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2014年1月13日月曜日

家族関係が異常に希薄な日本民族

 このところ日本人論ばかり書いていていい加減食あたり気味ですが、何故か知らないけどこのところこういうネタばかり思い浮かぶので片っ端から書いていきます。これらの日本人論は基本的に日本人を持ち上げる物ではなくむしろ批判的な内容に染まっていますが昨日に友人から、「好きと嫌いは背中合わせだよ」というようなことを言われ、こういう内容でも参考にしてくれればという思いがもしかしたら自分にあるのかもしれません。
 なお私はプロフィールで専門は国際政治と社会学と書きましたが、大学在学中に在籍した学部は社会学で、その中でも人類学のゼミを受講していました。そういう意味ではこれら日本人論は秦に自分の専門にマッチした内容であるのかもしれません。

 それではそろそろ本題に入りますが最終的な結論から述べると、あくまで私個人の実感ではありますが誇張ではなく、私は日本人ほど家族を大事にしない民族を知りません。もちろん戦争中や宗教上の戒律などがある場合は別ですが、一般的な先進国における家族の中隊を見比べるにつけて日本人が最も家族をないがしろにしているように見えます。

 私が比較対象として考えているのは米国と中国ですが、米国に至っては児童虐待事件なども少なくないものの、普通の家庭では子供が成人した後もハグし合ったりしたり、お互いの誕生パーティを派手に開いたりしていて全く屈託がありません。そして中国に至っては儒教的概念からか明らかに一族意識が強く、旧正月には一族で集まったり、記念日などに親へ贈り物を送ったりする習慣がありその中退は非常に強いです。なお以前に日本で夫婦別姓が議論された際にある議員が、夫婦別姓にしたら日本の家族における紐帯が切れるなどと言って反対しましたが、中国は夫婦別姓にもかかわらず家族仲が日本よりよさそうに見えるのは私くらいなものなのでしょうかね。

 話は戻しますがこうした他国に比べ、残念ながらというべきか日本の家族関係はそれほど濃いようには見えません。子供が幼児であればまだアットホームな光景が浮かびやすいですが、一度成人にもなろうものなら非常に関係が希薄になり、私の周囲でもそれほど顔を合わせたくないという人が少なくありません。
 また仕事との関係でもこうした傾向は顕著で、日本では未だに仕事のために家族を犠牲にすることが美徳というか推奨されます。たとえば野球などでは米国から来た外国人選手が家族が病気などになるとシーズン中でも帰国しますがこれなんか批判の的になるし、このほか家族を優先して残業せずに帰ろうとしたら「やる気あるのか?」とすごまれる職場なんて星の数ほどあるでしょう。多分というか中国人なら家族を優先して仕事をさぼる、もとい頼んだって残業をしないほど自分の気持ちに素直に従うと思います。

 もちろん個別の家庭によってこうした家族意識は千差万別でしょうが、社会全体でみるなら家族という単位が日本では非常に弱く、それが組織への概念意識の低さにもつながっているように見えます。蛇足かもしれませんがやっぱり普段ユースを見ていて、児童虐待を行った親に対する報道というか社会の批判が緩すぎる気がします。今日日一人の殺人でも死刑が判決されるのだし、自分の血を分け、さらには何も抵抗できない子供を殺害する人間に対しては例外なく死刑でもいいと思うし、殺害まで行かずとも暴行を行う親に対してももっと社会が厳しい目を持ってヒートアップした報道がされてもいいような気がします。なんていうか、今の状況は淡白すぎるというか。

 また話は戻しますが、じゃあなんで日本人はこんなに家族意識が低いのか、「団塊が悪い」と団塊の世代のせいにしたら楽っちゃ楽ですしあながち間違っていない気もしますがもう少し考察すると、歴史的には日露戦争が一つの区切りだったかなぁという風に考えてます。
 日露戦争ときたら与謝野晶子で、出征する彼女の弟を心配する短歌が新聞に載ったら与謝野晶子が市民から批判されたという事件がありました。何が言いたいのかというと国家意識を高める教育をしていくうちに外見だけ「お国のために」なんて言っていたらいつの間にか本音と建前が入れ替わってしまい家族意識が微塵もなくなった、というには自分で書いておきながらですがやや強引ですね。

