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2020年11月25日水曜日

日本の歴史観~その7、半藤・保坂史観 前編

 前回の更新からまた大分時間が経っての要約の連載再開ですが、ようやく取り上げる歴史観としては最後の物にまできました。今回紹介する歴史観は果たして世間に定着しているのかと言えばちょっと疑問符がつくところではあるものの、少なくともぽつぽつと見始めた15年位前と比べるとこの歴史観に沿った見方は現在の方が広まっているように感じることと、最低限、私というフォロワーがいるということから歴史観設定して紹介します。
 名称については保坂正康氏自身は「自省史観」と呼んでいますが、この歴史観は半藤一利氏と保坂正康氏が座長を務める主に文芸春秋などでの座談会がベースというかルーツになっていることを考え、またこの二人が実に相性のいいゴールデンコンビであることを考慮して、勝手に「半藤・保坂史観」と名付けることにしました。この名称を使うのは恐らく私が最初(そして最後?)でしょう。

 ではこの半藤・保坂史観ですが、基本的には二次大戦に対する見解で、その具体的な特徴を挙げていくと下記の通りとなります。

1、自虐史観以上に旧軍部への批判が苛烈
2、一方で末端の将兵や現場指揮官には非常に同情的
3、昭和天皇にも同情的ではあるが一定の責任があると指摘
4、戦争責任について当時の国民も大きいと指摘
5、日中戦争時代からきちんと追いかける
6、海軍善玉論を否定
7、方向性は異なるが、戦後思想は米国の扇動によるものとするのはネオ皇国史観と共通

 まずこの歴史観が出てくるようになった背景と経緯からまとめていくと、90年代末期から冷戦崩壊と中国や韓国の台頭に伴い前回までで取り上げたネオ皇国史観が新しい教科書をつくる会を中心に盛り上がっていきました。しかしこの2000年を過ぎたあたりからつくる会の内部分裂、テロとの戦いに伴う反米感情の低下などを受けネオ皇国史観は勢いをなくし、主流となる歴史観が今ひとつないエアスポット的なタイミングで半藤氏と保坂氏による他のゲストを招いた歴史対談が行われるようになり、徐々にこの半藤・保坂史観が勢いを強めていったように思います。

 ではこの史観が他の自虐史観とネオ皇国史観とどう違うのかというと、まず第一に挙げられるのは上に上げた1番目の、自虐史観以上に旧軍部への批判が苛烈という点です。自虐史観でも日本の旧軍部は国民を先導しておろかにも破滅に至る戦争へと引っ張っていったと評していましたが、この半藤・保坂史観では「何も考えず、無責任に流されるまま無謀な戦争に踏み切った」と言い切っています。
 この意見の出どころというか半藤氏の主張で凄いのは、実際に当時の政策意思決定者であったA級戦犯たちに巣鴨プリズンで直接話を聞いている点です。それら取材結果と当時の会議記録などを詳細に分析した結果、「なんとなく戦争しなきゃいけない雰囲気だった」というノリで日米開戦が決定されたと結論付けています。

 その上で、こうした雰囲気は軍部以上に当時の国民自身が日米開戦を望む空気があり、それに引きずられた要素が大きいとも指摘しています。この辺は次の回で詳しく書くことにします。

 とにもかくにも旧軍幹部らに対する批判はこの半藤・保坂史観は厳しく、先にも書いている通り自虐史観以上じゃないかと思います。中でも辻正信に対する批判は、ノモンハン戦での行動を始め全力で以って批判しているくらい激しいものです。
 ただそうした軍幹部に振り回された現場の将兵に対しては非常に同情的で、その敢闘ぶりには激賞してやまないです。陸軍の栗林忠道や宮崎繁三郎などがその代表で、また末端の兵士らに対してもノモンハン戦などで非常に奮戦していることを取り上げています。

 なおネオ皇国史観を支持していた人には末端の現場将兵の遺族らも含まれており、彼ら遺族が自虐史観で旧軍全体を批判されていたことに反発して盛り上がったという面もあったように見えます。ただそうした末端の将兵を実質的に無為無策によって死に追いやった旧軍幹部らについても、ネオ皇国史観のオピニオンリーダーらはやたら持ち上げようと躍起であって、この点で一部遺族らと思想や方向性が異なって分裂に至ったところもある気がします。
 私自身は半藤・保坂史観の支持者ということもあって末端将兵とその遺族らに関しては強い同情感を感じますが、東条英機らは擁護のしようがないとも考えており、私自身がこうした点で違和感を感じてネオ皇国史観を支持しなく経緯があります。

 話を戻すと、半藤・保坂史観でネオ皇国史観と大きく異なる点は地味に日中戦争の下りじゃないかと思います。この日中戦争に関してははっきり言って侵略以外の何物でもないのですが、ネオ皇国史観だと「南京大虐殺はなかった」という主張が強く、実質的にこの一点でしか議論しない節があります。
 一方で半藤・保坂史観では日中戦争の途中経過、というよりその前の満州事変の策謀のあたりから追いかけ、また日中戦の途中の和睦交渉がどうして破談に至ったのかなどをよく取り上げています。私自身、「トラウトマン交渉」は名前こそ知っていたものの中身は全く知らず、文芸春秋の対談とかでこのような交渉がありながら日本は戦争を継続したことなどを初めて知りました。

 逆を言えば、こうした「日米開戦以前」がネオ皇国史観には致命的に欠けている気がします。日米開戦のルビコンとしてよくハル・ノートが挙げられますが、実際に歴史を追うと、ハル・ノートに至るまでの過程の方がむしろ重要な気がします。そこら辺をネオ皇国史観では「反米主義」という立場から追うに追えず、曖昧に省略的にしか紹介できなかったのでしょう。

 そういうわけで、残りの特徴についてはまた次回に。

2020年11月16日月曜日

日本の歴史観~その6、ネオ皇国史観 後編

 前回に引き続き、ネオ皇国史観について書いてきます。前回でも書いた通り、いわゆる「新しい教科書をつくる会」メンバーを中心に提唱されたこのネオ皇国史観ですが、内容は基本的に戦前の皇国史観を名乗ったもので、「天皇(特に昭和天皇)は偉大、太平洋戦争は聖戦」というスタンスが取られています。実物確認したわけじゃないけど、つくる会の教科書では昭和天皇の説明だけに何ページも割いているとされ、好みの箇所だけ極端に膨れ上がるラノベみたいな編集と聞きます。

 そんなネオ皇国史観ですが、時期にして2000年前後はそれなりの支持と勢力を持ちました。しかしそれは一過性でしかなく、現代においては「つくる会」という単語自体出てくることがほぼなく、私自身もノスタルジーに浸りながら今これを書いています。
 では一体何故つくる会、もといネオ皇国史観は一時勃興してその後廃れたのか。まず勃興の理由ですが、結論から言うと国際環境の変化、具体的には冷戦終結が大きいと私は考えています。以下列記すると、

・昭和天皇崩御に伴う昭和史議論の解禁
・冷戦構造崩壊に伴う保守勢力内における反米意識の顕在化
・中国や韓国の台頭に伴う日本批判の顕在化

 まず一番重要な大前提として、日本の政治勢力はよく保守と革新(右翼と左翼)で区別されることが多いですが、実際には親米と反米の方が論点としては重要です。そして昭和時代においては保守派にも革新派にも親米勢力と反米勢力が混在しており、冷戦構造の崩壊と55年体制の周陵によって、頼子の軸がはっきりしてきたと思います。
 それで話を戻すと、保守派における反米勢力は冷戦期はまだそこまで目立つ存在ではなかったものの、平成初期の沖縄米軍基地問題、貿易摩擦の過熱から日本全国で反米意識が高まっていくのに伴い、保守反米勢力が勢いを増してきたと思います。元々、保守反米勢力は太平洋戦争については「アメリカが悪い」という価値観が強かっただけに、時代の追い風を受けて、冷戦期はやや制限のあった米国批判が大っぴらにできるようになって、ネオ皇国史観が浸透していったのだと思います。

 また三番目に上げた中韓の国際社会における台頭も、ネオ皇国史観を後押しする一手になったことは間違いないでしょう。それまでは国際社会においてそれほど発言力がなかったことから、戦前の日本批判をしても日本人には多分それほど耳に届いていなかったのだと思います。
 折しも従軍慰安婦問題も発生し、はっきり言ってこの件の検証が余りに歪(初出の本が完全なインチキ本)であったことから戦時中の歴史認識問題が俄かにクローズアップされ、「何でもかんでも日本が謝る立場になるのはおかしい」という具合で自虐史観に対する反発が広がったことも、つくる会の発足に大きく関わっています。
 総じて言えば、米国、韓国、中国に対する反発意識の広がりが、ネオ皇国史観の勃興を促したと言えるでしょう。

 なお個人的な意見を述べると、やはり実際に戦争を体験していない自分のような世代からすると、なんでいつまでも昔のことで「謝れ」、「日本は反省が足りない」などと中国や韓国に言われ続けなければならないのか、この点については納得できない感情がやはりあります。逆を言えば、実際に戦争に係り、中国や韓国に対する悔悟を感じていた戦前・戦中派世代が平成期に寿命によって減っていったことも、ネオ皇国史観勃興の要因の一つだったといえるでしょう。

 ではそうして日本国内で広がったネオ皇国史観がその後すぼんだのは何故か。はっきり言えば中心であったつくる会の分裂という自爆が大きいのですが、それ以外だと反米意識が低下したということが影響として大きい気がします。
 まず前者ですが、先ほどにも述べた通り日本は保守と革新のほかに親米と反米という議論軸が存在します。作る会は保守派の論客が中心に出来ましたが、この保守派には親米と反米の立場にある人物が混ざっており、当初でこそ従軍慰安婦問題などの観点から団結したものの、時とともにこの両思想のメンバー間の対立が激化し、完全に分裂することとなりました。

 その上で、90年代の日本は間違いなく反米意識が強かったですが、911ニューヨークテロ事件以降は「テロとの戦い」という新たな国際軸が生まれ、小泉政権における親米路線の定着も相まって日本の反米意識は一気に縮小したように見えます。また2000年以降から先ほど述べた中国や韓国の台頭、特に中国とは尖閣諸島問題が過熱化したことで、米国との同盟関係の重要性を認識する人が増え、「中国を抑えるためには米国は大事」という具合に親米意識が高まっていったように見えます。
 こんな具合で親米意識が高まる中、「太平洋戦争は聖戦、米国は悪意の塊」とするネオ皇国史観が受け入れられるかと言ったら、そんなわけはないでしょう。

 また従軍慰安婦問題に関しても、保守派勢力のみならず革新派勢力からも疑問視する向きが広がり、実際に近年明らかになってきたように慰安婦団体が元慰安婦女性をダシに私腹を肥やしてきているのが認知され始め、反発する意識が保守派どころか日本全体に広がり、ネオ皇国史観のみの主張ではなくなりアイデンティティーの一つ失ったことも大きいでしょう。っていうか真面目に、旧社会党勢力の人たちも飛び火することを恐れて、従軍慰安婦問題には言及しなくなったな。

 以上のような背景、そしてやはり極端な天皇崇拝などの姿勢から、徐々に支持者も離れていったように思えます。窪塚洋介とか今どうなのか聞いてみたいものです。
 私自身、高校生くらいの頃は従軍慰安婦問題のおかしさからこのネオ皇国史観を一時支持したものの、この問題を作り出した一つである朝日新聞ですら「あの報道には間違いがあった」と認める今の時代において、その他の太平洋戦争を聖戦視するなどの余計な要素の多いネオ皇国史観を律義に支持する理由はありません。恐らくこの辺りも中心提唱者らの分裂を招いたところだと思うのですが、従軍慰安婦問題などの国際情勢によって支持を得ていたことを、自分たちの思想が受け入れられたと勘違いしていた節もある気がします。

