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2008年10月22日水曜日

悪魔の経済学 その一

 今も株価暴落などでお騒がせのアメリカ経済ですが、現在のアメリカ経済の主流を占めているのは効率崇拝主義とも言うべく、フリードマン学派による新自由主義経済です。日本では私も過去に記事を書いている竹中平蔵氏がこの流派に属していますが、この新自由主義経済というのは基本的に「費用対効果の効率が+であるものはすべて正しい」というような価値観ですべてを語れます。そのため具体的にどのような社会を作るかではなく、如何に自分の取り分を多くするかということに注力しており、実際的には経済学よりも商学的な性格が強い流派です。
 この新自由主義が如何に世界に害毒を撒いたかについては、いろんなブログや出版されている書籍などで解説されているのでいちいち私も解説しませんが、この価値観を当てはめられたために生まれた一つの企業の話を今回紹介しようと思います。

 先ほどから言っているように、この新自由主義の価値概念はほぼすべて「費用対効果」で語られると言っても過言ではありません。そのため以前にはあるアメリカの経済学者がこんな試算を作ったことがあります。

「浮気をすることによる快感が浮気によって失う損失(離婚による賠償金額)を上回るなら、浮気という行為はどんどんと行うべきである。その際に計算される快感には、浮気相手の容姿や性格、果てには本人の浮気をすることによるストレスの緩和量などが考慮される」

 とまぁこんな感じで何でもかんでも無理やりな計算に当てはめては、「どうだ、これまで計算することの出来なかった価値観を俺は計算してのけたぞ!」って自慢するアメリカ人が一時は後を立ちませんでした。こんなことを自慢して、そもそも計算してなんになるのかといったら非常に疑問ですが、日本でも昔にある数学者が「ナンパの成功確率式」という計算式を作ってましたからあんまり人のこと言えません。

 まぁこの程度だったらよくある「~心理学」とかいう冗談めかした本で出版する程度なのでまだ許せる範囲ですが、この効率の計算がとんでもない場所で使われた例がありました。
 それが行われたのはアメリカのある自動車会社(名前は失念しました)で、そこで開発されているある車に数千台に一台の割合で、致命的な事故を引き起こす欠陥が確認されました。ところが、この欠陥を徹底的に根絶するためにかかる費用は非常に高かったので、経営者たちはこの費用に対して別の費用と比較することにしました。その費用というのも、事故が起きた場合に被害者やその遺族に支払う賠償金額です。

 そしてなんと両方の費用を比較した結果、少ない確立で起こる事故を起こす欠陥をなくすより、遺族に払う賠償金額の方が少ないとわかり、はっきりと欠陥を認識しているにもかかわらず対策を行わずに発売をしてしまいました。そして当初の計算通りに、その車は数千台の一台の割合で事故は起こり、被害者も続出しました。
 その後の結末を話すと、続発する事故に不審を抱いた国の調査機関が捜査したところ前述の経営判断が行われたことがわかり、その自動車会社は激しい社会的非難を受けるとともに不買運動が起こり、それによって受けた損失は欠陥対策を行っていた場合の費用を上回りました。

 日本でちょうどこれと同じケースに属するのが、2003年前後に起きた、私の愛する三菱自動車グループの欠陥隠し事件です。この事件でも販売していた自動車の欠陥を早々に経営陣は認識していたにもかかわらず、一切その対策を行わなかったために欠陥による事故が続いて被害者を出していきました。そして結末も、普通の会社なら明らかに潰れているはずだった程の大損失を受け、かつては国内シェア8%だったものが現在では確か3%にまで落ちています。それでも一時期よりは大分よくなって、「ギャランフォルティス」とか「i」とか、すごいいい車を作るようになっており、特に「ⅰ」については前回の失敗に相当懲りたのか、雪国での走行に多少問題を起こす可能性があるとして、普通なら見過ごしてもいいような対策のためにわざわざリコールをして無償修理を去年に行いました。これは評価してもいいと思います

 なにもこの三菱自動車だけにとどまらず、日本には他にもたくさんこういった例があります。三菱自動車だけあげつらうのもかわいそうなので他にも挙げると、雪印乳業も工場内の汚染を知っていながら表沙汰にならなければ損失は発生しないだろうという安易な発想の元に食中毒事件を起こし、猛烈な売り上げ低下を自ら招いています。ちなみに当時の社長の記者会見でのセリフは、「私は寝てないんだ」と、他人事なセリフでしたね。

