先日、例の上海人の友人から、「日系企業にいるなら間違っていると思っても上司の言うことを黙って聞かないと駄目だよ」と諭されました。実際、相手が誰であろうと文句があればすぐ言う性格なので間違っているわけではないのですが、まさか中国人に日本の雇用慣行を諭されるとは夢にも思わなかった……。
そんな日本の雇用慣行について今日は書くつもりなのですが、ちょうど去年の今頃というか4月頃は例の小保方騒動が一番ヒートアップしていた頃だと思います。この騒動においては理研の研究審査体制や体質、女性研究者であることを理由に過剰なまで持ち上げたメディア、コピペ問題などいろいろな問題点が挙げられてましたが、私が内心一番大きな問題だったと思うのはどうして小保方氏が理研に研究員として採用されたのか、その選考方法にあるのではないかと考えています。
報道によると小保方氏はハーバード大留学という経歴を引っ提げて理研に入ったとのことですが、この際に通常の選考で課される英語でのプレゼンは免除されていたそうで、万能細胞という魅力的な研究テーマでもってほぼ一本釣りみたいな形で採用されたと聞きます。しかしその実態はすでに報道されている通り、博士号論文をコピペして出すわ、研究ノートもまともにつけられないは、自然発光かどうかも疑わなかったなど研究者としては全く実力がなく、はっきり言えば中身が全くない人物だったと言っても過言ではありません。ただそんな小保方氏ですが去年の釈明会見を見て私は、「ああ、この人ならどんな採用面接でも受かるだろうな」という印象を覚えました。
何故そのように思ったのかというと、とにもかくにも見せ方というかプレゼンが非常に上手かったからです。大学もAO入試で入ったというだけあって恐らく昔からその手のセンスが鋭かったのだと伺えますが、今の日本だとこのように、中身が全くなくても面接時などの見せ方、しゃべり方が上手かったらそれだけで評価されて通してしまうことが多いように思えます。換言するならば外見と比べて中身はほとんど評価されない傾向にあり、真面目系な大学生ほど就活では苦戦するという話をよく聴くし、私のある後輩なんかまさにそうでした。
何故がさっきから続きますが何故日本社会は中身を評価しようとしないのか。多分一番多いであろう言い訳としては「コミュニケーション能力が求められているからだ」という回答でしょう。確かに私もそれを否定しませんがでは何故(またか)コミュニケーション能力が求められるのか、その理由について考えている人は今の今まで私は出会ったことがありません。
私的な意見を述べると、比較的年齢の高い現役世代があまりにもコミュニケーション能力が低くて意思疎通がほとんど図れないためか、若手の世代が同じように低いか、中身のない人間が多すぎてコミュニケーションする内容がないのか、この三択じゃないかと思います。私が考える原因はこの三つともで、特に理解してもらうよう説明することに努力を払わない人間が多すぎることが大きいと考えています。
中身のない人間が何故評価されるかについて話を戻しますが、基本、中身がある人間と比べてない人間の方が口は軽いに決まっています。物がわかっている人間なら軽々に、「ハイできます」なんて言えるわけないですし、慎重にならざるを得ませんが、小保方氏の様に初めからあるかどうかすらも認識できないなら、「STAP細胞はあります」と堂々と言えちゃうわけで、選考過程ではそりゃ後者の方がいい方に見えることでしょう。
その上で中身をきちんと審査しようとなると、審査する人間の中身も求められますし、また中身を審査すること自体も外見だけを見るのに比べて多大な労力が必要です。この後は言わないけど、こういう点も今の日本で中身が評価されない時代ゆえなのかもしれません。
私は二年くらい前からたびたび、「黙って手を動かす奴が一番強くて偉いんだ」というセリフを言う機会が増えています。何故こんなことを言うとどれだけ実力があっても、力量があっても、外見ばかりが評価される現代ではそのような人間はまずほとんど評価されていないきらいがあるのではと思うからです。もちろん周りを楽しませられる才能があるに越したことはありませんが、人間はやっぱり中身で、そういう点をおろそかにしているから昭和期と比べて今の日本はパッとしないんじゃないかと常々感じるわけです。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2015年4月16日木曜日
2015年4月14日火曜日
日本文学の現状
昨夜遅くまで「ファイナルファンタジー零式」で遊んでいたためジバニャン並に「だるんですけどー」と言いたくなるような状態なので、二分で考えたネタで今日は間に合わせようと思います。
さて日本文学と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。私が真っ先に思い浮かべるのは個人的に一番好きな森鴎外の名前が来てその次に彼の傑作の一つである「高瀬舟」が続くのですが、ふと振り返ると近年に「高瀬舟」とまではいかないまでも時代を代表するような、誰もが読んでいるような文学作品が日本に生まれたのかという疑問がもたげてきます。はっきり言いますがそんな時代を代表するかのような作品は近年、下手すりゃここ20年くらい何も生まれて来ず、未来の日本の教科書には平成期の文学作品など皆無だとして取り扱われるかもしれません。
一体何故、近年の日本で誰もが知るような文学作品が生まれてこないのか。理由はいくつかあって比較的大きいと思われるものをここでいくつか挙げます。
1、新人作家が生まれてこない
これは単純に小説の新人賞が激減しており、純文学作品向けともなるとこちらも皆無に近いと言っていいでしょう。昔は「海燕」という雑誌の「海燕新人賞」が登竜門として有名でしたが、これしか純文学分野の新人賞がなかったものだから雑誌の廃刊直前には「読者よりも新人賞の応募者の方が多い」とまで言われていて、実際に私が昔読んだ小説家志望者向けの本には「おすすめの応募先」にきちんと入ってました。
2、誰も買わないし売れない
一言で文学作品と言ってどのジャンルがこれに属するのかはいくつか意見があるでしょうが、一般的に文学作品と呼ばれる作品ははっきり言って現代では誰も買おうとしないし全く売れません。出版社などの方がこの辺の事情をよく分かっており、かつて新人賞を取ったり一世を風靡した作家の本を「文化事業のため」などと称して大手出版社は頑張って出版し続けたりしていますが出せば出すほど赤字を垂れ流す状態で、本音では手を引きたいなどという業界の話をよく聞きます。
なお友人によると、現代の日本の出版業界は漫画でしかほとんど利益が生まれず、漫画作品しか出版していない秋田書店の経営状態はほかの大手と比べても地味に健全だそうです。さもありなん。
3、芥川賞の陳腐化
かつては新人作家最大の登竜門として君臨した芥川賞ですが、一応毎回受賞者がニュースにはなるものの果たして受賞した作品や受賞作家がその後描いた作品がどれだけ世の中に影響を与えたかとなると非常に微妙な所です。さらに近年は選者が作品の質以前にその作家が世間受けするか否かを基準に選んでいると思える節もあり、こういってはなんですが目立ちそうな風貌や経歴のある作家ばかりが選ばれている気がします。でもって作品はどれを読んでも「だから何?」って思える代物ばかりだし。
4、文壇が文学作品として認めない
何気に一番大きな要因じゃないかと思っているはこれです。文壇についての説明は省きますがこの連中が売れている小説に対してよく、「大衆娯楽的要素が強い」などと批判しては文学ではないとあからさまに否定することが明らかに多いように思えます。一例をあげると私が愛読していた「氷点」や「塩狩峠」に代表される三浦綾子の小説などはまさに格好のターゲットで、現代においても文学作品としてみなす人間は少ないだろうし今後もフェードアウトしていくのではないかという懸念があります。
私個人の意見を述べると、文学とはどこまでが理性でどこまでが狂気か、どこまでがモラルとして許されどこまでがモラルとして許されないのか、いわば価値概念の限界や境界を架空の物語でもって探るということが最大の学術的義務ではないかと思います。最初に挙げた「高瀬舟」などは自殺幇助という現代でも確固とした意見の出ていない問題を俎上に載せており、文体の美しさや登場人物の心象表現の素晴らしさはもとより「人に考えさせる」テーマが何よりも重くていいと思えるだけに私が好きな作品の一つです。
それ故に、私は一時期に論争を起こした「バトル・ロワイアル」なんかはかえって文学的な作品だったと実は評価しています。銃を渡され殺せと言われたから殺すのか、殺されるから殺してもいいのか、ただ黙って殺されるのが正しいのか、以上の問いが中学生に向けられたら……など、この小説はいろんな点でタブーに近い問いかけを数多くなしており世間で「文学的だ」などと言われている作品よりずっと文学的だったと私は見ています。もっともこんな風に言うのは私くらいなもんで、「やや下品な娯楽小説」という評価のが大半な気がしますが。
最後に少し真面目な話をすると、文字単体ではもはや物語は成立しない時代なのかもしれません。ライトノベルも挿絵があってナンボな所もあり、何らかのイメージがなければ今や物語として触れられることはほとんどなく、文字だけで成立した時代はとうに過ぎているのではないかと少し思います。
そういう意味で話作りが好きな人、そういうことを仕事にしたい人は小説というジャンルよりもシナリオライターという職を目指した方が無難だと以前から思っています。映画でもドラマでもゲームでもいいので、少なくとも小説だけで書いててやって蹴るとは思えないので他のメディアをうまく取り込みつつ自分のセンスを発揮するよりほかがないでしょう。ちなみにゲームのシナリオで言うと、下記の三作品が私の中で素晴らしいシナリオだったと感動した作品です。
1、ヘラクレスの栄光3:終盤のあのどんでん返しは本気で息を飲んだ。
2、リンダキューブアゲイン:狂気をテーマにした作品は数多くあれど、一つの妄執が生む狂気であればこの作品が白眉。
3:幻想水滸伝2:戦争、平和、友情の複数のテーマが見事にかみ合っている。
おまけ
中学生時代に学校で三浦綾子の「銃口」を読んでいたら国語の先生に、「花園君、何を読んでいるのですか?」と聞かれ三浦綾子の「銃口」だと答えたところ、「やはり、あなたはつくづくいいセンスをお持ちですね」とニュータイプっぽいことを言われたのが私の一つの自慢です。
さて、また「ファイナルファンタジー零式」やろっと。
さて日本文学と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。私が真っ先に思い浮かべるのは個人的に一番好きな森鴎外の名前が来てその次に彼の傑作の一つである「高瀬舟」が続くのですが、ふと振り返ると近年に「高瀬舟」とまではいかないまでも時代を代表するような、誰もが読んでいるような文学作品が日本に生まれたのかという疑問がもたげてきます。はっきり言いますがそんな時代を代表するかのような作品は近年、下手すりゃここ20年くらい何も生まれて来ず、未来の日本の教科書には平成期の文学作品など皆無だとして取り扱われるかもしれません。
一体何故、近年の日本で誰もが知るような文学作品が生まれてこないのか。理由はいくつかあって比較的大きいと思われるものをここでいくつか挙げます。
1、新人作家が生まれてこない
これは単純に小説の新人賞が激減しており、純文学作品向けともなるとこちらも皆無に近いと言っていいでしょう。昔は「海燕」という雑誌の「海燕新人賞」が登竜門として有名でしたが、これしか純文学分野の新人賞がなかったものだから雑誌の廃刊直前には「読者よりも新人賞の応募者の方が多い」とまで言われていて、実際に私が昔読んだ小説家志望者向けの本には「おすすめの応募先」にきちんと入ってました。
2、誰も買わないし売れない
一言で文学作品と言ってどのジャンルがこれに属するのかはいくつか意見があるでしょうが、一般的に文学作品と呼ばれる作品ははっきり言って現代では誰も買おうとしないし全く売れません。出版社などの方がこの辺の事情をよく分かっており、かつて新人賞を取ったり一世を風靡した作家の本を「文化事業のため」などと称して大手出版社は頑張って出版し続けたりしていますが出せば出すほど赤字を垂れ流す状態で、本音では手を引きたいなどという業界の話をよく聞きます。
なお友人によると、現代の日本の出版業界は漫画でしかほとんど利益が生まれず、漫画作品しか出版していない秋田書店の経営状態はほかの大手と比べても地味に健全だそうです。さもありなん。
3、芥川賞の陳腐化
かつては新人作家最大の登竜門として君臨した芥川賞ですが、一応毎回受賞者がニュースにはなるものの果たして受賞した作品や受賞作家がその後描いた作品がどれだけ世の中に影響を与えたかとなると非常に微妙な所です。さらに近年は選者が作品の質以前にその作家が世間受けするか否かを基準に選んでいると思える節もあり、こういってはなんですが目立ちそうな風貌や経歴のある作家ばかりが選ばれている気がします。でもって作品はどれを読んでも「だから何?」って思える代物ばかりだし。
4、文壇が文学作品として認めない
何気に一番大きな要因じゃないかと思っているはこれです。文壇についての説明は省きますがこの連中が売れている小説に対してよく、「大衆娯楽的要素が強い」などと批判しては文学ではないとあからさまに否定することが明らかに多いように思えます。一例をあげると私が愛読していた「氷点」や「塩狩峠」に代表される三浦綾子の小説などはまさに格好のターゲットで、現代においても文学作品としてみなす人間は少ないだろうし今後もフェードアウトしていくのではないかという懸念があります。
私個人の意見を述べると、文学とはどこまでが理性でどこまでが狂気か、どこまでがモラルとして許されどこまでがモラルとして許されないのか、いわば価値概念の限界や境界を架空の物語でもって探るということが最大の学術的義務ではないかと思います。最初に挙げた「高瀬舟」などは自殺幇助という現代でも確固とした意見の出ていない問題を俎上に載せており、文体の美しさや登場人物の心象表現の素晴らしさはもとより「人に考えさせる」テーマが何よりも重くていいと思えるだけに私が好きな作品の一つです。
それ故に、私は一時期に論争を起こした「バトル・ロワイアル」なんかはかえって文学的な作品だったと実は評価しています。銃を渡され殺せと言われたから殺すのか、殺されるから殺してもいいのか、ただ黙って殺されるのが正しいのか、以上の問いが中学生に向けられたら……など、この小説はいろんな点でタブーに近い問いかけを数多くなしており世間で「文学的だ」などと言われている作品よりずっと文学的だったと私は見ています。もっともこんな風に言うのは私くらいなもんで、「やや下品な娯楽小説」という評価のが大半な気がしますが。
最後に少し真面目な話をすると、文字単体ではもはや物語は成立しない時代なのかもしれません。ライトノベルも挿絵があってナンボな所もあり、何らかのイメージがなければ今や物語として触れられることはほとんどなく、文字だけで成立した時代はとうに過ぎているのではないかと少し思います。
そういう意味で話作りが好きな人、そういうことを仕事にしたい人は小説というジャンルよりもシナリオライターという職を目指した方が無難だと以前から思っています。映画でもドラマでもゲームでもいいので、少なくとも小説だけで書いててやって蹴るとは思えないので他のメディアをうまく取り込みつつ自分のセンスを発揮するよりほかがないでしょう。ちなみにゲームのシナリオで言うと、下記の三作品が私の中で素晴らしいシナリオだったと感動した作品です。
1、ヘラクレスの栄光3:終盤のあのどんでん返しは本気で息を飲んだ。
2、リンダキューブアゲイン:狂気をテーマにした作品は数多くあれど、一つの妄執が生む狂気であればこの作品が白眉。
3:幻想水滸伝2:戦争、平和、友情の複数のテーマが見事にかみ合っている。
おまけ
中学生時代に学校で三浦綾子の「銃口」を読んでいたら国語の先生に、「花園君、何を読んでいるのですか?」と聞かれ三浦綾子の「銃口」だと答えたところ、「やはり、あなたはつくづくいいセンスをお持ちですね」とニュータイプっぽいことを言われたのが私の一つの自慢です。
さて、また「ファイナルファンタジー零式」やろっと。
2015年4月13日月曜日
劉備の「髀肉の嘆」は演技かガチか?
