大戦中、フランスを占領したナチスドイツはこの三・ナゼールを大西洋における主要な軍港として扱い、海軍基地を置くとともに大きなドックも設置していました。これに対し向き合う英国は、ドイツ潜水艦Uボートの主な発進拠点であり、またブリテン島から目と鼻の先にあることから、非常に厄介な拠点だと認識しており、大戦の途中からこの軍港を占領とまではいかずとも、破壊することを検討し続けていました。
 最終的に英国作戦本部は、この軍港をとんでもない作戦で破壊することを計画します。その作戦名は「チャリオッツ作戦」といい、爆薬を満載して偽装した軍艦をサン・ナゼールに突っ込ませるというものでした。

 この作戦に英国は米国から供与されたキャンベルタウンという駆逐艦を使用することにし、可能な限りギリギリまで敵の攻撃を受けずに接近できるよう、ドイツ艦に見せる偽装を施します。その上で、突入に至るまでの地上施設破壊、そして突入後の爆破などを果たすため、まだその概念すらなかった時代において後の特殊部隊の原型となる「コマンドス」と呼ばれる特殊な訓練を受けた部隊を投入しました。
 このコマンドスはキャンベルタウンの縁などに身を潜め、突入時に妨害を行うドイツ軍兵器を破壊し、突入後は敵基地施設を破壊するという任務を帯びていました。当然、言うまでもなく非常に危険な作戦であり、また撤退方法も突入後に軍港に入る高速艇に乗り換えるという成功確率の大変低いものでした。それにもかかわらずこの作戦にコマンドスたちは果敢に臨み、後に称賛されるような大きな活躍を見せます。

 以上のような作戦を立てて準備を進めた英軍は、ついに結構の日である1942年3月28日を迎えます。この日の夜間にひっそりと出航したキャンベルタウンは、随行する駆逐艦2隻と脱出用の高速艇を伴ってサン・ナゼールをへと向かい、途中から単独で接近を図ります。途中、ドイツ軍の警備艇に見つかるも偽装が効果を発揮して見事やり過ごし、軍港入り口までほぼ無傷で近づくことに成功しました。
 ただ入り口付近で怪しまれたことから軍港の守備隊より攻撃を受けることとなります。その際、キャンベルタウンは通信で「友軍より攻撃を受けている。直ちに止められたし」と伝え、これにドイツ軍はまんまと騙されて攻撃を止めてしまい、みすみすキャンベルタウンを軍港内に入れることとなりました。

 こうして夜中1時頃、目標とする乾ドックまで約1.6キロまで近づいたサンナゼールは、ドイツ軍旗から英軍旗へと文字通り旗印を翻し、全速で一気にドックまで突っ込みます。これを見て敵艦だとようやく気が付いたドイツ軍はキャンベルタウンの突入を阻止すべく猛烈な攻撃を浴びせますが、これには乗り込んでいたコマンドスが応戦し、その妨害をはねのけ続けます。
 その結果、キャンベルタウンは見事目標地に突っ込むことに成功します。なお突っ込んだ時間は計画していた時間に対し3分しか遅れない非常に正確なものだったそうです。

 キャンベルタウンがドックに突っ込むと、乗り込んでいたコマンドスは地上に降りて任務となっていた基地施設の破壊活動を開始します。しかしドイツ軍の猛烈な反撃に遭い、破壊という目標自体は大半が達成できたものの、戦闘に従事した隊員からは多くの死者を出すこととなりました。また生き残った隊員も脱出に使う高速艇の多くが途中で撃沈されたことにより逃げられず、脱出をあきらめ市街戦を展開するも大半が死亡するか捕虜となって捕まり、622名のうち169名が戦死、215名が捕虜となり、計画通りに帰還できたのは228名にとどまりました。
 なお脱出したうち5名は、市街地からドイツ軍の追手を振り切り、第三国のスペインを経由して英国に帰還するという離れ業を見せており、この5名には全員ヴィクトリア十字賞が授与されています。

 こうした嵐のような夜が過ぎ、作戦開始から十数時間を経た同日正午頃、あらかじめ起爆措置が施されていたキャンベルタウンが満を持して爆発します。この際、突入して乗り上げていたキャンベルタウンを調査していたり、一夜過ぎて見に来たドイツ軍人を300名超も巻き添えにして吹き飛んだとされ、相当な規模の爆発であったことが伺えます。
 それだけの爆発であったことから、サン・ナゼールの乾ドックは完膚なきまでに破壊され、その後二次大戦期間中は一切使用することができなくなりました。多大な犠牲を払いながらも、この英国の強襲作戦は当初の目標を完全に達成したと言えます。