 よく今の中国食品問題で日本のメディアは知った風な口をして「これだから中国は」という批判をしていますが、確かに「毒餃子事件」や「メラミン混入事件」に対して社会的注目を行うのは当然だとしても、かつての、それもほんの十年弱くらい前にもたくさんの日本企業がこのように同じようなことをしていたと考えると、感情的になるのを避けてもっと冷静に批判するべきではないかと思います。少なくとも、「後進国」とか「衛生に対するしっかりとした発想がない」などという言葉は使うべきではないと思います。事実今年になっても日本でも「事故米流出」事件が起きており、他国を批判する前に自国の衛生環境に対してもっと気を配るべきではなかったのかと疑問に感じます。

 こういった事件の背景にあるのは効率重視……というよりは、安易な損得勘定だと思います。こうしたくだらない経営判断によって、社会の被害者から企業の従業員までが損害を受けないためにはどうするべきかと友人と相談したところ、やっぱり企業の社会的責任を今以上に高く設定するより他がないという結論になりました。そういった不正を行い、それが発覚した場合に起こる不買運動などの大幅なコストをはっきりと経営者側に意識させること、これが最大にして唯一の方法でしょう。
 ただこの方法が効果を発揮する最低条件として、「不正をしてもいつかはばれる」という不文律が必要で、そういった意味で先ほどの日本のメディアへの私の疑問へと繋がって行くのです。まぁ後は内部告発とかだけど、これの保護問題とか話してたらまた長くなるので、今日はこれだけにしておきます。

これまでのブログを振り返って

 実は人知れず、このブログの投稿記事数は既に400件を越えております。また当初目標としていた一年間の継続についても、ブログを始めたのは去年の十二月なので、残すところ実質一ヶ月半となりこっちの目標も達成しそうです。

 ただそれ以上に自分で驚いているのは、まさかこの時点で毎日一本ずつ記事を書いたとすると一年間で365件となる記事数をすでに越えているという事実です。我ながらよくここまで書けるなということと、本当に自分は文章を書くのが好きなんだと思えます。
 記事の履歴を見てみると、やっぱり記事にコメントがつくようになった六月ごろから猛烈な勢いで投稿記事数が増え始めています。読んでいる側にすればどうとも思わないかもしれませんが、書いてる側にするとコメントがつくとやっぱりうれしいものです。またこの辺が通り一遍等の新聞やテレビには真似できない、敢えて言うとしたらブログジャーナリズムの利点であり、私の記事でもブログでのコメントや質問を基にした記事が非常にいい内容の記事にまとまっていたりします。

 もっとも、今言った双方向コミュニケーションによるブログジャーナリズムですが、それを本職としている方々は商業上、ほとんど崩れ去っているようです。

「Web2.0」ビジネスって結局、ぜんぜん儲からないの?(YAHOOニュース)

 リンクに貼ったのは今日出たニュース記事ですが、一時は「WEB2.0」が流行語ともなり、新しいビジネスモデルだと持て囃されたにもかかわらず、この分野のサービスを行っている企業、代表的なのはニコニコ動画とかミクシですが、一定の人気があるにもかかわらず儲かっていないという内容が紹介されています。
 もともとこのWEB2.0の定義を私の解釈で説明すると、2ちゃんねるの「電車男」のようにネット上で皆であれこれ言い合ったり、交流しあったりすることによって自動的に客を呼び込むコンテンツをできあがっては何もせずに儲かる、といったような概念で、事業者側はそうやって交流する人間を呼び込むステージ、2ちゃんねるなら掲示板でゲーム会社ならネットゲームを作ることが大事だという経済話だったのですが、なんか聞くところによる我が家の宿敵である電通も、ネット上で擬似生活を体験する「セカンドライフ」とか言うのを作ったらしいですが、見事にこけたそうです。

 私に言わせるとWEB2.0が成り立つにはやっぱり、最低でも中心に一人は広く人をひきつける人間が必要だと思います。電車男なら主人公みたいに。私は別にこのブログで金儲けしようとは考えていませんが、双方向コンテンツで儲けようというのはやっぱり並大抵のものではないと思います。

 ここで話は変わりますが、本店の「ブロガー」の方はともかく、出張所の「FC2ブログ」の方では記事ごとに「拍手」といって、内容を評価した読者が押すボタンがあります。アクセスカウンターを見るとこのところは毎日30人弱の人が見に来てくれているようでそれだけでも非常にありがたいのですが、それとともに増えてきたこの拍手ボタンの履歴も見るのが毎日の楽しみになってきています。

