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2008年9月22日月曜日

文化大革命とは~その五、毛沢東思想~

 今回は本筋の話から少し外れて毛沢東思想、通称マオイズムについて解説しようと思います。本当はこの辺りの解説は最後まで連載を終わらせてから追記のような形で書こうと思っていたのですが、これから本格的に文化大革命の経過について解説するにはやはり最初に説明していたほうがよいだろうと判断し、こうして書くことを決めました。

 最初に言っておきますが、私はこの毛沢東思想については専門的に勉強したことはありません。毛沢東語録も読んだことはありませんし、何かしら取り上げる授業すら受けたこともありません。いいわけじみたことを言いますが、恐らく日本で毛沢東思想の教育なんてする場所なんてまずありませんし、解説する人も少ないと思います。そんなのしてたら変な人みたいに思われるし。
 なので、今回書く話は正当な解釈ではなくあくまで私の解釈と前提してください。私が聞く限り、理解する限りの毛沢東思想なので、くれぐれも他人にこの情報を分ける場合は最初に今の注意を行ってから伝えてください。それなら最初からいい加減なことを書かなければいいじゃないかという人もおられるかもしれませんが、自分の理解を確かめる、まとめるという意味で本音では書いてみたいというのが素直な気持ちなので、どうかご勘弁ください。

 さてそれでは早速本解説に移りますが、まず基本的に毛沢東は反骨の士でした。これはどの評論家からも、この文革の時代を生きた人間の目にも共通した認識です。とにかく何かあったら何でもいいから反抗したい、まるで反抗期の中学生がそのまま大人になったような人間でした。

 特に彼が生涯強く反抗し続けた代表的な対象というのが、知識人でした。これは彼の学歴コンプレックスが影響しているといわれており、なんか今詳しく確認できないのですが、毛沢東は若い頃に北京にて滞在した際にどうもどっかの大学(確か北京大学)の入学試験の面接に受からなかったそうなのです。かといって全く勉強ができなかったというわけではなく、読書量や詩の創作技術では歴代中国君主の中でもトップクラスと、「中国の大盗賊」という本の著者で中国研究家の高島俊夫氏は評しております。
 できたばかりの中国共産党に入党した後も、当初の指導部はソ連からの留学帰国組によって幹部席が占められたのを恨めしく思ってたらしく、抗日戦争の最中に自分が主導権を握ってくると、最終的に周恩来を除いて留学組をほぼすべて指導部から追い出しております。ちなみに周恩来は言い方は悪いですが、毎回絶妙のところで味方を裏切り毛沢東に従っております。だから長生きしたんだけどね。

 このように、毛沢東は徹底的に知識人を否定し、それが毛沢東思想の大綱となっている「実事求是」につながっています。この実事求是というのは、「現実から理論を作れ」という意味で、机上で理論を組み立てても現実には適用できない理論が出来上がるので、それよりも実際に自ら農場や工場で働いて物事の実感を積んで正しい理論を作るべきだという主張で、大学等にいる知識人は手を動かさないで労働者をこき使っているから悪だと、文革時に効力を発揮した大綱です。

 私の解釈だと、毛沢東は個人的な感情で知識人の締め出しを行ったのでしょうが、この主張を正当化した言い訳というのはいくつかあり、まず一つは先ほども言ったとおりに手を動かさずに頭だけ働かすというのは現実から乖離した理論を作ってしまい誤りを犯すというもので、もう一つがこの次に説明する永久革命の必要性からだと考えています。

 この「永久革命」という考え方が、ある意味毛沢東思想の最も危険な箇所です。毛沢東は生前にも前漢の劉邦や明の朱元璋といった、一農民という出身から才気一つで中国を支配した君主を誉めそやしており、世の中というのは常に古い既成概念に対して新しい改革的思想が打ち破ることによって徐々によくなるというようなことを主張していました。この概念を応用し毛沢東は、知識人というのは基本的に既成概念を守る保守主義者であって、新たな時代を作るのはかえって古い既成概念に染まっていない無学の意欲ある徒、つまり農民であると説明したのです。なので、劉邦や朱元璋が天下を取ったのは自明であるとまで説いたのです。