 この作戦について自分は以前に何かをきっかけに知りましたが、敵艦に偽装して突っ込んで爆破するというまるで映画のような作戦内容と、これほど危険な作戦を遂行したコマンドスの活躍に心底恐れ入りました。このような奇抜な作戦は英国に限らず多くの国でも企画はされるものの大半は実施されず、また実施したとしても大失敗に終わることが常ですが、先ほどの正確な突入時刻といい、綿密に計画して見事成功に至らせた英国には、その国家としての強さを大いに感じさせられます。この点、日本の空虚妄動的だったインパール作戦とは大違いです。
 英国本国でもこのサン・ナゼール強襲は大いに誇りに思われており、その成功を讃える賞や記念碑も数多く設けられているそうです。

 前述の通り、突飛な発想ともいえる計画を見事成功に導いた英国の準備、そして人材には強く感じるものがあり、この国が世界で覇権を取ったのもごく自然な成り行きだったのだろうと深く納得させられます。それにしても英国の発想と行動力は舌を巻かせられることが多く、さすがある意味で神風ドローンの始祖ともいうべき、あのパンジャンドラムを企画だけじゃなく本当に作った国なだけあります。

2023年9月20日水曜日

90年代末期に言われた「携帯電話依存症」

 確か90年代末期のことだったと思いますが、寝ても覚めても携帯電話でメールを打ち続ける女子高生について「携帯の国のアイコ」などといったタイトルで、携帯電話依存症を啓発する記事を見たような気がします。その記事に限らず、PHSから携帯電話へ普及が移行した当たりの当時、このような若者の間で携帯電話依存症が広まっているなどとする記事がよく見られ、携帯電話を持たせないようにする、または必要以上触らせないようにするべきだという主張がなされていました。

 ただ当時の携帯電話依存症の基準(日中で何時間携帯電話を触っているか)に照らすなら、現代人の八割以上は携帯電話依存症ということになります。

 当時の記事では携帯電話依存症になると対面でのコミュニケーションができなくなったり、ちょっとのことで怒るようになったりとやたらデメリットが強調されていました。前者に関しては確かに現代のスマホ利用で対面でのコミュニケーションを苦手とする人は80年代より増えた感じはするものの、それ以外ではそんな弊害出ているとは私は思わず、単純に「携帯の国のアイコ」は新技術に対する拒否反応に過ぎなかったと考えています。
 にしても当時は「携帯の中にしか世界を持たなくなる」などとよく言われていましたが、そんなこと言ったら現代は逆に「携帯の外にもいくらか世界がある」というくらい、携帯電話を介したネット空間が広がっているような感があります。

 ただこの携帯依存、現代でいえばスマホ依存症ですが、見方を変えるとそれだけ人を引き付けるほどの魅力があるという風にも言えます。実際、単純に遠隔地にいる人間とリアルタイムでコミュニケーション取れるっていうのは最高の娯楽だし、そこへきてスマホゲームやネットサーフィンもスマホでできるようになってからは、あらゆる娯楽がスマホを介して行えるようになったと言え、むしろこれで依存せずにいられるかって話でしょう。そういう意味では反対に、スマホに依存しない人は不感症なのではと冗談めかして言えるかもしれません。

 もっともこういう自分は周りと比べるとスマホをいじくる時間は少なく、ややオールドタイプなのか自宅ではずっとノートPCを触っています。ネット閲覧もやはりパソコン画面で見た方がやりやすいし、何より大量の文字を打つブログではスマホだとさすがに限界があります。スマホでやるのは基本、電話を除くとWeChatとカメラくらいだし。

 ぶっちゃけ、携帯電話の登場から現代のスマホに至るまでの経過、いやそれ以前に固定電話の時代を振り返るならば、こうした小型通信機こそが人間が追い求める娯楽の究極系であるような気がします。仮に今後進化するとしたら何もない空間に映像を投影できるようなスマホか、より深いコミュニケーションのできるスマホとかになるでしょう。
 もっともスマホに機能集約し過ぎると、スマホを壊したりなくしたりするときのダメージがでかくなりすぎるので、なんかこの方面で機能分割があったらいいな、通信機能持ったクレジットカードとかないのかななどと思ったりもします。

2023年9月18日月曜日

中国EVのガラパゴス化の予兆

 去年に新調したノートPCは性能が良くなっているので、Steamで購入したが3D表示があんまよくなく結局あまり遊ばなかった「ブレイドストーム百年戦争」とうPS3時代のゲームをこの前やり直してみたら、きちんと3D表示されたため、また延々と遊んでしまいました。このゲーム、何も考えず部隊を突撃させるだけだから時間が削られる削られる。

