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2014年4月17日木曜日

韓国旅客船沈没事故に見る現場プロ意識

 記事リンクは貼りませんが、昨日早朝に起きた韓国の旅客船沈没事故について各メディアはどこも最大限の報道を続けております。事故内容についてはその他の報道に任せますが今回の事故の詳細が次第に報じられるにつけ、2003年に同じ韓国で起きた鉄の地下鉄火災事件を思い出しました。

大邱の地下鉄火災(失敗知識データベース)

 もうだいぶ古い事故なので覚えている方も少ないと思うので軽く説明すると、この事故では大邱市を走っていた地下鉄で火災が起こり、最終的に死者が192人、負傷者が146人にも上る大事故となりました。これほどまでに被害が拡大した原因として車両のシートなどに難燃性ではなく普通に燃える素材が使われていたため炎症が広がったことと、現場の地下鉄関係者らが乗客の安全のために必要な措置を取らなかったことが大きいと指摘されています。
 具体的にどのような対応だったのかというと、運行を管理するオペレーターが既に駅構内で火災が起きているにもかかわらず後続の車両をそのまま通過させずに駅に停車させたことや、列車の運転士が車両のドアを閉じたまま、しかも電源を切った上で脱出した点などが挙げられています。この辺は上記リンク先よりもウィキペディアの方が詳しいかな。かいてて思うけど、どうしてこんなこと妙に詳しいのか自分でもわかりません。

 話は戻りますが今回の旅客船沈没事故でも、あくまで現時点の報道に基づいていますが船長を始めとした乗員が乗客を置いて真っ先に沈没する船から脱出したとされております。仮に事実だとしたら、自分の命を優先したくなるという人間の性は理解できなくはありませんが、乗客の命の安全を預かる乗員の立場からするとプロ意識に欠けた行動だと言わざるを得ません。何も船と共に死ねとまでは言いませんが、船が傾いた状態にあっても救命ボートに誘導したという報道はまだ一度も聞いていない限り、あの状況下でやれたことはまだあった気がします。

 と、仮にここで終えたら大邱の地下鉄火災と合わせて「これだから韓国人は」っていう記事になってしまいますが、そのように捉えられることは私の本意ではありません。私が今日ここで言いたいのはこのような事故が起きた状況下、現場の人間がどれだけプロ意識を持って、言うなれば自分の安全を犠牲にして被害を食い止める行動をとることが難しいか、またそれを実行するためにはどうすればいいのかを読者の方に考えてもらいたいということです。
 さっきにも少し書きましたが、誰だって他人の命より自分の命の方が大事で、自分を犠牲にして他人の命を優先するなんて一種気違いな感情だと私は真面目に考えています。しかし危機的な状況だからこそそういう気違いな人間の一人や二人は必要で、立場によってはそうなれるプロ意識を持つことが危機管理で重要だと思います。

 回りくどく言わずに単刀直入に言うと、今回の沈没事故を他山の石と捉えるのではなく、もし自分が同じ状況下にあったら必要な行動を取れるのか、またそういうプロ意識を社会全体ではぐくんでいるのかということを少しでもいいから再考してほしいです。逃げ出した人間を批判するだけでなくどう逃げ出さずに義務を果たせるか、そして自分は何をすべきか、実際に実行できるかどうかはともかくとして事故の起きていない平常時だからこそそうしたことをたまに意識することが肝要な気がします。

 最後にというか自分は妙な民族主義は持ち合わせておらず逆に変なフェア精神をやけに持っているので、日本での不適切な現場の事例も紹介しておきます。

東海村JCO臨界事故(Wikipedia)

