昨日の記事では犯罪者の家族への報道被害について所見を述べましたが、今日は犯罪被害者への報道被害について思うところを述べます。
実は私の住んでいる近所に、今年全国を大いに騒がせたある大事件の被害者が住んでいる家がありました。その事件は他の事件同様発生から一、二週間の間、テレビや週刊誌が大いに取り上げたということからその被害者の遺族への取材のため、その家へも発生当時は数多くのマスコミが寄り集まりました。実はその家の近くへ私のお袋がある理由でよく伺っていたので当時の状況を詳しく見ていたそうですが、それはもうたくさんの人間が発生当時は押し寄せたらしく、一週間後には玄関先に「マスコミの方は取材を遠慮願います」という張り紙が貼られたそうで、ご遺族の方も見る見るうちにやせていき、事件発生から数ヶ月を経過した後、マスコミの取材こそなくなりましたが、ご遺族の方はとうとうその家から引っ越して行ったそうです。
このような犯罪被害者へのマスコミの取材攻勢による二次被害ついては一部で問題視する人間がいますが、いかんせん私が見る限り現在のところそれほど大きな動きにはなっていないように思えます。
何故こうしたマスコミへの取材批判について大きな動きにならないかというと、それは言うまでもなく世論の声を大きくするのはマスメディアで、そのマスメディアがわざわざ自分らの不利になるようなことを報道しないということに尽きます。もっとも、インターネットが発達する以前はこうした取材攻勢が今以上に激しく、ある芸能人などは旅行から帰国後、しつこくカメラを向けるマスコミのカメラが子供の頭に当たって子供が泣き出したので、「何をするんだ」と注意したらその怒った所をカメラで取られ、翌日には「○○、記者に暴行」という見出しで子供が泣き出したことを無視されて記事が書かれたと言っていました。最近ではさすがにこういったパパラッチ的な行為は大分なくなったかと思っていたら、この前の卓球の福原愛氏の帰国の際にものすごい数のマスコミが集まってたので、もしかしたらまだ続いているかもしれません。
このような問題のあるマスコミの過剰な取材行為ですがもちろん芸能人だけでなく、前回に解説したように犯罪者の近親者はもとより、今回の内容の犯罪被害者、またはその家族へも以前から行われてきています。私が記憶する代表的な例を挙げると、最近のものだと香川県での姉妹、叔母が殺された事件では姉妹の父親が犯人だと各所で疑われ、ある売れないアイドルなどはブログで公然とあいつが犯人だと名指しして干され、テレビ司会者のみのもんた氏も犯人ではないのかと意図的ににおわせる報道を行い、真犯人が出たあとにこの父親へ謝罪しています。
そしてやや以前の例、最も問題のある報道被害の例はなんといっても松本サリン事件における河野義行氏の例です。この松本サリン事件の第一通報者でもある河野義行氏は当時に製薬会社に務めていたこともあり、サリンが使われたという報道を受けて薬品の専門家であると見られたこの河野氏が製造したのではないかと、実際にはサリンの製造に必要な設備などが全くなかったにもかかわらずありもしないでっち上げの推理が警察やマスコミを通して行われました。今でこそこの事件はオウム真理教が起こした事件だと断定されているものの、当時はこの河野氏が犯人だと決め付けられメディア上で激しく批判されたばかりか、警察にも実際に何度も拘留されています。なお、現在に至るまでマスコミ各社は公式に河野氏へ謝罪を発表していないそうです。
河野氏の妻も松本サリン事件で健康被害を受けており、先の香川の事件でも親類が被害を被ったにもかかわらず犯人扱いされ、どれだけ辛い思いだったのか想像することも出来ません。こうした犯人だと間違われる冤罪的な報道はもとより、ただでさえ家族が殺されてつらい思いをしている遺族に対して異様な取材攻勢を行うという、最初の例のような問題のある取材や報道は枚挙に暇がありません。
そしてなんというか、どんな大事件もほとぼりが冷めてしまえば皆忘れてしまうものです。現に元厚生次官の殺人事件も、ちょっと前まで延々と報道されていたのが今週に入って報道時間が大幅に減少しています。しかし取材攻勢を受けた被害者やその遺族はその一瞬の間に過熱する報道のために、最初の例のようにその後の人生を大きく狂わされてしまうのです。そう思うと、こんな行為は畜生にも劣る行為に思えてなりません。
単純にこういった問題をどう防ぐかと言ったら、私はやはり過激な取材や報道に対して問題性があるかどうか判断する、民間人や専門家などで組織する中立的な組織をしっかりと機能させることが有効だと思います。テレビ番組などには「BPO」という放送倫理機構があり、現在まである程度問題のある報道を指摘するなど貢献していますが、私の目からするとやはり不十分な気がしますし、最も問題性の高い週刊誌等へはこうした組織の存在を私は聞いたことがありません。
そしてそのような問題のある行為をマスコミが行った場合、やはり報道の二次被害を受けた被害者に対して賠償金などをしっかりと支払うような罰則に関する仕組みを整備することも必要です。なんでしたらたとえ国家の情報統制だといわれても、私は法制化をしてもいいのではないかと思います。そう思うほどこの問題は根深いと私は考えており、また昨日に書いたようにマスコミの側で自主規制するような動きが見られないのも理由に挙がります。
最後に、私自身が直接BPOに携わっていた放送関係者の方から聞いた話を載せておきます。
「その番組や取材に問題性があるかどうか、それを判断するのは難しいとよく言われますが、実はこれはとても簡単なことなのです。その番組政策や取材を行う人に対して直接、あなたは自分の行っている行為を自分の子供に見せられますか、と聞くだけでいいんです」
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年12月4日木曜日
2008年12月3日水曜日
犯罪者の家族への社会的制裁について
かなり昔に法学部に通っている友人からこんな話を聞きました。
「日本の刑事事件で判決を下す場合、基本的には犯罪に対する制裁という意味では敢えて一段低く刑事罰を決めている。というのも、その犯罪を行った被告にはその後将来にわたって前科が付きまとい、自然に就職や生活面で社会的制裁というハンデがつくことが織り込み済みだからだ。要するに、刑事罰と社会的制裁がセットで犯罪への制裁が考慮される」
この話を聞いて、私は非常になるほどと思いました。確かにどんないきさつがあれ犯罪を起こした者にはその後どれだけ改心したとしても、元犯罪者というレッテルが付きまといどこへいっても社会的制裁が付きまといます。それを考えたら刑務所にいる年数などは、こうした社会的制裁をあらかじめ考慮して決めるべきだと言われてみるとその通りです。
しかしこの社会的制裁ですが、犯罪を行った本人にのみ効力を及ぼすのならともかく私も何度かこのブログで記事を書きましたが、実際には何の罪もない、その犯罪者の近親者に対して容赦のないマスコミの報道によってその効果を強く及ぼすことの方が多いです。
