ページ

2011年10月24日月曜日

1999年を振り返る

 今年は何故だか世界各地で災害のニュースばかり目にします。日本の東日本大震災を皮切りにタイの洪水、そして昨日のトルコの地震と、仮にこれらが起きていたのが12年前の1999年だったらうっかりノストラダムスを信じていたかのような一年です。

 こんな風にちょっと1999年を今日なんだか思い出していましたが、大半の方にとってこの年はあのノストラダムスの終末予言の年で良くも悪くも前後の年より印象が強いかと思います。ただ当時の状況について話しとくと、このノストラダムスの予言が一番盛り上がったのはどちらかと言えば80年代で、90年代に入ってからはどんどんと尻すぼみになっていったような気がします。私が記憶する限りだと確か朝日新聞が同じようなことを当時に取り上げており、当時出ていたドリームキャストで「JUNE」というゲームは出たけど、サブカル業界全体を見回しても終末と絡めたものは全然出てこなかったと言われていました。まぁMMRだけは最後の追い込みとばかりに頑張ってたけど。

 個人的にはちょうどこの年に身の回りで厄介な問題が頻出しており、間違いなく生きてた中で1999年が一番辛かった一年でした。ただそうした問題はもとより、やはり世紀末的な雰囲気というか今とは違う何か浮ついたような空気が当時には流れていたかと思います。
 一つには当時になってようやくインターネットなどIT技術の基本的なものが普及し始め、ハードに対するソフトの比重が強まっていたことがあった気がします。ゲーム産業も花盛りで、まだプレステ2が出るまでしたが各社がCGなりジャンルなりでいろんな工夫をしてわけのわからないゲームや、「ザ・コンビニ」などといったいろんなシミュレーションゲームあっていろいろ楽しめた時代でした。多分この年に一番やっていたのはバイオハザード3でしょうが。

 今回こうした話題を持ってきたのは一つ理由があり、どうして昔流行った終末論が今には流行らないのかという疑問があったからです。というのも先日に同僚から、「中国のブログを見ていると、なんだか終末論みたいな、世界が終っちゃえばいいのにみたいなこと言う人をよく見るようになってきた」という話を聞き、逆に地震など相当な衝撃下の中にある日本で終末論が一切出てこない、見ないのを不思議に感じたのもあります。
 こういうのもなんですが、こうした終末論というのは本当に苦しい時期にはかえって出てこず、バブル期みたいに景気がいい時代にこそ現れる気がします。ノストラダムス然り。今の中国然りというやつですが、1999年に終末論があまり盛り上がらなかったのはもう日本が下降期に入っていたからだと思います。ちなみに一番盛り上がった時代を敢えて私が生きていた中でいえば、エヴァンゲリオンなどがブームになった1995年あたりじゃないでしょうか。

 またさらに付け足すと、90年代当時によく言われたこととして最近の子供はテレビゲームばかりで現実味というかリアルさのない世界で生きているとテレビに出る人間らが言っていましたが、当時小学生で言われる対象だった私からするとなんだか納得のいかない言われ方するなと反感を持って聞いていました。今でもこの反感は根強く残っており、山とか川とかおたくらの言うリアルさを潰してビルなり道路なり立てたのはどいつだよと言いたいですし、今そのツケを自分たち世代が必死で返そうと頑張ってるんだ、空疎なこと言ってるんじゃないと言い返したいです。

2011年10月22日土曜日

教員免許の国家資格化について

 今日はほとんどのチームでプロ野球の日程が終了し、楽天のマー君こと田中選手(日ハムの斎藤選手と違って君付けするのもあれだが)が投手三冠を決めたり、9回裏のビハインドで代打逆転満塁サヨナラホームランを決めた巨人の長野選手、またそれによって最多勝獲得を決めた内海選手など興味深いニュースでいっぱいでした。ただそういったニュースよりも優勝後のビールかけで誰にも相手されず、独りぼっちだった中日球団社長のニュースがほかの何よりもスカッとしました。落合監督解任の経緯も日ハムの梨田監督と違って不透明この上ない上に、中日新聞が世界で一番嫌いなメディアでもあるので高笑いしてみてました。ただ中日が嫌いとはいえあの浅尾選手だけはとんでもない投手だと認めざるを得ません。

 話題は本題に移りますが、ちょっと古いニュースですが先週に教員資格を国家資格化しようかという案が出ていることが報じられました。結論から言うと私はこれには反対で、それよりももっと先にすることがあるだろうと文部科学省の無策ぶりに怒りを覚えます。

 まず国家資格化の狙いですが近年に頻発している教師の不祥事事件を受けて教員の質の向上が目的で、現在のように大学で必要単位を取得した上で教育実習を受けた人間に免許を与える方法では指導力などが測れないというのが理由だそうです。具体的な方法としては司法試験のように国家試験をしっかり設けるなどということが挙げられていましたが、そんな国家試験を作ったからと言って教員の質が上がるのかと言えば私には疑問です。
 その上で苦言を呈すと、以前にも一回取り上げましたが今の教育現場は地方自治体が財政赤字であることから新たな教員採用を異常なまでに絞っている現状があり、教師の平均年齢が40歳を超えている上に教員志望の若者たちは収入も少なく雇用が不安定な講師職に甘んじています。雇用が不安定なことについては不幸自慢をしてもしょうがないですが月給10万円で1年契約のため場合によっては来年三月で解雇となる可能性もある自分からするとだからどうしたという気もありますが、教師という子供らと長い時間付き合う職業性を考えると非正規雇用ではやはり子供への教育上も良くないんじゃないかという気がします。しょっちゅう担任が変わってもなんですし。

 こうしたポイントに加え、自分が主張したいのは教育大学の質です。古い事件を掘り返すのもなんですが過去に起きた京都教育大学生の集団強姦事件はその事件内容はもとより京都教育大側の対応も真面目に神経を疑う発言ばかりで、こんな連中が教員を養成しているかと思うと当時非常に不安に感じたほどでした。

 あと指導レベルについても、予備校と比較するといろいろ思うところがあります。私がやったころはクラスに4人だけだった中学受験もなんか最近はかなり一般化して日曜の朝に予備校前をうろつくと送迎の車が次々に泊まるのを見ていろいろ驚いたことがありましたが、突き詰めたところを言うと学校の授業は全くと言っていいほど当時の受験に役に立ちませんでした。また私が受けた予備校教師はみんな指導力があって教える内容もわかりやすく、休み時間などもいろいろ子供の相手してくれて親しみやすい人が多かったです。
 これは真面目な話で、学校と予備校関係者はどうも商売敵と認識していて非常に仲が悪いと聞き、実際に吐き気を催そう様な嫌がらせを学校側が予備校側に行っていた話も聞いたことがあります。しかし現状で私は明らかに予備校関係者の方が教育に熱心な人が多いように思え、子供は学校には行かなくていいから予備校には行った方がいいとすら思います。

 学校側関係者も中にはこうした現状をしっかりと認識している人もいるようで東京都のある小学校なんかは予備校と提携し、放課後の補修事業に予備校教師を呼ぶなどといった取り組みを始めていますが、開始当初はやはり学校関係者から猛烈な批判があったように思えます。教員免許を国家資格化するとかどうとか言っている暇あるなら、もっとこうした予備校を見習うような対策をして学校教員の質向上を図るのが先じゃないかというのが今日の私の意見です。

2011年10月20日木曜日

テルマエ・ロマエの映画化について

 日本にいた頃(といっても去年だが)に読んでいた「テルマエ・ロマエ」という漫画が今度映画化するそうです。この漫画はなんか賞を取って人気とのことで一応チェックしておこうと購入して読み始めたのですが非常に面白く、2巻を買った際に1巻を貸した友人にまた貸してあげようと申し出たら「もう買った」と返答されたのはいい思い出です。
 内容について簡単に概要を説明すると、歴史的にも風呂好きで有名なローマ人が日本の銭湯にしょっちゅうタイムスリップしてはローマに戻り、その度にローマにも日本式銭湯を作っていくというギャグ漫画です。作者がイタリアで生活していることもあってやけに歴史背景やら細かい上に日本の銭湯システムのオリジナリティがよく観察されていて自信を持って太鼓判を押せる漫画です。

 それが今回映画化するとのことですが、ローマが舞台(半分は日本の風呂だが)のマンガを日本で映画化とちょっと疑問に感じたところはあったのですが、このほど公開された写真を見てみて一気にそういった心配はぶっ飛びました。

【映画】「テルマエ・ロマエ」 人気の顔濃い俳優がローマ人に 似合い過ぎワロタwwwww(アルファルファモザイク)

 上記リンク先を見てもらえば早いですが主演は阿部寛氏で、脇を固める俳優陣も市村正親氏、北村一輝氏、宍戸開氏とよくもまぁこれだけ顔の濃い俳優を集めたものだと感心させられる配役です。公開されている撮影風景を見る限りですと、確かにこれだけ顔の濃い連中ならローマ人と言い張っても日本人相手ならそれなりに納得させられるんじゃないかと思うくらいの出来栄えです。
 それにしてもスレッド上でも言及されていますが、ほかの俳優陣があまりにも顔が濃いもんだから阿部寛氏ですらいささか薄いように見えてきます。惜しいというか残念なのは、これに照英氏とハンマー投げの室伏選手が加わっていれば濃い顔のジャパンオールスターになったのに……。

 なお濃い顔とくればうちの親父も負けておらず、中東人っぽい顔していることで周りには有名です。親父から話を聞く限りだと会社では「ビンラディン」というあだ名がつけられ、昔に上野を歩いていたらイラン人に声をかけられたことがあるなどエピソードには事欠きません。
 息子の自分は父親に似ず母親似の顔なので中国人にしょっちゅう道聞かれる程度ですが、何故だか声についてはよくきれいな声していると誉められ、大学時代には「学科内で一番渋い声してる」と妙に範囲の狭い中でほめられたりしてました。また今日も新しい部署の同僚から、「昔に幽遊白書のエンディングテーマを歌っていた高橋ひろに似ている」と、えらくピンポイントに誉められました。高橋ひろ氏は数年前に夭折していましすが、何気に生前はかなり好きなアーティストの一人だったのでうれしいやら、「えっ、あの高橋ひろと?」というような複雑な気持ちを覚えました。

平野達男復興相の「馬鹿」発言について

 昨日一昨日と妙に帰りが遅くなって更新がまた空きました。最近多いなこういうの。
 別に凄い忙しいというわけでもありませんが、ちょうど香港に着任した頃に新しい上司が風邪を引き、しかもそれをオフィスの全員に感染させたことから私も体調が悪くなり、昨日まで咳が止まりませんでした。今日になってようやく咳が止まったかと思ったら今度は頭痛が起こりましたが、頭痛薬飲んだらやけに調子良くなって今日に至ります。あと穏当にどうでもいいですが、今使っているNECのLAVIE S LS550ですが、「Kキー」がむやみに反応が敏感で大半の打ち間違いはここから端を発しててイライラします。このパソコンの唯一の不満点はそこかな。

 話は本題に入りますが、当初は記事にするかどうか悩んだものの二日経って情勢が少し見えてきたので書いておくことにします。

「逃げなかったバカなやつ」…復興相が友人を(読売新聞)

 内容は既に報じられているかと思いますが簡単に説明すると、平野達男復興相が研修会で東日本大震災によって起きた津波に言及した際、「私の高校の同級生のように、逃げなかったバカなやつがいる。彼は亡くなりましたけど、バカなやつって言ってもしょうがないですけどね」という発言をしました。この発言を巡って上記リンク先の読売新聞のように「被災者を馬鹿にしている」という論調を取る新聞もあれば、「この発言はそこまで問題視する内容なのか」、「マスコミの揚げ足取りでは」という意見がネット上などでいくつか見られました。
 ちなみに上記の読売新聞はどちらかと言えば非難する論調で書かれていますが、比較対象先として朝日新聞を除いてみたところストレートニュースではこの発言は取り上げておらず、「平野復興相、津波被害への発言で謝罪」という記事で初めて取り上げていることから、読売よりかは問題視していないのではと私は感じました。民主党に批判的な産経新聞は本日、「輿石氏「マスコミが世の中悪くしている」」という記事を載せておりますが、私はこれを見て産経はヒートダウンし始めたのかなという気を覚えました。あくまで個人的な所感ですが。

 それで肝心なこの平野復興相の発言に対する私の感想ですが、そもそも取り上げる程の発言なのか、もっと他に報じる内容があるのではないかという考え方から、非難に値しないと見ています。そういう意味では喜び勇んで報じたメディアは揚げ足取りと批判されて然るべきで、本人らも少し意識し始めたのか管内閣時の松本復興相や鉢呂前経産相の失言騒動の時と比べるとトーンダウンし始めているように今日のニュースを見ていて感じました。

 いちいち語るほどではありませんが平野復興相の発言は会話の前後を見る限りだ亡くなった同級生を冒涜するようなものとは思えず、また一部で逃げたくとも逃げれなかった被災者もいるという批判も見受けられますがそれとこの発言を結びつけるのは如何なものかと思います。
 ちなみに今回のこの発言を私はネット上の掲示板で最初に知りましたが、複数の掲示板を回ってみたところそれぞれで論調が全く違っており、これは報道したメディアでもそうでしたが一部のサイトでは明確な意図を以って前後の会話部を弄り、どちらかと言えば平野復興相をわざと悪者にしようとしているサイトも見受けられました。そういったところは続報を載っけているのかな、今日の輿石氏の発言を「悪人が悪人をかばった」みたいに。まぁ輿石氏が悪人かどうかと言われたらそうかもと私も言ってしまいますが。

 あと非常にくだらないことですが、関東と関西では「バカ」と「アホ」の比重が逆(少なくとも私はそう感じる)で、関東ではアホと相手に言うとマジギレされますが関西だと「アホちゃうわ」と軽く返してもらえます。しかし逆に関西でバカと相手に言うと真面目に睨まれるくらい相手は怒る一方、関東だとへました相手に「バカだなぁ」というのはごくごくありふれてます。それで平野復興相はどっち側かと調べてみたら岩手出身とのことで、「馬鹿」という言葉を使ったのもやはり東側だからかと妙に納得しました。

 最後にさすがに今回は気になるのでこの件でのYahooの「みんなの政治」における投票ページを覗いてみましたが、現在この記事を書いている段階で回答割合は「問題ある」が56%、「問題ない」が33%、「どちらでもない」が11%でした。毎度のことながら少数派に属したわけです。

2011年10月17日月曜日

世界同時格差デモについて

 日本のニュースでも報じられているかと思いますが、昨日の日曜日はニューヨークのウォール街で起きたデモをきっかけに世界各都市で格差反対を訴えるデモが実施されたそうです。デモの中心となったのは若者たちとのことで、就業機会や親の世代と比べた収入の少ない現状を訴えたとのことですが、日本でもこれに触発されて一部でデモがあったようですが、個人的に今回のデモについてはなんだかあまり共感が出来ませんでした。
 私は常々このブログで日本における若者の現状と問題性を挙げては是正を訴えてはいますが、恐らく東日本大震災があったからだと思いますが今そんなことを言っている場合かと思うのと同時に、具体的な改善策や改革案の議論が見当たらないから今回共感が出来なかったんだと思います。

 まずそもそもの前提の話として、20世紀にどうして資本主義国はあれほど繁栄できたのかという理由を説明します。これは堺屋太一氏の主張ですがきわめて単純明快に、当時は石油というエネルギーがほぼタダ同然に無制限に西側諸国で使えたからこそ繁栄できたので、石油資源の枯渇や環境問題が持ち上がってきた現代においてあの時代を再現することは完全に不可能と堺屋氏は言っています。よく経済学者はもっともらしくあれこれ理由を付けて20世紀の世界経済を語りますが私はこの堺屋氏の話が最も正解に近いと考えており、それ故にあの繁栄の時代はよっぽど劇的な発明がされない限りは来ないと考えており、日本もみんなが大学出て就職してマイホームを買うようなことはもうありえないと割り切っています。さらに言えば、今の日本はあの20世紀という繁栄の時代に作った貯金を切り崩して生きているような状態で、既にヨーロッパ各国ではその貯金すらも使い果たして破綻し始める国が出てきていますが日本も年金制度や社会保障制度をドラスティックに切らない限りは対岸の火ではないでしょう。

 ちょっと本筋から外れますが前から言いたかったこととして、現行法の社会保障制度は小泉時代に大分切り捨てましたがそれでも制度の骨格はバブル前に作られており、当時の税収を元に支出額などが決められています。すでに述べているようにあのバブルの時代なんてもう逆立ちしたって来ないんだから、制度を維持出来るなんてありえないのです。むしろ維持すれば維持するほど借金が増えるだけでしょう。

 話は戻しますが、もうあの繁栄の時代は来ないというのは前提としてでは今は何をすればいいのかですが、これまたごく単純に社会を維持するためにどれだけ基準を切り下げればいいのかということだと私は考えています。言ってしまえば生活レベルを含め裕福さをどれだけ切ればいいかということで、最低防衛ラインを設置することが急務だと考えています。
 最低防衛ラインと言えば聞こえはいいですが、実質は要するに何年から何年生まれには死んでもらうということです。かなり極端な表現を使いますが、これくらい言わないと真面目に意識されないんじゃないかと昨日のデモとか見ていて思いました。

 ちなみに私が設定している防衛ラインは、社会保障支出が史上最も最大となる期間を団塊の世代(1946~1948年)が年金を受け取り初めて大半が死ぬまでの期間と設定し、仮に平均寿命を80歳とすると2028年までが最も日本が財政的に苦しい時期ということになります。この2028年、前後期間を考えて2030年とするとこの間に現役世代となる自分を含めた日本人は後の世代のための捨て石とばかりに、必死で国を支える必要があると思います。具体的な細かい中身までは言いませんが。
 そんなことをしてまで国を維持する必要があるのかとかつては自分も疑問に感じたことがありますが、ソ連崩壊後の混乱の話やイランやアフガニスタンの現状を見るにつけ、いくらか国民を不幸にさせるとしても国家を維持することの方が相対的には国民は幸福だという考え方が自分にはあります。

 今現在でこそ海外で働いて暮らしている自分ですが、幼少時に一応まだすこし余裕のある頃の日本を体験させてもらったこともあるので、いつかは日本に帰らなきゃなと思っています。さらに言えば海外に出ることが日本のためだという人がいますが、決してそうでもないんじゃないか、日本に残り続けることも大事なんじゃないかと今日この頃思います。こういった話が、昨日のデモとかで出てくれば面白かったんですが。

2011年10月16日日曜日

見た目と中身のギャップについて

 昨日の記事でも軽く触れていますが、私の見かけは周りから聞く限り、かなり大人しそうに見えるそうです。そのように見られることについて私は特段抱く感情はないのですがこの手の奴でちょっと面倒だと思うこととして、外見に抱くイメージと中身が一致していなければ怒り出す人間が一部にいることです。

 まず大きな前提として、私は外見と中身(=性格)が一致しないというのはままあると考えています。あまりにも老け顔過ぎて並んで歩いてたら「何、君の先輩?」と別の知り合いに言われた私の後輩なんか下手したら私より大人しそうな外見していますが、権力に対する反発心とかそういうものは自分以上にやけに強いですし、また別のある友人なんか病弱そうに見えて長友選手もびっくりなタフネスを持ってたりします。
 こういう風に外見と中身は一致する人もいれば一致しないと私は考えているのですが、私が見る限り世の中そういう風に考えている人間に占められるわけじゃなく、むしろ外見と中身が一致していなければおかしいと思う人間も少なからずいると思います。

 具体的にそのような人間はどんな感じかというと、たとえば私の場合は普段が大人しそうに見えるためにそういった「大人しそうな」身振りや行動をするものだと考えている節があり、たとえばこのブログでやっているように何がしらかで意見を言ったり反発することもあれば、「なんでお前がそんなことを言うんだ」などと、意見の内容以前に意見を発言したことをとがめられるという経験がこれまでに何度もあります。
 私としては見た目でなんでもかんでも人間を判断しようとする時点であまりそういった相手とは関わりたくないと考えるため、無駄に接触を続けるくらいならとそのままイメージに抱かれるステレオタイプな行動を演じることもあります。いわば期待されている役割を演じるような具合で、過激な行動や発言は可能な限り控えるようにします。

 こうした私の体験談などはどうでもいいのですが、ここで私が言いたいことは多かれ少なかれこういうことは世の中にあるのではということです。外見で抱かれるイメージに対し周囲が期待する行動を本人も実行する、中にはそれが定着して外見と中身が一致していくという。社会学はこういう相互作用的な話を好む傾向があって私もそういう背景があってこういう考え方をするのですが、別に「本当の自分はこんなんじゃないっ」なんてマンガみたいなセリフを言うつもりはなく、中にはそうしたイメージを逆手にとってくる食わせ物もいるわけで、よくよく外見にこだわらず相手を見極めることは大事だというのが今日の私の意見です。

2011年10月15日土曜日

香港で気になる点

 香港に来てからそれなりの日数が経ちましたが、このところ街中を歩いていて気になる点が一つあります。その点というのも、非常に高齢者が多いということです。

 香港の話をする前にまず北京や上海といった中国本土の説明をしますが、この二都市ははっきり言って非常に若者が多い都市。中国は一人当たりGDPがまだ他の先進国の水準にまで達していないながらもなかなか平均寿命の高い国でもちろん老人も見かけますが、それにしたって繁華街を眺めていると日本の主要都市と比べて非常に多くの若者がたむろし活況を呈しております。
 それに対し香港ですが、大抵どこ行っても街中を歩いているのは中年以上の人ばかり、また60歳以上の高齢者の姿も非常によく目立ちます。逆に十代や二十代くらいの若者の姿はもちろん存在するものの、あくまで私の実感ですが歩行者より小売店で働いている姿の方が多いんじゃないかという気すらします。

 そこで早速、明治大学が便利なものを作ってくれていたのでこのサイトで調べてみましたが、2010年における65歳以上の高齢者の人口割合は日本が22.7%で世界1位であるのに対し、香港は12.7%で44位と比較的高い数字ながらも思ったより差がありました。どうも私の実感とずれたデータではありますがこのずれの理由に敢えて考察すると、日本の高齢者は地方に多い存在するため東京や大阪といった主要都市では平均値より若者の割合が多くなる傾向があるのに対し、香港の場合は狭い土地なだけに実数地が直接街中に出ている可能性があります。少なくとも私の感覚では東京の姿以上に香港は年寄りの数が多いように見えます。

 ちょっと話が変わりますが以前に日本のテレビか何かであった気功整体師のインタビューにて、気功を行う上で若いエネルギーというのは非常に重要なため、その先生は週に数回必ず渋谷など若者が集まる場所で散歩すると語っていました。この話が本当かどうかまでは科学的にどうこう言いませんが、実感としては私もその通りだという意見を持っています。
 やはり上海の街中を歩いていて日本と違うと感じるのは若者が多い点と、街全体がどこか明るいというところです。無論景気状態が違うというのもありますが日本にいたころは何か目には見えない圧迫感というか倦怠感が常に付きまといましたが、上海での生活ではそういったものはあまり感じられません。

 昔に誰かが言っていましたが、金銭的に苦しいからと言って必ずしも気分を暗くする必要があるわけでもないにも関わらず、何故だか日本は全体的に非常に後ろ向きになっているという話がありました。このブログでも何度も書いていますが一般的な中国の若者の収入は日本の物価格差を考慮しても低水準なままですが、それでもその表情は日本の若者と比べて非常に明るさが感じられます。
 ただ今回香港に来てみて、そうした表情の明るさが香港の若者にはないのではというように思いました。それでも日本の若者に比べればまだどことなく楽しそうではあるものの、なにかどこかで深く考えているような、何も悩むことなくて楽しそうな上海の若者と比べると明らかな違いを感じます。

 もっともこんなことを言いながらですが、周りからは私の表情が明らかに最も暗そうな感じだとよく言われ、「てめぇの辛気臭い表情が嫌いなんだよ」とこれまでに実際に何度も罵倒されたことがあります。その一方で親しい友人らからはごくたまに、「自分の周りで一番学生っぽさが抜けていない、理想を捨ててない顔してるね」と言われることがあります。この辺については機会も機会なのでまた次回あたりにでも書こうと思いますが、社会的な空気はやっぱり明るいに越したことはなく、なんか香港は歩いてて妙に疲れるからまた猫カフェにでも行こうかなと思案中です。

2011年10月12日水曜日

アルバイト人口を考える

 なんかこのところ経済関連の記事が多くて自分でも嫌なので、ムキになって無理矢理カテゴリーを「社会」によく変えてます。まぁそもそも、日本にいないのに日本社会を語るというのいろいろとあれですが。

 話は本題に移りますがよく人に話して驚かれる話として、中国には学生アルバイトは基本的に存在しないという話があります。日本、ひいては欧米においては大学生は多かれ少なかれアルバイトを経験するものだという認識、というよりは社会慣習がありますが、これが韓国は知らないけど中国においては事情が異なり、基本的に大学生向けアルバイトは存在しません。一体何故中国の大学生はアルバイトをしないのかというと理由は簡単で、アルバイトをしようにも仕事先がないからです。