 この事件についても年々記憶が薄まっているかと思いますが、冗談抜きで日本人が忘れてはならない事故の一つだと私は考えております。詳細はリンク先の記事、または昔に私が書いた記事を覗いてもらえばわかるので省略しますが、この事故では核燃料が臨界を引き起こし、一時周辺で放射能が放出されるという恐ろしい事態にまで発展しました。
 この事故が起きた際、燃料施設を運営していた住友金属鉱山(現新日鐵住金)系列のJCOは当時の東海村村長であった村上達也氏に対する説明で、すぐに事態は収束する、周辺は安全で心配はないなどという言葉を繰り返していたそうなのですが、不審に感じた村上氏はこう尋ねたそうです。

「(JCOの)従業員の家族たちはどうしている?」
「すでに非難させました」
「自分たちだけ先に逃げて、まるで関東軍だな!」

 というやり取りを経て、村上氏は県や国に何も伺いを立てず独断で村民に避難指示を打ち出しました。のちに村上氏も賠償や辞職を覚悟で行った行動だと述べていますが、仮に村上氏の英断が無ければ少なからぬ被爆者を出していたことは間違いないでしょう。
 このJCOのケースは現場プロ意識の好例というか、果たすべき役割を果たそうとしなかったJCO、そして本来の権限を越えてでも守るべき対象を守った村上氏の二つの差がくっきりと分かれております。

 最後の最後ですが、未だに私はこのJCO事故で亡くなられた従業員の方の死に際を忘れることが出来ません。実際にその場にいたわけではなくネットなどで知った情報でしかありませんが、弾に撃たれて死のうが自殺して死のうが病気で死のうが人一人の死は所詮は一人分などと淡白なことを常日頃口にしておりますが、このJCO事故の被害者に関しては一介の人間の死ではないという気がしてなりません。それこそ、生きながら何度も殺されたようなものだったし。

2014年4月15日火曜日

ミズノの統一球問題について

 時間がないので短くまとめられる社会批評ネタとして、昨年に引き続きまたも起きた日本プロ野球、というよりミズノの統一球問題について一言書きます。結論から述べると二年に渡って統一球で問題を犯したことはもとより、問題発覚後の対応に強い疑問を覚えるので来年からはもう別メーカーにしろというのが個人的な意見です。

 簡単に問題の背景をまとめると、日本プロ野球で使われるボールには飛距離を決める反発係数という数値があらかじめ指定してあり、指定数値に従って製造を委託されるミズノはボールを作ることとなっております。この数値ですが統一球が導入されてから二年前まではかなり低く抑えられていたところ、昨年は日本プロ野球機構側からの依頼を受け、指定された反発係数の数値範囲内だったとはいえそれ以前と比べて格段に高い数値へと秘密裏に変更されておりました。この問題は日本プロ野球機構とミズノが内緒で、しかも公言しないように口裏を合わせてやっていたため選手やファンから大きな反発を受けたことを読者の方も覚えているかと思います。

 そんな大問題があった翌年の今年にもかかわらず、それ以前と比べて格段に飛びやすくなった去年のボール以上に飛びやすいボールを今年に出荷していたことが判明しました。しかも飛びやすくなったとはいえ反発係数がまだ指定数値内だった去年とは違い、今年は指定数値を上回る反発係数を計測したとのことで、実際にホームラン数が去年の同時期と比べて今年は多くなっています。

 ボールを作っているミズノは本日会見を開き、ボールを形作るウールを多く巻いたことが原因ではないかという見解を明らかにしました。一体どんな言い訳をするのか注意深く調べましたが、なんでも製造を行っている中国の工場で空気が乾燥し、ウールが含む水分量が減ったためにボールの重量、体積がともに小さくなったため、両者を補うためにウールの巻き数を増やしたらボールが硬くなり飛びやすくなったという説明をし、さらに社内検査では計測機器を移動したため計測数値がおかしくなり、検査で見抜けなかったのではと付け加えておりました。


 自分も品質保証部で働いたこともあるので計測機器はちょっと動かすだけで数値が代わるほど非常にセンシティブということはまだ理解できるものの、今回の調査では各球場から回収した大半のボールが基準を上回っていたというのだから、そりゃいくら何でも検査がザル過ぎると言わざるを得ません。100個中5、6個ならまだ同情するが。