いくつか私の覚えている例を挙げると、一番代表的なのはやはり酒鬼薔薇事件の犯人の家族です。この家族の例だと持ち家を売り払って居住地から引っ越さざるを得なくなり、犯人の弟もそれに合わせて学校も転校せざるを得なかったそうです。さらに歴史をさかのぼると、今年死刑が執行された宮崎勤の事件ではあまりの報道の過熱ぶりや社会的批判を受けてか、犯人の宮崎勤の父親が自殺に追い込まれています。
そして私が一番悔やんでならず、もっと議論を深めるべき事件例だと考えているのが姉歯秀次元建築士による強度偽装事件にて、姉歯受刑者の妻の投身自殺です。事件報道を見ているこちら側としても、自宅の玄関を四六時中カメラで映してはごみの出し方から門構えなど、なんにでもいちゃもんをつけるマスコミの報道振りには寒気を覚えました。恐らくもし自分があのように報道される立場に回った場合、自殺しないにしても相当神経が参り、その後に立ち直ってまたまともに生活できる自信がありません。
このようにセンセーショナルな犯罪事件の場合だとマスコミの報道が過熱し、しばしばその報道は犯罪者の近親者に対しても強い社会的制裁を与えることとなります。しかし一部ではこうした報道に対し、犯罪者の身近にいた、それも犯罪者の親なら駄目な子を社会に出してしまったのだから同様に制裁を受けてもしょうがないという意見をたまに見かけますが、今時連座制ではないのだし、それはとんでもなく間違った考え方でしょう。これまでの私の経験からすると、たとえどんなに出来た人の子供でも中には変な人間も育ってしまうこともあります。そうやって出てくる変な人間に対して親の教育がどうとかこうとか議論したところで、また社会的制裁が近親者にまで及ぼすという概念が犯罪者に作用して犯罪が減少したりという風にはとても思えません。
結論を言ってしまえば、犯罪者の家族への社会的制裁は本来あってはならないものだと私は考えています。それはいうなれば、どんな事件であろうとこうした近親者の報道をマスコミはしてはならないということです。このような議論は何も今始まったものではなく昔からありますが、一向に改善される気配はありません。
恐らくマスコミの側からすると、視聴者が求めるから取材をしているだけだ。悪いのはそういったゴシップを求める視聴者だというようなスタンスを毎回取っていますが、この言わんとしていることは確かにわかりますし、大衆はゴシップを求めているのも事実です。ですが本来中立を主張するべきマスコミならば、そうした求める声があるとしても社会的影響を鑑みて、敢えてそのような部分に触れないと判断するべきではないでしょうか。
よくこうした部分への報道や取材の制限を厳しく法制化するべきではという議論が起こる度、マスコミは国民の知る権利が損なわれると言っては強く反対します。ですがマスコミ自体がその何の罪のない近親者に対して社会的制裁を現実に与えて続けているというのなら、私はもはや法制化もやむを得ないと考えています。というのもマスコミは、長年この問題が議論されているにもかかわらず一向にこうした近親者への報道被害を自主規制する動きを見せないからです。それならば国の法律によって取り締まる以外、こうした人たちを救う術はないでしょう。
ややまとまりのない文章になりましたが、今も起こっている厚生省元次官の連続殺傷事件の犯人の実家への執拗な報道など、この問題は現在進行形の問題です。私はあまりこういうゴシップには興味がないのも影響しているでしょうが、早いうちにこうしたことはもうやめにしなければいけないと思います。
ちょっとこれについてもう少し思うことがあるので、明日また続きを書きます。
「日本の刑事事件で判決を下す場合、基本的には犯罪に対する制裁という意味では敢えて一段低く刑事罰を決めている。というのも、その犯罪を行った被告にはその後将来にわたって前科が付きまとい、自然に就職や生活面で社会的制裁というハンデがつくことが織り込み済みだからだ。要するに、刑事罰と社会的制裁がセットで犯罪への制裁が考慮される」
この話を聞いて、私は非常になるほどと思いました。確かにどんないきさつがあれ犯罪を起こした者にはその後どれだけ改心したとしても、元犯罪者というレッテルが付きまといどこへいっても社会的制裁が付きまといます。それを考えたら刑務所にいる年数などは、こうした社会的制裁をあらかじめ考慮して決めるべきだと言われてみるとその通りです。
しかしこの社会的制裁ですが、犯罪を行った本人にのみ効力を及ぼすのならともかく私も何度かこのブログで記事を書きましたが、実際には何の罪もない、その犯罪者の近親者に対して容赦のないマスコミの報道によってその効果を強く及ぼすことの方が多いです。
いくつか私の覚えている例を挙げると、一番代表的なのはやはり酒鬼薔薇事件の犯人の家族です。この家族の例だと持ち家を売り払って居住地から引っ越さざるを得なくなり、犯人の弟もそれに合わせて学校も転校せざるを得なかったそうです。さらに歴史をさかのぼると、今年死刑が執行された宮崎勤の事件ではあまりの報道の過熱ぶりや社会的批判を受けてか、犯人の宮崎勤の父親が自殺に追い込まれています。
そして私が一番悔やんでならず、もっと議論を深めるべき事件例だと考えているのが姉歯秀次元建築士による強度偽装事件にて、姉歯受刑者の妻の投身自殺です。事件報道を見ているこちら側としても、自宅の玄関を四六時中カメラで映してはごみの出し方から門構えなど、なんにでもいちゃもんをつけるマスコミの報道振りには寒気を覚えました。恐らくもし自分があのように報道される立場に回った場合、自殺しないにしても相当神経が参り、その後に立ち直ってまたまともに生活できる自信がありません。
このようにセンセーショナルな犯罪事件の場合だとマスコミの報道が過熱し、しばしばその報道は犯罪者の近親者に対しても強い社会的制裁を与えることとなります。しかし一部ではこうした報道に対し、犯罪者の身近にいた、それも犯罪者の親なら駄目な子を社会に出してしまったのだから同様に制裁を受けてもしょうがないという意見をたまに見かけますが、今時連座制ではないのだし、それはとんでもなく間違った考え方でしょう。これまでの私の経験からすると、たとえどんなに出来た人の子供でも中には変な人間も育ってしまうこともあります。そうやって出てくる変な人間に対して親の教育がどうとかこうとか議論したところで、また社会的制裁が近親者にまで及ぼすという概念が犯罪者に作用して犯罪が減少したりという風にはとても思えません。
結論を言ってしまえば、犯罪者の家族への社会的制裁は本来あってはならないものだと私は考えています。それはいうなれば、どんな事件であろうとこうした近親者の報道をマスコミはしてはならないということです。このような議論は何も今始まったものではなく昔からありますが、一向に改善される気配はありません。
