また本題と関係ないけど、数年前に「あずきちゃん」の原作が某秋元康氏だと知った時はマジビビった。
それで本題ですが、例の中国の猫歴史漫画を読み続けて現在は五代十国の時代にまで来ました。この五代十国とは唐から宋に至るまでの時代で、五つの王朝と十ヶ国が乱立したことからこのような名称となっています。西暦で言えば907年から960年のわずか54年間で、五つの王朝の平均年数は約十年ちょいと極端に短いなど移り変わりが激しく、実際に中国人でもこの時代の流れをきちんと把握している人は少ないです。
もっとも、三国時代の次の晋朝が滅んだ後である南北朝時代こと五胡十六国時代とくらべれば、まだ流れがはっきりしているので五代十国はマシな方ですが。
話を本題に移しますが、この五代十国時代においては「後漢」という王朝が興っています。なんで後漢なのかというと、この王朝を起こした皇帝が劉知遠といって、漢朝の劉氏と同じ苗字で本人も漢朝にシンパシーを感じていたことからこのような名称となりました。もっとも、劉知遠自体は漢朝の皇室の血筋を引いていないことはほぼ確実ですが。
この後漢は典型的な軍閥王朝で、「強き者が天下を取る」的な、ローマ帝国で言えば軍人皇帝時代に近い五代十国を代表する王朝で、完全に武力のみで開かれた王朝でした。また王朝を興したと言っても当五jはまだ各地に軍閥は残っており、また中国にとって若干トラウマワードな燕雲十六州には「遼」こと契丹族の王朝も控えており、天下は全く定まっていませんでした。
そんな最中、後漢を起こした劉知遠が病死し、その後を劉承祐(隠帝)が継ぎます。継承時の年齢は幼く、重臣らが輔弼する形で政務が運営されていたのですが、この劉承祐は長じるにつれてあれこれ口出ししてくる重臣らを疎むようになります。それどころか、自らの皇帝としての地位を簒奪しようとしているのではないかとも疑うようにもなりました。
そしてある日、自らの権勢拡大と重臣らの排除を目論み、首都において突如重臣とその一族を襲い、ほぼ全員を皆殺しにしてしまいました。ただ詰めが甘いというべきか、この時外部に遠征に出していた部隊が存在しました。
その部隊を率いていたのは郭威という将軍で、マジで一介の平民から軍功によって先帝に見出された叩き上げの軍人でした。郭威は首都での白色クーデターによって自らの家族が皆殺しにあったことを知るや、率いていた部隊ごとそのまま首都に進軍する形で反乱を起こします。これに対し劉承祐も首都から打って出て迎え撃ちますが、世論的にも郭威の支持が大きかったことと、指揮官としての圧倒的な実力差から皇帝である劉承祐の部隊は惨敗し、乱戦の最中に劉承祐も殺害されます。
こうして首都を占領した郭威は当初こそ劉家の一族(劉知遠の甥)を次の皇帝として擁立しようとするも、内々から反対も多かったため、結局この甥を殺して郭威自身が皇帝に就きます。
こう書くと郭威がひどい人間の様に見えますが、上記のようなプロセスは五代十国ではよくあることでした。この時代の皇帝や軍閥首領は軍隊の支持が非常に重要で、軍隊が異論を唱えた場合はそれに従わざるを得ず、郭威に限らず軍隊に担ぎ上げられる形で、本人はその気がないのに皇帝にされた者は他にもいました。
話を戻すとすったもんだで皇帝となり「後周」という王朝を開いた郭威ですが、彼自身が軍部の増長が乱世を長引かせているということをよく把握しており、皇帝となるや軍部、特に各地の軍政を担う節度使の権力や軍権をそぐことに注力しましたが、志半ばでその事業を果たし切れないまま病気でこの世を去ります。そして去り際に、自らの養子を次の皇帝に指名しました。その皇帝こそ、後周の二代目皇帝となった柴栄でした。
柴栄は郭威の妻の兄の息子、つまり郭威の義理の甥にあたる人物でした。実父の家は裕福だったのですが柴栄が幼い頃に両親がともに亡くなり、仕方なく貧乏な一兵卒でしかなかった郭威の家に引き取られることとなりました。