 その上というかこの問題で気になったのは会見前の原因に関する報道です。もしかしたら各新聞の飛ばし記事だったのかもしれませんが一昨日に見た新聞だと、「球場の空気が乾燥していたため飛びやすくなった」と書かれてあり、昨日読んだ記事だと「中国の工場が乾燥していたため飛びやすくなった」と書かれてあり、今日になって、「中国の工場が乾燥してたからウールの巻き数を増やしたので飛びやすくなった」と、まるで伝言ゲームの様に原因が小さく変わってきています。
 面倒くさいこと言っていることは百も承知ですが、こういう不祥事を起こした際は中途半端な経過報告などせずにバシッと原因を追究して発表しなければならないのにこの体たらくというのは危機意識が低すぎるとしか言わざるを得ません。しかも一昨日の報道だと急なボールの変更はできないため今後もプロ野球の試合では7月まで同じ飛びやすいボールを使い続けなければならないという報道があったにもかかわらず、今日になって来週には基準にあったボールを提供すると、またも報道と食い違う発表が出てきました。

 何よりも昨年にあれほど問題になったというのにまた今度もしょうもない問題を引き起こして、こういってはなんですがミズノのプロ意識に対して強い疑問を感じます。本来なら昨年の時点で黙ってボールの仕様を変えていた点から発注先を変えるべきだったのでしょうが、今度の今度はもう余計な温情は抜きで別メーカー製に、何だったら今シーズン中にも変えたっていいでしょう。再来年以降だったらまたトライアルしてもいいですが、こうも危機意識に欠けるところのボールなんてファンも見たくはないんじゃないかな、という個人的な意見でまとめます。

2014年4月14日月曜日

私が覚えているバラエティーのトーク

 私が周囲から一番誉められる長所と言ったらほかの何を差し置いても図抜けた記憶力で間違いないでしょう。正確には「覚える能力」というより「忘れない能力」に近いのですが、そんなに自分では評価はしてないけど一般的な水準よりは確かに知識量が膨大で、絶対的な知識量では誇張ではなくただ一人を除いて自分が劣っていると感じたことがありません。
 そんな自分を評して学生時代にある友人が、「花園君の凄い所は芸人のコントを丸ごと暗記して、そらでセリフを全部言ってしまうことだ」とある日言われたことがありました。確かにコント系なんかはセリフに繋がりがあるので覚えやすく、またちょっとした笑い話をする時に便利なのでストックを増やそうと一回見て暗記することが多いのですが、まだ緩い記事を書いていたい時期なので、折角なので今日は今までに見たバラエティーの中でもひときわ記憶に残るほど面白かったトークの内容を書き綴ってこうと思います。それにしても我ながら、よくわからない記事の書き方をするものです。

1、南海キャンディーズの山里氏の兄
  これは今年一月に「踊る!さんま御殿」に出演したお笑いコンビ「南海キャンディーズ」の山里氏の話ですが、この日の放送では「芸能人の兄弟特集」とばかりに各芸能人が兄弟とともに出演し、山里氏も実の兄と共に出演していました。この時に出演した山里氏のお兄さんですが、なんでも若い頃は地元じゃ知らぬ者はいないと言われたほどの伝説的なヤンキーだったそうで(何気に母親もそうだったらしい)、山里氏もその威光をかさにして中学時代は周りをいびっていたと話していました。
 そんなヤンキーだった山里氏のお兄さんですが何故かヤンキーなのに人見知りが激しかったそうで、よく山里氏をアーケード街に連れて行っては隅にたむろしているヤンキーを見つけると、「おいお前、あのヤンキーの近くに行ってじっと見てろ」と山里氏を送り込み、言われた通りに山里氏がちらちら目線をヤンキーに送ると大抵そのヤンキーは怒り、「おいてめぇ、何こっちちらちら見てんだよ」と凄んでくるわけです。そこへ隠れていたお兄さんが現れて、「おいてめぇ、俺の弟をなんだと思ってんだよ」と逆に凄んでケンカを売っていたそうなのですが、山里氏に言わせると「(弟をケンカのダシに使って)お前が一番弟をなんだと思ってるんだよ!」といった感じだったそうです。それにしても、人見知りで自分からケンカが売れないヤンキーっていうのも面白いな。

