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2009年12月16日水曜日

日本語のマルチな特徴

 なんか妙な題になりましたが、ちょっといつもと趣向を変えて言語としての日本語について最近知った事を紹介します。

 最近友人に薦められて内田樹氏の「日本辺境論」(新潮新書)という本を読んだのですが、この本自体の日本人にとって確固たるものがないということが確固たる特徴というテーマについても面白く、今度それについても一本書くつもりなのですが、後半にて書かれている日本語の特徴についてなるほどと思わせられた一説があったので今日はその話です。

 内田氏はこの本の中で日本人は過去の自分にこだわらず現在の自分にとって有利だと思えば平気でそれまでの姿を捨てられる特徴があると全体を通して主張しているのですが、その一例として後半にて日本語、それも漢字と平仮名について大きく一節を設けて説明しております。言うまでもなく日本には元々文字はなく、奈良時代の遣唐使らによって中国より持ち帰られた漢字によって初めて文字文化を持つに至りました。
 ただ中国との国交が少なくなった平安時代に至ると元々の日本語の発声をその意味の漢字に当てはめて使うようになり、更には勝手に平仮名やカタカナといった、日本の発音に即したオリジナルな文字まで作ってしまいます。そのため現在に至るまで日本語の漢字には音読みと訓読みがあり、「東」という字を一つとっても「とう」という読みと「ひがし」という全く脈絡のない二種類の読み方が存在し続けているわけです。

 内田氏はこの平仮名やカタカナと漢字という明らかに性格の異なる文字を一緒に使う点に日本人としての特殊性があると主張しているわけなのですが、その特殊性が発露している場面として、なんていうか又聞きの又聞きみたいになってしまいますが、養老猛司氏の話を引用しながら日本におけるマンガの発達に触れています。

 まず最初に平仮名と漢字の違いですが、これは単純に言ってその記号がどんなものを表しているのかという点が異なっております。平仮名と言うのは発声の仕方を表す表音文字であるのに対し、漢字はその意味を表す表意文字です。日本にいるとあまり気づきませんが、日本語というのは世界においても非常に珍しい、表音文字と表意文字を一緒に使用しているマルチ言語です。
 それこそ日本語を除くとマルチ言語と呼べるのは漢字を使用していた頃の韓国語と同じくベトナムくらいなもので、どちらもすでに文字をハングルとアルファベットに統一している現在だと先進国においては日本ただ一国です。

 この表音文字と表意文字を同時に使用するマルチ言語が何故マンガに関わってくるのかというと、養老氏によると同じ脳の中でも画像を認識する部位と文字のような記号を認識する部位はそれぞれ異なっており、脳に損傷を受けたとしても日本人は平仮名だけ読めなくなったり、漢字だけ読めなくなるという二種類の難読症患者がいるそうなのです。
 通常、他国では表音文字か表意文字の片方だけしか使用しないのに対して、日本は両方を使ってるもんだからそれぞれを同時並行で処理できる力が外国人に比べて必然的に高く、その絵と文字の両方で表現されるマンガの読解力が高かったからこそ世界でも評価される水準にまで持ってこれたのだろうと内田氏はまとめております。

 言われてみると確かになるほどという気がします。日本語が表音、表意文字を操るマルチ言語だとは前から知っていましたが、それが画像と記号を同時処理できる力につながっているとは今まで考えた事がありませんでした。
 なおこれに関連するのかすこし微妙ですが、なんでも映画に字幕をつけて見るのは日本しかないという話を以前にどこかの掲示板で見ました。この映画の字幕もある意味マンガと同じマルチ言語ゆえの特徴かともとることが出来ますが、欧米はどうかまでは知りませんが、中国においては同じ中国国内のテレビ番組で字幕をつけて中国人は見ています。というのも中国は地域によって発音方法に隔たりが大きいために同じ国内の番組でもほぼ例外なく中国語の字幕がついており、なおかつ日本のテレビ番組などといった違法動画でも字幕がついているそうなので、映画の字幕はあまり関係ないのかも知れません。