崩壊する中国新車販売市場 日産・ホンダ8月「約3割減」の衝撃、日本が今後ウォッチすべきは韓国企業の動向だ(Merkmal)

 話は本題ですが上の記事にある通り、今年に入ってから中国で日系自動車メーカーの販売台数はメーカーを問わず大幅に落ち込んでいます。ただこれについて補足すると、落ち込んでいるのは日系に限らずドイツ系、韓国系、米系も当てはまるのですが、さらに深く見ていくと、実は中国メーカーも大半が落ち込んでいます。何故かというとぶっちゃけBYDがあまりにも急激に大きくなってきており、その他全メーカーのシェアを見事なまでに浸食しているからです。
 一言で言えばBYDの一人勝ちみたいな状況が続いており、テスラを含むその他メーカーが割を食っている有様です。

 そのBYDの躍進に対抗するため、テスラは自社の販売価格引き下げに踏み切りました。このテスラの行動に他の中国系EVメーカーも追随する動きを見せており、BYDへの対抗から、全メーカーで車両価格が切り下げられ、EV業界全体の売り上げを押し下げているだけでなく、中国全体でデフレを加速させるような動きが見られます。
 また確かにBYDの販売が驚異的なほど伸びていることは事実ですが、それ以上に中国自動車市場が明確に成長が止まってきており、新車市場が縮小し始めていることも要因として大きいです。なんせ上海ロックダウンが行われサプライチェーンが大いに混乱していた去年と比べ今年の販売台数は伸びておらず、これから年末にかけて前年比マイナスになり、通年でも恐らく販売台数はマイナスになるという状況なだけに、各メーカーは生き残りをかけてしのぎを削るレッドオーシャン化しつつあります。

 とはいえ中国ではEVの販売台数は伸びており、EVメーカーにとっては比較的追い風が吹いている状態ではあります。ただ、世界で最もEV市場が花開いたと言える中国市場ですが、見方を変えると中国のEVがガラパゴス化する予兆とも取れなくもないです。
 こう考えるのも2030年の全面EV化を掲げていた欧州がここにきて態度を軟化してきており、EV以外の車種の販売も認めようかという空気になってきています。欧州が日和った背景としてはウクライナ戦争によるエネルギー懸念の高まりに加え、思ってた以上に各メーカーでEV開発、そして消費者の間での普及が広がらなかったことが挙げられます。経済的に見ても、ここで全面EV化に動いたところで得するのは中国メーカーとテスラだけであり、それだと意味ないじゃんという欧州によくありがちな方向転換ぶりです。

 とはいえ2030年にこだわらず長期的な目で見ればEV化は必定、という声もあるでしょう。私自身もそうした見方を支持する立場ですが、一方でこれから従来型燃料車において何か劇的な技術革新が起こり、それこそリッター100㎞とか、燃料消費は変わらないけどCO2をほぼ全く出さない仕組みが生まれようものなら、一気にEV入らない子的な技術と化すわけです。もちろん夢物語で可能性はほぼないでしょうが、かつてプリウスが叩き出したリッター30㎞も空想のような数値であったことを考えると、こうした燃料車における劇的なイノベーションの可能性を全く排除することはすべきでないでしょう。

 仮にそうなった場合、既にEV市場化に大きく成功した中国はどうなるのか。極端な話、EVは中国国内のみで流通するというガラパゴス化する可能性もあるということになります。折しも中国は一部報道によると、EV関連部品を中国国内から調達するように布令を出したそうですが、外資企業から調達しないことによって上記のガラパゴス化がさらに濃度を増すような気がするだけに、本当にこれでいいのかと少し疑っています。
 むしろ外資企業もEV化によって恩恵を得られるようにする方がEVの普及を助け、中国製EVの輸出にとっても有利になると思うだけに、この方針を聞いたときは少し耳を疑いました。

 以上はあくまで仮定としての話ですが、見方を変えれば燃料車で劇的なイノベーションを引き起こすことで、これまでの中国のEVに対する投資をすべてご破算にすることも理論上は可能ということです。もちろんそんなことしても意味があるのかって話ですが、少なくとも日本の雇用的にはプラスな結果になり得るだろうし、地味にトヨタもそうした方向性というか可能性を捨てていないような気がします。その場合、次に出す車は「メガプリウス」とか「Zプリウス」とかになるのだろうか。

2023年9月17日日曜日

自分の本質を見極める困難

 友人からとある自称進学校のプロモビデオが送られてきたので見ましたが、冒頭から生徒が「この学校では自己実現できます」と如何にも言わされているような感じで言っているのが痛々しい映像だなと正直感じました。それ以前に、自己実現という言葉を軽々に使用していることに強い違和感があります。っていうかカルト系サークルや新興宗教以外でも自己実現って言葉使う連中っているんだな。