 最近は大分事情は変わってきましたが、中国は未だに労働力が豊富な国です。そのため日本でアルバイトが雇われるような3K職場(これももう死語だ)、外食や小売りの現場などにおいても変に大学生のパートタイマーを雇うくらいなら地方からやってきた中学や高校を卒業してきたような子らをフルタイマーとして雇う方が効率がよく、大学生が入り込む余地が全くと言っていいほどありません。
 そのため中国の学生というのは基本的に生活費用は親からの仕送りに頼るほかなく、貧しい家だと大学生活も厳しいものが迫られるという現実があります。私はあまり好きではありませんがコラムなどを書いている石平氏などはこうした中国の大学生と比べ、日本の大学生は確かに勉強はしないかもしれないが社会的経験も豊富で決して劣っていないと主張しており、痛し痒しですがそうかもしれないという認識を持っています。

 と、ここまでの話でもそこそこブログに書く価値はありますがちょっとこのネタを考えていて気になった点として、逆にもし今の日本で大学生みんながアルバイトをしなくなったら、という妙なお題が思いつきました。
 結論から言うとまず間違いなく先ほど挙げた外食、小売り産業は成り立つことが出来ず、廃業するか値上げするかのどっちかが迫られることとなります。パートタイマーの代わりにフルタイマーの従業員を雇うため人件費を増やすという選択もありますが、私の予想だと人件費を上げたとしてもやはり人員が集まらず、サービスを維持することは出来なくなるでしょう。現実に産業が成り立たなくなっている例として農繁期における農業が既にそうで、前にテレビインタビューで見ましたが昔は夏休み中の大学生が来てくれたが最近は募集をかけても誰も応じないため、中国などから募集する外国人研修生に頼らざるを得ないそうです。

 私がここで何を言いたいのかというと、日本社会は意図してかどうかまではわからないものの、大学生をアルバイトで働かせることによって正社員以下の最低賃金を維持し、経済を回し続けてきているということです。これはつまり大学生アルバイトがなくなると経済が回らなくなるということで、「社会も知らない学生がえらそうな口をきくな」と一部の正社員は言うかもしれませんが、その学生なしでやってけない体制を維持しているのは誰なのかということにもなり、「口のきき方に気をつけろ」と学生アルバイトは言い返してもいいかもしれません。
 こうした視点で見てみると、ちょうど少子化傾向が目立ってきた90年代中盤くらいからフリーターという言葉が生まれましたが、もしかしたらこの学生アルバイト層の埋め合わせをするために新たな低賃金層を作る必要があって作られた言葉だったかもしれません。さらに言えば、バブル期によくアメリカさんに日本はダンピングをしていると非難されましたが、ある意味そうだったかもしれません。

 ただこんなことを主張するからと言って、もっと最低賃金を上げろだとかそういうことまでは私は言う気にはなりません。現在の私の給料は昨今の円高のせいもありますが現地物価は低いものの日本円にして約10万円強で、さらに現地中国の同年代の若者はさらに低い給料で働いております。以前も日本から来た人と上海のレストランで食事した際、多分17か18歳くらいの若いウェイターが夜遅く、忙しく動き回っているのを見て色々とショックを受けてましたが、日本以外の国ではこういうのは当たり前です。
 それでも敢えて一言苦言を呈すなら、学生アルバイトに頼るという惰弱な経営体質からは早く脱却した方がいいというのが、今日の私の意見です。

2011年10月11日火曜日

香港にある猫カフェ



 先週に着任してこの前の土日は暇してたので、日用品などを購入した後は日がな昼寝をして過ごしましたが、日曜に近くに猫カフェがあるとガイドブック(地○の歩き方)に載っていたので、試しに行ってみることにしました。
 ここだけの話、元々学生時代に長い間喫茶店でバイトしていたのでやけに古びた喫茶店に出入りすることが多いです。中にはレトロすぎて友人が嫌がるのを無理やり引っ張って入ることも少なくないですが、猫カフェなどといった色物系喫茶店には後輩にせがまれてメイド喫茶に一回だけしか言ったことがありませんでした。それにもかかわらず、しかも香港で猫カフェに行こうとしたのはよっぽど暇だったんだと思います。

 そんなわけでやってきた猫カフェですが、まずガイドブックにも書いてありましたが店舗の入っているビルは繁華街にあるもののどう見たって雑居ビル、それもヤクザが出入りするような汚いビルでした。香港自体が土地が狭いのに人がたくさんいるもんだから高層ビルを呆れるくらいに立てて空がリアルに見えない場所ですが、まさかこんな雑居ビルに本当に猫カフェがあるのか少々疑いました。そしたら後ろからやってきたカップルがビルの警備員に、「猫カフェは何階?」って聞いてたので、そのまま自分もついていきました。



 まず店内に入ってみると入り口付近でどかっと座っている猫、上記写真のように寝ている猫がおり、さすがは客商売に慣れているのか見知らぬ人間が来てもおびえたり警戒する素振りは見せませんでした。そのまま客席に着くと周りはやはりというか若い女の子ばかり(やけにメガネをかけているのが多い)で、男一人で来ているのは案の定自分だけでした。
 とはいえ外国なんだしそんなのいちいち気にせずに昼食を兼ねてパスタを注文しながら周りを眺めましたが、店内は喫茶スペースとともにクッキーなどのお菓子教室もあってそこそこ広かったです。店内に徘徊する猫の数は大雑把な感じで8匹くらいで、我が物顔と言ってはなんですが客を気にせずあちこちを動き回っていました。




 個人的に気になった点はどの猫も成猫なのはともかくとして、やけにデカい猫ばかりだったのが何故だか気になりました。もちろんでかい猫はそれはそれでいいんですが、できればもっとちみっちゃい子猫とかも触りたかったのに、「年増ばっかりじゃねぇ」などと親父くさいことを言いながら女の子に混じって写真取ってましたが、店を出てみてその理由がなんとなく察しがつきました。
 これはあくまで私の予想ですが、猫カフェのある同じ階にはペットショップがあり、もしかしたら猫カフェの猫たちはこのペットショップで売れ残った猫たちなんじゃないかという気がします。というのもうちの実家の猫もそうでしたが、ペットショップで売られている猫たちは小っちゃくてかわいい子猫として売り出すためにあまりエサは与えられないそうで、家で飼われ始めるとその反動で異常にエサを食べ同クラスの猫に比べて異常にでかくなることが多々あるそうです。実際にうちの実家の猫がその口で、以前に買っていた猫と比べるとその差は歴然で、私の友人がうちに来ると、「やけにでかいなこの猫……」と妙におののきます。猫の世界も楽じゃないんだなぁとしみじみ感じます。

香港特別行政区の日々



 ここ数日また更新が空きましたが、ただ単にサボっていたわけじゃなく物理的にネットが出来ませんでした。一体どんな環境にいたのかというと友人らへの広報も兼ねてスパッと言いますが、先週から出張の関係で香港に来ています。

 出張と言っても滞在期間は年内と言われており、今年はこのまま香港で年末まで過ごす予定です。何気に香港に来たのは今回が初めてですが、主要言語は広東語のため、中には北京語も使える人がいるもののやはり英語のが通じやすいこともあって会話時に色々混乱することが多いです。と言ってもこういってはなんですが本土と違って人が良くできているというか、細かく言わなくともすぐにこちらの意図を把握して対応してもらえるのですこぶる居心地がいいです。

 また既にいろいろ回っていますが中国本土と違ってネットの規制がないおかげで約一年ぶりにFC2の自分のサイトとか見ましたが、普通にアクセス数がカンストしかかっているほど未だに閲覧者が来ており、そっちに来るくらいならこっちに来いよとむなしい気持ちを覚えました。一日70人とか増加したらどれだけアクセス順位が上がるんだって。

 このほか香港にいて自分が感じたことなどはまた明日以降に書く予定ですが、今ここで声を大にして言いたいのは自由というのは大事だということです。別にどこかの国に対して言ってるわけじゃないですから、念のために。

2011年10月6日木曜日

仏教だけが何故多神教で生き残ったのか

 よくある宗教議論でキリスト教やイスラム教など、どうして一神教の宗教はこれほどまでに強くなったのかという議論がありますが、こうした議論を見るたびによく、逆にどうして仏教だけが多神教なのに世界三大宗教としてまだ頑張っているのかの方が不思議じゃないかと日頃考えています。

 先に一神教がどうしてこれほど強くなったのかですがこれは実に簡単な議論で、多神教の宗教に比べ政治に食い込もうとする執念が半端じゃないからです。こうした傾向は異教を認めないというような排他的な性格を持つ宗教の特徴として共通しており、日本仏教の中でも例外的に排他性が強い日蓮宗などはどの時代においても政治に参入しようとする動きが強く、現在においても日蓮宗系の創価学会が支持母体の公明党が相当の議席を持つなど、理屈はともかく実証的にははっきり出ています。

 話を本題に戻して多神教ですが、基本的に一神教と比べるとやはり弱いです。これまでにあった多神教を挙げると、ギリシャ神話、ゾロアスター教、古代エジプト神話、アステカ神話などがありますが、一部で進行が残っているもののどれもがかつての隆盛はどこ吹く風かほぼ消滅しております。逆に今でも残っている多神教としては今日の本題の仏教をはじめ、日本神道、ヒンズー教、道教と、見てわかるとおりに東アジアに集中してます。ただ単に西側世界に詳しくないだけかもしれませんが、少なくとも世界ベースで認知されている多神教と言ったら仏教に限定されるでしょう。

 私自身がそれほど宗教学に詳しくないのもあるのでごねごねと書く気はありませんが、仏教がキリスト教、イスラム教といった一神教勢力に駆逐されずに残った理由としては一つは信仰された日本や中国といった国で長期間根付いていたこと、また植民地にならなかったことが大きいでしょう。その上で宗教的な性格も加味するのであれば、これは神道や道教に顕著ですが仏教は他の宗教と融合しやすい性格があり、いい意味でいい加減さが強かったからだと思います。ヒンズー教でもブッダはヴィシュヌ神の化身の一つと言われるそうで、これは多神教全体に共通する特徴かもしれませんが、元来あった宗教と融合して行事などが習慣化することで意識せずとも信仰される宗教となっていくのかもしれません。

 ただ世界的な信仰者割合でいうと目下のところイスラム教のみ増えてて、仏教とキリスト教は減り続けている状況だと言われております。こうした状況について一部では、業界では有名なE・フロムという人の主張した「自由からの逃走」という理論に基づいて、古くからの慣習や生活形態が変化して行動の自由度が広がった分、拘束要素の強いイスラム教が人気なのではという意見がありますが私もなんとなくこうなんじゃないかなという気がします。
 ちなみに仏教は坊さんにならなければ比較的自由ではありますが、坊さんの生活というのは浄土真宗を除けば世間で思われている以上にかなり厳しいとよく聞きます。前に曹洞宗で修行している人に話を聞きましたが、よく静かな環境で瞑想したがって来る人が多いものの、実際にやるのは掃除がほとんどだそうです。しかもその掃除も、「何も考えず、ただ掃除を続けよ」といった具合でやるそうで、想像してたものと違って門を叩いたもののドロップアウトする人が後を絶たないとのことです。

 個人的に私は日本人というのはいい加減さを大事にする民族で、いい加減さを売りにする浄土真宗なんかはある意味で日本民族の文化の結晶のようにも思います。ただこのところやけに親鸞学派を名乗って講座参加を呼び掛ける団体が増えていると聞き、なんか違ってきてるんじゃないかとやや危惧するものを持っております。

2011年10月4日火曜日

家電量販店などのポイントサービスについて

 七月に日本に帰国した際の顛末を書いた記事にて書いていますが、新品のパソコンをオノデンさんで購入した際に海外在住と伝えたところ、「海外にいるのであればポイントが使えないので、ポイントを付けない代わりに今ここで値引きしますね」と対応してもらいました。特別な対応をしてもらったオノデンさんに頭が上がらないのはもちろんのことですが、実は元々私はポイントサービスというのが嫌いで、逆にこうして現金値引きをしてくれる企業をこれまでにも頻繁に利用していました。

ポイントサービス(Wikipedia)

 ポイントサービスというのをここで簡単に説明すると、商品を購入した際にその購入金額の一部をポイントとしてメンバーズカードなどに記録し、次回に同じ店で商品を購入した際にその分だけ値引きするというサービスのことです。私の印象としては十年くらい前に大手小売店などがやりだしたのをきっかけにどんどんと導入する店が増え、現在ではTポイントカードを筆頭に複数企業で提携してポイントを共有するサービスが現れるなど未だに広がりを続けています。
 こうしたポイントサービスを使うことによって得られるメリットですが、消費者側からすれば支払った金額に応じて次回買い物時に割引が得られるというお得感、販売者側からすればいくらかの値引きによって消費者を次回の買い物へ呼び込めるといったところで双方にメリットがあるとされますが、必ずしもメリットだけなのかという疑問をかねてから抱いております。

 まず私がこのポイントサービスを何故嫌っているのかですが、単純に自分の次の行動や思考が束縛されるのが嫌で、この点で聞き分けはいいけど私以上に束縛を嫌う友人と意見を共通しています。たとえばプリンタのインクを買う際にどこの店で買うのか決める時、「あっちのお店にはポイントカードがあるからあっちを優先して買おう」と考え、その店までの距離、実際の販売価格、店員の質、地域経済への影響などといった諸々の要素を考えなくなる恐れがあり、その上で何よりも自分の選択が相手の思惑に載せられているような気分がして不快です。またこれ以外にも常に複数枚のポイントカードを保有し、中身のポイントを管理するというのが手間で嫌というのもありますが。

 とはいえ現在社内から「ケチで有名な花園」、「飲み会に誘っても来るのか?」などと言われるだけあって私も価格は気になります。過度な値引きには相手にも悪いと思って自ら遠慮することもありますが、いくらか値引きしてもらえるのならやっぱり心は動きます。そんなわけで最初に書いたように、こういったポイントカード制ではなくその場で値引き、現金還元などしてくれる店を比較的優先して選ぶようにしており、家電量販店ではケーズデンキを贔屓にしており、またイトーヨーカドーもよく現金返還キャンペーンを実施するので非常に愛用しております。
 逆にポイントサービスを大々的にやってて、社員に愛されていない企業堂々第二位のヤマダ電機については不祥事を何度も引き起こしていることもあって徹底的に買い物は避けております。

 と、ここまではあくまで私の個人的な見解ですが、真面目にポイントカードのデメリットについても合わせて書きます。まず一番のデメリットというのは販売者側におけるデメリットで、ポイントを作って次回に値引くということは次回時の販売額がそれだけ減少することで、きちんと経理して入れとくのであればともかくそうでなければ帳簿上には見えない負債というものがポイント分だけ生まれるということになります。これはこの前のエコポイント制度などにも共通していますがポイントサービスは将来分の消費を先取り、今現在の売り上げを増やす一方で将来の売り上げを減らしている面も少なからずあるように思え、経営上、余計なリスクを抱え込むことになりやしないかという気がしてなりません。
 また具体的な内容は珍しく忘れてしまいましたが、ポイントサービスを実施していたある企業が倒産した際にポイントを消化しきっていなかった消費者からクレームが起きたことがありましたが、この事件については消費者に対して自業自得と感じる一方、倒産が噂されることによって駆け込みでポイント消費が相次ぎ、財務状況が急に悪化することも今後起こるのではという風にも覚えました。

 消費者側のデメリットについては既に述べていますが、ポイントを運営する企業が倒産することによってポイントが使えなくなる可能性があるということです。もっともそういうことはなかなかないでしょうし、まさか数百万単位でポイントを抱え込む人もいないでしょうから影響は軽微でしょうが。ただ中には企業でパソコンなどといった業務用OA機器を取りそろえる際に、購買担当者がこうしたポイントのあるお店でまとめて発注して経費を会社側に負担させポイントは自分が着服する例もあると聞くのでひょっとしたらえらいポイントを抱えてるのもいるかもしれませんが。

 自分でもややロートルな印象を覚えますが、どうもこういう電子マネーには慣れず現金にこだわるところがあります。性格が元からせっかちで物事が常に完結した状態でなければイライラするということもありますが、できる限り早くこのポイントサービスの流行が終わってくれないものかとたまに真剣に考えます。

2011年10月3日月曜日

資格乱発の現状について

 以前に友人から、通関士の資格を持っていると話を聞き、それならばインコタームズなど貿易事務についてわかるのと聞いたらその友人は素直に、「わからない」と答えました。恐らくこういったことは何もこの友人に限らず、資格を持ってこそすれども実際に業務に携わってない人間に共通することだと私は考えています。
 ご多分に漏れず私もその一人で、貿易に関しては「貿易実務検定C級」というかなりどうでもいい自己満足な資格を持っていてこれについてはクーリエ手配など一通りの業務を行う自信があるものの、同じく取得している「高圧ガス販売責任者一種」という資格についてははっきり言って全然活用できる自信がありません。黒いボンベには酸素、緑のボンベには二酸化炭素が入っていることくらいはわかりますが、そもそも瓶転がし自体をやったことがほとんどないし……。

 こうした現状を思うにつけ、そもそも資格というものは何のために存在するのか疑問に感じます。確かに高圧ガスなどといった危険物を取り扱う上では最低限の知識が必要でおいそれと誰にでも取り扱わせるべきではなく、ある程度の試験によって知識確認の必要性は感じるものの、結局は実務をやってるかやってないかの方が判断基準としてはずっと大きい気がします。また近年は資格乱発とも言っていい状況で、ちょっと今日はこの辺について一言書いておこうかと思います。

 そもそも何故一般業務における資格というものが存在するかですが、理由は大きく二つあって一つは業務遂行者の知識や技術を一定水準保障、確認するためで、もう一つは業務遂行者の職業を保護するためです。ある業務を行う上で資格が必要と義務付けることによって無資格者を締め出すことができ、有資格者の仕事口を保護できます。こう書くと聞こえは悪いですがたとえば市場が非常に狭い業界や仕事の場合ですと従事者の人数をコントロールしなければ全滅することとなってしまうので、それであれば成績順に仕事を確保するという考え方は個人的にありだと思います。ちなみに明治時代には社会上、必要性が高いものの採算がなかなか取れないもんだからジャーナリストの仕事を資格制にしようとする動きがあったそうですが、なんか凄い真面目に大きな勘違いしているようにしか思えない案です。

 今回ここで槍玉にあげたいのは最初の方の、知識や技術に関する理由です。確かに自動車や医師免許など、人の命や公益に大きく関わるものの場合は知識や技術が足りないものを振り落すという過程が必ず必要ですが、それ以外の大半の業務については八割方はいらないのでは、資格とせずとも届け出制にするだけでも事が足りるのではと私は考えています。先ほども言いましたが実際に各仕事を行えるかどうかは実務経験、言うなれば先輩の指導などを受けて関わったことがあるかどうかが重要で、テストを受けたかどうかではありません。
 そうはいっても高圧ガス関係の資格の中には毒ガスの取り扱い免許などもあって事はそう簡単じゃないということは重々承知ですが、こうして敢えて批判する形をとっているのは、資格制にすることで誰が一番得をするのかというとほかならぬ、資格試験を管理、運営する連中だからです。あまり表には出てきませんがこうした団体には独立行政法人など官僚の天下り団体が多く、しかも一つの試験で受験料、試験対策講座費、教材費、資格登録費などと多方面にわたって受験者から料金を徴収し、どう見たって必要以上に儲けているんじゃないかという気がしてなりません。払う方も払う方で、大抵会社が費用出してくれるのでためらいなく払うし。

 こうした不当な儲け方、言い方を強くすれば不必要なまでに資格取得熱を煽って利益誘導をしている団体例としては2009年に一挙に問題が発覚した漢検協会をよく代表例として使っていますが、実態的には漢検だけでなくもっとたくさんの団体で試験に関わる徴収料金を本来の目的用途の試験運営以外に現在も流用していると思います。さらにうがった見方をすれば、2000年代前半の就職氷河期時代に盛んに「資格があると就職に有利」と言われてきましたが、この背景にはマスコミへの資金の流れがあったのではと今思います。
 繰り返しになりますが資格があろうとなかろうと、仕事に必要な知識が必ずしも伴われているというわけじゃありません。下手に中間業者をのさばらせるくらいなら、いくつかの資格は届け出制にしてこの際つぶした方が世の中も回しやすいのではないかというのが今日の意見です。

2011年10月2日日曜日

内需拡大によるメリット、デメリット

 昨年に日本を追い抜いて中国のGDPが世界二位になった際、「これほどまでの経済大国となったからには、中国はこれまでのように大量生産による輸出中心の経済モデルでは経済を維持できなくなる」などといった評論をする経済家がたくさんいましたが、どうしてそうなるのかきちんと説明していた人は皆無と言っていいいくらいにいなかったので、当たり前と言ってしまえば当たり前の話ですが今日はどうしてそうなるのかを簡単に解説します。

 まず現在の中国がどうしてこれほどまでに経済力を成長させることができたのかですが、その原動力となったのは保有する世界最大の人口とその人口に裏打ちされた豊富で安価な労働力です。言うまでもなく労働力が安ければ同じ材料で同じ製品を作ったとしても値段が安くても利益が出るので、繊維商品を筆頭とした軽工業品は中国国内はもとより、「メイドインチャイナ」が世界で当たり前になるくらいに他国にもバンバン輸出されていきました。そのためこれまでを含め現在の中国経済は、輸出販売をメインとすることで成り立っております。

 今現在の日本では輸出が多いということはとにかくいいことだというような言われ方をしておりますが、確かに輸出量が多いということは一面ではいいものの、必ずしもいいことづくめではないと私は考えております。具体的な例が卑近で助かるのですが、一国の経済消費における輸出割合が高いということは、自国の都合と関係なしに他国の都合で突然大きな影響を受けやすくなるというデメリットが存在します。具体例を挙げるとまさに今起きているリーマンショック以降の不況で、それまで好調に売れていた商品が他国で急に売れなくなると輸出産業にかかわる業種では売上が突然に減少します。また不況に限らずとも相手国との関係悪化に伴いセーフガードなどといった貿易対抗策や輸出規制が敷かれても同様で、毎月1000万円あった売り上げが突然に10万円に減少することだってありうるわけです。無論こうなったら従業員も雇い続けることが出来なくなり、下手すりゃ一発で廃業です。

 またこれ以外にも、輸出依存の経済体制にありがちなのは貧富の拡大です。これも単純な話で輸出産業にかかわる業種では自国の経済(=値段)に関係なく価格を決定することができるため、国内向け産業の人たちと比べて大金が得やすいです。現実に今の中国では昼食や散髪が100~200円で済む一方、大型トラックや建設機械は海外に数百万円で輸出されております。
 無論このような状態を維持し続けながら経済成長を保つということは理論上は可能ですが、行き着く先は言い方が悪いですが韓国社会のようなものだと私は考えています。韓国は輸出産業を極大化させることで経済を維持していますが、その弊害というかサムスンやヒュンダイといった財閥企業に属していなければまともに生活できないほど一般庶民の所得は低く、貧富の差は日本とは比べ物になりません。おまけに今現在起こっているようにウォン高になるだけでそれらの財閥企業も途端に経営が苦しくなることもあり、底堅い経済とは言い切れません。

 ではこうした輸出依存のデメリットに対しどのような対策が必要なのかですが、一つはよく言われるように内需を拡大させることです。内需はあくまで国内のみの消費ですので不況時にも国家である程度コントロールすることができます。日本の場合はコントロールするために借金に借金を重ねた挙句が今の状況ですので、一概にとは言えませんが。
 ただ内需を高めるために何が必要かというと、なによりもまず一般庶民の所得の向上です。それまで毎月10万円もらってた人が20万円に上がればそれだけ使えるお金が増えて内需は増えるわけですが、こうなると何が起こるかというと労働力コストが上昇し、これまでのように輸出で大儲けすることが出来なくなるどころか大量生産、輸出モデルが崩れることになります。見方によっては貧富の差が縮まるとも言えますが。

 話は戻って今の中国経済ですが、順番的には以下のような形で内需拡大策を現在取っております。

・安価な労働力を武器に輸出産業を中心として経済成長達成
  ↓↓↓
・経済成長こと達成したものの、貧富の差が拡大し不満が増加
  ↓↓↓
・不満解消のために全体の所得を底上げする必要がある
  ↓↓↓
・所得が底上げされると、これまでのように安価な労働力だけじゃやってけなくなる
  ↓↓↓
・減少するであろう輸出消費の埋め合わせとして、内需を拡大させる必要がある