先週書いた「髀肉の嘆」という私の愚痴記事についてよくコメント暮れる若生わこさんに、「あの記事は若生さん向けのダイレクトパスだったのにコメントくれなかったね」と振ってみたところ、「いえ、コメントしようとしたんですけど劉備が劉表の前で髀肉の嘆をしたのは計算ずくの演技だったのか、それともガチだったのかという疑問を書こうとしたらえらく長くなりそうだったのでやめました」という素敵な返事をくれたので、彼の問いにこたえる形でここで私の考えを書いておくことにします。
まず「髀肉の嘆」とは何かですが前にも書いた説明をそのまま引用すると、
「荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠へ立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、『かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう』と思って泣きながら宴会に帰ってきてそのまま劉表の前で自身の現在の境遇を嘆いてみせた」
というエピソードに端を発し、不安定であったり実力がいまいち発揮できず鬱屈した現状にあることを例える言葉となっています。私にとっては2010年前後がまさにこの状況で、今のままじゃよくないと思いつつも変えようとする努力を怠っていて気分的にも嫌な時代だったことをこの言葉を使って前の記事では説明しています。
さてこの髀肉の嘆ですが、この時の劉備の行動は若生さんの言う通りに確かに疑問符がつく行動です。劉備は自分を亡命者として受け入れてくれた劉表に対し宴会の最中、「昔は戦場を駆け回っていたのに今はこんな惨めな生活だなんて……」と愚痴っているわけですが、これを聞いて恐らく劉表じゃなくても、「戦場で活躍できてないとかいうなんてこいつ、俺の寝首でも掻こうってのか?」と誰もが想像することでしょう。
劉備からしたら当時面倒見てくれる劉表に警戒されるなんて百害あって一利もありません。場合によっては揉め事起こしそうだから追放、下手すりゃ暗殺にもつながるかもしれず、内心では現状に不満を覚えてもそれを口にする、それも面倒役に対して言うなんてのは迂闊としか言いようの行為です。
仮に劉備がこれ以前からも迂闊な行動を取る人間であれば、ただ単に発言が迂闊な人間の妄言の一種として片づけられるのですが、これが劉備となると案外そうもいきません。三国志に詳しい人間ならわかるでしょうが劉備はどの場面でも非常に計算高い人間で、事ある毎に「仁徳」をPRもすれば、自分に警戒心を抱きつつあった曹操の前で雷の音に驚いてみせたり(これは創作ではあるものの、史実でも野心のない振りを曹操に見せている)、袁紹の命令を聞くふりしながらそっと戦線を離脱したりと非常に隙がなく、抜け目のない人物です。
そんな慎重な性格の劉備がわざわざ、それこそ無用なくらいに劉表を警戒させるような「髀肉の嘆」をどうして述べたのか。むしろ劉表に自分をいくらか警戒させるつもりで言った、または一回転して警戒心を解くことを計算して言い放ったのではないかなどと、ついつい深読みしがちになってしまいます。
しかしこうした事情を踏まえた上で私の意見を述べると、やっぱりこの時の「髀肉の嘆」はガチだったのでは、つまり本気で自身の現況を嘆いてついうっかり本音を洩らしちゃったというのが真実ではないかと思います。根拠としては劉備自身が逆境にあってもあまり弱音を洩らさない人間であることと、そこそこ年齢もいってきて天下を狙うのにもうチャンスがほとんどないと自覚し始める状況だったと思えるからです。もっともそんな強固な根拠ではなく、どちらかというと当時の劉備の気持ちになるならこうも言いたくなる、というのがこの説を取る一番大きな理由ですが。
ただ計算ずくの発言という説もまだ捨てきれず、というのもこの後劉備は劉表に請われて荊州の北にある新野という街に手勢を率いて駐屯、支配することとなるからです。この地で劉備は三国志最大のバランスブレイカーとも言うべき軍師の諸葛亮を得て、また何度かやってきた曹操軍を撃退するなど独自の軍事活動を始め、後の躍進の礎を築いています。
つまり劉備は敢えて劉表を警戒させることで、「近くに置いておくよりもどこか離れた土地を任せるなどして遠ざけた方がいい」と思わせたかったのかもしれません。劉備としては小さくともいいからどこかに根拠地を作り、人材発掘から軍勢の編成などをマイプランでやりたかったのかもしれません。正直、こっちの説の方がその後の状況とも符合するから根拠あるような気もするけど。
ただどちらにしろ、流浪の傭兵軍団と言ってもいい劉備がこの数年後に荊州全土を支配し、その上蜀も併呑するに至るなど当時は誰も想像すらしなかったでしょう。2013年に会社起こして潰して再就職活動始めるもなかなか決まらず浪人中で非常にボロボロだった時代の私に対し、ある人がまさにこの時の劉備の例を持ち出してまた再起を期す日があるはずだ励ましてくれたことがありましたが、そろそろ自分も荊州とまでは言わないけどマッドシティくらいは支配したいなぁ。
まず「髀肉の嘆」とは何かですが前にも書いた説明をそのまま引用すると、
「荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠へ立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、『かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう』と思って泣きながら宴会に帰ってきてそのまま劉表の前で自身の現在の境遇を嘆いてみせた」
というエピソードに端を発し、不安定であったり実力がいまいち発揮できず鬱屈した現状にあることを例える言葉となっています。私にとっては2010年前後がまさにこの状況で、今のままじゃよくないと思いつつも変えようとする努力を怠っていて気分的にも嫌な時代だったことをこの言葉を使って前の記事では説明しています。
さてこの髀肉の嘆ですが、この時の劉備の行動は若生さんの言う通りに確かに疑問符がつく行動です。劉備は自分を亡命者として受け入れてくれた劉表に対し宴会の最中、「昔は戦場を駆け回っていたのに今はこんな惨めな生活だなんて……」と愚痴っているわけですが、これを聞いて恐らく劉表じゃなくても、「戦場で活躍できてないとかいうなんてこいつ、俺の寝首でも掻こうってのか?」と誰もが想像することでしょう。
劉備からしたら当時面倒見てくれる劉表に警戒されるなんて百害あって一利もありません。場合によっては揉め事起こしそうだから追放、下手すりゃ暗殺にもつながるかもしれず、内心では現状に不満を覚えてもそれを口にする、それも面倒役に対して言うなんてのは迂闊としか言いようの行為です。
仮に劉備がこれ以前からも迂闊な行動を取る人間であれば、ただ単に発言が迂闊な人間の妄言の一種として片づけられるのですが、これが劉備となると案外そうもいきません。三国志に詳しい人間ならわかるでしょうが劉備はどの場面でも非常に計算高い人間で、事ある毎に「仁徳」をPRもすれば、自分に警戒心を抱きつつあった曹操の前で雷の音に驚いてみせたり(これは創作ではあるものの、史実でも野心のない振りを曹操に見せている)、袁紹の命令を聞くふりしながらそっと戦線を離脱したりと非常に隙がなく、抜け目のない人物です。
そんな慎重な性格の劉備がわざわざ、それこそ無用なくらいに劉表を警戒させるような「髀肉の嘆」をどうして述べたのか。むしろ劉表に自分をいくらか警戒させるつもりで言った、または一回転して警戒心を解くことを計算して言い放ったのではないかなどと、ついつい深読みしがちになってしまいます。
しかしこうした事情を踏まえた上で私の意見を述べると、やっぱりこの時の「髀肉の嘆」はガチだったのでは、つまり本気で自身の現況を嘆いてついうっかり本音を洩らしちゃったというのが真実ではないかと思います。根拠としては劉備自身が逆境にあってもあまり弱音を洩らさない人間であることと、そこそこ年齢もいってきて天下を狙うのにもうチャンスがほとんどないと自覚し始める状況だったと思えるからです。もっともそんな強固な根拠ではなく、どちらかというと当時の劉備の気持ちになるならこうも言いたくなる、というのがこの説を取る一番大きな理由ですが。
ただ計算ずくの発言という説もまだ捨てきれず、というのもこの後劉備は劉表に請われて荊州の北にある新野という街に手勢を率いて駐屯、支配することとなるからです。この地で劉備は三国志最大のバランスブレイカーとも言うべき軍師の諸葛亮を得て、また何度かやってきた曹操軍を撃退するなど独自の軍事活動を始め、後の躍進の礎を築いています。
つまり劉備は敢えて劉表を警戒させることで、「近くに置いておくよりもどこか離れた土地を任せるなどして遠ざけた方がいい」と思わせたかったのかもしれません。劉備としては小さくともいいからどこかに根拠地を作り、人材発掘から軍勢の編成などをマイプランでやりたかったのかもしれません。正直、こっちの説の方がその後の状況とも符合するから根拠あるような気もするけど。
ただどちらにしろ、流浪の傭兵軍団と言ってもいい劉備がこの数年後に荊州全土を支配し、その上蜀も併呑するに至るなど当時は誰も想像すらしなかったでしょう。2013年に会社起こして潰して再就職活動始めるもなかなか決まらず浪人中で非常にボロボロだった時代の私に対し、ある人がまさにこの時の劉備の例を持ち出してまた再起を期す日があるはずだ励ましてくれたことがありましたが、そろそろ自分も荊州とまでは言わないけどマッドシティくらいは支配したいなぁ。
2015年4月12日日曜日
沖縄問題に対する世論の変化
前置きなく一気に始めますがここ数ヶ月、米軍基地問題で揺れる沖縄に対する世間の見方が大きく変化し始めてきたように思えます。具体的には翁長沖縄県知事に対する批判がネット上で散見されるようになり、以前と比べ沖縄県に対し同情する意見や見方が減ってきているような感じです。
一体何故このような変化が起こってきたのかというと原因は間違いなく米軍の普天間基地を辺野古へ移設する計画案で、この計画に反対する住民や団体は移設先の辺野古沿岸国はサンゴ礁があり、移設によって大規模な環境破壊が起こることなどを反対理由として挙げています。しかしこれらの団体は、こうした辺野古での新滑走路建設に反対する一方でそれ以外のサンゴ礁がある沿岸部の埋め立てには何一つ反対活動は行っておらず、特に那覇空港の滑走路増設計画は槍玉として挙げられており沖縄のダブルスタンダードだという声をよく目にします。
結論から言えば私もこれはダブルスタンダードだとしか言いようがなく、また米軍基地反対派は完全な駄目手を打ってしまったと考えています。
こうした事実は何も最近知ったわけでなく、昔から米軍基地移設問題は伊丹空港周辺の様にわざと騒ぐことによって強請りのような行為で稼いでいる連中が陰で暗躍していることを私は知っていました。連中からしたら恐らくサンゴ礁の保護なんて初めから本気で考えているわけでもなく、下手したら普天間基地周辺の住民の安全なども二の次くらいにしか考えていないのかもしれません。そんな連中が何故サンゴ礁の保護を持ち出したのかというと移設問題をややこしくさせたい一心であって、流行りの環境問題と合わせて適当な口実を作ったというのが真相だと思えます。
しかしその結果というべきか、「辺野古以外の埋め立てによるサンゴ礁破壊についてはどうなのか?」という疑問が現在の様に出てくることとなりました。私の友人などは、「初めからサンゴ礁なんて持ち出さず、住民感情だけ叫んでいればよかったものの」と話していますが全く以って同感で、化けの皮が剥がれたというか「理由のない反対姿勢」というものが今回大きく透けて見えることになったと思えます。
恐らく政府も、こうした微妙な世論の動きというものを見ていることでしょう。何故そう思うのかというと、辺野古への移転計画に知事が反対するというのであれば国から県への補助金削減も視野に入れるとアナウンスするなど、以前以上に強い態度を出すようになってきたからです。こうした政府の姿勢に対して知事や一部のメディアは「脅迫的な行為だ」と批判しているものの、「基地施設移転の負担に対する補助金なのだから、移設に賛成しないのであれば支払わないのも当然ではないか」という声も散見され、私個人の印象だとやはり後者の意見の方が強まっているようにも見えます。
自治体問題に取り組んでいる人間ならば誰もが知っていることですが、全国の都道府県のうち東京都を除き、沖縄県は全国で唯一無借金の自治体であります。何故無借金で維持できてるのかというと国から毎年膨大な金額の補助金が供与されており、産業らしい産業は観光以外なく、失業率が全国で最も高いにもかかわらず沖縄は無借金でいられるわけです。
何も沖縄すべてを批判するつもりはさらさらありませんが、こうしたダブルスタンダード振りは徐々に広がりつつあることを沖縄はもっと自覚するべきで、本当にどっちの方向へ持っていこうとするのか沖縄人自身がもうちょっと考えてコンセンサスを作るべきだと個人的に思います。米軍基地を残してこのまま補助金を受け取り続けるのか、米軍基地を追い出す代わりに補助金を捨て自立するのか、せめてどっちか一つを選ぶべきです。現状では「米軍基地は県外に、その上で補助金も出せ」と言ってるようにしか見えません。もっとも仮に補助金が打ち切られれば沖縄はやってけなくなるのは目に見えており、何かしら産業振興也にもっと真剣に取り組むべきだとは以前から思っていましたが。
仮にこういう記事を五年くらい前に書いていれば私に対しても相当な批判が来ていたのではないかと思います。何故なら沖縄は「被害者」の立場であって「加害者」の立場ではないという一種のタブーめいた見えざるコンセンサスが存在していたからです。しかしそのコンセンサスは徐々に崩れつつあり、最初はこういうネットでの意見からでしょうが徐々に大手メディアの方でも今後態度を変えてくることは予想され、基地問題で交渉できる時間は大分少なくなってきているのではというのが私の意見です。
一体何故このような変化が起こってきたのかというと原因は間違いなく米軍の普天間基地を辺野古へ移設する計画案で、この計画に反対する住民や団体は移設先の辺野古沿岸国はサンゴ礁があり、移設によって大規模な環境破壊が起こることなどを反対理由として挙げています。しかしこれらの団体は、こうした辺野古での新滑走路建設に反対する一方でそれ以外のサンゴ礁がある沿岸部の埋め立てには何一つ反対活動は行っておらず、特に那覇空港の滑走路増設計画は槍玉として挙げられており沖縄のダブルスタンダードだという声をよく目にします。
結論から言えば私もこれはダブルスタンダードだとしか言いようがなく、また米軍基地反対派は完全な駄目手を打ってしまったと考えています。
こうした事実は何も最近知ったわけでなく、昔から米軍基地移設問題は伊丹空港周辺の様にわざと騒ぐことによって強請りのような行為で稼いでいる連中が陰で暗躍していることを私は知っていました。連中からしたら恐らくサンゴ礁の保護なんて初めから本気で考えているわけでもなく、下手したら普天間基地周辺の住民の安全なども二の次くらいにしか考えていないのかもしれません。そんな連中が何故サンゴ礁の保護を持ち出したのかというと移設問題をややこしくさせたい一心であって、流行りの環境問題と合わせて適当な口実を作ったというのが真相だと思えます。
しかしその結果というべきか、「辺野古以外の埋め立てによるサンゴ礁破壊についてはどうなのか?」という疑問が現在の様に出てくることとなりました。私の友人などは、「初めからサンゴ礁なんて持ち出さず、住民感情だけ叫んでいればよかったものの」と話していますが全く以って同感で、化けの皮が剥がれたというか「理由のない反対姿勢」というものが今回大きく透けて見えることになったと思えます。
恐らく政府も、こうした微妙な世論の動きというものを見ていることでしょう。何故そう思うのかというと、辺野古への移転計画に知事が反対するというのであれば国から県への補助金削減も視野に入れるとアナウンスするなど、以前以上に強い態度を出すようになってきたからです。こうした政府の姿勢に対して知事や一部のメディアは「脅迫的な行為だ」と批判しているものの、「基地施設移転の負担に対する補助金なのだから、移設に賛成しないのであれば支払わないのも当然ではないか」という声も散見され、私個人の印象だとやはり後者の意見の方が強まっているようにも見えます。
自治体問題に取り組んでいる人間ならば誰もが知っていることですが、全国の都道府県のうち東京都を除き、沖縄県は全国で唯一無借金の自治体であります。何故無借金で維持できてるのかというと国から毎年膨大な金額の補助金が供与されており、産業らしい産業は観光以外なく、失業率が全国で最も高いにもかかわらず沖縄は無借金でいられるわけです。
何も沖縄すべてを批判するつもりはさらさらありませんが、こうしたダブルスタンダード振りは徐々に広がりつつあることを沖縄はもっと自覚するべきで、本当にどっちの方向へ持っていこうとするのか沖縄人自身がもうちょっと考えてコンセンサスを作るべきだと個人的に思います。米軍基地を残してこのまま補助金を受け取り続けるのか、米軍基地を追い出す代わりに補助金を捨て自立するのか、せめてどっちか一つを選ぶべきです。現状では「米軍基地は県外に、その上で補助金も出せ」と言ってるようにしか見えません。もっとも仮に補助金が打ち切られれば沖縄はやってけなくなるのは目に見えており、何かしら産業振興也にもっと真剣に取り組むべきだとは以前から思っていましたが。
仮にこういう記事を五年くらい前に書いていれば私に対しても相当な批判が来ていたのではないかと思います。何故なら沖縄は「被害者」の立場であって「加害者」の立場ではないという一種のタブーめいた見えざるコンセンサスが存在していたからです。しかしそのコンセンサスは徐々に崩れつつあり、最初はこういうネットでの意見からでしょうが徐々に大手メディアの方でも今後態度を変えてくることは予想され、基地問題で交渉できる時間は大分少なくなってきているのではというのが私の意見です。
千葉のマッドシティ~レッドロブスター新松戸店
この連載の前回記事では「ダイエー新松戸店」というまたローカルな場所を紹介しましたが、今日はそれ以上にローカルさを増す場所とでもいうべき、ダイエー新松戸店と道路を挟んで向かい側にある「レッドロブスター 新松戸店」を紹介します。まず間違いなく地元民じゃない限り全く需要のないネタですが、個人的に書かずにはおれません。
・Red Lobster(本サイト)
・レッドロブスター(Wikipedia)
知らない人もいるかもしれないので先にこのレストランの説明から始めます。
「レッドロブスター」とは米国発祥のレストランチェーンで、その店名通りにロブスターを主体としたシーフード系の料理を提供しており全米で約700店舗が展開されています。日本国内ではセリュックスホールディングス傘下のレッドロブスタージャパンが運営しており、ホームページで確認する限りだと現時点で全国に23店舗が展開されているようです。
レストランとしての特徴としては先ほど述べた通りにシーフード、特にロブスターやカニといった甲殻類系の食材を使った料理が中心で、こうした食材を使うためか料理はやや高めの単価設定となっており、レストランチェーンとしてはハイミドルクラスとも言うべきグレードのお店と言えます。
今日紹介するレッドロブスター新松戸店はダイエー新松戸店、というよりはその横に併設されてある流通経済大学新松戸キャンパスと道路を挟んで向かい側に位置しており、比較的人通りの多い道路沿いにあります。ちょうど目の前が十字路となっており、一階部分は柱を除いて駐車場で、店舗自体は二階に設置されています。
私がこの店舗を訪れていたのは子供の頃で当時に複数回訪れているのですが、その中でもはっきり覚えていることとしては姉貴の誕生祝いで家族で行った日の事です。うちの姉貴は子供の頃からやたら値段の高い甲殻類料理が好きだったので好きなものを食べさせようという両親の配慮だったと思いますが、当時から私(多分7歳か8歳)はシーフード系料理がそんなに好きではなかったのでこの時の料理にはそれほど手を付けてなかったと思います。その後、この姉貴の誕生祝い以降は何故だか訪れることがほぼなくなってしまったのですが、料理の値段が高いこともあるだけに、もしかしたら不況の煽りからうちの親父の給料が減らされてこの店に行き辛くなったのかなと勝手に推測しています。
あと通っていた当時についてもう一つ付け加えると、この時はそこそこ人気もあったのかよくテレビでCMも打たれていました。どんなテレビCMだったか映像はほとんど覚えてないものの、CMの最後に流れる、「レーッドロッブッスター♪」というサウンドだけはやけに耳に残っており、確か柴田亜美の漫画「南国少年パプワ君」の2巻で真っ赤に焼けたザリガニが歌ってました。
正直に言うと子供の頃は数回訪れていたものの小学校の中学年以降は一度も訪れていません。にもかかわらずなんで紹介しようとするのかというと、私が記憶する限りだとこのレッドロブスター新松戸店は少なくとも過去20年以上に渡って、外装に全く変化がないまま営業が続けられているからです。何が言いたいのかっていうと、周囲の風景はダイエー新松戸店を含めて時間と共に大きく変化しているのに対し、何故だかレッドロブスターのある一角だけは20年前の風景と何一つ変わっておらず、変化があまりにも無さすぎて改めて考えると不思議な店だと思えてきたからです。