 まぁこの際原因は何だったかは置いといて今後日本人はもっと家族関係を濃くするべきなのか、このままを維持するべきなのかを少し考えます。私自身リアルに親戚と絶縁に踏み切るほど家族関係が希薄な人間の一人ですがそれでも敢えて述べると、本気で少子化対策を進める気があるというのであれば「家族を大事にするべきだ」というような標語を国家レベルで普及させるべきでしょう。
 昨日の記事にも続きますが突き詰めると日本の少子化は家族関係の希薄さが大きな原因のように思え、家族というものを大事にする日本人が増えることによってこの方面の問題が少し改善するような気がしないでありません。なのでそれこそさっきみたいに家族を優先したいのに残業を強制する様な企業に対して目立つところを二、三社くらい業務停止させ、大々的に発表しさえすればみんな一斉に黙るんだし、こういうところに着眼点を置いて政策立てたらどうかなって思います。

 最後に面倒な説法は嫌いな人は読まないことをお勧めしますが、自分の思想の原点は良くも悪くもキリスト教の概念が非常に強いです。そのキリスト教における重要な協議の一つに「隣人愛」という概念があり、これはどの人間に対しても隣人の様に愛せよという説明がよくなされていますがそれ以外の解釈として、ただ隣人を何よりも愛せよという説明のされ方もあります。これはどういう事かというと私の解釈で言えば、距離が近い身内の人間を大事にできない人間がどうして多くの人を大事にできるのか、身近な人から大切に思うことが博愛の精神につながるという風に見ております。

2014年1月12日日曜日

中国の報道から見る日本の課題

高齢化が進行する日本 専門家「中国も警戒すべき」(人民日報日本語版)

 遅くまで友人と話をしていたことから今日も執筆する時間少ないので以前に撮りためていた記事を今日は紹介します上記のリンク先は人民日報日本語版に掲載されていたものですが、日本の少子高齢化の現状を紹介しつつ、中国でも今後直面することが予想される少子高齢化に対してどのような対策が必要なのか専門に尋ねたインタビュー記事です。

 内容としては中国で今後求められる対策に重きを置かれていますが、日本の現状について過去何年にも関わらす少子化対策が実施されているにもかかわらず効果が出ていないどころか、減少傾向に拍車がかかっていると耳に痛いことを書いてくれています。あとこの記事で地味に初めて知ったのですが、「また、日本人の離婚率は2013年に34%にも達した。3組が結婚すれば、1組が離婚する計算だ。」も書かれてあり、そりゃ子供も減る、もとい独身者も多いわけだよと納得しました。ちなみに近々詳しく書く予定ですが、私は日本人ほど家族関係が希薄な民族は知りません。

 話は戻しますが耳にの痛いこと一杯書かれている一方、外国からの支店だけあって冷静に日本の現状が書かれている気がします。あとこの記事中で果たして日本の少子化対策がどれほどの効果を上げているのかという質問も挙げられていますが、それについてはもし対策が何も成されていなかったらもっと減少していたかもしれないと優しくフォローしてくれています。しかしこの問題について私はやはりもっと日本人は真剣に考えるべきで、たとえばゆとり教育などでもほとんど期待した効果が出ていなかったにもかかわらず導入に関係した責任者は誰も処罰されていません。

 同様にこの少子化対策においても、少なくとも目に見える効果が出ていないにもかかわらず予算だけは毎年山ほど使われ、わけのわからないポスター代とかに消えていることを考えると果たして今何が求められているのか、何が不必要なのがもっと真剣に議論すべきでしょう。その上で、これまで何も効果を挙げられなかった責任者に対しては相応の処分を取り二度と政策や立案に関われなくするべきです。

 なおたまに中国崩壊論の根拠として一人っ子政策から来る人口比の歪みが社会を崩壊させるなどと述べ、上海市の60歳以上人口の比率が四分の一まで来ていると主張するお馬鹿さんがいますが、日本は65歳以上で四分の一まで来ています。しかもさっきの中国の数字は中国で最も高齢化が激しい上海という一地域に限定されている一方、さっきの日本の高齢化率は全国での統計で、今後団塊の世代が65歳以上に入って来ることを考えるとここからさらに急激に数字が跳ね上がってくる計算となるわけです。よく上海時代に同僚と、日本終わってるなぁ等と話したもんです。

  おまけ
 先ほどの上海の高齢化率の数字ですが、介護市場関連の記事ではよく引用していました。その際に日本のデータとの比較をしてしまうと、「なんだ、中国の高齢化はまだまだ進んでいないじゃないか」ってことになっちゃうので、編集部内で絶対に出さないという方針で一致しました。実際に自分は一回計算したけど、日本は二年前の時点で60歳以上の人口比が30%まで行ってたような。