 もちろんこれだけが理由じゃなく世界経済がリーマンショック以後に不況となったのもあって内需化拡大にかじを切ったのもあるのでしょうけど、「中国がこれまでのようにはいかない」という理由というのはざっとこんなもんだと私は考えています。
 現実に先週、私も会社で記事を書きましたが、労働コストの上昇などによってこれまで軽工業品の輸出産業中心地であった浙江省温州市で、今年に入ってから経営者の夜逃げが相次いでます。経営者が夜逃げした企業の業種を見てみると、ライター、メガネ、靴といったメーカーで、これは日本も歩んだ道ですがもうこれらの大量生産は中国でもやっていくことはできないでしょう。

2011年9月29日木曜日

山岡議員へのマルチ商法団体からの献金疑惑について

 当初は放っておくつもりでしたが、与党ではなく野党への批判として一筆書いておくことにしました。

山岡消費者相、マルチから献金=05~08年に250万円超(時事通信)

 ちょっと旬が過ぎたニュースですが、民主党の山岡賢次議員に詐欺商法の定番とも言っていいマルチ商法関連の企業団体からの献金が発覚し、野党などから現在批判が起こっています。ただ今回の野党の批判については私は内心如何なものかと思っております。というのものたった今私は「発覚した」とは書きましたが、発覚以前にこんなの大分前からわかりきっていたことだからです。

 山岡議員がマルチ商法団体と深い仲にあることは数年前から大きく報じられており、私自身も二年前くらいにわざわざ「陽月秘話」で記事にしたのをはっきり覚えてます。おまけに山岡氏の楽しいところはそのマルチ商法団体の会合に堂々と出席し、まぶしいくらいの満面の笑顔で、若い皆さんには是非頑張っていただきたいなどと発言するのがしっかりと動画に残っているという点で、私もYoutubeで実際に鑑賞しましたがどうしてまだ刑務所に入んないんだろうと当時に感じました。

 それが何故今になってこれほど大ごとになるのか、もちろん悪いことは悪いことだけどちょっと腑に落ちない点が数多くあります。恐らく今回の野田内閣成立とともに山岡議員が消費者相になったことが原因かもしれません。最初これを見た時は私も野田首相の一種のギャグかと思いましたが、それにしたって野党だって知ってたくせに今更急に糾弾するというのもなんだかという気がします。ただでさえ今は震災復興の対応などで忙しい時期なんだし、こんなしょうもない小物のスキャンダルで大騒ぎするくらいなら法案の審議に時間をかけるべきです。無論、山岡議員には相応の処分は必要で、受け取った献金は全額返金するようですがこの際だし消費者相も辞任してもらい、なおかつ受け取った献金額の二倍以上を震災地域へ寄付するくらいで放免にしたっていいんじゃないかと思います。それにしても自民党など野党も野党で、こんな小物相手にむざむざ時間をかけて、やるんだったら一撃で潰せよなと言いたいもんです。

 ついでに書くと、先日小沢一郎の秘書らに対して政治資金収支報告書虚偽記載の罪で有罪判決が下り、野党側は小沢本人の証人喚問を求めていますが、これについては適切な対応だと思います。というのも小沢本人が前に呼ばれるなら行くと言ってそのあとは何かと理由を付けて逃げ回っており、明らかに行きたくない理由があるというのが見え見えだからです。第一、この小沢問題でどれだけ国会が空転してきたのか、空転した時間を政策審議に充てればどれだけ有効に使えたのかと思うともったいない限りで、ここで見逃してもまた後から再燃するのは目に見えているのですからここらで決着を付けるべきでしょう。
 ただ小沢への疑惑についてもうひとつ、山岡議員同様にいざ追い込まれたところでまたあの件が大ごとになったりするんじゃないかという懸念があります。その件とは既に過去の記事で書いているので敢えてここでは書きませんが、個人的には西松建設問題以上に悪どいというか許せない所業ではありますが、小沢の政治生命が死んでからでも落とし前をつけさせればいいので今の段階で取り上げるべきかと言えば、もう少し寝かした方がいいような気がします。

2011年9月28日水曜日

諸葛亮の軍才の評価

 このところネットの掲示板にて、「諸葛亮孔明は軍才があったのかどうなのか」という議論をよく見かけるので、三国志好きが昂じてこうして中国で働くところまで来てしまった私としても一家言あるので、今日はこの話題について取り上げようかと思います。

 諸葛亮とは三国志マニアには言うまでもない、劉備と並ぶこの壮大な物語の主人公で現代においても軍師とくれば彼の名が第一に上がってきます。それでこの諸葛亮の軍才があるかないかという議論ですが、この議論における諸葛亮とは史実における諸葛亮で、多少の脚色が含まれる「三国志演義」における諸葛亮ではありません。演義における諸葛亮は文字通り神変万機の才能でありえないほど戦争に勝ちまくりますが、史実の諸葛亮は兵を率いたことは実は少なく、実質的には南蛮平定と北伐の時しか実績はありません。またその実績も南蛮平定には成功しているものの北伐は五回繰り返したにもかかわらず結局は司馬懿に阻まれ失敗しており、そのことを指して歴史書の「三国志」を書いた陳寿は、

「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」

 という具合に諸葛亮の評価を残しております。それで肝心の軍才への議論についてですが、実はこの陳寿が書いた、「臨機応変な軍略が得意でなかった」という一言を巡る解釈議論と言っても差し支えありません。この陳寿の言葉に対し、「諸葛亮は政治家としては優秀でも、奇策が全く使えない、軍人としての才能がない人物だった」と言う人もいれば、「政治、軍事ともに優秀でも、敢えて一点足らないところを挙げれば臨機応変な軍略なだけだったのではないか」という人もおり意見が分かれております。どちらの意見が優勢かと問われるならば、私見ではやはり諸葛亮は軍事的才能には乏しかったと主張する人の方が多い気がします。

 そんなこの議論に対する私の意見ですが、結論を言えば私は諸葛亮は軍事的才能にも非常に恵まれた人物だったと評価しています。根拠は実に単純で、陳寿の評価なんて関係なくあの司馬懿と渡り合ったというこの一点に尽きます。

 既に上述しておりますが、諸葛亮は魏打倒を目指して生涯に5回も北伐という遠征を行っています。この北伐で諸葛亮に立ち塞がったのは後の新王朝となる晋の礎を築いた司馬懿仲達でしたが、諸葛亮の北伐に対して司馬懿は徹底的とも言うくらいに消極的に戦闘を避け、長期戦に持ち込むことで国力に乏しく補給路に難のある蜀の弱点を突き、結果的には見事撃退に成功しております。こうした戦い方を取ったことからよく司馬懿はビビりだ臆病だなどと講談で語られることが多いですが、実際の司馬懿はこんなもんじゃなく非常にえげつないほど戦争が上手です。

 諸葛亮が没して間もなく魏では北方の遼東で公孫淵が大規模な反乱を起こしますが、討伐に赴く前に司馬懿は明帝に対し、「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、その他休養などに60日を当てるとして、1年もあれば充分でしょう」と言って、事実この通りに戦闘を運んであっという間に討伐を達成しております。しかもこの討伐で司馬懿はかつての諸葛亮相手の時は一体なんだったんだというくらいに積極的に攻撃をかけ、あまりの苛烈さに音を上げた公孫淵が降伏の使者を送ったところ、

「戦には五つの要点がある。戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。貴様らは降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみよ」

 というダーティなこと言って使者を追い帰し、この言葉の通りに公孫淵を含め敵軍を皆殺しにしています。
 またこれ以外にも明帝死後に実権を握るため起こしたクーデターでも電光石火としか言いようのない果断さで、思うに司馬懿は持久戦も速攻も自在にこなせるほど用兵に長けた人物だったと私は考えており、戦争指揮だけを見るならば三国志中で最強の人物かもしれないと思っています。

 それほどまでに用兵に長けた司馬懿でしたが、こと諸葛亮が相手だった時だけは徹底的に戦闘を避けております。これにはもちろん先程に挙げた補給路が弱いなどといった蜀の弱点を突くという戦略に依る面が大きいでしょうが、もし相手が並みの将であれば司馬懿の実績を考えると速攻で完膚なきまで撃破していたのではないかと思います。逆に言えば、消極策を取らざるを得なかったほど諸葛亮が司馬懿にとって手ごわい相手だったということではないでしょうか。
 以上のような観点から、私は諸葛亮はやはり軍才にも非常に恵まれた人物であり、陳寿のあの評価は「唯一ダメだしつけちゃうと」ってな意見だったと思います。もちろんこの陳寿の評価は的外れなものではなく、いい点を突いていると思いますが。

 最後に司馬懿の諸葛亮に対する評価ですが、諸葛亮が没し退却した後の蜀軍の陣営を見て司馬懿は、「まさに、天下の奇才」と諸葛亮について述べたと言われております。私と三国志のファーストインプレッションはご多分に漏れず横山光輝作の漫画版「三国志」でしたが、この作品の中で最も好きなシーンを挙げるとしたらまさにこの司馬懿がつぶやくシーンが挙がってきます。英雄、英雄を知るというべきか、作中で諸葛亮が死んでかなり呆然とする中でのこの司馬懿のセリフは改めて諸葛亮の凄まじさを強く認識させるもので、コマ割をやらせれば横山光輝は日本一と言われただけにその描き方は秀逸でした。

 なお、これ以外で横山光輝版「三国志」で印象に残ったシーンを挙げると、一瞬だけ董卓のヒゲがなくなっているシーンがあります。なんでヒゲだけといろいろ考えさせられるのですが、人物を書いた後でいつもヒゲだけ付け足していたのだろうか……。

2011年9月27日火曜日

上海市地下鉄10号線の衝突事故について

列車追突、260人負傷=設備故障で減速運転中―邦人2人が軽傷・上海地下鉄(時事通信)

 日本でも速報が流れたと聞くので既に知っておられるかと思いますが、本日午後3時頃に上海市地下鉄10号線にて列車衝突事故が起こりました。事故の詳しい詳細については上記リンク先の記事を確認してもらえばいいですが、さすがにこの前に起きた高速鉄道の衝突事故ほど大参事ではなく、複数人のけが人が出たものの死傷者は出ていないと現在のところ発表されております。もっとも新華社のホームページでは事故現場の写真が公開されておりますが、昼間見た時には床を血まみれにして人が倒れている結構どぎつい写真があったのにいつの間にかなくなっております。

 さてこの衝突事故ですが、具体的な原因についてはまた管制やら信号トラブルだと言われておりますが、前回のあの高速鉄道の余韻冷めやらぬ中の衝突事故なだけに中国鉄道部(実際の運営は上海市営地下鉄だけど)としては汚名に汚名を重ねている状態と言っていいでしょう。もっともこんなことを言えば黒塗りの事故報告書をしれっと平気で出す我らが東電もあまり人のことを言えないのですが、今後はますます世間の目も厳しくなって政府としても解体作業に入りやすくなるんじゃないかと思います。

 なお今回事故が起こった地下鉄10号線ですが、日本の報道でもいろいろ書かれている通りに去年の万博の時期に開業しただけあって上海市の地下鉄としてはかなり新しい路線です。日本でいえば山手線、京浜東北線にあたる3、4号線と比べると車両や駅舎のきれいさには目を見張るばかりで、普段乗っててもあまり悪い印象は覚えません。ただこの10号線は今回の事故が起こる以前にもトラブルが相次いでおり、確か7月の高速鉄道の事故が起きてすぐには原因不明で車両が動かなくなったことがあり、また衝突事故でもやらかすんじゃないのと当時は冗談で周りと言い合っていました。
 別に隠すことでもないのでもう言ってしまいますが、実は私の住んでる部屋はこの10号線沿いにあり、通勤は徒歩で行っているものの市内で地下鉄を利用する際には必ず乗り込む路線です。私の部屋の最寄り駅は今日事故の起きた豫園駅と老西門駅からは離れていますが、さすがに普段から使っている路線なだけに少し嫌な気分にさせられます。

 そんなもんだから今日会社帰りに近くの10号線の駅を見に行ったところ、当然と言えばそうですがシャッターが下りたままで入ることすらできませんでした。あと道路を見た限り、あくまで私の印象ですが地下鉄を忌避する人が出たのかいつもより混雑した感じを覚えました。
 ついでに書くとこのところ中国ではエレベーター、エスカレーターでも事故が相次いでおり、こちらは基本的に製造メーカーは海外企業ながらもいろいろと品質が不安視されております。そんなエレベーターの事故の中でひときわ目を引いたのはあるオフィスビルのエレベーター事故で、なんでも13階から急に落下し始め一旦は9階で停止したものの、またすぐ落下をはじめ1階まで落ちてきたそうです。幸いというかこの事故でも死者は出ませんでしたが、一回停止してまた落ちるって、中にいた人はとんでもなく怖かったはずでしょう。今度上海にもディズニーランドが出来ますが、下手なアトラクションを作るよりかはこういったエレベーターを置いとくだけでもスリルは味わえるのではと噂になりました。

2011年9月26日月曜日

中国政府と人民解放軍の思惑の違い

 ちょっと古い話ですが、今年に防衛相が出した最新の防衛白書で、「尖閣諸島や南沙諸島などでの近年の中国軍の動きには警戒する必要がある」との記述を盛り込んだところ、こちら中国現地の新聞でもその内容が大きく取り上げられました。ただ断言してもいいですがこうした中国軍こと人民解放軍を警戒する記述が出たことで一番喜んだのは、ほかでもなく人民解放軍自身です。

 前もって言葉の説明だけしておきますが、建前上は中国という国に軍隊はありません。一般に中国軍と呼ばれているのは人民解放軍のことですが、これは中国共産党が保有する軍のことで中国という国家の軍隊ではないという風に解釈されております。ただ実態的には中国軍と言っても変わらないことに中国、そして共産党自身もわかっており、近年は徐々に「中国という国家の軍隊」との解釈の仕方を本人らで広げております。

 それで本題に戻りますが、一体何故人民解放軍は自衛隊が自分たちを警戒すると喜ぶのかですが、理由は単純明快で予算が得られるからです。その理屈というのも、

 自衛隊が警戒している→彼らに対抗せねば→もっと予算が必要アル→政府は拡大予算を組むアル!

 という解釈につながっていくからです。
 こういってはなんですが、自衛隊はそういう存在ではないとはっきり言えるものの、軍隊というのは戦争があってなんぼです。戦争がなければどんどん予算は削減される一方、有事や危機感が高まれば逆に予算はどんどん増え、好き放題に使うことができます。戦前の日本も戦争に突入した一つのきっかけとつしてロンドン海軍軍縮条約に身の程知らずの旧帝国海軍が異を唱えたことが大きな要因となっておりますが、こういったことは多かれ少なかれどこの国にも共通しています。何気に最近のアメリカでも中国脅威論が言われるようになったのは、アメリカ軍が予算獲得のための一つの方便として使うようになったからで、本音では中国の軍隊なんて屁とも思っていないという話も聞きます。

 さてこのような中国軍が予算を獲得したいという仮説ですが、これに対する中国政府の本音はというと、どうも私が見ている限りですと逆に軍隊を削減し軍事予算を減らしたいという思惑が見え隠れします。共産圏の軍隊というと北朝鮮の軍隊がある意味最も身近ですが、同じ共産圏でも中国と北朝鮮での軍隊への見方というのは大きく異なっており、中国では政府はおろか一般国民でさえも軍人を低く見ております。ひどい中国人なんか軍隊なんてクズの行くところだと広言してはばかりませんし、現実に退役した軍人には世間の蔑視があるため再就職もままならないそうです。
 そんな風に見られている人民解放軍ですが、兵員数は北朝鮮と同じく100万人を超えており、世界的にもかなり大規模な軍隊です。た現代の戦争は兵隊の数が戦局に与える影響は少なく、中国もどちらかというと雇用を維持するためにこんな大規模な兵員数を維持しているのが本音で、可能ならば縮減して余ったお金を経済投資に使いたがっているという話を聞きますし、私もこの説を支持します。

 そのため現在の政府と人民解放軍の思惑は、予算を減らしたいのと増やしたいので真っ向からぶつかっており、決して仲のいい関係ではありません。それ故に起こったのが昨年の尖閣諸島沖の漁船衝突事故とも言われ、あの事件で事態を大きく見せることが人民解放軍にとって有利に働くことから裏でいろいろ画策していたのではないかと、あくまで噂の範囲ですが言われております。

 ではこうした中国に対し、日本はどのような態度を取るべきなのか。はっきり言ってバランスの取り具合で非常に難しく、中国を警戒する発言をすればするほど中国で軍事予算が拡大する可能性があり、かといって無警戒だと好き放題にやられた上に国内世論もヒートアップします。一番無難なのははっきりとしたライン、たとえば領海内に艦船などが侵入することがあれば中国限定の輸出規制対象品リストを作るとか、こっちまで来たら徹底的に対抗するという線を作りそれをはっきり見せることじゃないかと思います。どちらにしろ、あやふやな態度が一番問題です。
 もう一つは、中国政府の人間と強固なパイプを作り、縮軍のお膳立てを支援するのもありかもしれません。中国の国民世論ですら人民解放軍への批判が高いのですから、「中国は軍にたくさん予算をかけて経済投資が遅れているので日本は助かっている」などと、誉め殺すような意見を公で発表してみたら、どんなことになるのか想像するだに面白いです。

2011年9月24日土曜日

上海でのペット商品博覧会

 先日に新華社のページを覗いていたら、とある広告が目についたので早速今日行ってきました。その広告というのも、今日のお題となっているペット商品博覧会です。



 なんで仕事でもないのにこんなのに、しかも入場料50元(600円)を支払ってまで行こうとしたのかというと、めっきり触れていない猫などの動物におさわり出来るかもしれないという不純な期待からでした。結論から言うと確かに少しはおさわり出来たものの、やはりペット商品を扱う企業の展示がメインだったので思っていたほどは出来ませんでした、残念。

 それで展示会の内容ですが基本的には中国国内外のペット関連商品を取り扱う企業がブースを繰り出し、上記写真のように日系企業からも一部参加がありました。またペットショーとかコンテストもあるので自慢のペットを連れてくる飼い主もたくさんいましたが、その連れてこられた動物の多くは犬で、私が期待していた猫となるとほとんど見ることができませんでした。そりゃ外に連れてくるとなると犬と猫とでは大違いですし、ペット比率から言っても犬が圧倒的に多いんですからそりゃそうだったのですが……。

 ちなみに中国のペット業界についてちょこっと解説すると、はっきり言って滅茶苦茶伸びてます。自分の上海人の友人もよく、「犬飼いてぇ」と漏らすほどで、街中を歩けば犬を散歩させている中国人は上海市内にはたくさんおります。敢えて深読みするなら一人っ子政策のせいで愛情の向け先や兄弟といった対象に物足りなさを感じているのかもしれませんし、可処分所得の増大とともに無許可で犬を飼う世帯は数多く存在しています。飼われる犬種は基本的にはトイプードルやコーギーなどといった小型犬が圧倒的多数で、大型犬ともなるとなんか欧米人が連れて歩いている印象があります。

 話は戻り展示会ですが、犬だったらいくらでも見つかるものの目当ての猫はほとんど見当たらず空振りを打ったかとあきらめかけたところ、珍しい猫種のブリーダーがブースを展示しており、ようやく見つけることができました。



 そこが扱っていたのは写真を見た通りの豹柄の猫で、人が出来ているのかたくさんの客にフラッシュをたかれつつも悠然と眠りつつ対応していました。人見知りの激しいうちの実家の猫だったら、こんな環境に置かれればすぐに発狂するだろうことを考えると猫にも違いがあるんだなという気がします。



 そこのブースで目についたのは上の写真の猫ですが、何故だかガラス窓とトイレの間の狭い隙間に体を埋めていました。猫自体が狭い空間に体を密着させるのが好きですが、これだけ衆人環視のなかでも平然とやってのけるここの猫たちには本当に感心させられます。

 ちなみに今回の展示会では大小さまざまな猫用ベッドも展示されておりましたが、うちの実家でも一回布でできたものを買ってきたことがありましたが、いざ置いてみるとうちの猫はその布ベッドには一切興味を示さず、布ベッドが入れられていた段ボールをしばらくの寝床として愛用し始めました。そんな経験があるもんだから、多分猫とかだってさらさらした感触より段ボールのざらざらした感触のが好きなんだろうからいっそ段ボールで作った方が売れるんじゃないかと思っていたら、



 海外のメーカーでしたけど、本当に段ボールで上の写真みたいなのを作って売っていました。世の中、思い浮かんだことというのは既にほかの誰かも思い浮かべ、中には実行されているんだな。

2011年9月23日金曜日

夢売る貧困ビジネス

 ネットの情報をそのまま鵜呑みにするのもどうかと自分でも思いますが、以前に覗いたある掲示板に書かれていた内容が前からずっと気になっております。その掲示板では声優養成学校に通っていた方の体験談が書かれていたのですが、通っていた本人は声優になる気はなくあくまでボイストレーニングとして通っていたもののそこそこ筋がよく、最初の養成期間を終えて準プロダクション兼中級養成学校へ上がる際に授業料が免除扱いとなったそうです。その中級養成学校では声優としての指導が行われる傍ら実際に仕事やオーディションも割り振られたりするようなのですが、所属する生徒はみんながみんなこのような授業料が免除されるわけでなく、やはり圧倒的大多数はそこそこのお金を支払いながら所属し続けるそうです。なおその方は授業料免除が決まった際の説明で、ほかの生徒には言わないようにと口止めされたそうです。
 そんな声優学校のシステムについてその掲示板を書いていた方は、学校側は授業料免除扱いとなるような一部の才能のある生徒に仕事を割り振ることで、「所属してさえいれば声優になれる」という希望を他の生徒にも抱かせ、実際にはほとんどなれる見込みのない生徒を金づるとして所属させ続けている現状があると言っていました。この方の指摘について話を聞く限り私もほとんど同感で、これも一種の貧困ビジネスかと思いました。

 全体構造を考えればごくごくわかりやすく自然なことなのですが、声優業界における需要と供給の割合は圧倒的に供給側が大きく、本当にごく一部の人間を除けば生活していくことはおろか声優として仕事をもらえる可能性すら非常に低いです。にもかかわらず声優学校の入学者募集広告は後を絶たず、言うなれば声優学校は文字通り生徒に対して技能ではなく夢を売っているんだろうという気がします。別にこうした声優学校のやり方を批判するつもりは私はありませんし、考えようによってはうまい商売だなと感心します。お金払って通っている生徒にも全く声優になれない可能性がないわけでもないですし。

 ただこれとは別にちょっと自分が気になるというか目につく学校として、就職難の時代ゆえに内定獲得講座なるものがそこそこ流行ってきている点です。人の商売なんだしこういったことに口出しするべきなのかどうか少し悩みますが、ちょっとこの内定講座については懐の苦しい人間を騙して儲けているような気がするので見ていてあまりいい気分になりません。通っている人間からすれば多少お金がかかるとしても内定を得られる可能性が高まるのだからと納得されているのかもしれませんが、社会全体で考えるとこんな講座が世の中に対してどんな貢献があるのか、はっきり言いますが全く価値がありません。受け皿となる雇用が増えなければ根本的な解決にならないのに、こういう中間で搾取するようなビジネスがあっていいかとなると私はこれを否定します。

 前にもある評論家が貧困者の不安心理につけ込む、経済学者の森永卓郎氏を名指しして貧困ビジネスが横行していると批判しており確か陽月秘話時代に私も取り上げましたが、実際には何の効果がないにもかかわらずさも貧困から脱出できるような夢だけを売るようなビジネスはやはり否定するべきだと思います。もちろんお金持ちだったら多少騙して商売していいわけじゃないですが、苦しい人間をさらに苦しい立場に追い込みかけないようなビジネスは実際に存在しており、それも2000年代に入ってから急激に増えております。
 具体的にどう否定するのか私にもいい案はありませんが、「貧困ビジネス」という言葉をもっと普及させ、みんなが認識するようになれば多少は減らせるのではと思い、今日ちょっとこんな記事を書いたわけです。それにしても、高校卒業とともに声優学校行った小学校の同級生は今どうしてるかな。

2011年9月22日木曜日

リーマンショックから三年後の国際社会

 このところ一応最も専門だと考えている国際社会ネタを一切書いてないので、当たりさわりのないネタとしてリーマンショックからちょうど三年経った現在の国際状況について私感を書こうと思います。

・【コラム】「リーマンショック2」封切り間近(ウォールストリートジャーナル)

 今回この記事を書くきっかけとなったのは上記リンク先の記事ですが、なかなかよくまとまっていて読んでて強く感心しました。ただ見出しについては「リーマンショック2」ではなく私なら「リーマンブラザーズ2」ってしますけど。これだと任天堂に怒られるかな。
 それはともかくとしてまず現在の状況ですが、そもそもの発端となったリーマンショックから三年経ったにもかかわらず状況は好転するどころか悪化しています。さらに上記のウォールストリートジャーナルの記事でも「二回目のリーマンショックが起こる可能性が高い」と指摘しており、仮に起こった場合その規模は前回のリーマンショックを上回るとしています。ちなみにこの意見に対して私もほぼ同感です。