どれだけ変化がないのかというと過去20年間に途中途中でペンキの塗り直しなどはされているのですが、色使いといいオブジェの配置といい外装には全く変化がなく、多分同じ角度から撮った10年前と現在の写真を見比べてもほとんど見分けがつかないのではないかという気がします。周辺にある店舗なんかはダイエー新松戸店を含めて改装されたり、店がつぶれた後に新しいお店が新規開店したりとそれなりに変化が見られるのですが、何故だかこの店だけはずっと同じ姿のままであの場所に鎮座し続けています。こんなお店、京都にも少ないぞ……。
こう言っては失礼かもしれませんが、レッドロブスターのようなやや高めのレストランはデフレ期において一番煽りを受けやすく、この時期に潰れやすいレストランなのではないかと個人的に思うのですがこのお店は潰れることなく、また大規模な改装をされる事もなくずっと営業を続けています。私はよく自転車でこの店の前を通過するのですが、小学生だった頃、中学生だった頃、高校生だった頃、大学生だった頃、社会人になった後もこの店のある一角の風景だけは何一つ変化がなくここまで来るとかえって不気味なくらいです。むしろ、一体何故変化が全くないのか理由を聞いてみたい。
こんなことを書いても新松戸周辺に住んでいる人以外はピンと来ないでしょうが、逆を言えばこの周辺の住民からすると、「言われてみるとそうだ、あの一角だけずっと昔のまんまだ!」と興奮気味に反応してくれることでしょう。少なくとも、リアル松戸市民の私の友人はまさに上記のような反応をしてくれました。
まとめとしましては、「新松戸にはびっくりするくらい変化のないレッドロブスターがある」ということをここで訴えたかったわけです。常連客でもいるのかなぁ、あの店。
・Red Lobster(本サイト)
・レッドロブスター(Wikipedia)
知らない人もいるかもしれないので先にこのレストランの説明から始めます。
「レッドロブスター」とは米国発祥のレストランチェーンで、その店名通りにロブスターを主体としたシーフード系の料理を提供しており全米で約700店舗が展開されています。日本国内ではセリュックスホールディングス傘下のレッドロブスタージャパンが運営しており、ホームページで確認する限りだと現時点で全国に23店舗が展開されているようです。
レストランとしての特徴としては先ほど述べた通りにシーフード、特にロブスターやカニといった甲殻類系の食材を使った料理が中心で、こうした食材を使うためか料理はやや高めの単価設定となっており、レストランチェーンとしてはハイミドルクラスとも言うべきグレードのお店と言えます。
今日紹介するレッドロブスター新松戸店はダイエー新松戸店、というよりはその横に併設されてある流通経済大学新松戸キャンパスと道路を挟んで向かい側に位置しており、比較的人通りの多い道路沿いにあります。ちょうど目の前が十字路となっており、一階部分は柱を除いて駐車場で、店舗自体は二階に設置されています。
私がこの店舗を訪れていたのは子供の頃で当時に複数回訪れているのですが、その中でもはっきり覚えていることとしては姉貴の誕生祝いで家族で行った日の事です。うちの姉貴は子供の頃からやたら値段の高い甲殻類料理が好きだったので好きなものを食べさせようという両親の配慮だったと思いますが、当時から私(多分7歳か8歳)はシーフード系料理がそんなに好きではなかったのでこの時の料理にはそれほど手を付けてなかったと思います。その後、この姉貴の誕生祝い以降は何故だか訪れることがほぼなくなってしまったのですが、料理の値段が高いこともあるだけに、もしかしたら不況の煽りからうちの親父の給料が減らされてこの店に行き辛くなったのかなと勝手に推測しています。
あと通っていた当時についてもう一つ付け加えると、この時はそこそこ人気もあったのかよくテレビでCMも打たれていました。どんなテレビCMだったか映像はほとんど覚えてないものの、CMの最後に流れる、「レーッドロッブッスター♪」というサウンドだけはやけに耳に残っており、確か柴田亜美の漫画「南国少年パプワ君」の2巻で真っ赤に焼けたザリガニが歌ってました。
正直に言うと子供の頃は数回訪れていたものの小学校の中学年以降は一度も訪れていません。にもかかわらずなんで紹介しようとするのかというと、私が記憶する限りだとこのレッドロブスター新松戸店は少なくとも過去20年以上に渡って、外装に全く変化がないまま営業が続けられているからです。何が言いたいのかっていうと、周囲の風景はダイエー新松戸店を含めて時間と共に大きく変化しているのに対し、何故だかレッドロブスターのある一角だけは20年前の風景と何一つ変わっておらず、変化があまりにも無さすぎて改めて考えると不思議な店だと思えてきたからです。
どれだけ変化がないのかというと過去20年間に途中途中でペンキの塗り直しなどはされているのですが、色使いといいオブジェの配置といい外装には全く変化がなく、多分同じ角度から撮った10年前と現在の写真を見比べてもほとんど見分けがつかないのではないかという気がします。周辺にある店舗なんかはダイエー新松戸店を含めて改装されたり、店がつぶれた後に新しいお店が新規開店したりとそれなりに変化が見られるのですが、何故だかこの店だけはずっと同じ姿のままであの場所に鎮座し続けています。こんなお店、京都にも少ないぞ……。
こう言っては失礼かもしれませんが、レッドロブスターのようなやや高めのレストランはデフレ期において一番煽りを受けやすく、この時期に潰れやすいレストランなのではないかと個人的に思うのですがこのお店は潰れることなく、また大規模な改装をされる事もなくずっと営業を続けています。私はよく自転車でこの店の前を通過するのですが、小学生だった頃、中学生だった頃、高校生だった頃、大学生だった頃、社会人になった後もこの店のある一角の風景だけは何一つ変化がなくここまで来るとかえって不気味なくらいです。むしろ、一体何故変化が全くないのか理由を聞いてみたい。
こんなことを書いても新松戸周辺に住んでいる人以外はピンと来ないでしょうが、逆を言えばこの周辺の住民からすると、「言われてみるとそうだ、あの一角だけずっと昔のまんまだ!」と興奮気味に反応してくれることでしょう。少なくとも、リアル松戸市民の私の友人はまさに上記のような反応をしてくれました。
まとめとしましては、「新松戸にはびっくりするくらい変化のないレッドロブスターがある」ということをここで訴えたかったわけです。常連客でもいるのかなぁ、あの店。
2015年4月10日金曜日
教育におけるインプット、アウトプット
このブログでは政治から歴史、文化に渡って結構幅広い内容を取り扱っていますが、これだけあれこれ書いているだけあって日常生活でもよく知識の豊富さを周りから誉めてもらえることが多いです。その際、「花園さんって頭いいんですね」って言葉もよくかけてもらえるのですが、本音を述べると実はあんま頭はいい方ではない、というより理解力は存外低いのではないかという自己分析しております。
自分が進学した大学はそこそこレベルの高い大学で、模試ではずっとE判定だったにも関わらず問題の相性が良かったのかC判定の所には落ちたくせして何故だか受かり、私は運良く通うことが出来ました。しかし多少分不相応というか、大学でできた友人らと話していると明らかに周囲とのレベルの差を覚え、特に何かを暗記したり内容を理解したりする速度で歴然とした差がありました。具体的な数値で上げると、一般人が3ステップで理解する内容を大学時代の友人は1ステップで理解してしまっており、文字通り周りは通常の三倍の速度で動くような連中でした。
なお自分の理解する速度を先程の数値で表すと、よくて3ステップで下手すりゃ4ステップか5ステップ、換言すれば一般レベルよりも理解速度が遅いのではとも考えています。実際妙な所でどんくさかったり、物覚えが悪くて同じミスを繰り返したりする傾向があり、この辺は改善しようと思ってもなかなか効かないのが苦しい部分です。
だったら何故、理解する速度が遅いにもかかわらずそこそこ豊富な知識を私は持ち得たのか。私の勝手な推測としては、理解する速度は遅いものの頭の回転速度が極端に早いため、なんとか補っているのではないかという仮説を立てています。たとえば暗記ですと、何の脈絡も傾向性もない単語や配列を暗記できるまでには通常7回覚えて、忘れてを繰り返す必要があるそうなのですが、理解度の早い人はこれの繰り返しを3回程度で終わらせてしまうのだと思います。で、人より理解の悪い私はというと暗記するまでこの過程を10回くらい繰り返しているのかもしれませんが、そのかわり覚える速度も忘れる速度も通常の2倍くらい早く、他の人が5回覚えて忘れてを繰り返す間に10回こなしてしまっており、結果的にはほかの人よりやや早く暗記を達成できているのではなんて考えています。
もちろんこれは勝手な憶測であってるかどうかは全く保障できませんが、知識を頭にインプットする「理解する力」というのは極論すると下記のような数式で成り立つのではと思えます。
理解速度×回転速度=理解力
なのでただ単に理解力を高めようとするのではなく、理解速度と回転速度のどっちを高めるのかを意識して取り組むと教育的に面白いのではないかと思います。もっとも、案外この二つとも鍛えるのは難しいような気もしますが。
ここで少し話題を変えますが偏見かもしれない意見を述べると、理解速度の速い人は概して他人に物を教えるのが下手だとも私は考えています。
このように考えるようになったきっかけは二つあり、一つは幕末の新撰組にいた沖田総司は剣の腕は隊の中でもナンバー1だったものの、こと指導に当たっては全く下手で誰も教わりたがらなかったというエピソードで、沖田に限らず天才型の人間は指導が下手だということをよく聞きます。野球の長嶋茂雄氏も、「ここをガーッと行って、クワっとこうして」などと言いながら指導するので聞いてる方はよくわからないらしいし。
もう一つのきっかけは私の友人で、明らかに理解速度は常人を遥かに凌いでいるものの、何かを説明してもらったり解説させてもいまいちピンとこないというか聞いてて核心が掴めないことが多かったからです。
先ほどの数式を用いてこの理由を説明すると、一般の人が理解するまで3ステップ必要な内容を上記の天才型の人間は恐らく1ステップで理解してしまうとします。なので天才型が他人にその内容を教えようとすると、一般人は3ステップを踏まないといけないのに結局1ステップ分の説明しかしようとせず、というか1ステップで理解するやり方しか知らないため聞いてる方はそれだと上手く理解できず、「常人には理解できない領域」というものが出来上がってしまうのではというのが私の憶測です。
なもんだから先程の大学時代の友人に対し私はよく、「俺は君に理解する速度では逆立ちしたって敵わないが、他人に物を教える指導力で君はどうあがいても俺には勝てないよ」とよく言ってやったもんです。実際、指導するという意味では回り道を多くしている人間というか理解速度の遅い人の方が案外うまいのではとも考えています。ヤンキー出身の先生を持ち上げるわけではないですが……。
ただもう一つ、指導において重要な要素に表現力というものがある気がします。表現力というのは読んでそのままの言いたいこと、伝えたいことを言葉にしたり文章に書く力ですが、この表現力の優劣というのは指導力に対してダイレクトに影響を与えると断言します。
ちょっと自慢をすると私は人に指導する事に関してはそこそこ自信があり、これまでも割と隙のない作業マニュアルを多数作ってたりすれば、直接での指導でもうまく相手に理解させられている手応えを感じます。なんでうまく教えられるのかは理解速度がやや遅いこともあるでしょうがそれ以上に、中学生時代からほとんど絶やさずに続けている日々の執筆によって表現力が鍛えられ、何をどう言えば相手がどのように受け取るかということを周囲よりもやや把握出来ていることが大きいように思えます。逆を言えば理解速度が極端に速い人でも、表現力の高い人は指導も案外上手だったりするし、逆に理解速度が遅くても表現力のない人の指導は聞いてて全く分からない気がします。
というわけで最後に、教育におけるアウトプットこと指導力について、インプットこと理解力と同じように数式を立てると以下のようになるのではとここで提示します。
表現力÷理解速度=指導力 (理解速度≧1)
よく理解力や指導力をどう上げるかという議論を見ますが、これらを構成する要素に着目して議論した方が面白いのではないかと思え、暇な時なんかこういう数式作って遊んでたりします。
自分が進学した大学はそこそこレベルの高い大学で、模試ではずっとE判定だったにも関わらず問題の相性が良かったのかC判定の所には落ちたくせして何故だか受かり、私は運良く通うことが出来ました。しかし多少分不相応というか、大学でできた友人らと話していると明らかに周囲とのレベルの差を覚え、特に何かを暗記したり内容を理解したりする速度で歴然とした差がありました。具体的な数値で上げると、一般人が3ステップで理解する内容を大学時代の友人は1ステップで理解してしまっており、文字通り周りは通常の三倍の速度で動くような連中でした。
なお自分の理解する速度を先程の数値で表すと、よくて3ステップで下手すりゃ4ステップか5ステップ、換言すれば一般レベルよりも理解速度が遅いのではとも考えています。実際妙な所でどんくさかったり、物覚えが悪くて同じミスを繰り返したりする傾向があり、この辺は改善しようと思ってもなかなか効かないのが苦しい部分です。
だったら何故、理解する速度が遅いにもかかわらずそこそこ豊富な知識を私は持ち得たのか。私の勝手な推測としては、理解する速度は遅いものの頭の回転速度が極端に早いため、なんとか補っているのではないかという仮説を立てています。たとえば暗記ですと、何の脈絡も傾向性もない単語や配列を暗記できるまでには通常7回覚えて、忘れてを繰り返す必要があるそうなのですが、理解度の早い人はこれの繰り返しを3回程度で終わらせてしまうのだと思います。で、人より理解の悪い私はというと暗記するまでこの過程を10回くらい繰り返しているのかもしれませんが、そのかわり覚える速度も忘れる速度も通常の2倍くらい早く、他の人が5回覚えて忘れてを繰り返す間に10回こなしてしまっており、結果的にはほかの人よりやや早く暗記を達成できているのではなんて考えています。
もちろんこれは勝手な憶測であってるかどうかは全く保障できませんが、知識を頭にインプットする「理解する力」というのは極論すると下記のような数式で成り立つのではと思えます。
理解速度×回転速度=理解力
なのでただ単に理解力を高めようとするのではなく、理解速度と回転速度のどっちを高めるのかを意識して取り組むと教育的に面白いのではないかと思います。もっとも、案外この二つとも鍛えるのは難しいような気もしますが。
ここで少し話題を変えますが偏見かもしれない意見を述べると、理解速度の速い人は概して他人に物を教えるのが下手だとも私は考えています。
このように考えるようになったきっかけは二つあり、一つは幕末の新撰組にいた沖田総司は剣の腕は隊の中でもナンバー1だったものの、こと指導に当たっては全く下手で誰も教わりたがらなかったというエピソードで、沖田に限らず天才型の人間は指導が下手だということをよく聞きます。野球の長嶋茂雄氏も、「ここをガーッと行って、クワっとこうして」などと言いながら指導するので聞いてる方はよくわからないらしいし。
もう一つのきっかけは私の友人で、明らかに理解速度は常人を遥かに凌いでいるものの、何かを説明してもらったり解説させてもいまいちピンとこないというか聞いてて核心が掴めないことが多かったからです。
先ほどの数式を用いてこの理由を説明すると、一般の人が理解するまで3ステップ必要な内容を上記の天才型の人間は恐らく1ステップで理解してしまうとします。なので天才型が他人にその内容を教えようとすると、一般人は3ステップを踏まないといけないのに結局1ステップ分の説明しかしようとせず、というか1ステップで理解するやり方しか知らないため聞いてる方はそれだと上手く理解できず、「常人には理解できない領域」というものが出来上がってしまうのではというのが私の憶測です。
なもんだから先程の大学時代の友人に対し私はよく、「俺は君に理解する速度では逆立ちしたって敵わないが、他人に物を教える指導力で君はどうあがいても俺には勝てないよ」とよく言ってやったもんです。実際、指導するという意味では回り道を多くしている人間というか理解速度の遅い人の方が案外うまいのではとも考えています。ヤンキー出身の先生を持ち上げるわけではないですが……。
ただもう一つ、指導において重要な要素に表現力というものがある気がします。表現力というのは読んでそのままの言いたいこと、伝えたいことを言葉にしたり文章に書く力ですが、この表現力の優劣というのは指導力に対してダイレクトに影響を与えると断言します。
ちょっと自慢をすると私は人に指導する事に関してはそこそこ自信があり、これまでも割と隙のない作業マニュアルを多数作ってたりすれば、直接での指導でもうまく相手に理解させられている手応えを感じます。なんでうまく教えられるのかは理解速度がやや遅いこともあるでしょうがそれ以上に、中学生時代からほとんど絶やさずに続けている日々の執筆によって表現力が鍛えられ、何をどう言えば相手がどのように受け取るかということを周囲よりもやや把握出来ていることが大きいように思えます。逆を言えば理解速度が極端に速い人でも、表現力の高い人は指導も案外上手だったりするし、逆に理解速度が遅くても表現力のない人の指導は聞いてて全く分からない気がします。
というわけで最後に、教育におけるアウトプットこと指導力について、インプットこと理解力と同じように数式を立てると以下のようになるのではとここで提示します。
表現力÷理解速度=指導力 (理解速度≧1)
よく理解力や指導力をどう上げるかという議論を見ますが、これらを構成する要素に着目して議論した方が面白いのではないかと思え、暇な時なんかこういう数式作って遊んでたりします。
2015年4月7日火曜日
このブログの検索ワード、2015年4月版
以前にも一回やりましたが、このブログに来る人はどうやって辿り着いているのかをまたちょっとご紹介します。やり方はいたって簡単、以前と同じくGoogle Analiticsの検索ワード順位をそのまま引っ張ってくるだけですので、早速検索数の多いワードを上から順に適当なところまで引用します。
<検索訪問数(セッション)の多いキーワード>
ザーッと見てもらえば大まかな傾向というか訪問しているであろうページがわかるでしょうが、まず一位の「not provided」というのはブックマーク経由などの訪問数で、要するに常連さんの数字ということになります。いつも見に来てくれる方がこれだけ多いというのは本当に感謝に堪えません。
気になるキーワードとしては、「いかりや長介から志村けんへ最後の手紙、というデマ」の記事に引っかかるキーワードが非常に多く、実際にここ一週間くらいのアクセス数だとこの記事がナンバーワンです。正直、適当に書いたどうでもいい記事なのにこんなにアクセスいいってどうよって自問自答ものです。
次に気になるワードとしては「積み木くずし」関連で、恐らく「積み木くずし 最終章について」の記事がやけに引っかかってるんだと思います。この記事もどうせ誰も読むことないだろうなと思いながら書いた記事だったのに、子供の頃から「うちの家族は積み木くずし、なんのそのだよ」と、古すぎるネタで周囲に理解されないのを気にせず言い続けた甲斐はあったかななんて思ってます。
後は派遣マージン率に関するキーワードがそこそこ多いのと、ちょっと個人的に気になったのはカゴメの創業者に当たる「蟹江一太郎」が13位に入っているということです。ほとんど評伝らしい評伝が書かれていない人ですから、ニッチな層に見事に引っ掻かていると思えこれに関しては自画自賛ものです。創業家列伝ももっと書かんとなぁ……。
続いて今度は、訪問した際の閲覧時間の長い検索キーワードを紹介します。このブログは常連さんで成り立っているブログなので、どっちかというとこういう閲覧時間の長いワードの方が気になってたりします。
<閲覧時間(セッション時間)の長いキーワード>
こっちの方は意外な結果で盛りだくさんです。
まず一位はほかのすべての記事を差し置いてあの大津の欠陥マンション訴訟に関する記事でした。この記事は地味に当事者の方々も読んでたのでビビることが多いです。
次に注目すべきはなんといっても「わらそう」です。ほんの20分前にもマッドシティの記事を書いたばかりですが、読む人間は読むだろうと思っていたら案の定長く読んでくれている方がおり、同じマッドシティネタだと「100満ボルト」こと「おかじま電器」もランクインしてます。意外とこういう記事の方が求められてるんだなとちょっと勉強になりました。
このほか美濃加茂市長の裁判記事や積み木くずしネタも数多く入っていますが、逆に以前は閲覧時間が極端に長い傾向にあった「文化大革命」のワードがまたえらく少なくなっています。みんな文革に興味をなくしてしまったのだろうか。
あと最後ちょっと気になったのとして34位の「蟹江一郎」。「太」という字が抜けてます。
<検索訪問数(セッション)の多いキーワード>
順位
|