恐らくマスコミの側からすると、視聴者が求めるから取材をしているだけだ。悪いのはそういったゴシップを求める視聴者だというようなスタンスを毎回取っていますが、この言わんとしていることは確かにわかりますし、大衆はゴシップを求めているのも事実です。ですが本来中立を主張するべきマスコミならば、そうした求める声があるとしても社会的影響を鑑みて、敢えてそのような部分に触れないと判断するべきではないでしょうか。
よくこうした部分への報道や取材の制限を厳しく法制化するべきではという議論が起こる度、マスコミは国民の知る権利が損なわれると言っては強く反対します。ですがマスコミ自体がその何の罪のない近親者に対して社会的制裁を現実に与えて続けているというのなら、私はもはや法制化もやむを得ないと考えています。というのもマスコミは、長年この問題が議論されているにもかかわらず一向にこうした近親者への報道被害を自主規制する動きを見せないからです。それならば国の法律によって取り締まる以外、こうした人たちを救う術はないでしょう。
ややまとまりのない文章になりましたが、今も起こっている厚生省元次官の連続殺傷事件の犯人の実家への執拗な報道など、この問題は現在進行形の問題です。私はあまりこういうゴシップには興味がないのも影響しているでしょうが、早いうちにこうしたことはもうやめにしなければいけないと思います。
ちょっとこれについてもう少し思うことがあるので、明日また続きを書きます。
2008年12月2日火曜日
「アラフォー」について、及び日本の結婚観
本当は昨日に書きたかったんですが今年の流行語大賞が昨日に発表され、今年は「アラフォー」と「グー」が見事大賞に輝きました。結論から言えば、少なくともこの「アラフォー」だけは大賞とは行かないまでも流行語に入ってもらいたいと願っていたので、なかなかうれしい結果でした。
このアラフォー、元は今年前半に天海優希主演で放映された「アラウンドフォーティ」というドラマから派生した言葉で、意味もこのドラマで取り上げられた「40歳を過ぎた独身女性」というものです。
何故私がこの言葉を流行語として待望していたかというと、やはり現在の日本の男女像や結婚といった社会事情を強く反映している言葉で、後年に2000年代を振り返り分析する際に必ず役に立つと信じているからです。
日本の結婚観は大体バブル期前後から、社会的通過儀礼としての重要度を下げていきました。今こういう風に書くとびっくりする人もいるかもしれませんが、当時の文物を読んだりすると、若手官僚が登場するシーンによく同期の官僚の結婚式のシーンがあり、そこで主人公なり脇役なりが、
「あーあ、○○は部長の娘を嫁にもらいやがって。俺たちの出世レースで一つ先に出たなぁ」
と、必ず言っていました。
さすがに今はもうないと思うのですが、当時は出世は非常にコネなり何なりが幅を利かせていたのか、本当かどうかはともかくとして「上司の娘を嫁にする」というのが官僚界において出世の糸口となると世間は見ていたようです。もう一つ例を挙げると、この前ようやく社長になった島耕作が課長になったばかりの頃に嫁に三行半を突きつけられた際、
「待てよ、今離婚したら出世に響くじゃないか。仲人となった上司にも面目が立たない」
などと言うシーンがあります。なんていうか、今見ると鼻で笑えます。
このようにバブル期以前は、社会学的に言うなら結婚という儀式が社会的地位の形成に対して大きな影響力があったといえます。しかしバブル期、というより85年の制定から90年前後により実施が強化されていった「男女雇用機会均等法」が一つの契機となり、この動きに歯止めをかけたと見ていいでしょう。
この「男女雇用機会均等法」の実施によって言うまでもなく女性の社会進出が増え、男と結婚して頼らなくとも女性は自活できるようになり、この時代辺りから「独身貴族」という言葉が生まれるなど自分だけに消費するために独身を続ける者が男女共に増加していきました。
ついでに言うと、独身貴族という言葉が生まれる一方で高校や短大を卒業後、実家にいながら結婚を待つ身を表す「家事手伝い」という女性限定の職業は完全に消え失せました。今の若い子は信じないかもしれないけど、昔は「家事手伝い」って、役所の書類とかの職業欄に書けたんだよ。「自宅警備員」は今ならかけるのかな?
そしてここが今日の肝心な部分ですが、独身貴族がでてくるなど結婚に対する社会的価値が低くなっていく動きはそのまま変わらず、現代に至って私は「三十路」という言葉はもはや死語だと考えています。
統計上でもここに挙げた厚生省の統計でも初婚時年齢は右肩上がりに伸びる一方で2005年度で女性は27.8歳にまで来ています。なお、このデータは私から見るとちょっと頼りないデータで、結婚をした人限定の平均年齢の統計で、現在もなお独身の人の年齢は加味されていないので、実際にはあまり使えないデータですが、他にいい資料がないので引用しました。
なお大都市部では既に平均結婚年齢が十年位前から30歳をとうに過ぎており、未だに独身のままの人も数多くいるので、現代はみんな三十路で当たり前ともいえる状況です。
つまり、それまで「そろそろ結婚しなければ嫁ぎ遅れる」と女性が意識し始めるボーダーラインだった30という年齢が現代はあまり効果を出さなくなり、現代では三十歳からワンランクアップして「マジでもうヤバい」と思うようになるボーダーラインが40歳ということが徐々に定着してきたといえる状況で、そういった意味で「アラウンドフォーティ」というのは非常に現代独身女性をうまく言い表した言葉だと思うがため、私は高く評価しているのです。
何気に私のいとこ(♀)も今年晴れてアラフォー入りして、本人は結婚したいとよく言っておきながらもわがままな性格が災いして全然進展がありません。
最後にちょっと適当なことを言うと、最近私は「愛おしさ」という感情は対象の相手に「弱さ」を見つけなければ成立しえない感情ではないかと思えてきました。言ってしまえばアマゾネスのようなごつい女性に対しては「愛おしさ」より「頼もしさ」というものを感じるでしょうし、猫とか子供とか相手していてかわいいと思うのはやっぱり相手が弱くて守ってあげなくてはと思うのが背景にあるからだと思います。
然るに現代は男女共に独立した個を持てと日本の教育現場では不完全ながら教えられますし、女性の社会進出に対してもどんどんとプッシュがなされています。果たしてそんな環境で、結婚に結びつくような「愛おしさ=弱さ」を相手の女性に感じる男性はどれほどいるのか疑問ですし(逆はありそうだけど)、そうしたことが婚姻減、離婚増、少子化のトリプルパンチにつながっているのだと考えます。
じゃあ日本の少子化をどうすればいいかといったら、どんな手段を選んでもいいというのならやはり女性の社会進出を徹底的に阻むことが一番効果をあげるでしょう。まぁ現代ではそんなことできるはずもないし、私としても才能ある女性を社会で使わないのはそれもまたもったいないことだと感じるのでやりたくはありませんが、他に方法があるとしたら結婚観を徹底的に変える事しかないと思います。
