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2021年4月27日火曜日

ゲームの「天地創造」の思い出


 また急ですがかつてスーパーファミコンで発売された「天地創造」というゲームについて語ります。

 このゲームですが発売されたのは1995年ともはや太古の時代なのですが未だにファンは多いようで、上記動画のようにファンアートが未だに制作されているそうです。なおこの動画は、この「天地創造」でBGMのコンポーザーをしていた小林美代子氏のサイト経由で知り、上記動画のアレンジ曲も小林氏が制作、提供しているとのことです。

 ゲームの内容についてですが、単純にアクションゲームとしてもそこそこ楽しく、また一部謎解きがあるものの子供でもとける範囲の難しさで、バランスのいい作品でした。このひとつ前の「ガイア幻想紀」はやや謎解きが難しいところがあるのと、シナリオが恐らく開発期間が足りなかったのか後半で物凄い省略されるなど完成度が低かった点を考慮すると、天地創造も後半のストーリーがやたら駆け足ではあったものの、完成度では比較にならないほど高かったです。
 ちなみにガイア幻想紀については、中盤の空中庭園というステージで本当はギミックを動かして障害を取り除かないとダッシュで坂を登れない箇所があるのですが、実はここ、ジャンプボタンと攻撃ボタンを連打すると坂を乗り越えてしまえるバグがあります。っていうか攻略法わからないから試行錯誤を続けてそのバグで攻略してのけてしまったのですが。

 話を戻すと、この天地創造を私は1996年の1月、それも3日に確か買ってもらっています。何故かこの日にソ連人民の敵であるうちの親父と姉貴と一緒に秋葉原行って、なんかゲーム買っていいと言われて雑誌のガンガンで紹介されていたから天地創造を選びました。対抗馬は、桃太郎電鉄DXでした。
 ゲーム自体は前述の通りしっかりできてて楽しめましたが、それ以上に自分がはまったのはまさに上記動画で流れるBGMでした。あまりにも気に入ったことから姉貴と半額ずつ出してサウンドトラックまで購入しました。それまで音楽には全く興味なかった私でしたが、この天地創造のサウンドトラックは何度も聞き続け、大学進学で京都に行くときもわざわざ手に携えて持って行ったほどでした。

 先ほどこのゲームについて友人とも話しましたが、制作会社のクインテットは2000年代中盤くらいにどうも解散した模様で、権利関係も曖昧なままなことからこのゲームの再販、再配信はほぼ絶望的だと思います。この手の倒産したゲーム会社の名作が権利関係の問題で再版されない問題はかねてから頻発しているだけに、発売後20年経って権利関係が不明若しくは後進の届け出がないゲーム作品に関しては、一定の保証額(権利保有者が現れた際に支払う)を預け入れる代わりに、自由にリメイクできるような時効法などを整備してもらいたいものです。

 というわけで、次回は「パラサイトイブ」について語ります。

2021年4月23日金曜日

まとめ買いした漫画の内容について


 上の動画は最近ハマってみているものですが、ピアノの練習というか猫乗り曲芸弾きの練習にしかもはや見えない。
 話は本題ですがGW間近となったので買い控えていた発売日の近い漫画を一気に購入して今読んでおり、それらをいくつか紹介します。

1、金田一37歳の事件簿(9巻)
 非常に期待していたもののやや拍子抜け。前巻から続くポルターガイスト屋敷のトリックと犯人は大体読めていたので動機に注目していたけど、如何にもミステリーでありがちな「実は家族だった」エンドでがっかり。
 それ以上にがっかりだったのは次の話、っていうかキャラで、旧シリーズでも準レギュラーだった金田一二三が大人になって再登場したものの、なんかイメージが固まっていないのか作画がページによってややブレがある印象を受けました。そもそもこのキャラ、旧シリーズでも自分からして存在するだけで不快なキャラだったため、今シリーズで出てきたという事実それ自体でなんかテンション落ちます。一応、新編の犯罪展開はまだ読みごたえがあるので続き買いますが。

