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2023年7月7日金曜日

反省文を書きまくった皇帝

 また本題と関係ないけど「アクション対魔忍」の中国語名は「動作対魔忍」でした。なんか少し違うような気がする。

孝文帝(Wikipedia)

 話は本題ですが、日本において「北魏」というと多分世界史を習った人は「大仏」と答えるかと思います。というのも、この北魏(5~6世紀)という中国の王朝に関しては「中国で仏教が盛んになった王朝」で、この時代の大仏を「北魏式」と呼ぶことしかテストに出ないからです。しかし実際には混乱極まった中国の南北朝時代(五胡十六国時代)において、華北地域で初めて安定を得た王朝で、後の隋、そして唐による統一のきっかけにもなるなどかなり重要な王朝だったりします。
 またこの北魏の時代から口分田こと均田制が始まり、これら政策や税制はそのまま日本の奈良時代に引用されています。そういう意味では、日本にとっても影響力の深い王朝です。

 そんな北魏において最盛期を築いたのが上記リンク先の孝文帝です。北魏の王朝は拓跋氏という、鮮卑族による王朝で、孝文帝の本名も「拓跋宏(たくばつ・ひろし)」といいました。しかし彼は早期に漢民族系の文化に染まり、首都を洛陽に移したほか、生活や制度まで漢民族風に一気に切り替えたことで有名です。
 そのため苗字に関しても、わざわざ「拓跋→元」と改名し、途中からは「元宏(もと・ひろし)」と名乗ったりします。

 そんな孝文帝ですが、祖母(実母であった説もある)の馮太后から英才教育を受け、非常に勉強熱心な皇帝としてデビューを果たします。わずか5歳で帝位に就いて当初は馮太后が摂政となったものの、馮太后の死後からは申請を開始し、善政を敷いて北魏の勢いを高めています。その過程で、漢民族と自分の出身である鮮卑族の融和も進めるなど、かなりマルチな活躍ぶりを見せています。

 性格も非常によくできた、物分かりのいい人だったとされているのですが、そうした一端をうかがわせるエピソードとして、反省文の話があります。なんでも、孝文帝は反省文を書くのが大好きで、ことあるごとに「世の中が飢饉なのは僕のせいです」、「中国が統一されないのは僕の努力が足りないせいです」、「皇太子が反乱を起こしたのも僕のせいです(でも討伐する)」などと文書にしたためては、「天よ、罪深い僕を罰したまえ」などと書き続けたと言われています。恐らく、反省文の執筆数でいえば歴代皇帝ナンバーワンでしょう。

 自分は猫の歴史漫画で初めて孝文帝について知りましたが、さっきの「おばあちゃんが実は母親だった?」などといい、こんな面白い人をなんで詳しく教えてくれなかったんだという思いが決行します。割と五胡十六国時代は穴場というかこういうのが多いので、いつかまとめる本でも出そうかな。

2 件のコメント:

片倉(焼くとタイプ さんのコメント...

五胡十六国時代・南北朝時代に 侯景 という人物がいます。彼は「宇宙大将軍」という称号を名乗った事で有名です。南朝の梁で反乱を起こし、梁の都の建康を陥落させました。侯景は皇帝に即位しますが梁の官軍に敗北し死亡しました。 彼の反乱により梁(と後継王朝である陳)は弱体化し、隋は比較的楽に 陳を滅亡させることができました。彼の反乱により隋唐がが中国統一を達成し、内戦が無くなった事を思えば、結果論ですが侯景の反乱にも意味があったのかもしれません。 最も歴史マニアの間では 上述のとおり「宇宙大将軍」を名乗った ネタキャラとして扱われています。

花園祐 さんのコメント...

 支配者の変化が激しすぎてあんま取り扱われない南北朝時代ですが、調べてみると結構面白いエピソードとかあって今勉強しなおし中です。侯景走りませんでしたが、なんかロボットアニメに出てきそうなやつだな、出るとしたらジャイアントロボだななどと思いました。
 五代十国もそうでしたが、大体北朝で名君が出てきて南朝が暗君となったときに統一が一気に進みます。名君同士だったら逆に拮抗して、互いに手を出さず小康状態に入り、中途半端なもの同士の時に抗争起きて人が死ぬイメージです。