 この考え方を毛沢東はさらにさらに援用し、共産主義思想では労働者VS資本家という二項対立の構図で物をすべて考えますが、これを農民VS知識人にすげ替え、労働者が資本家を打ち倒すことで理想の共産社会(ユートピア)が達成されるという理論を先ほどの劉邦、朱元璋の例を持ち出してやはり正しいのだと証明された……的なことを言っているのだと私は思います。正直、この辺は書いてて結構きわどいのですけど。

 なので、世の中というのはザリガニの脱皮みたく農民(労働者)による革命を繰り返すごとにどんどんよくなるという、「永久革命」を維持することが社会の発展につながると主張したのです。通常の共産主義思想でも確かに「労働者による社会主義革命」の必要性が強く叫ばれていますが、基本的に革命が成功した後はもうそれで万々歳、後は他の国へも革命を支援せよ言っているくらいで、「革命で作ったものをまた新たな革命でぶっ潰せ!」みたいなこの毛沢東思想ほど過激ではありません。

 こうして自分で書いててなんですけど、一見、筋は通っているように見えないこともありません。とまぁこんな具合に毛沢東は教育をあまり受けていない農民や中高生のやろうとしていること、考えていることの方が下手な知識人、果てには既に教育を受けてしまった大人より正しいのだと後押ししたのです。その結果が、次に詳しく説明する紅衛兵などの悲劇歴史を生んでしまうのです。ちなみにこういった考えは、今のフランスの教育制度における積極的自由論にもなんだか近い気がします。シュルレアリスムとでも言うべきか。

 ここで終わるとまるで毛沢東思想の礼賛者っぽくみられそうなので最後にケチをいくつかつけておきますが、私に言わせると毛沢東の思想の最大の欠陥は劉邦と朱元璋を過大に見たという点にあると思います。朱元璋はあまり詳しくありませんが、劉邦の場合は確かに彼自身は特に教育を受けたわけじゃなく無学でありましたが、彼の傍には軍師の張良や策士家と呼ばれた陳平、そして国士無双と謳われた韓信が控えておりました。また三国時代の劉備もまた農民出身ではありましたが、諸葛亮や法正といった知識人を保護し、活用しております。このように、知識人というのは確かにそれだけだと古今東西の官僚制度のように腐敗する恐れもありますが、全くいないというのもまた問題なのです。この知識人の軽視がこの思想の欠陥、ひいては文化大革命やカンボジアのポルポト派による虐殺という悲劇を引き起こしてしまったのだと、私は解釈しております。

 さて、次回からいよいよ文革の本番だ(*゚∀゚)=3

2008年9月21日日曜日

海外放送局の新規参入について

 この記事は一つ前の記事の続きです。まだ読んでいない方はそちらを読んでからこっちをお読みください。

 さて前回の記事の最後に、実は日本の放送業界への新規参入を一番ねらっているのはインターネット会社ではなく、アメリカの放送局ではないかと私は主張しました。その理由というのも、IT会社の放送局買収事件のバックに、常にアメリカさんが控えていらっしゃるからです。

 ソフトバンクの孫正義氏がテレビ朝日を買収しようとした時はアメリカのメディア王であるルパード・マードックと一緒でしたし、ホリエモンがニッポン放送を買収しようとした時は……なんていうか、今こうして記事を書いていてすごい皮肉を感じるのですが、株式の買占めを行った際の資金をライブドアに提供したのは今は亡きリーマン・ブラザーズ社でした。楽天のTBS株買占めは詳しく知りませんけど、前の二社の場合にはアメリカの会社が放送局の買収を応援しているという構図がはっきり見えます。

 ここではっきり言いますが、日本のコンテンツ産業というのは実はそれほど強くないと言われています。というのも前回の記事でも書いたようにケーブルテレビ局がアメリカのテレビドラマを放送した際は非常に加入者が増え、過去にも「Xファイル」が地上波で放送された際は高い視聴率を記録しています。これは私の勝手な想像ですが、アメリカの放送局としては日本でも自分らの番組を放送すれば、結構もうかるんじゃないのとか思っているんだと思います。日本の放送局側としてもそんなことは百も承知なので、可能な限り連中を締め出そうとしていたのかもしれません。
 今ですらNHKの大リーグ中継はあの時間帯の割にそこそこ視聴率が取れたりするので、もしアメリカの放送局が日本の地上波で大リーグの全試合とか自前のドラマをバンバン流したら、日本のテレビ局は本当に終わってしまうかもしれません。だからこそ、ソフトバンクやライブドアを彼らは応援したのだと私は思います。