2、高橋英樹氏の顔面マッサージ
 これも「踊る!さんま御殿」の中での話ですが、ゲストとして出演した高橋英樹氏が「後から考えて納得いかなかったこと」というテーマでのトークで、ある日顔面マッサージを受けにお店へ訪れたところ店員から、「高橋さんは顔が大きいので、通常料金の2倍をいただきます」と言われ、その場では「ああ洗顔剤とかいっぱい使っちゃうもんね」なんて思い納得して支払ったものの、後から考える度になんかおかしいと思うようになった体験を話しました。するとすかさず明石家さんま氏がツッコミを入れ、高橋氏が「桃太郎侍」という時代劇で主演をしていたことにかけて、「あかんがな高橋さん。そこでポンポンポンポンって太鼓鳴らしながら登場して、一つ人の世の悪を切り……なんて言わな」と、テンポのいいトークを放ってました。
 その後にテーマが切り替わって今度は「過去にやった失敗体験」のテーマで同じ高橋氏が、撮影で地方を訪れて旅館に泊まった際、時間によって浴場に入れる時間が男女で切り替わることを知らずに間違えて女性しか入れない時間帯に入ってしまったという体験を話しました。女湯と言っても地方の旅館だったのでその時いたのはお婆さんばかりだったと言い訳してましたがそこでもまたさんま氏が、「あかんがな高橋さん。お婆さんばかりやったらそこでポンポンポンポンって桶で股間隠しながら、一つ人の世の悪を切り……なんて登場してやらな」と、またも鋭いツッコミを見せてりました。

3、小林麻耶氏とゲルマン民族
 またさんま氏の番組が続きますが、今もフリーアナウンサーとして活躍している小林麻耶氏が「恋のから騒ぎ」に出ていた頃のお話です。この話をしたのは小林氏とは別のレギュラーだった(さすがに名前は忘れた)のですが、なんでもから騒ぎのメンバーで合コンを行ったところ、当時からそのルックスの高さが抜きんでていた小林氏に合コンにやってきた男が全員くっついて、小林氏が用があるからと先に合コン会場を出ると男たちも全員ぞろぞろと一緒に出て行ったそうです。一体何なんだよと残った女性メンバーで愚痴っていたら小林氏が忘れ物があったからと男たちを引き連れながら戻ってきて、そしてそのまま男たちをぞろぞろ引き連れて去っていったとのことで、これを聞くやまたさんま氏が、「そんなぞろぞろ男引き連れて移動して、お前はゲルマン民族か!」というツッコミをしていました。よく「ぞろぞろ」という単語から「ゲルマン民族」を引き出せるなと、聞いてて心底感心させられた一言でした。

4、高木豊氏の受難
 これはなんかのプロスポーツ選手が出演したバラエティ番組での話ですが、元プロ野球選手の高木豊氏が現役時代の話として語ったものです。高木氏が試合中にセカンドを守っていたところ、相手チームの外人選手が特に送球がきわどくなかったにもかかわらず危険なスライディングをかましてきたので「ちょっと危ないじゃないか」と塁上で軽く言ったところ、何故かその外人選手にボコボコに殴られたことがあったそうです。実際にその時の映像が残っていて私も見ましたが、本当に高木氏が何もしてないにもかかわらずいきなり殴りかかられ、抵抗することも出来ず高木選手がうずくまっても執拗に殴られ続ける理不尽な暴力を体現したかのような映像で、こういってはなんですが見ていてかなり笑えました。
 肝心なのはこの番組にプロサッカー選手をしている高木氏の息子(確か長男)も出演していて、この映像について、「珍プレ好プレーの番組が放映されるたびにこの父親の映像が流れ、子供心に来るものがありました……」と語り、有名人の親父を持つと大変だなと見ていて感じました。