 まず現在の世界経済を取り巻く状況で何が一番よくないのかというと、ギリシャやイタリアを筆頭とした政府債務の悪化、いうなれば国家財政を破たんする国が続出していることです。あながち日本も人のことを言えませんが欧州諸国は日本以上に絶望的なまで債務が増え続けており、どうにかしようとギリシャのように資金を注入したもののほとんど効果が上がらず悪化を続けています。実際に詳しく調べてないのであてずっぽうで言いますが、ギリシャが一度はドイツなどEU内の先進諸国に助け舟を出してもらったにもかかわらず再建できなかったのは、改革というか頭の切り替えが完全にしきれなかったことが原因じゃないかと思います。そう思うのもかつての日本もそうで、しばらく待てば嵐が過ぎると言っては小手先の改革でどうにか済まそうとしていた時期があり、危機感が足りなかったんじゃないかと思います。外科でたとえるなら、本来なら組織を切断しなければならないところを止血程度で止めようとしたといったような感じです。

 しかも仮にこれがギリシャとか、言っては悪いですが中流国だけの問題であればまだ笑って過ごせますが、状況はイタリアやスペインといった先進国にも差し迫ってきております。特にイタリアなんかはこっちの新聞でもよく報道されていますがイタリア政府は中国政府に対して公債の引き受けを依頼したそうで、後で高くつくぞとちょっと私も思ったりしました。
 こうした欧州の債務危機に対して、EUの反応は徐々にですが鈍ってきているようにも感じます。ドイツなんかはこれまであれこれ資金を融通したりしてきましたがそれら政策を主導してきたメルケル首相の支持率は低下しており、私の目にもやはりドイツ国民は徐々にEUに対して距離を置き始めているように見えます。言ってしまえば無理にでも同号を維持するのではなくギリシャなどの国はこの際切り捨ててしまえと言わんばかりで、フランスについてはまだどんなものかはわかりませんが最近は原発事故で大変そうです。

 さすがに一年後に中国みたいにすぐに盛り返すというのは期待のし過ぎですが、三年も経って未だ改善の兆しが見えずむしろ悪化しているというのは憂慮すべきでしょう。じゃあ今後はどうなるかですが、率直に言ってニクソンショック以来の為替制度の大変革が自然と発生するのではないかと考えています。
 現在の為替制度は1ドル当たりいくらかと、アメリカのドルを中心とした体制が戦後ずっと続いてきましたが、アメリカは現在なりふり構わない金融緩和を続けており基軸通貨を持つ責任を完全に放棄しています。今日のニュースによると共和党がFRB(米中央銀行)に対して金融緩和を停止するよう呼びかけたそうですが、身内からも声が上がっていることに対してやや驚きました。

 ではドル体制が崩壊するとはどういう意味かですが、単純に通貨の信用がなくなって現物の価値が上がっていきます。それがどういう意味を指すのかですが、自分も為替関係は苦手で憶測でしか言えませんが、多分貿易量が輸出も輸入も世界全体で減っていくのではと予想しています。もともと私はリーマンショック直後にもグローバル化の時代は終わり世界はブロック経済の方向へ舵を切りだしたと主張していましたが、この流れを決定づけるのがドル体制崩壊じゃないかと見ています。
 ちなみに友人からこのところ、「うちの貿易決済は円建てでしているから、このところ円高を理由に支払いを渋る顧客が多い」という泣き言をよく聞きます。一方で自分は人民元で現在給料をもらっているので、世界のイチローほどではないですけど円価に直すたびにため息が出ます。

2011年9月20日火曜日

産業空洞化懸念に対する一つの意見

 もはや1ドル70円台が定着しつつある日本の円高状況ですが、この円高に伴いメーカーの海外進出は確実に増えてきております。メーカーからしたら日本で物を作るだけでどんどんと損失が増えるような状況ですし、この異常なまでの急激な円高を考えると彼らに対して「出ていかないでつД`)」などとはとても言えません。
 しかしこうしたメーカーの動きに対して主に政界などから、工場が海外に移転していくことで日本国内の技術力の低下、産業の空洞化が広がってしまうのではという意見がこのところ出てきており、なにか優遇策を付けてでも日本に残ってもらうべきではないか検討するべきという声も聞こえます。こうした産業空洞化懸念に対する私の意見は至極その通りだと考えており、これまでのグローバリズム化による空洞化懸念(通称、いくいく詐欺)とは違い、今回の円高は真面目に企業の生き死にもかかっているだけあって何かしら対策を打つことも必要性を感じます。具体例を一個あげちゃうと東レがこれまで日本でしか作ってこなかった強化炭素繊維の工場を顧客も多い韓国にも作るとこの夏に発表しており、東レを責めるつもりは全くありませんがこれにはさすがに冷や汗を垂らしました。

 ただこうして産業空洞化の対策を打つべきと主張する一方、技術や製品によってはこの際に日本は捨ててしまうべきなのではないかと真逆の意見も私は持ち合わせております。極端な意見に聞こえるかもしれませんがこうした「技術の放棄」についてこのところ真剣に考えているので、今日はちょっとその辺について軽く触れます。

 ここで私の言う技術の放棄とは文字通り、特定の技術を完全に捨て去り関連する製品や部品の日本での製造をやめてしまうことです。捨て去るべき特定の技術とは具体的に言うと、「日本国内で製造しても採算の取れない技術」、「今後新技術に取って代わられる可能性が高い技術」のことで、身近な例を挙げると白物家電とかがこれに当てはまります。また後者の例だと、ガソリン車から電気自動車に移り変わる過程でなくなるエンジン、ラジエーター、マフラーなどといった部品の製造技術がそうです。
 何故これらの技術を捨て去るべきだと主張するのかですがこれはごくごく単純な理由で、今だったらまだお金に換えられる可能性があるからです。日本では採算の取れない技術でも中国や他の新興国ではまだ必要とされている技術も多く、多少プライドにも関わりますがどうせ日本では使えないのであればそれらの国々の企業にこの際に売ってしまい、売って得たお金で新技術やまだ採算の取れる技術に注力した方がまだ未来につながるのではないかというわけです。

 またもう一点こうした案を持つ理由を挙げると、団塊世代が大量退職した時期にはよく技術の継承問題が盛んに言われてきましたが、私は技術というものはなんでもかんでも継承するべきでなく、物によっては継承してはならない技術もあると考えています。私がこう思うのも既に何度かこのブログでも書いていますが、以前に親戚から、

「昔に家電メーカーでブラウン管テレビ作っていた連中は今は悲惨だ。ブラウン管テレビ自体がもう日本では作られなくなったし、ほかの方面に技術を転用することもできないから完全に日干し状態だ」

 という話を聞いたことがあり、芸は身を助けるとはいうものの企業内である特定の技術に染まったらなかなかそこから脱却できず、その技術の衰退と命運をともにしてしまう可能性が高いからです。それこそ下手に今後使われなくなる可能性の高い技術の継承をしてしまったらその技術を継承した人間はすぐにお払い箱になってしまうこともありうるわけで、こんなことを言ってろくでなしと言われても仕方ありませんが、死ぬ人間は少ない方がいいに決まっており、死ぬべき技術は継承なんかして犠牲者を増やすべきじゃないと私は考えています。

 このような観点から言って、技術を早めに捨てるという選択肢も今の日本には求められているのではないでしょうか。一つのモデルケースとして私が今現在でよく使っているのは、IBMによるLENOVOへのパソコンハード部門の売却で、この例は他山の石にしてはならないと思います。さらについでに書くとHPも今度ハード部門を売却すると言ってて、台湾のノートPCメーカーらは「サムスンが買わないように」と祈ってます。
 また技術を売るにもタイミングというものがあります。ほっといても新興国でもどんどんと腕を磨いてきますし後になって売ろうと思っても相手してくれなくなることも十分ありうるわけで、将来性がないと判断するのであれば決断を早くし、失敗するかもしれませんが新たな方面へ売却で得たお金を投資する方がまだ生き残る可能性も広がるのではと思います。

 この際だからもうはっきりと書いちゃいますが、液晶について言えば日系メーカーはもう完全に撤退した方がいいでしょう。有機ELならまだ投資する価値がありますが、液晶はこの後はどうあがいても採算は取れず赤字を生むだけです。なんせ韓国、中国メーカーですら手に余るくらいなんだし。
 同様にさっき挙げた一部の自動車部品においても、発展する見込みがなく電気自動車には使われないものだったら捨てるべきかどうかを検討すべきです。一つの技術で死ぬまで食べていける時代ではもうないのです。

 じゃあそうした技術を捨てた後で今度は何に投資するべきなのか。実は一つ、凄い気になっている技術があります。

【TGS 2011】脳波で猫耳を動かそう!neurowearの「necomimi」(インサイド)

 実物を見たわけじゃないですが脳波で猫耳が動くって、何気にこれはとんでもないものなんじゃないかとこのところ注目しております。それこそ萌えにとってはただの一歩だが、人類にとっては大きな一歩っていうくらい。
 いちおう注意書きを書いておきますが私がここで主張する「有望な投資先」というのは猫耳ではなく、脳波感知系です。ガンダム風に言うならサイコミュですが、このニュースが出る以前にも今後自動車にどのようなものを付けたら付加価値が付くのかと考えており、あるとしたらやはり曲がろうと思っただけでウィンカーが自動的につくサイコミュしかないと思っていた矢先でした。

 これ以外のサイコミュの運用先となると、風呂に入ってて湯加減を自動で感知して温度を調節するとか、その日の気分で音量が自動で変わるスピーカーとかせこいものばかり浮かびますが、最大の運用先となるとやはり軍需産業です。それこそガンダムに出てくるファンネルなどといった脳波でコントロールする無人兵器さえ作れたら某米国など一瞬で叩きのめせるわけですし、夢は限りなく広がります。ただファンネルの場合だとハード面はもとよりソフト面も強化が必要で、なんとしてでもギュネイ・ガスを超える強化人間も作る必要があります。

 別にこの記事に限るわけじゃありませんが、前半と後半で語る内容に大きな差を感じます。ひょっとしたら自分は後半部を書くためだけに、わざわざ前半部を用意して引きを作ったんじゃないかと、自分で自分に妙な疑念を抱くくらいだこの記事に関しては。

2011年9月19日月曜日

東條英機に対する私の評価

 太平洋戦争開始時の首相、そしてA級戦犯の代表格ということで有名な東條英機ですが、彼の評価については現代において色々あって分かれており、あくまで私感で述べると昭和の時代までは時局もあったのか否定的な評価が支配的でしたが近年は逆評価のような肯定的な評価のされ方が増えて来ているように思います。そんな東條に対する私の評価をどんなものかというと、先に書いてしまうとこの人は首相、軍人である以前に人としてもどうかと思うほどどうしようもない人物だったと見ています。

東条英機(Wikipedia)

 東條の詳しい来歴などについては省略するので、興味のある方は上記ウィキペディアの記事をご参照ください。まず東條への批判として最も多いのは勝算の見込みが全くないにもかかわらず太平洋戦争を開戦した(参謀本部はシミュレーションだと全部日本の敗戦だったのに、「勝負はやってみるまで分からないよ( ゚∀゚)」と言い切ったらしい)という点が挙がってくるでしょうが、これについては私はあまり気にしていません。何故なら東條一人が旗を振ったから当時にあの戦争に突入したわけでなくそれ以前からの長年の積み重ねと、これは近年になってようやく主張できるようになりましたが軍部だけでなく当時は国民の大半も中国、アメリカとの戦争を望んでいました。それゆえ東條がたとえ存在しなくとも戦争に突入したであろうと私は考え、開戦の責任まで東條に負わせるのは真相を解き明かす上で致命的な躓きになりかねないと考えています。

 ではそんな東條のどこが嫌いなのかといえば、我ながら結構細かいですが一つ一つのエピソードがどれも気違いじみているところに激しい嫌悪感を覚えます。そんな気違いじみたエピソードの代表格は、バーデン=バーデンの密約で、これは大学受験レベルの日本史ではまず出てこないのですが是非とも後世に伝えるために指導するべきだと私一人で主張している史実です。これは1921年に東條を含む欧州に滞在していた陸軍若手官僚同士がドイツのバーデン=バーデンに集まり、陸軍の近代化や後に国家総動員法として後に実施される案をお互い一致団結して目指すということを誓ったという会合で、この時集まったメンバーらは後の統制派、皇道派という戦前陸軍の二大派閥の指導者となっていきます。

 仮にこれだけの内容であればさして気にするほどでもないのですが、この時に示し合わされた議題の一つに当時の陸軍で権勢を振るっていた長州閥の排除も含まれていました。東條自身も自分の父英教が陸大一期を首席で卒業したにもかかわらず大将にまで昇進しなかったのは長州閥でなかったせいだと信じ込んでいた節があり(事実かどうかは不明)、長州閥への憎悪は強かったようです。
 そんなことを誓い合った東條達はどんな方法で長州閥の追い出しにかかったのかというと、なんと自分たちが陸大の入学選抜に関わって長州出身者を徹底的に排除するというやり方を取りました。具体的にどんな方法かウィキペディアの記事によると、入学選抜の口頭試験において長州出身者のみに対し、「貴官は校門から、試験会場まで、何歩で到着した?」、「陸軍大学のトイレに便器はいくつあるのか?」などという全然選抜する上で関係のなく、答えられるはずのない質問をして落としていったそうです。その甲斐あってある年を境に長州出身の陸大入学者は、陸大が廃止されるまで10年以上に渡って現れることがありませんでした。

 このエピソードだけでも十分神経というかいろいろ疑うのですがこれ以外にもこういった人間の小ささをアピールするかのようなエピソードが東條には多く、陸軍内部で人事権を握るや能力如何にかかわらず自分と馬が合うかどうかで人事を決めていき、戦時中もノモンハン事件の辻正信やインパール作戦の牟田口廉也など軍人として致命的なまでに能力が欠けていて実際に大失敗をやらかした人物らに対し、「名誉挽回のチャンスを与えねば」と、どんどんと中央に上げていって戦争指揮を任せています。その一方で陸軍内部で良識派と呼ばれ実際に多大な戦果を挙げた今村均や山下奉文については「仲間」だと判断しなかったせいか、中央に呼び寄せることなく延々と現地司令官のままに据え置きました。石原莞爾に至ってはお互いに犬猿の仲だったこともあり、左遷から予備役にまで追い込んでます。

 このほかにも戦時中に、「竹槍で勝てるものか」と批判記事を書いた毎日新聞の新名丈夫記者(当時37歳)を報復のために硫黄島へ送ろうとしたり、東條内閣退陣を促そうとした逓信省工務局長の松前重義(当時42歳)を二等兵として招集し、こちらは実際に南方に送っています。しかも40代という明らかに徴兵年齢としては高齢過ぎる松前を目立たせないよう、松前に近い年齢の老兵を合わせて数百人も招集するほどの手の入れようだったそうです。
 極めつけが終戦直後で、戦時中に「敵の捕虜になるくらいなら自決しろ!」と言っていたにもかかわらず本人は阿南大将と違ってなかなか自決せず、GHQが逮捕に来た段階に至ってようやく拳銃自殺を図り、案の定未遂に終わっています。この時に東條は腹部を撃っていますが、いろいろ意見が言われているものの普通自決するなら頭を撃つのが自然じゃないかと思いますし、そもそももっと早くに自決してればよかったのではという気がしてなりません。公家出身の近衛文麿ですら当時既に自決してたのに。

 その後は知っての通りに東条は極東国際軍事裁判で裁かれるわけですが、この裁判において東條は戦争責任が昭和天皇に及ばないように自身がスケープゴートになろうと努めたと巷間言われておりますが、私はこの説に対して率直に疑っております。東條自身がスケープゴートたらんという意識を持っていたということに対しては否定しませんが、東條がそう務めたからと言って何かが変わったのかといえば何も変わりはしなかったと思います。こう思う根拠としてアメリカは日本のポツダム宣言受諾以前から対日占領政策を研究しており、その研究の中で天皇制を維持することは占領政策にかなうとはっきりと結論を出しており、天皇への戦争責任は初めから見逃されることが決まっていたからです。
 そのためこういうと実も蓋もないですが、東條=スケープゴート説というのは彼を無理矢理にでも肯定的に評価しようとする人たちに作られた説、もしくは東条とその支援者らが自己満足するために作られた話ではないかと見ています。第一、スケープゴートになろうってんなら初めから自決未遂なんかしてるんじゃないよと言いたいし。少なくとも、東條がいてもいなくても昭和天皇は戦争責任から外されていたであろうことを考えると取り上げる価値もありません。

 最後に東條の靖国合祀について一言を添えると、「死ねと命令した人間」と「死ねと命令された人間」が同じ場所に合祀されるのはやはりおかしな気がします。それもまともな戦争指揮ならともかくインパール作戦をはじめとしたかなり偏った、異常な価値観で決められた戦争だとするとなおさらです。

2011年9月18日日曜日

A級戦犯の選出方法

 極東国際軍事裁判への批判の代表的なものとして、「日本人を支配しやすくするための洗脳の一環だった」というものがありますが、これについては私もほぼその通りだという意見を持っております。ちょっとこのところやる気が落ちてきているのでぱっぱと書きますが、連合国側がこの裁判を通して日本人の意識に刷り込ませたかったであろう内容とは下記の数点に集約されます。

・戦争は軍部、それも東条英機を中心とした陸軍らが国民を煽動して引き起こした。
・日本国民はそうした軍部に間違った情報を流され、騙された被害者だった。
→アメリカは戦争を主導した一部の人間を倒しただけで、日本人全員の敵になったわけじゃない。

 大雑把にするとこんな感じだと思います。何故私がこのように考えると、前回の記事でも書いたようにA級戦犯に指名された人間に明らかに恣意的な要素が働いているからです。

A級戦犯(Wikipedia)

 名目上、A級戦犯に指名された人間らの指名理由は「人道に対する罪」ということになっていますが、現実は「国民を騙して戦争に無理やり駆り立てたというグループ像になってくれそうな連中」というもので選ばれているように私は考えています。作業の手順としてはまずその中心となる人物として、太平洋戦争開戦当初の首相であった東条英機が選ばれ、その東条と距離関係が近かったものから次々と選ばれていきました。
 無論、東条は首相になる前から対米強硬派であったことは間違いなく、日米を開戦に至らしめる上では波を強くさせた一人ではあります。しかし生前に松本清張は、「たとえ東条がいなくとも日米は開戦していた(別の人間が東条の代わりになっただろう)」と言っていたように、東条以外にも陸軍内部には数多くの戦争推進者がおり、仮に東条が処罰されるのであれば同様の理由でもっと大勢の人間が処罰されなければ論理としてはおかしくなります。

 実際にはその他大勢の陸軍関係者らはB、C級戦犯として裁かれることとなるのですが、私が最も腑に落ちないのは満州事変の首謀者といってもいい石原莞爾が東条と仲が悪かったという理由で一切処罰されていないことです。ちょっと専門的な話になりますが、満州事変は政府の承認なしに関東軍が勝手に軍事行動を起こしていることから本来ならば関係者らは厳しく処罰されなければいけないところ、満州地域の大半を占領したことから政府が追認を与えてしまい、その後の陸軍内部では命令がなくとも、また違反しても戦果を作れば許されるという風潮が生まれてしまったようです。このような目から見ると、真に日本を戦争に駆り立てたのは誰なのかという疑問がもたげます。

 またもう一つ極東国際軍事裁判への代表的な批判の一つに、「勝者による敗者への一方的な報復」というものがあります。これについてもおおむね間違いではないのですが、内心ではアメリカは満願を果たせずにいるのではないかと見ています。というのもアメリカが最も報復したかった人物はほかでもなく、真珠湾作戦を実行した山本五十六だったのではないかと思うからです。
 山本は戦時中に戦死しますが、もし仮に終戦まで生きていれば真っ先にA級戦犯として死刑判決を受けていたでしょう。よく真珠湾についてはアメリカは、「宣戦布告なしに奇襲をして日本は卑怯だった」と批判しますが、二次大戦におけるドイツのポーランド進撃をはじめとして近代戦はむしろ宣戦布告のある戦争の方が少ないです。また当のアメリカ自身、アフガニスタン侵攻、イラク戦争においては一切宣戦布告はしておらず、私はアメリカが真珠湾にこだわる理由は宣戦布告のあるなしではなく単純に、予想外の大きな損害だった故のショックからだと思います。

 そんな大ショックを与えた張本人の山本に対しては相当怨念が強かったらしく、戦時中も戦略的価値が低いにもかかわらずアメリカはわざわざ山本の出身地である新潟県長岡市までも空襲を仕掛けております。しかしいざ報復をする段階で当の山本は戦死していたわけで、東条とはあまり関係がないもののわざわざ海軍からは永野修身、嶋田繁太郎、岡敬純の三名がA級戦犯に指名されておりますが、これは山本のとばっちりが回ってきただけだと一説では言われており私もそれを支持します。

 これまでの意見はあくまでこういう仮説があるというものでまだ確定された歴史観ではないものの、仮にそうだとしたら本当にしょうもない理由で決められたんだなという気もしないでもありません。だからといって一部のA級戦犯、特に東条について私は同情するような感情は覚えず、厳しい言い方をすればアメリカに余計なものを始末させてしまったという風にすら思っています。東条の評価についてはまた次回に解説します。

2011年9月15日木曜日

極東国際軍事裁判に対する私の意見

 昨日、一昨日と帰宅が11時過ぎとなり、ブログの更新が出来ませんでした。別に仕事が忙しくて残業しているというわけじゃなく付き合いで遅くなったのですが、さすがに今日はブログ書きたいし三日連続は嫌だからとその付き合いを断ったけど、ありゃ確実に上司から目を付けられただろうな。

 それはさておき比較的高い支持率で今のところ私も文句がない野田新首相ですが、就任当初によく「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」という過去の発言が取り上げられました。この発言前後の話及び具体的な意図がわからないので特にあげつらうつもりはさらさらありませんが、ちょうどいい機会というか前からまとめようと思っていたので、このA級戦犯と極東国際軍事裁判について私が持ちうる知識と評価をまとめようと思います。

極東国際軍事裁判(Wikipedia)

 まずはっきりいうと、この極東国際軍事裁判は論点が多くて非常に整理し辛い内容です。私において言えばある一点では肯定、別の一点では否定と項目ごとにに意見が異なっており、いっしょくたに全肯定や全否定するべきではないとみております。またこれも最初に言っておくと、多分ここで私が書く内容よりも歴史家の半藤一利氏(たまに自分で”半藤的”とシャレたりして面白い)と保坂正康氏の著作の方がわかりやすくよくまとめられているので、興味がある方は両者の著作を読まれることをお勧めします。私の意見も基本的にこの二人に依っていますし。

 それでは早速始めますが、まずこの裁判がアメリカの復讐によるもので公平性は低いという意見については私もまさにその通りだと思います。論拠としてはこれはまた後で詳しく解説しますが、A級戦犯となった被告人たちの選出基準が明らかに恣意的なもので、罪状となった平和に対する罪とは関係なく決められているからです。ではどういう基準で選ばれたのかというと、まず陸軍関係者、それも東条英機に近いかどうかで選ばれ、その後バランスを取るような形で海軍からも開戦当初の責任者ということで3人、でもってついでに外交関係者からもちょちょいのちょいという形で頭数が揃えられています。こう書くと本当に馬鹿みたいですが、真面目な話でこれが実態だったと思います。

 ただこうした背景があったとはいえ、私はこんな裁判を行ったアメリカは卑怯だとか文句を言う気持ちはあまり覚えません。こういうことを書くと怒られるかもしれませんし実際に怒られたとしても何も言い返す気はありませんが、私は二次大戦で日本は負けた国であって、負けた国が勝った国に「平等に扱え」などというのはどこかお門違いな気がします。もちろん平等に扱ってくれればそれに越したことはありませんが、そんなのは所詮理想論で、好き勝手やられたくないのなら負けるような戦争を初めからするべきでないという立場を取ります。
 むしろ二次大戦後のアメリカの日本に対する態度や処置は、冷戦構造のおかげではあるものの一次大戦後のドイツと比べて非常に寛大なものがあり、この点についてはアメリカに対して素直に感謝したいと思います。ただ唯一言うことがあれば、上記のようないい加減な基準で半ば巻き込まれるような形でA級戦犯にされてしまった一部の方には深く同情しますし、アメリカさんにもあんまりこういうこと繰り返しちゃいけないよと言いたいです。

 ではA級戦犯として裁かれた方々は本来無罪とするべきだったのか。これについては私は理想論でいえば「その通り」ですが、現実論としてはやはり何かしら裁かなければ世界、場合によっては日本人は納得することができなかったのではないかと思います。あくまで仮定の話ですが、もし仮に東条英機が天寿を全うしていたら私は一個人としてやはり納得がいかなかったと思います。文民で唯一死刑判決を受けた広田弘毅についてはその逆で、死刑とされたことに納得がいきませんが。
 一番ベストだったのはやはり、日本人自身で戦後に裁判を起こし、一体何が原因で負けるをわかっていた戦争に突き進んでいったのか、誰が亡国の臣だったのかを徹底して究明し、戦時中にかこつけて好き放題やった人間らを相応に処罰するべきだったかと思います。最もこれで当時の世界の人間らが納得するかと言われたら難しいですが。