キーワード
|
セッション
|
1
|
(not provided)
|
3,910(55.63%)
|
2
|
志村けん いかりや長介
|
54(0.77%)
|
3
|
陽月秘話
|
49(0.70%)
|
4
|
サリン事件 症状
|
47(0.67%)
|
5
|
いかりや長介 志村けん
|
30(0.43%)
|
6
|
宮崎繁三郎
|
30(0.43%)
|
7
|
いかりや長介 志村けん 手紙
|
24(0.34%)
|
8
|
hsk5級
|
21(0.30%)
|
9
|
中川 泥酔
|
21(0.30%)
|
10
|
大原騒動
|
17(0.24%)
|
11
|
美濃加茂市長 控訴
|
17(0.24%)
|
12
|
穂積由香里
|
17(0.24%)
|
13
|
蟹江一太郎
|
14(0.20%)
|
14
|
宇都宮病院事件
|
13(0.18%)
|
15
|
任天堂 合併
|
13(0.18%)
|
16
|
派遣 マージン率
|
13(0.18%)
|
17
|
ヒトラー ゲリ
|
11(0.16%)
|
18
|
レッド 漫画
|
11(0.16%)
|
19
|
南海辰村建設 裁判
|
11(0.16%)
|
20
|
派遣会社 マージン率 一覧
|
11(0.16%)
|
21
|
hsk5級 作文
|
10(0.14%)
|
22
|
シドニアの騎士
|
10(0.14%)
|
23
|
デスレス
|
10(0.14%)
|
24
|
ゲリ・ラウバル
|
9(0.13%)
|
25
|
シャルロットコルデー
|
9(0.13%)
|
26
|
猫の目農政
|
9(0.13%)
|
27
|
豊臣政権
|
9(0.13%)
|
28
|
hsk5級 合格基準
|
8(0.11%)
|
29
|
いかりや長介
|
8(0.11%)
|
30
|
積木くずし 最終章
|
8(0.11%)
|
31
|
地下鉄サリン 日野原先生 判断
|
8(0.11%)
|
32
|
派遣 マージン 平均
|
8(0.11%)
|
33
|
派遣会社 マージン
|
8(0.11%)
|
34
|
平野達男 バカ発言
|
8(0.11%)
|
35
|
鈴木修 逸話
|
8(0.11%)
|
36
|
hsk 5級
|
7(0.10%)
|
37
|
ヒトラー 姪
|
7(0.10%)
|
38
|
住友製薬 pam
|
7(0.10%)
|
39
|
地下鉄サリン事件
|
7(0.10%)
|
40
|
中川 泥酔会見
|
7(0.10%)
|
41
|
派遣 マージン
|
7(0.10%)
|
42
|
派遣会社 マージン率
|
7(0.10%)
|
43
|
いかりや長介 手紙
|
6(0.09%)
|
44
|
ゲリ ラウバル
|
6(0.09%)
|
45
|
サリン 妊婦
|
6(0.09%)
|
46
|
スタッフサービス マージン率
|
6(0.09%)
|
47
|
マージン率 派遣
|
6(0.09%)
|
48
|
玄倉川水難事故生存者のその後
|
6(0.09%)
|
49
|
石川啄木 金田一京助
|
6(0.09%)
|
50
|
積木くずし あらすじ
|
6(0.09%)
|
51
|
積木くずし 真相 母
|
6(0.09%)
|
52
|
積木くずし 母親
|
6(0.09%)
|
気になるキーワードとしては、「いかりや長介から志村けんへ最後の手紙、というデマ」の記事に引っかかるキーワードが非常に多く、実際にここ一週間くらいのアクセス数だとこの記事がナンバーワンです。正直、適当に書いたどうでもいい記事なのにこんなにアクセスいいってどうよって自問自答ものです。
次に気になるワードとしては「積み木くずし」関連で、恐らく「積み木くずし 最終章について」の記事がやけに引っかかってるんだと思います。この記事もどうせ誰も読むことないだろうなと思いながら書いた記事だったのに、子供の頃から「うちの家族は積み木くずし、なんのそのだよ」と、古すぎるネタで周囲に理解されないのを気にせず言い続けた甲斐はあったかななんて思ってます。
後は派遣マージン率に関するキーワードがそこそこ多いのと、ちょっと個人的に気になったのはカゴメの創業者に当たる「蟹江一太郎」が13位に入っているということです。ほとんど評伝らしい評伝が書かれていない人ですから、ニッチな層に見事に引っ掻かていると思えこれに関しては自画自賛ものです。創業家列伝ももっと書かんとなぁ……。
続いて今度は、訪問した際の閲覧時間の長い検索キーワードを紹介します。このブログは常連さんで成り立っているブログなので、どっちかというとこういう閲覧時間の長いワードの方が気になってたりします。
<閲覧時間(セッション時間)の長いキーワード>
順位
|
キーワード
|
セッション
|
平均セッション
時間
|
1
|
滋賀 欠陥 マンション 訴訟
|
1(0.01%)
|
0:54:12
|
2
|
青瓦台襲撃事件
|
2(0.03%)
|
0:53:14
|
3
|
石田三成の評価
|
2(0.03%)
|
0:34:03
|
4
|
わらそう プラモ
|
1(0.01%)
|
0:32:08
|
5
|
猫の目農政
|
9(0.13%)
|
0:31:20
|
6
|
わらそう
|
1(0.01%)
|
0:29:30
|
7
|
派遣会社マージン パソナテック
|
1(0.01%)
|
0:29:03
|
8
|
秀吉 陰謀
|
2(0.03%)
|
0:25:54
|
9
|
松戸 100満ボルト 跡地
|
1(0.01%)
|
0:23:38
|
10
|
広瀬健一 声
|
2(0.03%)
|
0:21:39
|
11
|
アデコ マージン 4割
|
1(0.01%)
|
0:21:12
|
12
|
平均的なマージン率
|
1(0.01%)
|
0:20:48
|
13
|
hsk 作文 五級 例文
|
1(0.01%)
|
0:20:40
|
14
|
今の俳優に求められる物
|
1(0.01%)
|
0:20:19
|
15
|
美濃加茂市長検察ねつ造
|
1(0.01%)
|
0:19:52
|
16
|
由香里の死 そして愛 積木くずし終章 あらすじ
|
1(0.01%)
|
0:19:05
|
17
|
長平の戦い 戦力
|
1(0.01%)
|
0:18:17
|
18
|
シチズン 中国 撤退 1日前通告
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1(0.01%)
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0:18:05
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19
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諸葛亮評価
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4(0.06%)
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0:18:04
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20
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長平の戦い 生き埋め
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1(0.01%)
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0:17:25
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21
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竹中平蔵 功罪
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1(0.01%)
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22
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時間の概念 文化の違い
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1(0.01%)
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0:14:20
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23
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第2次上海事件
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1(0.01%)
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24
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美濃加茂市長 有罪とするには
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1(0.01%)
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25
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地下鉄サリン 日野原先生 判断
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8(0.11%)
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26
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中国で反日の強い地域
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1(0.01%)
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27
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倒産の面白い話は
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28
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埼玉千葉少女殺傷事件 犯人
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セガサターンvsプレステ
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1(0.01%)
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30
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中国 文化大革命
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31
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suzukijidousha 後継者
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1(0.01%)
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32
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文世光 処刑
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1(0.01%)
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33
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百田 夢を売る男 モデル
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1(0.01%)
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蟹江一郎
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1(0.01%)
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35
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美濃加茂市長 aitikennkei
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1(0.01%)
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0:09:58
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36
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派遣会社 平均マージン率
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1(0.01%)
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0:09:57
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37
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宇沢弘文先生を偲ぶ会
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1(0.01%)
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0:09:55
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38
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プロジェクトx 聖路加国際病院
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1(0.01%)
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0:09:52
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39
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積木くずし 内容
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1(0.01%)
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0:09:12
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40
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マリーアントワネットの初夜
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1(0.01%)
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0:08:55
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シャルロット コルデー
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2(0.03%)
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42
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塚本幸一 インパール作戦
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1(0.01%)
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左翼 失墜
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1(0.01%)
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0:08:10
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44
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大津京ステーションプレース
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1(0.01%)
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0:08:05
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贈賄側、美濃加茂市長選に知人1カ月派遣
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2(0.03%)
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0:07:44
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46
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積木くずし 妻 遺書
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1(0.01%)
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0:07:38
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47
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ケンミンショー鹿児島スーパー
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1(0.01%)
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0:07:30
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48
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レオ・シロタ
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1(0.01%)
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積木くずし母親
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1(0.01%)
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外国人犯罪 死刑
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1(0.01%)
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0:07:09
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地下鉄サリンの負傷者で妊婦いましたか?