 ではこうした日本語に対して他の国の文字は表音か表意のどっちなのでしょうか。中国は「魚」と書いたら海で泳ぐあの生物を表すといった具合に表意文字の代表格とも言うべき漢字で、韓国は発声する時の口の形をもじったというほどの表音への入れ込みが強いハングルです。欧米については間詞が多かったり接頭の「H」は読まないという規則が多いもののフランス語のアルファベットは表音文字らしく、また日本人にはなじみの薄いロシアのキリル文字は日本の平仮名同様にはっきりと発音が定まっている表音文字です。

 となると現在国際語としてつかわれている英語のアルファベットは少なくとも表意文字ではないから表音文字かという風に捉えられがちですが、確かに普通に見るなら表音文字ですが私は厳密にはそうは言い切れないのではと私は考えております。何故英語のアルファベットが表音文字ではないのかというと、その英語の特殊な成り立ちに原因があり、次回は英語の特殊性とともに日本の外国語教育について書いてみます。

2009年12月15日火曜日

中国副主席との天皇特例会見について

 昨日から「リュウマの独り言」様と相互リンクを結ぶ事となりました。政治系の話題について詳しい解説が為されているサイトなので、陽月秘話ともども今後もよろしくお願いします。


小沢氏、改めて宮内庁長官批判 宮内庁には応援メール殺到(産経新聞)

 それでは本題ですが、本日、中国の副主席である習近平氏が天皇との会見を行いました。この会見に至るまでの経緯については各報道にて皆さんも知っての事だと思われますが、通常外国要人の天皇との会見は予定調整や天皇の健康上の問題といった関係から一ヶ月以上前に連絡を受ける事が慣例となっているところ、今回の習近平氏との会見はその期限を切っているにもかかわらず、「会見相手が外交上、重要な人物である」という政府の強い要求に押し切られる形で行われたと報じられております。

 先にこの習近平氏について簡単に説明しておくと、現時点でポスト胡錦濤こと未来の中国共産党総書記職の最有力候補とも言うべき人物で、数年前の時点で同じく現在常務委員である李国強氏とともに有望視されていた人物です。2008年の全人代にて常務委員入りしてからはそのライバルの李国強氏に対して功績面で徐々に差をつけ出しており、最早レースの勝敗はついたと評論家からは見られております。

 そういう意味でこの習氏が重要な人物であることに間違いはないのですが、それでも今回の特例会見を私は支持する事が出来ません。その理由としてまず、天皇自身の健康問題が挙げられます。
 すでに高齢の現天皇は数年前にも手術を行っており、もし何かあったときのことを考えるならば会見を行う一ヶ月前に連絡をしなければならないという宮内庁のルールは至極適切なものかと思われます。また今回の一件にて急な会見に当初難色を示した宮内庁を強く批判している小沢氏は習氏が総書記になる前に会見する必要性を強く主張しましたが、中国の総書記職は通常十年を任期としており、そこから逆算するなら習氏が総書記に就くには早くとも後三年強ほど猶予があり、本日に会見を行わなければならないほど急ぐ理由ははっきりいって見当たりません。あるとしたら、民主党が政権についている間に行う必要がある……といったところでしょうか。

 そして今回、一番槍玉に挙がっているのがこの一件に対する先ほどの民主党幹事長である小沢氏の一連の発言です。
 小沢氏は今回の特例会見について上記の様に相手が重要人物であるということに加え、宮内庁が勝手に決めたルールに何故従わなければならないのかと連日口角泡を飛ばしております。また天皇を政治利用する事になるのではないのかという記者の問いに対して、憲法を知らないのかと言い返した上で、天皇の国事行為は国民の選挙によって選ばれた内閣の輔弼によって行うと書いてあり、この特例会見が駄目だと言うのであれば議会の開会や解散宣言などはどうなのだと主張しました。