 それで履歴をみてみるとやはり拍手がよく集まる記事というものはあり、ここ一ヶ月で見るなら「文化大革命とは~その六、紅衛兵~」が6拍手と、同じ連載の他の記事と比べても不思議なくらいに拍手数が集まっています。確かにこの記事は私自身も力を入れて書いた記事なので、それが評価してもらえてると思うととても光栄に思えます。ただ欲を言えば、この連載で一番苦労したのは「文化大革命とは~その五、毛沢東思想~」で、本音を言えばこっちの方をもっと評価してもらいたかったなぁという気持ちがあります。だって、こんだけ毛沢東思想について噛み砕いた説明ってあんまりないと思うし。

2008年10月21日火曜日

極寒、信楽サイクリングツアー

 またちょっと気軽に構えられる記事でも書こうと思います。

 数年前のある日、親父の単身赴任先である名古屋に遊びに行っていた私はそのまま親父の運転する車で名古屋から当時住んでいた京都府の下宿へと帰っていました。当時は連休があればちょくちょく名古屋に遊びに行っており京都へ帰るルートも親父とあれこれ研究していて、一回は直線距離を試してみようということでその日は滋賀県の信楽を通って京都へ入るルートを走っていました。
 すると意外にもこのルートは途中の道路はよく整備されており、また他の乗用車が少なくこれまでのどのルートより早く京都に帰ることが出来ました。ですがその帰路の際に私が着目したのはそんな時間の短さより、
「自転車でもこれそうだ」
 という一点でした。

 途中に坂とかがありますが基本的に一本道ですし、道路も舗装されているので恐らくその時の京都の下宿から自転車で行って当日中に往復することが可能だろうという見切りをつけました。サイクリングが趣味の私としてはいける範囲ならどこまでも、なおかつあまり試したことのない、他の人が行きそうにない場所を好んで当時は行きたがっていましたので、下宿に帰宅するや早速京都府の地図を開いて改めてルートを確認し、来るべき挑戦日となる週末を待ちました。
 しかし行くとしても毎回一人というのはなんです。連れがいればもっと楽しいでしょうが、こんな強行軍についてこれる奴は周りにいるのかと考えてみました。来る奴がいるなら連れてってみたいと思いながら決行日の前日を迎えたところ、うまい具合にいい獲物が自らやってきました。

「やっほー、花園君おる?」

 そういって私の部屋を訪ねてきたのは私と同じ下宿に住む、四国の田舎からやってきたやけに背の高い友人でした。確かその時は貸してた本か何かを返しに私の部屋に来たと思うのですが、いつもどおりに部屋に上がらせてお茶を飲ませて、明日サイクリングに行くが一緒に来るかと誘ったところ、「どうせ暇やし、ええよ」というので、パートナーも無事見つかり予定通りに作戦を決行するに至りました。

 その日の朝早く、私と友人はお互いの自転車に乗り込むと颯爽と下宿を出発しました。ちなみにその際に私が使用した自転車は通常の二万円で買ったシティサイクルでギアも三段変形という、装備については至ってノーマルな自転車でした。それでもよく走ったし、多分総走行距離は1000キロは越えてたと思う。
 スタート当初、友人の自転車のサドルがちょっと低いように思ったので途中で停めて上げてやったのですが、私は基本的に自転車のサドルは高ければ高いほどいい派で、停車時に地面に足がつく範囲で可能な限り上げています。それを友人の自転車にも施したところ、確かによく走るようにはなったらしいですがサドルを上げた分ケツが痛くなったと後に友人は述べています。

 さてそんなもんでスタートから約5キロくらい走るとだんだんと歩道がなくなって山道へと入っていきちょうど滋賀県と京都府の県境のあたりですから道路は舗装されているとはいえ、長い上り坂の山越えをするような道になって行きました。私自身はこういった道に慣れていたのですが友人はどうなのだろうという心配があり尋ねたところ、「いや、高知のばあちゃん家に行くのって大体こんなもんやから平気やで」と言うので安心しました。グッジョブ、田舎人。

 とはいえ、やっぱり県をまたぐ際はお互いに苦労しました。延々と上り坂が続いた上に歩道はなく、事実上車道の上で自動車に接近されながらギコギコちょっとずつ漕いで行くような感じです。トラックなんかもよく後ろから来て、当たりはしないだろうと思いながらも、邪魔にならないように端に寄せて上り坂を登るのは少し大変でした。

 そうして何とか県境を越えて滋賀県に入った頃になると、今度は道路幅が極端に狭くなりはしたものの通る自動車の数が減って走行上は非常に楽になりました。ただ道路脇に設置されていた温度計の表示を見ると、気温は一度と表示されていました。
 時節も一月で非常に寒い日で、その日は分厚い雲がどんよりと覆っていて日光も一切差していませんでした。普通なら相当寒い日になるのでしょうが、逆に自転車乗りとしては走っているとどんどんと体温が上がる一方なので、冷えやすい手を覆う手袋さえしていればこれくらいの気温の方が全然走りやすいものです。案の定私たちも、途中で「暑い」という理由から上着を脱いで走ってました。