2014年1月10日金曜日

漫画レビュー「実は私は」

 火曜日に突然上海から友人が電話をかけてきたので受け取ったのですが、「バイオハザード4が2本もうちの中に転がっているんだけど(;Д;)」といきなり言ってきました。
 種明かしをすると、先月に日本にやってきた際に面白いPS2のゲームソフトはないかと尋ねるので「バイオ4がお勧めだよ」と自分が勧めたので友人は買って帰ったのですが、この前部屋を掃除していたら全く同じソフトが家の中に既に存在していたとのことです。友人によるとそのソフトは友達から受け取ったものですっかりその存在を忘れていたために必要もないのに2本目のバイオ4を買ってしまったとのことです。まぁその友人にバイオ4を譲ったのは私なんですけどね、すっかり忘れとったわ自分も。

 話は本題に入りますが、久々に自分の中でスマッシュヒットというか面白いと思えるマンガを読み始めたので紹介しようと思います。そのタイトルというのも見出しに掲げた、現在少年チャンピオンで連載している「実は私は」です。

実は私は(Wikipedia)

 この漫画のあらすじを簡単に書くと、主人公は思っていることや考えていることがすぐに顔に出るほど嘘が苦手な男子高校生なのですが、ふとしたことをきっかけに片思いの相手である同級生の女子生徒が実は吸血鬼だったことを知り、この事実がばれれば退学となる女子生徒を慮って周囲にばれないように協力しつつト様々なラブルに巻き込まれるというよくある学園ラブコメです。そんなよくあるラブコメの何が面白いんだって自分で書いてて思いますが、特筆すべき点は掲載誌がチャンピオンなだけに登場するキャラクターがどれも濃いというか、個性が強くてキャラが非常によく立っている点だと私は思います。

 私がこの漫画に興味を持ったのは「実は私は」という変わったタイトルと、単行本1巻の表紙絵がちょっととらえどころがないというかどういう漫画なのかわからなかったことがきっかけです。なもんで早速レビューを探してみると、「ヒロインの口が極端にでかい漫画」と書かれあり、なんやそれと逆に興味を募らせていったことから先日に電子書籍で購入するに至りました。読んでみてやっぱりヒロインの口がでかいと思ったが、こんな形容されるヒロインって今までいたのかな。

 仮にヒロインが実は吸血鬼ってだけの漫画だったらこれまでにいくらでもあったでしょうが、この漫画はヒロインに限らず、っていうかほぼ主人公以外が「実は……」って感じで何かしら秘密なりを持っているキャラクターで占められてます。代表的なのはサブヒロインの委員長で、多分この漫画で一番人気あるキャラクターだと思いますが、思ってることが顔に出やすい主人公に対して告白される前に振るというお決まりな役割で第一話に登場したかと思えばその後、なんとその正体は手の平サイズの宇宙人で普段は本体と全く同じ外見の外部ユニット(アンドロイド)に乗って行動していたということがわかります。委員長らしく真面目な性格であるもののすぐに冷静さを失うという性格も見ていて飽きません。
 このほか後からやってきた狼男が月(写真でも可)を見ると普通の人間に戻るかと思いきや痴女に変わるとか、学校の校長先生が悪魔だったりとかで、むしろメインヒロインが吸血鬼なだけでキャラ薄くないかと思えるくらい濃い面々が次々と登場します。

 こんな具合で面白いから一気に現在まで発売されている4巻までまとめ買いしちゃったわけなのですが、連載開始当初はともかくとして2巻以降からは絵の質も安定しており、どこに出しても恥ずかしくない漫画に仕上がっていると思えます。あとこれは私の主観ですが、ストーリー展開もテンポがいいことはもとより、コマ割り、特殊効果、背景、人物の表情など漫画に必要な要素が実に過不足なく整っており、作者の増田英二氏はある長所が極端に高くない一方で短所がほとんど見当たらない漫画家の様に見えます。長所が極端に高くないとは言いましたが人物の描き分けとあとキャラクタの表情に関しては一般的な水準を確実に超えており、それらが内容にマッチしているから自分は面白いと感じるのでしょう。

 あとこっからまた持論ですが、普通ラブコメと言ったらその人気を左右するのはヒロインを始めとする女性キャラクターをいかにきれいにかわいく描けるかに尽きると言われます。ただ私は以前から「それは違うんじゃないか」と考えており、むしろ主人公の男性キャラクターの人物像がラブコメで最も重要な要素だと考えてなりません。
 一例を出すとこれはゲーム(ギャルゲー)ですが昔セガが出してた「サクラ大戦シリーズ」では当時全盛期(今はもう……)だった藤島康介氏がデザインした女性キャラクターが人気の要因となった一方で、主人公の男性キャラクター(大神一郎)が真面目で決断力があり、それでいて公平な性格で優しい人物像であったことから女性を中心に高い人気を得たと言われます。実際に私も1と2はプレイしましたが、男の自分から見ても応援したくなるような主人公で、ゲーム中はほぼハーレム状態であるにもかかわらずどこからも悪く言われることがない稀有なキャラクターでした。