2014年4月13日日曜日

猫の見る世界

 昨夜、最近リニューアルしたので近くにある「松戸ラドン温泉」に行って入浴してきましたが、男子の浴場で服を着た従業員が自分が入浴している間ずっとスマートフォンを弄っているのを見て、就業中に浴場という場所で、なおかつこんだけ水分の多い場所で何故弄ると二重の意味ででドン引きしました。ちょっとクレーマーっぽいかなと思いつつも念のためフロントに、「男の裸はあんま金にはならないけどさ」と踏まえた上でそんな従業員がいたということを伝えたところ、「そうですか。はいわかりました」と軽く流されて三重の意味でドン引きしました。ちょっと潔癖過ぎるかもと思いつつ浴場に撮影のできる機器を従業員が持ち歩いているのだから、さすがにもう二度と行くことはないな。

 このところ真面目な話ばかり書いていたので今日は砕けた話をと思い、前から孤独に考えていることというか猫の視界に関する話を描こうと思います。



 このブログを見ている方ならわかるでしょうが、結構自分は猫好きです。なもんだからよくYoutubeでも猫動画を長時間見ていることが多いのですが、上記の動画はその中でも割と目を引いたというか妙な行動をとるなと思った動画です。
 内容は見てくれた方が早いですが、テーブルの上にある魚をおどおどしながら猫が盗み食いするシーンを映したものなのですが、不思議なのは猫が皿の上にある魚を取ろうとすると、何故か目を細めてチラッ、チラッと見ながら手を伸ばすという点です。はっきりと魚の場所を見ないもんだから伸ばした手がしっかり届かず皿をカシカシ叩いたりもするのですが、だったらちゃんと眼を開いてみればいいのにと思わずにはいられません。



 続く二つ目の動画ですが、これも見てもらえばわかりますがある猫の妙な行動です。ミーミーという名前の割と体の大きい、ロシアンブルーの猫が頭からザルを被り、近づくほかの子猫が油断していると突然攻撃するという説明していて自分でよくもわからない動画です。何故この猫はザルを被るのかと言ったらザルだからとしか説明しようがないのですが、肝心なのは被っているのは頭だけで体の部分はまる見えということです。にもかかわらずこの猫はまるで自分はうまく隠れていると思い込んでいるのかじっと息をひそめ、ちょっと呆れ顔のほかの猫に対してヒュッと攻撃を仕掛けております。

 この二つの動画から何が言いたいのかというと、猫というのは目をつぶったりなど自分の視界が狭まるとほかの生物も自分の姿が見えなくなると思い込むのでは、と推測しているわけです。だからなんだと言ったらそれまでですが、如何に猫が自己中心的な考え方をしているかを裏付ける一つの根拠だとして書き残しておこうと思った次第です。

2014年4月11日金曜日

努力の実らない風潮

 時期にして確か四年前の2010年、友人とスカイプで話をしている最中にふと向こうから、「今の日本の世の中はニヒリズム(虚無主義)に満ちているから、誰もが何かしたところで無駄だと考えるから現状を何も変えようとしないんだよ」ということを言いました。この言葉を聞いた当時に私は、「それは君がニヒリズムの信奉者だからだろう」なんてことを口には出さなかったものの考えてそれほど重要視してはおりませんでしたが、今となって思うと現在にまで続く日本の社会状況を喝破した一言だったのかもしれないと思いだすことが増えています。なおその友人は実際に、学生時代から「僕の思想はニヒリズム」と言って憚らない友人でした。

 私が何で今になって友人の言葉を信じるようになったかというと、端的に言って今の日本では努力すればするほどリターンが減るというか努力する価値がどんどん低くなっており、大方の日本人もそれを意識しないまでもなんとなく理解していて、頑張ったところで無駄だとして努力をしようとしなくなっているように思えるからです。