やはり現代では結婚は双方の「愛おしさ」を基底にしなければ成立しないという観念が非常に強いのですが、これでは「愛おしさ」が発生する「弱さ」がどちらかになければ私の考えでは起こり得ません。それだったらこの際、「結婚とは、生き残ることが難しいこの世の中にてサバイバルパートナーを得るということだ!」と、北斗の拳ばりに世の中の不毛さを謳い、戦場で後ろを任せられるような相手を結婚相手に選ぶべきだという観念を持たせれば、女性が社会進出しても問題はないんじゃないかと思います。実際、私なんかは出来ることならそういう人、もとい余計な支出が少ない名古屋の女性みたいな人を相手にしたいです。けちな性格なもんで……。
このアラフォー、元は今年前半に天海優希主演で放映された「アラウンドフォーティ」というドラマから派生した言葉で、意味もこのドラマで取り上げられた「40歳を過ぎた独身女性」というものです。
何故私がこの言葉を流行語として待望していたかというと、やはり現在の日本の男女像や結婚といった社会事情を強く反映している言葉で、後年に2000年代を振り返り分析する際に必ず役に立つと信じているからです。
日本の結婚観は大体バブル期前後から、社会的通過儀礼としての重要度を下げていきました。今こういう風に書くとびっくりする人もいるかもしれませんが、当時の文物を読んだりすると、若手官僚が登場するシーンによく同期の官僚の結婚式のシーンがあり、そこで主人公なり脇役なりが、
「あーあ、○○は部長の娘を嫁にもらいやがって。俺たちの出世レースで一つ先に出たなぁ」
と、必ず言っていました。
さすがに今はもうないと思うのですが、当時は出世は非常にコネなり何なりが幅を利かせていたのか、本当かどうかはともかくとして「上司の娘を嫁にする」というのが官僚界において出世の糸口となると世間は見ていたようです。もう一つ例を挙げると、この前ようやく社長になった島耕作が課長になったばかりの頃に嫁に三行半を突きつけられた際、
「待てよ、今離婚したら出世に響くじゃないか。仲人となった上司にも面目が立たない」
などと言うシーンがあります。なんていうか、今見ると鼻で笑えます。
このようにバブル期以前は、社会学的に言うなら結婚という儀式が社会的地位の形成に対して大きな影響力があったといえます。しかしバブル期、というより85年の制定から90年前後により実施が強化されていった「男女雇用機会均等法」が一つの契機となり、この動きに歯止めをかけたと見ていいでしょう。
この「男女雇用機会均等法」の実施によって言うまでもなく女性の社会進出が増え、男と結婚して頼らなくとも女性は自活できるようになり、この時代辺りから「独身貴族」という言葉が生まれるなど自分だけに消費するために独身を続ける者が男女共に増加していきました。
ついでに言うと、独身貴族という言葉が生まれる一方で高校や短大を卒業後、実家にいながら結婚を待つ身を表す「家事手伝い」という女性限定の職業は完全に消え失せました。今の若い子は信じないかもしれないけど、昔は「家事手伝い」って、役所の書類とかの職業欄に書けたんだよ。「自宅警備員」は今ならかけるのかな?
そしてここが今日の肝心な部分ですが、独身貴族がでてくるなど結婚に対する社会的価値が低くなっていく動きはそのまま変わらず、現代に至って私は「三十路」という言葉はもはや死語だと考えています。
統計上でもここに挙げた厚生省の統計でも初婚時年齢は右肩上がりに伸びる一方で2005年度で女性は27.8歳にまで来ています。なお、このデータは私から見るとちょっと頼りないデータで、結婚をした人限定の平均年齢の統計で、現在もなお独身の人の年齢は加味されていないので、実際にはあまり使えないデータですが、他にいい資料がないので引用しました。
なお大都市部では既に平均結婚年齢が十年位前から30歳をとうに過ぎており、未だに独身のままの人も数多くいるので、現代はみんな三十路で当たり前ともいえる状況です。
つまり、それまで「そろそろ結婚しなければ嫁ぎ遅れる」と女性が意識し始めるボーダーラインだった30という年齢が現代はあまり効果を出さなくなり、現代では三十歳からワンランクアップして「マジでもうヤバい」と思うようになるボーダーラインが40歳ということが徐々に定着してきたといえる状況で、そういった意味で「アラウンドフォーティ」というのは非常に現代独身女性をうまく言い表した言葉だと思うがため、私は高く評価しているのです。
何気に私のいとこ(♀)も今年晴れてアラフォー入りして、本人は結婚したいとよく言っておきながらもわがままな性格が災いして全然進展がありません。
最後にちょっと適当なことを言うと、最近私は「愛おしさ」という感情は対象の相手に「弱さ」を見つけなければ成立しえない感情ではないかと思えてきました。言ってしまえばアマゾネスのようなごつい女性に対しては「愛おしさ」より「頼もしさ」というものを感じるでしょうし、猫とか子供とか相手していてかわいいと思うのはやっぱり相手が弱くて守ってあげなくてはと思うのが背景にあるからだと思います。
然るに現代は男女共に独立した個を持てと日本の教育現場では不完全ながら教えられますし、女性の社会進出に対してもどんどんとプッシュがなされています。果たしてそんな環境で、結婚に結びつくような「愛おしさ=弱さ」を相手の女性に感じる男性はどれほどいるのか疑問ですし(逆はありそうだけど)、そうしたことが婚姻減、離婚増、少子化のトリプルパンチにつながっているのだと考えます。
じゃあ日本の少子化をどうすればいいかといったら、どんな手段を選んでもいいというのならやはり女性の社会進出を徹底的に阻むことが一番効果をあげるでしょう。まぁ現代ではそんなことできるはずもないし、私としても才能ある女性を社会で使わないのはそれもまたもったいないことだと感じるのでやりたくはありませんが、他に方法があるとしたら結婚観を徹底的に変える事しかないと思います。
やはり現代では結婚は双方の「愛おしさ」を基底にしなければ成立しないという観念が非常に強いのですが、これでは「愛おしさ」が発生する「弱さ」がどちらかになければ私の考えでは起こり得ません。それだったらこの際、「結婚とは、生き残ることが難しいこの世の中にてサバイバルパートナーを得るということだ!」と、北斗の拳ばりに世の中の不毛さを謳い、戦場で後ろを任せられるような相手を結婚相手に選ぶべきだという観念を持たせれば、女性が社会進出しても問題はないんじゃないかと思います。実際、私なんかは出来ることならそういう人、もとい余計な支出が少ない名古屋の女性みたいな人を相手にしたいです。けちな性格なもんで……。
2008年12月1日月曜日
かつてのエニックスのマンガと、「月刊少年ギャグ王」の思い出
・しっとマスク(2ch全AAイラスト化計画)
昨日に引き続きまたもリンクから始めましたが、私がいつも見ているイラストサイトの「2ch全AAイラスト化計画」にて上記の「しっとマスク」がイラスト化されたのを見て、なんていうか忘れていた思い出が一気にぶわーって出てきたので、ちょっとこの時期のエニックスのマンガと既に廃刊した雑誌の「ギャグ王」について話そうと思います。
