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2023年6月8日木曜日

戦国時代に騎馬突撃はあったのか

 本題と関係ないですがPS3時代にあった「ドリームクラブ」というキャバクラで女の子を酔わせることが目的のゲームを遊んでおけばよかったと今更ながら後悔しています。というのもイカ娘役でおなじみの金元寿子氏がこのゲームでノノノというキャラを演じており、割とこの人の声が好きなのとこのノノノというキャラクターがかなりおかしいキャラだと聞いて、俄然興味が湧いています。あまりにも不思議ちゃんだから主人公が指名しないとほかに指名してくれる人がいないため皿洗いしているあたりとか。

 話は本題ですがこの2~3年で一番評価が変わってきている戦国時代の合戦を挙げるとしたら、それは間違いなく長篠の合戦じゃないかと思います。20年くらい前は桶狭間の合戦が実は奇襲じゃなかった、雨も降ってなかったなどと大きく見直されましたが、それに続く形で長篠の合戦も議論が起こるようになり、この数年間において一般メディアにおいて一番目にする機会が多い気がします。
 では具体的にどういう風に見直されているというか疑義がもたれているのかというと、

・鉄砲三段撃ちはなかった
・馬防柵は一般的な防陣設備だった
・そもそも武田家に騎馬隊は存在しなかった
・武田軍の戦術目標(撤退なのか織田軍殲滅なのか)

 このうち三番目の騎馬隊に関しては私もかつてこのブログで、平野の広い関東ならいざ知らず、山がちな武田家の本拠である長野県や山梨県で騎馬隊が威力を発揮する地形はほとんどなく、っていうか突撃すらままならない場所なだけに、そもそも武田騎馬隊は本当に存在したのかという疑義を呈したことがあります。この私の見方と同じような見方をする人がこのところ増えており、「そもそも武田家に騎馬隊謎なかった」、「っていうか戦国時代の日本産の馬は小さく、騎馬突撃が行えるような馬じゃなかった」などと否定的な見方が広まってきているように見えます。

 私自身もこうした見方に同感です。また仮に騎馬状態での戦闘があったとしても、槍を構えての突撃ではなく騎乗で弓を射かける戦術しか行われなかったのではないかとも見ています。
 なおこの戦術ですが、得意としていたのはモンゴル人たちです。具体的には馬に乗った状態で敵集団を取り囲み、そのまま走りながら円の中心にいる敵集団に弓を射かけ続けてたそうです。敵軍が反撃しようと迫ってきたら囲みを解いて逃げる、もしくは囲みを広げて射かけ続けてたそうで、実際やられたらたまったもんじゃない戦術な気がします。

 このモンゴル人ほどでないにしろ、日本でも流鏑馬は昔から行われていたことを考えると、騎馬の戦場での運用は騎乗で敵軍に近づき弓を射かけ、反撃される前に逃げるヒット&アウェイ戦法がメイン、っていうか実際にはこれしかなかったのではないかという風に考えています。こう思う理由としては戦場で馬に踏みつぶされて死んだ武将とかの話を全く聞くことがないし、逆に馬に乗ったまま敵を突き落としたという武勇伝も、三国志とは違って日本国内では聞かないからです。

 同時代、っていうか十字軍の頃からナポレオン戦争までの欧州で騎馬突撃は幅広く使われており、実際に戦争の勝敗を決める重要な戦術であり続けました。それと比べると日本では騎馬突撃が実際に勝敗を分けたという合戦の話はほとんど聞かず、唯一騎馬突撃が実際行われたかもしれないと思えるのは、北条家と上杉家の間で起きた河越城の戦いくらいです。まぁこの戦も真偽が怪しまれている節がありますが。

 そのように考えると、日本国内においてはそもそも騎馬突撃という戦法自体が存在しなかった可能性が高いのではと私は思います。特に戦争が少なくなり兵站も十分な状態で行われた大坂の陣においても、騎馬隊の目を見張るような活躍とか運用はあまり聞ききません。むしろ伊達家の騎馬鉄砲隊のエピソードを見るに、日本の騎馬は騎乗で弓や鉄砲を撃つというのがメインジョブであったのではないかと思います。

 そうだとした場合、日本に存在しなかった騎馬突撃の概念はいつから生まれたのか。江戸時代の講談では既に武田騎馬軍の活躍が語られていたことからするとこのあたりから騎馬突撃が流布された可能性がありますが、もしかしたら実際に行われていた西洋の話が伝わり、架空の戦術として日本国内に広がったのかもしれません。
 そうなると、ゲームの信長の野望で騎馬突撃が戦術として選べるのは歴史的にも間違いである可能性も出てきます。もっともそれ言ったら、琵琶湖の端から端まで弾道ミサイルの如く弓矢で攻撃できること自体が大概なフィクションに当たりますが。

 なお史上最高の騎馬突撃候補とされる例として、1807年のアイラウの戦いにおけるナポレオン配下のミュラの突撃が挙げられます。この戦闘でミュラは敵軍の防衛線を破ると、Uターンして背後から再びロシア軍を蹂躙したとされています。こういう敵陣突破的な話が日本だと一切ないんだよなぁ。

4 件のコメント:

片倉(焼くとタイプ さんのコメント...

騎馬隊を運用するためには 様々な人手や経費がかかります。素人考えでも 馬のエサや馬具,それらを運ぶための荷駄隊が必要です。 戦闘用ではなく運搬用の馬にエサを運ばせるという手段もありますが、その馬もエサを消費し、管理のための人出がかかります。また戦闘以外では 馬が逃げ出さないように、敵に奪われないように 監視する兵士も必要です。 このような事情を考えると 騎馬隊を編成するのは そう簡単には出来なかったのだろうと思います

花園祐 さんのコメント...

 まさにそれというか、騎馬隊は維持するだけでも相当な経済力を必要とするのに、武田家は基盤となる経済力も織田や上杉と比べるとかなり低いんですよね。下手すりゃ東海道沿いの徳川家にも劣ってたんじゃないかな。
 多分これから10年くらいはさらに武田騎馬軍否定説は強まっていく気がします。

サカタ さんのコメント...

お久しぶりです。
昨日大河ドラマ『どうする?家康』で長篠の戦いが描かれました。家康視点のドラマなんですが、長篠の戦いは家康からしたら、なぶり殺しに見えたような描写がされてました。確かにあの戦いから、強者のありようが変わったのだろうなと思いました。

花園祐 さんのコメント...

 やあ(´・ω・`)
 戦国中期までは、周囲の豪族に軍兵を拠出させるに当たり権威というか家柄がある程度効きましたが、後期に入ると単純な財力で決まる要素のが大きくなってますね。そういう視点で見ると、甲斐源氏という家柄があった武田家は中期まではその威光が効果を発揮したものの、後期に権威が落ちた後は勢力が衰えたというのも自然な成り行きだったのかもしれません。金の切れ目が縁の切れ目というか。