 しかし、私はこの意見にも納得する事は出来ません。仮に小沢氏の意見が成り立つのであれば天皇は内閣の要求すべてを言われるままに行わなければならないという事にもなりかねず、やはりそれとこれとでは話が違うように思えます。第一、この問題で憲法を持ち出すこと自体が私にとってはナンセンスに感じます。
 更に言えば、これは各所でも言われておりますが、そもそもの話として小沢氏は与党民主党の幹事長であって内閣の一員ではありません。それにもかかわらず内閣がいいというのだから何故やってはならないのかと主張するのはいささか無理があるでしょう。

 こんな具合で今回の特例会見は小沢氏の意向が強く反映されたのだろうと思っていた所、なんか妙な情報が飛び込んできました。

中国副主席との特例会見、「元首相が要請」=前原国交相が指摘(時事通信)

 これは国土交通大臣の前原氏による発言ですが、今回の特例会見は自民党の元首相からの要請によって実現したと報じられております。前原氏は一ヶ月前というルールを破ったのは民主党ではなくその元首相だとしながらも実名は避け、頼りなさならピカイチの平野官房長官もいつもどおりにこの件についてコメントを避けました。

 となると要請をしたその元首相とは一体誰なのかという犯人探しになるのですが、結論から言ってしまえば最有力候補は在任中にガス田の共同開発を約束したりパンダを年間一億円でレンタルすると取り決めるなど、中国に対して非常に接近しようとしていた福田元首相であると私は見ております。麻生元首相と森本首相だと今回のような腹芸が正直できるとは思えず、天皇制の強い擁護者である安倍元首相と日中関係を冷やせるまで冷やした小泉元首相に至っては論外です。

 とはいえこの前原氏の発言も本当に正しいかどうかがわからない状況ですが、仮にそうだとすると、今回の特例会見は小沢氏と福田氏が揃って実現に向けて力を合わせていたのではないかという疑いにもつながります。元々この二人は福田元首相の在任初期にいきなり大連立を行おうとするなど妙な所で歩調を合わせようとするところがあり、私自身もこの二人ならやりかねないという気もします。
 今後この前原発言がどうつながっていくのか、しばらく注視する必要があるでしょう。

 それにしても、忘年会から帰った後に書く記事じゃないな。

2009年12月14日月曜日

芥川龍之介の話

 今日も時間が少ないのでまた短く書ける話です。
 日本の文豪の中で誰が一番好きかと問われるなら、私は迷わず芥川龍之介を挙げるようにします。具体的に彼の作品のどのようなところが好きなのかまでは説明しませんが、彼のあまり有名でない作品の一つに、題は忘れましたが海軍の学校で芥川が英語教師をしていた時代の話があります。

 この話自体がフィクションなのかノンフィクションなのかまではわかりませんが、当時の芥川は週末になると煙草をふかしながら汽車に乗って横浜から東京へ行き、旧知の友人らと夕食をともにして語り合い、また日曜の晩には横浜に帰るという優雅な過ごし方を習慣としていたのですが、ある週末、いろいろ無駄遣いしていたのがたたって、往復分の汽車代がなかったことがあったそうです。

 さりとてあきらめがつかず駅にはいくもののお金がない、はてどうしたものかと考えつつ知らず知らず売店へと向かい、「朝日をくれ」と芥川は言ってしまいました。「朝日」というのは当時の日本でポピュラーな煙草のことで、喫煙家の芥川もよくこれを吸っていたのか他の作品にもよく出てきます。

 この時、芥川は注文したものの内心ではしまったと思いました。煙草を買うお金はまだあるもののそもそも汽車代がない。こんなところでちびちびお金を使ってどうするのだと焦りだします。
 そんな焦りまくる芥川に対して売店の親父は、「新聞ですか、煙草ですか?」と注文を確認してきて、咄嗟に芥川は、「ビール!(゚Д゚;)」と答えたそうです。この答えには親父も、「ビールはありません」と答えるので、芥川も、「そ、ならいいんだ≡(;゚д゚)」と、帰ってったそうです。