まず「しっとマスク」ですがこれは松沢夏樹氏作の「突撃パッパラ隊」というマンガにて、もてない軍人キャラの宮本がカップルを見つけるごとにその交際を妨害するキャラとして扮装したキャラクターですが、ありがちでありながらあんまり実際にネタにはされづらいキャラであり、そのテンションの高さとあいまっていい味を出していました。
しかしこの「突撃パッパラ隊」については、残念ながら厳しい評価をせざるを得ないマンガです。しっとマスクが登場したての頃は当初のコンセプトどおりに「過激なアーミーギャグマンガ」という路線が貫かれていたのですが、原作が中盤に差し掛かった頃からただのハイテンションなだけのギャグマンガに成り下がり、ひねりがどんどんと減っていって面白味もどんどんと失われていきました。それならばまだ最初の路線を堅持していれば、まだ面白く読み続けられたと思います。
なお、このパッパラ隊が連載していた当時のエニックス社発行マンガ雑誌のガンガンは、販売部数こそそれほどではなかったものの、他のマンガ雑誌と比べて雑誌全体のくくりが非常に薄く、漫画家がそれぞれ思い思いに自由な話を書いており、贔屓目もあるでしょうが非常に面白かったです。当時のガンガンのホープはなんといっても、現在のホープである「鋼の錬金術師」の作者荒川弘氏の師匠、江藤ヒロユキ氏の「魔方陣グルグル」で、これなんか多分今読み返しても十分に楽しめるマンガですが、このグルグル以外にも「ハーメルンのバイオリン弾き」とか「浪漫倶楽部」(こんなのわかる奴いるのかなぁ)など、全体的に荒削りながらも強い個性を持った連載陣を抱えて毎月楽しめて読めました。
しかしこのガンガンの最大にして致命的な大失敗は、1996年に何を思ったのかそれまでの月刊から隔週化、つまり月二回の発刊にしてしまったことでしょう。今ではもう元の月刊に戻したのですが、この時期に一部のマンガは月刊連載が続いたのですが大半はページ数は据え置きのままで〆切は月二回になるという、漫画家たちに単純にこれまでの二倍のペースで描かせ始めたのが運の尽きでした。やはり執筆期間の短縮はマンガの質に如実に現れ、とくに上記の渡辺道明氏の「ハーメルンのバイオリン弾き」はこの時期から目に見えて話がつまらなくなりました。単行本の作者コメントでもそのことに触れており、この隔週連載の時期は本当に辛かったと暗に述べています。
こうした連載マンガの急激な低調を受け、私も「ハーメルン」のコミックスを買うのをやめたばかりか、ガンガンを購読するのまでやめてしまいました。最終的に「ハーメルン」はマンガ喫茶で読破したけど。
さてこうしたかつてのガンガンのマンガにも思い入れは深いのですが、それ以上に私が当時に深く傾倒していたのが今日のタイトルにある、「月刊少年ギャグ王」でした。
・ピエール刑事94(ヤフオク)
なんかこの前適当に検索していたら出てきたのがこのオークションにかけられた(見事に売れ残っているが)マンガなのですが、これこそギャグ王で連載されていたマンガの一つです。
当時はマンガ雑誌がちょっとバブリーな頃で、エニックスも本流のガンガンに加えて「Gファンタジー」とかこの「ギャグ王」などいろいろ雑誌を出していたのですが、いかんせん作家陣を適当に揃えすぎた(ほとんどが懸賞で集めていきなりデビューの新人)ことと、コンセプトがはっきりしなかったことでギャグ王はあっけなく廃刊してしまいました。
しかしこのギャグ王、ある意味壮大な実験的マンガ雑誌とも言えるような雑誌で、一部には非常に特異なセンスを発揮する漫画家も排出しています。その代表格ともいえるのが「うめぼしの謎」の作者である三笠山出月氏で、生憎今ではもうマンガを描いていないのですが、この四コママンガのネタは文字通りの人の予測を悉く覆すすばらしい出来で、数年前には大都社から愛蔵版が発売されました。ついでに言うと、何故か友人とこのマンガの話になり、二人で小一時間熱く語り合ったことがあります。
最近はマンガ雑誌も売り上げが低迷し、2chの掲示板を見ても昔のマンガが面白かったなどという意見ばかり(2chの閲覧者の平均年齢は本当かどうかはともかくとしてこの前40歳前後とあったので、年齢を考えれば懐古主義になるのは自然です)見ますが、私は今のマンガに対してどれもかつての少女漫画風の絵が大半を占めるようになり、かつてのギャグ王にあったような強烈な個性を出す漫画家がいなくなったなぁとは思います。
しいて挙げるながら、私が知る限り現代漫画家で見ているこっちが舌を巻くのは「鋼の錬金術師」の荒川弘氏、「ケロロ軍曹」の吉崎観音氏、「ノノノノ」の岡本倫、「金剛番長」の鈴木央氏と言ったところでしょうか。ちょっと年齢層を上げていいのなら、「ジャングルの王者、ターちゃん」の徳弘正也氏も、今も連載しているのでここに入りますね。
ここで挙げた作者らは「真似しようとしても真似しきれない」ような強烈な個性をマンガの中でも発揮しているので、私の好きなタイプになります。あと余談ですが、私が中国にいた頃、何故か夜8時くらいに「ジャングルの王者、ターちゃん」が放映されていました。さすがに下品なシーンはカットされてはいたけど、「梁師範」が「リャンシーフー」と呼ばれていたりして、懐かしいやらなんとやらで、相部屋のルーマニア人も見ながらよく笑ってました。
昨日に引き続きまたもリンクから始めましたが、私がいつも見ているイラストサイトの「2ch全AAイラスト化計画」にて上記の「しっとマスク」がイラスト化されたのを見て、なんていうか忘れていた思い出が一気にぶわーって出てきたので、ちょっとこの時期のエニックスのマンガと既に廃刊した雑誌の「ギャグ王」について話そうと思います。
まず「しっとマスク」ですがこれは松沢夏樹氏作の「突撃パッパラ隊」というマンガにて、もてない軍人キャラの宮本がカップルを見つけるごとにその交際を妨害するキャラとして扮装したキャラクターですが、ありがちでありながらあんまり実際にネタにはされづらいキャラであり、そのテンションの高さとあいまっていい味を出していました。
しかしこの「突撃パッパラ隊」については、残念ながら厳しい評価をせざるを得ないマンガです。しっとマスクが登場したての頃は当初のコンセプトどおりに「過激なアーミーギャグマンガ」という路線が貫かれていたのですが、原作が中盤に差し掛かった頃からただのハイテンションなだけのギャグマンガに成り下がり、ひねりがどんどんと減っていって面白味もどんどんと失われていきました。それならばまだ最初の路線を堅持していれば、まだ面白く読み続けられたと思います。
なお、このパッパラ隊が連載していた当時のエニックス社発行マンガ雑誌のガンガンは、販売部数こそそれほどではなかったものの、他のマンガ雑誌と比べて雑誌全体のくくりが非常に薄く、漫画家がそれぞれ思い思いに自由な話を書いており、贔屓目もあるでしょうが非常に面白かったです。当時のガンガンのホープはなんといっても、現在のホープである「鋼の錬金術師」の作者荒川弘氏の師匠、江藤ヒロユキ氏の「魔方陣グルグル」で、これなんか多分今読み返しても十分に楽しめるマンガですが、このグルグル以外にも「ハーメルンのバイオリン弾き」とか「浪漫倶楽部」(こんなのわかる奴いるのかなぁ)など、全体的に荒削りながらも強い個性を持った連載陣を抱えて毎月楽しめて読めました。
