先々週に一週間以内に書くと言いながらまたずいぶんと伸び伸びになってしまいましたが、日露戦争、並びにポーツマス条約前後で日本がどう変わったかについて一筆書きます。結論から書くと、日露戦争によって日本の国民が慢心を持ったことから他国を侮るようになり、その慢心が後の太平洋戦争への無謀な参戦へとつながったと考えております。
まず歴史的事実から簡単に整理しますが、日本は前年に開戦したロシアとの日露戦争で勝利し、1905年にロシアとの間でポーツマス条約を結び戦争を終結します。この日露戦争は海外の目から見ても日本の勝利と位置付けられておりますがその内実は辛勝も辛勝で、当時の日本は既に戦争継続能力が尽きており、仮にポーツマス条約がまとまらなければ戦況がひっくり返ることも十分あり得たでしょう。また歴史の授業では旅順攻略、日本海海戦の勝利によってさも自然とポーツマス条約がまとまったかのように書かれておりますが実際の交渉は非常に難航しており、交渉期限ギリギリにおいても日本側は交渉決裂を覚悟していたとも伝えられます。もっとも確か合意の一日前かに、ロシア側の「樺太の南半分は妥協してもいい」という電信を傍受したことによって、一気に合意へと進んだとされてます。
このように日露戦争は薄氷の勝利と言ってもいいもので勝利したことは確かに誇れるものの、まだ日本は欧米列強の一員完全に肩を並べたとは言えないような状態にありました。この事実に対し当時の日本政府のリーダーたちは理解していた節があり、だからこそポーツマス条約においても賠償金なしという条件を飲みました。ただ日本の国民はどうだったのかというと逆で、これだけロシアに勝っているにもかかわらず条約交渉で及び腰過ぎたと、むしろ日本政府を批判する声の方が大きかったようです。
その結果起きたのが日比谷焼打ち事件で、これは明治以降に都市部で起きた大規模暴動としてはもっとも最初の事件なのですが、政府の条約交渉に不満を持った民衆が日比谷公園に集まった後に官邸や交番が襲撃され、死者17名負傷者500名以上にも上った事件です。明治政府に対する批判や反対行動はこれ以前からもなかったわけではありませんが、政治活動家や団体ではなく一般大衆が政府に対する不満から起こされた最初の事件としてみるならば非常に意義深い事件と言えます。
この日比谷焼打ち事件が起こった背景として、日本におけるジャーナリズム、デモクラシーの勃興があります。既に当時の日本では制限選挙ではありませんが国会も開設されており、それに伴って大都市を中心に新聞社もあちこちにできて一般大衆も一連の政治の動きを追うことが出来る時代になっていました。
ただ当時、と言っても今もそういう面がなくなったわけではありませんが、どの新聞社も部数を伸ばすために読者受けのいい記事を載せる一方、反感を買うような記事は敢えて排除する傾向がありました。 特に日露戦争中は文字通り「煽る」記事が多く出回り、日本政府が戦争への支持をつなぎとめるために戦果を過大に宣伝していたこともありますがどの新聞も日本がさも圧勝しているかのように報じ、条約交渉中も多くの割譲領土ならびに大量の賠償金が得られてさも当然かの様な予想記事が並び、国民もそれを見て過大な期待を抱いたと言われます。
にもかかわらず実際の交渉結果は賠償金が得られないどころか日本が支配権を得た領土も期待より少なく、八万人以上も戦死者を出した一般国民としては非常に不満を覚える内容だったのでしょう。また国民を煽っていた新聞社も条約内容は手ぬるいとして政府を激しく批判して煽り、徳富蘇峰が主宰していた国民新聞が唯一、条約交渉の結果について政府を支持したら猛批判を浴び、日比谷焼打ち事件の際に国民新聞の社屋には五千人が集まり襲撃される事態を招いています。それにしても五千人って、黒田官兵衛もびっくりだ。
言ってしまえば当時の日本のジャーナリズムは未熟で、実態をよく把握せずに部数獲得という俗物的な目的から国民を煽り、余計な暴動を引き起こしてしまったと考えることも出来ます。こうした傾向は大正時代以降も続き、昭和に至って極大化して太平洋戦争へと国民を駆り立てる大きな要因になったと断言してもいいでしょう。こうした歴史の流れを改めて振り返るにつけ、もしかしたら超然主義というのは正しかったのかもなと最近思うようになってきました。