 その後、まだ依頼を受けていなかった執筆依頼を受ける事で前金を受け取り、その周も無事に芥川は優雅な週末を過ごせたわけなのですが、意外とお茶目な所もあるのだと別の意味で感心した話でした。

2009年12月13日日曜日

日本のやる気なき大学教育について

 かなり久々に出張所の方でリクエストが来たので、今日は日本の大学教育について私が日々感じている事を書こうと思います。まずはこれまでこの関連で書いた記事を三つほど下記にリンクを貼っときます。改めて読み直すと、我ながらいろいろ書いているもんだ。

日本の大学教育と職業とのつながりについて
大学教育の価値とは、およびその改革法 その一
大学教育の価値とは、およびその改革法 その二

 上記三つの記事でも長々と書いてあるように、前提として私は現在の日本の大学教育は大きく問題を抱えていると感じております。
 具体的にどのような点が問題なのかと言えば、以前の記事でも書いたようにまず学生自身が理系はともかく文系が勉強するために大学に進学するのではなく、学歴を得るために進学してくることです。実際に高校生とかに話を聞いてみるとすでに進学が決まった学部で具体的にどのようなものを勉強したいのかと聞くとなにも答えられず、では大学に何を求めるのかと聞いたら即答で、「遊びたい」と答えられる始末です。

 そりゃ若いんだからいろいろ遊んでいたいという気持ちも理解できなくはないのですが、そのためだけに主に両親に年間百万円前後、下手すりゃそれ以上の額の学費と生活費を払わせて通うというのはもったいない気がします。第一、遊ぶだけなら大学に行かなくとも出来るはずです。こういったことを改めて高校生に突き詰めていくとみんな決まって最後は、「大学にいっとかないと就職できない」とようやく本音を言ってくれます。

 こんな具合で日本の大学生のうち少なく見積もっても過半数は勉強するためではなく、就職に向けた履歴作りを兼ねたモラトリアムのためだけに進学していると私は見ています。もちろん大学で何しようが本人の自由ですが、みんながみんなこんな感じであると真面目に勉強したい学生の方とすると結構居辛いものです。私自身の実体験でもありますが、やはり今の日本の大学は勉強を行う場と言う雰囲気がなく、どことなく力の抜けた空気に満たされていて真面目にやろうとするほどどんどんと脱力していく感覚がありました。
 そんなの気にせず一人でも勉強し続ければいいじゃないかと言われるかもしれませんが、周りで「じゃあ七時に居酒屋の前で集合な!」という声が聞こえてくると、飲み会に参加するほどのお金もなかった頃ゆえに胸にズキンと来て、一人家で参考書を眺めてたりすると寂しさもひとしおです。

 そしてそんな大学の雰囲気を反映するのか、大学の講師陣にも私は熱意を感じられませんでした。それこそ型通りのどうでもいいような話ばかりを授業でされて、ひどいのになると一度も授業時間いっぱいまで授業せずに学期を終えた講師までいました。探せば熱心に教えてくれる講師も確かにいるのですが、一度頭に来てもうすこし刺激になるようなことを教えて欲しいと教授に頼んだ所、授業に期待せずに自分で論文を読むなり勉強しなきゃ駄目だと言われて追い返されたこともあります。言われる事も一理あるのですが、それだと大学で勉強する意味自体がなくなってしまうので私は今に至るまでまだこの教授の意見に納得した事はありません。

 私は昔からこんな具合だったこともあり、ご多分に漏れず大学に入った一年目には見事に五月病にかかってしまいました。最初は友人の方が先だったのですが、親に高い学費を払わせてまで大学に通う理由が見当たらず何度も退学をしようかと考えました。それでも卒業までこぎつけられたのは冬でも半袖を貫き通すような頼もしい友人らと、親身になって中国語やマルクス経済学の成り立ちを教えてくれた恩師らに出会えたが故でした。

 ですので私も同じような悩みを持った学生に会ったら出来る限り力になろうと努めたものの、何人かの後輩の退学意思を覆す事は結局出来ませんでした。特にそのうちの一人はもうそろそろ時効だから書きますけど、ある日突然夜に私の下宿に来てもいいかと連絡があったので家に呼び、夕食を食べながらいろいろ話していた所、やや気分が高揚していたというか調子に乗って、