 そうして滋賀県を走っているとさらに山の中へと入っていき、いつしか周りには何もなく、ただ木々が生い茂る深い山の中、妙に整備の行き届いている道路を二人で延々と自転車をこぎ続けました。そうしてこいでいると、
「おわっ、雪や!」
 空からちらほらと、寒いとは思っていたものの雪が降り始めてきました。それほどの降雪量ではなかったのでスリップ等の心配はなかったのですが、えらい日にサイクリングしているなとひとりでに笑えてきました。

 ルート全体で見ると県境の山が一番勾配がきつかったのですが、ちょうど信楽に入る前当たりからそこそこの坂を上ったり降りたりする道になっていったので、無駄な体力を使わないように上り坂では二人とも自転車を降りてゆっくりと手押しで行く作戦に出るようになりました。結果的に言うとこれが大当たりして、確かに自転車を降りる分速度は遅くなるのですが、その分をすぐに下り坂で取り返せる上に降りて歩いている間は休むことが出来るので後半は体力的にも余裕を持て余して走ることが出来、そうこうしているうちについに信楽へと到着しました。

 確か到着したのは11時過ぎくらいで、現地の焼肉屋に入っていつもはそんなに贅沢しないのに確か1500円の焼肉ランチをお互いに頼んで食べました。当時の私は一切外食はせずに一食あたりの平均が200円くらいケチった生活をしていたのですが、信楽までこれたという達成感と友人がいることからこの日は奮発しました。なお、この時の走行距離は片道で大体30キロ強です。

 昼食を食べ終え、しばらく信楽の焼き物狸を観賞した後に私たちは帰還へと入りました。往路と違って復路だと一回はルートを通っていることもあり、また往路同様に上り坂を手押しで行ったので非常にスムーズに帰ることが出来ました。また帰る途中、往路に苦しんだ県境の坂を今度は逆に下りでものすごいスピード(多分時速40キロは出てた)で駆け下り、ちょうど降りた先にお茶屋さんがあったので休憩を兼ねて寄って行きました。

 よく車と違って自転車はお金のかからない乗り物だと言われますが、金がかからない分、短距離ならまだしも長距離の運転だと途中から滅茶苦茶おなかが減る乗り物です。実際に長距離を乗り終えた後に私はバナナを一房丸ごと食べて、その上でお菓子とかパンをがっついたこともあり、そういった食事量を考えると思われているほど安くはないと思います。
 なもんだから、馬鹿なので私はこの時にお茶屋さんでまた贅沢して抹茶パフェなんて頼んじゃいました。なおこの時もまだ外では雪が降り続けてます。

 最初は笑って友人(彼は確かぜんざいを食べてた)と談笑していたものの、食べ終えた辺りから店内にいながらも猛烈に寒くなってきて、そのため店員のおばさんに無料の熱いお茶を何度ももらっては体を温めているとそのおばさんから、
「今日は寒いですからね。バイクで来られたんですか?」
「いいえ、自転車です」
「えっ!? それじゃあ寒いわねぇ」
 と言われました。実際、往路ほど坂を上らないので復路は滅茶苦茶寒かったです。そんなこんなして大体昼の三時くらいに、無事下宿に帰ることが出来ました。

 時間的にも走行的にも予定通りにほぼパーフェクトで、なおかつ景観のいい渓谷を通ってきたもんだから、下宿についた後もしばらくテンションが高いまんまでした。なのでそのまま同じ下宿のまた別の友人の家に行って、「信楽行ってきたぜ!」って妙な自慢までしました。その友人はというと、急に来られたのですごいびっくりしたと言ってました。

 その後は一緒に行った友人と別れて、ゆったりとした日曜の夕方を下宿で過ごしました。
 ちょうどこの時期はいろいろいけるもんだから私は自転車であちこちを回り、一つのベンチマークとして自転車での琵琶湖一周も一日で行ったりしていますが、一番楽しいサイクリングといったらやっぱりこの信楽の例を絶対に挙げています。また機会があればやってみたいものですが、ついてくる友人とかいるかなぁ。

 自分で書いてて、自分の体験は読み返してみても面白い話が多いのですが、以前に独自に書いた中国での一年間の留学体験記や高校生時代の夏休み日記などくくりがあるものは自分でまとめているのですが、こういう単発の話はそれだけではまとめづらいので、きっとブログとかじゃないと私も多分一生書かないだろうと思います。今後も、折に触れてこういう話を書いていきたいものです。