 こうした構造が最も大きくみられるのはいわゆる士業こと資格を必要とする職業においてで、細かい説明を省きますがかつては高級資格職としてもてはやされた弁護士や公認会計士は視覚の乱発によってその価値は薄れており、特に弁護士に至っては破綻しているロースクール制度によって司法試験合格者の平均借金額が約800万円に上るという、冗談みたいなマイナスからのスタートを要求されるようになっています。このほか税理士や行政書士なども同じような状況で、それ以外の資格でも何のための資格制度なのかと問いたくなる状況です。
 同じく学問という分野では大学教育にも同じことが言えそうです。仮に学者職を目指すというのなら話は別ですが、そうでなく普通に就職する人間からすれば大学での勉強は全く無価値に近く、企業側も断言してもいいですが文系については全く評価しません。まぁ自分みたいに大学でマルクス主義や毛沢東主義についてたくさん勉強したとか言う人間を危険人物とみなすのはまだ理解できるが……。最近友人によく言われるが、まるで過激派だな自分は。

 話は戻りますが就職後においても、先にも書いた通りにどうせ頑張った所で待遇が代わるわけがないと割り切っている節があり、むしろ現状を変えようとする人間をあざ笑うかのような風潮すら覚えます。実際に現代の日本の企業では残業代を支払うところの方が珍しいように思え、間違ったみなし残業代制度を堂々と社員に課す企業も少なくありません。また実績を上げて昇進したとしても給与は増えずに責任だけ増えるのもよくあることで、むしろ課せられる責任の増大から忌避するために適当にその場をつくろうような働き方が一般的にすら見えてきます。

 まだ大学入試の段階までは本人の努力が如実に結果に反映されますが、それ以降に関しては積み重ねるという行為が本人の降伏にとって逆にマイナスへと働くことが現代社会の特徴に思えます。積み重ねるよりもむしろ、就活シーズンにおいて瞬間風速的にうまく立ち回って待遇のいい企業に就職することがその後の人生を左右させやすく、それだけに努力の価値というものが年々落ちてきているようなと、中国での勤務を経験してみてからそのようなことを強く感じるようになってきました。
 最初に挙げたニヒリズムに満ちた友人に言わせるならばそれが人間社会なんだし、それで世の中成り立っているのだから是認するべきだとまたニヒリズムに満ちたセリフを言われそうですが、本当にそれで社会が上手く回るのかというと私にはやはり疑問です。いろいろ反論もあるでしょうが日本なんかよりずっと多くの課題を抱えている中国の方が仕事をしている人のモチベーションも高く街歩いている人の表情も明るければ顎の角度も高いです。そしてなにより、今よりいい世の中、生活にしようという気概が感じられます。

 突き詰めると社会のモチベーションに大きく影響を与えることから、努力というものの価値を高めないといけないのではないかと私は思います。もちろん方向性の間違った努力の価値なんか認める必要はありませんが、何を以って人物を評価して見定めるか、場面場面に要領よく立ち回るのもいいけど積み重ねてきたものに対してももっと光を当てるべきではないかとこの頃思う次第です。

2014年4月10日木曜日

専門が就職に活かせない風潮

彡(゚)(゚)(15)「進路について考えるで」(アルファルファモザイク)

 上のリンク先はちょっと古い記事ですが自分がよく見に行くまとめサイトの記事でひときわ目を引いたもので、案外今の世の中を象徴するような話じゃないかと思って記憶にとどめておりました。内容を簡単に私の方から説明すると、高校時代にバイオ系の研究に興味を持って専門的な研究を行っている大学を自ら調べて進学して大学院にも通ったものの、就職活動の段階で専門の研究が活かせられるような企業の採用募集に応じたところ悉くお断りされ、やむにやまれず専門とは関係ないものの公務員に応募したところ面接官は、「こんだけ専門的にバイオ勉強してきたんだからもっと専門的な職についたら」などと言われ落とされ、何のために8年間もバイオ領域の研究を志してきたのだろうという体験が書かれています。意外と一言でまとめられるもんだ。