 案の定というか短い文章ながらかなり時間がかかりました。次回はA級戦犯について詳しくやります。

2011年9月12日月曜日

枝野氏の経産相就任について

 ZAKZAKが今シーズンのプロ野球セリーグについて「あれれ~ヤクルト突然“復活”のワケ…セは再び「1強4弱」」という記事を書いてますが、1強4弱って……。まぁ言いたいことはよくわかるんだけど。

 それでは本題に入りますが、果たして自分が解説する価値があるのか非常に悩む話題です。

経産相後任に枝野氏、正式発表(読売新聞)

 事の発端は全経産大臣の鉢呂氏が失言によって辞任したことからですが、そもそもどうしてあんな発言が飛び出してくるのかまったくもって理解できません。発言を巡ってはいろいろごたごたしているようですが、議員以前に人として神経を疑います。
 それで代わりに登板することとなった枝野氏ですが、恐らくその抜群の知名度から今回就任を打診されたんだと思います。ちょうど程よくフリーだったし。ただ枝野氏の経済方針というか考え方についてはこれまで私はあまり見聞きしたことがなく、現在まだ未知数です。もしかしたら飾り程度の人事になるかもしれませんが、この際失言さえしなければただ座ってる大臣の方がマシじゃないかとすら思えてきました。

 先週末に寝だめし損ねたので、ちょっとやる気が低いです。明日からはまた頑張って、気合入れた歴史記事を書こうと思います。

2011年9月11日日曜日

今日目についた記事

 あまり名指しで批判しても敵を作るだけだし他人は他人で放っておくというのが基本的な私のスタンスなのですが、ちょっと今日に限ってはあまりにも目につく記事を二本連続で見かけたので、差し出がましいようですが批判をさせてもらおうかと思います。

任天堂ピンチ!「3DS」値下げ効果、早くも失速のワケ(SankeiBiz)

 まず気になったのは上記リンク先の記事ですが、記事内容自体は特に悪いというわけじゃないですが1ページ目にある売上比較について、これはほかの記事でもそうでしたが「何故その数字を取り出す?」と思わずにはいられません。具体的なその個所を抜粋すると、

「ゲーム雑誌出版のエンターブレイン(東京都千代田区)によると、3DSが値下げされた直後の8月第2週(8~14日)の国内販売台数は約21万5千台に達した。2月26日の発売初週(約37万1千台)に次ぐ水準で、値下げ前の買い控えがあった8月第1週(1~7日)に比べ約58倍と大幅に増加した。値下げのインパクトが販売台数を大きく押し上げた形だ。」

 上記の文中でどこが気になるのかというと、この記事ではNintendo 3DSが2万5千円から1万5千円へ値下げした直後の週の販売台数を21万5千台と報じて、それがどれくらいの売り上げだったのかを比較する上で二つの数字を引用しております。まず一つ目の数字は3DSが発売した直後の第一周における発売台数の37万1千台ですが、ゲーム機に限らずとも発売直後の初期出荷台数というのはそのまま最大の販売台数になりやすいです。現実に3DSもこの37万1千台という数字が現時点における最高週間販売台数のようですが、値下げ直後の21万5千台はこれに「次ぐ水準」だとして、大きく売り上げを伸ばしたという感じで書かれてます。
 ただ私の目からすると、どう見たって「37万1千台」と「21万5千台」には数字に大きな開きがあるようにしか思えず、いくら初期出荷台数に次ぐ水準だからといっても、一万円もの大幅な値下げによるテコ入れをしたにも関わらずこれしか販売台数が伸びなかったのかという印象をむしろ覚えます。

 この初期出荷台数とともに「値下げのインパクトが販売台数を大きく押し上げた形」という根拠として、この記事では値下げ前の8月第一週に比べ値下げ後は「約58倍」も販売台数が増えたと書かれてあります。これなんか「値下げ前の買い控えがあった」と書いてあるのでもしかしたら上に言われて無理無理入れた根拠なのかもしれませんが、確か今回の3DSの値下げは発表から値下げまでタイムラグがあり、8月第一週の時点ではすでに次週に値下げすることが発表されていたはずです。言うなれば来週値下げされることがわかっててわざわざ高い値段の今週のうちに買う消費者などほとんどいるわけがなく、売り上げがどれだけ伸びたかとする比較対象とするのには如何な数字かと私は思います。それであれば値下げ発表前の週の販売台数を持ってくるのが適当なんじゃないでしょうか。
 任天堂に脅されているのかどうかまではわかりませんが、何故かどこの記事も同じ数字の引用の仕方をしているのを度々見ました。まぁ脅されるにしてもされないにしても、こんな数字の引用の仕方をするのは素人目にも問題があると思う書き方です。

なぜ若者はテレビ離れしているのか、制作会社から見たテレビの現在(Business Media 誠)

 3DSの記事とともに気になったのは上記の記事です。結論を最初に述べるとよくこれで上もOKを出したなと呆れました。
 内容は視聴率低迷に喘ぐ日本のテレビ業界について番組製作会社の人間はどう思っているのかをインタビューし、それをまとめた記事内容なのですが、まず最初に文章が滅茶苦茶長い割にはこれという内容がほとんどありません。しかも普通の記事なら冒頭、もしくは末尾にインタビュー対象者の経歴やプロフィールを書くべきなのに、何故かインタビューの話を解説している最中に急に入れてきてます。恐らく製作会社の雇用状況の話題と合わせて書こうとしたんでしょうが、読んでみればわかるでしょうが完全に流れがぶった切りになってます。もっとも流れがぶった切りといえば全編に渡ってインタビュー対象者の話をちょこっと引用され、それに記事執筆者がどうも本人の視点なのかあれこれ長い文章を付け加えられているのでどうもインタビュー対象者の真意がいまいちわからない、というより読み辛いことこの上ありません。しかもインタビュー対象の話も全然整理して書いているようには思えず、私だったら括弧で直接引用するよりかは前後の文章と合わせて内容だけまとめて書くのですが。

 最後に執筆者、インタビュー対象者二人への批判として個人的な見解を書きますが、インタビュー対象者は日本のテレビ市場は衰退・縮小しているとしてグローバル市場を意識して作品を制作、販売して行かなければならないとこの記事の中では言っているようなのですが、これ見て私はどうして執筆者はそのまま書いちゃってるんだろうなと感じました。というのもこれは何もテレビ業界に限るわけじゃありませんが、そもそもの話として日本で売れない作品がどうして海外では売れるのか、日本で番組が見られなくなっているという話をしている最中にどうしてこんな話題になるのかちょっと信じられません。しかもインタビュー対象者はそうしたグローバル市場の方向性として「海外の俳優を起用して、英語や中国語、スペイン語などで制作する」と言ってますが、本気でそれで売れると思うのと私は問いたいです。せめてそういうセリフはもっと日本で評価される番組を作ってからでも遅くない気がします。執筆者も執筆者で、そういう突っ込みが何故記事中にないのか不思議です。

 ちなみに海外でも売れる番組の例として今挙げるとしたら、一昨年と今年に放映されたTBSドラマの「JIN-仁-」をこのところよく引用してます。この番組は日本国内でもドラマとしては久々の大ヒットでもはやドラマでは(高予算なのに)視聴率は取れないと言われた風潮を一気に打破しただけでなく、海外でも好評だったことから今年放映された第二期は放映前の時点で海外80カ国での放映が決まったというとんでもない快挙を成し遂げています。
 日本では売れないけど海外では売れるというのは一種の幻想だと思います。まぁこれも例を出しちゃうと、トヨタの「カムリ」ってのが稀有な例としてありますが、日本国内で売れないのは多分名前が悪いせいだと思う。

2011年9月10日土曜日

猛兵列伝~藤田信雄

 恐らくこのブログのメインコンテンツの一つである、ちょっとマイナー感のある指揮官を取り上げる「猛将列伝」ですが、このところどうもネタ切れ感が否めません。もちろん有名どころを取り上げればまだまだいくらでも続けられるしマイナーな小話を加えて面白く書く自信もありますが、何となくそこまでして続ける気にはなりません。
 そこで今日は方針転換というか、指揮官ではなく末端のある一兵士を取り上げようと思います。

藤田信雄(Wikipedia)

 この藤田信雄氏は旧日本海軍のパイロットだった方です。この方がどのような人物かというと、歴史上唯一、アメリカ本土への空襲を成功させた人物です。

 事の起こりを話すにあたってまず当時の状況を説明します。日米は1941年の真珠湾攻撃をきっかけに戦争に突入しました。その翌年1942年4月21日、すでに海軍パイロットとして高い実績を作っていた藤田氏は海軍軍令部に呼ばれ、アメリカ本土へ空襲を実行するよう命令を受けます。

 はっきりと因果関係は書いてはいないものの、恐らくこの命令の背景にはこのわずか3日前にあった「ドーリットル空襲」が影響しているように私は思います。ドーリットル空襲について説明すると、当時の日本は太平洋で連戦連勝を重ねていてアメリカ側もさすがにこの時は気分的に沈んだ状態だったようです。そこでアメリカ国内の戦争士気を高めるために印象の強い作戦を実行しようという話となり、太平洋上から爆撃機を飛ばして日本本土を直接空襲するという案が採用されました。
 空襲すると言っても当時制海権は日本側が圧倒的に握っており、一度飛ばした飛行機を回収するまで空母が洋上で待つのはほぼ不可能であったため、最終的には飛び立った爆撃機はそのまま日本を通過し、連合側であった中華民国にて着陸、帰投するという大胆な作戦となりましたが、結果的には前触れもない本土への直接攻撃に当時の日本軍部は大いにうろたえたそうです。

 このドーリットル空襲から3日後、恐らくそれならばと日本からもアメリカ本土を直接攻撃してやろうと軍部は考え、その実行手として藤田氏が選ばれたそうです。ただ空襲するにしても日本本土からアメリカまで言うまでもなくとんでもない距離があり、その間にはアメリカ側も潜水艦などで防衛しているわけですから並大抵のことじゃありません。それ故に藤田氏も生き残る自信がなく、出発前日には遺書を書いたそうです。
 作戦は伊25という潜水艦にEY14という飛行機を折りたたんで収納し、アメリカ本土まで近づいて焼夷弾を落とすというかなり無茶な内容でしたが、8月15日の出発から約一ヶ月後の9月9日、藤田氏らはアメリカの艦船に見つかることなく見事アメリカ本土へ近づくことに成功した上、カリフォルニア州とオレゴン州の境目に森林火災を起こすため焼夷弾を落とすことにも成功しました。その3週間後の9月29日にも藤田氏は出撃し、またも焼夷弾落下に成功して無事潜水艦に帰投、さらには日本への帰路も潜水艦は撃沈されることなく見事に帰還を果たすことができました。

 これだけ難度の高い作戦を実行した藤田氏でしたが、帰ってくるなり軍部からは、「戦果は木を一本折っただけではないか!」と激しく叱責されました。というのも爆撃直前に雨が降っていたことと、空襲が現地のアメリカ人に見つけられていたために、空襲には成功したもののすぐに火は消火されていたようです。とはいえ生きて帰ってこれた藤田氏はその後教官として軍に在籍しつづけ、そのまま終戦を迎えました。

 これで話が終われば戦時中の本当に些細な一エピソードで終わるのですが、1962年のある日、工場勤めをして生活していた藤田氏は突然政府から呼び出しを受けます。呼び出された都内の料亭にはなんと時の首相の池田隼人と官房長官の大平正芳がおり、藤田氏のことをアメリカが捜しているためそのままアメリカへ行くように、またこの件について日本政府は一切関知しないと告げられました。この池田元首相の言葉はいうなれば、アメリカ現地で戦犯として裁かれても日本は一切救いの手を差し伸べないと言っているも同然です。
 この突然の事態に藤田氏も観念し、いざとなった際に自決するために先祖代々受け継がれてきた日本刀を忍ばせアメリカへ向かいました。そして戦々恐々とアメリカの空港へ降り立った藤田氏を待っていたのは、たくさんの歓声と笑顔あふれるアメリカ人達でした。

 というのもアメリカが何故藤田氏を探していたのかというと、藤田氏が空襲したブルッキングズ市のフェスティバルにゲストとして呼びたかったためでした。もちろん現地では大歓迎で、藤田氏も藤田氏で自決用に持ってきた日本刀をそのままブルッキングズ市へ寄贈してしまうほどだったようです。
 しかもあまりの歓迎ぶりに感激した藤田氏はその後、自費でブルッキングズ市の3人の女子学生を日本に招き、またブルッキングズ市へもその後何度も足を運んで自らが空襲した場所に植林をするなど交流を続けました。1995年には84歳という高齢ながらも、当時の市長らをセスナ機に載せて自分が空襲した航路をなぞるという荒技まで披露しております。

 その後1997年に藤田氏は永眠されますが、死の直前にはブルッキングズ市の名誉市民の認定を受けました。藤田氏がここまで現地に受け入れられた背景には空襲をしたものの死傷者が誰一人いなかったというのが何よりも大きいでしょうが、それにしたってアメリカ人の戦後はノーサイドともいうべきこのフレンドリーさには頭が下がります。また好意的な解釈をするならば、戦時中に行きも帰りも非常に困難な航路だったにもかかわらず幸運にも日本への帰国を果たせたのは、戦後に交流を長くに続けた藤田氏という人物を生かせようとした天の配慮によるものだったのかもしれません。

 それにしても「日本政府は一切関知しない」と言った池田元首相ですが、恐らくアメリカが捜している背景を本当に知らなかったんだと思うけど、結果的には国家ぐるみで藤田氏をサプライズパーティにかけただけじゃないかと思わずにはいられません。ここまで脅かすことなかったのに……。

2011年9月7日水曜日

天下統一後にしなきゃいけないこと

 古代史ネタはほぼもう書き終えたので、またいつも通りというか変な歴史ネタです。
 さて天下統一と言えば立派な大事業ですが、主導権を握ったもののその後は権威を保てず勢力を失うというケースは古今東西地域を問わずに数多くあります。ちなみに私の曾祖母の実家は鹿児島県菱刈というところですが、なんでもここは平家の落人の里ということで自分は平家出身だったようです。

 その平家を筆頭に基本的に、建武政権、豊臣政権は一時天下を握ったもののすぐに没落し、所変わって中国に至ると三国志の魏を筆頭として本当に出来た途端にすぐ潰れる政権がたくさんあります。これら政権の特徴、というより逆に長く維持した政権との違いはどこにあるのかと問われるならば、私が答えるとしたら自軍における武装勢力の駆逐ではないかと考えております。

 自軍における武装勢力の駆逐ですが、これを日本史上最もえげつなく実行したのはほかでもない明治政府です。知ってる人には有名な話ですが明治維新後に真っ先に反乱を起こしたのは旧幕府勢力ではなく実は長州藩の奇兵隊出身者らで、明治政府は維新に成功するやその武力闘争における原動力となった武士勢力を敵味方問わず猛烈に切り崩しを図っております。廃刀令に始まり版籍奉還、終いには廃藩置県とその手のひら返しは徹底していましたが、その甲斐あってか明治十一年の西南戦争を最後に革命後の武装反乱は完全に終結させることに成功しています。
 また明治維新以外にも徳川幕府における統治でも、関ヶ原の合戦以降は本田忠勝を筆頭として譜代における武闘派の面々を閑職に追いやり、大坂の陣以降は外様大名を徹底して締め付けて武士の兵士からサラリーマン化を推し進めていきました。もっとも江戸時代初期はやりすぎちゃって、浪人が大量にあぶれて治安が悪化した面もありましたが。

 上記のように政権を握った後に自らの武装勢力を削った政権というのは比較的長生きする傾向があるのですが、その逆のパターンとして日本においては室町幕府が好例です。室町幕府は三代目の足利義満の時代にようやく天下統一を成し遂げ、彼の時代においては直属の近衛兵が組織されたり山名氏をはじめとした各地の元味方だった大名を次々と討伐したのですが、義満の死後はまた大名同士の合議制に戻っていきます。その結果起きたのは将軍家を凌ぐほど大名家の力が増し、最終的には応仁の乱という形で暴発したことで完全に権威をなくすこととなりました。室町幕府は見かけ上はそこそこ長く続いてはいますが、幕府として機能したのは実質、三代目義満から六代目義教の時代まででしょう。

 では中国の場合はどうかですが、ある意味最も武装勢力の切り崩しに成功したのは前漢の創始者である劉邦で、彼は天下を取るや項羽率いる楚との戦争で最も活躍したトップ3こと、韓信、英布、彭越の三人を討伐、もしくは暗殺しています。その代り皇室縁者こと呂皇后の一族がやけに権力握っちゃって劉邦の死後は一時ドタバタしたものの、幸いにも陳平らが生き残っていたことでこの難局を乗り切り400年にも及ぶ政権となりました。
 この前漢同様に十世紀に成立した宋では、建国者である趙匡胤は元々軍人だったにもかかわらず、自分が皇帝になって以降はこちらも敵味方問わず軍閥の勢力をどんどんと削ぎながら文人官僚をどんどん登用していきました。まぁこちらもオチを言っちゃうと、そこそこ政権としては長く続いたもののあまりにも軍人が弱くなって異民族勢力にやられることとなるわけですが。

 このように天下を取るためには必要だった武力というのは統一後にはかえって不安定化させる要因となりやすく、成功した政権というのはどこかしらでこれら勢力の漸減を図っています。話は現代に戻しても戦時ならまだしも平和時には軍隊は金がかかるだけで、冷戦後はどこの国でも多大な軍事費を削るために軍隊規模を縮小していますし、毎年二桁%で軍事費が伸びている中国においても恐らく共産党幹部らは本音では縮小したいように見えます。そういう意味ではマッカーサーが残した、「老兵は死なず、ただ去るのみ」というのは、本来の意味とは違いますがなかなか的を得ているなという気がします。

2011年9月6日火曜日

いじめに関する統計データ

 ふと思うところがあったので、昨日は記事書くのをやめて下記サイトでいじめの統計データを眺めていました。

政府統計の総合窓口

 調べる前までこういうデータというものは本当にあるのかと内心疑っていましたが、意外とかゆいところに手が届くような感じで項目数も多く、比較的扱いやすいデータでした。ただ懸念がまったっくないというわけじゃなく、これは以前に統計関係の記事を書いた際にコメントしてくれた方がいましたがいじめの件数というものは得てして学校側が過少に報告するきらいがあり、鵜呑みにできないところがあります。その点を踏まえ、データを見ていくつか感じた点を教派紹介します。

1、都道府県別のいじめ発生率
 これはもう上位、下位のトップ10を直接書いてしまいますが、前述の通りにあまり当てにならないデータです。なおこの順位は直接の件数ではなく、児童生徒数に対する発生件数の割合です。

<いじめ発生率の高い県>
 1位 熊本
 2位 大分
 3位 岐阜
 4位 福井
 5位 石川
 6位 愛知
 7位 長崎
 8位 静岡
 9位 千葉
10位 富山

<いじめ発生率の低い県>
47位 和歌山
46位 佐賀
45位 福岡
45位 福島
43位 鳥取
41位 群馬
41位 宮崎
40位 滋賀
38位 三重
38位 沖縄

 ざっとこんなもんですが、むしろいじめ発生率の高い県はきちんといじめ件数をカウントしているだけあって良心的な地域なのではないかと思います。その根拠として直接的ではないものの、いじめと相関しやすいであろう「小中学校の不登校発生率」と比較すると、最もいじめ発生率が高い熊本県は41位と非常に低く、逆に神奈川県はいじめ発生率が24位であるものの不登校発生率は1位でした。カウントのしやすさから言うと圧倒的に不登校率の方なので、むしろこっちの方で地域差を測るのが適当かもしれません。

2、いじめが発生しやすい年齢
 これは認知件数とかはあまり影響しないのでデータをそのまま信じていいのですが、結論から言うといじめの発生件数が最も高くなる年代は中学一年次でした。細かい数字は書きませんが小学校一年時から発生件数は年齢の上昇に比例して上がり小学六年次で約8600件となるのですが、中学一年次はなんとその約二倍の約17000件となります。ただそれ以降は減少していき中学二年次で約13000件、中学三年次で約6200件と、恐らく受験勉強などが影響してか急速に収束します。
 このデータをどう読み解くかですが、単純に中学校で最もいじめが発生しやすく、この年代に対して重点的な対策を取ることが最も求められているのではないかと思います。

3、いじめの男女差
 これは特段取り上げる必要もないのですが各年代ごとの比較を見るとどの年代でも男子の方が女子より頭一個分発生件数が多く、男子の方がいじめを起こしやすいようです。現実問題としては男子のいじめには暴力が伴いやすいことから、女子に対してもそうですがこちらでも対策を注力する必要があるでしょう。

4、いじめの様態
 これもデータの捻じ曲がりが発生しやすい内容なのであまり使えないかなとも思ったのですがちょっとだけ面白いと思ったもので、学校運営別の比較では発生件数から何から何まで基本的に公立校が私立、国立を圧倒的な差で上回っているのですが、いじめの様態で「パソコンや携帯電話等で、誹謗中傷や嫌なことをされる。」に限り、公立中学校が7.3%であるのに対し、私立が15.1%、国立が17.9%と割合で上回っております。変に頭が回るってことかな。

 なんか今日はそれほどやる気がないのでこの辺で終えてしまいますが、もう少しこれらの統計データを利用してもっといじめ対策を煮詰めるべきだと強く思います。具体的にはからかいや嘲笑といった軽度のいじめと、暴力やカツアゲを伴う重度のいじめをはっきり分け、それぞれが発生した際にどのような対策や指導が効果的なのかをもっと比較し、共通認識を作るべきです。今回調べた限りですと中学三年次に急激に発生件数が減っていることから暇な時間を持て余すほどいじめが多くなるのではないかと思え、変な話ですがいじめる生徒にはそういう時間が持てないように課題なり部活なりボランティア活動なりを強制して行わせてみてはという案が浮かびました。

2011年9月4日日曜日

日本人の習性

 最近なんだかリストっぽい記事が続いていますが、昨日に引き続き今日は国際的に見て日本人の習性と思う部分をいくつか挙げようと思います。それにしても先程面倒だから持ち帰った内容の記事を書き上げましたが、毎日記事書いておきながらこんだけブログ更新する人ってほかにいるのかという気がたまにします。確かに商社勤務(去年まで)だった頃は頃で文章を書きたい執筆意欲というのが今より強かった気もするけど。

1、清潔好き
 日本国内にいる日本人はあまり気にしませんが、日本人というのは国際的に見て明らかに異常なほどきれい好きです。浪費のたとえとして「湯水の如く」という言葉がありますが、それだけ身を洗う水が豊富だったことが影響しているかもしれません。
 それでどの程度日本人が綺麗好きかですが、七月に日本に帰った際に私が最初に思ったのは、「うわ、全く匂いがしない」ってことでした。中国に限らず以前に行ったことのあるイギリスでも外国ではどこでも食べ物やらほこりなどいろいろな匂いがするのですが、日本に至ってはどこに行こうが完全に無味無臭。しかも確か十年くらい前には口臭スプレーについて口臭までいちいち気にしなければいけないのかという論評を見た覚えがありますが、今に至っては口臭なんて完全NGでないのが一般マナーになっているような気がします。

2、首振り
 これは中国人の友人に指摘してもらって私も初めて気が付いたのですが、日本人は外国人、ひいては同じアジア人の中でも圧倒的に首を振るジェスチャーが多いです。具体的には肯定時の頷きと否定時の横振りですが、意外や意外に外国人はこのようなジェスチャーを多少はするものの日本人ほど明確にかつ頻繁にすることはなく、中国で日本人を見分ける際には首の動作を見ればそれなりに見分けられます。
 私が思うに欧米人は腕など上半身全体をつかったジェスチャーを多用するのに対し、日本人はお辞儀の習慣からか挨拶から頷き、お礼などの表現の際には必ず首が縦に動きます。韓国人はわかりませんが中国人は意外とこの手のジェスチャーが薄く、ちょっとしたことでよく怒鳴り合ったりすることが多いですが、友人曰く上海人は口だけで殴り合ったりすることは少ないそうです。中国東北部の人は逆らしいけど。

3、他人の判断が正しいという前提
 我ながら極論を言うもんだという気がしますが、日本人は自分で考えた判断内容より他人の判断内容、ひいては合議での結果をやや無条件で正しいと考えるところが過分に多い気がします。私はというと前に書いた「自分の判断への信頼性」の記事で言っているように逆に自分の判断は基本的に他人より優れているという逆の前提がありますが、私が一番わからないのはそれぞれの案やら判断内容に対して理屈なり原理なりを一切考慮せずに「正しいだろう」と推定する人たちです。そりゃ自分が経験や知識がないとわかった上での判断なら何も言いませんが、もう少し正しいと思うことは主張すべきだという気がします。