2008年10月20日月曜日

プラトンのイデア論

 うあー……藤川が打たれた。もうこりゃ中日の勝ちかなぁ。
 と、阪神対中日の九回の表を見ながらこの記事を書いてます。ぶっちゃけ、かなりテンション落ちたけど。
 本店の方のコメント欄で、脳の中で認識する世界と、万物にとって平等な外界世界についてのコメントがあったので、ちょっと今日はそれに関係するかもしれない話を紹介します。

 さて、早速ですがプラトンという哲学者は皆さんご存知でしょうか。あのアリストテレスの師匠で、ソクラテスの弟子でもあるギリシャ哲学の三巨頭の一人ですが、ただ日本では割とアリストテレスが好まれ、その後でソクラテス続くので私が見ている限りこのプラトンはちょっと影が薄い気がします。
 しかし私の留学時代の相部屋のパートナーだったルーマニア人はこのプラトンが大好きで、自らもプラトンの主張したイデア主義者だと自称してやみませんでした。

 それで彼が主張したこのイデア主義ですが、これは間の意識に関する考え方の一つのモデルです。まずはたとえ話からはじめます。
 ある日Aという人がBという人に、昨日食べたりんごがとてもおいしかったと話をしました。この時Aの頭の中には昨日食べたりんごが浮かんでいるのですが、話を聞くBはもちろんその実物のりんごを見たことがあるわけありません。しかし話を聞くBの頭の中には全くりんごが浮かんでいないわけではなく、Bの中にも別のりんごのイメージが出てきます。そのりんごのイメージは明らかにAが食べたりんごとは間違いなく一致しないはずです。ですがそんなイメージでもBは、「すっぱいりんごだったの?」と言い返しては、会話を成り立たせることが出来ます。

 何故、このように実物を目の前にしていないにもかかわらず、両者の意識の中では概念的に同じりんごが浮かび、またそのイメージがお互いの「りんご」という情報に一致するのでしょうか。ものの捉え方や見方というのは人それぞれですが会話の中に出てくる今回のりんごはもとより、今こうして私がスコップと言えば読者の方にはスコップのイメージが現れると思いますが、何故皆そんなあやふやな共通するイメージで互いの情報を一致させたり、認識を合わせることが出来るのでしょうか。

 この疑問についてプラトンは先ほどのりんごの例だと、まず前提として「完全な形のりんご」があるに違いないとおきました。人間はその「完全な形のりんご」、つまり「Ideal apple」を誰もが一度は見ているため、誰がりんごといってもみな即時に認知を同じくすることが出来るのだと説明しました。
 それではその完全な形を人はどこで見たのかと言うとプラトンは、人間がこの世に肉体を受けて生まれる前の魂の状態はちょうど一つの洞窟にみんなで入っているような状態だとして、そこではあらゆる情報が共通化されており、そこで完全な形を見てから洞窟を出るような具合でこの世に生を受けるという風に主張しました。

 この考えはちょっと応用するなら心理学者のユングが、人間には生物として共通した心理があるため、世界のあらゆる文化の神話がどことなく似たような話になるのは自然なことだとして、そんな心理を「始的心理」と呼んだ話に近いような気もします。また生まれる前の人間の魂が一箇所に集まる集合意識の海のような場所があり、生まれる人間の魂だけがそこからひょいと引き抜かれるというインド哲学のなんかの話にも通じています。
 どちらにしろこの説は人間の意識にはそれぞれ独立した「魂」が、攻殻機動隊でいうなら「ゴースト」あることが前提なので、私はあまりこの説に沿う考えをしていません。私なんて人間には魂がないという、人間の意識はすべて脳の電気信号反応だという説の大の主張者でもありますし。

 ただもし本当に「ゴースト」があるというのなら、生まれる前の魂はどこにあるかというと、この「集合意識の海」という言葉にすごい惹かれます。具体的な理由がないまま惹かれるので、これまたあっちの言葉を使うなら「私のゴーストが囁くのよ!」といったところでしょうか。でもって、阪神はやっぱり負けちゃいました。

2008年10月19日日曜日

公明党、矢野絢也問題について

 テレビなどではよく取り上げられていますが、あまり細かい解説がないのでちょっと引用という形でこの矢野絢也氏の問題を解説します。

 このところの国会政局に絡む解説番組でよく、「公明党としては元公明党委員長の矢野絢也氏を国会に参考人招致したくないため、解散の時期などで自民党と衝突している」という解説がなされるようになりました。この矢野絢也氏が何故参考人招致が取り沙汰されるようになったのかと言うと、単純に言って矢野氏と公明党、ひいてはその支持母体の創価学会の関係がここ数年で一挙にこじれたためにあります。