  こういってはなんですが、こういった例は今の世の中で珍しくないのではないかと私は考えています。こういった例とはどういった例かというとある職業を志して専門的に学んだり訓練を受けてきたにもかかわらずその職業を得ることは叶わず、やむなく経歴とは何の関係もない仕事についたり、下手したらかえって付きすぎてしまった専門性の高さが他の職業への就職に足かせになったりするということで、私自身も少なからずそういう体験をしてきたしそういう人間を目の前に見てきました。

 先に私の体験を述べると、私の場合は中学生時代に記者職を志してから飽きっぽい癖にずっと文章を書き続けるという訓練は続け、大学での専攻も新聞学科もあったけど敢えてそれはスルーして、より幅広い分野を相手にできる社会学を選んでやってきましたが新卒では悉く全滅。その後、中国で紆余曲折を経て経済紙の記者になることが出来てその際にずっと続けてきた文章を書く訓練は確実に実ったのでまだよかったと思えますが、強く出ると現段階においても私は並の記者より経済也政治なりをずっと勉強している上に文章も上手に書く自信があります。経済紙の記者をした際、案外記者って勉強してないなってことがよくわかりましたし。

 この私の例はやや極端なものですがもう少し平たいレベルの話をすると、私の強みの一つである中国語も新卒時、何故かほとんど仕事に繋がりませんでした。当時はまさに中国進出絶頂期で記者職は難しいというから何かしら中国語でひとまず生計を立てようと思い中国に進出している企業を中心に結構受けてきましたがどこも相手にされず、中国に渡った後で中国語が使えない駐在員が大量にいるのを見て正直、なんじゃこりゃと思いました。更に衝撃的だったのが中国留学時代の友人から聞かされた話で、自分たちと同じ時期に留学していた日本人仲間の中で中国語を使用する仕事についているのは当時、私とその友人の二人だけしかいないと言われた時でした。
 こうした現象は中国語に限らずほかの言語にも起きているようで、前にも同じような記事を書きましたが英語を専門に学んでいたにも関わらず海外と関わる仕事は、実際にはうなるほどあるはずなのですが何故か得られず、やむなく海外へ直接渡って現地採用を選ぶ人間が増えているという記事を前に見受けました。割と応用性の高い言語でこれなのだからほかの分野ではどうなのか、例えば金融とかマーケティング、社会調査とかを専門的に勉強していた人たちはどうなのだろうかと他人事ながら気になります。

 あとこれはこの前友人から聞いた話なのですが、理系の薬学部というのは学問としてある意味破綻している分野だそうです。というのも薬学部を出なければ薬剤師の資格は基本得られないのですが、薬学部を出なくても薬品の研究は理学部卒でも出来てしまう、というかむしろそっちのルートの方が多いそうです。そりゃただ単に薬剤師になって薬局とかで働きたいってんなら別にいいのですが、社会に貢献しようと医薬というものを真剣に研究したいという人が薬学部に入ってもあまり大きなプラスにならず、理学部出身ならほかの細胞や工業化学品の研究にも手が出せることをを考えるとむしろ専門幅を狭めてしまいかねません。

 以上の様につらつら書いてきましたが根本的な問題点を書くと、現在の日本企業はその分野を専門的に学んできた人間を優先的に採用するようなことをしないのが一番大きい気がします。たとえば銀行とか証券業界の企業なら経済学部卒が一番専門に近いと大多数の人間は言うでしょうが私に言わせると商学部こそが最も専門に近いと思います。あとメーカーの営業職でも、何故文系が優先されるのかよく考えるとおかしいような気もします。
 グダグダ書いてますが言いたいことを書くと、各分野の教育内容とそれが活かせる職業のルートというのが全くマッチしていないのが今の日本の状況だと思います。なんでマッチしないのかというとその職業の椅子が限られていることとか大学の定員が多すぎることもありますが、それ以上に各企業の採用方針が「人物本位」なんて妙な基準を立ててほかに条件を設けていないことが何よりも大きく、弊害もまた大きいと私は考えます。