4、人の言うこと聞いてる振りして勝手な自己アレンジを加える
 これは習性というよりかは文化ですが、よく日本人は他国の文化やら技術を学ぶとそのまんまコピーすることは少なく、ほぼ必ず日本に合わせたアレンジなり改良を加えてしまうことが明らかに多い気がします。具体例を挙げてくと中国から漢字を学ぶと勝手にひらがなやカタカナを作り、インド人からカレーを習うと向こうでは食べることが遠慮されている牛とか豚と一緒に煮込んだりなどと。これなんか自分は最近になっていろいろ感じるようになってきましたが、もしかしたら日本はアメリカがまだ民用化する前の最先端の軍事技術などを利用していろいろ製品作って、それがアメリカ側からすると気に入らなかったんじゃないかと思います。まだ裏とかとってませんが形状記憶合金というのはヘリコプターに使われる軍事技術だったのを、日本人がブラジャーとかに最初に使いだしたという話を聞いたことがあります。

5、相手が逆らえないとわかるや途端に狂暴になる
 これは何度もこれまでの記事でも書いてて繰り返しになりますが、日本人は外国人と比して基本的には大人しく温和な性格ではあるものの、相手が自分に逆らえない、反抗出来ないとわかった際の狂暴性は異常と言っていいほどのものがあります。具体的には明らかに海外より多い駅員らへの暴力や精神病者を多数輩出するカスタマーセンターへのクレームなどがありますが、最近思うのは学校や職場でのいじめももしかしたらここからきているのではないかと見ています。
 一体いつから日本人はこの習性を持つようになったかですが、前にも書いた朱子学の上意下達が影響とか戦前の陸軍教育などいろいろ意見はあるものの、私の中、というよりは私のゴーストに囁かせるならどの意見も腑に落ちず、結局的にはそれらの教育的要素よりずっと以前の日本人の習性が影響しているのではないかというのが一番納得できます。ちなみに他国のいじめについては昔に外国人らが出演した番組で、日本ほどの陰湿さは持たないという意見が多かったです。唯一、韓国においては多少はあるものの、学校現場ではまだ教師の権威が強くて日本ほど発展はしないそうですが、軍隊内では先日も銃乱射事件が起きるなど根強いと聞きます。この辺を比較したらなんか出てくるような気がしますけど、詳細は次回記事に回します。

2011年9月3日土曜日

日本プロ野球、魔球の射手たち

 野球漫画ときたら魔球、と言われるくらいに野球における変化球というものはいろんな意味で人の注目を浴びます。まぁそういっておきながら自分が一番好きな野球漫画は魔球とか一切出ない、ちばあきお氏の「キャプテン」なんだけど。
 前からやろうやろうと思ってなかなか実現できずにいた企画ですが今日はその変化球に絞り、拙い私の知識ながらも現実のプロ野球選手の中でひときわ記憶に残る「魔球」と呼ばれるような変化球を投げていた投手とその球種を紹介しようかと思います。

1、伊藤智仁(スライダー)
 一番に持ってこないと怒る友人がいるので早速持ってきましたが、元ヤクルトの伊藤智仁選手とくればなんといってもスライダーです。生憎中国だとYoutubeがつなげられないのでもってこれませんが、実際に現役時の伊藤選手のスライダーを見てもらえばわかりますが、明らかに物理学の法則を無視した軌道で、バッターの目の前で真横に曲がっているようにしか見えません。もっともこんなとんでもないスライダーを投げられたのはもともと伊藤選手の方がルーズショルダーという、脱臼しやすい特殊な体つきをしていたからだそうで、そのせいか現役時代が短かったのは残念な限りです。

2、佐々木主浩野茂英雄(フォーク)
 現在でもアメリカでは普通に魔球として取り扱われるフォークボールですが、その使い手と言ったらなんといっても大魔神・佐々木選手とパイオニア・野茂選手の二人が自分の中で挙がってきます。二人とも日米球界で活躍したのはもとより、バッターからすると「目の前ですとんと落ちるため視界から消える」と言わせるほどの落差の大きいフォークボールを決め球として持っていましたが、それ以上に特徴的と言えるのはそのフォークを生かす速球の威力でしょう。二人とも全盛期の最高球速は時速150キロを超えており、それ故にバッターもフォークに対応できなかったと言われています。
 なおフォークボールの神様と呼ばれる杉下茂氏によると、現在のフォークボールはSFF(スプリット・フィンガー・ファストボール)などといった亜流が多く、本物のフォークを投げたのは自身と村山実選手、村田兆治選手、野茂選手、佐々木選手の5人を挙げています。それにしても日本は変化球にも神様がいるあたり、バラエティが本当に豊富な気がする。

3、藤川球児(ストレート)
 現在私が最も好きな選手の一人ですが、実際に野球選手になれたからよかったものの親にこんな名前を付けられると相当なプレッシャーものです。
 変化球と言っておきながらですが、藤川選手の投げる直球ことストレートもよく魔球として取り扱われます。藤川選手については何度もこのブログで取り上げていて誰も覚えていないでしょうが繰り返しになってしまいますが、私が2005年のシーズンで藤川選手の投球を見た際は文字通り目を疑いました。これも実際の動画を確かめてみればわかりますがどのバッターも藤川選手のストレートを空振りする際はいつもボール二、三個分下を振りぬくのですが、対戦したバッターによると「ボールが浮き上がってくるように見える」そうで、実際にテレビ画面で見ていてもボールの軌道が浮いているように見えます。それ故に私は当初、直球に近いシュートという変化球を投げたのではないかと思い、テレビでストレートと表示されても最初は疑ったほどでした。

4、潮崎哲也(シンカー)
 シンカー(スクリュー)という球は手首を捻じるようにして投げるため、ダルビッシュ選手ですら封印したほど肘などを故障させてしまいやすい球種です。ただ潮崎選手のようなサイドスローやオーバースローでは腕の振りと合わせて投げやすいそうで、それ故に現在のプロ選手でもオーバースロー以外の投手が投げることが多いように思います。
 そんな潮崎選手のシンカーですが、1番の伊藤選手同様にどこかで物理学を無視したような動きをしてました。当時のバッターからも来るのがわかっていても打てないと言われたほど変化する軌道が大きかったことはもとより、バッターから見て最初右に変化したかと思ったら急激に左下へ落ちてくるというタイミングの合わせ辛い球だったそうです。ゲーム中で私も潮崎選手と対戦しましたが、確かに相手していて「反則だろっ」って言いたくなる変化球でした。

5、ジェフ・ウィリアムス(スライダー)
 阪神ファンからするとバースと並び記憶に残る外人選手のウィリアムス選手ですが、いろんな意味で私の中のサイドスロー投手の常識を打ち破った選手でもあります。というのも私の中でサイド、アンダースローの選手というのはどこか非力な感じがして速球はそれほど速くないという印象があったのですが、このウィリアムス選手に至ってはサイドスローながら速球が時速150キロを超えるなどパワフルな投球をしており、それに加えて文字通り左から差し込むスライダーの凄さには目を見張りました。
 ウィリアムス選手は左利きなので左手からボールを投げるのですが、サイドスローゆえにほかの投手と比べてリリースポイントが大きく左にずれており、そこから放たれるスライダーというのは横一文字に大きく変化するのが特徴でした。ただ球が早い、投げるポイントがずれているとかいうのではなくともかく大きく変化するのが特徴で、なんでも空振りした右バッターに投げたスライダーボールがそのままぶつかるといったことが何度かあったそうです。現在ヤクルトの久古健太郎選手もサイドスローでスライダーを武器にしていますが、案外こういった投球方法は定着してくるかもしれません。

6、星野伸之今中慎二(スローカーブ)
 変化量が大きい変化球といったらこの二人を忘れるわけには行かないでしょう。両選手ともおおよそ野球選手にとしては似つかわしくないほど細身の長身選手で、ルックスと相まって現役当時は女性ファンなども多かったと聞きます。そんな二人ですが今中選手はまだ最高球速が時速145キロに達したものの、星野選手に至っては130キロ前後が限界というほど他の一般の投手と比べて非力さをあちこちから指摘されていました。しかし両者ともそれを補って余りある投球術に加え、時速100キロを切るとんでもなく遅いスローカーブを武器に、奇しくも同時期に長きに渡って活躍しておりました。
 これも当時に対戦したバッターらの証言ですが、左バッターからすると両者(どちらも左利き)が投げるスローカーブは大きく変化するために背中から入ってくるため、通常の構えからすると完全に一時視界から消えるそうです。しかもそんな遅い球を投げられた後だと速球との球速の落差に目が慣れず、それほど速い球でもない割に空振りを失してしまうことが多かったようです。
 それにしても星野選手の球速の遅さは色々とエピソードが多く、奥さんからは「私でも打てる」と言われ、完封勝利後に相手チームの西武の選手らから、「今日の星野は一段と遅い」、「ボールが止まって見えた」などと言われたそうです。個人的にはすごい好きな選手ですが。

7、渡辺俊介(シンカー)
 通称「地上3cmの男」ことマリーンズの渡辺選手は恐らく史上最も低い位置から投げつけるアンダースローという特殊な投球フォームばかりが取り上げられますが、何気にもっとすごいんじゃないかと思うのがシンカーボールです。というのも先ほどにも書きましたがシンカーというのは手首を捻じって投げることからサイド・アンダースローと相性がいいのですが、渡辺選手のシンカーはその特徴的な下手投げというフォームから捻じって投げる投げ方ゆえに、ドリルの回転と同じジャイロ回転をしていると言われています。これがどのような意味を持つのかというと、なんでも一説には渡辺選手のシンカーは自身のストレートボールより球速が早いそうです。原理はジャイロ回転をしているゆえに空気抵抗が低いとのことで、それ故に「高速シンカー」という名前が冠されています。まぁそれ以上に、そもそも渡辺選手のストレートの球速が130キロ台と低いのが大きいですが。

 ただこの渡辺選手についてもう少し付け加えると、先の星野選手、今中選手同様に体格に恵まれず中学、高校と二番手以下の投手に甘んじていたそうです。そこでどうすればいいかということで父親と、唯一の取り柄でこれだけなら誰にも負けたことのなかった体の柔らかさを生かして「アンダースローになるしかない」という結論から今のフォームに至ったそうです。その後大学野球時代もあまり注目されませんでしたが、投げていた試合を見に来ていた社会人野球の新日鉄君津の監督の目に留まったことからチームにスカウトされたそうですが、本人の著書によると当時の大学の監督は、「いやいや、今日たまたまあいつは調子が良いだけでやめておいた方がいいですよ(;´Д`)」と止めたらしいです。ひどいよ監督。
 しかしそうしたやや日陰者の経歴ながら現在では球界を代表する投手となり、ひいては彼の影響からアンダースローに挑戦する中学、高校野球選手も増えてきているといい、人生譚として渡辺選手の「長所にかける」生き方には強い共感と尊敬を覚えます。同様の選手では元阪神の赤星選手がいますが、一試合一試合のプレイとともにこうした選手らのバックグラウンドを知ることでよりスポーツが楽しめるのではないかと思い、こうしてまとめてみました。

2011年9月1日木曜日

野田新首相に対する中国紙の反応

 昨日はなんだかやけに眠くて十時半に床についたら、今日はなんだか躁気味にテンションが高かったです。こんなところで病気自慢をしてもしょうがないですがてんかん症患者は信長やナポレオンを筆頭として感情の上下が激しいとよく聞きますが、私に限って言えばあながち間違いじゃないように思います。それにしても最近になって、年寄り同士が顔を合わせると自分の病気の話から始めるというのがだんだんわかってきました。

 そうした無駄話は置いといて今日の本題ですが、日本での野田新首相誕生に合わせてこちらの中国現地紙でも各紙が一面で取り扱うなど、非常に大きく注目されています。その中でいくつか私が読んだ新聞ではまず今回の総裁選の結果をそのまま「意外」と書いてありましたが、これは恐らくその新聞に限らず中国全土のメディア、果てには日本メディアを含めて同じような感想を持ったことでしょう。
 というのも総裁選前は中国紙も小沢派肝煎りの海江田氏(中国語が得意らしい)と前原氏ばかり取り上げており、特に前原氏については外務大臣時代に中国ともいろいろやりあったことから首相として望ましくないというような論調が多かったです。もっとも私としては小泉時代ですら日中はそれなりにやってこれたんだから、前原氏が首相になったところで日中関係に影響はないとみておりましたが。

 そうした経緯はさることながら今回就任した野田首相については早くも、「歴史認識が肝心」と釘を刺すのも忘れてませんでした。恐らくこれは野田氏がかつてA級戦犯は犯罪者ではないと日本でもあちこちで報じられている過去の発言を得たものとも見ることができますが、そもそもの話として日本政府が中国と関わることと言ったら歴史問題以外はないと言っても過言ではなく、またまた引っ張り出しますが政冷経熱と言われた小泉時代ですら日中の貿易量は増えていったのだし、ほかに書くことがなかったのが現実でしょう。
 ただこれ以外に割といい点を突いているなと思ったところで、「財政立て直しを図るのか震災復興を優先するのか、難しい選択が迫られる」という論評がつけられていました。これについては前に書いた記事で私も書きましたが、野田氏は増税をはっきりと口にするなど根っからの財政健全派です。しかし先の東日本大震災での復興活動を行うに当たって大幅な財政支出は避けることは出来ず、この相反する課題に対してどう取り組むのかが今後の試金石となるでしょう。

 ついでなのでほかの政治系話題についても書いてしまいますがなんでも今回の総裁選の最中にこちらも立候補した鹿野氏は、決選投票前に海江田氏を支持するか野田氏を支持するのかをスーツを脱ぐことで自派閥に伝えたそうですが、ここはひとつ鹿野氏を見習って自分もこれから会議のたびにむやみやたらにスーツを脱ごうかなと画策してます。それにしても高校野球のサインじゃないんだからと思う一方、こういう古典的な方法を見るとなんか安心してしまう自分もいます。

 あと有力候補とみられながら落選した件の前原氏ですが、また今日も外国人献金が明るみになってとうとう合計金額が百万円を突破したそうです。一回目にまとめてわかるならまだしもその後きちんと調査していなかったのかただただ呆れるばかりですが、ここまでの迂闊ぶりを見ると本当にこの人は今回の総選挙で落選してよかったと一国民として思います。日本で既に誰か言っている人がいるかもしれませんしキツイ言葉だということは承知の上ですが、永田元議員はメール問題の際に自ら議員辞職しました。

2011年8月30日火曜日

情報媒体別の信頼性

 このところ自分も元気がないのか記事を一日に二本更新することがほとんどなくなりました。まぁその原因は元気がないんじゃなくて、「モンスターハンターP2G」と「太閤立志伝5」というゲームのせいなんですが、後者は今、敦賀でOLしてたけどある日脱サラして甲賀の里で忍者になったという設定のくのいちでプレイしていますが、上役からの仕事指示で茶道を教わりに通っている千利休から何度も茶碗を盗んだりしていていろいろと胸が痛みます。終いには悪名が高まり過ぎて、柳生宗厳に突然襲われたりするし……。

 そうした雑談は置いといて今日の本題ですが、昨日総裁選に勝利した野田氏は本日晴れて衆参の決議を経て首相に就任し、これからは野田首相と呼べるようになりました。さすがに昨日の今日ということで組閣にまではまだ至ってはいませんが、党内人事には小沢派、非小沢派からそこそこ信頼が持たれている輿石氏を幹事長に迎えるなど、当初の発言通りに党内融和を図った人事を進めているようです。
 実はこの輿石氏の幹事長就任ですが本日昼ごろにNHKが、「輿石氏、就任に難色」という報道をしていました。にもかかわらず夕方には輿石氏は承諾し、NHKも七時台のニュースで昼間の報道には全く触れずに就任報道をしていました。

 まぁいくら報道機関だからと言ってなんでもかんでも正しく報道できるわけじゃないし、時にはしくじることもあるでしょうからあまり気にするわけじゃないですが、タイミングがいいというかこういった勢い余ってしまったような飛ばし報道について、池上彰氏が日経新聞に対して言及する記事をたまたま読む機会がありました。

池上彰氏が日経報道姿勢に「苦言」 「日立・三菱重工統合」続報なぜ出ない(JCASTニュース)

 件の記事は上のものですが、確か今月初め頃にあった「日立、三菱重工が経営統合」という記事を日系が出したもののその後うんともすんとも続報を出さないでいる日経(ちなみに対象の企業側は報道を否定)に対して池上氏が苦言を呈したそうなのですが、元々日経には以前からこういう飛ばし報道をする癖があると指摘されており、キリンとサントリー合併報道でもほかのメディアが「そりゃないよ」としている中で日経だけは「合意間近」と主張し続けておりました。それ故に「日経は経済面以外はいい」とまで言われる所以なのですが、大新聞や大メディアであっても一見して怪しい情報はやはり怪しい情報として終わるという例によく使わせてもらっております。

 ここで話は変わりますが自分以上に反権力の塊みたいなある友人はやはりその思想上から記者クラブで囲い込みする大メディアをとことん嫌い、情報入手先として週刊誌をよく頼り、週刊現代とビッグコミックについてなら何でも来いというのが一人います。もちろんその友人は出来がいいために週刊誌から怪しい情報は拾わずに地味に面白い情報だけをきちんと選び取ってきて末恐ろしいのですが、私も確かに大メディアは嫌うものの、週刊誌はやはりメインソースには出来ないと考えています。
 というのも昔にリアルタイムで取り上げた週刊新潮の偽赤報隊事件犯人の記事などのように時たま大真面目に平気で大ウソをこくところがあり、「所詮は週刊誌」というスタンスで取り扱わなければ変なところで痛い目に遭うと感じるからです。だからと言って週刊誌など雑誌メディアに価値がないというわけじゃなく、現在取りざたされている島田伸介氏の引退を巡る騒動については明らかに大メディアは引いて報道する中で今年四月の段階からかなり踏み込んで報道するなど、大メディアの弱い部分については一程度の信頼は置けますし情報ソースとして重宝します。ちなみに2007年くらいに確か文芸春秋は当時の中田カウス氏の報道と合わせて、サイドビジネスに執心し過ぎるとして島田氏のことを取り上げていたような気がします。先見の明があるというかなんというか。

 こうした既存メディアに対し、近年新たに出てきたメディアとしてはこうしたブログに代表されるネットメディアです。インターネット新聞については一時は一気に広がると言われながらもやはり採算を取れるところは少なく未だにごく少数でしか運営されていませんが、基本的に私はネット発の情報は初めの段階では全く信頼しません。以前にも誰かが妙なコメントをしてきた際に取り上げましたが一部のネットメディアは本当に愚にもつかない情報を最低限の確認もせずに載せたりすることがあり、しかもアクセス数を稼ぐためなのかかなり刺激性で過激性に偏ったことを書いたりします。
 個人的には今後ネットメディアもこうした情報の確証性などを組合かなんか作って高めていき、他の既存メディアと並ぶような存在になってほしいとは思うものの、現状ではまだそこまで望むべくもありません。まぁどれか一つのメディアに偏るのではなく、状況に応じて使い分けるというのが一番ベストであることに変わりはないですが。

2011年8月29日月曜日

野田氏の民主党総裁就任について

 このところ政治系記事から遠ざかっておりましたが、久々に大きく取り上げるニュースが入ってきました。
 すでにあちこちで報じられていると思うのでリンクは貼りませんが、本日行われた管首相の後継を巡る民主党代表選挙の結果、現財務大臣の野田佳彦氏が当選しました。与党民主党の代表ということで事実上次の総理就任が確実ですが、私の感想はというと意外な結果でした。

 今回の民主党代表選挙ですが、私の予想では第一回目の投票では小沢派が推す海江田現経産大臣が一位になるも過半数は獲得できず決選投票となり、その決選投票を経て前原氏が勝つんじゃないかと思っていたのですが、ふたを開けてみると一回目の投票で二位となったのは野田氏で、二回目の投票でも海江田氏を破っての当選となりました。前の記事で「小沢派は言われているほど影響力はない」と書いてしまってたのもあり、海江田氏が落ちて実はホッとしました。

 それで当選して次の首相になる野田氏についてですが、正直なところこの人の持つ政策案や人物は未知数なところが多いです。最近日本の情報から遠ざかっているのもありますが、私が唯一といって野田氏について知っていることはその財政方針が増税・健全化派だということです。
 かねてから野田氏は与謝野氏同様に財政健全化のためには増税が必要だと主張しており、なんかあっちこっちでもう書かれていますが一日二箱を消費する程のヘビースモーカーにもかかわらずたばこ税増税を自ら手掛けています。私も与謝野氏、野田氏同様に増税やむなし、下手すりゃ震災だからと言い訳せずに果断に実施すべしというくらいの立場であることから、この点については野田氏に対して好感が持てます。

 またこのほか今日になって焦って経歴とかも調べましたが、現在の管首相同様に野田氏も二世議員ではなく完全な叩き上げの議員であることも期待感が得られます。管首相もたたき上げであることからこれまでの二世議員と違って、辞任発言をしたにもかかわらずなかなかやめようとしないなど余計なくらいにタフでありましたが、近年の日本の政治的混乱は安倍首相に始まるすぐに交代する首相職が大きな原因であることから、是非とも野田氏も生半可な批判程度には負けずに任期を全うしてもらいたいものです。

 なんかつぎはぎだらけの文章が続いていますがもう一つ野田氏を持ち上げるエピソードを挙げるとすると、ちょっと時期は忘れましたが円が急騰を見せた際に記者からコメントを求められ、「状況を注視して見守っていく」と発言したことが確かありました。この発言の後、あくまでネット上ではどれだけのんきなことを言っているんだ、無策な人間だなどと激しく野田氏を批判する声が見かけられましたが、私はこの野田氏の発言を見て意外にしっかりした人だと感じていました。というのも当時の状況(現在もだけど)で日本が円高に対して打てる手段なんてないに等しく、具体的な手段に言及しようものならその程度しかもう政府には手が残っていないのかと懐を見透かされる恐れがあり、それであるのなら何も言わずに手段があるのかないのかを敢えてぼかし牽制するのが一番と考えており、まさにそのように野田氏が発言したのを見てああいう場での発言をよくわきまえている人だと思いました。

 と、こんな感じで折角の新首相なのでやや持ち上げるようなことを多く書きましたが、マスコミもすでに言及しているように野田氏を待つ現状はお世辞にも楽な環境ではありません。まず求められるのは震災被災者に対する支援と復興対策ですが、物事を決めようにも衆参でねじれ現象が起きており、なおかつ民主党内もいつものことですが一枚岩ではないために党内運営ですら困難が予想されます。また仮に総裁選前に前原氏が公約に掲げた自民党、公明党などとの大連立が起きたとしても、恐らく所帯がでかくなるだけで現在の民主党と同じ内部抗争を繰り広げるだけに終わる可能性が高いです。
 ではどうすればいいかですが、一つ考えられるのは自民と大連立した上で掲げる政策に同調できない議員らを党内から追放し、政界再編を敢えて起こすことです。リスクは高いですが成功すれば衆参のねじれを解消した上で政策を一本化し、安定基盤を作ることができます。もう一つの案としては現民主党体制を維持した上で、世代交代を進めることです。こっちの案については詳細を省きます。

 とはいえ、今の日本の状況を考えると誰が首相になるかよりもどのように首相を切り盛りするかが大事です。一国民として必要であれば引きずり降ろすべく批判しますが、そうでない場合は可能な限り応援したいと思います。

2011年8月28日日曜日

儒学の反骨性

 よくネット上などで、「日本は儒学社会だから社畜が多い」などという言葉を見かけます。この言葉の言わんとしていることは「お上に何でも従え」と教える儒学概念が日本では強いため、外国人からしたら劣悪以外の何物でもない雇用環境でも文句も言わず働く日本人が多いという意味ですが、後者の部分はともかくとして前者の部分には「異議ありっ!!( ゚Д゚)」と言いたいです。私は確かに真剣に儒学を学んだわけじゃありませんが、儒学は上意下達な学問ではなく、むしろ反骨心が高い学問だとみているからです。

 そもそもの話として、日本で儒学と言ったらほぼ間違いなく朱子学を指します。この朱子学というのは私の恩師に言わせると、「儒学の中でも極左的なもの」だそうで、中国でも一時国学化されたものの決して全土で流行ったものじゃなかったそうです。しかし何故かその極左的な朱子学は上意下達で為政者にとって都合がよかったことから朝鮮半島、そして日本では流行ってしまい、中国本国とはまた違った儒学がそれぞれの国で発展することとなりました。