 この「実は私は」に出てくるヒロインらは決してかわいくないデザインというわけじゃありませんが、勢いのある萌えマンガと比べるならやや古いデザインで、極端に優れている程ではありません。その一方で各キャラは個性というかキャラ付けが際立っている上、男性である主人公はやや気弱でキャラが薄いですがメインヒロインに対しては一途な感情を持ち続けている上に基本的にやさしく、読んでて好感が持てる人物像になっています。こういう要素が上手く絡まっているというかキャラクターをしっかり使いこなしているのは見事というしかなく、ちょっと気が早い気もしますが多分アニメ化まで行くんじゃないかと現時点ですら思えるマンガです。
 なおネタバレになるので断片的に言いますが、現在最新刊の第4巻で先ほど言った宇宙人な委員長がタイトルの言葉である「実は私は」を冒頭にして始める独白シーンは読んでて何度も見返すほど感情移入できるシーンに仕上がっており、チャンピオンも「イカ娘」の作者をはじめ、たまに面白い作家拾ってくるなと感心させられます。


2014年1月9日木曜日

アンパンマンマーチを改めて聴く

 あんまよくないことだとは重々承知ですが、かなり昔に下記のYoutubeの動画ことゲームの「ゼルダの伝説」に使われるBGMをオーケストラ演奏した動画にいたく感動して今でも定期的によく聞いております。


 この曲自体はゲームのプレイ中に何度も聞いたことがあるにもかかわらず、改めて高質な楽器と演奏家によって演奏されるとこうも感動が違うのかと音楽の偉大さを改めて感じ入った動画です。私自身は昔からそれほど音楽に素養がなくリアルに5段階評価でいつも「2」だったくらいですが、こういうオーケストラチックな音楽ではほかにも「天地創造」というゲームのサウンドトラックを持っててこのゲームに使われているそれっぽいBGMを何度もかけて聞いており、もしかしたらそういう嗜好があったのかもしれません。
 それで一昨日にふと、我ながら突然すぎるけどさっきのゼルダの曲みたいにありふれた音楽だけどオーケストラっぽくしたら聞き応えがありそうな局はないのかと歩いている最中に考えだし、いくつか案があった中で最初にネットで検索を書けたワードというのが「アンパンマンマーチ オーケストラ」でした。

 なんでアンパンマンマーチが出てきたのか、っていうかなんで突然オーケストラっぽい曲を求めた時点で意味不明ですが、恐らく原作者のやなせたかし氏が昨年に往生されたことが頭に引っかかっていたためではないかと思います。それと共に自分は社会記事も書けばブログ記事も書き、一時期はむしろ小説のがメインだったくらいの活字狂ですが、そもそもの物書きスタートは作詞家になりたいと思ってゲームのBGMに歌詞をつけ始めたことがきっかけでした。自分の本領は長い文章で発揮されるため歌詞という短いワードにいろんな意味をこめてリズムを作るというのは向いていなかったのですぐやめましたが、自分にないものを持っている人は素直に尊敬できるというか、やはり立派な作詞家や俳人には頭が下がります。

 そうしたことを踏まえた上で改めてアンパンマンマーチの歌詞を思い返すと、何故この歌を自分は子供の頃に歌っていたのに大人になって歌わなくなったのだろうかと思うくらいに精緻でありつつ実に情熱の詰まった歌詞のように感じます。これはほかのブログで色んな方々が書いておりますが、やっぱりこの歌は大人になってから歌詞を読むと全然違った意味が見えてくるように見え、それでいて槍で刺しぬかれるかのような強い衝動を胸に覚えてきます。
 具体的にどの箇所が胸を打つのか、私個人としてはJASRACを恐れずに該当箇所を引用すると、

なにが君のしあわせ
なにをしてよろこぶ
わからないままおわる
そんなのは いやだ

忘れないで夢を
こぼさないで涙
から君はとぶんだ
どこまでも

 この部分が私としてはダイレクトに響くというか、失った感情を取り戻すかのような感覚すら得ます。それこそさっきのゼルダの伝説のように、ちょっと音程をクラシック風に変えさせてもらって50人くらいの大合唱にして聞いたら涙が止まらないんじゃないかと思うくらいです。誰かやってくんないかなぁ。