 このネオ皇国史観は繰り返し述べているように、その思想内容の中立性とか真偽性が評価されたというよりは、国際情勢の変化に伴う国民感情の変化によって広まったところが多いです。そのため今は廃れてきているものの、また何か国際情勢が変わることによって再び支持を受ける可能性が全くないというわけではないという風に見ています。そういう意味では、歴史観というよりかは外交論に近いのかもしれません。

2020年11月13日金曜日

日本の歴史観~その5、ネオ皇国史観 前編

 また記事更新が開きましたが別に何かトラブルがあったわけじゃなく、今週やたらと人と会食することが多かったのと、残業が多かったせいです。っていうか有休消化しろとかいうけど消化できないほど仕事振るなとか最近マジで思います。

 それで本題ですがようやくこの連載の続きが書けるわけですが、見出しに掲げた「ネオ皇国史観」というのは私の造語です。その内容は何かというと、平成初期から中期にかけて盛り上がったいわゆる「新しい教科書を作る会」のメンバーらが提唱していた歴史観のことを指しています。
 彼ら自身はこの史観のことを新自由主義史観と読んではいますが、そもそもこの名称は社会主義支持者らに支持されていた自虐史観に対抗し、真逆の概念というような安直な理由でつけられたもので、その思想根拠についても本人らが「自由主義的特徴はない」と語っており、誤解を招く名称だと思え私は嫌いです。

 ではどんな名称がいいのかいくつか考えてはおり、これまた安直に「つくる会史観」でもいいと思いましたが、巷で言われているように「新皇国史観」というのが実態を表した名称だと感じました。ただ、新しいかと言ったら後述しますがその内容はかつての皇国史観をそのままなぞっている部分が非常に多いだけに、新しいというよりゾンビの様に甦った感が強いことから、「ネオ」を付けて「ネオ皇国史観」という風に呼ぶことにしました。別に「皇国史観リターンズ」でもいいと思いますが。

 名称が落ち着いたところでその史観内容の話に移りますが、先ほどにも書いた通りにこのネオ皇国史観は実質的に、戦前の皇国史観をそのままなぞり、現代で提唱しなおしたものに過ぎないというのが私の評価です。具体的にその特徴を述べると、

・太平洋戦争は日本の聖戦
・米国が日本を追い詰めたから仕方なく戦争をせざるを得なかった
・日本はアジアを解放しようとしていた
・勘違いして日本に抵抗してきた中国とかは悪、っていうか毛沢東はコミンテルンの手先
・戦後に日本はGHQ(=米国)によってさまざまな妨害を受けて来た

 全然関係ないけどこの前中国人に、「ロシアと中国は急に仲良くなったり、急に仲悪くなる」と考えていることを教えてもらいました。まぁ気持ちはよくわかる(´-ω-`)

 敢えて旧皇国史観との差を述べると、まず極端な南朝贔屓は減っています。その一方、二次大戦に対する評価は旧皇国史観よりもさらに擁護的となり、というよりも二次大戦の解釈を日本にとって肯定的なものするために生まれたような史観だと言えます。旧皇国史観では戦前はリアルタイムで戦後に至っては史観自体が排除されましたが、ネオ皇国史観では戦後に関しても「日本は正しい、米国は悪」という視点に立ってあれこれ理由とか主張の正当性を訴えています。

 こうしたネオ皇国史観の立場はその提唱者や支持者が中心となって編集されたつくる会の教科書にも反映されており、昭和天皇の偉大さに関して長々ページを取ったり、明治以降の近現代(というより昭和前半)は延々と解説する一方、江戸時代以前にはあまり触れず、好き嫌いで解説する時代の比重が極端に異なっているなど、単純に一つの歴史教科書としてみてもあまりいい本ではありませんでした。


 教科書内容については3年前に書いた上の記事にまとめていますが、改めて読むとなかなか自分もいいこと言っているというか、つくる会のメンバー構成について、

「江夏、門田、江本、江川、落合、清原、伊良部、中村紀といった我の強いプロ野球選手一同が全員同じチームに在籍しているような感じだったんじゃないか」

 という風に書いてて、読み返してて楽しいです。

 ただそんなつくる会を中心としたネオ皇国史観ですが、平成中期においては間違いなく一世を風靡した歴史観であったことに間違いありません。一部芸能人も(芸能人だから?)、「今まで間違った歴史を教えられてきたけど、正しい歴史をこれで知った」みたいな発言でネオ皇国史観関連書籍を持て囃したり、前述の通り中国や韓国との俗に言う「教科書問題」という外交問題にまで発展するなど、世論の大きな注目を集め、支持者も一定数は確保していました。
 ただ、上記事実についてはもはや過去形でしか語れません。というのも令和となった現在において当初の提唱者らを除くと、このネオ皇国史観を支持する層が極端に少なくなっているからです。実質的に「かつて存在した史観」になりつつあり、今後復権することはありうるとは思うものの、それにはまた長い時間がかかるだろうし、少なくともスタンダードな歴史観となることはなく、史観の一種に甘んじ続けるという確信が私にはあります。

 では何故ネオ皇国史観はここまで衰退したのか、逆になんで一時期持て囃されたのか。その点についてはまた次回の後編で解説します。

2020年11月5日木曜日

日本の歴史観~その4、自虐史観

 愚痴った後で連載再開で、今回はある意味昭和後期を代表する歴史観こと、自虐史観です。

 この歴史観、というより戦後の歴史観は基本的に第二次世界大戦の日本をどのように評価をするかがに論点が集中するのですが、逆を言えばそれ以外の点、具体的には江戸時代以前に関してはその前の皇国史観と比べて余計なバイアスが解消されたことで、実証的な研究が花開くこととなりました。

 特に皇国史観においてはある意味否定されていた先史時代に関しては昭和中期から後期にかけて考古学ブームが起こり、それまでの遅れを取り戻すかのように活発に研究が行われるようになっています。
 惜しむらくは平成期において石器発掘捏造事件が起こったことで事実上、それ以前の研究や発掘成果に疑問符がつくこととなってすべておじゃんとなったことです。もっともそれ以前から考古学は恣意的な研究発表や実績考査が絶えなかったとされ、それらが発掘捏造に関しても事前に疑問視されていた声を黙殺していたと言われるだけに、遅かれ早かれ自滅していた気がします。少なくとも現代において、平成期と比べ考古学が日本国内で話題に上がる回数は明らかに少なくなっています。

 また先ほどはバイアスがなくなったのは「江戸時代以前」と書きましたが、正確には明治中期、それも日露戦争の1905年までの時代は自由な議論が許されるとともに、実証的な研究が進みました。一体何故ここで区切りとなったのかというと、私は二つの理由があると思います。
 ひとつは、日露戦争後に朝鮮半島が実質的に日本の支配下に置かれ、後の併合につながるからです。これ以後に日本は「植民地を持つ帝国主義国家」となり、自虐史観が否定した戦前の軍国主義の起点とされてしまい、日露戦争以後の日本の歴史については基本的に否定するものとして自由な議論は許されなくなったと私は見ています。

 もう一つは、地味に司馬史観こと司馬遼太郎の「坂の上の雲」効果ではないかと本気で考えています。今述べた通りに日露戦争以後は帝国主義国家となるけれども、「坂の上の雲」では「日露戦争以前の日本は立ち遅れていた状態から西欧に必死でキャッチアップしようと、明治維新を起こして改革していた」という、今風に言えば「美しい日本」的に描いたことで、こうした認知が歴史評価の大きな区切りをつける流れに一役買ったのではと見ています。
 なので西郷隆盛や大久保利通は「歴史上の人」となりましたが、伊藤博文や山縣有朋は「現代人」というようなくくりで、伊藤や山縣以降の時代と人々は歴史的な評価というか議論がしづらいというか実質的に制限される事態を招いたと考えます。個人的に非常に惜しいのは大正時代がこのあおりを受けたことと、昭和というハイスケールな時代に挟まれたことと相まって、あまり話題に出ることもなければ検証もされる機会を失ってしまった気がします。普通選挙に至る過程や原敬などアクのある人物は現代においても取り残されてしまっている感があり、今後の研究が待たれます。

 そんなわけでようやく自虐史観の本体についての話に移れますが、私が説明するまでもなく、この歴史観の特徴は「日露戦争以後~二次大戦以前の日本を否定する」ことで成り立っています。具体的には、

・日露戦争以前の日本には正義があったがそれ以降はただの野蛮な帝国主義国家
・日本の二次大戦は侵略戦争
・アジア諸国に多大な損害を与えてしまった
・ついでに朝鮮にもひどいことをしてしまった
・無謀にもアメリカ様にケンカを売ってしまった

 ざっとした内容は以上の五点に集約されるでしょう。一体何故この自虐史観が戦後にスタンダートとなったのかというと、やはり戦後の日本人自身が強い負い目を感じていたことが大きいと断言できます。特に実際に従軍した方や、戦後の政治家になったものなどはその発言などを聞くと戦争で中国などアジア諸国に対し略奪を始め大きな損害を与えてしまったという後悔を口にしている人が多く、その内容や態度から見て実際にそのような贖罪意識は高かったように感じます。
 それだけに、「こんなひどいことをした日本は間違っていた」、「こんなことは繰り返してはならない」という過去を否定する自虐史観は心情的に受け入れやすかっただろうし、また日本の国際的立場から言っても、そうした殊勝な態度を示すことが国益にも叶うと考えた政策担当者も多かったのでしょう。もちろん日本人自身も戦争で大きな損害を受けたことで、「もう戦争はこりごり」という意識を持ったことも大きかったでしょうが。

 ただこの自虐史観ですが、その名が示す通りともかく戦前の日本を貶めるだけ貶め、中には事実以上に日本のことを悪く批判、否定する声も少なくありませんでした。そうした反発が平成期に花開くこととなるのですが、逆を言えば何故平成に入ってから花開くこととなったのかというと、それはやはり昭和天皇が崩御したということが最大の理由だと考えます。
 ある意味で最大の当事者であった昭和天皇が崩御するまでは、昭和天皇自身も受け入れていたこの自虐史観について、反発を持つ者たちも否定することが出来なかったのだと思います。逆を言えば昭和天皇の崩御がもっと早かった場合、自虐史観からの揺り戻しはもっと早くに起きていたと思います。

 私自身は先ほども書いた通り、戦後の冷戦期という時代においてこの自虐史観が日本でスタンダードとなったことは、国際社会における日本の地位回復において有利な結果を運ぶ要因になったと考えています。極論を言えば、損害を与えたアジア諸国への補償としての政府開発援助(ODA)にかこつけて、日本製品や技術の売りつけや企業進出が果たすことができたし、諸外国も戦前の日本に対する反発を持ちながらも、見た目だけでもへこへこする姿を見て警戒を緩めていったことを見れば、復興期においては非常に役に立ったとみるべきだと私は思います。
 そういう意味では、この歴史観をその身をもって維持させた昭和天皇に関してはよくぞ長生きしてくれたという風にも感じます。あまり言われないですが、昭和天皇の崩御に伴う歴史観の切替えという概念は地味に重要である気がします。