 では元々の儒学はどうなのかということですが、儒学と言ってもたくさん学派があるのでひとくくりは出来ないもののその一番のバイブルとなっている「論語」においては結構反骨心が高い記述が多く、むしろ効かん気の強い学問ではないかという風に感じるところが多いです。
 そう思うような具体的な個所をいくつか紹介すると、「もし主君が正道を務めないようであれば諌め、それでも改めなければそっと離れなさい」という記述があります。これは主が間違った行為をしているようであれば批判を恐れず諌め、それでも行動を改めようとしないのであればその主君に付き従ってはならない、むしろ協力するなという意味です。またこれ以外にも間違った方向へは自分の才能は使ってはならないなど、ゆくゆく仕えるべき主君についてあれこれ注意がなされております。

 実際に古代における中国の儒学者の経歴を見ると、頑固というか言うこと聞かない直言居士ばかりが目につきます。当時から一流の儒学者だった司馬遷はもとより、今のアカデミックの主流が反権力を掲げているのと同様に儒学も権力に対して批判的な立場であるのが正位置なのではないかと思います。
 それ故に最初の話に戻るのであれば、今の日本社会は邪教がはびこったせいでいろいろおかしなことになっているのではないかと私は思っている、というか常日頃から主張しています。人間もちろん我慢が出来るというのは美徳ですが、度が過ぎた我慢というのは周囲をも巻き込み全体を不幸にしてしまうと考えます。友人などから話を聞きますが冗談抜きでどうして過労死にならないのか、なったとしても誰も気に留めないのか、年末に毎日のように人身事故が起きても誰も気に留めないのかと思うくらいの今の日本の状況においては、嫌なものは嫌とはっきり拒否する勇気が必要なのではないかと思い、本来の儒教にある価値観こそが今求められているのではという気がします。

 ちなみに日本におけるもう一つの有名な儒学の学派は陽明学がありますが、こちらも日本に伝わる途中でちょっと変遷を受けて「実践第一」が妙に重んじられるようになりましたが、そのせいか著名な日本の陽明学者は吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山と、反体制思想の塊のような面々が集うようになってしまいました。もし仮に私が為政者の側であったら、朱子学は弊害が大きいと判断して採用しない程度でほっとくでしょうが、陽明学においてはさすがにあれなんで流行らせないようにするかもしれません。

 最後にもう一つ蛇足ですが実践という話ではよく、「義の無き信念は無に等しい」という言葉を私は使ってます。これは原作:武論尊氏、作画:池上良一氏の漫画の「HEAT -灼熱-」という漫画に出てくるセリフですが、セリフが出てくるシーンのネタバレをするとアメリカで弁護士をしていた主人公の父親が世話になったマフィアのボスから、黒人への銃乱射事件を起こした白人の少年の弁護を頼まれます。目撃者も多くいたことから有罪確定とみられた裁判は主人公の父親の腕もあり無罪へと傾きますが、この父親の行動に子供だった主人公は強く反発します。
 そして裁判では最後に無罪判決が下りて裁判所から喜んで白人の少年は出てくるわけですが、主人公の父親はその背後から少年を射殺すると、自分の保険金は事件の遺族らに渡るよう手配していると言って自殺します。その父親から主人公への遺書に上記の言葉が入っているわけですが、頭で考えるだけでも駄目、実践するだけでも駄目という意味でこのエピソードをよく思い浮かべるようにしています。

2011年8月27日土曜日

各国の輸出依存度統計について

 先日自殺率について書いた記事で、「日本が最も自殺率が高いと思っていた」というコメントを受けました。実をいうと私もかつて自分で統計を調べてみるまでは同じように、恐らく1~3位には必ず入っていると漠然と考えていたのですが、実際にデータを調べてみると上には上がいるというか2010年度で日本は6位でした。
 しかしこのように「日本は自殺が最も多い国」と誤解するには、断言してもいいですがマスメディアのミスリードが原因でしょう。テレビなどで自殺が取り上げられる際には枕詞のように「先進国中最も自殺率の高い日本」という言葉が付け加えられますが、仮にこの言葉通りだと日本より上位のロシアはG7に入ってるのに先進国ではないということになります。まぁ確かに日本の自殺率は高い方ですが。

 実は最近、この自殺率と同じように実際の統計データを見てみて激しく誤解していたことに気が付いたことがありました。その統計データというのは最近あちこちでちらほら見かけるのでもしかしたら皆さんも知っているかもしれませんが、今日の題になっている輸出依存度です。

統計局ホームページ 世界の統計第9章 貿易

 社会学やっている人間からすれば必ず知っておかなければならない、というより知らなかったら冗談抜きで社会学を真面目にやっていないと言ったっていいくらいの上記統計局ホームページですが、今回私が参考にしているのは、「9-3 貿易依存度」のところにある貿易依存度のエクセルファイルです。このファイルの中には「輸出依存度」といって、どれだけその国が輸出で生計を成り立たせているのかということを示す指標があります。ちなみに計算方法は、以下の通りです。

  輸出額(FOB価格)÷国内総生産(GDP)=輸出依存度

 どうでもいいですがFOBというのは「Free on board」の略字です。最近はクーリエが流行って輸出もCIFで出すことの方が多いのですが、貿易事務屋からすると輸出も輸入もEx worksでやった方がコストの計算がしやすくて助かります。
 そういうどうでもいい愚痴は置いときまして、早速主要国の輸出依存度を紹介します。

<各国の輸出依存度(2008年)>
日本:16.1%
韓国:45.3%
中国:33.0%

シンガポール:179.0%
香港:168.6%
タイ:63.4%
アメリカ:9.0%
カナダ:29.9%
ブラジル:12.1%
イギリス:17.1%
イタリア:23.5%
ドイツ:39.5%
フランス:20.8%
ロシア:28.1%
オーストラリア:18.0%
ギリシャ:7.3%

 統計局のデータでは2009年度のデータが最新ですが、2009年はリーマンショックの影響で世界中で輸出量が大きく目減りしているので、2011年の現状に近いのは2008年ではないかという判断から敢えて2008年データを引用しました。
 このデータを見てもらえばわかる通りに日本の輸出依存度は16.1%で、実は先進国中ではアメリカに次いで低い(ギリシャの7.3%を除いた場いい)という、かなり特異な国だったというわけです。ちなみにシンガポールや香港といった、中継貿易が非常に盛んな国は100%を超えており、元データを見てもらえばわかりますがこの二カ国は輸入依存度でも100%後半に位置しています。

 こういうのもなんですが、GDP規模が小さい国であれば輸出依存度が低くてもまぁありかなという気はするのですが、日本ほどのGDP規模ながらこれほど低い輸出依存度で経済が成り立っているというのは異常な気がします。アメリカの場合はドル体制と財政赤字無視できるという環境があるからまだ理解できますが、よくこれで維持できるなというのが最初見た時の感想です。
 もう少し解説を加えると、輸出依存度が低いということはそれだけ内需の規模が大きいということです。つまりこの数値は日本は内需規模が非常に大きいとともに、必ずしも輸出に依存し切った経済ではないというのを表しています。

 私はこれまで日本というのは内需が小さい国であるから、輸出産業がなければ経済を維持することができないとずっと教え続けられてきました(特に親父から)。しかし上記統計だけで判断するのは早計かもしれませんが、このデータを見る限りですと日本は他国ほど輸出に依存しておらず、内需規模も実質にはかなり大きな国ではないかという気がしてなりません。逆に日本より輸出依存度の高い韓国などは日本の円高以上にウォン高が韓国全体の経済に与える影響は大きく、世界的な景気の影響を受けやすいとも聞きます。

 ……ここでもう記事を書き終えてもあまり問題はない、というかそうした方が差し障りはないのですが、もう少し深く突っ込むとどうして私を含め日本人は「輸出がなければ日本はやっていけない」と考えるのでしょうか(うちの親父を含め)。もちろん内需規模が大きいから輸出産業を疎かにしていいわけでありませんし、むしろ低いのだからもっと引き上げるような努力をやるべきという前向きな意見にまとめても良いのですが、その輸出を増やすために日本は何をしてきたかということです。
 ここで私が言いたいのは、自動車メーカーや家電メーカーといった声のでかい産業企業らが必要以上に日本人の輸出に対する不安を煽って、自分たちの都合のいいように世論や政策を動かしてきたのでは、ということです。今の円高にしたって輸入産業にとってはプラスに働くのですが、そういった方面の景気のいい話はほとんど聞こえず、自動車メーカーや家電メーカーの嘆き節しか報道されていないような気がします。

 そりゃ人間誰だって自分がかわいいはずですし、自分たちに都合のいいように物事を動かそうとするでしょうしそれが悪いことだとは私は毛頭いうつもりはありません。しかし根が真っ正直で真面目に嘘がつけず就職活動で苦労した私からすると、現実を覆い隠すような策謀をする人間は大嫌いですし、二次大戦中の日本みたいに虚飾ばかりの情報が流れていると世の中必ず悪くなるという確信があります。
 くれぐれも言いますが輸出依存度が低いからって日本は安心していいわけじゃありません。ただ輸出ばかりどうこうしようというのではなく、内需においてももっと考えられる方向性を考える道もあっていいのではないか、輸出産業ばかり保護する必要はあるのかというのが、今日の私の意見です。

 今日も太閤立志伝5ばかりやってたから、記事書くの遅れてしまったな(;´Д`)

2011年8月24日水曜日

悪の枢軸、電通について

 今日友人からリクエストもらったので、広告代理店の電通についていろいろ書こうと思います。それにしても我ながら思い切ったタイトルだ。

電通(Wikipedia) 

 広告代理店と言ってわかる人には話が早いですが、念のためにどういう業種なのか簡単に説明します。基本的な業務はその名の通りに「広告、PR活動を代行する」という業務なのですが、そのやっている仕事が近いということでイベントの管理や運営なども主な業務としています。ちなみに昔こういった広告代理店の業務を後輩(理系)に教えたら、「ああ、要するに下請けってことですね(゚∀゚)」と返事したので、「アホ、そんなんゆうたら世の中の仕事全部が下請けや。もうちょい経済勉強して出直してこい!(#゚Д゚) プンスコ!」ってすごんだら、しばらくその後輩は自分のことをまじめに怖がっていました。後から思うと自分でもなんであんな怒ったのかわかりませんが、その後その後輩には特別ご飯を多めにおごるように気を使いました。

 話は戻って電通ですが、その来歴を話すと元々は半官半民の国家機関のような団体で、こちらも同じく国家の意向に沿った情報を戦前に国内に流しまくってた共同通信の下部会社として設立されたと聞いています。そのため設立時期は戦前なのですが、戦後になってテレビなどのマスメディアが発達するようになって広告部門の売り上げが巨大化し、親を食うと言ってはなんですが、いつしか電通は親会社の共同通信を大きく上回る会社となり現在に至ってます。
 一体どうして広告会社がそれほど力を持つのかと不思議に思う方もいるかもしれませんが、順番的にはテレビなどのマスメディアが大きく力を持つのが先で、そのマスメディアに対して大きな力を持つのが電通ら広告代理店だからです。というのも受信料で成り立っているNHKを除いてテレビ局の収入はCMでの広告収入が主で(現在は不動産収入が主になりつつある)、その広告のスポンサーを取るためには広告代理店を経由しなければならず、業界最大手の電通を敵にしたらテレビ局は収入源を一度に絶たれるために頭が上がらないというわけです。

 なお広告業界とはいうもののこの業界は昔から電通の一巨寡占が続いており、電通一社の売上高は業界全体の過半数を越えているために業界2位の博報堂や3位のADKといった有名企業がたとえ束になっても電通の前には足元にも及びません。っていうかどうして独禁法に引っかからないのかが不思議なくらいで、それゆえに広告業界=電通という考え方は一部で正しい見方です。

 さてここまで読んで、というかタイトル見た時点でわかるでしょうが率直に言って私は電通が嫌いです。理由は色々あって公憤もありますが私憤の方が大半を占めていますが、公憤パートで電通の悪いところを片っ端からあげていくとまずはその仕事の取り方です。基本的に仕事は上にも書いてある通りにマスメディアとスポンサー企業の仲立ちなのですが、スポンサー企業から仕事を取ってくるために電通は何をするのかというと大企業の社長や役員の子女をコネ入社で毎年大量に入れております。
 具体的な名前を挙げちゃうと安倍元首相の夫人である安倍昭恵氏は森永製菓の社長令嬢という経歴からして典型で、なんか話に聞く限りですと大量にいるコネ入社組を面接を突破して入社してきた社員が必死に支えてるという、冗談でも笑えない話もちらほら聞こえます。なおほかの広告代理店も多かれ少なかれ似たようなことはしていますが、広告業界の人に話を聞いたら電通のコネ入社量は業界内でも半端じゃなく多く、えげつないそうです。

 ただこれだけであれば倫理的には好きになれない企業で終わるでしょうが、電通の問題とされていのは文字通り情報の扇動です。何度も繰り返すように電通はテレビ局をはじめとした大メディアに対し強い発言力があり、電通自身が流行らせたいと思ったものはたとえその時点で流行っていなくても「流行っている」として報道させることができます。というより、現実にテレビ局でこうして取り上げられるもののほとんどは電通、もしくはそのスポンサーの大企業の意向が強く働いているとまで言われます。
 こちらも実際に具体例を挙げると、有名なものだと今じゃ多分覚えている人のが少ないであろう「セカンドライフ」というものがあります。これはネット上における仮想空間のことで現実のように店舗を開店したりネット上の土地を売買するというような感じなのですが、事の顛末はここのサイトに詳しい通りに当初は電通が誰も知らないのに猛プッシュして一部の大企業も実際に参加したりしましたが、びっくりするくらいに流行らなくてとうとう電通自身も撤退に追い込まれたという経緯があります。ただこうして目に見えて電通が失敗したのは珍しく、世の中で流行っているものはほとんど電通が作った流行と言われています。一説には今フジテレビで問題となっている韓流猛プッシュも電通の意向かとも言われてますが、これについては生憎まだ裏を取っていません。

 まぁこれ以外にも電通にはいろいろ言いたいこととかたくさんありますし、日清ラ王の無許可山頂照英CM事件とか、あまりにも画面映り悪くて抗議が相次いだ倖田來未のキリン氷結CMなど細かいところを上げたら切りがありません。ただそれを言ったらこの広告業界自体真っ黒いところが多く、冤罪事件で有名な厚生省の村木厚子さんが逮捕されるきっかけとなった障害者郵便制度悪用事件など、これは断言してもいいですが2位の博報堂は確信犯でこの制度を悪用しており、槍玉に挙げられたベスト電器は博報堂に安い郵送料で済むと騙されたというのがオチでしょう。むしろ摘発されたこの事件以前にもどれだけ同じ悪用をしていたのかが気になりますし、何故村木さんが逮捕されて博報堂幹部は逮捕されなかったのかというのが不思議なくらいでした。

 というような具合で悪口をかなり書き立てましたが、多分そう遠くないうちに電通を含めた広告業界は力を失うというか、下手すりゃ倒産が相次ぐと予想しています。わかる人にはわかりますがリーマンショック以降はどこも広告費を大幅に削り、今の広告業界はどこも青息吐息な状態が続いています。広告業界が何故そこまで苦しくなった構造問題については今日は書きませんが、フジテレビに対して先週日曜にあれほど大規模デモが行われたのとか見るとメディアも大分力を落としたなという気がします。少なくとも、広告費で経営を立てるというのはもう至難の業でしょう。

2011年8月23日火曜日

民主党の代表選について

 辞任発言をしておきながらなかなかやめようとしなかった管首相がようやく近くの辞任を明言するようになり、その光景をめぐる民主党代表選挙の話題が盛り上がってきました。ただしょっぱなから言うのもなんですが、今の日本の政治状況は多分今まで私が見てきた中で最もつまらない時期で、私自身はというと次の後継総理が誰になろうがあまり興味が持てないのが現実です。
 すでに野田財務相などの人物が出馬を表明しており、本日には前原前外相も出馬を発表しました。私の予想だと恐らく自民党などからも歓迎されることから前原氏が固いのではないかと見ていますが、前からも言っているように前原氏は病気と言っても差し支えないくらいに異常に脇が甘いところがあり、この人が総理になるくらいなら管首相がまだ続けていた方がましなのではないかとすら考えています。

 また今回の代表選に絡んで現在党員資格が絶賛停止中の小沢氏についてもいろいろ取りざたされており、自前の小沢派総裁選に大きな影響力を及ぼすなどといろいろ書かれていますが、私は世間でいうほど今の小沢氏はそれほど力を持っていないんじゃないかと密かに見ています。その根拠というのは小沢派の国会議員は選挙当選回数の低い新人ばかりで発言力はなく、また小沢氏の周辺人物は海部元首相や小池百合子氏など年月とともに離れていく傾向があるため、ある意味では前回の選挙直後が最も力があって今だと果たしてどれだけがきちんとついてくるのか疑問です。また小沢氏肝煎りの人物だと野党もいろいろ反応するだろうし。

 それにしても自分で書いてて本当にこのところ政治話題が少ないのが嫌です。個人的には政策の話題とかもいろいろ書きたいのですがそもそも書こうとするネタもほとんどない。また震災復興についても既に五カ月以上経っている癖に具体策や案もどこをどう探しても出てこず、いくらなんでもスピードが遅過ぎる気がしてなりません。もう少し復興のためにはどれくらいの金が必要なのか、その金を用意するために増税するのか国債出すのか、増税ならどこからどうとってくるとかいう話題が欲しいところなのですが。

 ちなみに目下のところで私が一番いいと思う財源はやはり国債発行、それも個人への発行だと思います。通常の国債は銀行などが引き受けるのですが、この個人向け国債の場合は通常の国債と違って一切金利はつかないものの、もし償還前に国債保有者が死亡した場合には相続者に対しその国債には一切相続税をかけないというオプションが付くという奴です。このような国債だと将来の財政負担は金利がつかないので比較的低く、また確かに相続税収入は減るでしょうがその代りに市場に出回っていないお爺ちゃんお婆ちゃんのタンス預金を引き出す効果もあるので、総合的に見るのなら益の方が大きいのではないかと思います。

 なお余談ですが、私の母方の家系は祖父を除いてみんな年金を受け取る前に死んでおり、私も今の生活が生活なので今のところ一切年金は支払っておりません。特に一昨年亡くなった叔父などは見事に64歳という受給前ギリギリで亡くなりましたが、その叔父は生前にうちの母親を含む兄弟らとの会話で、「お墓のサイズは上を見たら切りがない、仁徳天皇陵もあるしなぁ」と、何と張り合ってるんだよという妙なセリフを口にしてました。

2011年8月21日日曜日

韓国のシルミド事件について

 今日msnニュースの方でちょっと気になるニュースがあったので、韓国のシルミド事件について書こうかと思います。

取れなかった「金日成の首」 映画シルミド(SHILMIDO)(産経新聞)

 気になったニュースというのは上記リンク先のニュースなのですが、この記事は2004年に日本でも公開された韓国映画の「シルミド」のロケ地を歩くという記事です。ちょうど今日は韓流ばかり流して偏向報道だとするフジテレビへのデモが予定され実際に決行された日なのですが、産経はわざわざこれに合わせてこの記事を持ってきたのかと少し勘ぐりたくなります。
 ただこの記事の主題となっている「シルミド」という韓国映画については私も実際に観ましたが、名前も全く知らないような韓流アイドルとかは出てこず(おっさんばかり)、変な感情抜きで素直に面白い映画だと思えました。またこの映画を通し、これは韓国でも公開当時はそうだったようですが歴史の闇というかシルミド事件についても初めて知り、当時の朝鮮状況を知ろうとする上でいいきっかけとなりました。

実尾島事件(Wikipedia)

 詳しくは上記のウィキペディアの記事を読んでもらった方が早いのですが、1968年に当時の朴正煕大統領の暗殺を目的とした北朝鮮の特殊部隊が韓国国内に侵入し、韓国の治安部隊と衝突した「青瓦台襲撃未遂事件」というものが起こります。この事件では韓国治安部隊が北朝鮮の特殊部隊を撃退して大統領は事なきを得るのですが、この北朝鮮の軍事行動に激怒した大統領は報復として「金日成暗殺部隊」を北朝鮮に送ることを企図し、特殊部隊の設置をKCIAに指示します。そしてその特殊部隊の養成地として、シルミドこと実尾島が選ばれることとなったわけです。
 このシルミドには高額な報酬に応じた一般人ら31名の隊員が集められたのですが(映画版では死刑囚などが集められたと描かれ、事実と異なっていると遺族らから抗議が起こっている)、途中で7名の隊員が命を落とすなど相当過酷な訓練が実施されていたようです。しかし部隊創設から間もなく、アメリカ側が共産圏への融和策へ外交方針を変更したことにより韓国側も北朝鮮への目立った軍事行動を取ることが出来なくなり、シルミドの部隊についても徐々にその存在価値を失っていきました。

 最終的には1971年に「部隊そのものがなかった」ことにされ、当初隊員らには支払われていた高額な報酬も徐々に減らされていき、待遇悪化に不満を感じた24名の隊員は訓練教官を殺害し島を脱出するや、真偽は不明ながらも直接大統領に抗議をするためとして韓国大統領府のある青瓦台を目指しソウルへ侵入することとなります。しかしソウル市内で韓国正規軍や警察と衝突すると、追い詰められたシルミドの部隊は奪ったバス内で手りゅう弾を使い自爆します。この時の自爆で大半の隊員は死亡し、生き残った4名もその後の軍法会議で死刑を受け翌年に全員処刑されたそうです。

 この事件は内容が内容であるだけに当時はおろかごく近年に至るまで韓国国内でも完全に秘匿されてきましたが、韓国の民主化後に初めて明らかとなり、その後この事件を舞台にした件の映画が公開されたことによって徐々に詳細が公開されるようになりました。
 私自身のこの事件の印象を話すとすれば、確かに非常にドラマチックな内容であり映画とするには恰好な事件だと思います。ただそれ以上に当時の国際状況というか、本当に007やゴルゴ13みたいな事件が現実に起きていたのかと、初めて知った際には驚きを感じました。さらに言えばこれは佐野眞一氏が甘粕正彦についての著書にて、「国家の前に個人の一生などどれほど脆いものか」と、国に翻弄され続けた甘粕の人生を評していましたが、このシルミド事件についても同じような言葉が私の中で浮かびました。

 最後に蛇足ですがあまり映画を見ようとしない自分がこの「シルミド」という映画を観ようと思ったのは、「あの映画はほんまおもろいで!」と、今は亡き叔父が強く勧めてきたからでした。自分も年をとってきたのかこの叔父のことをちょくちょく思い出すようになり、最初の産経の記事も「叔父さんがいなけりゃちんぷんかんぷんだったろうな」などということを覚え、それ以外のことを含め自分にとってはいい叔父だったということを改めて思い起こしてました。ただ叔父と旅行に行った際、叔父のいびきがあまりにもうるさくほとんど眠れなかったのだけはちょっと嫌な思い出ですが。

2011年8月20日土曜日

日本企業の経営陣給与

 時期を分けると面倒くさいので今日は経済ネタ二本投入です。以前に友人らと企業経営人の給与動向について話をした際にある友人がよく、

「日本の大企業における経営陣給与は年数千万円だが、欧米大企業の経営陣だと数億とかも当たり前だ。そういうのと比べると抱えている責任と言い、日本の経営人の給与は低過ぎるよな」

 この話を聞いた際は私もその通りだと考えましたが今となっては逆で、それでも日本の経営陣給与は高過ぎると考えています。特に長く書くほどでもないのでもうぱぱっと書いちゃいますが、こう思うきっかけとなったのは東日本大震災後の東電経営陣を見てからです。さすがに前の社長は散々抵抗したものの辞任することとなりましたが会長はそのままですし、それ以外にも管理職の人間らの発言などを聞いていてこんな連中があれだけの報酬を受け取るのかと思うと虫唾が走りました。また東電に限らなくとも企業が不祥事を起こしても本当にとんでもないくらいの大問題でもなければ役員連中が謝罪することはおろか、末端の現場社員が詰め腹切らされて責任を取らされるというのも数限りない気がします。

 では欧米はどうかと言えばアメリカの金融系企業をはじめとして恐らく似たり寄ったりじゃないかと思いますが、果たして役員に対してこんなに大金を支払うべき価値があるのかと思うとそろそろ真剣に議論してもいいんじゃないかと思います。以前にもこの関連で記事を書きましたが、私の主張としてはもっと賃金報酬の査定を細かくし、長期のプロジェクトにかかわる立場であるのであればむしろ退任後5年間程度の業績を判断して支払うというのも一つのやり方ではないかと思います。

日本的経営とねずみ講

 かなり今更な話だと自分でも自覚しておりますが、どうもよそで見ていても誰も主張する人がいないので記念に書いておくことにします。

日本的経営(Wikipedia)