しかしこのガンガンの最大にして致命的な大失敗は、1996年に何を思ったのかそれまでの月刊から隔週化、つまり月二回の発刊にしてしまったことでしょう。今ではもう元の月刊に戻したのですが、この時期に一部のマンガは月刊連載が続いたのですが大半はページ数は据え置きのままで〆切は月二回になるという、漫画家たちに単純にこれまでの二倍のペースで描かせ始めたのが運の尽きでした。やはり執筆期間の短縮はマンガの質に如実に現れ、とくに上記の渡辺道明氏の「ハーメルンのバイオリン弾き」はこの時期から目に見えて話がつまらなくなりました。単行本の作者コメントでもそのことに触れており、この隔週連載の時期は本当に辛かったと暗に述べています。
こうした連載マンガの急激な低調を受け、私も「ハーメルン」のコミックスを買うのをやめたばかりか、ガンガンを購読するのまでやめてしまいました。最終的に「ハーメルン」はマンガ喫茶で読破したけど。
さてこうしたかつてのガンガンのマンガにも思い入れは深いのですが、それ以上に私が当時に深く傾倒していたのが今日のタイトルにある、「月刊少年ギャグ王」でした。
・ピエール刑事94(ヤフオク)
なんかこの前適当に検索していたら出てきたのがこのオークションにかけられた(見事に売れ残っているが)マンガなのですが、これこそギャグ王で連載されていたマンガの一つです。
当時はマンガ雑誌がちょっとバブリーな頃で、エニックスも本流のガンガンに加えて「Gファンタジー」とかこの「ギャグ王」などいろいろ雑誌を出していたのですが、いかんせん作家陣を適当に揃えすぎた(ほとんどが懸賞で集めていきなりデビューの新人)ことと、コンセプトがはっきりしなかったことでギャグ王はあっけなく廃刊してしまいました。
しかしこのギャグ王、ある意味壮大な実験的マンガ雑誌とも言えるような雑誌で、一部には非常に特異なセンスを発揮する漫画家も排出しています。その代表格ともいえるのが「うめぼしの謎」の作者である三笠山出月氏で、生憎今ではもうマンガを描いていないのですが、この四コママンガのネタは文字通りの人の予測を悉く覆すすばらしい出来で、数年前には大都社から愛蔵版が発売されました。ついでに言うと、何故か友人とこのマンガの話になり、二人で小一時間熱く語り合ったことがあります。
最近はマンガ雑誌も売り上げが低迷し、2chの掲示板を見ても昔のマンガが面白かったなどという意見ばかり(2chの閲覧者の平均年齢は本当かどうかはともかくとしてこの前40歳前後とあったので、年齢を考えれば懐古主義になるのは自然です)見ますが、私は今のマンガに対してどれもかつての少女漫画風の絵が大半を占めるようになり、かつてのギャグ王にあったような強烈な個性を出す漫画家がいなくなったなぁとは思います。
しいて挙げるながら、私が知る限り現代漫画家で見ているこっちが舌を巻くのは「鋼の錬金術師」の荒川弘氏、「ケロロ軍曹」の吉崎観音氏、「ノノノノ」の岡本倫、「金剛番長」の鈴木央氏と言ったところでしょうか。ちょっと年齢層を上げていいのなら、「ジャングルの王者、ターちゃん」の徳弘正也氏も、今も連載しているのでここに入りますね。
ここで挙げた作者らは「真似しようとしても真似しきれない」ような強烈な個性をマンガの中でも発揮しているので、私の好きなタイプになります。あと余談ですが、私が中国にいた頃、何故か夜8時くらいに「ジャングルの王者、ターちゃん」が放映されていました。さすがに下品なシーンはカットされてはいたけど、「梁師範」が「リャンシーフー」と呼ばれていたりして、懐かしいやらなんとやらで、相部屋のルーマニア人も見ながらよく笑ってました。
2008年11月30日日曜日
中二病体験のある人ない人、それとしらけについて
・マンガで分かる心療内科・精神科(ゆうメンタルクリニック)
久々にいきなりリンクから始めましたが、今回リンクに貼ったのはこのところ私がハマっている、ゆうメンタルクリニックの「漫画でわかる心療内科・精神科」という連載漫画の最新版です。なかなか短いながらも展開がよく、きちんと精神系の病気について解説がなされているのでぜひともお勧めしたいページです。
さて今回のこの記事ではそんな風に気に入っているページを紹介したいというのがメインではなく、ちょっとこの漫画を読んでひょんなことを思いついたので、その辺を解説しようと思います。
まず上記のリンクに貼った漫画の中で、「うつの人ほど現状をより冷静かつ正確に認識できるのです」というセリフがありますが、これには素直にそうだろうなぁと私は思いました。やっぱり周りの人を見ていても、あんまり悩まない人って言うのは細かいことは気にしなかったりする人が多く、逆に物事を細かく見る人ほどやっぱり悩みやすい気がします。更に偏向的に言えば、私がダジャレを言うとあまり悩まない人だときちんとツッコミを入れてくれますが、よく悩む人ほどツッコミも愛想笑いもせずに「つまんね」とだけ言ったり、ひどい人によっては相手にもせず放置するのまでいます。これまた偏見ですが、やっぱり前者は関西人の割合が多くて後者は関東人の割合が高い気もします。
ここで話は変わりますが、「中二病」というものを皆さんご存知でしょうか。
この中二病というのは文字通り、中学校二年生くらいの思春期の男の子にありがちな、後年恥ずかしくてとても人に言えないような夢見がちで意識過剰な行動を取ってしまうことの総称で、俗説的に流布している言葉です。いくつか例を挙げるとしたら、中学二年生くらいになって急に音楽にハマって毎日ギターを弾きだしたり、どっかで見たりしたような奇妙なファッションを「これこそが俺の個性なんだ」とか言って一人でやり始め、周りがドン引きしているにもかかわらず、「あいつらには俺のセンスがわからないんだ、フッ」というようなことを恥ずかしげもなく周りに言い始めるような行動が主な中二病の症状です。かいつまんでいうと、周りの目を気にしないあまりにとんでもなく突っ走って妙な行動をしてしまうといったところでしょうか。
さてこの中二病ですが、この言葉の発信源の巨大掲示板「2ちゃんねる」では匿名性ゆえにネタとして扱われることが多く、大抵は否定的なものとして見られています。しかし私の結論から言うと、男のくせに中二病体験もないなんて寂しい奴だと、どちらかといえば肯定的に見ています。というより、男子の一つの成長関門みたいなものだと思います。
かく言う私も少なからずこの時期におかしい考え方や行動を、それこそ人に言えないようなことを数多くやっています。まだここで公開できるものとして、中学校一年の頃に政治を正して世の中を良くするんだと思っていろいろ政治について勉強し始めたのですが、「日本で政治家になっても、日本しか救えない。これじゃ駄目だ!」とか思いなおし、じゃあ世界中を救うにはどうすればいいかと考えて、やっぱりそりゃ文学しかないだろうと思って小説を、しかも何故かSF系の小説ばかり中学二年生の頃から書き始めました。そのおかげで文章を書くのは得意になったけど。