 折角の機会なのでこのまま書き続けますが、私が子供だった頃にアンパンマンマーチの歌詞が話題になると、「愛と勇気だけが友達さ」という部分を揚げ足とって、「アンパンマンって愛と勇気しか友達いないんだぜ」なんて小4くらいの頃によく言ってた気がします。
 しかしこの部分には深い意味があるとされ、というのもアンパンマンマーチの歌詞というのはやなせたかし氏の弟に捧げられた歌だったそうです。その弟は、特攻隊の一員として戦死された方だそうです。

 愛と勇気だけと書かれたのは、飛び立つ際に本当にそれしか抱えられなかったから、友人や家族などを伴わず本当に自分自身で孤独に飛び立たなければいけない中で奮い立たせるものがこれしかなかったからだなどという解釈がなされています。それと同時に、アンパンマンはバイキンマンなどと戦う際に誰かを頼ることは許されず、誰も戦友と呼べるものがいない中で自分一人が犠牲になって戦い続ける孤高を示したものだという解釈もあります。

 前者については私から何も書くことはありません。後者についてはもう少し書くと、ヒーローというのはやはり孤高であるからこそヒーローだという気がします。戦友というものがいれば確かに頼もしいけれど、それは戦友を戦いに巻き込むことにもなり、それであれば敢えて自分一人で戦い続けるという姿勢こそがヒーロー像であると私は考えます。アメコミなどはこうした傾向が強く、バットマンもスパイダーマンも社会のはみ出し者として描かれており、バットマンにおいてはサイドキック(=相棒)と呼ばれるロビンなどのキャラクターも出てきますが、大抵悪役に殺されたりするので「争いに巻き込む」という悲劇を演出しているような気がします。自分もこういうのに影響されているのか知らないけど、やたら一人で孤独に突っ張ることが多いです。ただ単に友達が少ないだけですが……。

 最後の最後にどうでもいいことを書くと、もうこの際だからアンパンマンマーチを日本の国歌にしてもいいんじゃないかとすら思うようになってきました。英語にすると「The March Of Anpanman」でそれなりにかっこよく見えるし、東京五輪の国歌斉唱でこの曲をみんなで歌えば韓国や中国の連中だってもう靖国なんてどうでもいいと思い始めるんじゃないかな。
 でも真面目な話、婉曲の聞いたわけのわからない歌詞なんかよりずっと、単純でありながら強い意志のこもった歌詞の方が胸に響くね。

2014年1月8日水曜日

最近書いた記事について

 正月に色んな人と会ったりスカイプで会話したりしましたが、その際にこのところの記事の感想などをよく訪ねていました。自画自賛となりますが先月こと2013年12月からやけに記事の質が上がっており、誤字脱字が多いのはいつも通りですが書きたてるテーマがそんじょそこらじゃお目に書かれないテーマが多いだけに自信を持ってお見せできる記事になっていると胸張っています。

 具体的な記事タイトルを挙げると、「『予定通り』にアイデンティティを持つ日本人」が去年一年間では最高傑作であったのではないかと思います。着想自体は他人からの引用ですがそれを具体例など共に解説し、人生のライフコースを定めた年齢通りに歩むことでしか幸福感を得辛いという日本人の特性を指摘したのはいい反応をしたと思います。やはりいい記事には人が集まるというか、どうもツイッターか何かで紹介してもらってこの記事を出した後しばらくはアクセス数がやけによかったです。

 同じく日本人論、というかこのところ日本人を批判したり貶す内容ばかり書いてて、「あなた疲れているのよモルダー」と言われそうな状態ですが、つい先日書いた「監視し合う民族」の記事もほかの記事と比べてややアクセス数がいいです。この記事は自分自身が一から着想して形にしている内容なだけに自分も気に入っているとともに、ある種自分の中で自分が日本人らしく振る舞う必要はないと決別するような意思表示をこめているので将来忘れられない記事になる気がします。
 なおこの記事について友人にコメントを求めたところ、自分の記事全体に言えることとして小泉元首相のような雰囲気を感じると言われました。その心はと説いたところ、「敢えて敵を作って自分の立場を明確にするような感じ」だと言われ、よく自分の記事読んでくれているなぁとしみじみ覚えます。なおその同じ友人によると、その前の「阿修羅像祀ってみた」の記事については、「あのノリとテンションはよくわからなかった……」と至極真っ当なコメントくれました。内心、自分でもよくわかりません。