超然主義とは明治初期に維新の元勲内閣が主張した政治姿勢で、平たく言えば「民意を無視して自分たちが考える政策を推し進める」というような姿勢です。この超然主義の代表格とも呼べるのが山縣有朋が首相、または桂太郎など彼の腹心が首相だった内閣で、本当に清々しいほど民意を無視しまくって政策を進めていたので現代における山縣の評価は高いとは言えません。
私は以前の記事で山縣有朋と伊藤博文を主役に置いた小説を書いてみたいと書きましたが、折々に両者の人生とその時代背景を探っていくと、この日露戦争後を初めあの明治という時代において、日本はまだ民主主義をやっていくには早かったのではないかという考えがどんどん強まっていきました。もっともそれを言えばほかの欧米列強に関しても同様ですが。
そのような時代にあって民意を無視して推し進める姿勢、もちろん露骨な選挙干渉とか勧誘物の払い下げといった汚職(山縣は汚職政治家の第一号)も黙認できるわけじゃありませんが、あの時代にあってはそうした超然主義の方が正しかったのかもという考えが強まってきていました。原敬に至っては民意を無視してたら暗殺までされたけど。
翻って現代を見てみると、果たしてどうなのかって話に発展してきます。私は常日頃から民意にだけ従う政治家や政党は間違っているし、また国民を「煽る」新聞も論外だと主張してますが、特定機密保護法案やSTAP細胞に関する初期の報道などを見ている果たして今、必要なレベルに日本は達しているのかななんて思ってしまいます。
少し脱線しましたが話を戻すと、山縣に対する否定的な評価要因は裏返してみると太平洋戦争の遠因にもなりかねず、時代背景を考えると超然主義は今言われているほど否定的に見るべきではないのではというのが私の意見です。それにしても超然主義を支持するなんて、自分も中国共産党に感化されてきたかななんていう気もしてきます。
2 件のコメント:
たいへんお忙しい中、興味深い記事のUP、ありがとうございます。日比谷焼き討ち事件が、一般大衆による最初の大規模な暴動なのですね。なんというか、こうした事件を知ると、昔の日本人の熱さに驚きます。前のコメントでも触れさせていただいた、樋口清之氏の「逆・日本史」には、日英同盟が成立した日には数千名が炬火(たいまつ)を手にして銀座通りを練り歩き皇居前まで行進した、とあります。数年後の焼き討ち事件。私なんてすごく疲れ易いし、人と集まって何かするのがだるいので(vv;)、なぜ昔の人は今より食生活もよくなかっただろうに、情熱的で、元気で、怒りも喜びもみなで集まって素直に表現できたのだろう、、と想像ができません。でも確かに大衆運動はヒステリックになりがちなので、私も、超然主義派な方かもです。
こちらこそ一週間以内に書くと予告しておきながら二週間後となり、誠に申し訳ありませんでした。見ての通り内容にはそこそこ自信がありますがその分、体力のかかる記事ということもあり、平日には無理だと放っていたらずるずると時間が伸びていってしまってようやく書き切った次第です。
日英同盟時の話と合わせて考えてみると確かに面白いですね。ちょっと前は政府を熱烈に支持したのにそのすぐ後には猛批判に変わる、ある意味これが民主主義社会なのかもしれません。ただ対となる超然主義が行き過ぎると旧ソ連や昔の中国みたいな全体主義に陥り、こっちの方が弊害が大きいのは言うまでもありません。あともう一つ付け加えると、暴走するのは何も権力だけじゃなく、マスメディアも十分暴走しやすいということをこの記事で訴えたく書きました。
あと自分もこういう政治デモ行進とか、きっとこの時代にあっても参加しなかったと思います。理由は単純に集団行動が苦手だからですが、その一方で単独行動によるテロとかだったら時代によっては案外やってかもしれないと密かに考えてます。
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