2020年11月4日水曜日

日本の歴史観~番外、やらなきゃよかった編

 今日「チェンソーマン」の最新刊に当たる9巻を電子書籍で購入して通勤中に読んでましたが、余りの衝撃的展開の連続でいろいろショックが大きく、1日中仕事が手につかなくなりました。ジャンプ本誌で読んでる人たちからするとこの後の展開の方がさらに激しくなるとのことで、真面目に伝説に立ち会っているの感じます。
 前も少し書きましたが、この漫画の作者はある意味で従来の漫画表現を否定するかのような破壊的表現で連載を続けています。やはり本人も映画好きだと言っている通りにその表現手法は映画に近く、一般の漫画がストーリーを追っていくのに対し、この人の漫画は演出を追うためにストーリーを負わせるというべきか、演出を何よりも優先している感じがします。

 真面目にこれだけで話を終えてもいいのですが話を本題に映すと、先月からやっているこの「日本の歴史観」の連載はやらなきゃよかったと真面目に後悔しています。なんで後悔しているのかというと、一本記事書くのに物凄い負担が大きいというか、書き終えた後にめっちゃ疲労するため、書く前の段階から尻込みします。
 実を言うと今日は本当は連載の続きで自虐史観について書く予定でしたが、チェンソーマン……じゃなく会社の仕事でやや疲労気味だったために、どうしても書く気が起きませんでした。自虐史観自体はこの連載の中でも書きやすい部類のネタで、ひとつ前の皇国史観と比べたらずっと楽なのですが。

 そもそもこの連載を始めたのは、内容が良ければまたJBpressのコラムにも流用できるだろうという当て込みからです。自分もJBpressでコラム連載してから丸4年経ち、いい感じに手を抜く手法を磨いてこれてます。
 書き始める前の段階で徳川史観、皇国史観、自虐史観、そして平成期における史観プラスワンの五本立て、連載中に思い浮かんだらもう一本という筋立てで始めたのですが、意外と平成期の史観については考察を深めると実は現在、ほとんど整理されていないという事実に気が付きました。また誇張しすぎかもしれませんが、平成期における史観については整理するのは私がはじめてになるんじゃないかと内心思え、参考となる資料とか分析もない中で一からその史観について分析、論証する羽目となりました。これがほんとしんどかった。

 他の人はどうだか知りませんが、私はゲームしてる時とプラモ作っている時以外は常に何か考えています。ご飯食べてる最中も「虫の進化が虫を食べる動植物の進化にどう影響したのか?」とか、風呂入っている最中に「三種のマジックリン(バス・トイレ・ガラス)のうちゴキブリを殺すのに最も適しているのはどれだろう?」とか常にくだらないこと考えています。
 ブログネタも大体トイレしている最中か歩いている最中に「今日何書こう?」的に考えていつも決めていますが、この連載の下準備は三日くらい通勤途中にずっと考えて練っています。これは自分にとってもかなり異例で、これ以前の分析が足りなかったのもあるものの、意外と考察すれば深くなるという特徴があります。

 前回の皇国史観も、最初は南朝贔屓で実証主義から離れていったということだけ書こうと思っていたのですが、よくよく検証すると皇国史観が流行り出したのは明治後期であるということに気が付き、この時点で「時の政府が強制したのではなかった」ということにも気が付き、当たりを付けて調べて言ったら案の定というか政争の具として発展していった系譜を知りました。何気にこの辺の過程を知ったのもこの連載の準備を始めてからで、「史観」というワードに着目したのは意外と発見であったと気づくとともに、いざ各段階になると苦労が半端ないということにも気が付きました。

 連載初めに書いた通り、歴史というのは決して中立ではなく何らかの思想に立って評価分析されるというのが私の持論です。現代史はもちろんのこと先史時代も未だに邪馬台国論争を言う人もいるくらいで、スイスの様に「完全中立」なんてのはなく、如何に中立に近づくかというアプローチでないと歴史はやっぱり語れないでしょう。
 そういう価値観で見ると、歴史観というのはやはりその時代ごとの世論というか状況に左右されることが多く、そうした社会背景を分析しながら追っていくとまた見えてくるものがあります。その点をこの連載では上手く反映できるように意識して書いていますが、内容が深まり過ぎて果たしてJBpressでも使えるかとなると結構不安になってきました。

 なおJBpressの次の原稿は既に提出しており、今日ゲラ来てオッケー出しました。また中国社会ネタですが、友人からは「いつもと方向性が違う(;゚Д゚)」と言われました。自分でもそう思う。
 逆に最近JBpressで歴史ネタから遠ざかっているから、そろそろまた何か歴史ネタ書こうかなとか考えています。個人的な欲求ですが、一回でいいからキスカ島ネタは公のメディアで記事を出し、「キスカについては俺も書いたことあるぜ(^ω^)」と言える立場になりたいです。阿川弘之なども書いているから、自分が書いていいものか凄く悩むのですが。

2020年10月31日土曜日

日本の歴史観~その3、皇国史観 後編

 これまで持っていたバスマジックリン、トイレマジックリンに続いて今日ガラスマジックリンを購入し、三種のマジックリンを手にした暁には何か起こるかもわくわくしましたが何も起こりませんでした。

 それで前回の前編に続いてまた皇国史観についてですが、前回でも触れた通りこの皇国史観はほとんどすべて神皇正統記の主張に立った歴史評価がなされており、そのおかげもあって南朝方の武将の株が爆上げされました。従って皇統についても南朝が正統とされたのですが、現実には現在に伝わる天皇家の皇統は北朝系だったりします。というと現代の天皇家は正統ではない系譜になるのではと、こんな風に考えたのは私だけじゃないと思います。

 実際、この点については様々な解釈、というか言い訳がなされています。そもそも南朝が正統とされたのは三種のマジックリン、じゃなくて三種の神器の有無で以って判断され、当時三種の神器を以って継承儀式をやっていたから南朝を正統としていました。
 その後、南北合一の際に南朝が北朝へ神器を譲渡したことから、「それ以降は北朝が正統」みたいな解釈というのが主な主張となっています。但しこれもいろいろツッコミどころがあるというか、それ以前に後鳥羽天皇は三種の神器なしに継承しており、また壇ノ浦の戦いで草薙剣は喪失したともされており、神器基準とするとむしろ余計にややこしい問題を広げます。

 私個人としてはその後の天皇家、並びにその藩屏の公家たちの構成は北朝がベースとなっていること、南北朝の騒乱は最終的に北朝勝利で終わっていること歴史的事実から見て、やはり北朝の方が歴史的に正当王朝と判断すべきと考えてはいるものの、南朝にも従う勢力があったことからも考慮し、現代なされている評価の通りに「南北朝並立」とすることが最も正しいと考えます。

 上記の南北朝並立論は明治時代にも既にあり、当初はこちらの主張がスタンダードとされていました。しかし明治期に入って南朝方武将や天皇の株が上がると、「彼らに対する評価が不遜だ」などと急に言われるようになり、あとから叙勲とかいろいろなされるようになって、徐々に世論も南朝贔屓へと傾いていきます。
 そこへ降ってわいたのが1910年における歴史教科書問題です。当時の歴史学会は南北朝並立論が優勢で教科書にも「南北朝時代」として紹介していたのですが、これに対し読売新聞とかが「歴史改編だ」などと騒ぎだします。一方、時の首相であった桂太郎は「学会の判断に政府は干渉しない」という立場をとり、対抗馬である立憲政友会の原敬もこの考えに同意していたそうです。

 しかしこれに噛みついたのが立憲国民党の犬養毅でした。余談ですが「憲政の神様」と言われて五・一五事件で暗殺される犬養ですが、鳩山一郎とともに「統帥権」という言葉を使って政府批判を始めるなど、要所要所で日本を極めて悪い方向に引っ張っているように思えて私は嫌いです。

 話を戻すと犬養らはこの歴史議論を「政府が誤った歴史を誘導している」などと政府批判に利用し、政治問題に発展させてしまいます。政府内にも元老の山縣有朋などが野党の主張を後押しする動きがあり、こうした批判を受けて政府も野党の言い分を飲んで教科書執筆責任者の解任、並びに記述の改訂を行うこととなり、これ以降に南北朝時代は「吉野時代」と呼ばれるようになります。

 前回でも少し触れましたが皇国史観というのは歴史解釈議論とかで生まれたというよりも、上記の様に神皇正統記に偏った思想的主張、並びに政府批判への利用からスタンダード化された背景があり、現実の歴史評価とは関係なしに定着することとなった歴史観です。上述の通り「南朝が正統なのに今の天皇は北朝系」などその主張の仕方には矛盾点も少なくない上、歴史上の人物をほとんどすべて天皇家との距離感によって評価し、前史時代はなかったことにするなど歴史学的には余計なことしかしなかったという風にしか見えません。

 また知っての通り大正から昭和期にかけては国威高揚などにも利用されるようになり、そのあたりの時代に至っては実際の歴史的事実を無視した神風をはじめとするオカルトすら言い出すようになり、若干宗教染みてたと思います。その辺も含めて歴史学においては亡ぶべきして亡んだ歴史観であり、学問的主張の風上にも置けないというのが私の評価です。

2020年10月28日水曜日

日本の歴史観~その2、皇国史観 前編

漫画みたく葉っぱにビビる猫

 そういうわけで歴史観連載の二発目で、今回は皇国史観について取り扱います。
 まず皇国史観とは何かですが、具体的には明治後期から戦前の昭和にかけて日本でスタンダードとなった歴史観です。その中身はというと、名前の通りに天皇を中心に何でもかんでも判断する内容となっています。

 具体的には天皇に味方したら「ヨシ!」、逆に逆らったり何かしら干渉していたら「ダメ!」という風に評価する傾向があり、後者において最も顕著なのは承久の乱で後鳥羽上皇を敗北せしめた北条義時と北条政子です。どちらも「天に歯向かった愚か者」代表のように激しく否定されており、鎌倉武家政権の成り立ちにおける役割や功績などはあまり評価されなかったようです。
 また評価自体はされながらも天皇家と関わる部分以外にあまり着目されなかった者として、意外にも織田信長がいます。

 あくまで伝聞で聞いた話で自分がきちんと検証したわけではないのですが、戦前において信長は「天皇家によく寄進したえらい武将」という評価がされており、天下統一の基礎を作ったことや、革新的な兵農分離や鉄砲の運用などはほとんど語られなかったそうです。それどころか、「後に天下を取る豊臣秀吉の旧主」みたいな扱いだったとも聞きます。
 実際にというか、明治大正の小説や当時の文献、歴史資料とか見ても、豊臣秀吉や徳川家康に比べると織田信長の影は現代と比べると異常に薄い印象があります。現代でこそ戦国時代を最も代表する人物ですが、戦前の評価は明らかに現代と比べると低い、というか薄すぎます。

 一方、反対に皇国史観によって評価が爆上げとなったのは言うまでもなく楠公こと楠木正成をはじめとする南朝方武将です。この評価は皇国史観のルーツをたどっていくことで段々見えてきます。
 皇国史観のオリジンは江戸時代における本居宣長の国学にあります。この国学は前回取り上げた徳川史観の思想的対抗馬として明治維新が起こされる大義ともなりました。この国学のうち、水戸で起こった水戸学では南北朝時代に南朝側についた北畠親房が書いた「神皇正統記」を経典の如く大事にしていたそうで、これが明治にできた皇国史観においても最高経典として奉られました。

 神皇正統記をベースに皇国史観が組み立てられたこともあって、南朝方武将はいずれも「天皇家に殉じた忠将」扱いされ、逆に北朝方はいずれも悪魔の手先のようなくらい徹底的に批判されました。
 特にその最大の矛先となったのは、後醍醐天皇が吉野に走るきっかけを作った足利尊氏をはじめとする、足利家一門でした。足利家への憎悪は幕末の頃からも高く、尊氏や義満の木像の首が切られるという事件も起こっており、皇国史観の煽りを当時から受けていました。