 あと名古屋に左遷されて「最近年取ったせいか怒りっぽくなってんねん」と言っているうちの親父からは、「スマイルサーバーに対する不満と不信」の記事が八つ当たり的な内容を書き殴っているだけで、公平性に欠けててよくないとお叱りを受けました。自分としてはあくまで一ユーザーの立場としてスマイルサーバーの感想を述べたのだし、こういうのを見てレンタルサーバー会社を選ぶ人もいるんだからアリかなと思ってましたが、確かに八つ当たりと言えば八つ当たりなのでちょっとだけ反省することにしました。ちなみにある友人はこの記事の冒頭文にある、「私とNTT西日本が運営するレンタルサーバーサービス、スマイルサーバーとの心温まるふれあいについて」という一文が印象に残っていたようでわざわざ向こうから口に出してきました。
 それとこの記事の副次的効果ですが、なんどもスマイルサーバーと書いてたことが影響したのかこのところバナー広告にスマイルサーバーの広告がよく出てきます。まぁ「スマイルサーバー」で検索かけると私の書いた記事がかなり上位に表示されるので、ちょっとは貢献したかなっていう自負があります。どっちの貢献だっていうのは聞かないで。

 このほか話題に上がる記事としては、やっぱりというか「北京で受けたインスピレーション」が好評です。この記事は短い内容ですがこれこそ普通の日本人からはまず出てこない話題ばかりで、自分と友人が感じた内容をそのまま書いたのが功を奏したのか面白く仕立てられたかなとは思います。

 最後、これは最近というにはやや古い記事ですが、「奈良ドリームランドを偲ぶ」の記事がやけにコンスタントにアクセス数を稼いでいます。右下にある人気投稿記事順位でもこのところずっとトップを維持してますが、そんな気合入れて書いたわけでもないのになんでって自分でも驚く成績です。ふと奈良ドリームランドを思い出しては検索する人が世の中に多いからこそこれほどアクセスを稼いでいると推測してますが、それだけに記事中にも書いていますが特定の世代の関西人にとってはほんとに忘れられない思い出の場所だったんだろうなと偲ばれます。

 今この記事を書いている最中にパッと閃きましたが、もしかしたら奈良市に住んでて奈良を心の底から愛していてボランティアで観光案内までしている親父の従弟も、このドリームランドの記事を自分が書いていると知らずに読んでたりしたら……という考えがよぎりました。この親戚には自分も公私ともにお世話になっていますが、リアルにあれほど奈良を愛している人は見たことがありません。なもんだから昔テレビドラマで「鹿男あをによし」という奈良県民のための番組がやっている時はやけに盛り上がり、「この前一緒に行った居酒屋がドラマにでとったやろ!」などと、男子中学生っぽい会話を交わしたのはいい思い出です。

2014年1月6日月曜日

毛沢東の中国のGDPに対する貢献度

 真冬にもかかわらずGジャン一枚で貫き通す人間ときたら私とスギちゃん位なもの、といってもスギちゃんみたいに素肌の上ではなく私はちゃんと厚手のシャツの上にGジャンですが、そんな自分でも昨日今日の寒さは身に応えて今日も夕方から頭痛が響き、ぶっちゃけ持病とセットで気絶しそうです。でもブログは書くんだ(゚∀゚)アヒャ
 なので簡単に書けるネタとして今日は、毛沢東と中国のGDPについてちょっと書きます。

 結論から書くと、毛沢東が現代の中国に与えている観光収入は一体どれほどのものなのか非常に気になります。この前も北京に行ってきましたが相も変わらずに街中にはたくさんの毛沢東グッズ、具体的には毛沢東の肖像画が書かれた絵皿やバッグ、時計、人形などなどで、マフィアなど闇社会の経済を研究する学者はよくいますが、毛沢東による中国の観光収入を研究している学者がいるのであれば是非詳しく教えてもらいたいものです。
 なお今回の旅行中に一番気になったのは天安門前にでっかく掲げられていてニュース映像にもよく映るあの肖像画だったのですが、一緒にいる友人に対して、「そろそろあの肖像画も3Dで表示できるようにしないと中国は遅れてしまうぞ」などと、寒かったからなのかわけのわからないコメントをしてました。まぁやれるもんだったらぜひやってみてほしいのが本音で、闇夜に3D映像で浮かび上がる毛沢東を想像するだけで体が震えてきます。ただ単にいま寒いだけだけど。