「言っちゃなんだけど、俺はまともな神経をした学生なら日本の大学をすぐにやめると思うよ。俺は度胸がないからさすがに実行しないけど、はっきり言って勉強するような場じゃない」

 こんな事を私が言うと、そのすぐ後に後輩が、

「すいません。実は僕、今日退学届けを出してきたんです( ´Д⊂」

 なんて言うもんだから、引きとめようがなかったことがありました。この時ほど、「先に言えよ(゚Д゚;)」って思った事は未だにありません。まぁこの後輩とは未だに仲良く、このブログも読んでもらっているのですが。

 まとめになりますが、私は現在の日本の大学は真面目に勉強したがっている学生の知的好奇心を満足させる環境にあるどころか、むしろ空回りさせてしまう環境でしかないと考えております。日本の教育全体にとっても、社会にとっても、そしてなによりも真面目な学生たちにとってこのような環境は望ましくなく、早急に改革しなければならないと考えております。それでもモラトリアムを求める学生が多いと言われるかも知れませんが、教育にしろ法律にしろ、こういうものは下に合わせるのではなく多少振り落としてでも上にあわせなければならないものです。真に真面目な学生に優しい大学であるようにと、願うばかりです。

2009年12月12日土曜日

内戦状態の日本 その二、反応と期待

 今日もちょっと電車に乗って移動していたのですが、案の定複数の路線でまたも人身事故が起きたために遅延が起こっていました。これだけ人身事故が連日と続いているにもかかわらず、どこのニュースも報じないと言うのもまた異常なように思えます。

 そんなわけでこの「内戦状態の日本」ですが、結論から言うと私は現在の日本人は互いに負荷を掛け合っている状態で、それこそ本来受けなくてもいいストレスを過剰に受け合っている状態にあると考えております。
 では何故日本人は互いにストレスを掛け合うようになったのでしょうか。最初に断っておきますが私は基本的に人間同士がなにかしら接触を持つことそれ自体、互いにストレスを掛け合うことになると考えております。以前にどっかで誰かが言っていましたが、「長生きをする秘訣は一つ、誰にも会わず、何にも怒らず、何にも感動せず一人でずっと過ごすことだ」と言いましたが、まさにこの通りでしょう。

 ですので人付き合い自体は基本的にストレスのかかるものと前提しているのですが、日本人の場合はそれこそほんの少しの他人との接触でも大きくストレスを受けたり与えててしまうと私は考えております。以前に書いた「空気の読み方、呑まれ方」でも似たようなことを書きましたが、日本人は周囲の意思や行動に過剰なまでに合わせようとするとともに、周囲もそれを強く期待する傾向があり、それがこの過剰なストレスに繋がっているのではないかと私は睨んでいるわけです。

 いくつか例を出すと、最近2ちゃんねるとか見ていると大学に入ったものの、一緒にご飯を食べる友達がいなくて一人で食堂に行くのを恥ずかしく思い、便所で一人で食べているという書き込みをよく見かけます。もちろんこれはただのデマかもしれませんが、これ以前にも日本では「ランチタイム症候群」といって、社内に昼食時に一緒に食べる人間がいないから退職するOLの事例が報告されているので、私としては本当にそんな人間もいるのだろうと見ています。

 はっきり言ってメシくらい誰が一人で食ってようが周りは誰も気にする必然性はありませんし、当人も意識する必要もないでしょう。しかし現に今の日本では「一人で食べる」ということが「友達がいない」という意味と感じ、その事実を人前で晒すのは恥ずかしいと思う人間が多いそうです。それこそ本人が気にしなければいいような問題で、私としてはやや自意識過剰ではないかと思ってしまいます。私なんか常に一人で130円のわかめうどんを食って過ごしてたんだし。