 ちなみに、徳川家はどうかというと自分が見る限りだと北条家、足利家と比べると批判が少ない気がします。それは何故かというと明治、大正時代の政府には旧幕臣や徳川家一族も参画しており、そうした大人の事情から批判が抑えられたのだと思います。
 その代わりスケープゴートとばかり、ラストジェネラルこと徳川慶喜に対する批判はなんかやたら激しかった気がします。もっとも慶喜に対する評価は現代でも二転三転しており、徳川家というよりも彼自身に起因するのかもしれませんが。

 話を戻すと、総じてこの皇国史観は天皇の権威を高めるという思想が背景にあることもあって、実証的な研究よりも天皇家との距離感によって歴史的評価が左右されました。また実証性よりも観念性が優先されたこともあり、明治当初に一時花開いた考古学など前史時代の研究も皇国史観が普及してからは端に追いやられるなど憂き目を見ています。
 このように皇国史観の科学性は極端に低く、極端な言い方をすれば神話のようなものであり、学問としてはおけないという風にすら私は考えています。実際、その起訴としている主張や論理には矛盾も少なくなく、いくら国威や権威高揚目的とは言えこんなもの使ってたなとすら思います。

 またこの皇国史観では前述の通り極端な南朝贔屓がなされていたことから、戦後になって皇国史観が否定されたことにより、この辺の時代に対する研究が若干タブー視されるようになったきらいがあります。というのも南北朝時代は、人気が低いというのもありますが、他の時代に比べると研究している人や話題に上がってくることが極端に少ないと前から思っています。
 一応、楠木正成などは「贔屓目なしでも間違いなく名将。だが新田義貞、てめーはダメだ」などと実証的な評価や検証は行われるようにはなっていますが、それでも南北朝時代を扱う書籍は依然少なく、その解説は現代も少ないままです。

 多少しつこいですが私個人としては上記点、現代の歴史学研究にもタブー視させる雰囲気を作ったという点でもってこの皇国史観をよく思っていません。またこの皇国史観自体、歴史学の議論から生まれたというよりも、政争の具として使われるために巨大化していったという背景もあり、非常に気に入りません。
 学問の中立性とかどうとかいうつもりはありませんが、皇国史観に関しては学問というより政府攻撃目的で議論が盛り上がり、その後戦前の国威発揚に用いられるようになったという経歴は、歴史学としてはあってはならない経歴だと考えています。その辺についてはまた次回に自分の見解をまとめます。


<皇国史観において株が上下した対象>
株上げ:南朝方武将、天照大神
株下げ:北条家、足利家

2020年10月25日日曜日

日本の歴史観~その1、徳川史観

 またいろいろ思うところがあるため、日本における歴史観をいくつかピックアップしてまとめてみます。なんでこんなことをやろうするのかというと、「歴史は中立」という考えは嘘だと内心考えているからです。
 歴史というものは得てして勝者によって語られることが多く、また勝者でなくても、その時々の価値観や発見されている資料によって見方は変わります。時にはリアルタイムの評価の方が中立的となってしまうことすらあり、歴史観というのは一種の意思を持ったものであるというの自分の中の定義です。

 そういうわけで一発目の今日は、江戸時代における歴史観こと徳川史観について書きます。

 まず徳川史観というのは何かというと江戸時代の徳川家による支配の中で、当時政権側が指導して、定着していた歴史観を指します。基本的には徳川家が支配する正当性を裏付けることを目的としているため、徳川家にとってとにかく都合のいい解釈がよりどりみどりです。具体的には、

1、徳川家が支配するようになって日本は平和になった
2、家康はめちゃ努力家で勤勉家でえらかった
3、豊臣政権はカスだった
4、武田家はめちゃつよだった
5、天皇家?いたっけそんなの?

 大まかにまとめましたが、割と的確に特徴を突いている気がします。

 まず1番目ですが、「戦国時代を終わらせたのときたら徳川家」的に関ヶ原と大坂の陣を大々的にピックアップしています。これは両大戦が徳川家の大勝利で終わったという背景もありますが、日本は平和になったという主張に関してはあながち間違っておらず、実際に長い間平和だったので実際に真実だと思います。

 次に2番目ですが、これは東照宮をはじめとする徳川家康の神格化などから見て取れます。案外天皇家もこんな感じで、支配の正当性を裏付けるために後からいろいろ神格化していったのかもしれません。

 次に3番目ですが、これが徳川史観の最も代表的特徴でしょう。何も徳川家に限るわけじゃないですが、前政権を打倒した新政権はその支配の正当性を主張するために、前政権が悪だったということにして自らが打ち倒す正義を語ります。豊臣家もこの例にもれず、徳川家に反抗しようとした、平和をかき乱そうとしたという風に描かれていますが、如何せん障害となったのはほかならぬ、最後の豊臣家当主である豊臣秀頼でした。
 というのも秀頼は家康の孫でもあり、また若年であったことから実際に政務を切り盛りしておらず、秀頼が何か悪さをしていたと主張するには徳川家的にも無理があると考えたのだと思います。そのためスケープゴートになったのは主に生前の豊臣秀吉と淀君で、特に淀君に至ってはやはりこれでもかというくらいに悪者扱いされ、豊臣家を滅ぼした中心人物としています。

 実際にというか、現代で検証されている範囲では豊臣家を大きく動かしていた責任者は淀君であると思われ、こうした批判も間違ったものではないと思います。そう思う一方、どことなく淀君がやや過剰に悪者にされ過ぎていないか、大阪方の意思決定者は他にもいたのではないかと思う節もあります。この辺については現代においても徳川史観の影響が残っているのかもしれず、今後更なる検証を待ってみたいのが本音です。

 次の4番目ですが、これも徳川史観ならではです。武田家は三方ヶ原の戦いで完膚なきまで徳川軍を叩いた歴史があり、この事実だけは隠蔽しようにもどうしようもなかったのでしょう。なので、「徳川家の武士は強かった、武田家はさらにその上を行く強さだったから仕方ない」的に、負けたのも仕方ないくらいの強敵認定することで徳川家の権威を守ることになったのでしょう。
 そうした影響もあってか江戸時代においては武田家の活躍を描いた軍記物が多数出されており、ぶっちゃけ徳川家関連よりも多かったんじゃないかと思いいます。またその延長で、大坂夏の陣で家康本陣まで迫った真田家、というより真田幸村に対しても称えるべき強敵認定されたこともあって、真田十勇士をはじめとする軍記物作品が多数生まれたのでしょう。

 逆にというか、これは恐らく私以外誰も主張したことのない説でしょうが、フェードアウトの対象となったのは織田家であるような気がします。というのも江戸時代に流行ったとされる小説や講談を見て織田家の影というものがほとんど一切見られず、その日本史への影響に比して異常なまでに影が薄いです。
 敢えて推論を述べると、徳川家にとって織田家との同盟は半従属的な同盟であり、当事者たちからすれば屈辱的に感じるものだったのかもしれません。それ故に事実自体をねじ曲げたりはしないものの、敢えて黙して語らず、織田家の影をとことん希薄化させるという意図があったのではと推測しています。

 そして5番目についてこれは徳川に限るわけじゃなく室町時代からずっとそうですが、天皇家に関しても影が薄いです。ただ天皇家に関する研究などを弾圧していたわけではなく、実際に江戸中期から国学が発達していき、皮肉なことにそれが明治維新の思想的根拠となっています。
 逆に江戸時代に弾圧された学問の代表格は蘭学こと西洋思想です。これはキリスト教、特にカトリックの侵略に対する警戒感が脈々と受け継がれていった結果でしょうが、江戸中期ごろからは蘭学の実用学的な部分に関しては一時認めるようになったものの、その後も蛮社の獄、安政の大獄など折に触れて弾圧しており、西洋思想に関しては終始厳しい態度を徳川政権は取り続けています。

 総括的に述べると、徳川史観は徳川家というよりも、武士らしい歴史観であるというのが自分の見立てです。強いものが勝って支配するのが当然的な価値観であり、「徳のあるものの支配」というイメージにはなんか程遠いです。実際それだけ徳川家は江戸時代において圧倒的な権力と実力を持っていたわけで、そうした構造的な面からこのような価値観になったのでしょう。

<徳川史観において株が上下した対象>
株上げ:武田家
株下げ:豊臣家、織田家

2020年10月10日土曜日

上杉謙信を何度も裏切り続けた男

 今日は土曜ですが中国では国慶節連休を増やすために休日を差し替えられた挙句の振替出勤日となり、普通に会社行って仕事していました。ソ連人民の敵であるうちの親父同様、割とワーカーホリックな一族ゆえか仕事があれば会社行くのは割と楽しいのですが、今年全然有休消化できてないから一週間くらい休みたいです。あとF-14作ってしばらくはもういいやと思ってたけど、またプラモ衝動買いしちゃったから作る時間が欲しいです。

佐野昌綱(Wikipedia)

 そういうわけで久々の歴史記事ですが、上記の佐野正綱って誰かと聞いてすぐ答えられる奴は多分いないと思います。っていうか自分もほんの30分くらい前に、「なんなんこいつ(;゚Д゚)」とばかりに初めて知ったくらいですし。
 では佐野昌綱とはどんな人物かというと、呂布奉先もびっくりなくらい上杉謙信に対し何度も裏切っておきながらその度に何度も許してもらったというウラギラーです。真面目に同一勢力に対する裏切り回数とその規模で言えば日本屈指かもしれず、それでいて天寿を全うしたのだからかなり半端ない奴です。

 佐野昌綱は北関東の豪族である佐野氏の一族として生まれ、成人後はその当主にもなっています。居城とする唐沢山城は現在の栃木県佐野市にあり、ここは例の佐野ラーメンで有名な佐野市ですが、今日これ以後は私の中だと「ウラギラーの街」として認知されると思います。

 さてこの佐野昌綱ですが、その名が歴史の表舞台に出てくるのは1560年、かの有名な上杉謙信の小田原城攻めの年です。この年、上杉謙信は関東の秩序回復と関東管領上杉氏の再興を掲げて越後から関東地方へと進出しました。この際、関東にいる諸将に対し、「ぼくと契約して、北条家をやっつけようよ」と激を飛ばし、これには佐竹氏を初めとする多くの勢力が馳せ参じ、佐野昌綱もこれに呼応する形で上杉家に恭順します。
 ただ佐野昌綱の上杉家への恭順後、その拠点である唐沢山城は割と立地のいい重要拠点であったことから北条氏から攻撃を受けます。この際に上杉謙信(名前は今回これで統一)は救援に馳せ参じて、佐野昌綱とともに北条方を撃退したそうです(異説あり)。

 ただその後、上杉謙信の小田原城攻めは失敗に終わり、武田信玄との信濃を巡る争いから上杉謙信が越後へ引き返すと、再び北条氏の圧迫が強まったことで佐野昌綱は今度は北条方に恭順します。この時の行動に関しては確かに上杉謙信の去った後、頼るべき相手もいないのだから北条家につくというのもよく理解できる話です。
 しかし、やはり唐沢山城は立地がいいというか要衝であったことから、信濃問題を片づけた謙信が関東に戻ってくるとこの地を奪回するため攻撃を仕掛けてきました。この時は冬の到来と唐沢山城の防御力もあって落城を免れ、佐野昌綱は上杉軍を見事撃退しています。この戦いの翌年も上杉軍は年明け後に唐沢山城を攻め込んでいますが、この時もまた見事撃退して、「上杉軍を二度も撃退した」ということで昌綱の知名度もバリューアップしたそうです。

