仕事は減らないけどブログは続けなきゃいけないし、明日も休日作業に追い込まれてる上にJBpress用の記事とか講演用の原稿も書かないといけないけど、このところカルトという単語を見ていて、カルトと宗教の違いというか区別する点はあるのかと思うようになってきました。見た目的には、
カルト=やばい
宗教=市民権を得てる
的な感じに見えますが、「やばい」の基準がやっぱり曖昧な風に感じます。というのもカトリックやプロテスタントなどについてもやばい団体と思う人もおり、実際宗派によってはかなり過激な連中もいます。
あとイスラム教に関しては、カルトと呼ぶ人はいないけどニューヨークの事件の後なんかは「テロリスト」と見る人が多かったなと今思い出しました。うちの親父がアラブ人みたいな顔してて会社でのあだ名がマジで「ビンラディン」だったのはずっと覚えてるけど。
では敢えてカルトと宗教を分けるとしたら、その区別するポイントはどこなのか。いくつかトピックを考えてみました。
1、信者を不幸にさせるのがカルトなのか?
基本的に宗教は信者の幸福願望をもたらすことがお題目です。キリスト教の様に死後に幸福になる(天国に行ける)と謳うのもありますが、基本は現世利益か来世利益をもたらす教えを広めているだけに、金を巻き上げられて信者が不幸になる場合は宗教ではなくカルトと捉えていいのかなと最初思いました。
ただ、よくよく考えると散々金を巻き上げられて生活が破綻しながら、「幸せです」と言い切るカルト被害者もたくさんいます。そう考えると個人の幸福感でもってカルトか宗教かは推し量れないでしょう。
2、金を巻き上げる教えはカルトになるのか?
今話題の統一教会なんかまさにこれというか、営利団体の如く金に対する執着が強く信者からがつがつお金取ります。こんな感じでお金ばっかとるのがカルトと定義できるかと言ったら、実際はそうもいきません。
仏教にしろキリスト教にしろ、多かれ少なかれその運営はお布施頼みであり、強制されてなくても家財全部捧げる信者もいます。そういう意味ではお金をどれだけとるかでカルトか宗教かは推し量れないでしょう。
3、教えが非科学的なのはカルトになるのか?
自分で書いててなんですが、科学的な教えってそもそもあんのかよって話です。基本的に宗教は非科学的な話の化身みたいなもので、筋道が立ってるとか立っていないかとかで、まともな宗教なのかカルトなのかって区別できるものではないでしょう。
以上の様にいくつか挙げましたが、敢えて極端な比較をわざとやりましたが勘のいい人ならわかる通り、カルトと宗教というのは文字通り紙一重な差しかありません。そもそも現在のカトリックやプロテスタントも成立当初は完全にカルト扱いされてましたし、我らが仏教は伝来時こそ割と穏やかでしたが、平安時代の強訴なんかはカルトを通り越したヤクザな行為だし、戦国期の一向一揆なんかもはや軍隊です。基本的に現在一般的な宗教も、特に成立当初は多かれ少なかれカルトとされる特徴を過分に備えており、両者を明確に分けるさというのは少なくとも信仰や布教行為においてはほぼないのではないかと思います。
ではそれでも何故現代において、カルトと宗教という言葉が分かれて存在しているのか。ほとんど同じなら同義語として成立してもいいはずですが、やはり分かれています。
ここで結論を言うと、両者を決定的に分けるのは、その団体が犯罪行為に係っているか否かが最大のポイントだと考えています。さらに言えば、その犯罪行為を定義するのはいつの時代であろうと国家であり、言い方を変えれば、国家がその活動を認めれば宗教、認めなければカルトという定義になると言えます。
現代日本でカルトとくればまずオウム真理教で、現在も後継団体は存続していますが公安の監視対象とされており、一般人も宗教というよりはカルトとしてみなしているでしょう。このようになっているのも地下鉄サリン事件をはじめとする過去の犯罪行為が原因ですが、こうした犯罪行為が露呈するまでは、危ない連中とは思われながらも、一応宗教として見られていたのではと思います。
もうひとつ例を挙げると、大分前にライフスペースという団体が以前あり、この団体では重病の患者をシャクティパットで治療すると称して連れ出し、その後の患者の死亡を直接誘引したとして教祖が逮捕されました。この団体も当時はカルト団体などと言われましたが、やはりそのきっかけは彼らが治療行為と称する行為が犯罪行為として立件されたからで、先のオウムといい、その団体の信仰や布教などの宗教的行為が犯罪行為と認定されるのがカルトとして認定される一番のポイント担っているように思えます。
さらに言えば、国が犯罪行為が存在すると認定した宗教団体は、ほぼ例外なく監視や活動制限など、国からの弾圧を受けることなります。こうした点などから言っても、究極的にその信仰団体が宗教かカルトかを決めるのは、国(政府)の判断次第だという風に思えてきます。言うなれば、国が認めれば宗教行為で、認めなければ犯罪行為となるといったところです。
そもそも、政治の「政」とは「まつりごと」と読み、当初の政治は文字通り宗教統制が肝でした。江戸時代においても寺社奉行が旗本最高ランクに置かれるなど重要視され、宗教というのは歴史的に国が管理、統制するものであり、「宗教であるか」の定義も、突き詰めれば国家が決めているような気がします。
そういう立場に立つと、国内で邪教が広まる場合、その責任はやはり国がきちんと管理統制していないせいだとも言える気がします。実際そういう立場で、先ほどのオウムやライフスペースなどの団体は活動が制限されているわけだし、カルトを国内で流行ってしまうのは国がきちんと取り締まれていない証左にもなってくるでしょう。思想の自由があるとはいえ、特定宗教団体絡みで被害者を生む、増やす場合、国が何も対策を採らないのは文字通り「政道」から外れると言えるかもしれません。