 この便所での昼食は本人の自意識過剰、言い換えるならば反応過剰ですが、これとちょうど逆の好例となるのが「はしの持ち方」です。恐らく日本人なら誰でも一回は「はしの持ち方」について注意されたりしたりした事があるでしょう。もちろんきれいな持ち方であるに越したことはありませんが、私としては人それぞれに使いやすい持ち方があるのだからいちいちそんな細かい所まで突っ込む必要はないだろうと常に思っています。第一、こんなの正解なんてあってないようなものなのだし。

 これら便所メシとはしの持ち方はちょうど比較するのにいい例でこのまま説明しますが、便所メシは当人による周囲に対する過剰な反応で、はしの持ち方は周囲に対する過剰な期待(要求)であり、この様に日本人は何事に関しても他国と比べて他人との接触で受けるストレスと与えるストレス両方が異常に大きい、ドラクエでいうなら特技の「すてみ」を常に使っている状態に近いのではないかと私は考えております。こんな風に考えるのもただ単純に私が周りを気にせず自分勝手な性格だからとも言えるかもしれませんが、少なくとも自分が外国で見たり相手したりした外人(同じアジアの中国人を含む)と比べると、現代の日本人と韓国人は特にこの傾向が強いように思えます。

 もちろんこれには地域によっても差があり、関西と関東ではいろいろと比較すべき点も数多いのですが、この反応と期待というのは両方とも一心同体的な部分があり、卵が先か鶏が先かの議論になってしまいますが、過剰に気を使ってくれるから要求がでかくなったり、相手の要求が過剰なために必要以上に気を使うようになったりと、どっちか片っ方が大きくなるともう片っ方も大きくなる傾向があります。

 ここでまた別の例を出しますが、日本が他国と比べて圧倒的、それこそ比較にならないほど多いものの一つに、駅員などに対する暴力があります。これまた大分昔に書いた「日本人の欠点」の記事にても取り上げていますが、電車が遅延したりした際に日本人は駅員に対して猛然と暴力を振るう傾向が強くあります。実際に阪急でバイトしていた友人らもみんな殴られた経験があると言っていましたし、電車が止まっているからといって駅員に対して怒鳴り続けるおっさんやおばさんを私も何度も見ています。

 何故日本人がここまで駅員に対して暴力的になるのかと言えば、原因は複数あれども大きなものの一つに「電車は時間通りに運行して当たり前」という前提意識が強く働いているからだと思えます。そんな風に考えるものだから一分でも遅れようものなら、「待ち合わせに遅れる!」などと怒鳴りつけるし、またそのように乗客が強い期待をかけるものだから鉄道各社も時間に対して非常に正確に努めるようになり、どんどん正確になるもんだからますます遅れようものなら乗客は怒り出して……。

 このように反応と期待は回を重ねるごとに互いに大きくなる事はあっても、小さくなる事はほとんどありません。なにもこんな大きな例を出さずとも、前のデートでは手をつないでくれたから今度はチューが来るだろうと青春期の男の子なら誰でも考えるでしょうし、冷静に考えるならばごくごく当たり前の話です。
 しかし日本の場合はそれがすでに突き詰める所まですでに来ており、互いの反応と期待があまりにも大きいものだからストレスフルな社会となっているのではないかというのが私の意見です。次回は具体的な事例を出しつつ、どうすればこのストレスのチキンゲームから脱する事ができるのかという私案をご紹介します。

2009年12月11日金曜日

内戦状態の日本 その一、導入

 今日は金曜日ですが、この一週間は移動という面で大変な一週間でありました。というのも月曜から金曜まで冗談抜きで毎日東京近郊の鉄道路線が通勤通学のラッシュ時にどこかしら遅延や運行中止になり、止まった路線に止まらず振り替え輸送などによって周囲の路線でもいつもより混み合うといった現象が続いた一週間でした。水曜日には私の使っている路線が見事に止まってしまい、すぐ復旧するかと思っていたら結局二時間の足止めとなってしまいました。