 ただそれだけ死後も中国の観光産業に貢献し続ける毛沢東ですが、以前にも書いたことがあると思いますが一つ気になることとしてこれら毛沢東の商標権ことコピーライトは誰が持っているのかが未だにわかりません。もしかしたら中国共産党が持っていてあのお土産一つ一つからお金を取っているのかもしれませんが、あの中国のことだからみんな勝手に作っていてはっきりとした商標権は誰も持っていない気がします。
 だとすれば折角だし、敢えて日本人なり日本企業が「毛沢東」ないし「毛主席」で商標権を取ってみたらどうなるのか。恐らくですがこういう事したら中国政府並びに中国人はマジギレする一方、焦って自分たちも商標権を得ようと似たような言葉で商標権の登録に走るんじゃないかと思います。まぁ実際には受け付けてくれないだろうけど。

 それにしても日本にはこれほどたくさんグッズが作られる首脳は今だ出ておらず、そういう意味では中国がうらやましいです。日本で作るとしたら自分だったら伊藤博文だけど、商業的には早稲田卒が買ってくれそうだから大隈重信のがいいかもしれません。

2014年1月5日日曜日

監視し合う民族

 昨日の記事で年末の北京旅行で気づいた点というかインスピレーションを個別に紹介していきましたが、最後の最後に気付いた大きなトピックについて今日は紹介しようと思います。先に書いておくと恐らくここで書く内容は書かなければ書かずに置いた方がよく、書くことによって少なからぬ人間を敵に回してしまう内容です。

 その事実に気が付いたのは、日本に到着して自宅に帰る途中の電車の中でした。帰路が同行した友人と同じ方向なので電車でも隣り合って座り、話しをしながら乗っていたのですが、途中の駅で特急待ちとなったことからそこで停車する時間がありました。その停車中、自分の携帯電話が鳴ったので着信元を見ると上海にいる中国人の友人からだったので、電車も停車しているのだしまぁいいかとばかりに電話を取って、「喂,你好啊!」って具合で景気よく中国語を口にしました。
 その瞬間、それほど多くはいませんでしたが車内にいる乗客の目が一斉に自分へと向けられました。こういう体験は何もこれが初めてでなく、これまでにも中国語を電車で移動中に使うと日本語にない発音の珍しさからなのか、乗客が一斉にこっちを見つめてくることを何度も経験しています。なので今回も「よくあること」で片づけられたのかもしれませんが、この直前にあった出来事とリンクして咄嗟にある仮説が思い浮かんだのです。

 私が中国からの電話を受け取る直前、具体的には特急待ちで電車が駅に停車をした際、一旦車内のドアを閉めて空調の電源が落とされたのですが、空調の電源が落とされた瞬間は一時的にそれまであった空調特有の騒音がなくなり会話をする自分たちの声が急にクリアに聞こえるようになりました。ただクリアになったとは言ってもそれは本当にごく一瞬で、そのすぐ後には「シーン」という擬音が似合うほどの静寂が車内を包みます。何故かというと、それまで会話をしていた乗客が一斉に会話をやめたからです。
 日本人である皆さんならこのような体験を一度や二度、ひょっとすれば何度も経験してはいないでしょうか。室内にいる人間全員がそれまで会話をし続けていたのに、突然騒音がなくなったりBGMが中断されたり、誰かが部屋に入ってきたりすると一斉に黙ったり、声を小さくしたりなどと。もしくは、誰かが近づいて来たりしただけでも会話を中断してしまうこともあるのでは。

 まどろっこしい言い方はこれまでにして私が導き出した仮説を述べると、日本人というのは無意識に周囲の会話を盗み聞きしようとする一方、自分の会話を盗み聞きされないように気を配っているように見えます。嫌らしい言い方をすると、常に相互監視し合っているのが日本人社会だと言いたいわけです。誇張ではなく日本人は周囲で会話があると無意識にその内容を把握しようとするし、周囲に人がいれば自分たちの会話を聞かれていないかどうかを意識するところがあります。

 私がこのように考える根拠はいくつかあり、一つ目は上記の私の中国語の発音に対して乗客全員が反応を見せたこと、二つ目は私自身も電車に一人で乗っていたりすると知らず知らずのうちに周囲の会話に聞き耳を立てていること、三つ目は中国人は全く他人の会話に興味を持たないことからです。
 ちょっと長くなりますが三つ目について自分の体験を話すと、中国人は電車で移動中、本当にやかましいくらいの大声で常にみんな話をし合っています。なもんだから私が日本人の友人と一緒に電車に乗りながら日本語で会話していると中国人のおばさんが、「ねぇねぇこの駅に行くのはどう乗り換えたらいいの?」って中国語で尋ねてくることがありました。なんでよりによって日本人の自分に聞いてくるんだよと思いつつ中国語で路線の説明をしましたがどうもなかなか通じず、終いには我々を見かねた別の中国人のおばさんが、「この子たちは日本人よ。私が教えてあげるからあなたたちは無理しなくていいわ」と助け舟に入ってきてくれました。電車を出た後には一緒にいた友人に、「俺ら結構大声で日本語話してたんだけど、あのおばさんは全く聞いてなかったようだ」と言い合いました。