そこで統一教会に戻すと、ここはまさに霊感商法の総本山な団体ですが、少なくとに日本では彼らの集金活動は社会問題にはなったものの、犯罪行為としては未だ認定されていません。そのため、上記の私の定義ではカルト認定も受けず、今も昔も信者の親類縁者を中心に、明確に被害を被ったと主張する人間を増やし続けていますが、事実上、国は黙認を続けたまんまです。なので統一教会、というかその後継団体がカルトかどうかって話で言えば、少なくとも日本ではまだカルトとは呼べないでしょう。
ただ、カルトではないから統一教会は真っ当な団体と言えるかと言ったら話は別で、私に言わせれば日本社会に負わせたコストで言えばカルト認定されたライフスペースなんかを遥かに上回るし、存在しなければ、規制されていれば死なずに済んだ人間もたくさんいたと思います。単純な損得勘定で言えば支払うコストの方が大きい団体であり、信者に対する精神的衛生ケアを考慮したとしても、国家運営面ではいない方がマシな団体だと考えています。
これらを踏まえて言うと、そんな赤字事業部みたいな統一教会を放置し続ける日本政府に関しては、単純に運営者としての資質も疑うし、宗教統制という政治の重要な仕事を怠っているという風にすら思っています。金の話をすると、一体こいつらを介してどれだけの金が日本から韓国、そして北朝鮮に流れたんだって言いたくなるし、思想の自由云々以前に、その活動や送金を規制せずに放置し続けたのは怠慢以外の何物でもないとすら思います。極端なこと言えば、目の前にアルカイダがいるけど何もしないで見つめている、ただそれだけのような感じです。
まぁ統一教会が放置され続けたのは言うまでもなく、政治の力が働いているのは間違いないです。岸信介との関係は言うに及ばずで、政治とは無関係と言っている人間がいたらもうそいつの言うことは一生効かなくてもいいくらいの周知の事実です。その放置、っていうか保護してきたツケが回り回って、安倍元総理のところで破裂したいうのも過言ではないとすら思います。
4 件のコメント:
岡田斗司夫が定義するところのカルトとは、創始者が生きている宗教のことだそうです。ですが私が思うに、創始者が生きている宗教は新興宗教であり、新興宗教が一概にカルト的であるとはいえません。創価学会も、創始者が生きている(とされている)宗教団体ですが、社会に害をなす、洗脳などが行われている団体であるとはいえません。よって、新興宗教=カルトの図式を示す岡田斗司夫の解釈は妥当でないと考えます。
世俗で用いられるカルトという言葉は、個人を害する邪教というレッテル貼り以上の意味を持ちません。政府の都合・社会悪というのは時代によって変遷するものなので、学術的な定義づけがなされているわけではありません。1890年代に発生した、大本という宗教団体は、当初世直しを訴えた団体でしたが、国家神道や天皇制と相容れない思想から弾圧されました。大本は、直接的な暴力や洗脳によって個人に害を与えたわけではありませんが、教義そのものが政治体制にとって有害とされ、排除されたのです。
宗教弾圧に熱心な中国や、かつての日本などの専制的な国家は、強大な国家権力を有する反面、あるイデオロギー下でのみ成立している、繊細な政治体制です。故に、政府が定義した国家観を覆すことを許さないのです。専制国家は一宗教の教義が国家を転覆させることを恐れ、宗教の統制に走りやすい傾向にあります。一方で、民主主義国家の支持基盤は、選挙での投票率のみであり、一個人、団体の思想によって政治体制が直ちに崩れるわけではありません。ですから、民主主義国家にとって、宗教の統制は本来必要ではないのです。
統一教会のように、政府や社会などの、公共の福祉に従順であるが、個人の福祉を顧みない宗教団体の統制は、どうしても難しいと思います。刑法に触れるような犯罪ならまだしも、洗脳による不当な契約など、民法に関わる問題は、線引きが非常に難しく、洗脳されている信者を保護するための法制度が不十分です。
これまでの宗教犯罪では、オウム真理教やライフスペースのような、直接人命を害するものばかり取り上げられてきましたが、今回、統一教会による信者からの献金問題という、個人の財産権に関わる不当な契約、民法に関わる問題が注目されました。信者が金をむしり取られたら、その分消費が落ち込み、経済に間違いなく打撃を与えると思うので、政府はもっと危機感を持ってほしいなと思います。
個人的にはカルトの定義は「信者のプライベートの時間を可能な限り奪い、既存のコミュニティから引き離す」だと思ってます。
自ら参加したいと思わせるのではなく、そこ以外の居場所を奪って依存しないと生きていけなくさせるようにしてきます。
薬と薬物の違いみたいなものですかね。
日本共産党とは名乗らないけど、結果的に共産党系を支援してる声の大きい市民団体も宗教ではありませんがカルトですね。
共産党はなかなか頑張って統一教会を批判してますが、その最大の理由は商売敵だからだと思ってます。
岡田斗司夫氏の定義は自分も疑問ですね。二代目、三代目から過激路線に転ずる教団もありますし、単純に草創期の宗教がカルト化しやすいという点をはき違えてしまっているように見えます。
いい感じにこの記事で言いそびれた内容に触れているので次回の記事でまた解説します。
カルトとされる教団はまさに、外界からの遮断をほぼ例外なく行ってきますね。まぁそれを言ったら、昔の電波少年とか、なすびはどうだったんだろうと思えてきますが……。
共産党の統一教会の反応は完全に同族嫌悪でしょうね。統一教会は反共団体だったけど、むしろだからこそ根っこが同じだと思えます。
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