 しかし相手はあの上杉謙信。二度撃退された後もやはり立地がいいせいか要衝と見られてまた唐沢山城は攻撃を受け、今度ばかりは上手くいかずに落城寸前まで追い込まれます。ここに至って佐野昌綱は再び上杉謙信に降伏し、謙信も昌綱のことを許しています。でもって謙信がまた越後に帰ると、まるでテンプレートの様にまた北条側に寝返りました。
 今度という今度は謙信も本気となってかなりガチで攻め込んできて、何度もある唐沢山城の戦い中でも最大の激戦となったそうです。追い込まれた昌綱は仲介者を通してまたも謙信に降伏し、謙信が越後に帰った後にまたも北条側に寝返っています。ただこの時の激戦に懲りたせいか、この次は上杉軍が接近してきただけでまたすぐ降伏し、さすがに謙信も昌綱にいろいろ懲りたのかこの時になってようやく人質を取るに至っています。人質は効果があったようで、昌綱もその後は上杉家に臣従を続けました。2年間だけだけど。

 2年後、昌綱が裏切った後にび上杉軍は唐沢山城を攻めるも、冬の到来によって一時攻略は中断したものの、インターバルを置いて再び攻め寄せると昌綱はまた謙信に降伏しました。でもって謙信もあっさりと許しちゃってます
 けどその後なんだかんだあってやっぱり昌綱は謙信を裏切って北条側にまた付き、上杉軍ももう何度目ってくらいに立地の良い唐沢山城を攻め込んだものの、またも冬の寒さによって攻略を断念し、その後1574年に佐野昌綱が死ぬまで北条側でい続けたそうです。

 上記の一連の流れは「唐沢山城の戦い」にまとめられていますが、一読して感じたのは「謙信いい人過ぎない?」っていうことと、「こんなS級ウラギラーがまだ日本に潜んでいたのか(゚Д゚;)」という感想でした。前述の通り、「謙信に攻め込まれる→降伏する→謙信が帰る→裏切る」をテンプレートの如く延々と繰り返しており、自分だったら途中で一族根絶やしにしても飽き足りないくらい怒り狂って処分したでしょう。伊達政宗あたりなら1回目の裏切りの時点でそれやってただろうし。
 まぁこの辺は関東の独特の価値観というか他の豪族に対し寛容さなどを見せる外交的配慮もあったのだと思いますが、それにしても何度となく裏切り、何度となく上杉軍を撃退しているあたりはさすがなものです。そういう意味では「日本の呂布奉先」と言ってもいいくらいな人物で、こんな面白い奴がいたことを今まで知らなかったのが恥ずかしいとともに、まだまだ探せばこういう人物に巡り合えるものだと妙に今興奮しています(;゚∀゚)=3ハァハァ

2020年9月15日火曜日

ゴヤとナポレオンとゲリラのスペイン

 スペイン最強の画家は誰かという問いをかければ、恐らく十中八九でフランシスコ・ゴヤの名前が挙がってくるのではないかと思います。生前に描かれたメッセージ性の強い作品はもとより、晩年に差し掛かる頃に描かれたいわゆる「黒い絵」シリーズは芸術に疎い私ですらインパクトを覚えるほどの迫力があり、ゴヤがとんでもない画家であったというのを直感するほどです。
 そのゴヤが洲北京で生きた時代は18世紀から19世紀ですが、この時のスペインは文字通り激動の時代で、フランス革命を起こした隣のフランスなんかよりある意味最も激しい時代を経ています。

 順を追って説明すると、ゴヤ自身も仕えたスペイン国王のカルロス4世は父親から直接、「お前は本当に馬鹿だなぁ」と言われるくらい暗愚で、政治に関して野心満々な妻のマリア・ルイーサとそのお気に入りで宰相になったマヌエル・デ・ドゴイの好き放題に任せていました。ただ国王が暗愚だったとはいえ、大航海時代に得た植民地の収入もあって国家運営自体は問題なく行えていました。
 これがひっくり返ったのはフランス革命、そしてそれに続くナポレオン戦争によってでした。英国との対決姿勢を示すフランスのナポレオンは徐々にスペイン王家にも干渉を行うようになり、当初は英国の応援を受けたポルトガル相手にスペインとフランスは共同で戦っていましたが、暗愚な人間ばかりのスペイン王家の人々に見切りをつけたナポレオンはカルロス4世、そしてその皇太子のフェルナンド7世をスペインから追放し、フランス国内に軟禁させます。その後、自分の兄のジョゼフをスペイン国王に付け、実質的にスペインをフランスの傀儡国家としてしまいました。

 恐らく、この時スペインに干渉したナポレオンやフランス人たちは真面目に、古臭く立ち遅れたスペインの改革に力を貸してやろう的な目線もあったかと思います。というのも当時のスペインは未だに異端審問があったりするなどカトリック教会、並びにイエズス会勢力が幅を利かせ、公平平等な司法とか社会活動がかなり制限されていたそうです。実際にそうした面から、スペイン国内でもフランス軍の進駐を歓迎する進歩は勢力もいたそうです。
 しかし特権を奪われる保守勢力、特にカトリック勢力などはこうしたフランスの行為は国家簒奪(間違ってはないが)と批判して対決姿勢を示し、スペイン国民に決起させるなどして徹底した抵抗を促しました。また英国もイベリア半島に上陸してこうした抵抗運動を応援し、フランス軍との激しい戦いに参加するようになります。

 スペインでの戦争(半島戦争)はその後、ナポレオンの一回目の退位が行われるまで約6年間も続けられましたが、この間フランス軍はスペインのゲリラに大いに悩まされ、何十万の軍がイベリア半島に貼りつけられ続けました。この時のスペインでフランス人は一人では歩けなかったと言われ、ゲリラに捕まれば激しい拷問を加えられた上で、皮を剥ぐなどされた上で殺されていました。こうしたゲリラの行為に対しフランス軍も報復として、同様の方法で見せしめ代わりに捕虜などを虐殺し返し、文字通り血みどろの戦いが続けられていたと言われます。
 唯一、行政能力も高かったとされるフランス軍元帥のスーシェが管理する地域のみはスペイン人も彼に従い、フランス人も一人で出歩けたとされます。ナポレオンももう一人スーシェがいればスペインを征服できたと述べた上で、自らが任命した元帥の中で最優秀であるとスーシェを称えています。

 なおさっきから出ているゲリラという言葉ですが、スペイン語の「ゲリーリャ(小さな戦争)」という言葉が語源です。

 話を戻すとロシア遠征後、諸外国に敗北を重ねたナポレオンはスペイン戦争に片を付けるためにフランスで軟禁していたフェルナンド7世を解放してスペインに帰国させます。待望のスペイン国王が帰ってきたことで大喜びしたスペイン人でしたが、父親も父親なら息子も息子で、帰国するやフェルナンド7世はかつての封建色の強い政治体制に揺り戻した上、気まぐれに政治担当官を何度も変えたりするなどして、スペイン国内は再び混乱に陥ります。
 またフランス支配時代に起草された憲法も国王は拒絶し、これに反感を覚えたスペイン国内の進歩派勢力は反乱を起こして国王に憲法を認めさせています。しかしその数年後には再び憲法を拒絶し、反乱に係った人間たちを片っ端から処刑して、この時に身の危険を感じたゴヤもフランスに亡命してそのままボルドーで没しています。

 その後もスペインでは暗愚なフェルナンド7世による混乱が続きかなりズタズタな状態となりますが、この辺はナポレオン戦争の陰に隠れてこの辺は解説されることはほとんどありません。自分も漫画の「ナポレオン 覇道進撃」を読んでようやく知った有様でしたが、ゴヤの視点で見てみるといろいろ見えてきて面白かったです。
 ちなみにその覇道進撃の最新刊にて戦地に赴こうとするナポレオンに対し、「26年間、君は私の優秀な生徒だった。惜しむらくはその能力を欧州の安定ではなく自分の野心のために用いたことだ。君と組んでやりたいことはいっぱいあったのに」と、タレーランの心の声を描いたのは、さすがは長谷川哲夫氏だと唸らされました。真面目な話、優秀な外交官というのは本人が主役とはならず、その仕えるべき主君がいて初めて進化を発揮できるものであり、上記セリフの悔恨は外交官だからこそ言えるセリフのように思えます。

2020年6月5日金曜日

中国の異民族とハロウィン

 最近満州族の歴史とか無駄に調べていますが調べてて率直に感じたこととしては、「中国の異民族ってやってることハロウィンじゃね?」という結論でした。ハロウィンについて説明する必要はないでしょうが、例の「パンがないなら僕の頭をお食べ」じゃなくて「トリックオアトリート」こと「お菓子をくれなきゃ悪戯だこの野郎(´・ω・`)」です。

 なんでハロウィンなのかというと、中国の全時代で異民族は時の中国の王朝へ毎年朝貢する代わりに莫大な下賜品をもらっていました。でもって受け取った連中はそれを他の部族らに分配することで支持を得て勢力を維持しており、下賜品の数量が減ると途端に引きずりおろされるという有様でした。
 そのためどの時代も異民族の頭目は中国の王朝に下賜品をねだり、満足な量がもらえないとわかるや長城を越えて略奪に走り、「略奪をやめてほしければよこすもんよこせ!」と脅迫していました。この構図がまさにハッピーハロウィンにしか見えないってわけです。

 もう少し話をすると、王朝の側はこの下賜品の量をコントロールすることで、勢力の強い頭目は抑え、弱い頭目は育てて均衡させるような政策を取っています。ただ昔からこういうボーナス的政策には必ず悪さする中国人なだけあってか、中国の皇帝が唯一野戦で捕虜となった土木の変での主役であるエセン・ハーンは、下賜品は朝貢した人数分もらえるという制度に乗っかる形で、実際に朝貢に行く人数を大幅に上回る人数を申告して大目に下賜品をもらってたそうです。それがばれて下賜品減らされて、他の部族を従えなくなったから侵略し、先の土木の変へと至るわけですが。

 こう考えるとハロウィンは西洋の文化習俗とするのは実は間違いで、東アジアにおける日常的外交慣習だったと考えるべきかもしれません。もっとも日本はそこまで激しい朝貢貿易をやってた時代はほとんどないけど。
 ついでに書くと、そういうわけだからハロウィンの時期は馬肥ゆる秋が相応しく(現実のハロウィンとほぼ同時期)、尚且つ仮装も西洋物ではなく異民族・山賊風のが適切かもしれません。できるなら馬に乗ってやってきて、 「朝貢か、侵略か?」とインターホン越しに問い掛けるというのが斬新でいいのかもしれません。いや、自分がやれって言われてもやりませんが。

2020年5月17日日曜日

中国の最良の皇帝とは?