ただその後、郭威が軍功によって出世を遂げ大部隊を率いるようになると、彼の右腕となって養父の活躍を支え、軍人として大きく成長します。また軍事一辺倒に限らず、幼い頃から勉強にも明け暮れ、文字通りの知勇兼備の名将となりました。
しかし前述の劉承祐による白色クーデターの際、養父の郭威とともに遠征に出ていた柴栄はその親族をすべて皆殺しにされます。結果的にこの郭威と柴栄は養父・養子の関係ながら、互いに一人しかいない親族という関係になり、その紐帯も実の親子以上に結びつきが強かったとされます。
そうした背景もあり、死に臨んだ郭威は柴栄を自らの後継者として皇太子に立て、実際にその通りに柴栄が二代目皇帝として後を継ぎます。少なくとも自分が知る限り、直接的な血のつながりのない養子に皇位を譲るという例は他にはありません。
こうして皇帝となった柴栄ですが、養父の期待を裏切らず、というより養父の方針を見事なまでに達成してのけます。皇帝直属の親衛隊(禁軍)を設置して中央権力を強める一方、地方軍閥の力は徹底的にそぎ落とし、また老兵らに土地をあてがって農民に変えて耕作放棄地を開墾させるなどして、短期間で劇的に後周の国力を高め続けました。
なおこの際、当時は働かなくてもごはんが食べられるということから仏門に入り僧となる者が多かったのですが、こうした連中も無理やり農民に変えた上、仏像も溶かして銅銭を作るなど仏教に対する弾圧も行っています。もっとも後世からは「必要な弾圧だった」的に評価されていますが。
柴栄は未だ各地に割拠する独立国を併呑して、中国全土の統一も目指していたものの、志半ばで39歳にて逝去します。あとを継いだのはわずか7歳の息子で、先の例の様に軍部はこの幼い皇帝には従わず、同じ軍人出身である別の将軍を立てて後周を滅ぼしてしまいますが、この時推し立てられた将軍は柴栄の息子を殺したりせず、その生命を保護し、その後若くして亡くなった際には皇帝の例で以って葬儀を行っています。この将軍こそほかならぬ、次の宋朝を開いた趙匡胤でした。
後周を受け継いだ宋はその後、華南の南唐を併呑し、燕雲十六州を除く中国全土の統一を達成しますが、この統一事業は先の柴栄による基礎作りがあったから成功したとされます。そうしたことから、柴栄は五代十国時代の皇帝の中でも最優秀の人物であったと評価されています。
個人的な感想で述べると、先の一族皆殺しを経て互いにたった一人だけの親族同士となった郭威と柴栄のバトンリレーは、非常に心打つものがあります。結果的にこのバトンリレーによって長らく続いた五代十国という乱世が終わりを迎えるきっかけが得られており、世にも稀な養父・養子による皇帝継承劇は見るものを感動させるだけでなく、次の時代を大きく切り開いたという事実は深く感じ入りさせられます。
2 件のコメント:
歴史に「もし」はないと言いますが、もし柴栄が長生きしていれば
燕雲十六州も奪還し、完全に中国を統一出来ていたかもしれません。
趙匡胤の死についてですが、本当に自然死だったのかもしれません。
まだ呉越、北漢、燕雲十六州が残っている状況でこれらの国の攻略
には趙匡胤の軍事の才能が必要です。そんな状況で趙匡胤を暗殺
すれば混乱が起きる可能性があります。事実、柴栄が急死した時
北漢は攻めてきています。 私の推測としては趙匡胤の死は
自然死だった。だが趙光義が彼の急死を利用して緊急時の臨時
代行という名目で皇帝になり、その後は邪魔者を排除し本当の
皇帝になったと考えています。
柴栄があと10年生きていたら、本当にその後の歴史は大きく変わっていたでしょうね。王朝も、そのまま周朝が続いていたかと思います。
趙匡胤の死は「千年経っても議論が尽きない」とまで言われていますが、おっしゃられている推測は自分も非常に納得できます。もっとも弟君もその後王朝を続けさせられているのだから、まったく無能というわけじゃなくむしろ優秀なほうなのですけどね。
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