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1(0.01%)
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陽月秘話
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49(0.70%)
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日本の法人税は高い?
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1(0.01%)
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54
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サリン事件 解毒剤
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2(0.03%)
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0:07:00
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こっちの方は意外な結果で盛りだくさんです。
まず一位はほかのすべての記事を差し置いてあの大津の欠陥マンション訴訟に関する記事でした。この記事は地味に当事者の方々も読んでたのでビビることが多いです。
次に注目すべきはなんといっても「わらそう」です。ほんの20分前にもマッドシティの記事を書いたばかりですが、読む人間は読むだろうと思っていたら案の定長く読んでくれている方がおり、同じマッドシティネタだと「100満ボルト」こと「おかじま電器」もランクインしてます。意外とこういう記事の方が求められてるんだなとちょっと勉強になりました。
このほか美濃加茂市長の裁判記事や積み木くずしネタも数多く入っていますが、逆に以前は閲覧時間が極端に長い傾向にあった「文化大革命」のワードがまたえらく少なくなっています。みんな文革に興味をなくしてしまったのだろうか。
あと最後ちょっと気になったのとして34位の「蟹江一郎」。「太」という字が抜けてます。
千葉のマッドシティ~ダイエー新松戸店
リアル松戸市民の友人がやたらとこのマッドシティシリーズを応援してくれ、この連載に出てくる各名所の写真をよく撮影して送ってくれています。先日もこのまえ紹介したプラモ屋の「わらそう」の跡地写真を送ってもらい、リンク先のわらそうの記事に友人が撮ってくれた写真を追加しておりますので興味のある方は是非閲覧ください。
そんなわけでまた今日も懲りずにマッドシティ。今日は松戸は松戸でも、JR松戸駅から北松戸、馬橋を挟んで三駅先にある新松戸の名所を紹介します。
・ダイエー新松戸店(Wikipedia)
・ダイエー新松戸店店舗ホームページ
もう隠す必要もないし再び踏むこともないだろうから明かしますが、私の実家は流山市の南流山というところにあります。この南流山からJRで一駅行った先が新松戸だったため、松戸とくると市役所のある松戸市中心部よりも実はこっちの新松戸の方が案外馴染み深かったりします。その中でも特に今日紹介するこのダイエー新松戸店は、流山にイトーヨーカドーが出来るまでは近隣にある唯一の大型スーパーだったため、小学校低学年くらいの頃まではほぼ毎週末通っていたような気がします。
今回私が何でこのダイエー新松戸店を紹介しようと思ったのかというと、この店舗はかなり長期間にわたって営業を続けていることに加え、この間に何度か大規模な改装を行っていてその変遷を辿るだけでそこそこ歴史が感じられ楽しいからです。
この新松戸店の開店は1981年でなんと私が生まれる前です。私は物心ついたころから南流山にいましたがそのころには新松戸駅周辺のみならず流山市からも常連客が通っており、週末ともなると家族連れで大いににぎわっていたのを今でも覚えています。実際にこの新松戸店はダイエー系列の店舗としても売り上げの大きい店舗だったらしく、リンク先のウィキペディアの記事によるとバブル期の1991年時の売上げはダイエー系列内で7位、スーパー業界でも18位という堂々たる記録を残しています。現在の売上げはちょっと調べてみたもののわかりませんが、2004年にダイエーが経営破綻して以降は全国各地で系列店の店舗閉鎖が相次いだものの、この新松戸店に関しては閉店の噂が全く出ずに今も営業し続けていることから察すると悪くない売上げなのではないかと推測します。
ちょっと本筋から外れますが、何故この新松戸店の売上げがいいかについてはいくつか仮説があります。まず開店当初は先にも書いた通りに競合店が周囲に少なかったことが何よりも大きいですが、それと同時にもう一つ、この新松戸に住んでいる市民の平均所得がそこそこ高いと思われることも大きいと推察しています。知ってる人には有名ですが新松戸は日本の宇宙開発関連団体の社宅がたくさんあり、実際街中歩いていてもいろんな意味で余裕を感じさせれる人が数多く見受けられます。友人とも協議しましたが恐らくあの一帯の平均所得はかなり高いように思われ、購買力もそれに比例して高いため新松戸店の売上げも良かったのではと見ています。
話しは戻ってまず私の子供時代の新松戸店について話しますが、時代的にはバブル期で、またほかに大型スーパーというか競合店がなかったこともあって土日は文字通り人でごった返すお店でした。私もよく両親に連れて来られていたのですが専らいる場所と言ったら当時2階にあったおもちゃ売り場で、ここではよくファミコンゲームのデモプレイやゲーム大会が開かれており、デモプレイではドラクエ3がやられてて、ゲーム大会では「忍者龍剣伝(確か3)」を4人が同時にプレイしてクリアを競っていたのを覚えています。
この時代の新松戸店にあったもののその後になくなってしまったものとして大きいのは、なんといってもスケートリンクでしょう。このスケートリンクは「新松戸アイスアリーナ」といって開業当初から併設されており、リンク横にあるファーストフード店の「ドムドムバーガー」にはスケート靴を履いたままリンクから買い物することが出来たのがやけに印象に残っています。
前の記事にも書きましたが、このスケートリンクには幼少の頃の町田樹元フィギュアスケート選手も通っていたそうで、私自身も小学生の頃はたまに友人と連れ立って遊びに行ってたのでもしかしたらニアミスしてたかもしれません。ただこのスケートリンクは2002年に閉鎖が決まり、リンクを含む建物は取り壊されその跡地は駐車場になりました。
新松戸店には元々、店舗内にタワー駐車場があり、さらに屋外にも広い駐車場が設けられていたのですがスケートリンクをぶっ潰した後にも駐車場をまたさらに作ったので、当時は駐車場だけでやけに果てしなく広くて逆に見ていて寂しさを感じました。ただこの果てしない広さはそれほど長い期間は続かず、元々あった駐車場とスケートリンク跡地はどうやら土地ごと売却された模様で、2004年には流通経済大学がこの土地に新松戸キャンパスを設置して現在に至っています。
やはり大学が来るとその影響も大きいもので、私の子供だった頃と比べてダイエー周辺には若者が数多く歩くようになりました。もっとも見ている感じだとそれほどマナーは悪くなく、大学生にとっても近くにダイエーがあってそこそこいいキャンパス環境なんじゃないかと勝手に思ってます。
最初にも書いた通りに、子供の頃はほんとにこの新松戸店にはよく訪れていましたが流山にイトーヨーカドーが出来てからはほんとに行く機会が一気に減りました。大体いつも自転車乗って新松戸方面を走っている際に横を通る度に、「まだ続いているんだなぁ」なんて思うわけですが、ここまで街に馴染んでいると下手すりゃ自分が死んだ後も続いているんじゃないかとこの頃思います。
なおこの新松戸店の1階にはテナントでケンタッキーが今でも入っていますが、リアル松戸市民の友人と確か3年半ぶりの再会を果たした晩、別のお店で飯食った後にここのケンタッキーに入ったのを覚えています。
そんなわけでまた今日も懲りずにマッドシティ。今日は松戸は松戸でも、JR松戸駅から北松戸、馬橋を挟んで三駅先にある新松戸の名所を紹介します。
・ダイエー新松戸店店舗ホームページ
もう隠す必要もないし再び踏むこともないだろうから明かしますが、私の実家は流山市の南流山というところにあります。この南流山からJRで一駅行った先が新松戸だったため、松戸とくると市役所のある松戸市中心部よりも実はこっちの新松戸の方が案外馴染み深かったりします。その中でも特に今日紹介するこのダイエー新松戸店は、流山にイトーヨーカドーが出来るまでは近隣にある唯一の大型スーパーだったため、小学校低学年くらいの頃まではほぼ毎週末通っていたような気がします。
今回私が何でこのダイエー新松戸店を紹介しようと思ったのかというと、この店舗はかなり長期間にわたって営業を続けていることに加え、この間に何度か大規模な改装を行っていてその変遷を辿るだけでそこそこ歴史が感じられ楽しいからです。
この新松戸店の開店は1981年でなんと私が生まれる前です。私は物心ついたころから南流山にいましたがそのころには新松戸駅周辺のみならず流山市からも常連客が通っており、週末ともなると家族連れで大いににぎわっていたのを今でも覚えています。実際にこの新松戸店はダイエー系列の店舗としても売り上げの大きい店舗だったらしく、リンク先のウィキペディアの記事によるとバブル期の1991年時の売上げはダイエー系列内で7位、スーパー業界でも18位という堂々たる記録を残しています。現在の売上げはちょっと調べてみたもののわかりませんが、2004年にダイエーが経営破綻して以降は全国各地で系列店の店舗閉鎖が相次いだものの、この新松戸店に関しては閉店の噂が全く出ずに今も営業し続けていることから察すると悪くない売上げなのではないかと推測します。
ちょっと本筋から外れますが、何故この新松戸店の売上げがいいかについてはいくつか仮説があります。まず開店当初は先にも書いた通りに競合店が周囲に少なかったことが何よりも大きいですが、それと同時にもう一つ、この新松戸に住んでいる市民の平均所得がそこそこ高いと思われることも大きいと推察しています。知ってる人には有名ですが新松戸は日本の宇宙開発関連団体の社宅がたくさんあり、実際街中歩いていてもいろんな意味で余裕を感じさせれる人が数多く見受けられます。友人とも協議しましたが恐らくあの一帯の平均所得はかなり高いように思われ、購買力もそれに比例して高いため新松戸店の売上げも良かったのではと見ています。
話しは戻ってまず私の子供時代の新松戸店について話しますが、時代的にはバブル期で、またほかに大型スーパーというか競合店がなかったこともあって土日は文字通り人でごった返すお店でした。私もよく両親に連れて来られていたのですが専らいる場所と言ったら当時2階にあったおもちゃ売り場で、ここではよくファミコンゲームのデモプレイやゲーム大会が開かれており、デモプレイではドラクエ3がやられてて、ゲーム大会では「忍者龍剣伝(確か3)」を4人が同時にプレイしてクリアを競っていたのを覚えています。
この時代の新松戸店にあったもののその後になくなってしまったものとして大きいのは、なんといってもスケートリンクでしょう。このスケートリンクは「新松戸アイスアリーナ」といって開業当初から併設されており、リンク横にあるファーストフード店の「ドムドムバーガー」にはスケート靴を履いたままリンクから買い物することが出来たのがやけに印象に残っています。
前の記事にも書きましたが、このスケートリンクには幼少の頃の町田樹元フィギュアスケート選手も通っていたそうで、私自身も小学生の頃はたまに友人と連れ立って遊びに行ってたのでもしかしたらニアミスしてたかもしれません。ただこのスケートリンクは2002年に閉鎖が決まり、リンクを含む建物は取り壊されその跡地は駐車場になりました。
新松戸店には元々、店舗内にタワー駐車場があり、さらに屋外にも広い駐車場が設けられていたのですがスケートリンクをぶっ潰した後にも駐車場をまたさらに作ったので、当時は駐車場だけでやけに果てしなく広くて逆に見ていて寂しさを感じました。ただこの果てしない広さはそれほど長い期間は続かず、元々あった駐車場とスケートリンク跡地はどうやら土地ごと売却された模様で、2004年には流通経済大学がこの土地に新松戸キャンパスを設置して現在に至っています。
やはり大学が来るとその影響も大きいもので、私の子供だった頃と比べてダイエー周辺には若者が数多く歩くようになりました。もっとも見ている感じだとそれほどマナーは悪くなく、大学生にとっても近くにダイエーがあってそこそこいいキャンパス環境なんじゃないかと勝手に思ってます。
最初にも書いた通りに、子供の頃はほんとにこの新松戸店にはよく訪れていましたが流山にイトーヨーカドーが出来てからはほんとに行く機会が一気に減りました。大体いつも自転車乗って新松戸方面を走っている際に横を通る度に、「まだ続いているんだなぁ」なんて思うわけですが、ここまで街に馴染んでいると下手すりゃ自分が死んだ後も続いているんじゃないかとこの頃思います。
なおこの新松戸店の1階にはテナントでケンタッキーが今でも入っていますが、リアル松戸市民の友人と確か3年半ぶりの再会を果たした晩、別のお店で飯食った後にここのケンタッキーに入ったのを覚えています。
2015年4月6日月曜日
髀肉の嘆
このところ、何故だか5年前の自分を思い返すことが多くなってきています。当時の私は新卒で入社した会社に在籍して日本国内にて勤務していたのですが、週末ともなるとほぼ確実に自宅近くの喫茶店に行くのが一つの習慣でした。何故その喫茶店に行くのかというと、その店にはほかの店にはない「梅ジュース」が置いてあったことと、漫画の「ジョジョの奇妙な冒険」の第七部こと「スティール・ボール・ラン」の単行本が置いてあって、この本を徐々に読み進める目的もありました。
「スティール・ボール・ラン」は当初でこそ週刊ジャンプで連載されていたため最初は読んでいたのですが、掲載雑誌がウルトラジャンプに変わって以降は全く読んでいなかったものの、友人からその後からの方が面白いよと言われたので手に取ってみると本当にその通りで、遅ればせながら読み始めていたのがまさにこの時でした。
この時期の私は生活に当たって何の不自由もなければ特に大きな不満もありませんでした。仕事に関してもリーマンショックの痕もあって忙しいどころか暇で、ほぼ毎日定時に上がって面倒な案件にぶつかるようなことももちろんなかったです。
しかし人によってはぜいたくと言われるかもしれませんが、不満がないのが当時の一番の不満でした。毎日変化らしい変化のない毎日で社会に貢献しているという実感もなければ、仮に会社が潰れた際に一人で生きていけるようなスキルも磨けず、また私生活でも特に激しい行動などは取っておらず、果たしてこのままで自分はいいのかという自問自答をその喫茶店内で繰り返していました。その上で、一体いつまでこういう生活を続けていくのか、果たして数年後にも同じことを考えているのかなんて言うこともよぎっていたと覚えています。
当時在籍していた会社には新卒時の就活で拾ってもらった恩こそあったものの、当時に起こったある事件がきっかけで私の中の会社へのロイヤリティはほぼ完全に消え失せていました。既に中国への転職という案は頭にあり、後ろ足で砂をかける不義理になるとはいえ自分の行動は決して後ろ指刺されるものではないという核心も得ていました。しかし実際に行動するかどうかとなると、海外転職ということもあって選択肢としてはあっても決断するかとなるとなかなかそこまでに至れなかったのが2009年末から2010年春の自分でした。
この頃の自分について今の自分の感想を述べると、何につけても「楽だった」の一言に尽きます。給与は決して多くなかったものの大学時代の奨学金120万円は既に完済出来てたし、休暇を取ろうと思えば有給は余っており、何より日本国内なので日常生活をするに当たっては何も足かせはない状態で本当に楽でした。だが楽だった故というか、前述しているように果たしてこのままでいいのかという疑念が常に頭を回っていたわけです。
三国志を多少知っている方なら「髀肉の嘆」という言葉の意味がわかるかと思います。この言葉は荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠に立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、「かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう」と思って泣きながら宴会に帰ってきたというエピソードに端を発します。それにしても宴会主の劉表は泣きながら帰ってきた劉備のことを、「なんやねんこいつ(;゚д゚)」って思ったろうな。