 次の夏の歴史記事連載に向けていろいろ資料を読んだりしていますが、そうした資料を漁る過程でふと、「中国人はどの皇帝を最も評価しているのだろうか?」と思って、少し検索をかけてみました。

 検索ワードとしては候補が自動で出てきた「中国好皇帝排名」と入力。「排名」というのは順位やランキングを表す中国語単語ですが、何故か日本語ではこの漢字二文字は使われません。用法的にあってもいい気がするのに。
 それで検索した結果ですが、もう出るわ出るわというかいろんな人が順位付けを行っており、トップテンはおろかトップ20、トップ100まで編んでいる人すらいます。さすがに全部見切れないし、「公式ランキング」みたいなものもあるわけないので傾向として述べると、下記の皇帝が多くのランキングで候補に挙げられています。

・秦 始皇帝
・漢 文帝
・漢 武帝
・隋 文帝
・唐 太宗
・周 武則天
・明 太祖(朱元璋)
・清 康熙帝

 いくつか私の方から補足を入れると、始皇帝はなんていか殿堂入りみたいな感じでランキングに入れるべきじゃないのではという気もします。その功績や影響力は間違いなく見事なものですが、オリジネーターということで他の皇帝と比較するのはやや難しいような気がするからです。
 またこれとは理由は別ですが、チンギスハンもよく候補に挙げられているものの、一部選定者からは「彼はモンゴル皇帝」として敢えて候補から外した旨が書かれており、この見解には私も同感です。

 そのほか意外に感じたものとして、楊広をランキングに入れる人が結構多かったです。名前だけ見てもピンとこない人が多いでしょうが、この人は日本人にも馴染み深い、あの隋の煬帝です。日本人からしたら暴君としか見られていませんが、中国では暴君は暴君であっても、大運河の建設などを功績として評価する向きもあるようです。

 同じく意外に感じたのは、上の列記した中にも入っている漢の文帝です。彼は前漢の五代目皇帝ですが、彼自身は劉邦の第四子で、即位した経緯は実はなかなか複雑です。簡単に話すと、漢は二代目以降に皇后(劉邦の妻)の呂雉(りょち)をはじめとする外戚が幅を利かせて一時政治が大混乱したのですが、親玉の呂雉の死後に譜代の臣らが呂氏一族を追放し、外戚が大人しく且つ性格も温和そうであって劉邦の実子(当時生きてた中で最年長)であったことから、文帝が皇帝に推挙されました。
 こうした家臣らの期待通りに文帝は非常に温和で親孝行な性格をしていたとされ、処刑の提案がくるといやちょっと待ってといつもストップかけたり、肉軽の多くを廃止したり(一部は残したが)、さらには宮殿造営などを取りやめて減税を何度も行うなどして、国の財力を飛躍的に高めたとされています。日本ではほぼ無名に等しいですが、どうも中国では高い評価を受けている模様です。

 なお私がランキングを付けるとしたら、皇帝としての個人の才能という面から評価して、唐の太宗こと李世民がやはり「王の中の王」ならぬ「皇帝の中の皇帝」だと思います。それに次ぐのが、乱世を経験してはいないものの清の康熙帝で、その治世ぶりと独立状態だった三藩の廃止に踏み切ったところなどを高く評価しています。三番目となると、中国唯一の女帝こと則天武后(武則天)かなぁ。この人がいなければ「水戸光圀」は生まれなかった可能性あるし(「圀」という字は則天武后が「国」という字を勝手にアレンジして作ったもの)。

 なおランキングを追っていると、「中国馬鹿皇帝(昏君)トップテン」というのもあり、「明からはなんと三人がランクイン!」とか書かれてあって吹き出しました。周の幽王、夏の桀王はお馴染みのこと、有名どころだと後漢の霊帝が加えられてました。中国はいろんな皇帝いて楽しそうです。

2020年1月30日木曜日

独眼竜の元となった武将

検査拒否した帰国者2人、「検査受けたい」と申し出(朝日新聞)

 さすがに、今更これはどうかと思う。

 話は本題ですが、独眼竜とくれば政宗、政宗とくればずんだ餅というのが連想ゲームの定番ですが、この「独眼竜」という通称は実は伊達政宗に端を発するものではなく、中国の李克用という武将のあだ名から由来としています。

李克用(Wikipedia)

 李克用は唐末期(9世紀末)の武将で、父親も地方軍閥の長という家系の出身です。元々の名字は「朱邪」といいましたが、父とともに従軍して大規模な反乱を収めた功績への恩賞として、唐の皇帝一族の名字である「李」を名乗ることが許され、「朱邪克用」から「克用」へクラスチェンジを果たしました。
 その李克用ですが、どうも生来から片目が不自由だった、若しくは外見的な特徴があったと言われています。そうした外見的特徴と抜群の武勇を誇ることから、いつしか「独眼竜」という通称が付いたそうです。

 前述の通り、李克用は若年の頃から父親とともに反乱を抑え込むなど軍事面で活躍していますが、唐末期の混乱期であったこともあり、父親とともに一度反乱を起こしています。ただこの反乱は失敗して韃靼族の元へ逃亡し、唐王朝からは韃靼族へ李克用らを引き渡すよう要求されましたが、そこらへんは李克用が韃靼族らに百発百中の弓矢の腕をアピールしてどうにかこうにかかくまってもらっています。

 このように一度は反乱を起こした李克用でしたが、何故かその四年後には唐に帰順し、その後は唐の軍人として大活躍します。折しも当時は塩の密売業者である黄巣が反乱を起こしており(黄巣の乱)、中国はまた群雄割拠時代に突入していました。この時に李克用は鴉軍という、全員黒一色の衣装で統一した部隊を率いて連戦連勝し、黄巣の反乱部隊を裏切った朱全忠とともにこの反乱を一気に鎮圧して見せました。

 しかし黄巣の乱の後、唐王朝内部で実力者となった李克用と朱全忠が対立するようになります。軍事面では圧倒的な実力を有する李克用でしたが、宮廷政治の方はからきし駄目だったこともあって、宮廷内の主導権は徐々に朱全忠に握られていくこととなりました。
 なお黄巣の乱の最中、黄巣を裏切ったばかりの朱全忠は黄巣軍から攻撃を受けた際、李克用に救援を求めて救出されています。この際に朱全忠は李克用に慇懃な態度でお礼を伝えましたが李克用からは、「裏切った元主君を相手にするのは大変だろう」とか皮肉を言われたそうです。李克用も以前に唐に反乱起こしているくせにと、内心思いますが。

 話を戻すと、李克用は拠点である山西省に拠って朱全忠との抗争を続けていましたが、そうこうしているうちに唐王朝は朱全忠によって簒奪され、朱全忠が皇帝になってしまいます(王朝名は後梁)。この簒奪劇を李克用は認めるはずもなく朱全忠への抵抗を続けていましたが、後梁の成立から間もなく李克用は寿命で逝去しました。その逝去の際、後継者の息子に対して必ず後梁を打ち倒すように伝えたそうです。
 その後、後を継いだ息子の李存勗は父の悲願を果たす形で内部瓦解していた後梁を打ち滅ぼし、新たな王朝を開いて国号を「唐」としました。なんで「唐」にしたのかというと、前述の通り「李」の名字を前の唐王朝から拝領していたことが理由で、元の唐と区別するためこの新しい王朝は現在「後唐」と呼ばれています。

 自分はこの一連の経緯を社会人になってから学びましたが、本音を言えば高校時代に教えてほしかったなと当時思いました。というのも高校世界史では唐が黄巣の乱で亡んだ後、「後梁→後唐→後晋→後漢→後周」という風に王朝が変わったとしか教えられず、全く脈絡がなく各王朝名をそのまま丸暗記するしかなかったからです。せめてこの李克用の話があれば、独眼竜の由来もわかったし、唐から後梁、後唐までへの流れはストンと消化できたように思え、無駄に覚えるのに苦労させられたという感じがしてなりませんでした。
 歴史の勉強だからこそ、こういうちょっとしたエピソードは大事だというのに( ・´ー・`)

2019年12月27日金曜日

小野小町は誰なのか?

 今更ながら「ファイアパンチ」の全巻を買って読みましたが、現在連載中の「チェンソーマン」を読んでても思ってたものの、一読して作者の藤本タツキ氏はやばいな、ほっとくと手が付けられなくなるくらい成長すると率直に思いました。

 さて話は本題ですが、最近歴史記事を書いてないから日本史十大ミステリー~偽りの黒真珠~みたいな企画でも立てようとあれこれ日本史のミステリー案件を考えてましたが、浮かんだものの中で、本能寺の明智光秀動機などと違ってそこそこ著名ではあるものの意外とみんなが意識してないなと思うものとして、「小野小町は一体誰なのか?」説が私の中でピンときました。

 百人一首の「花の色は~」で始まる日本三十六歌仙の一人で、且つ現代でも美人の代名詞とされる小野小町ですが、知ってる人には早いものの、その実在性というか人物の正体については実はほとんどわかっていません。小野姓であることから彼女が生きたとされる同時代の「わたのはら~」でおなじみな参議篁こと小野篁(おののたかむら)の孫、若しくは娘、はたまた姪などと推察されていますが、はっきり言ってどれも根拠がなく、小野姓だからと言って篁の肉親と決めつけるのはさすがにこじつけもいいところでしょう。
 それほどまでに知名度が高いながらその一生はミステリーに包まれていることから、能の「卒塔婆小町」のように醜く年老いて悲劇的な最期を遂げるような創作もなされたりしちゃっています。それだけに実在性にすらも疑念の余地がありますが、少なくとも「小野小町とされる女性」が存在したことは確実だといえます。

 その根拠はというと、小町作とする和歌が大量に残されているからです。またこれらの和歌には在原業平など確実に存在していたとされる人物と贈答した和歌も含まれており、こうした和歌が残されていることからすると、小町と呼ばれる歌人は確実に存在していたと言ってもいいでしょう。
 となる次の問題は小町は誰かではなく、逆説的ですが小町の歌を詠んだのは誰なのかということになってきます。時代的には9世紀中盤で、女性で、相当な実力を持った女流歌人ということになりますが、このうち女性という性別に関しては紀貫之の例もあるだけに、もしかしたら男流(おとこりゅう)歌人が女性の振りして詠んだという可能性を捨てるにはまだ早いでしょう。まぁそうだとしたら、在原業平はおっさん同士で和歌を贈答し合ったことになるが。いや別にこの時代なら珍しくはないけど。

 自分は和歌に関しては全く教養がないものの、小町の例の百人一首の和歌は実は百人一首の中で一番好きで、実際にこの和歌は人気ソングだと聞きます。それほどまで評価の高い和歌を詠んだ人物についてこれほどまで全く実態が掴めないというのは不思議なのですが、当時の女性の地位的にはこんなものなのかもしれません。
 ただどちらにしろ、ある意味日本史中で最も謎に包まれた女性と言っても過言ではないでしょう。今後の研究でその正体に迫れるかと言ったら正直あまり希望はないですが、もう少しこの方面の議論は高まってもいい気がします。

2019年10月5日土曜日

秦が何故悪者扱いされるのか?