 私がこの問題のあらましを知ったは数ヶ月前の文芸春秋での矢野氏の独白からですが、その記事によると矢野氏は政界を引退した後、政治評論家として幾度かテレビ番組などに出演をしていたようです。まぁこういう活動は別段珍しいわけではなく、本人も何か特別なことをしていたつもりはないそうで、その時事問題ごとに発言をしていたようです。

 ところがある日に公明党の事務所に矢野氏が呼ばれるや、突然テレビ出演などの活動をやめるようにと言われたそうです。公明党側が言うには、過去に出た番組内の発言が公明党を貶めるものと受け取られ、それについて創価学会の青年部の人間が激怒しているとのことです。これに対して矢野氏はこれまで公明党や創価学会についてそのような発言をしたことはないという弁論をするのですが、その後青年部の人間たちの前につれてこられると、その場で激しく罵倒された挙句、議員時代から使っていた様々なメモのある手帳を取り上げられたそうです。

 現在、この取り上げられた手帳を返却するようにと矢野氏が請求しており、公明党側は自発的にこちらに譲られたものだと対立し、この点を争うために裁判が行われています。これに目をつけたのが民主党で、一連の矢野氏に対する公明党の行為は言論封殺に当たるとして、矢野氏を国会に参考人招致することによって攻撃材料にしようと画策しているのが、この問題の大まかなあらましです。
 もっとも、飯島勲氏によるとこの民主党の考えは政策論的な問題ではなく、あくまで政局の材料としてだけこの問題を使おうとしているとして、あまり評価をしておりません。

 私が見ているとどうもこの参考人招致問題自体はよく取り上げられますが、問題の中身についてはテレビ番組などでは解説に歯切れが悪くなっているように見えます。まぁ相手が相手というのもわかりますが、ちょっと解説が足りないと思ったのでこの場で私がやってみることにしました。

 ついでにまた紹介しておくと、公明党は国民新党の亀井議員に対して、もしこの矢野氏の参考人招致に賛成しないというのなら次の選挙時に、創価学会を使って国民新党の選挙応援をするとまで言ってきたそうです。こんな話をばらす亀井静香もなぁ……。

技術大国日本は何故出来たか

 久々にオリジナルで、かつ質の高いレア情報を書きます。今回の話は昨日の記事にも通じる内容です。

 日本は70年代から技術大国と言われて久しく、自動車業界から精密機械に至るまで幅広い産業において世界的にも高い技術を持っていると言われております。しかしその一方で高校生の物理選択者は減る一方で、また大学の理系学部も教育の質や志望者の低下に歯止めがかからず、国としても「ものつくり大国日本」という標語を打ち出しなんとか技術面での復権を画策していますが、なかなかうまく行っていないのが現状です。しかも状況はなおまずいことに、長い間技術を蓄積していた技術者たちがここ数年で定年による大量退職をし始め、技術の継承が現役世代になかなか行われず、このままではいたずらに育て上げた技術が失われていく一方だという危惧もされています。

 では何故かつての日本は技術大国と呼ばれるまでに技術者の質が向上したのでしょうか。一つ今の日本の問題の解決法を探る上で、ちょっとここで一つ歴史の話を紹介します。
 現在、日本が誇る技術産業とくれば誰の目にも自動車産業が筆頭だと言われていますが、何故日本で、更に先の話をするとドイツでも自動車産業が戦後に急成長をしたのかですが、現在言われている中で最も強い説は軍需産業からの転換があったからだと言われています。

 戦前の日本ははっきり言ってアメリカとの戦争のためだけに国が機能し、技術者もそのために数多く育成されて兵器となる航空機の生産も国を挙げて行っていました。ですが日本が敗戦した後、二度と軍事国家化させまいというのと航空機産業で独占をもくろんでいたアメリカの指導の下で、日本は航空機の製造、開発を大幅に制限されることとなりました。その際、それまで航空機を製造していた技術者はどうなったのかと言うとここまで言えばわかると思いますが、その大半は自動車産業へと移り、そこで自動車の製造、開発を行うようになっていったそうなのです。

 これはドイツでもほぼ同じ状況が起こっており、その結果現在の日独は航空機の開発自体はアメリカに遠く及ばないまでも、自動車産業の技術においては世界でもトップ二強という地位を確立するに至ったのです。また自動車産業に限らずとも、現在日本が世界に誇る新幹線の開発においても戦前の航空機技術者が数多く参加しており、広範囲にわたって戦前に育成された技術者が生きたと言われています。