上記のエピソードからこの言葉には、「日々の生活の空しさを嘆く」などという意味で使わるのですが、ここまで言えばわかるでしょうが、私にとってはちょうど五年前がまさに「髀肉の嘆をかこつ生活」でした。不満がないのが不満、不自由でないのが不自由、なによりも状況的に追い詰められる要素が何もなくスリルが全く感じられない当時の生活が私にとって一番嫌な時期でした。言いすぎかもしれませんが当時の自分は余りにも苦痛から遠ざかっていたため苦痛に対する感覚がほぼ麻痺し、一体どういうものが苦痛なのかすらもわからなくなっていたのではないかとすら思えます。だからこそこのままじゃまずい、何も苦痛のない今の状況を変えなければ人間として駄目になるなんて無意識に考えていたのではないかという気が今になってします。
その後の私は中国に渡り、はっきり言って人一倍には苦労に苦労を重ねてきたという自負があります。その過程では明らかに度を越した無意味な苦痛を経験することも多かったですが、場数を踏んだだけあって何が苦痛なのか、どこまでの苦痛であれば自分は耐えられるのか、他人はどの程度の苦痛をどのように感じ取るのかなどというのがおぼろげながらではありますが多少は見えてくるようにはなり、苦痛の感覚を取り戻すことができたと自分では考えています。
もっともそれによって友人などからは、「思想が米国流のマッチョすぎ」などとも言われるようにはなりましたが、こうした経験を振り返るに当たって苦痛を感じられなくなるのは人間として非常に危険な状態なのではないかなどと思えてきます。この状態とは、苦しくてしょうがないと感じていた生活に慣れてしまう、苦しさがほとんどない生活に慣れてしまう、の2パターンあり、私の場合は後者だったわけでこれが「髀肉の嘆」ってわけです。どちらもはまってしまうとなかなか抜け出せなくなるだけに、詳しくは語りませんが弊害も大きいでしょう。
まとめとして述べると、結果的に自分はいばらの道をずっと歩むこととなっていますが、それでもあの安寧すぎる日々から離れられたのはまだ幸福だったと言いたいわけです。周囲から見れば惜しいことをしたと見られるかもしれませんし負け惜しみの様に聞こえるかもしれませんが、やっぱり自分は常に氷の壁に背中をつけるような生活じゃないと生きていけない気がするしそうじゃなければ死んだも同然かなと思えます。
とはいえ、「ここまで波乱万丈じゃなくってもいいのに……」なんて思うことも多々あります。目下、長坂破の戦いから逃げてきたばかりの劉備みたいな状況ですが、いつか蜀とか荊州みたいなの取れればいいなぁ。
「スティール・ボール・ラン」は当初でこそ週刊ジャンプで連載されていたため最初は読んでいたのですが、掲載雑誌がウルトラジャンプに変わって以降は全く読んでいなかったものの、友人からその後からの方が面白いよと言われたので手に取ってみると本当にその通りで、遅ればせながら読み始めていたのがまさにこの時でした。
この時期の私は生活に当たって何の不自由もなければ特に大きな不満もありませんでした。仕事に関してもリーマンショックの痕もあって忙しいどころか暇で、ほぼ毎日定時に上がって面倒な案件にぶつかるようなことももちろんなかったです。
しかし人によってはぜいたくと言われるかもしれませんが、不満がないのが当時の一番の不満でした。毎日変化らしい変化のない毎日で社会に貢献しているという実感もなければ、仮に会社が潰れた際に一人で生きていけるようなスキルも磨けず、また私生活でも特に激しい行動などは取っておらず、果たしてこのままで自分はいいのかという自問自答をその喫茶店内で繰り返していました。その上で、一体いつまでこういう生活を続けていくのか、果たして数年後にも同じことを考えているのかなんて言うこともよぎっていたと覚えています。
当時在籍していた会社には新卒時の就活で拾ってもらった恩こそあったものの、当時に起こったある事件がきっかけで私の中の会社へのロイヤリティはほぼ完全に消え失せていました。既に中国への転職という案は頭にあり、後ろ足で砂をかける不義理になるとはいえ自分の行動は決して後ろ指刺されるものではないという核心も得ていました。しかし実際に行動するかどうかとなると、海外転職ということもあって選択肢としてはあっても決断するかとなるとなかなかそこまでに至れなかったのが2009年末から2010年春の自分でした。
この頃の自分について今の自分の感想を述べると、何につけても「楽だった」の一言に尽きます。給与は決して多くなかったものの大学時代の奨学金120万円は既に完済出来てたし、休暇を取ろうと思えば有給は余っており、何より日本国内なので日常生活をするに当たっては何も足かせはない状態で本当に楽でした。だが楽だった故というか、前述しているように果たしてこのままでいいのかという疑念が常に頭を回っていたわけです。
三国志を多少知っている方なら「髀肉の嘆」という言葉の意味がわかるかと思います。この言葉は荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠に立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、「かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう」と思って泣きながら宴会に帰ってきたというエピソードに端を発します。それにしても宴会主の劉表は泣きながら帰ってきた劉備のことを、「なんやねんこいつ(;゚д゚)」って思ったろうな。
上記のエピソードからこの言葉には、「日々の生活の空しさを嘆く」などという意味で使わるのですが、ここまで言えばわかるでしょうが、私にとってはちょうど五年前がまさに「髀肉の嘆をかこつ生活」でした。不満がないのが不満、不自由でないのが不自由、なによりも状況的に追い詰められる要素が何もなくスリルが全く感じられない当時の生活が私にとって一番嫌な時期でした。言いすぎかもしれませんが当時の自分は余りにも苦痛から遠ざかっていたため苦痛に対する感覚がほぼ麻痺し、一体どういうものが苦痛なのかすらもわからなくなっていたのではないかとすら思えます。だからこそこのままじゃまずい、何も苦痛のない今の状況を変えなければ人間として駄目になるなんて無意識に考えていたのではないかという気が今になってします。
その後の私は中国に渡り、はっきり言って人一倍には苦労に苦労を重ねてきたという自負があります。その過程では明らかに度を越した無意味な苦痛を経験することも多かったですが、場数を踏んだだけあって何が苦痛なのか、どこまでの苦痛であれば自分は耐えられるのか、他人はどの程度の苦痛をどのように感じ取るのかなどというのがおぼろげながらではありますが多少は見えてくるようにはなり、苦痛の感覚を取り戻すことができたと自分では考えています。
もっともそれによって友人などからは、「思想が米国流のマッチョすぎ」などとも言われるようにはなりましたが、こうした経験を振り返るに当たって苦痛を感じられなくなるのは人間として非常に危険な状態なのではないかなどと思えてきます。この状態とは、苦しくてしょうがないと感じていた生活に慣れてしまう、苦しさがほとんどない生活に慣れてしまう、の2パターンあり、私の場合は後者だったわけでこれが「髀肉の嘆」ってわけです。どちらもはまってしまうとなかなか抜け出せなくなるだけに、詳しくは語りませんが弊害も大きいでしょう。
まとめとして述べると、結果的に自分はいばらの道をずっと歩むこととなっていますが、それでもあの安寧すぎる日々から離れられたのはまだ幸福だったと言いたいわけです。周囲から見れば惜しいことをしたと見られるかもしれませんし負け惜しみの様に聞こえるかもしれませんが、やっぱり自分は常に氷の壁に背中をつけるような生活じゃないと生きていけない気がするしそうじゃなければ死んだも同然かなと思えます。
とはいえ、「ここまで波乱万丈じゃなくってもいいのに……」なんて思うことも多々あります。目下、長坂破の戦いから逃げてきたばかりの劉備みたいな状況ですが、いつか蜀とか荊州みたいなの取れればいいなぁ。
ポーランドの民主化革命
大学受験時に世界史を選択した方なら恐らく共通するかと思いますが、「連帯」という言葉を見ると即、「ワレサ」というワードが頭に浮かんできます。極端な話、「連帯責任」という言葉を見るだけでも「ワレサ」が出てくるので一種職業病じゃないかと思うこともあるくらいなのですが、私と同じく世界史を勉強した友人も「逆も然り、ワレサというワードを見る度に連帯って言葉が浮かんでくる」と話しています。
一体何故こうなったのかというと大学受験における歴史科目は登場するワードに対して適切なワードを選ぶことが得点稼ぎの基本で、特に範囲の広い世界史においては各事件や人物の細かい背景をいちいち理解していては追いつかなくなる傾向もあるだけに一単語に対して選択問題の回答に出やすい一単語を覚えていくという作業になりがちだからです。なもんだから、「そもそもワレサってどんな人?連帯って何?」と考えている受験生や大学生は少なくないんじゃないかと思え、この辺は詰め込み教育の弊害といってもあながち間違いではありません。
ただ、ワードさえ覚えていればその後の人生で学ぶ機会というかとっかかりはあるとも言えます。そういう意味で私は現代日本の詰め込み教育を否定するつもりはありませんし、自分もまたそのような過程でもってポーランドの民主化革命を後年調べました。
・東欧革命(Wikipedia)
前回の記事で私は二次大戦中にあった「ワルシャワ蜂起」を紹介しました。この事件というか戦闘ではソ連はワルシャワ市内にいたポーランド人を見殺しにする形で無謀な蜂起を誘発させ、事実その通りに蜂起は失敗して多くのポーランド人がドイツ軍によって虐殺されました。
この戦闘中、ワルシャワ近くに駐屯していたソ連軍の中には親ソ連派のポーランド人部隊もおり、ソ連軍本体が見殺しにしている中で単独ながら市内のポーランド軍へ物資輸送などの支援を行っていました。そしてこのワルシャワ市街のポーランド人部隊の中には、後にポーランド書記長となり臨時初代大統領となるヴォイチェフ・ヤルゼルスキも一士官として在籍していました。
二次大戦後の終結後、ソ連を中心とした共産圏の一員となったポーランドでヤルゼルスキは出身とする軍内部で着実に地位を固めていき、1981年には首相兼第一書記というポーランド国内の最高権力者に就任していきます。ただポーランドの最高権力者と言っても当時はソ連の強い影響下にあり、外交はおろか内政すらもクレムリンの意向に逆らうことなどできない状態でありました。
折り悪くと言うべきか当時のポーランドでは食肉の値上げに対する反発をきっかけに国民の間では民主化を望む声が高まってきており、その筆頭には後にポーランド大統領となりノーベル平和賞を受賞することとなるワレサことレフ・ヴァウェンサがいました。
ここでちょっと余談を挟みますがレフ・ヴァウェンサというのは現地の発音に即した名前なのですが何故か日本では「ヴァウェンサ(Wałęsa)」という表記をローマ字っぽく間違えて読んだ「ワレサ(Walesa)」が流布してしまい、現代においてもこの読み方が訂正されないままとなっております。私の考えとしては現地の発音に即すべきで、そのため本記事では「ヴァエンサ」で以下貫きます。
話しは戻りますが、造船所の電気技師であったヴァウェンサは労働組合団体「連帯」を組織し、ヤルゼルスキ率いる体制側を批判するなど民主化を要求する政治活動を展開します。こうした国内の動きに対して首相のヤルゼルスキは戒厳令を発し、ヴァウェンサを拘束するなどして民主化要求に対し弾圧を加えます。
ただこの時のヤルゼルスキの行動については、本心から弾圧を加えるものだったというよりはソ連に対する一種のパフォーマンスだったとヤルゼルスキは後年主張しており、歴史家たちからもそのような目的で行われたものだとして弾圧を批判する声があるのと同時に評価する声もあります。というのもソ連は過去に民主化に舵を切ろうとしたハンガリーやチェコといった国々に対して軍事介入し、力づくで民主化を叩き潰すということを何度もやっており、あのまま国民の民主化要求を自由にさせていればソ連が介入してくることを恐れ、形だけでも社会主義を堅持する姿勢が必要だったとヤルゼルスキは述べており、事実ソ連からは「実力行使も辞さない」という通牒が当時なされていたと明かしています。
とはいえポーランドの民主化活動は戒厳令によって一時静まります。これが再び熱気を帯びる一つのきっかけとなったのはポーランド人として史上初めてローマ教皇となったヨハネ・パウロ2世で、同教皇はヤルゼルスキと会談し、暗に弾圧を行わないよう求めるなど「連帯」を支援する動きを見せました。また1985年、ソ連でゴルバチョフが書記長に就任して「ペレストロイカ」を推進するなど旧来の支配方法から脱却する動きを見せたことも重なり、ヤルゼルスキは戒厳令を解除した上で政治改革を視野に入れて「連帯」との話し合いを持っていきます。
このような過程を踏んでポーランドでは1989年の2月から4月、抜本的な政治改革案を話し合うためヤルゼルスキを筆頭とした体制側、ヴァウェンサを中心とした「連帯」が出席する「円卓会議」が持たれました。この会議はテレビでも中継され、ポーランドの全国民が注目してその模様を眺める中で、
・大統領制の導入
・自由選挙の実施
・言論、政治活動の自由
といった民主化へと一気に舵を切る改革案が採用されることとなります。そしてこの改革案を受けて同年6月には部分自由選挙が実施され、この選挙で「連帯」が大勝利を収めるとあらかじめなされていた協定に従いヤルゼルスキが初代大統領に就任し、その翌年にはヤルゼルスキは政敵であるヴァウェンサへ禅譲する形で大統領職を引き渡し、完全な意味での民主化をポーランドは達成することとなります。
この時期、東欧では民主化ドミノといえるように各国で民主化革命がほぼ同時に起こっております。ただこの時の民主化革命ではハンガリーやルーマニアの様に旧政権が民衆や軍によって無理矢理引き摺り下ろされるような形が大半で、革命の過程では少なくない血が流れています。
そうした他国とは異なりこのポーランドでは無血でもって民主化が達成され、その後の混乱も圧倒的に小さく、現代においてもリーマンショック直後の2009年時ですら経済成長を維持したほど安定した政治、経済体制を守っています。私が言うのも僭越ですがこのポーランドの民主化革命は偉業とも言っていい事績のように思え、その立役者であるヴァウェンサやヤルゼルスキといった人々に対しては強い尊敬の念を覚えます。
特にヤルゼルスキに対しては、ワルシャワ蜂起の一件から察するに当初からソ連の支配に対してかなり強い拒否感を持っていたのではないかと伺えます。しかしそうした意識を表には見せず、またソ連の介入を防ぐための妥協策として戒厳令を実施して最悪の事態を避けるなど、政治家としても優れたセンスを見せるなど役者として政治家として超一流です。またこの時の戒厳令によって逮捕されたヴァウェンサや「連帯」のメンバーでヤルゼルスキを当時強く批判していた人々ほど後年になってヤルゼルスキを評価する人間は多く、間違いなく彼はポーランドを含め、東欧革命の主役の一人と言っていいでしょう。
同時にヴァウェンサが率いていた「連帯」も、急進的な民主化を望むメンバーに対して穏健派が粘り強く説得して、組織として穏健な姿勢を維持し続けた点も見逃せません。決して急進的にならず過激な行動に走らなかったからこそ、他の東欧諸国の様に民衆の暴動を伴う革命にならずに改革が達成されたのでしょう。
体制側、改革側双方で血を流すことを求めず、また努力がなされた。だからこそ革命後、双方の主要メンバーは文字通りのノーサイドにもなれたと思うだけに、このポーランド革命については人類の偉大な革命の一つだと思えるわけです。
一体何故こうなったのかというと大学受験における歴史科目は登場するワードに対して適切なワードを選ぶことが得点稼ぎの基本で、特に範囲の広い世界史においては各事件や人物の細かい背景をいちいち理解していては追いつかなくなる傾向もあるだけに一単語に対して選択問題の回答に出やすい一単語を覚えていくという作業になりがちだからです。なもんだから、「そもそもワレサってどんな人?連帯って何?」と考えている受験生や大学生は少なくないんじゃないかと思え、この辺は詰め込み教育の弊害といってもあながち間違いではありません。