 先日見ていた掲示板で、中国初の統一王朝である秦はどうしてこれほどまで悪く言われるのかというコメントを見ました。というのも最初に統一した事自体が偉大な功績であり、またその諸制度は次代の漢王朝でも流用されており、非難される理由が言われているほど見当たらないとのことでした。
 その後出てきた意見としては、始皇帝陵造営をはじめとする多大な労役などで恨みを買ったのではなどとありましたが、結論から言うと焚書坑儒が最大の理由でしょう。

焚書坑儒(Wikipedia)

 焚書坑儒とは主に法家の人間によって行われた儒家への弾圧行為で。儒家を生き埋めにしてその文書を燃やしたことから文字通りとなっています。一体これが何故秦が批判される理由になったのかと言うと、後の時代の歴史は儒教を基本思想として評価が行われており、ある意味で評価裁定を下す儒家に嫌われた時点で悪く書かれてしまう傾向があります。
 同様の理由で、道教の経典なども儒家目線から批判されることも少なくありません。要するに秦王朝で儒家への弾圧が行われた一点で以って後の時代、政権からは非難されるようになったと私は見ています。

 もっともその儒家というか儒教も、共産党中国の成立時においては「古き悪習」として批判されており、魯迅や毛沢東に至っては焚書坑儒を「ええこった」と評価していたそうです。その逆に、秦王朝に関しては力こそ正義的な価値観と初の統一を行ったという点で再評価が進められたそうですが。

 なお日本においては儒教的価値観からくる批判や言論闘争は中国ほどには多くありませんが、天皇史観による足利尊氏などへの偏った批判など、天皇制フィルターが働くことのほうが多いです。以前と比べればだいぶ中立的な視点で歴史評価がなされるようになってきてはいますが、未だ古代史におけるこの手の阻害要因は少なくないだけに、早くそうしたものから脱却すべきだと個人的には思います。

2019年9月30日月曜日

甲斐宗運の記事

 最近赴任してきた新しい同僚が登山が趣味だと言うので、「埼玉の山は道迷いが多いそうですね」と話しかけたら、「なんで登山してないのにそんなに山に詳しいの?」と言われました。そしたらすかさず別の同僚が、「この人は何にでも詳しい」とフォロー入れてくれました。

主君のために息子も殺す!甲斐宗運の忠烈無比な生涯(JBpress)

 そんなわけで今日出たこの記事ですが甲斐宗運です。熊本の人は地元に甲斐神社などもあって知ってる人も多いですが、そうじゃない人は信長の野望やってないとまず知らないでしょう。逆に、信長の野望やってたら阿蘇家という弱小勢力の中で極端に高いパフォーマンス発揮する人がいて妙に印象に残ってるはずでしょう。

 今回この人の評伝書こうと思ったのはいくつか理由があり、まず他にあまり取り上げる人がいなかったからです。執筆前に知識つけようとなにか解説本の類がないか探しましたがそれすら見つからず、完全に郷土の英雄に甘んじていたので、それなら素人の自分が紹介してもありかと思いました。
 次に、戦国時代の九州自体があまり取り上げられない傾向にあるため、島津、大友、龍造寺からなる三強のパワーバランスを書く上でも丁度いい位置にいる人物だと思ったからです。本文にも書いていますが、阿蘇こと熊本県はちょうどこの三強に取り囲まれた位置にあり、実際に各豪族はこの三強に時には協力し、時には誘いに乗ったりと激しい外交が繰り広げられていたそうで、そこらへんが面白いと思いました。
 最後に、実質的に島津ストッパーの役割を果たしてその九州統一を阻んだという功績も、もっと知られていいかなと思いました。

 なお最初は甲斐宗運と阿蘇家の浮沈をテーマに書きましたが、友人から流れが分かりづらいと言われ、自分も反省して甲斐宗運によりテーマを絞って書き直しました。結果的には文章はこれでだいぶ良くなりました。

 明日から中国は一週間の連休(その代わり昨日は出勤日)に入るので、また家でプラモ作る日々が始まりそうです。

2019年9月5日木曜日

ロシアから見たロシア遠征

 今週、長谷川哲也氏の漫画「ナポレオン 覇道進撃」の最新刊が発売され、陰鬱なロシア遠征がこの巻で終わりました。このあとはライプツィヒの戦いに続くわけですが、今回この漫画を見てナポレオンのロシア遠征で今まで知らなかったことが多かったとひどく痛感しました。
 具体的には、ロシア軍はずっと焦土戦術を取っていたと思っていましたが、実際にはモスクワ入場直前にボロジノの戦いが発生しており、ここで両軍ともに惨憺たる損害が発生しており、一次大戦以前で最も人が死んだ会戦などと呼ばれていることも初めて知りました。

 ただそれ以上に興味深かったのは、ロシア側の目線もしっかり描かれていたことです。ロシア遠征と言うと基本ナポレオンの視点でしかこれまで語られることがなく、退却時にフランス軍がどれだけ死んだかとか、そういったところしか私も今まで見てきませんでした。
 ではロシア側からの目線で見るとどうなのかですが、感想としては日本の元寇のような感じだったのかなと思いました。ロシア側としては大陸封鎖令を破ったことで圧倒的大群のフランス軍に攻められ、国土が荒らされる中、焦土戦術という首都モスクワすら焼く非常な作戦をとりつつも見事に撃退したこの戦争は実際に、ロシアでは大祖国戦争と呼ばれてナショナリズム高揚の際にはよく引用されるそうです。

 同時代であっても、レフ・トルストイの「戦争と平和」はこのロシア遠征をテーマに描いており、女帝エカチェリーナを除き貴族勢力が強かったロシアで皇帝権力が増して絶対君主制が確立した景気にもなっているだけに、国家形成という意味では非常に重要な戦争だったと言えるでしょう。

 話は漫画に戻りますが、個人的に興味を持ったのはロシア軍総司令官のミハイル・クトゥーゾフのキャラクターです。このロシア遠征時は既に高齢だったものの、若い頃はロシアとの戦争で軍功を上げていたことから国民の人気は絶大で、当初総司令官だったバルクライが不人気ゆえ引きずり降ろされたあともバルクライの焦土戦術を踏襲し、モスクワにフランス軍を閉じ込めて見事ロシアを逆転へと導いています。
 なおロシア遠征時のロシア軍にはほかにバグラチオンという有名な将軍もいますが、中にはこの名前を来てピンとくる人もいるのではないかと思います。というのも、二次大戦における独ソ戦でそれまで守勢だったソ連軍が反転攻勢をかけてドイツ軍を分断させた作戦名が「バグラチオン作戦」で、この作戦名は実際にボロジノの戦いで戦死したバグラチオン将軍から取られています。

 話はクトゥーゾフに戻りますが、ロシア領内からフランス軍を撃退したあと、意気高くそのままプロイセンと組んでフランスを完全に叩こうとロシア軍が遠征を準備する中で寿命死しています。漫画内でもその場面が書かれてあり、実力を認めるものの折り合いの悪かったロシア皇帝アレクサンドル一世が申し訳なさげに、「今まで、自分は悪い上司だったと思う。君の人気と功績にずっと嫉妬してきた」と病床のクトゥーゾフに語りかける場面はさすがは長谷川哲也と思わせられる演出でした。

 ただ、このロシア遠征で最高の場面はどこかというのなら、和睦を諦めモスクワからフランスへの帰国をナポレオンが決断した際、「やがて誰もが地獄を見る」というナレーションを振った次のページにて、

「そしてミシェル・ネイは伝説となる」

 と書かれたページが一番胸に来ました。具体的にどういう意味か知りたい方はぜひWikipediaのページをご覧ください。

2019年8月19日月曜日

活字と現実のギャップ

 DMMの電子書籍が半額ポイントキャンペーンやってるので、本誌掲載時に既に読んでますが、十年以上前の文藝春秋で行われた半藤一利氏らの二次大戦時の反省対談本のリニュアール版「あの戦争になぜ負けたのか」を買って読み直してました。改めて思ったこととしては、大西瀧治郎の評価はなんか対談時と今とで少し揺れているようなということと、呉市海軍歴史科学館館長の戸高一成氏の増補コメントがやや気になりました。

 戸高氏が若かった頃、周りには海軍参謀本部に出勤していたというガチな上司に囲まれてれて戦時中のかなりディープな話とかもよく聞かされていたそうです。そんなある日、自分の上司(中島親孝)が本を出したので読んでみると、普段ボロクソに貶している元上官に対して軟らかく書かれており、「いつもと違うじゃん」と突っ込んだら、「そりゃ本には書けないよ」とニヤリと返事されたそうです。
 言われることごもっともというか、普段激しく罵倒する人間であっても公共の出版物ともなるとそこまで直接的には書けないものです。ただこの点について戸高氏は、他の軍関係者による戦争体験記などの本も同じ印象というか、現実とのズレを感じていたと言及しています。やはりどの人間も実際に体験した内容を活字に起こす際、ありのままに書くよりかは現実とのズレが微妙に生まれる傾向があると捉え、それ以降は活字と現実のギャップを意識してそういった書籍を読むように心がけるようになったそうです。

 この活字と現実のギャップですが、私自身も思い当たることがあります。よくこのブログについて主張が過激だとたまに指摘を受けますが、ブログには書かないもののプライベートでは、「視界入ったら必ず殺すと伝えておけ」とか、元同僚に対し「あの元上司に機会あったら必ず襲うからクビ洗って待っとけと花園が言ってたと伝えておいてください」などという発言をよくします。
 もっとも実際に襲撃かけることはほとんどないのですが、少し不思議なのは、誰も「口先ばっかじゃん(*´∀`)」っていうフォローを入れてくれません。友人の上海人も物騒な発言ばかりしているせいか、「いつかキミに殺されるような気がする(´・ω:;.:...」と最近言うようになりました。

 話は戻りますが、現実として上記のような傾向、具体的には現実よりも表現はソフトになる傾向というものは確実に存在すると思います。そういう意味で戸高氏の姿勢は理に適っていると思うのですが、恐らく意図してのことだと思いますが、上記の言及の後で戸高氏は特攻についても触れています。具体的には特攻を命じた人間はほぼみんな自分も後を追うと言いながらも、実際にそれを果たしたと言えるのは大西瀧治郎と宇垣纏くらいで、「戦後の復興に力を尽くすべきだった」と言ってのうのうと生きながらえた矛盾を指摘しています。
 この箇所と前半部の活字と現実のギャップを見比べていてふと感じたこととしては、特攻は皆志願して行われていたという戦後の言及は、どう取るべきかと感じました。

 これまでの研究から現実には特攻命令を拒否することは出来ず、意思確認書で拒否を付けながらも同意に書き換えられたなどと言った事例が確認されています。無論、実際に志願者もいたことは事実でしょうが、私が子供だった頃は特攻はほぼ志願者によって行われていたという説明が支配的なくらい強かった気がします。それは何故かと言うと、先程の活字フィルターによるギャップではないかという気がします。
 具体的には、有無を言わさず特攻を命じた人間たちが戦後になって、自らを擁護する目的で「強制ではなかった」、「皆立派に志願してくれた」というように書き残したせいではないかという考えがもたげました。自分が強制したという事実は隠した上で。立場や動機を考えると、むしろこのように事実を捻じ曲げた主張をすることのほうがむしろ自然であるでしょう。

 そう考えると、回顧録や随想録というのはやはり注意して読むべき資料と言えそうです。以前にも書きましたが、戦争リアルタイムの手記と戦後の手記では同一人物が書いたものでも内容が大きく異ることも珍しくはなく、やはり多かれ少なかれ時が経つに連れ自らを美化する傾向は必ずあります。そこをどう峻別するかが、学者としての力量は問われることでしょう。

 なおこのブログもそうした点を考慮して、敢えて昔の記事とかをそのまま残しています。将来的に使う人がいるかわかりませんが、事件発生当時に同時代の人間がどのように感じて見ていたのかを残す記録資料になればいいなとかたまに思ってます。


2019年8月13日火曜日

約束を破り続けた国の末路


     (  ´・ω) 
    γ/  γ⌒ヽ   (´;ω;`)  ウッ…
    / |   、  イ(⌒    ⌒ヽ
    .l |    l   } )ヽ 、_、_, \ \
    {  |    l、 ´⌒ヽ-'巛(  / /
    .\ |    T ''' ――‐‐'^ (、_ノ
        |    |   / //  /
      パットン   冷蔵庫

 DeNAのパットン選手の冷蔵庫殴打事件の報道を見るたびに上のAAを連想しています。っていうかパットンは球団やファンだけじゃなく冷蔵庫にも謝るべきでは。

 話は本題に入りますが、中国の春秋時代は今の日本の皇室に当たる周王室は既に権威も権力を失い、各地域を収める王がそれぞれ独自に勢力争いとかしていました。ただ全く秩序がなかったわけではなく、何年かに一度は猫の集会みたくみんなで集まって、リーダーこと覇者を決め、その覇者の裁定などを受けるなどして利害を調整しあっていました。
 この春秋時代の主だった覇者のことを「春秋五覇」と呼びますが、五人のうち斉の桓公、晋の文公については異論はないものの、残り三人には誰を加えるかは人によってバラバラで、私自身は無理して五覇としなくてもいいのにとか思っています。