 そんなわけで鉄道各社、並びにバッティングした人にとってはまさにてんやわんやの一週間でしたが、その遅延や運行中止の原因というのが私が確認した限りすべて人身事故によるものときたものだからまたやりきれません。人身事故と書けばただ単に電車に接触して肩とか腕に怪我をしたというのももちろん含まれますが、基本的には飛び込み自殺が原因と見てほぼ間違いないでしょう。この一週間に限れば遅延の程度もさることながら私が二時間足止めを受けた際にも現場検証が行われているとの放送がありましたし、またこの師走という時期を考えると飛び込み自殺が増えるのも無理がないかと思われます。

 それにしてもこの一週間、下手すりゃ来週以降も飛び込み自殺が続くと言うのであればいくらなんでも異常としか言いようがありません。もちろん去年より続く不況の影響というものが主要因であろうことは予想に難くありませんが、このところ私は不況不況と言われつつも、こうして毎日電車が人身事故で止まるというのはもはや日本人の精神構造や社会価値観に病理というか、大きな欠陥があるためではないかと考えるようになってきました。

 今年はまだ終わっていませんが、ここ十年と同じく今年も自殺者数は三万人を超え、下手すれば過去最悪の数になるかもしれないとの予測が早くに飛び交っております。また自殺というのは案外成功し辛い行為であって自殺成功者の影には約十倍もの未遂者が統計に隠れて存在すると言われており、仮にそうであるとすると日本では毎年三十万人以上も自殺を図っているという計算になります。
 また自殺行為に密接に関わるうつ病についても、政府もあれだけ予算使って対策を取っているにもかかわらず発症者数の伸びに一向に歯止めがかかりません。

 日本の自殺率(十万人辺りで何人自殺するかという割合)は恐らくまだ変わってないでしょうが、ちょっと前の統計では世界で九位でした。日本よりまだ八カ国も自殺率の高い国があるとはいえ同様に自殺率の高い韓国と並んでその国の規模からするとこの数字はやはり異常で、政府としても対策としてかなり前からカウンセラーや精神病院を設置するなど行ってきましたが、そういった対策によって認知件数が増えた結果とも見ることが出来ますが、今のところはずっと減少せずに伸び続けております。

 こうした精神医学面からの対策がどうして効果を出さないのかということについてこの頃よく考えてはいるのですが、あくまで私の見方として、こうした自殺やうつ病と言った問題は一見すると個人が抱える問題と思われがちですが、実際には個人を超えた日本人社会に何かしら問題があるのではないかと見ています。そして仮にそうであれば、いわば日本人は互いに互いを自殺やうつ病に追い込みあっていると言う事になります。

 こういった状況を踏まえて我ながら過激なタイトルをつけてしまいましたが、私は今の日本社会はもはや内戦状態にあるといっても差し支えないのではないかと考えております。現に一年間で見ればイラクでの米兵の死者数を日本の自殺者数は超えており、自殺者を戦死と捉え、自殺未遂者やうつ病など精神疾患を抱えた人を戦傷と捉えるならば、日本は相当規模の戦争を毎年継続して、しかも日本人同士で行っていることとなります。

 では一体何故、このストレスという武器で攻撃しあう内戦が起こるのか、またどうすればこの内戦を終結させる事が出来るのか、そういった点について明日明後日と短期集中で私の意見を紹介使用と思います。今日はあくまで導入で切り上げますが、元々自殺を社会学的なデュルケイムというフランス人が分析したことで社会学が名を挙げたということもあり、個人の視点で分析する心理学もさることながら社会学もこういった分野へどんどんと研究を広げていくべきではないかと考えております。

2009年12月9日水曜日

見上げた後輩の話

 時間がないのでまたどうでもいい私の昔話ですが、私は今でこそ訳のわからないことを毎日ブログに書き綴っているものの、こう見えても中学と高校時代は水泳部に所属していました。水泳というものは基本的に個人競技なので水泳部内は運動部としては拘束も緩く気楽な部活なのですが、夏休み前後ともなるとシーズンという事で部員揃って参加する大会も増えていき、一匹狼の集まりみたいな水泳部でもこの時ばかりは同じ学校の選手が出場するレースにみんなで応援をしたりします。それでもみんなやる気なかったけど。