 そこで地デジ化以降の新規参入の話です。それこそもしチャンネル数の増加とともに海外の放送局が日本に入ってきたら、まぁいろんな意味で日本のテレビ界は完璧に駄目になるでしょうね。もし入ってこないとしても今ですら減収の一途ですから、どちらにしろ何もしなければ駄目になるでしょうけど。

 ちょっと本筋の話から脱線しますが、私は日本のテレビ会社が潰れてくれたら手を叩いて喜びます。というのも彼らの中間搾取ほどひどいものはないからです。
 大半のテレビ番組はテレビ会社とは別の、テレビ製作会社がテレビ局から受注して作っています。テレビ局はそうして製作会社が作った番組にCMを入れるだけで、あれだけの収入をもらっています。そして製作会社というのは実際にはほとんど予算を与えてもらえず、自分たちの給料すらままならないまま働いているそうです。
 こういうのは最近になってからの話かなと今まで思ってたんですが、昔に製作会社にいた今は芸能人やっているテリー伊藤氏の話によると、彼の時代でも給料が三ヶ月も遅配があったと言っていました。

 テレビ局は何もせずに大量の収入を得て、実際に作っている製作会社は飲まず食わずで働いている。こんなことをやっているテレビ会社が潰れたところで私は同情する気にもなりませんし、いっそ買収されて生まれ変われとすら思います。まぁアメリカでも状況は同じらしいけど。

またテレビ業界についてあれこれ

 以前に書いたテレビ業界についての記事(テレビを守る規制)にていくつか質問を受けたので、今回はそれに答える形で私の私見をいくつか述べさせてもらいます。

 まず、2011年以後に実施される知デジ化以降に新たにテレビ局の新規参入、放送権の許可はありうるのかという質問ですが、前回の記事でも書いたように、私個人の見方だと最大の後ろ盾であった郵政族が自民党から片っ端から追い出された今だとありうるんじゃないかと思います。地デジ化するとチャンネル数は飛躍的に増え、現状でも一つの放送局が複数のチャンネルを流しているくらいですし、どっちにしろ視聴率のパイは減るので前ほど頑なに規制で守るなんて事はしないんじゃないかと思います。

 もっともこれは私の主観なので、実際には地デジ化した後もこれまで通りにぎっしり守られる可能性のほうが現状では高い気がします。もっとも、守るべき放送局のほうが先にパンクしそうなんだけど。
 というのも、タダでさえ視聴率が落ちてどの放送局も収入が減っている現状で、地デジ移行に対応するために今、すべての放送局でデジタル放送のための設備投資に非常にお金がかかっています。これは二年前の情報ですが関西の毎日放送なんて比叡山の上に放送装置を持っているもんだから工事費用をどこから捻出するんだとえらく頭を抱えているという話を聞いております。同様に地方テレビ局はほぼすべてそのような設備投資費用を持っておらず、地デジかすると事実上廃業するとまで言われております。

 そうして既存のテレビ局が潰れていくので、チャンネル合わせに新規参入もあるんじゃないかなぁというのが私の予想ですが、その場合質問では「アクトビラ」、これはソニーなどの複数の会社でやっているインターネットなどを利用した番組配信サービスらしいですが、こういったIT系のコンテンツ会社が参入するのかと聞かれましたが、私自身このアクトビラなどに詳しくなく(名前すら聞いたことがなかった)、あまりよくわからないというのが正直な感想です。

 ただコンテンツを持つメディア会社で言うとやっぱり勢いがあるのはインターネット会社ですし、新規参入があるとしたらこういったところのような気もします。というのも、今漫画業界などもそうですが、大衆のニーズは個人個人ばらばらで、好きなものだけを見たいという人が非常に増えており、動画コンテンツではニコニコ動画やYouTubeなどの利用者が増えており、将来的には見たい番組を指定して配信を受けるというような視聴形態に移っていくのかと思い、そうなるとしたらインターネット会社化という風になるからです。