 なお春秋時代の最強国については諸説ありますが、後の時代を考慮すると地味に晋だったのではないかと私は考えています。というのも晋は当時の中華世界のほぼ中心に位置し、異民族との防衛も担っており、また戦国時代には韓・魏・趙の三ヶ国に分裂するものの魏と趙は有力国として残り続けています。
 そんな晋から飛び出てきた覇者というのが先程の文公ですが、知ってる人には早いですが彼は放浪の覇者として有名です。というのも彼の父親の代、父親の寵姫であった驪姫が自分の息子を後継者にしようと讒言活動を行った結果、英邁と誉れ高かった文公の兄に当たる長男は処刑されることとなりました。

 これに驚いた文公は晋を脱出して母の出身地に亡命したのですが、その後文公の父親が死に、驪姫の息子が跡を継いだものの、家臣の反乱にあって母親ともどもあっさり殺されてしまいます。家臣らは亡命した文公を主君に迎えようとするものの、粛清される恐れから文公はこの要請を拒否したので、家臣らはかわりに文公の弟に当たる恵公を迎え入れました。
 この晋の恵公は帰国する歳、春秋時代から強国だった後に天下統一する秦に支援を仰ぎ、秦の警護のもとで無事に帰国を果たして即位します。即位後、自らを迎え入れた家臣に対し、「先に文公に要請を出した」という理由から粛清しています。

 この恵公の帰国時、恵公は無事即位した暁には秦に一部領土を割譲することを約束していました。しかし即位したらこっちのもんとばかりに恵公はこの約束を反故にします。そしたら数年後、晋で飢饉が発生したため恵公は図々しくも秦に食糧支援を求めてきました。
 流石に秦の人たちも、「あんな野郎ほっとけ!」とその図々しさに腹を立てていましたが、後に名君と讃えられる秦の穆公は、「民に罪はない」と言って、粛々と食糧支援に応じました。

 それから数年後、今度は秦で飢饉が起こったので晋へ食糧支援を求めました。そしたら晋の恵公は、「飢饉で弱っているはず。攻めるなら今がアタックチャンス!」とばかりに、なんと秦に対して侵略してきました。この暴挙に怒った秦の人々は飢饉なんてへっちゃらさとばかりに晋軍をめっためたに叩き潰した挙げ句、恵公すらも捕虜にしてしまいました。何度も約束を破られていることもあり恵公をみんなのいけにえにしようとまでしましたが、夫人に諌められたので恵公の王太子を人質とすることで帰国させました。
 それから数年後、恵公が病気になって弱っていると知った王太子は、人質であることなんて関係ないとばかりに無断で帰国し、恵公の逝去後に跡を次いで即位しました。これには優しい穆公も激怒し、亡命で放浪していた晋の文公に連絡を取り、「あいつら叩き潰すなら何でも協力する」と約束します。

 こうして秦の支援を得た文公は弟であった恵公の息子を楽々撃破し、晋の王位を継承して文公となり、放浪生活で培ったリーダーシップを発揮してその後覇者に推戴されることとなりました。

 何がいいたいのかと言うと、隠す必要もないのでいいますがこの一年くらいの韓国を見るたびに晋の恵公をいつも連想します。
 かつて日本がソ連と日ソ不可侵条約を締結する直前にある外交官が、「近年の国際条約の反故事例の大半はソ連が当事者であり、そのような国とは条約なんて結んではならない」と反対したと聞きますが、その後の結果を見る限りこの危惧は完璧な形で的中しました。このように、普段からどれだけ国としての約束事を守っているかというのは国家としての信用に関わるのは当たり前ですが、それ以上に普段から約束を破る相手とは必ずまた破るものだと考えていいでしょう。

 ある意味中国なんかもその典型ですが、中国のいいところはやはり利に聡いと言うか、大きな損失につながったり、逆にものすごい儲けに直結する場合は比較的約束を守るところがあると思います。なんだかんだいいつつ、やはり商人の国だと私はみています。
 一方、韓国に関してはもはや対話のできる相手ではないように見えます。中国と違って利益に直結するような内容ですら平気で横紙破りをやってきて、また過去に日本側が不利を被るような約束を結んだにもかかわらず今回のように反故にしてくるあたり、信用ではなく力関係でしか相互強制性を備えた約束はもはや結べないでしょう。その上ではっきりいうと、このような国家間の約束を守らない国は古来繁栄した例はなく、晋の恵公の轍を踏むのではとまでみています。

 逆にと言うか、今回日本が一部戦略物資の輸出条件を厳格化した際、韓国にとっては寝耳に水で大慌てだったと聞きます。裏切り、騙し討ちというのは基本、普段から嘘ばっかついている人間だとそもそも周りがあまり信用しないため効果は薄くなります。逆に普段全く嘘つかずに正直に生きている人間ほど、ここぞで出してくる嘘、騙し討ちというのは多大な効果を発揮するもので、私も騙し討ちを迫られるような機会がいつか来るかもしれないと思い、普段はめっちゃ正直に生きるようにしています。
 無論、日本の今回の輸出条件厳格化は騙し討ちでもなんでもないですが、この手続変更が韓国を大慌てさせたということは、カモにみられていただけかもしれないものの無駄に信用はされていたんだなとは思います。

2019年8月5日月曜日

皇道派と統制派の源流

排除された長州閥、昭和陸軍のえげつない派閥闘争(JBpress)

 というわけで全く受けなかった歴史連載の三本目ですが、自分としては割とこの記事は気に入っています。というのも、旧日本陸軍の歴史を揺るがす派閥抗争の主役である皇道派と統制派について、どうして成立したのかという過程がうまく書けている気がするからです。

 皇道派と統制派は、大学受験で日本史を先行した人間、並びに戦前軍事史に興味がある人間にとって忘れたくても忘れられない用語といっていいでしょう。陸軍内で生まれた両派閥の抗争は永田鉄山の斬殺(相沢事件)、そして二・二六事件の勃発にまで発展しており、特に後者は日本近現代最大のクーデター事件としてその歴史的価値も重いです。
 ただ、この皇道派と統制派がどうして生まれ、何をもって争っていたのか、一体どういう基準で派閥が生まれたのかという経緯については、大学受験時の私はいくら調べても全く理解できませんでした。皇道派がその名の通り尊王意識が強い集団なのかというと、統制派も決してその方面の意識が弱いわけではなく。皇道派は若手将校が多く統制派が中堅より上の軍幹部が多かったといいますが、皇道派も軍の要職にいた幹部は少なくありません。

 またかつて作家の佐藤優氏はこの両派閥の抗争について、単なるポストをめぐる世代間抗争だと評したことがありましたが、これもやはりしっくりこないと言うか、確かに皇道派が若手将校が多いものの、そんな軍内の世代抗争はどの時代、どの国にも普遍的なもので、何故戦前の日本においてこれほどまで抗争が先鋭化したのかという点で疑問でした。
 そもそも、両派はいつどうやって生まれたのか。各歴史本でも突然生まれた、もしくは始めから底にあったかのように説明しているものが多く、このほか統制派だった元軍人は「自分たちで統制派とは名乗ってなかった」、「皇道派の連中が勝手にそう呼んでいた」、「後世になってから呼ばれ始めた」などと証言しており、本当にこういう構想というか派閥が分かれいたのかという点でも疑問でした。

 最後に、両派閥の区別と言うか主張の違いは何だったのかという点において、日本の防衛構想でソ連を仮想的にして北に備える派(皇道派)と、中国を先に叩いておいてからソ連に備える派(統制派)という違いがあったという説明もありました。しかしその後の経過を見ると、皇道派に属すと思しき軍人が結構満州事変に関わってたりして、方針と行動に一致しないようにも感じました。ならなんでこいつら争ったのか、このへんでますますわからなくなりました。

 そうした疑問を長年に渡り抱えて来たのですが、最終的には意外なところからこの両派閥のルーツを知り、なんであそこまで憎悪し合ったのかが一気に合点が行きました。その経過を説明したのが、今回の記事です。

 実際に記事を読んでもらえばわかることですが、皇道派も統制派も、元々は反長州閥のために結託した同じ穴のムジナだったということです。最初のきっかけは「バーデン・バーデンの密約」に集まった岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎(のちに東条英機が合流)の面々が陸軍内の要職を占める長州閥を追放しようと連盟を組んだことに始まります。このメンバーが中心となって非長州系の荒木貞夫や真崎甚三郎を陸軍内で盛り立てつつ、賛同者を集めて徒党を組んで出来たのが一夕会でした。
 この一夕会は事実上、反長州閥連合といってもいい派閥で、かなり執拗な嫌がらせなどの運動もあって長州出身者の勢力を陸軍内から追い出し、一夕会メンバーで要職を占めることには成功しました。これで話はめでたしめでたしとなればよかった所、発足メンバーだった永田鉄山と小畑敏四郎が前述の防衛方針を巡って意見が対立するようになり、これにより一夕会が分裂したことで、皇道派と統制派が成立するに至ります。

 以上の通り、皇道派も統制派もそもそもは「反長州閥」という思想で共通していました。それが主導権を握るや、さらなる実権を狙って対立して分裂した、というのが私の理解です。ですので防衛方針の食い違いが対立の端緒とはなったものの、実際この方針の違い自体はそれほど大きな思想的対立理由ではなく、それ以上にむしろ「元同志間の権力闘争」という点のほうが互いの憎悪を高めたのではないかと見ています。
 説明するまでもないと思いますが、初めから敵だった相手よりも、元は仲間だったのに今は敵という相手の方が人間、激しく憎悪を持つものです。この皇道派と統制派の場合、なまじっか共同で実権を握った後だったから余計に始末が悪かったのでしょう。

 ここまでの流れを把握して、ようやく私の中で両派の抗争がストンと理解できました。流れとしては、

反長州閥で結託→長州閥追い出しに成功→実権握った、さてこれからなにしよう→微妙に内輪で意見が合わない→マジムカつくんですけど!

 こんな具合で、血で血を争う内部抗争へと発展したと見ています。もっとも二・二六事件に関しては、賄賂の横行や大不況という外的要因が、若手将校の多かった皇道派をより刺激することになったとも思え、統制派との対立だけが理由ではないでしょうが。

 なお統制派は永田が斬殺されてからは東条とその取り巻きが主導するようになるわけですが、どうもネットの声とか見てると、こうした継承を経ていることから永田と東条が混同されているフシが見られます。具体的に言えば東条は非常に賢かった、だから「カミソリ東条」と呼ばれたなどと書かれていることですが、「カミソリ東条」と呼ばれたことは間違いないものの、東条が賢かったというのは実際は違うでしょう。
 というのも、東条は陸大を卒業しているので十分エリートと呼べる存在ではあるものの、陸大受験では何度か落第していて挑戦可能なギリギリでようやく合格し、卒業時の席次も下から数えた方が早いです。

 一方、永田は陸大卒業時に次席(主席は梅津美治郎)で文句なしのエリートの中のエリートだっただけでなく、その頭の良さは陸軍内でもトップと誰も疑わなかったそうです。あるエピソードによると、試験前にも関わらず私見と全く関係のない中国語の本を読み耽っているのを見た同級生が、「やる気なくすから俺の前でだけはちゃんと試験勉強している振りしてくれ」と言われたという話が伝えられています。
 こうした永田の伝説が、一部東条のものと誤解されて伝わっている気がします。まぁ逆を言えば、海軍と違って陸大の成績順に出世が決まらないあたりは陸軍は現場重視だったということの証左ですが。