 日本的経営とくれば現代ではすでに死語ですが、歴史を軽く紐解くと90年代半ばまでは非常に幅を利かせて世界で最も優れた経営方法だと多分日本人たちは疑わなかったと思います。しかし失われた十年の後半に至ってさすがに維持することができなくなり、中高年のリストラ開始によって一度否定されるものの2000年代中盤頃にトヨタやキヤノンといった企業経営者(奥田&御手洗、何気に二人とも経団連会長)が、実際には日本的経営とはかけ離れたことをやっておきながらも、「日本的経営を放棄して成果主義に走った企業は負け、維持した我々が勝ったのだ」と主張したことで、あくまで私の私感ですが一時また持ち上げられていたような気がします。
 しかしそう主張していたのもつかの間、サブプライムローン問題が火を噴いた2008年を過ぎるとそんなこと言ってた連中もさすがにいなくなり、現在では「ああ、そんなのもあったね」といった感じの概念になりつつあるのではないかと思います。

 それでこの日本的経営ですが、ウィキペディアにも書いてある通り具体的な要素としては主要なもので以下の差難点が挙げられます。

1、終身雇用
2、年功序列
3、企業別組合

 結論から言ってしまうと上記の三要素は既に日本企業にはありません。かろうじて残っていると呼べるものとしたら2番目の「年功序列」くらいですが、1番目の「終身雇用」は完全ズタズタになって消え去っておりますし、3番目の「企業別組合」に至っては大企業にはまだ残っているものの、不景気という時代ゆえか解雇阻止や賃上げ要求する方が明らかに間違っていると言われかねず、その機能を完全に失っていると言っても過言ではありません。
 そんな当たり前のこと言うだけなら誰でもできるし以前にも私自身書いていますが、今回ここで改めて主張しようと思うのは、そもそも論として日本的経営は成り立つはずがないという話です。

 結論から先に言うと、具体的にどこが問題なのかというと2番目の「年功序列」で、だれも言いませんがこれは冷静に見るなら詐欺商法でお馴染みのねずみ講と同じ構図じゃないかと私は考えています。この年功序列というのは勤続年数に従って給与と社内地位が向上していくというシステムで、日本的経営が機能していた頃にはこれがあるおかげで従業員の離職率は低くなり熟練度が高い社員層が構築できると言われ、機能しなくなった頃には無能だろうと昇進して給与コストが無駄に増大すると言われました。
 基本的には機能しなくなった頃に言われていた批判内容で私も間違っていないと思っているのですがこれに付け加える形で敢えて述べると、以下の二点について言えると思います。

1、勤続年数とともに昇進する→昇進させた社員の分だけ部下となる社員数を増やさなければならない
2、勤続年数とともに給与が増える→増やす給与分だけ売り上げ、収益を増やさなければならない

 まず一番目の点についてですが昇進させると言っても名ばかり管理職とするのならともかく、数名の部下とかを付ける役職にするのであれば昇進させた社員数の倍数分だけ新入社員を補充しなければなりません。これはつまり初年度に5人からスタートしたとして、その5人が管理職にさせる頃には5×5=25でほかに25人の社員がいなければならず、さらにその25人が管理職となる頃には25×5=125人と、かなり単純な図式とするならこのような具合でどんどん倍々ゲームで社員を増やさなければ成立しません。
 次に二番目の点ですが、これも一番目同様に一定の所で限界値は設けてたでしょうが、年々給与を増やすのであればその分だけ支払い余力も増えてかなければなりません。これは言い換えるなら毎年売り上げと収益が増えなければ成立しないということで、先ほどの倍々ゲームと組み合わせて考えると、マイナス成長がありえないという前提でなければ絶対に成立しないと言ってもいいでしょう。

 この二つの図式を組み合わせて考えるなら、倍々ゲームで何もかも伸びていくというねずみ講と同じ構図、言い切れば絶対に成立するはずがない構図じゃないかと私は考えています。もちろん実際には何が何でも給与を増やすとかそういったことは毎年行われてたわけじゃなく、時期によっては労使で調整とかされていたそうですが、新卒一括採用制度とも組み合わせて考えると都合のいい考え方してんじゃないかと思います。

2011年8月17日水曜日

サッカー選手に見る日本の希望

 私は国外にいて見ることができませんでしたが、先週行われたサッカーの日韓戦は大いに盛り上がったと友人から聞きました。ちょうど韓国国内のKリーグが八百長で揉めていて韓国チームは本調子ではなかったとはいえ、3対0というハイスコアで見事勝利を収めたという報道を耳にした際は私もやはりうれしく感じました。この試合について先日に友人とも話しましたが、前回のワールドカップの前後で本当にいつの間にと言うべきか日本人選手は世界の強豪とも渡り合えるほど成長しており、冗談抜きで今だったら並みのチームには絶対に負けないのではないかという気がします。

 そんなすっかり様変わりした日本のサッカーですが、強くなったとともにこれでもかと言わんばかりのスター選手も続々と現れています。まずその代表格とも呼べるのはワールドカップで活躍した本田圭祐選手ですが、前にいた会社ではワールドカップ開催中の朝礼の際に部長が、「えー皆さん寝不足かと思われますが、『本田なんかいらねぇよ』と言って本当にすいませんでした」と、いきなり謝ってきたのは非常にいい思い出です。この本田選手について私はワールドカップを通して初めてその名を知ったのですが、調べてみるとそれ以前からもビッグマウスで有名な選手だったようで先ほどの部長のように反発を持っていた人も少なからずいたようです。
 ただワールドカップの活躍以後、私も興味があって本田選手についていろいろ調べたのですが今まで読んだ中で一番印象に残ったのは本田選手のお兄さんによる弟についてのインタビュー記事で、小さいころから負けん気が強かったのはもとより目標意識が非常に高く、海外に出てサッカーをするという目標も早くから立てるとそのための努力を一切怠らず、きちんと実現したという話には思わずため息が漏れました。またワールドカップ以降の本田選手の発言を見ていると確かに不遜な物言いが多いですが、勝利した試合後にもまだまだ問題点が多いと必ず苦言を呈すなど、高い目標意識を常に維持してそれをきちんと実行に移そうとする姿は強い尊敬の気持ちを覚えます。

 またこの本田選手とともに現在最も注目を浴びていると言っていいのは、クラブ世界一ともなったインテルで活躍する長友佑都選手です。この長友選手についてもアジアカップの異常な活躍(ほかの選手の二倍近く走っている)を聞いてから興味を持ったのですが、ちょうど日本に帰った際に読んだ長友選手の記事を読んで改めてとんでもない選手だと思わせられました。
 長友選手については知っている方も多いでしょうが、彼のこれまでのサッカー人生はエリートとはとても呼べない来歴で大学時代は椎間板ヘルニアを患い試合にも練習にも出られなかったそうです。しかしそんな不遇な時代にもかかわらず長友選手は、

「神様は乗り越えられる困難しか与えない。これを乗り越えたら、でっかい自分が待っている」

 と考え、長期のリハビリを経てついにはヘルニアを克服したそうです。またこの時の経験から徹底的にフィジカルを鍛えるようになり、まさに長友選手の言ったようにそれが外人選手に対して当たり負けしない現在の体を形作っているとのことです。

 実はこの長友選手のインテル移籍というニュースを初めて知った際は失礼ながら誤報かと思ったのですが、確実な報道と聞いた後も本当にインテルで活躍し続けられるのかという心配をしていました。ただこの時の私の心配はその後の長友選手のインテルでの活躍を見るにつけ杞憂だったとわかり、現在も活躍のニュースを聞く度に余計な心配をしてしまったのだと申し訳ない気持ちにさせられます。

 その長友選手ですが、今年三月の日本での震災直後は欧州チャンピオンズリーグの試合に出場していました。そこで長友選手はアウェーの地ながらも試合後に日の丸を掲げ、世界に対して改めて日本をアピールしてくれましたが、当時の日本の状況を思うにつけこの長友選手の行動には本当に頭が下がる思いです。
 私は以前にも見上げた若者としてプロ野球の田中将大選手やゴルフの石川遼選手を挙げましたが、この二人に限らず今日ここで挙げた本田選手や長友選手など、一人の人間として深く尊敬できる若者がたくさん現れているのを見るにつけ日本の将来は凄く明るいのではと元気づけられます。

 ただこれは逆を言えば、現代の大人たちは一体何をやっているんだという反感ゆえでもあります。政府にしろ東電にしろいい年した大人たちがどうしてこんな非常識的ともいえる行動や発言を繰り返すばかりか、責任から逃れようとする姿を見るにつけもっとまともな人間はほかにいなかったのか、どうしてこんな人間が上に上がってこれるんだと深く考えさせられます。これも前にも書きましたが私は「社会人」というのは無責任な人間のことを指すと考えており、社会人じゃなければいっぱしじゃないという余計な概念は早いうちに取っ払わなけれなならないと思っています。
 若者の分際でと私も常日頃から何度も言われていますが、若者だから年上の人間になんでもかんでも劣るという理由にはなりません。むしろ若者だからこそ、こんな無責任な世の中を少しでも良くするようにしなければと、本田選手や長友選手にはまだ程遠いですが立派な若者になろうと感じる次第であります。

2011年8月16日火曜日

人を試そうとする癖について

 どうでもいい話から始めますが、最近自分で検索して置きながらなんで検索したのだろうというので下記の2ワードがあります。

「高見盛 スクリーンセーバー」、「甘利神拳」

 そういう話は置いといて今日の本題ですが、記事書く前に思いっきりガンダムの歌を歌っているので今日はかなりテンションが高く、普段は書かないというかそこまでやる気の起きない思想面の話を一本書こうかと思います。

 突然ですが私が友人らから最も注意されることとして、「他人を試そうとするような質問はよせ」というのがあります。これは会話の最中に私がしょっちゅう、「~はわかるよね?」とか「君はどう思う?」などと唐突に質問をぶつける癖があり、友人らの言う通りに実際に相手の反応や思考力を常に注意して測ろうとしています。もちろん信頼している友人らに対してはどんな回答をしたところで評価を変えることはありませんが、自分が指導している後輩らやあまり親しくない知り合いに対しては明確にランク付けを行っては会話のテンポや内容などを相手の力量に合わせるなど意識的に態度を変化させています。
 私の実感だと通常の人と話をする際は本気の会話速度に対して大体5割程度のテンポに落としつつ、会話をしながら次の相手の返答を予測してその予測に対して次にどんなことを口にするかを常に想定しながら話しています。逆に手ごわい相手だったら一切そんな予測はしないでノーガードで打ち合うわけですが、意識的に上げられる会話速度は8割程度で、全力レベルともなるとその時のテンションや相手など条件が揃わないと実感ができませんが、全力を実感できた際は文字通り短い時間内にとんでもない情報量を交換したという確実な感覚があります。

 そんな相手のレベルを測るという悪い癖ですが、自分でもよくないと思うし相手に失礼だと思いつつもどうしてもやめることができずにいます。別に楽しんでやっているというわけではないですが、自分でも女々しく思うもののこれまでの過去の経験による悔しさからかやらずにはおれないというような心境です。
 これまでも何度か書いておりますが、小学生時代はともかくとして中学、高校時代の私は周囲でもかなり浮いていた上に実際に卒業後、当時のクラスメートから頭のおかしい人間と言われていたと話を聞きました。当時の私はプライベートで結構問題を抱えていた時期で常にあれこれ考えていた時期で、人間の生存目的やら社会的価値、果てには今ブログで書いているような国政政治問題などを考えていたわけですが、今現在の自分でも実際にそんなことばっかり考えている中学生がいたら面倒そうな奴だと思います。ただ当時の私は妙なところでストレートさというか素直さがあり、間違っていると思うことに対して、考え方は浅いもののはっきり間違っていると主張するようなところがあり、そういうところが先のクラスメートらの評価につながったと思います。

 周囲の評価なんて気にしなかった、と言えれば確かにいいのですがやはり耳に入ってくるものは色々気になるものです。そのためこれはかなり昔の記事にも書いていますが当時の私は自分が考える最も正しい路線を守るべきか、それとも周囲に迎合した路線をとるかで非常に悩んでいました。最終的には何も考えずに周りに合わせて失敗したらただの馬鹿だが、自分の理性で判断して失敗したらまだ救いはあるはずだ、戦前の日本人はそこで間違えたんだと思って結局周りに一切妥協することなく独自路線を貫いたわけですが、大学に入学後はそうした独自路線を歩んで得た知識なり考え方が友人らに評価してもらえようやく安息のようなものを得ることができ、現在の自分、ひいてはこのブログの盛況につながっているように思えます。

 それが何で人を試そうとする癖につながるかですが、非常に情けない話ですがこうした過程を経た自分はやはり自分に正当性があるということを主張したければ証明したい、強く言ってしまえば認めさせたいという妙な名誉欲を持っています。今まで散々人のことを馬鹿のような言い方をしてきた人間に対し自分が培ってきたものの、具象化は出来ない思考や知識、論理というものが如何に優れているのかを見せつけたいという気持ちで満杯です。
 もちろんそんなくだらない名誉欲は足かせになるだけで何の役にも立たないというのはよく理解しているつもりですが、仮に自分が「過去のことはもういいよ(´∀`*)」なんて考えてしまったら、誰も理解者がいなかった当時に文字通り血の涙を流してまで節を曲げなかった子供の頃の自分はどうなるんだということになるように思え、自分が自分を裏切ってはならないとこれまた妙な価値観を持ってしまっています。ただ敢えて公益的な立場で言うと、自分がこのような立場をすることで昔の自分のような人間が存在できる幅は広がるのではという甘い期待も持っています。

 はっきり言ってここで書いていることは自分でも妄想に近い内容だと思います。ただ昔の自分を思うにつけ「まだまだ青いな」と考え方の未熟さを感じるとともに、問題に対するストレートな感情の持ち方(「○○をぶっ殺せ」と平気で広言してた)は今ではすっかりできなくなってしまい、「あれが、若さか……」などと振り返ることが増えてきました。ついでに書くとこのところ鏡で自分の顔を見る度に目つきが明らかに丸くなっているのも、トータルバランスは良くはなっているんだけどと複雑な気持ちにさせられます。

2011年8月14日日曜日

神様の実証性

 先日、友人とともにかなり久々に宗教関連の話題をして盛り上がりました。ここでいうのもなんですが私は一時期はキリスト教にはまってて真剣に受洗も考えたほどでしたが最近はめっきり信仰心が薄れ、一般的な日本人と同じくらいに距離を置くようになりました。一緒に話をした友人は私と違って徹頭徹尾宗教を批判する人間で、森元首相同様に「宗教は心の阿片」と言ってはばからない友人ではありますが、そこはさすがに私の友人だけあって宗教的価値観や思考法、論理の立て方に対しては単なる宗教批判者にとどまらずじっくりと話し合うことができます。

 そんな友人と昨日話した内容はかなり多岐に渡るのですが、一つの大きなトピックスとして神様の実証性がありました。ここでいう神様とはキリスト教やイスラム教における唯一絶対神を指していますが、私は基本的に信者の方とはいえ無条件で神の存在を肯定する方はあまり信用しません。この辺について猫好きを広言している作家の佐藤優氏の言葉を借りると、キリスト教というのは投資対象としては非常に利回りや確実性の低い宗教であるそうで、このまま現世で生きていくとしても苦難しかないと言い切った上、しかも信仰を保ち続けその苦難に耐え抜き天寿を全うしたとしても天国に上れるかどうかは全くの未知数で、それにもかかわらずただ信じよという宗教だそうで確約というか保証は全くないそうです。それは神様の存在性についても同じで、存在する理由からしている根拠も全くと言っていいほどないのですが、その点についてもただ「信じよ」というだけです。

 もっともこれを言ったら日本で強い仏教においても同じで、仏様からトイレの神様に至るまでそこに存在する理由は皆無に近いです。にもかかわらずどうして人間というのはなにかと神様という霊的存在をどこかしらで信じようとするのか、この辺について解説しようものならとんでもない分量になるので触れませんが非常にもろい基盤の上にあるからこそ存在していると私は考えています。ただこうした議論は何も今に始まるわけじゃなく原始以来繰り返されており、特に近代で実存主義が勃興した時代においては当時のアナーキーな思想とともにいろいろ語られましたが、その実存主義の旗手たるニーチェは下記の有名な言葉を当時に書き残しております。

「神は死んだ ニーチェ」

 これは以前に私が知り合いから聞いた話ですが、上記の言葉がある日どこかの欧州の大学で落書きされていたようです。この事実自体はよくありそうな話で特別おかしなことはないのですが、その落書きがなされた翌日、書かれたニーチェの言葉の横にはこう付け足されていたそうです。

「ニーチェは死んだ 神」

 少なくとも神が死んだかどうかは実証できませんがニーチェが死んだのは明確な歴史的事実ですから、上記の落書きだけにおいては神様のが存在感が溢れてる気がします。

2011年8月12日金曜日

私の好きなゲームBGM

 私はあまり音楽は聞かない生活をしていますが、ゲームはよくする方なのでゲーム中に使われるBGMなんかだと気に入ったものはサントラを買ってたりします。先日も日本に帰った際には昔懐かしいのもあって「女神異聞録ペルソナ(PS版)」のサントラを持って帰ってきましたが、音源で言えば明らかに現代のゲームに劣るものの、やはりメロディのいいものはいつ聞いても悪くないものだという気がします。
 そこで今日は、敢えて古いのに絞って私がひいきにするゲームBGMを紹介しようと思います。最近こういう趣味関係の記事もほとんど書かなくなった、もといネタ切れしているのですが、たまにはこういうの書かないと本当にやってられません。

1、ドラゴンクエストシリーズ
 日本人なら誰もが知る有名なRPG作品ですが、未だにブランド力が圧倒的というだけあってBGMも毎回作りこまれております。各作品のメインテーマは言うに及ばずですが、敢えて一つの作品を上げるとしたら3が最も好きで、フィールド上の音楽とラスボスであるゾーマ戦の曲は傑作もいいところです。

2、ファイナルファンタジーシリーズ
 この作品も有名でみんな知っているでしょうが、個人的な感想としては音源がよくなっていくにつれてどんどん曲は悪くなっていったシリーズのように思えます。単体作品で好きなのは6と7で、7では汎用ボス戦の曲がお気に入りで無駄に文化祭とかで流してました。

3、ロマンシングサガシリーズ
 これは知っている人は多少限られてくるでしょうが、イトケンこと伊藤賢治氏によるBGM群は一度聴いたら二度と耳から離れないほどのインパクトがあり、今でもサントラ買おうかいろいろ迷ってます。個別の曲は挙げだしたら切りがないのですが、初代ロマンシングサガでは「下水道のテーマ」が場面にそぐわずかっこ良すぎると評判でした。またロマンシングサガ3ではやったことがある人ならみんながわかるでしょうが、「四魔貴族バトル2」という曲が異常というか圧巻過ぎて、未だにこれほどテンションの上がる戦闘曲は聞いたことがありません。極め絵付けは「ロマンシングサガ ミンストレルソング」で流れた「熱情の律動(通称:ヘェーラロロォー)」という曲で、これなんかはネット上でも一時取り上げられましたが最初に聞いた時は本当に(;゚Д゚)エエーって顔になり、イトケンは未だここにありというのをはっきりと見せつけられました。

4、ゼルダの伝説
 恐らく総合的なBGM評価だとこの作品が白眉です。長いシリーズ名だけあってメインテーマなんかは定番化していますがいつ聞いても飽きがないというか、むしろ久々に聞くといろんなことが一挙に思いだせて震えてくるような曲です。以前にYoutubeでこのメインテーマのオーケストラバージョンを聞いた際なんか感動して涙が出てきたほどでした。

5、クロノトリガー
 これまた古い作品ではありますが、当時のスクウェアの技術力を結集させた作品だけあって名場面も多く、その場面ごとに流れる曲も秀逸なものばかりでした。個人的に好きなのは「カエルのテーマ」と「時の最果てのテーマ」です。

6、俺の屍を超えてゆけ
 通称オレシカ。今度リメイク版が出るらしいですがすっとんきょんなタイトルの割に世界観は和風のRPGゲームです。和風なだけあってBGMも基本的には和楽器がメインで使われているのですが、地味で渋い曲ながらなかなか耳に残る音が多く、個人的には武術大会での戦闘で使われる太鼓の曲が一番好きでした。

7、ドラゴンボールZ~スーパーサイヤ伝説
 これまた古いゲームを出してきましたが、初期のスーパーファミコンゲームながらBGMは非常に秀逸で、特にラスボスのフリーザ戦の曲は名曲と言っていいと思います。ただBGMがいいゲームはクソゲーが多いというだけあって、ゲームバランスがあまりにもひどいゲームでしたが。

8、アクトレイザー
 いろんな意味でゲームBGMを変えたゲームBGM。なんでもこのゲームの曲を聞いたスクウェアのスタッフは既に作曲済みのFF4の曲を廃棄して全部作り直したほどのショックを受けたそうですが、事実現在に至ってもこのゲームのサントラは高値で取引されていると聞きます。私自身もこのゲームは何度もクリアしたほどで、戦闘シーンから町のシーンまで寸分の隙がないほど名曲の塊でした。ゲームも面白かったのですが、いかんせん続編は悪すぎた。

  

2011年8月11日木曜日

豊臣秀吉の本能寺黒幕説について

 たまにネットで見るので今日は本能寺の変の黒幕が実は豊臣秀吉だったという説を解説するとともに、私の見解を紹介します。
 まず本能寺の変とくれば説明するまでもないですが、ほぼ天下を手中にしつつあった織田信長が京都で明智光秀の謀反によって打たれるという、ある意味戦国最大の逆転劇ともいうべき事件です。この事件に関して謀反を行ったのは一般的に明智光秀単独犯という説が強いですが、これに対し実は豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)も荷担、つまり共謀していたというのが今回の黒幕説ですが、こうした説が唱えられる論拠を書きに挙げていきます。

<豊臣秀吉の狙い>
 明智光秀に織田信長を殺害させ、さらに明智光秀を謀反人として罪を被せて打ち倒すことで織田家の実権を握り天下を掌握する。

<豊臣秀吉黒幕説に挙げられる根拠>
・中国大返しの手際が良すぎる(初めから信長が殺されるのがわかっていて事前準備があった)
・毛利氏に先駆けて乱の事実を知った
・そもそも信長が京都に来たのは秀吉の援軍要請を受けての行動
・明智光秀が反乱を起こした動機がやや不明瞭
・さらに反乱後に光秀の所に味方が思ったより集まってこないなど、計画にずさんさがある
・これら計画のずさんさは秀吉がうまくそそのかしたためでは
・こういうことを計画しそうな奴が秀吉のそばにいる(黒田官兵衛)
・その黒田官兵衛は本能寺の乱を知った直後、「やったじゃん秀吉ぃ(*´∀`)」って声をかけた
・撤退する秀吉軍を毛利が追わなかった(既に話がついていた)

 ざっとまとめるとこんなところです。なんか見てみたら私が地味に話し方の真似をしようとして断念した、「その時、歴史が動いた」の松平定知氏もこの説をよく主張しているそうです。
 それでこの説に対する私の見解ですが、やっぱりいくら何でもこの説には無理があると思え、フィクションのネタとして小説に使うならともかく実際にこうだったと主張するには無理ではないかと思います。というのもかなり昔、具体的には2005年の夏にわざわざカレー作って待っていたのに、「昼にすき屋のハンバーグランチ食べて調子悪くて」と拒否した友人に対して物凄い不機嫌になりながら議論して、この時にある程度結論が出ています。ちなみにその友人曰く、ハンバーグランチはほどなくしてメニューから消えたそうです。

 秀吉黒幕説が無理だと考えられる理由ですが、こちらも箇条書きで書くと以下の通りとなります。

<秀吉黒幕説が無理だと思う根拠>
・秀吉軍は毛利方の追撃を受ければ完全壊滅となるため危険が高すぎる
・毛利は追撃しないという密約があったとするが、高松城戦での和議条件に清水宗治の切腹を出すのはやや不自然
・しかも毛利家は和議後に本能寺の変を知り、実際に追撃を検討している
・本能寺の変の直後に明智光秀は各地に書状を何枚も出しているが、共謀者として秀吉の名前を出していない
・さらに言えば山崎の合戦前後、「一緒に約束したじゃん(つд;)」とは光秀は一言も言っていない
・山崎の合戦後、織田家を始め他家でも誰もこの件の陰謀論を主張していない

 最後に書きましたがこの秀吉黒幕説はやはり陰謀論の域を出ないかと思います。とはいえ「東日本大震災はアメリカ軍の兵器実験だったんだよ!」というようなトンデモ論・陰謀論は人間社会が成り立っていく上で欠かせないエッセンスだと考えているので、この秀吉黒幕説も全否定せずに交換に流布する程度なら「だったら面白いね」という具合で見ていようかなと思っています。
 ついでにトンデモ論だとこの前はマヤ文明の暦か何かで今年の前半に世界が滅亡する予定だったらしいですが、以前どこかのサイトで「世界は既に何度も滅亡していた」という題でこれまでの滅亡論とその年代をまとめてありました。ノストラダムスの1999年を過ぎてからというものこういうトンデモ論が減ってきてさびしい限りですが、「中国バブル崩壊論」もこの十年でいろんな人があの手この手で主張してきているので、なんかこの手の議論に近くなってきている気がします。今度これまでに崩壊論を主張した人をまとめてみようかな。