 この自分の例に限らず中国人は全く以って他人の話を聞かず(やや仕事でも)、かつ自分の会話が他人に聞かれることについて全く恐れを抱いていません。それに対して日本人は自分の会話を聞かれることに強い恐れを抱くし、盗み聞きした会話をよく話のネタに使います。先程やってみましたがGoogleで「電車 会話」と検索するとまさに盗み聞きした内容が書かれたサイトが出るわ出るわで、こんなの見ている電車の中で会話すること自体がタブーなのではないかとすら思えてきます。
 ただ同じ日本人でもこの傾向には地域差があり、関東よりは関西の方が聞き耳を立てないというか中国的な印象を覚えます。とはいえ関西人が全く聞き耳を立てないかというとそれはなく、というのも非常に嫌らしいことですが私はこの日本人の盗み聞きしようとする傾向に気付いてはいなかったものの、自分の会話の内容に何かしらの反応を示すことは知っていてそれを逆手に取ってしょっちゅう実験をしていたからです。

 その実験をしていたのは関西で過ごした学生時代ですが、友人と一緒に電車に乗るとやおら日本の統計データ、具体的には日本人の平均年収や自殺率、国債残高や首相支持率などといった数字をやや大きな声で口にして、それに対して周囲の乗客がどんな顔をするのかじーっと観察してました。日本人の世代別平均年収を話すと若い女の子は大抵意外そうな顔します。
 そんな私の本当に厭味ったらしい学生だった過去は置いといて話を戻しますが、まぁこれだけグダグダ説明しなくても同じ日本人なら最初の方の説明ですぐに理解してるんじゃないかと思います。何せ普段からやっていることなんだし。

 では何故日本人はそのように盗み聞きしようとして、またそれに対して盗み聞きされないように気を配るのか、これは結論から述べると単純に教育が悪いせいだと思います。ここ数日、この仮説に気が付いてから街中を歩く時や電車に乗っている最中はずっと観察してましたが、やはり小学生くらいの子供だとこの傾向が全く当てはまらないことに気が付きました。日本人の大人は電車が駅に到着して騒音が減ると露骨に会話の音量が小さくなったり下手すれば中断したりしますが、小学生はそんなのなんのそのとばかりにそれまで通りの音量でしゃべり続けています。また大人がみせる盗み聞きされているのではないかとばかりに周囲に向ける警戒感らしきものも全く見せず、まぁ無邪気に話し続けます。
 ターニングポイントとなる年齢層はやっぱりというか中学生くらいで、この層あたりから気にせず話し続けるのと周囲を気にするようなのに分かれてきます。友人にこの仮説を説明した所、やはり思春期に当たる世代で色々と気にし始めることが影響しているのと、日本人の場合その思春期特有の感覚が成人になっても変に続いているのではないかという面白いコメントが得られました。

 今回、ここで書いた内容はあくまで仮説であり実態としてはもしかしたら間違っているかもしれません。しかしそれを推しても自分としてはそこそこ自信のある仮説であり、日本人の民族性において意外な盲点によく気が付いたという自負があります。もっともこれまでなんで気が付かなかったのか、自分もやはり日本人の一人だったのかという妙な敗北感も覚えますが。

 率直に言って、このように盗み聞きをしようとするような、まるで密告社会であるかのようなこの特性を持つ自分を含めた日本人というのは非常に気味悪く感じます。また古来よりこのように相互監視し合うかのような陰湿な民族が栄えたという試しは聞いたことはなく、むしろ衰退していくというのが自然の流れの様にも思います。メディアも去年は個人情報保護法案関連で日本が監視社会になるだのなんだの散々に煽りましたが、同じ日本人同士で日常茶飯事みたくしていることを今更何言ってるんだよという気がしてなりません。

 冒頭から非常に挑発的な文章を綴っておりますが、自分は日本人がこのような行為をそうそう簡単にやめるとは思えず、この記事で改善を促すなぞ以ての外でしょう。ならなんで記事にしたのかというと、このブログの読者であればこうした日本人の傾向を意識することでいい意味で見えてくるものがあるだろうと確信していることが大きいですがそれ以上に、書かなくてもいいことを書くと「俺はお前たちとは違う」ということを鮮明に宣言したいというのが本音かもしれません。