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2018年2月21日水曜日

花園祐は中国人か?

 早いもので今年の春節休暇も今日までで明日からはまた出勤の日々に戻ります。今年の春節は何故か曇天、雨天が多く、晴れの日は一日しかなく家にこもってばかりでしたが、これだけ雨の多い春節というのも私にとっては初めてです。
 そんなラスト休日ということもあってブログに力を入れた記事を書けるのも今日に限られると考えたため、前から準備していたネタを放出することにします。

 知ってる人には早いですが、私がJBpressで書いた記事には私への批判としてよくヤフコメなどで、「こいつ絶対中国人だろ!」という批判が枚挙に暇がないほど書かれます。これはごく最近のことではなく2016年末の大江戸温泉の記事を書いた頃から続いており、個人的に興味深かったのはわざわざこのブログを少し閲覧した上で、「いや、日本育ちの中国人かもしれない」などと真面目に言っている輩もいたことです。冗談なら笑ってあげたいところですが、前後の文面からして大真面目に書いているので逆に笑えます。
 第一、外国人でありながらほぼ毎日こんな駄々長いブログを書いている奴がいるかと私は思うし、中国人でありながらこれほど日本語でブログを綴り続ける奴がいたら逆に脅威を感じます。しかしそうしたことはさておき、具体的には「中国を誉める」、「日本を貶める」発言をしたら日本人ではないと決めつけ、考えるだけならまだしもわざわざ文字にして残す人間が一定層いるということに間違いはないでしょう。

 なお書くまでもないでしょうが、少なくとも私の知る限り半島や大陸出身の親類はいません。そもそも中国で暮らしているのも私だけで、代々広告業に就いてきた一族出身でありながら、同じメディア業とはいえ執筆方面を生業にした点で私は一族の中でも異端に属します。

在日認定(Wikipedia)
在日認定(ニコニコ大百科)

 認定先が中国人か韓国人かで異なりますが、プロセスとしては共通しているため敢えて上記二つのリンク先をつけます。一言で在日認定と言っても韓国ネット界による在日認定と、日本ネット界による在日認定と二つありますが、今回私が取り上げているのはもちろん後者です。上のリンク先ではどちらかというとニコニコ大百科の方が後者を中心に取り上げています。

 まず実際に在日認定ならぬ中国人認定を受けている私の感想を申すと、恐らく逆に受け取られるかもしれないし何をどう言っても反論されるでしょうが、正直あまり気にしていません。以前の記事でも書きましたが普通に面と向かって人間扱いどころか精神障碍者だとしつこく罵られた経験もあるし、何より刃物ちらつかせて直接脅されてるわけでもないので反応のしようがないので本音といったところです。そもそも歴とした根拠もなく論理が明らかに破綻した意見であり、私自身としては別事実や反論を構成するきちんとした根拠を突かれる方がハートに来ます。
 それよりも気になることとして、「一体何故彼らは私を中国人だと主張するのか」という点に興味を覚えました。論理的に明らかに破綻した意見で見ようによっては論理能力がなく、自らの至らなさをわざわざ晒すような意見をどうしてまた文字にしてまでネットに残すのか、そこへ至るまでの過程というか動機とは何なのか、やはり社会学出身だからかこうした動機面での行動原理解析の方向に考えが向かいがちです。

 では一体何故、中国人、韓国人をひっくるめて外国人認定を声高に主張しようとするのか。まず真っ先に浮かんだ仮説としては「願望」で、試しにこの点について話してみた友人らもほぼ異口同音にこの言葉を挙げてきました。
 何故願望だと思ったのかというと、なんとなく懇願や祈りに近いというか、「そうであってくれ!」と言っているような主張の仕方でコメントする人間が多いからです。そしてなにより、願望であれば根拠は全く必要ありません、願望なのですから。

 しかし願望であれば一体何故彼らは祈るのかという、こちらへの動機説明がさらに必要となってきます。この動機については私自身も考えあぐねて、単純に自分の意見と異なる人間が自分とは属性面で異なっているはずだという動機(←同期性、内と外の論理)、海外事情への無知や無関心がもたらす動機(←閉鎖性の論理、洞窟のイドラ)などの筋でしばらく考えましたがいまいちしっくりこず、先にこの方面で誰か分析していないかなと調べたところ、割とすとんと落ちてきたのが以下の意見です。