 このように技術立国日本が出来た背景には戦争目的とはいえ、非常に高度な技術者の育成があったことが大きな理由と言われており、私自身もその説を支持します。では教育を充実させればまた技術大国の座を維持できるのかと言うのかですが、私は現状の日本政府の方針はそれほど効果は出さないと考えています。その理由というのも、戦前の育成と比べると現在の教育には大きな差があるように思えるからです。そういう風に思うのも、実は私自身が直接に戦前に育成された元技術者の方に話を聞く機会があったからです。

 その元技術者のプロフィールを簡単に紹介すると、私がアルバイトしていた喫茶店のマスターです。御年八十歳を越える方で今もなお健在しております。
 このマスターは戦前、高校を卒業すると同時に現在の日立に就職し、そこで偵察航空機の設計に関わっていたそうです。この時の話を詳しく伺うと、なんでも高校時代にも相当な勉強を強制され(その学校では成績順に席順が決まるほどだったようです)、高校を卒業してようやく勉強から開放されたかと思ったら就職先でもまた勉強、しかも航空機の設計に関わる内容をものすごい詰め込みで行ったそうです。この辺は詳しく聞いてはいないのですが、どうも成績で上位でなければひどい仕事場に回されそうだったとのことで、必死で設計に入れるようにこの時勉強したそうです。この時の勉強時間は文字通り昼も夜もないほどで、夜には宿舎の明かりは強制的に消灯されるのでしょうがないからトイレの明かりで勉強しようと向かったら、そこには既に先客がいて勉強をしており、「この時はさすがに参った」と思ったそうです。

 しかしその甲斐あってマスターは航空機の設計に関わる部門に配置されました。ところがそこでも万事が万事大変で、設計して航空機を作ろうにもまず材料がほとんどない。この辺についてはマスターの話を直接引用することにします。

「とにかく、ありあわせの材料で製造するのだからそれで実際に飛ぶだけでも相当凄いことなんだよ。しかし、やはり十機に一機は飛行中に空中分解を起こしてしまい、その際には搭乗しているパイロットに申し訳ない気持ちでいっぱいだった……」

 この話を聞いた際に私は、戦前は高校卒業したての若者が、文系の私からすると及びもつかないほど難しいと思えるような航空機の設計、製造に関わっていたという事実にまず驚きました。そして同時にこれほどの技術者が第一線ではなく、私のいた喫茶店のような場所にもいたということに、戦前から戦後にかけての技術者の人材量に言葉をなくしました。

 このように、技術大国日本の背景にはそれこそ現在からは考えつかないほどの広範囲かつ質の高い教育が行われていたのです。この事実に比べるなら、現在の教育などそれこそ玉石に比べて路傍の石程度しかないと言っても過言ではなく、今の教育では焼け石に水なのではというのが私の意見です。
 更に言うなら、戦前に行われた技術者の育成と現在の教育において最大の差異とも言えるのが、試作にある気がします。先ほどのマスターの例だと高校を出たての若者が、恐らく他のスタッフも関わっているとはいえ飛行機の設計から実際の製造にまで着手しています。果たして、今の日本で航空機とまでは言わないまでも自動車の設計から製造にまで二十代の大卒の若者が関われるかと言ったら、恐らく全くと言っていいほどないでしょう。もし本当に技術者を育てようと言うのなら、やはりこういった実際に作る試作をどんどんと行わせるべきでしょうし、国も下手なところに金を使うくらいならこういった所へ補助をするべきではないでしょうか。

 最後に、話を聞いた後に私がマスターに聞いた質問とそのやり取りを紹介します。

「マスターは戦後、そのまま技術者としてやっていこうとは思わなかったのですか。誘いはなかったのですか」
「誘いは確かに受けたけど、僕はやっぱり子供の頃から商売人になることが夢だったからね。こうして喫茶店をやっていて後悔はないよ」

2008年10月18日土曜日

大学教育の価値とは、およびその改革法 その二

 ちょっと夜中に自転車を走らせて頭をすっきりさせてきました。そんじゃ気合入れてまた続きを書きます。
 前回の記事では「無駄な大学教育コスト」を社会が負担させないようにする友人の提案を中心に解説しましたが、この記事ではそれを踏まえて私個人の考えを中心にして解説していきます。

 まず、いきなり数字データですが2007年の世代別四年制大学進学率は47.2%です。率直に言って、私はこの数字を25%位まで下げたいのが本音です。
 何故大学進学率を25%まで下げたいのかと言うと、前回の記事でも触れていますが、やはりあまり勉強をする気もないくせに大学に進学する大学生があまりにも多いからです。恐らくそういった方々からすれば、私大なら自分のお金で来ているから自分の買ってじゃないかと思うかもしれませんが、大学には国から助成金が出ており、私大であろうとそういった方々へも日本の税金が使われております。