 しかしそう思う一方、すでにUSENがネット上で「GYAO」という無料番組配信サービスをやってますが、始めた当初は多少話題になったものの、その後はこれという話題も聞かず、今でもやっているのかわからない状態です。前述のニコニコ動画もこの前広告収入で伸び悩んでいるというニュースがありましたし、ネット配信だと簡単にコピーされてしまうという弱点もあるので、なかなか頭の痛いところです。結論から言っちゃうと、これまでみたいなコンテンツ産業はなりたたないという風になっちゃうのかな。

 こういった新規参入についてともう一つ、ケーブルテレビ界についても質問を受けましたが、これについてはいくつか思うところが前からありました。もともとケーブルテレビというのは電波が届かない地域にも番組を提供できるようにと始められたものだったのですが、いつのまにかケーブルテレビ会社が独自に海外ドラマなどをバンバン流すようになり、かえって都市部でばかり加入者が増えて設備が整えられる一方、地方はほったらかしになるという本末転倒な状況になりました。

 しかし最近のケーブルテレビ業界はというと、どうも噂などで聞くと加入者数が伸び悩んでいるそうです。実際に4、5年なんかは前述の海外ドラマの独占放送などですごい話題になったりしましたが、その後は全く話は聞きません。まぁ実際、一過性のような気はしてたけどね。

 ただこの一時のケーブルテレビの流行は海外ドラマの放送にあるのが個人的には気になりました。というのも、話せば長くなるので記事を分割しますが、日本のテレビ業界へ最も新規参入を従っているのは実はアメリカなんじゃないかと私が疑っているからです。続きは次回に。

2008年9月20日土曜日

文化大革命とは~その四、始まり~

 前回では毛沢東が一時政治的に失脚するところまで解説しました。失脚後、毛沢東は南方で趣味の釣りにいそしんでいると言われ、毛沢東のかわりに実権を握った劉少奇と鄧小平が実質的に中国の指導者となりました。彼らちゃんとやり方のわかっている指導者の行政手腕により、大飢饉によって混乱した中国経済は徐々にではありますが立て直されていきました。

 しかしそうして経済が立て直っていく一方、ある言論がまことしやかに全土で語られるようになってきました。その言論というのも、「今の共産党指導部は修正主義者たちに乗っ取られている」という、今見ても不穏当な言論でした。
 この時期、ソ連はスターリンからフルシチョフの時代を経て、中国との蜜月関係も終わりを告げていました。中国共産党はこのフルシチョフによるソ連の第一次デタント(雪解け)といわれる、西側国家との協調路線を打ち出す外交政策を共産主義の精神を根幹から覆す愚挙だとして「走資派」や「修正主義者」と呼んで激しく非難しました。

 恐らく当時の考え方としては、共産主義国家の建設は非常に困難が伴うものであるため、この困難から抜け出すためとか、自分だけいい思いをしようと安易に資本主義に走る卑怯な輩がいるという具合で憎悪をたぎらせたのだと思います。この「修正主義者」という言葉が、1960年代の中国の流行語であったのは間違いないでしょう。

 当時、中国に流布したのはこうしたソ連の輩のような裏切り者が中国共産党内部、それもかなりの上位階級に潜りこんでいるという言質でした。彼ら修正主義者は謀略をめぐらし、偉大なる指導者である毛沢東を追放したのだ、と毛沢東の政治失脚は彼らに原因があるというような言葉が共産党の機関紙である「人民日報」などのメディアで激しく展開されていきました。
 もちろん劉少奇を初めとする指導部はそんなはずはないと否定しつつ、このようなデマがどこから出ているのかなどと調べたそうですが、一向に確たる根源が見つからずにいました。元ネタを一気に明らかにすると、このような言論を広めたのは毛沢東の指示で動いていた彼の腹心たちで、後に四人組と呼ばれる幹部たちでした。皮肉なことに、内からの敵に当時の指導部は気づかなかったのです。

 こうした言論を一番真に受けたのは当時の大学生たちでした。北京大学では壁新聞が張られて公然と指導部が批判され、精華大学では孤立無援の毛沢東閣下を救えとばかりに、後に中国全土で猛威を奮い、この文化大革命の代名詞となる「紅衛兵」という、青年たちによる私兵団が全国で初めて組織されました。
 