そんな私の体験はおいといて、私は基本的に中学生くらいの男の子はこういう後年にすねの傷になるような体験や行動をみんなしていると思います。しかし中にはこうした行動を、それこそさきほどの「うつの人は現状を冷静に認識する」じゃないですが、同学年とかクラスに一人は揚げ足取りみたいにそうした行動をからかったり、馬鹿にしたりする人間もいます。これなんかはちょっと極端な例ですが、私が小学生だった頃に友達らと遊んでいる際、アニメでやっている必殺技のまねをしたらある同学年の子が、「かめはめ波なんて本当に出るわけないのに、なに変なことしてんのさ」っていう具合に、冷めた態度を取ってきたことがあります。
これは私の感覚ですが、そのように中二病をからかっていた人間は性格的にあまり付き合いたくないと思うような人ばかりでした。理由はどうあれ、自分で満足して行っている行動に対して、おかしいとか変だとか周囲が決め付け批判する権利は本来ないと思いますし、逆に過度にからかう理由というのもないような気がします。そしたら案の定というかなんですが、当時にそうやって冷めた態度を取ったり中二病の同級生をからかっていた私の同級生らは成人してもどこかしらおかしな行動を取ってたり、ひどい例などはニートになっていたりなどあまり順調な人生を歩んでいません。それに対して当時に中二病丸出しで夢見がちだった友人らは今もいい友人で、また実生活でも充実している人が非常に多いです。
言ってしまえば最初のうつになりやすい人が物事に対して冷めているという精神病理学の分析のように、中二病をやらかす人間というのはそうしたものとは無縁で行動力がある人間という風に解釈できるのではないでしょうか。またそんな堅苦しい分析はほっといても、中二病をやらかした過去というのは確かに中二病を過ぎ去った直後は非常に恥ずかしいものですが、ある程度年齢を重ねると、「あの時の俺は馬鹿だったなぁ」と、恥ずかしさはあるもののいい思い出として残るものの方が多い気がするので、やらないよりはやっている方が人間として面白味もつくし、人生的にもいいんじゃないかと思います。程度にもよりますが。
しかるに今の日本ではこうした行動や社会的な事象に対して、非常に冷めているというかしらけたムードが日本中に漂っています。そしてそれを反映してか、私から見ても今の中学生や高校生で、「ああ、あいつ中二病だな」と思わせるような突飛な行動をする者が減り、なんとなく物事や自分の将来に対して非常に冷めてて話をしていても面白いと思わせるような子がいない気がします。
そういうわけで私がここで言いたいのは、少なくとも周りに大迷惑を与えるような行動は論外ですが、中二病というような行動に対して、「子供はそうでなくっちゃ」と大人が子供に言ってあげるべきだと思います。またそうした行動に対して、「馬鹿なことはやめろ」とソフトバンクのお父さんみたいに頭ごなしに言うのではなく、多少は好き勝手にやらせてあげるのも本人の可能性を広げる意味でいいと思います。私も、文学での世界平和を信じたために今の文章力が養われたという事実があるんだし。
追伸
馬鹿にしてはいけないといいつつも、私が今までに見た壮絶な中二病体験をここで紹介します。こういうものって外から見る分にはやっぱり面白いからなぁ。
・放課後のジョーカー(ハムスター速報)
・邪気眼(はてなキーワード)
久々にいきなりリンクから始めましたが、今回リンクに貼ったのはこのところ私がハマっている、ゆうメンタルクリニックの「漫画でわかる心療内科・精神科」という連載漫画の最新版です。なかなか短いながらも展開がよく、きちんと精神系の病気について解説がなされているのでぜひともお勧めしたいページです。
さて今回のこの記事ではそんな風に気に入っているページを紹介したいというのがメインではなく、ちょっとこの漫画を読んでひょんなことを思いついたので、その辺を解説しようと思います。
まず上記のリンクに貼った漫画の中で、「うつの人ほど現状をより冷静かつ正確に認識できるのです」というセリフがありますが、これには素直にそうだろうなぁと私は思いました。やっぱり周りの人を見ていても、あんまり悩まない人って言うのは細かいことは気にしなかったりする人が多く、逆に物事を細かく見る人ほどやっぱり悩みやすい気がします。更に偏向的に言えば、私がダジャレを言うとあまり悩まない人だときちんとツッコミを入れてくれますが、よく悩む人ほどツッコミも愛想笑いもせずに「つまんね」とだけ言ったり、ひどい人によっては相手にもせず放置するのまでいます。これまた偏見ですが、やっぱり前者は関西人の割合が多くて後者は関東人の割合が高い気もします。
ここで話は変わりますが、「中二病」というものを皆さんご存知でしょうか。
この中二病というのは文字通り、中学校二年生くらいの思春期の男の子にありがちな、後年恥ずかしくてとても人に言えないような夢見がちで意識過剰な行動を取ってしまうことの総称で、俗説的に流布している言葉です。いくつか例を挙げるとしたら、中学二年生くらいになって急に音楽にハマって毎日ギターを弾きだしたり、どっかで見たりしたような奇妙なファッションを「これこそが俺の個性なんだ」とか言って一人でやり始め、周りがドン引きしているにもかかわらず、「あいつらには俺のセンスがわからないんだ、フッ」というようなことを恥ずかしげもなく周りに言い始めるような行動が主な中二病の症状です。かいつまんでいうと、周りの目を気にしないあまりにとんでもなく突っ走って妙な行動をしてしまうといったところでしょうか。
さてこの中二病ですが、この言葉の発信源の巨大掲示板「2ちゃんねる」では匿名性ゆえにネタとして扱われることが多く、大抵は否定的なものとして見られています。しかし私の結論から言うと、男のくせに中二病体験もないなんて寂しい奴だと、どちらかといえば肯定的に見ています。というより、男子の一つの成長関門みたいなものだと思います。
かく言う私も少なからずこの時期におかしい考え方や行動を、それこそ人に言えないようなことを数多くやっています。まだここで公開できるものとして、中学校一年の頃に政治を正して世の中を良くするんだと思っていろいろ政治について勉強し始めたのですが、「日本で政治家になっても、日本しか救えない。これじゃ駄目だ!」とか思いなおし、じゃあ世界中を救うにはどうすればいいかと考えて、やっぱりそりゃ文学しかないだろうと思って小説を、しかも何故かSF系の小説ばかり中学二年生の頃から書き始めました。そのおかげで文章を書くのは得意になったけど。
そんな私の体験はおいといて、私は基本的に中学生くらいの男の子はこういう後年にすねの傷になるような体験や行動をみんなしていると思います。しかし中にはこうした行動を、それこそさきほどの「うつの人は現状を冷静に認識する」じゃないですが、同学年とかクラスに一人は揚げ足取りみたいにそうした行動をからかったり、馬鹿にしたりする人間もいます。これなんかはちょっと極端な例ですが、私が小学生だった頃に友達らと遊んでいる際、アニメでやっている必殺技のまねをしたらある同学年の子が、「かめはめ波なんて本当に出るわけないのに、なに変なことしてんのさ」っていう具合に、冷めた態度を取ってきたことがあります。