 はっきり言って、私も学生の頃も周りは何のために大学に来ているのかわからないような人でいっぱいでした。授業には来ないし、出てきても授業中に雑談するわ漫画を読むわで、まだ寝ているだけならともかく雑談の場合は講師の話が聞き取りづらくなるので、それだったら来るなと何度も心中に念じたことがありました。
 中には、大学生活の四年間を過ごすことこそが人間の幅を広げるので何もさせずにほうっておくのが良いと言う方もいると思いますが、何もしないよりはやっぱり勉強するには越したことはないと思います。第一、何もせずに過ごす事が大事ならわざわざ大学に来る必要はないはずです。

 もし大学であまり勉強する気がないというのならば、私はやっぱり就職して一旦社会に出てみることのほうがその方にとって進学するよりずっと価値が高いと思います。というのも就職することによって現場で職業訓練が行えるだけでなく、外から大学での教育についても見ることが出来、大学で勉強する意味というものがよくわかるようになると思うからです。こういうのも、実際に大学を卒業して就職をした方から卒業してからいろいろ大学で勉強してみたくなったと言う人が非常に多く、私自身こういう人を実際に数多く見ています。
 もし就職しても大学で勉強する気が起きないと言うのなら、それはそれでそのままその仕事を続けた方が前回にも書いたように労働力的にも、また職業への自己研鑽という意味でも当人にとって良いように思えます。無理にやりたくない勉強をするくらいなら、今行っている仕事に精通することの方が将来的にも可能性が広がると考えるからです。

 ただこういう話をすると、やはり一番ネックになるのは大卒でないと最初の就職に厳しくなるのはおろか、将来の収入も大卒者と比較して高卒者では低くなってしまうという事実です。ですがこうした状況がある限り、日本は「無駄な教育コスト」を社会が支払い続けてしまうので、前回に友人が打ち出した「職種別採用」を行い、一部の職種を「高卒限定」と枠をくくることで住み分けを行うべきだと思います。

 実は友人からのメールには、前回に書いた職種別採用の項目は、「一般職は高卒採用にする」とだけしか書かれていなかったのですが、敢えて私は「高卒限定」と、限定の二文字を入れました。こうすることによって高卒者に一定の就職枠を確保することが友人の主張に沿うことになると思うのと、ある現実の事実に適合すると考えたからです。その事実というのも、地方公務員の高卒採用です。

 現在、どこの地方も公務員の採用枠には雇用保全の目的で高卒枠というのが設けられています。これは高校卒業者限定で大卒者は受けることが出来ず、大体18歳から22歳の方しか採用試験に受験できない枠のことです。やはり高卒だと就職でいろいろハンデがあることから地方自治体に設けられた枠なのですが、大卒を含む通常の公務員試験より倍率や敷居が低いことから、以前には本当は大卒であるのにその履歴を黙って受験するものが後を絶たず、大阪では100人以上もそういう人が調べたら出てきたことがありました。

 しかしこの高卒枠というのは考えとしては非常に面白く、また18歳から採用するにしても22歳になる頃には四年のキャリアが詰まれるので、下手な22歳で入ってくる大卒より業務において同じ年であってもずっと熟練しているはずです。実際、公務員の仕事なんて大学で何を学んだかよりは仕事をした年数の方が能率や作業内容にずっと影響するはずでしょうから、この際地方公務員には大卒は一人も入れなくても良いんじゃないかとすら思います。

 という具合で、将来の収入についてはまだこれからいくらでも改革ができるため、まずは高卒での採用枠を確保することが重要だと私は考えます。こうすることによって就職のためだけと考え無駄にやってくる大学生を減らせて、無駄な助成金も本来必要なところに回して、労働力的にも全部が全部プラスになると私は考えます。それがために、最初に言ったように私は日本の大学進学率を25%くらいにまで下げるべきだと考えるのです。

 本来、大学は学びを志すもののためにあるものです。しかし私の高校時代にも平然と、「大学で遊びたいから進学する」と言ってのける人間もいるように、今の状況はふざけた人を食わすために真面目な人が損をしているような状況だと思います。こうした状況を打破するために、友人の言う改革やそれに準じたものが今必要なのではないかと私も思います。

 なんか、この記事の文章はえらく脈絡のない文章になってて我ながらびっくりです。まるで自分の文章に思えないほどで、疲れてるのかもしれません(;゚Д゚)