 こうした中、これは出所が明らかでなくちょっと確証に欠けるどこかで聞いた話ですが、何でも劉少奇らが北京にてこうした動きに対し、自分たちは決して修正主義者ではないということを説明する一般人を交えた会合を開いて弁舌をしている最中に、なんとその場に南方にいるはずの毛沢東が予告なしで突然現れたそうです。このような演出はこれだけでなく、これは陳凱歌の「私の紅衛兵時代」で書かれていますが、北京四中での会合の際も、毛沢東は劉少奇が弁舌を終えていないにもかかわらず突然壇上に出てきたそうです。そうなってしまうと観衆は大喝采してしまいますので、まだ弁舌を終えていない劉少奇はどうすることもなく、かといってそそくさと壇から降りるわけにも行かなくなり、このように毛沢東は相手を追いつめる演出が非常にうまかったと陳凱歌は評しています。

 そのうち毛沢東も公然と、「共産党の指導部内に裏切り者がいる」と主張するようになり、先ほどの紅衛兵という少年少女らで組織される私兵団も毛沢東の応援を受けて各学校ごとに作られて増加の一途を辿り、自体は徐々に深刻化していきました。

 今回はちょっと短いですが、ここで終わりです。なぜなら書いててそろそろ、毛沢東思想の解説を始めないとまずいなと思い始めたからです。私なども全然毛沢東思想を勉強していませんが、多少なりともこの思想の骨組みがなければこの文化大革命はただの騒動で終わってしまうので、次の回ではつたないながらも毛沢東思想をやります。せっかく話が盛り上がってきたところなんだけど。

2008年9月19日金曜日

中国粉ミルク問題についてのおまけ情報

 報道によると、何でも中国にて人体にとって有害なメラミンが含まれた粉ミルクが大量に流通し、それを服用した幼児が死亡したりするなど大きな問題になっているようです。なんていうかこういうニュースを見ると日本の事故米なんて問題なんてどうでもよくなるくらい大きな食中毒事件が頻発する中国ですが、こういうニュースは報道するくせに、何でアレにはノータッチなんだろうといつも思うことがあります。

 これは最近解説ばっかでめっきり少なくなった私オリジナルの情報ですが、私が中国に留学中、いつものようにスーパーを歩いていた時でした。私は当時スーパーでよく買っていたのは、まずは朝食用の食パンです。何故だかプレーンな味にこだわろうとして滞在中は常にバターもジャムも何もつけずに食べていました。次に飲料。向こうは一年を通して日本より乾燥しているので、とにかくよくのどが渇くので大きいサイズのペットボトルの水をよく買いました。そして、夜に楽しむためのお菓子。いろいろありますがどれも中国テイストで一部の味が濃いものばかりなので、無難に万国共通の味であるプリッツが多かったのですが、留学の後半は飲むヨーグルトもよく買ってました。

 そんな具合にいつものようにスーパーをまわっている時、ちょうど今問題になっている粉ミルクなど何かに溶かして飲むような栄養剤や粉末状の食品を回っているコーナーで、それを見つけました。

Σ (゚Д゚;)<肉骨粉!?

 そう、例のBSEの発端となったアレです。なんかの見間違いなんじゃないかと思ったり、中国語の意味と日本語の意味が違うのじゃないかといろいろパッケージを見てみましたが、表面にはもろに牛の絵が描かれているし、裏面にはきちんと牛のホルモンなどを粉末状にしたものだと説明され、水に溶かして飲む滋養強壮剤として売られていることがきちんと書かれてました。
 さすがに、イギリスのように狂牛病となった牛とか使ってないよなとか考えましたが、中国にそんなことを期待するのが間違っていると、すぐに考えを改めました。
 
 狂牛病というのは、アスベストを原因とする肺気腫のようにすぐさま症候がでる病気ではありません。なので後十何年もしたら、中国でなにかしら問題が明らかになってくるかもしれません。もちろん、当時の私の中国語が未熟で読み間違っているとか、安全な牛が使われたものだと信じたいのですが……。

太田農水相辞任について

 帰宅が遅い日に限って、あれこれ書く話題が多いというのも因果なものです。しかし今日は私が今最も熱中して読んでいる「ノノノノ」の単行本三巻が発売されて、先ほど読み終わったところで非常に気合が入っているので、調子よくバンバン書いていけそうです。昨日なんか結構難しい話題とはいえ、非常に表現が悪かったし……。