 私個人の考え方としてはこのところはもう日本の社会をいい方向にだなんて以前ほど考えられなくなってきているのですが、この件に関して言うと専門的にやってきた人の方がまだ熱意も高いと思うんだけど、そういう熱意ほどなんか敢えて無視しようとする人多いななんて思うと書いて今日は筆を置き、また今度努力が実らない日本の社会事情についてまとめてみようと思います。

2014年4月9日水曜日

小保方氏の会見について

 以前に書いた記事で言いたいことは大体言ったしもうこの話題で書く必要はないかなと思うものの、むしろ以前にも記事を書いているのだから最後まで追うべき、仮にこのブログが日記だとしたらここで終わってしまったら後から読み返して不自然に思うとも感じるので今日の小保方氏の会見についても書いてくことにします。

小保方氏「STAPある」=論文撤回を否定―「別の人が成功」証拠示さず(時事通信)

 かねてから追ってきているように、今年一月に理研の小保方氏が新たな再生細胞としてSTAP細胞の存在と培養の成功を科学雑誌ネイチャーに発表しましたが、発表後から論文の画像などに不適切さが指摘された上に論文の執筆者からも疑義が呈され、今月一日には所属する理研によって捏造などと言った不正があったとという調査結果が発表されました。今日の小保方氏の会見はこの理研の調査結果に対する反論として開かれたもので、昨夜の段階、いや今日午前の段階でも各メディアが午後一時から始まる会見を今か今かと待ち受けるかのような大きな扱いがされておりました。

 そんな注目の中で開かれた会見で実に数カ月ぶりに公の前に現れた小保方氏ですが、私の印象を素直に述べるとやはりやつれたというか頬がこけて非常に疲れているような顔に見えました。そして会見の中身ですが、非常に下手だったというか自らの不手際によって各方面に迷惑をかけたと謝罪を繰り返していたのは逃げずにちゃんと出てきたことと相まって評価できますが、「それでもSTAP細胞は存在する」と、ガリレオみたいに自分の説を曲げない主張をしたというのはさすがにどうかと思いました。もっとも、ガリレオの裁判自体が本当にあったのか最近疑問視されてますがそんなことはどうでもいいか。

 小保方氏は会見中で、「STAP細胞の作製はこれまで200回成功した」とか、「別の人も作製に成功した」などと述べましたが、ならなんで作成した画像の写真を出さないのか、作成に成功した別の人の名前を挙げないのか、突っ込みどころが多すぎる呆れた主張としか言いようがありません。第一、私自身が文系の学士止まりですが、出来る出来ないは自分の口から言うものではなくはっきりとしたデータで示してなんぼです。この期に及んで抽象的な主張ばかり繰り返して反論の根拠となるデータを示さない様子を見る限り、私からするとやはり小保方氏は研究者として問題のある人物だと言わざるを得ません。本当に研究者としてあるのであれば、きちんとした証拠が示せない今は一旦論文を撤回して、その後できちんとした論文を作り直せばいいのですし。

 それにしても不思議なのはどうしてこの段階においても自分の研究は正しいと主張するのか、この点が実はちょっとよくわかりません。この前の佐村河内みたいに詐欺自体が商売となっているのであれば既にバレバレとなっても頑なに主張するのはわかりますが、今日の小保方氏の会見を見ているとそういったものとは違うような、まだ本気でSTAP細胞があると信じ込んでいるような言い方で違和感があります。
 しかしそれでも今の状況を見る限りSTAP細胞が存在するとは私にはとても思えず、やはり小保方氏が捏造をしたのだと思わざるを得ません。こうした疑念を吹っ飛ばすほどの研究結果を小保方氏が出すなら文字通り逆転ホームランですが、ま、そんな日は今日の会見を見る限りだと来ることはないでしょう。