この週末、前から行ってみたかった河北省秦皇島市にある山海関に行ってみました。ここがどんなところかというと、中国における関ヶ原みたいな場所です。
マジで地平線まで見えそうなくらい長い
この山海関は万里の長城の一部で、要塞化された砦です。漢民族にとっては北方異民族に対する最前線であり、この山海関を境に東側を「関東」、西側を「関西」と呼ぶなど、異界の境界みたいな扱いされていました。
その位置もあって歴史的な戦いの舞台に何度もなっているのですが、一番ハイライトともいえるのは明末期の1644年のことです。この時、明の首都である北京は李自成によって攻略され、皇帝も首を吊って亡くなり、まだ皇族が逃げ延びてはいたものの明朝はほぼ滅んだも同然でした。一方、この山海関には勢力を強める、後に清王朝を作る満州族が近づいてきており、守将の呉三桂は多くの兵とともにこの山海関で守りを固めていました。
城壁は全長4キロあるらしい
仕えるべき明朝がすでに滅んだ中、呉三桂に対して李自成は自らに従うよう通告してきます。また満州軍(清軍)の側も、最高司令官のドルゴンは「俺たちと一緒に皇帝の仇である李自成を倒そう」と呼びかけられていました。
なんか妙にツボった日本語
ちょうど南北の勢力から誘われつつ、挟まれるという立場となった呉三桂ですが、両方の軍勢が同時に近づいてくる中、悩んだ末に清軍に降伏し、山海関を開放することを決断します。こうして万里の長城における最大の難関を突破した清軍は山海関に押し寄せる李自成の軍勢を一瞬で叩き潰すと、その勢いのままに北京も攻略し、さらには中国全土も支配するに至るわけです。
この辺の下りは以前にJBpressでも連載でまとめましたが、この時の功績で呉三桂は雲南省に半独立国(藩)を構えることを許され、裏切り者ながら厚遇されますが、晩年に領土を取り上げられることが決められるや反乱を起こします。ただ満州族を中国に引き込んだ張本人であったことから支持が得られず、反乱は失敗し、失意の中で病死する結末となっています。
真面目に挟まれたときの呉三桂は、その後の中国の数百年にわたる歴史がどっちに転ぶかのキャスティングボートを握る立場でありました。もし李自成の軍について清軍に抵抗していたら、清朝自体成立していなかったかもしれません。それだけに関東と関西の境界であることもさるものながら、天下分け目の場となったため勝手に中国の関ヶ原と呼んでいます。
ただ歴史的にも非常に重要な場所でこれだけ立派な城壁が残っているにもかかわらず、観光地としてはやや整備が足りていない印象がありました。案内板やマップなども明らかに不足してるし、また過去にどんな歴史があったのかなどのパネル展示もあまり見られませんでした。北京や天津からなら日帰りでも行ける場所にあり、エピソードにも事欠かないというのに、なんかちょっと力が入っていない感じがして非常にもったいない気がします。まぁ自分は今回行くことができて満足してますが。
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