 それで早速本題です。いちいちリンクを貼るまでもないのでこのまま解説に入りますが、本日太田誠一現農水大臣が辞任を発表しました。辞任理由は自己米問題で消費者を混乱させたためと述べていますが、結論から言うと私は絶対にこいつの辞任を認めません。

 既にいくつかの解説でも書かれていますが、今回辞任したのは明らかに世間の批判から自分の身を守るためでしょう。事故米問題が起こり、保身のために農水省が行った流通業者リストを公開によってで批判から身をかわすどころか逆批判が起こり、恐らくその反応を見て怖くなって辞任したというのが本音でしょう。福田首相が辞任して事実上内閣が機能していない現在、この段階で職務放棄するなんて呆れて物が言えません。また農水省の不手際の責任を取っての辞任といっておきながら、その同じ会見で農水省の役人は頑張って働いているなどと彼らを弁護するあべこべの発言もしており、それだけ頑張りを認めているのなら貴様もしっかりと働けと言いたいものです。

 自民党にとっても、この辞任は毒薬のように悪影響を強く残すでしょう。せっかく総裁選が盛り上がって福田首相の突然の辞任の悪いイメージが払拭してきたこの中でまた問題を起こしての辞任ですから、もし十月に総選挙が行われるとしたら今回のニュースも必ず影響してくるでしょう。

 物事の責任の取り方というのはその状況次第にあると思います。たとえば大きな失敗をしてしまい、その失敗を取り返すのに他によい人材がいるなかでその人材に後を任せるというのは正しい責任の取り方です。しかし大きな問題が起こり、自分は知らないよとばかりにすぐさま身を隠すのは責任を取るのではなくただの逃避です。今回の太田農水相の行動は後者です。絶対にやめること認めず、世間の批判を存分に受けるくらいの仕事は無能でもできるんですから、しっかりとお役目を果たすべきでしょう。

2008年9月18日木曜日

文化大革命とは~その三、革命前夜~

 文化大革命についての三回目の連載です。そろそろ書いててしんどくなってくるところです。
 さて今回は文化大革命が起こる前の、中国が置かれていた状況について解説します。

 まず第二次大戦後、現中国を支配している中国共産党と現在台湾を支配している国民党との間で戦闘が始まりました。当初は双方共同で国を治めようという話もあったのですが、もともと戦闘しあっていた者同士で、目下の敵の日本軍がいなくなるやすぐさま内戦を始めました。因みに、その際の戦闘に使われた兵器の大半は日本軍が置いていった兵器だったようです。北京にある軍事博物館によると、中国で初の戦車は日本軍からの分捕り品だったくらいですし。

 そうして戦い合う中、恐らく組織戦としては相当早い段階でゲリラ戦を確立した共産党の人民解放軍が徐々に勝利していき、最終的に国民党を台湾へ追い出して1949年に現在の中華人民共和国が成立します。戦争に勝利後、文化大革命の主役である毛沢東は天安門広場にて「中華人民共和国、成立了!」と宣言して、この時を持って正式にこの国は建国されたとされます。 
 もっとも建国直後に朝鮮戦争が勃発し、当初はソ連一辺倒ではなくアメリカとも交流を続けようと考えていた指導部は悩んだ末に北朝鮮に味方してアメリカと袂を分かつ羽目になるなど、いろいろと困難もありましたが、当初は共産党内部の高い士気とともにそこそこうまくやっていきました。この歯車がおかしくなり始めるのは1950年代の後半からです。

 この時期から中国はソ連の「五ヵ年計画」を真似た、あの悪名高き「大躍進政策」を行い始めます。これはその名の通り、数年の期間内に農業や工業の分野で一気に先進国に追いつくという国家政策のことです。ソ連の五ヵ年計画も内実は結構ひどかったらしいですが、一応は工業面で大幅な前進が見られて二次大戦でドイツと戦うだけの土台ができたのに対して、中国のこの大躍進政策は破壊と荒廃しかもたらしませんでした。
 ソ連では「コルホーズ」といって、農民を一箇所に集めて強制的に作業をさせる集団農場を作りましたが、それに対して中国では「人民公社」といって、事実上個人の自由を奪う集団体制へと国を整えていきました。