ただ、ワードさえ覚えていればその後の人生で学ぶ機会というかとっかかりはあるとも言えます。そういう意味で私は現代日本の詰め込み教育を否定するつもりはありませんし、自分もまたそのような過程でもってポーランドの民主化革命を後年調べました。
・東欧革命(Wikipedia)
前回の記事で私は二次大戦中にあった「ワルシャワ蜂起」を紹介しました。この事件というか戦闘ではソ連はワルシャワ市内にいたポーランド人を見殺しにする形で無謀な蜂起を誘発させ、事実その通りに蜂起は失敗して多くのポーランド人がドイツ軍によって虐殺されました。
この戦闘中、ワルシャワ近くに駐屯していたソ連軍の中には親ソ連派のポーランド人部隊もおり、ソ連軍本体が見殺しにしている中で単独ながら市内のポーランド軍へ物資輸送などの支援を行っていました。そしてこのワルシャワ市街のポーランド人部隊の中には、後にポーランド書記長となり臨時初代大統領となるヴォイチェフ・ヤルゼルスキも一士官として在籍していました。
二次大戦後の終結後、ソ連を中心とした共産圏の一員となったポーランドでヤルゼルスキは出身とする軍内部で着実に地位を固めていき、1981年には首相兼第一書記というポーランド国内の最高権力者に就任していきます。ただポーランドの最高権力者と言っても当時はソ連の強い影響下にあり、外交はおろか内政すらもクレムリンの意向に逆らうことなどできない状態でありました。
折り悪くと言うべきか当時のポーランドでは食肉の値上げに対する反発をきっかけに国民の間では民主化を望む声が高まってきており、その筆頭には後にポーランド大統領となりノーベル平和賞を受賞することとなるワレサことレフ・ヴァウェンサがいました。
ここでちょっと余談を挟みますがレフ・ヴァウェンサというのは現地の発音に即した名前なのですが何故か日本では「ヴァウェンサ(Wałęsa)」という表記をローマ字っぽく間違えて読んだ「ワレサ(Walesa)」が流布してしまい、現代においてもこの読み方が訂正されないままとなっております。私の考えとしては現地の発音に即すべきで、そのため本記事では「ヴァエンサ」で以下貫きます。
話しは戻りますが、造船所の電気技師であったヴァウェンサは労働組合団体「連帯」を組織し、ヤルゼルスキ率いる体制側を批判するなど民主化を要求する政治活動を展開します。こうした国内の動きに対して首相のヤルゼルスキは戒厳令を発し、ヴァウェンサを拘束するなどして民主化要求に対し弾圧を加えます。
ただこの時のヤルゼルスキの行動については、本心から弾圧を加えるものだったというよりはソ連に対する一種のパフォーマンスだったとヤルゼルスキは後年主張しており、歴史家たちからもそのような目的で行われたものだとして弾圧を批判する声があるのと同時に評価する声もあります。というのもソ連は過去に民主化に舵を切ろうとしたハンガリーやチェコといった国々に対して軍事介入し、力づくで民主化を叩き潰すということを何度もやっており、あのまま国民の民主化要求を自由にさせていればソ連が介入してくることを恐れ、形だけでも社会主義を堅持する姿勢が必要だったとヤルゼルスキは述べており、事実ソ連からは「実力行使も辞さない」という通牒が当時なされていたと明かしています。
とはいえポーランドの民主化活動は戒厳令によって一時静まります。これが再び熱気を帯びる一つのきっかけとなったのはポーランド人として史上初めてローマ教皇となったヨハネ・パウロ2世で、同教皇はヤルゼルスキと会談し、暗に弾圧を行わないよう求めるなど「連帯」を支援する動きを見せました。また1985年、ソ連でゴルバチョフが書記長に就任して「ペレストロイカ」を推進するなど旧来の支配方法から脱却する動きを見せたことも重なり、ヤルゼルスキは戒厳令を解除した上で政治改革を視野に入れて「連帯」との話し合いを持っていきます。
このような過程を踏んでポーランドでは1989年の2月から4月、抜本的な政治改革案を話し合うためヤルゼルスキを筆頭とした体制側、ヴァウェンサを中心とした「連帯」が出席する「円卓会議」が持たれました。この会議はテレビでも中継され、ポーランドの全国民が注目してその模様を眺める中で、
・大統領制の導入
・自由選挙の実施
・言論、政治活動の自由
といった民主化へと一気に舵を切る改革案が採用されることとなります。そしてこの改革案を受けて同年6月には部分自由選挙が実施され、この選挙で「連帯」が大勝利を収めるとあらかじめなされていた協定に従いヤルゼルスキが初代大統領に就任し、その翌年にはヤルゼルスキは政敵であるヴァウェンサへ禅譲する形で大統領職を引き渡し、完全な意味での民主化をポーランドは達成することとなります。
この時期、東欧では民主化ドミノといえるように各国で民主化革命がほぼ同時に起こっております。ただこの時の民主化革命ではハンガリーやルーマニアの様に旧政権が民衆や軍によって無理矢理引き摺り下ろされるような形が大半で、革命の過程では少なくない血が流れています。
そうした他国とは異なりこのポーランドでは無血でもって民主化が達成され、その後の混乱も圧倒的に小さく、現代においてもリーマンショック直後の2009年時ですら経済成長を維持したほど安定した政治、経済体制を守っています。私が言うのも僭越ですがこのポーランドの民主化革命は偉業とも言っていい事績のように思え、その立役者であるヴァウェンサやヤルゼルスキといった人々に対しては強い尊敬の念を覚えます。
特にヤルゼルスキに対しては、ワルシャワ蜂起の一件から察するに当初からソ連の支配に対してかなり強い拒否感を持っていたのではないかと伺えます。しかしそうした意識を表には見せず、またソ連の介入を防ぐための妥協策として戒厳令を実施して最悪の事態を避けるなど、政治家としても優れたセンスを見せるなど役者として政治家として超一流です。またこの時の戒厳令によって逮捕されたヴァウェンサや「連帯」のメンバーでヤルゼルスキを当時強く批判していた人々ほど後年になってヤルゼルスキを評価する人間は多く、間違いなく彼はポーランドを含め、東欧革命の主役の一人と言っていいでしょう。
同時にヴァウェンサが率いていた「連帯」も、急進的な民主化を望むメンバーに対して穏健派が粘り強く説得して、組織として穏健な姿勢を維持し続けた点も見逃せません。決して急進的にならず過激な行動に走らなかったからこそ、他の東欧諸国の様に民衆の暴動を伴う革命にならずに改革が達成されたのでしょう。
体制側、改革側双方で血を流すことを求めず、また努力がなされた。だからこそ革命後、双方の主要メンバーは文字通りのノーサイドにもなれたと思うだけに、このポーランド革命については人類の偉大な革命の一つだと思えるわけです。
2015年4月4日土曜日
ワルシャワ蜂起(1944年)
昨年から東欧史に凝っているのですが、今日は私の世代ではまず知っている人はいないと思われるので1944年のワルシャワ蜂起について解説します。
・ワルシャワ蜂起(Wikipedia)
ワルシャワというのは言うまでもなくポーランドの首都ですが、かつての二次大戦下のこの場所で三ヶ国の思惑が入り乱れた戦闘がありました。二次大戦の開始当初、ポーランドはドイツとソ連の密約によってこの二ヶ国から同時攻められ、そのすべての国土が占領される憂き目に遭いました。その後、今度はポーランドを攻めたドイツとソ連同士で戦争が起こり(独ソ戦)、序盤はドイツ軍がリードする形でソ連領内を深く攻め入ったもののスターリングラード戦に代表されるソ連のバグラチオン作戦によっては攻守は逆転し、1944年時にはソ連はドイツを自国領内から追い出した上で逆にドイツの占領地域へ攻勢をかけている状況でした。
ソ連軍は1944年夏にはポーランド東部へ進撃し、7月30日には首都のワルシャワまでわずか10kmの地点まで到達していました。このソ連の進撃に合わせてワルシャワ市内にいたポーランド人によるレジスタンス組織は国外に組織された亡命政府などを経由する形でソ連軍と連絡を取り、ソ連軍による市外からの攻撃に合わせて市内で蜂起し、ワルシャワから一挙にドイツ軍を叩きだす計画を持ち上げ、これを8月1日に実行することで確認し合いました。いわば内と外から攻める計画と言え、仮に実行できていればドイツ軍に大きな損害を与えワルシャワ解放の実現性も決して低くなかったでしょう。
結果から述べると、ワルシャワ市内の蜂起は実際に行われたもののワルシャワの解放はこの時には実現しませんでした。
8月1日、ワルシャワ市内のレジスタンスことワルシャワ国内軍はほとんど武器らしい武器も持たずにドイツ軍の宿舎や軍営を襲いかかったものの、正式装備されたドイツ軍駐留部隊に歯が立たずほぼすべての襲撃箇所で撃退されます。この時、市外からの攻撃支援を約束していたソ連軍は全く動かず、市内で行われている戦闘に対して傍観するだけでした。
一体何故ソ連軍は目と鼻の距離にいたにもかかわらずこの時に動かなかったのか。理由として挙げられているのは蜂起日の前日に当たる7月31日にドイツ軍の反撃を受け、大きな損害を受けて戦線を後退していたためというものがあります。実際にこの時のソ連軍は補給線が長く伸びきっており、他の周辺の東欧諸国での戦闘も影響して戦線の維持が難しい状態にあったなどと言われています。
もっともこのような理由は過分にソ連側の意向を組んだ主張であるとしか思えません。何故かというと実際には8月1日より大分前の時点でワルシャワ解放作戦の中止が決まっていたにもかかわらずラジオなどで蜂起を促す放送を続け、また市内のレジスタンスへ作戦中止の通達も行わず、事実上見殺しにしているからです。
どうしてソ連はこのような行動に出たのか。ソ連だからと言えばそれまでですが、大方の見解では戦後のポーランド支配を見据えてポーランド市内の国内軍を敢えて壊滅させることが目的だったと見られています。というのも国内軍を指導していたのはロンドンに拠点を置くポーランド亡命政府だったのでしたが、この亡命政府とは別にソ連はいつもの如くというか「ポーランド国民解放委員会」という傀儡政権を既に樹立しており、戦後のポーランド運営に当たってこの傀儡政権に主導権を取らせるため敢えてレジスタンスが潰されるよう蜂起を促したとされており、私もこの説が真実であろうと考えています。
このようなソ連の思惑を知ってか知らずか蜂起したポーランド市民は外部から何の支援も受けられないまま続々と増援の来るドイツ軍の反撃を受け、蜂起から約二ヶ月間に渡ってワルシャワでは徹底した破壊と虐殺が繰り返され、推定数は複数説ありますが約20万人もの市民が殺害されたと言われています。同時に生き残った市民約70万人も次の蜂起への警戒から市外へと追放されています。
この蜂起失敗から約三ヶ月後の1945年1月、満を持してソ連軍はワルシャワへの進撃を開始してこの都市を占領します。占領後にソ連軍はレジスタンス幹部の逮捕を行いました。
二次大戦はドイツのポーランドへの侵攻によって切り開かれましたが、この時ポーランドに侵攻したのはドイツだけではなくソ連も一緒でした。そのソ連は独ソ戦後に再びポーランドへ進撃しており、いわばポーランドは一度の戦争期間中に二度もソ連に侵略されたと言っても過言ではないでしょう。ちょっときわどい意見となるでしょうが正直に述べると、ソ連のポーランドへの仕打ちを考えると日本はこの大戦中、まだマシな方だったのではなどという気持ちがもたげてきます。
なおこのワルシャワ蜂起について、高校の世界史教科書、参考書にはまずもってこの事件は紹介されておらず、知っている人間となるとポーランド通か、東欧史を専門にしている人間か、二次大戦マニアかの三種類に絞られてくると思います。ただ以前というか私より上の世代はどうも違うようで、うちの親父は何故かこの事件を知っており、時代の差によって取り扱われるかが、知識が共有されるかが案外変わるのかもしれません。
では私は何故この事件を知ったのかですが、先ほどの三種類で言えば二番目に近く、東欧史に興味を持ってあれこれ調べている過程で知ることが出来ました。最初、私はポーランドの民主化過程で活躍したレフ・ヴァウェンサを調べていたのですが、彼の経歴を調べる過程でヴァウェンサの実質的な対立相手であり民主化以前に民主化勢力を弾圧する側の首相だった、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキに興味を持ち、彼の経歴を調べたことが一つのきっかけでした。
詳しくは彼のウィキペディアのページを是非読んでもらいたいのですが、彼はここで紹介しているワルシャワ蜂起時に親ソ連派のポーランド人軍団士官として、ワルシャワ市街にソ連軍と共に駐屯していました。彼のいたポーランド人軍団はソ連軍が傍観を決め込む中、単独で市外から市内の蜂起勢力へ補給物資を輸送するなど支援を行っていたものの、結局は破壊されるワルシャワをただ眺めることしかできなかったそうです。この時の気持ちをヤルゼルスキはソ連軍に対して涙ながらに悔しさを感じたと自伝にて書いており、こうした彼の経験が東欧の旧共産圏においてポーランドだけが唯一、無血で民主化に成功するきっかけの一つになったのかもといろいろなことを考えながら、2014年に亡くなったヤルゼルスキを偲びつつ思い浮かべました。
・ワルシャワ蜂起(Wikipedia)
ワルシャワというのは言うまでもなくポーランドの首都ですが、かつての二次大戦下のこの場所で三ヶ国の思惑が入り乱れた戦闘がありました。二次大戦の開始当初、ポーランドはドイツとソ連の密約によってこの二ヶ国から同時攻められ、そのすべての国土が占領される憂き目に遭いました。その後、今度はポーランドを攻めたドイツとソ連同士で戦争が起こり(独ソ戦)、序盤はドイツ軍がリードする形でソ連領内を深く攻め入ったもののスターリングラード戦に代表されるソ連のバグラチオン作戦によっては攻守は逆転し、1944年時にはソ連はドイツを自国領内から追い出した上で逆にドイツの占領地域へ攻勢をかけている状況でした。
ソ連軍は1944年夏にはポーランド東部へ進撃し、7月30日には首都のワルシャワまでわずか10kmの地点まで到達していました。このソ連の進撃に合わせてワルシャワ市内にいたポーランド人によるレジスタンス組織は国外に組織された亡命政府などを経由する形でソ連軍と連絡を取り、ソ連軍による市外からの攻撃に合わせて市内で蜂起し、ワルシャワから一挙にドイツ軍を叩きだす計画を持ち上げ、これを8月1日に実行することで確認し合いました。いわば内と外から攻める計画と言え、仮に実行できていればドイツ軍に大きな損害を与えワルシャワ解放の実現性も決して低くなかったでしょう。
結果から述べると、ワルシャワ市内の蜂起は実際に行われたもののワルシャワの解放はこの時には実現しませんでした。
8月1日、ワルシャワ市内のレジスタンスことワルシャワ国内軍はほとんど武器らしい武器も持たずにドイツ軍の宿舎や軍営を襲いかかったものの、正式装備されたドイツ軍駐留部隊に歯が立たずほぼすべての襲撃箇所で撃退されます。この時、市外からの攻撃支援を約束していたソ連軍は全く動かず、市内で行われている戦闘に対して傍観するだけでした。
一体何故ソ連軍は目と鼻の距離にいたにもかかわらずこの時に動かなかったのか。理由として挙げられているのは蜂起日の前日に当たる7月31日にドイツ軍の反撃を受け、大きな損害を受けて戦線を後退していたためというものがあります。実際にこの時のソ連軍は補給線が長く伸びきっており、他の周辺の東欧諸国での戦闘も影響して戦線の維持が難しい状態にあったなどと言われています。
もっともこのような理由は過分にソ連側の意向を組んだ主張であるとしか思えません。何故かというと実際には8月1日より大分前の時点でワルシャワ解放作戦の中止が決まっていたにもかかわらずラジオなどで蜂起を促す放送を続け、また市内のレジスタンスへ作戦中止の通達も行わず、事実上見殺しにしているからです。
どうしてソ連はこのような行動に出たのか。ソ連だからと言えばそれまでですが、大方の見解では戦後のポーランド支配を見据えてポーランド市内の国内軍を敢えて壊滅させることが目的だったと見られています。というのも国内軍を指導していたのはロンドンに拠点を置くポーランド亡命政府だったのでしたが、この亡命政府とは別にソ連はいつもの如くというか「ポーランド国民解放委員会」という傀儡政権を既に樹立しており、戦後のポーランド運営に当たってこの傀儡政権に主導権を取らせるため敢えてレジスタンスが潰されるよう蜂起を促したとされており、私もこの説が真実であろうと考えています。
このようなソ連の思惑を知ってか知らずか蜂起したポーランド市民は外部から何の支援も受けられないまま続々と増援の来るドイツ軍の反撃を受け、蜂起から約二ヶ月間に渡ってワルシャワでは徹底した破壊と虐殺が繰り返され、推定数は複数説ありますが約20万人もの市民が殺害されたと言われています。同時に生き残った市民約70万人も次の蜂起への警戒から市外へと追放されています。