これは私の感覚ですが、そのように中二病をからかっていた人間は性格的にあまり付き合いたくないと思うような人ばかりでした。理由はどうあれ、自分で満足して行っている行動に対して、おかしいとか変だとか周囲が決め付け批判する権利は本来ないと思いますし、逆に過度にからかう理由というのもないような気がします。そしたら案の定というかなんですが、当時にそうやって冷めた態度を取ったり中二病の同級生をからかっていた私の同級生らは成人してもどこかしらおかしな行動を取ってたり、ひどい例などはニートになっていたりなどあまり順調な人生を歩んでいません。それに対して当時に中二病丸出しで夢見がちだった友人らは今もいい友人で、また実生活でも充実している人が非常に多いです。
言ってしまえば最初のうつになりやすい人が物事に対して冷めているという精神病理学の分析のように、中二病をやらかす人間というのはそうしたものとは無縁で行動力がある人間という風に解釈できるのではないでしょうか。またそんな堅苦しい分析はほっといても、中二病をやらかした過去というのは確かに中二病を過ぎ去った直後は非常に恥ずかしいものですが、ある程度年齢を重ねると、「あの時の俺は馬鹿だったなぁ」と、恥ずかしさはあるもののいい思い出として残るものの方が多い気がするので、やらないよりはやっている方が人間として面白味もつくし、人生的にもいいんじゃないかと思います。程度にもよりますが。
しかるに今の日本ではこうした行動や社会的な事象に対して、非常に冷めているというかしらけたムードが日本中に漂っています。そしてそれを反映してか、私から見ても今の中学生や高校生で、「ああ、あいつ中二病だな」と思わせるような突飛な行動をする者が減り、なんとなく物事や自分の将来に対して非常に冷めてて話をしていても面白いと思わせるような子がいない気がします。
そういうわけで私がここで言いたいのは、少なくとも周りに大迷惑を与えるような行動は論外ですが、中二病というような行動に対して、「子供はそうでなくっちゃ」と大人が子供に言ってあげるべきだと思います。またそうした行動に対して、「馬鹿なことはやめろ」とソフトバンクのお父さんみたいに頭ごなしに言うのではなく、多少は好き勝手にやらせてあげるのも本人の可能性を広げる意味でいいと思います。私も、文学での世界平和を信じたために今の文章力が養われたという事実があるんだし。
追伸
馬鹿にしてはいけないといいつつも、私が今までに見た壮絶な中二病体験をここで紹介します。こういうものって外から見る分にはやっぱり面白いからなぁ。
・放課後のジョーカー(ハムスター速報)
・邪気眼(はてなキーワード)
2008年11月28日金曜日
ネットカフェ難民体験
暑い……この店の人間は気が狂ってるのか?
今日はとある事情で自宅に帰れず、ネットカフェにて一夜を明かさねばならなくて今のブログもネットカフェで書いていますが、何をトチ狂っているのか、私が今いるこの部屋の室温は現在30℃。湿度も30%あり、不快指数は相当高くこの後無事に眠れるのか非常に不安です。飲み物は飲み放題で毛布も借りられてて個室ですが、これで一晩3000円というのにはちょっと納得はいきません。他に選択肢がないから仕方ないけど。
ところで以前に週刊朝日の記者がネットカフェをめぐり、「ネットカフェ難民にも格差がある」という記事を書いており、やはり値段によっては至れり尽くせりの店もあれば、一晩泊るといったら店員に、「女性一人で大丈夫ですか?」と聞かれるような店もあり、いちいち回ったこの女性記者には舌を巻きました。
それにしても暑い……服脱がないとたぶん眠れないなぁ。早く寝たいのに連絡の必要な相手から返事が来ない……。
今日はとある事情で自宅に帰れず、ネットカフェにて一夜を明かさねばならなくて今のブログもネットカフェで書いていますが、何をトチ狂っているのか、私が今いるこの部屋の室温は現在30℃。湿度も30%あり、不快指数は相当高くこの後無事に眠れるのか非常に不安です。飲み物は飲み放題で毛布も借りられてて個室ですが、これで一晩3000円というのにはちょっと納得はいきません。他に選択肢がないから仕方ないけど。
ところで以前に週刊朝日の記者がネットカフェをめぐり、「ネットカフェ難民にも格差がある」という記事を書いており、やはり値段によっては至れり尽くせりの店もあれば、一晩泊るといったら店員に、「女性一人で大丈夫ですか?」と聞かれるような店もあり、いちいち回ったこの女性記者には舌を巻きました。
それにしても暑い……服脱がないとたぶん眠れないなぁ。早く寝たいのに連絡の必要な相手から返事が来ない……。
2008年11月27日木曜日
絶対的に間違っていることについて
よく世の中には、「絶対的に正しいことなどない」という言葉がありますが、この言葉には私も素直にその通りだと思い、どんな時にどこでも正しい規範なんていうものは現実には存在しないと思います。しかしその逆の「絶対的に間違っていること」というのは、私は世の中に確実に存在していると思います。
ではどのようなものが絶対的に間違っていることなのかですが、まず一番代表的なのは私が「邪悪とは」の記事の中で書いた、他人を踏み台にして自分だけいい目を見ようとする行為です。これにはたとえどんな反論があろうと、私の中で許されざる行為であるという信念は揺るがないでしょう。
次に言えるのは、弱者をいたぶる行為です。言ってしまえば自分に逆らうことの出来ない相手に対して知っていながら必要以上に嫌がらせや攻撃を仕掛けることで、いじめやカスタマーサービスへの必要以上のクレームがこれに当たります。
このように、「絶対的に正しいこと」に対して「絶対的に間違っていること」というのはいろいろあり、また確信を持って主張できるものばかりです。敢えて絶対的に正しいこととは何かというのなら、それはこの絶対的に間違っていることを絶対に行わないということなのかもしれません。
ではどのようなものが絶対的に間違っていることなのかですが、まず一番代表的なのは私が「邪悪とは」の記事の中で書いた、他人を踏み台にして自分だけいい目を見ようとする行為です。これにはたとえどんな反論があろうと、私の中で許されざる行為であるという信念は揺るがないでしょう。
次に言えるのは、弱者をいたぶる行為です。言ってしまえば自分に逆らうことの出来ない相手に対して知っていながら必要以上に嫌がらせや攻撃を仕掛けることで、いじめやカスタマーサービスへの必要以上のクレームがこれに当たります。
このように、「絶対的に正しいこと」に対して「絶対的に間違っていること」というのはいろいろあり、また確信を持って主張できるものばかりです。敢えて絶対的に正しいこととは何かというのなら、それはこの絶対的に間違っていることを絶対に行わないということなのかもしれません。
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