 この話はそんな水泳大会の一つに私が中学三年生だった頃に参加した時の話ですが、夕方になって大会も無事終わり、私の部活内でも解散となったので家路に着こうと近くの駅に私一人で向かった所、その駅にてなにやら今年水泳部に入った一年生が右往左往しているのが見えました。向こうはまだこっちに気がついておらず、面識もほとんどないんだしそのまま無視して帰っても良かったのですが一応声をかけてみたところ、その一年生は帰り方がわからずに困っていました。

 少し内容を詳しく説明すると、その日大会があった会場は二つの別々の路線に挟まれた場所にあり、その一年生と私は別々の路線の駅からその日会場に来ていました。ところが朝に会場へ来る際にその一年生は友達同士で来ていたようなのですが、帰りはうまいこと友達たちと合流する事が出来ず、一人で目的の駅へ向かおうとしたら見事に逆方向の駅へとたどり着いてしまっていたというわけです。

 もちろんそこから本来帰るべき駅へ戻ればいいだけの話なのですがその一年生は逆方向に来てしまうなどただでさえ周辺の地理に疎く、また着いてしまった駅から電車に乗って無理やり自宅に帰ろうものなら大回りになってしまい、割り増し分の電車賃を払えるだけのお金も持っていませんでした。そんなわけで一人でパニクっていたのですが、さすがにほとんど面識がないからといって見捨てるわけにも行かず、私の所持金から五百円玉を抜き取ってその一年生に渡し、こう言いました。

「いいか、このお金でそこの駅前から出ているバスに乗るんだ。あそこから出ているバスなら反対側の本来君が乗るべき路線の駅に行ってくれるから道に迷う事もない。出来れば一緒についていってやりたいが、さすがにそこまでついていくと今度は俺が帰れなくなる」

 そういって乗るべきバス亭まで連れて行ってバスに乗るところまで付き合ったのですが、次の日の部活にはまた元気に来ていたのでまぁ無事に家に帰れたようです。
 ただ私もあまり面識がない一年生ですし、向こうとしても一個上の二年生ならともかく三年生の私となると接触も少なく、またこっちの名前も知らないのだから渡した五百円玉は返ってこないだろうと私は踏んでいました。元々そのお金は私の親が緊急用に持たせていたお金だったのでわざわざ請求するほどでもないし、無事に帰れたのだからそれで良いだろうと私も気にせずにそのまま過ごしていました。

 それから一年後、付属の高校でも水泳部に入っていた私はその年の夏休み、本音ではあまり参加したくなかったけど夏休みの合宿に参加しました。合宿は自由参加だったのでそれほど参加人数は多くなかったのですがその中に例の元一年生も参加しており、なんとはなしに去年はあんなことあったなと遠目に見ていたら向こうも私に気がつき、就寝前に私に話しかけてきました。

「去年のあの時は本当にありがとうございました。これ、大分遅れてしまいましたが借りていた五百円をお返しします」

 話を聞くと向こうも向こうで気になっていたらしいのですが、私が一切接触しないもんだからなかなか切り出せず、こうして合宿で一緒になってようやく言い出せたそうです。まぁ元はといえば、何も声をかけようとしなかった私が一番問題なのですが。
 ただこの一年生(もうその頃は二年生だけど)もしっかりと一年も昔のことを覚えていて、確かに遅れたものの律儀にお金を返しにきたということに私は素直に感心しました。こっちなんか返せなんて一言も言わなかったし。

 その後この一年生は生徒会にも入って活動するようになったのですが、この一件での彼の律儀さを知っていたので彼ならきっとしっかりと活動してくれるだろうと、陰ながら温かい目で見守っていました。世の中、中々捨てたものじゃないなと私に思わせてくれた後輩でした。すぐに私より背が高くなったのは気に食わなかったけど(゚⊿゚)