 この大躍進政策の中で工業政策では鉄鋼の生産量でイギリスを追い抜くという目標があったのですが、各地域の責任者には目標生産高の達成が義務付けられたため、実際には鉄を作ろうにも鉄鉱石が不足するもんだから、片っ端からまだ使える鉄製の農具などを溶かして粗鋼を作っていき、確かにイギリスの鉄鋼生産量を追い抜いたものの、その作られた鉄のほとんどは役に立たないくず鉄ばかりだったそうです。更に鉄の精製技術も低いものだから延々と土方高炉という、原始的な精製方法でその燃料として木材を燃やし続けたため、今に至る中国の水不足、環境破壊という問題を作る羽目となりました。

 農業政策でも、なんと言うか今の北朝鮮のように明らかに農業について知識がないにもかかわらず、素人の浅知恵のような政策が強行されてしまった例があります。最も有名なのは雀の駆除で、雀は稲穂をついばむから害鳥だといって毛沢東の指示の元、中国全土で一大雀駆除キャンペーンがこの時期に行われました。これなんか私も中国の博物館で見たことがあるのですが、雀を驚かしたり追い詰めたりするわけのわからない器具が全国に配られ、結果的に雀の大幅な駆除に成功するのですが、その代わりに雀が食べていた害虫が異常繁殖してしまい、収穫期になるとすべての作物が大不作になるという事態を引き起こしてしまいました。

 一説によると、この時の大飢饉で数千万の人間が餓死したと言われています。昔読んだ記事によると、誰だか名前を忘れましたが、確か李鵬だったけな、子供の頃は夢の中で満腹になるまでものを食べては目を覚ますという事がこの時期何度もあったと言ってました。
 「ワイルドスワン」の作者によると、当時の人間でもこの大飢饉が天災によるものではなく、明らかに人災によるものだとわかっていたそうです。それでも共産党政権の転覆、そこまでいかなくとも民衆の反乱が起こらなかったのは先ほどの作者によると、この飢饉の時期には共産党員も一般民衆同様に飢えていたからだと分析しています。

 なんでも、国民党がブイブイ言わせていた時代は飢饉だろうと何だろうと、国民党の人間は毎日大量のご馳走を食べて贅沢な暮らしをしていたそうです。それに対してこの時期の共産党は先ほども言ったとおりに士気は高かったらしく、横領や独占が非常に少なかったそうです。もしかしたらそんなことをするほどの食料すらなかったのかもしれませんが、今の共産党からするととても信じられない話ですがそうらしいです。

 このようにシャレにならないほどの政策の大失敗を犯してしまい、さすがの毛沢東もしょげていたそうです。自身の食事にも国民が飢えているのだからといって豚肉の量を減らしたそうですが、これは確かアメリカの記者の評論ですが、国民が飢える中で毛沢東は個人的なダイエットをしていたと、何の問題の解決になっていないことを指摘されていました。
 そして共産党の幹部も、この惨状に対して毛沢東を追及するに至りました。これは先ほどウィキペディアを見ていて私も始めて知ったのですが、後に実権派として名を馳せる劉少奇が、この時に毛沢東に対して、
「地方では人肉を食べて飢えをしのぐ者まで現れたことを記録に残せ」と詰め寄ったらしいです。

 こうして毛沢東は実権を追われることになり、その代わりに経済政策などに実績のある劉少奇と鄧小平が政権の中枢に立つことになりました。彼ら二人のコンビの活躍もあり、大飢饉の後は穏やかではありますが、比較的政治的にも社会的に安定した時期が過ぎていったのですが、それを毛沢東が快く思うわけありません。
 これは陳凱歌やその他大勢の人間が評していますが、毛沢東というのは生まれながらの反逆児で、常に何かに抵抗しなければ気がすまない性格だったそうです。歴史的に見ても、最初は両親、次に初期共産党内のリーダー、そして日本、国民党と抵抗相手を変えていき、最後には自らが関わった共産党を抵抗相手に選んだと見るべきでしょう。

 この時期、毛沢東は政界を引退して中国の南方で優雅な年金生活のようなものを表面上は送っていました。しかしその間、未だ中央に残る腹心を使って徐々に、それも目立たずに工作を続けていました。続きはまた次回に。

  追記
 本文中で「雀」と書いてある箇所をアップロード時は「燕」と間違えて書いてしまっており、コメントでの指摘を受けて修正してあります。なんで間違っちゃったんだろう……。