 このように考えるのも、そもそもの話として実現以前として自分の本質を見極めることは非常に困難であると私は考えています。自分が何者であるか以前に、自分が何を求めているのか、それをはっきり自覚している人間というのはごく少数であるし、真に限られた存在であるとも考えています。

 こうした見方はいろいろな作品でも取り入れられており、ひとつ例を挙げると漫画「へうげもの」の中で秀吉から無理な命令を強要された際に主人公の古田織部が、「ああこんなことなら、もっと自分の本質を早く見極めておればよかった」と後悔するシーンがあります。少し解説すると、武士としては秀吉の命令を聞かざるを得ないのですが、風流人(数寄者)としてはその命令は絶対に受け入れられないものであり、齢40を超えながらも自分の将来を武士として生きるか、数寄者として生きるかを決めあぐねていたことからこの時に織部は大いに逡巡する羽目となります。この点、先に武士としての役目を降りていた織田有楽斎や荒木村重に対し、織部が羨む心情を見せることで対極的に動いています。
 もっとも最終的に織部は、秀吉から理解者になってほしいという懇願を受けてその命令を受けていますが。

 またもう一つの例として漫画の「ナポレオン」でもこうした自分の本質を見極めることの困難さを描いたシーンがあります。ナポレオンのロシア遠征の際、妻に不倫され人生の希望を失ったあるロシア人男性のセルゲイはほぼ自殺目的で志願兵となりますが、一次大戦以前の会戦としては最も戦傷者が多かったボロジノの戦いでも死なずに生き延びてしまいます。生き延びたセルゲイは不倫した妻と偶然出会い、最初はなじられるものの復縁を求められ受け入れるのですが、翌日にその妻は何か病気や怪我をしたわけでもなく、何故か亡くなっていました。
 この顛末についてセルゲイから話を聞いた老人は、ボロジノの戦いを生き抜いたセルゲイは本当は死にたいとは思っておらず、逆に復縁を求めた妻は後悔から死にたいと思っていたのが本音だったのではと述べ、「人の心というのは本人でもわからない、ましてや他人に至っては」と言ってセルゲイを慰めるのでした。

 このナポレオンの中のエピソードは小さいながらも非常に目を引くエピソードで、へうげもののエピソードと絡めると、自分の本心を理解することは本当に難しいと気づかされます。それを踏まえて言うと、自分の本心を理解しようとする努力を経ずに自己実現なんて言うのは、やはりおこがましいというか人生苦労していない人間の考えや発言だなと思え、軽々にいう言葉ではないと思います。

 などと自称進学校への批判をかましましたが、先ほど引用したナポレオンの最新巻ではこの自己の本質について再び振れる場面が出てきます。

 先月末に発売した最新巻は、一つ前の巻がワーテルローの戦いの前半であったことから今回で最終巻になるかと思っていましたが、敗戦後のナポレオンの退位までが描かれ、まだ物語は続いていました。この巻ではワーテルローの戦いの後半が描かれており、如何にナポレオンが凡ミスを連続して敗戦に至ったかが描かれていてこの点だけでも非常に読みごたえがありましたが、敗戦後に前線を指揮したフランス軍元帥のネイとナポレオンの会話がまた短いながらも見ごたえがありました。

 ナポレオンに会うなり敗戦の責を謝罪するネイでしたが、ナポレオンまずネイを労い、指揮官として不足する点はあったかもしれないが、敗戦の責にはそんなネイに指揮を任せた自分にあると語り掛けます。ただこの敗戦によって勢いづいた連合軍や王党派は自分たちからすべて奪い取っていくだろうと述べ、それには地位も、財産も、称号も、そして命すらも含まれるかもしれないと話します。
 ここで作者の長谷川哲也氏の見せ方のうまさというか、惹きつけるセリフが描かれています。

ナポレオン「だが奪えないものもある。
君がロシアで生還したとき、俺は君を『勇者の中の勇者』と呼んだ。
勇敢さは奪えない、それが君の本質だから
ネイ、お前は今でも勇者だろ」

 解説によると、これがナポレオンとネイの最後の会話だそうです。この後、歴史でネイはナポレオンの加担を理由に銃殺刑となりますが、執行の際に目隠しの布を渡された際に拒否し、「俺がこれまで銃弾の中を駆け巡っていたことを知らないのか」と述べたとされており、この場面が漫画でどのように描かれるのか今から楽しみです。