この蜂起失敗から約三ヶ月後の1945年1月、満を持してソ連軍はワルシャワへの進撃を開始してこの都市を占領します。占領後にソ連軍はレジスタンス幹部の逮捕を行いました。
二次大戦はドイツのポーランドへの侵攻によって切り開かれましたが、この時ポーランドに侵攻したのはドイツだけではなくソ連も一緒でした。そのソ連は独ソ戦後に再びポーランドへ進撃しており、いわばポーランドは一度の戦争期間中に二度もソ連に侵略されたと言っても過言ではないでしょう。ちょっときわどい意見となるでしょうが正直に述べると、ソ連のポーランドへの仕打ちを考えると日本はこの大戦中、まだマシな方だったのではなどという気持ちがもたげてきます。
なおこのワルシャワ蜂起について、高校の世界史教科書、参考書にはまずもってこの事件は紹介されておらず、知っている人間となるとポーランド通か、東欧史を専門にしている人間か、二次大戦マニアかの三種類に絞られてくると思います。ただ以前というか私より上の世代はどうも違うようで、うちの親父は何故かこの事件を知っており、時代の差によって取り扱われるかが、知識が共有されるかが案外変わるのかもしれません。
では私は何故この事件を知ったのかですが、先ほどの三種類で言えば二番目に近く、東欧史に興味を持ってあれこれ調べている過程で知ることが出来ました。最初、私はポーランドの民主化過程で活躍したレフ・ヴァウェンサを調べていたのですが、彼の経歴を調べる過程でヴァウェンサの実質的な対立相手であり民主化以前に民主化勢力を弾圧する側の首相だった、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキに興味を持ち、彼の経歴を調べたことが一つのきっかけでした。
詳しくは彼のウィキペディアのページを是非読んでもらいたいのですが、彼はここで紹介しているワルシャワ蜂起時に親ソ連派のポーランド人軍団士官として、ワルシャワ市街にソ連軍と共に駐屯していました。彼のいたポーランド人軍団はソ連軍が傍観を決め込む中、単独で市外から市内の蜂起勢力へ補給物資を輸送するなど支援を行っていたものの、結局は破壊されるワルシャワをただ眺めることしかできなかったそうです。この時の気持ちをヤルゼルスキはソ連軍に対して涙ながらに悔しさを感じたと自伝にて書いており、こうした彼の経験が東欧の旧共産圏においてポーランドだけが唯一、無血で民主化に成功するきっかけの一つになったのかもといろいろなことを考えながら、2014年に亡くなったヤルゼルスキを偲びつつ思い浮かべました。
2015年4月2日木曜日
猫に好かれる政治家
ニュースの鮮度で言えばやや古いニュースですが、何度見ても衝撃的な映像なので記念に書き残しておきます。
上記のYoutubeの動画はテレビ東京の「週間ニュース新書」という番組の今年3月21日放送分です。この番組は政治や経済といったお堅いニュースを様々なゲストを呼んで解説する硬派な番組である一方、何故か収録スタジオ内に猫をフリーダムに離しており、多分この番組の視聴者はスタジオ内を動き回る猫を目当てに見ている人の方が多いのではと思うくらい一部でカオスな人気があります。
そんなこの番組のこの日のゲストは民主党の岡田代表だったのですが、この岡田代表に対して番組、というよりテレビ東京の看板猫の「にゃーにゃ」が不自然なくらいに懐いていました。どれくらい懐いていたのかは是非映像で見てもらいたいのですが、番組開始当初から岡田代表の膝の上にスタンバイしており、その後もずっと膝の上で毛づくろいしたり自分の爪舐めたりと非常にリラックスし続け、途中で真面目な話をするため膝の上から降ろされたのですが、降ろされたにゃーにゃはまたすぐ膝の上に飛び乗る始末。岡田代表もしょうがないからそのまま膝の上であやしながら語り続けていましたが正直な所、膝の上の猫が気になって語っている内容がほとんど耳に入ってきませんでした。
この「にゃーにゃ」は、先代の「まーご」もそうでしたがほとんど人見知りしない猫で、いつも出てくるゲストの周りをうろついたりすれば目の前の机を横切ることも日常茶飯事です。しかしゲストの膝の上に乗る、しかも降ろされてもまた乗り返してくるなんて今の今まで見たことがなく、岡田代表には明らかにほかのゲストとは一線を画す懐き方をしています。
私は番組の放映直後にネットの掲示板で騒がれているのを見てこの映像をしったのですが、その掲示板でもこの異常な懐き方に対して大きく議論されており中には、「きっとスーツにマタタビを仕込んでいたに違いない」、なんていう陰謀論まで出てくる始末でした。実際、私もこのマタタビ陰謀論を少し疑ったし。
こうした陰謀論はひとまず置いといてこの映像から言えることは、岡田代表は猫に好かれる政治家だということです。だからなんだと言われれば豆知識で終わってしまうし、猫じゃなくて人に好かれないと政治家は駄目なのですが、次の選挙時にでも池上彰氏がネタにでもしないかなとちょっと期待してます。
2015年3月30日月曜日
「KINGSOFTオフィス」の感想
・嫌われ者の俺が海外修学旅行のリーダーになったらクラスがほぼ全滅したwww(アルファルファモザイク)
本題とは全く関係ありませんが、上記のまとめ掲示板を読んで強い違和感を感じたのでその点を突いておこうと思います。上記の掲示板の中身は修学旅行で行った中国でクラスが様々なトラブルに遭い、その中には現地の中国人とも買い物でもめて警察沙汰になったと書かれてあります。ただそのトラブルの中で、「店員から『他殺』『自殺」』書かれた紙を渡されクラスメイトが切れる」ということがあったと書かれていますが、中国語における「自殺」と「他殺」という言葉は日本語と同じ意味なので少なくともケンカした相手に紙で書いて渡すなどということはまず有り得ないように思えます。
単純に「死ね!」という意味の中国語なら「去死」ですし、第一いくら相手が中国語通じないからって中国人はそんなのお構いなしに延々と中国語でまくしたててくると経験上思えますし、そのほかの体験談もちょいちょい違和感を覚えるのでこの掲示板を立てた人は相当話を盛っているのではないかと強く疑問に覚えます。
そんな個人的所感は置いといて本題に入りますが、昨日の記事で私は新規に購入したエプソンのノートPC「Endeavor NY2400S」についてレビューを書きました。このパソコンは会社での仕事用に購入したもので、仕事に使うのであればもちろんWordやExcelといったOfficeのソフトも必要です。しかしOfficeソフトを購入するとなると2万円は料金が上乗せされるため、なるべくなら避けたいと考えていました。そこで代替策はないかとあれこれ練った所、行き当たったのが下記のソフトでした。
・「KINGSOFTオフィス」紹介ページ
言うまでもなくMicrosoft社のOfficeは業務用ソフトとして一種インフラのような役割を果たしており、電子データ上で各種の書類や計算表などを使う場合はほぼ必須とも言えるソフトです。そんなOffice系ソフトに対して世の中には「Office互換ソフト」というものがあり、Office系のソフトを通常通りに開いて閲覧、編集できるソフトを一部のメーカーが製作、販売しております。このキングソフトオフィスもその一つで、聞くところによれば日本産のOffice互換ソフトとしてそこそこの知名度とシェアを持っているそうです。
それでこのキングソフトオフィスはどんなソフトかですが、言ってしまえば安い値段でMicrosoftのOffice系ソフトが使えるようになれるソフトです。収録しているのはWordとExcel、Power pointの互換ソフトで、購入するバージョンによってマクロが使えるか否か、パワポ互換ソフトが入っているか否かが変わってきますがすべてコミコミにしても6,480円(税込)なのでOfficeの代金と比べるとかなり割安です。ちなみに私が購入したのはこの最上級グレードですが、パワポを使わずマクロも使えないという人が個人用PCに買うのであれば一番安いグレードの3,980円のバージョンでも十分かと思われます。
一にも二にも安さ、といったらちょっと言いすぎかもしれませんが、正直に言ってこの値段設定は非常にありがたいものがありました。購入前は実際に使えるかどうかがわからなかったものの、この値段であれば駄目なら駄目であきらめ切れるだろうと考えられたのも購入を決断する要因になっています。さすがに一万円越して駄目だったらハートに来る。
そんなこんだでオンラインの決済で購入したところ、まさに決済したすぐ直後にソフトを使うためのプロダクトコードがメールで送られてきました。このキングソフトオフィスはいつでもホームページからソフトをダウンロードすることが出来、インストール前にプロダクトコードを入力することで使用できるようになるため、このようにすぐコードを送ってもらると購入して即日使えるのでなかなか便利です。
というわけで今度はソフトをダウンロードしようとサイトのダウンロードボタンを押しましたが、Officeの互換ソフトだから容量はそこそこ行くだろうな、ダウンロード時間長いだろうななんて予想していたところ、ダウンロード量はわずか110メガだったので実際にはあっという間のダウンロードでした。でもってインストールもあっという間で、「やべぇOfficeが急に使えなくなった!」みたいな展開になっても、多分一時間以内にこのキングソフトオフィスを代替として使うことも不可能じゃない気がします。
では実際の使用はどうか。結論から言うと非常によく出来ており、全く違和感なく従来のOffice系ソフトのようにして編集作業を行うことが出来ます。もちろん以前に保存したOffice系ファイルも問題なく開けますし、逆にキングソフトオフィスで編集したデータを他人に送りつけても向こうは向こうでちゃんとOffice系ファイルとして認識して業務上に全く支障がありません。
まだマクロに関してはそんなに弄ってはいませんが、Excelでの自動計算や数式もきちんと機能しており、ちょっと持ち上げ過ぎな気もしますがこの値段でこの性能は破格といってもよく、もう少し高い値段を払ってやっても良かったなとすら思える出来です。さらに買ったばかりのためまだ私は未体験ですが今後もアップグレードがあれば無料で対応してくれるとのことで、これは大手を振ってほかの人にも勧められるソフトだと思えるだけにこのブログでも紹介しようと思う充実ぶりです。
総評として、非常に買いなソフトです。操作インターフェースも現在のOffice2013に合わせた画面とそれ以前の2010くらいの画面、二種類を自由に選ぶことが出来て、いまいち新しいOfficeになれない方にとってもかえって使いやすい仕様になっています。今後も新しいPCを買うことがあればこのソフトを使い続けようと思える逸品なので、Officeの購入で迷われている方はぜひ試してみてください(無料体験版もあり)。
本題とは全く関係ありませんが、上記のまとめ掲示板を読んで強い違和感を感じたのでその点を突いておこうと思います。上記の掲示板の中身は修学旅行で行った中国でクラスが様々なトラブルに遭い、その中には現地の中国人とも買い物でもめて警察沙汰になったと書かれてあります。ただそのトラブルの中で、「店員から『他殺』『自殺」』書かれた紙を渡されクラスメイトが切れる」ということがあったと書かれていますが、中国語における「自殺」と「他殺」という言葉は日本語と同じ意味なので少なくともケンカした相手に紙で書いて渡すなどということはまず有り得ないように思えます。
単純に「死ね!」という意味の中国語なら「去死」ですし、第一いくら相手が中国語通じないからって中国人はそんなのお構いなしに延々と中国語でまくしたててくると経験上思えますし、そのほかの体験談もちょいちょい違和感を覚えるのでこの掲示板を立てた人は相当話を盛っているのではないかと強く疑問に覚えます。
そんな個人的所感は置いといて本題に入りますが、昨日の記事で私は新規に購入したエプソンのノートPC「Endeavor NY2400S」についてレビューを書きました。このパソコンは会社での仕事用に購入したもので、仕事に使うのであればもちろんWordやExcelといったOfficeのソフトも必要です。しかしOfficeソフトを購入するとなると2万円は料金が上乗せされるため、なるべくなら避けたいと考えていました。そこで代替策はないかとあれこれ練った所、行き当たったのが下記のソフトでした。
・「KINGSOFTオフィス」紹介ページ
言うまでもなくMicrosoft社のOfficeは業務用ソフトとして一種インフラのような役割を果たしており、電子データ上で各種の書類や計算表などを使う場合はほぼ必須とも言えるソフトです。そんなOffice系ソフトに対して世の中には「Office互換ソフト」というものがあり、Office系のソフトを通常通りに開いて閲覧、編集できるソフトを一部のメーカーが製作、販売しております。このキングソフトオフィスもその一つで、聞くところによれば日本産のOffice互換ソフトとしてそこそこの知名度とシェアを持っているそうです。
それでこのキングソフトオフィスはどんなソフトかですが、言ってしまえば安い値段でMicrosoftのOffice系ソフトが使えるようになれるソフトです。収録しているのはWordとExcel、Power pointの互換ソフトで、購入するバージョンによってマクロが使えるか否か、パワポ互換ソフトが入っているか否かが変わってきますがすべてコミコミにしても6,480円(税込)なのでOfficeの代金と比べるとかなり割安です。ちなみに私が購入したのはこの最上級グレードですが、パワポを使わずマクロも使えないという人が個人用PCに買うのであれば一番安いグレードの3,980円のバージョンでも十分かと思われます。
一にも二にも安さ、といったらちょっと言いすぎかもしれませんが、正直に言ってこの値段設定は非常にありがたいものがありました。購入前は実際に使えるかどうかがわからなかったものの、この値段であれば駄目なら駄目であきらめ切れるだろうと考えられたのも購入を決断する要因になっています。さすがに一万円越して駄目だったらハートに来る。
そんなこんだでオンラインの決済で購入したところ、まさに決済したすぐ直後にソフトを使うためのプロダクトコードがメールで送られてきました。このキングソフトオフィスはいつでもホームページからソフトをダウンロードすることが出来、インストール前にプロダクトコードを入力することで使用できるようになるため、このようにすぐコードを送ってもらると購入して即日使えるのでなかなか便利です。
というわけで今度はソフトをダウンロードしようとサイトのダウンロードボタンを押しましたが、Officeの互換ソフトだから容量はそこそこ行くだろうな、ダウンロード時間長いだろうななんて予想していたところ、ダウンロード量はわずか110メガだったので実際にはあっという間のダウンロードでした。でもってインストールもあっという間で、「やべぇOfficeが急に使えなくなった!」みたいな展開になっても、多分一時間以内にこのキングソフトオフィスを代替として使うことも不可能じゃない気がします。
では実際の使用はどうか。結論から言うと非常によく出来ており、全く違和感なく従来のOffice系ソフトのようにして編集作業を行うことが出来ます。もちろん以前に保存したOffice系ファイルも問題なく開けますし、逆にキングソフトオフィスで編集したデータを他人に送りつけても向こうは向こうでちゃんとOffice系ファイルとして認識して業務上に全く支障がありません。
まだマクロに関してはそんなに弄ってはいませんが、Excelでの自動計算や数式もきちんと機能しており、ちょっと持ち上げ過ぎな気もしますがこの値段でこの性能は破格といってもよく、もう少し高い値段を払ってやっても良かったなとすら思える出来です。さらに買ったばかりのためまだ私は未体験ですが今後もアップグレードがあれば無料で対応してくれるとのことで、これは大手を振ってほかの人にも勧められるソフトだと思えるだけにこのブログでも紹介しようと思う充実ぶりです。
総評として、非常に買いなソフトです。操作インターフェースも現在のOffice2013に合わせた画面とそれ以前の2010くらいの画面、二種類を自由に選ぶことが出来て、いまいち新しいOfficeになれない方にとってもかえって使いやすい仕様になっています。今後も新しいPCを買うことがあればこのソフトを使い続けようと思える逸品なので、Officeの購入で迷われている方はぜひ試してみてください(無料体験版もあり)。
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