ネトウヨは、卒業することを知らない
湯浅誠×やまもといちろう リベラル対談(前編)(東洋経済)

 こちらの対談記事の2ページ目にあるやまもと氏の発言にこんなものがあります。

「例えば『あなたは何が誇れますか?』と聞かれたとき、職歴が誇れない、学歴が誇れない、家系が誇れない。日本人であることしか誇れない人たちが結構いっぱいいます。本当は、高いところに自分の理想があっても現実の自分はそこにまったく手が届かない。だから、彼らなりの合理的な選択として右翼的な発言をするコミュニティや、ある種の反原発運動のような極端な思想と活動をしているネットのねぐらに居場所を見つけようとします。とりわけ、右翼的な発言をする彼らのアイデンティティは、実は日本人であること以外ない。そうなると民族主義的な発言をしやすくなるということです。」

 これを読んで初めてすとんと納得しました。敢えて補足を付けたすと、「他に反論できる根拠や意見がなく、『優秀な民族』である日本人という国籍の違いでしか相手の上に立てない」という理論、というより願望を源泉として、反感を持つ相手に外国人認定をせざるを得ないというのがああいったコメントが出る動機だと思います。もちろん前提として、「日本人は韓国人や中国人より絶対的に優れた民族である」という差別意識があることは言うまでもありません。
 先にも書いた通り、大江戸温泉の記事ではわざわざこのブログを読んだ上で「日本育ちの中国人に違いない」と書くのは私は非常に不自然に感じました。最初から論理が破綻しているのだからただ中国人認定だけしてればいいのに、わざわざ「日本育ちかも」と書いたのは、恐らくこのブログの存在が論理破綻を増させるため、それに対して何らか少しでもいいから反論をしようとしたもかもしれませんが、先にも書いた通りその必死さは滑稽でしかないでしょう。ですがこうした行動や主張は願望であると考えれば、必死にもなるのでしょう。

 簡単にまとめると要するに、「反感を持つ相手を中国人や韓国人だと信じることで、日本人である自分は相手より上の立場にある」と信じるための行動が、外国人認定の行動の源泉だと私には思います。この結論に至った時に私が最初に感じたのは魯迅の「阿Q正伝」と、こう言っては何ですが、韓国ネット上の過激意見論者に似ているなということでした。多分お互い嫌悪し合っているでしょうが、実体は同族嫌悪でしょう。
 なので先にも書いている通り私としては気になる批判でもなんでもないのですが、私が気にするかどうかなんて二の次と言えるでしょう。というのも外国人認定は相手への批判というよりは、自己を慰めることが主眼の主張だからです。逆を言えば、まともな反論手段を持たないと宣言しているようにも見えます。

 ここだけの話、私がJBpressで書く記事にはほぼ毎回必ず1個か2個の論理の穴を敢えて用意しています。読解力のある人はきちんとその点を把握して人によっては突いてきますが私の実感だと、コメントを残さないだけなのかもしれませんが、あまりきちんとこの点を突く人は見られません。
 私としては自分の意見の賛同者より、より鋭い指摘によって私を追い詰めるような人の方を求めています。そうした人間の厳しい指摘を受けた方が自分としてもより高みへ登れるし、また単純にそうした高い見識の方々と付き合いたいというのも本音です。そういう意味で私を中国人認定する方に対して、「つまらないことをいちいち言わず、もっと誰もがため息をつくような鋭い反論で自分を刺し殺して見せろ」と言いたいです。まぁ単純に、もっと面白いこと言って見せろよということです。

 その上ではっきり言うと、外国人認定するということは自分に他に何もないということを宣言するようなものでしかありません。しょうもない低次元の批判に終始するくらいならもっと上をみた方がいいというのが私個人の考え方です。

2 件のコメント:

上海忍者 さんのコメント...

キミは外見的に韓国人に見えますわ。性格的に上海人ですわ。

花園祐 さんのコメント...

 上海人ほど無駄に要求とか高くないって(´・ω・`)