2、GANTZ:E(2巻)
 昔のある批評の言葉を引用すると、「漫画を馬鹿にしている」という印象を受けました。一応ガンツシリーズなので買って読んではみたものの、もう続きを買うことはないでしょう。
 一体何がクソなのかというと戦闘描写で、これがあまりにもだるすぎです。作画に関してはCG取り込みの背景でさすがというところですが、話があまりにも面白くありません。特徴を持ったキャラクターはいないし、敵キャラもでかくて刀振り回すのしかおらず、攻略方法もこっちも同じく刀振るうか羽交い絞めにするかの2択です。2択のくせして、同じような敵が3度も仕切り直して出てきた時には唖然とされられ、戦闘の展開もほぼ全く一緒で読んでてストレスすら感じました。

 あとどう見ても女性キャラなのに男の振りしてるキャラがいて、周りの人間も全く気が付かないというのも見ていて萎えます。男装させるならもっと徹底的に男に見せるようにすればいいのにそうした配慮もなく、明らかに女なのに誰も気が付かないというのはもはや逆でしかありません。

 逆を言えば、本家ガンツは戦闘描写が凄まじくよかったと改めて思います。「頭文字D」でも同様ですが、「こりゃどうあがいても勝てない……」と思わせる描写からの逆転劇の見せ方が素晴らしく、多くの人間が絶賛しているように大阪編の道頓堀におけるラストバトルは全漫画史上でも読者の想像をすべて裏切る屈指の逆転劇だったと自分は思ってます。

3、よふかしのうた(7巻)
 上二つが期待外れだったのに対し、こちらは期待を大きく超えるほどめちゃ面白かったです。ちょうど盛り上がる過去究明編みたいな話というのもありますが、とにもかくにも人物の表情などの描写が秀逸でした。
 この作者のコトヤマ氏は他の作家とは一線を画すキャラ描写をしていて、前作「だがしかし」が流行ってからというもの、作中でヒロインに使われた瞳を集中円で描くという手法を真似する漫画家が増えた気がします。そうした例を筆頭に割と他の作家にない人物描写をするのですが、それがこの巻の裏切られたり半ば絶望したりしたり、複雑な感情を織り交ぜたりするキャラの表情で抜群に生きてて、表情を見るため一コマだけでもずっと眺めてられる妙な深みを感じました。あと単純にコマ割もきれいで、手早く読む箇所とじっくり読む箇所をまるでコントロールされてるかのように同じ話でも読むテンポが変わってくるのを感じます。まぁそのコマ割の妙を一番感じたのは、中二病的な体験がばれるというページでしたが。

4、ゴルゴ13(119巻)
 言わずと知れたこち亀越え確実な長寿漫画ですが、何故か113巻と119巻のみ今回購入しました。なんでかっていうと、113巻は間違えて購入したためで、119巻は読みたい話があったからです。その話というのも、「間違われた男」が収録されているからです。
 詳細はリンク先のページに解説されていますが、この回ではただの一般人がゴルゴ13に間違われるという、ゴルゴ史上屈指のギャグ回だと言われています。

 なお偶然ですが119巻にはチベット絡みの話も収録されています。この話とか中国政府なんかマジギレしそうな内容なんですが、果たして中国政府の役人はゴルゴ13もきちんと内容チェックしているのかが気になります。にしても時代が時代だから、113巻も119巻も90年代中盤の事件にかたどった話が多かった。

2021年4月15日木曜日

鉄の竜騎兵


 上記動画は「THE COCKPIT」というアニメ短編集に収録された「鉄の竜騎兵」という作品です。なんでこの動画を急に紹介しだしたのかと言うと、この作品のタイトルが「鉄の竜騎兵」だということをつい昨夜に知ったからです。

 元々、この作品の原作はヤマトでお馴染みの松本零士氏で、ビッグコミックで1970年代後半からちょこちょこ掲載された「戦場まんがシリーズ」の一つです。なおアニメは1993年の制作となっています。
 この作品ですが、当初はテレビ放送されたものをビデオ録画されたものを見たのではと思っていましたが、アニメ制作年から考えると、ツタヤでレンタルしてきたのを自分は見ていたのかもしれません。というのも見たのは小学校3年生頃という記憶があり、1993年だと割と年代的にも一致するからです。

 無論、こんなミリタリーな作品を自分からみようと思うはずはなく、見るきっかけとなったのはソ連人民のてきである親父です。借りて来たシーンは全く記憶にないものの、なんか自宅でやたらご機嫌で「大人のアニメや」といいながら親父が見ていたので、自分も連れだって一緒に見ることとなりました。
 当時見た感想としてはちんぷんかんぷんもいいところで、特に冒頭で日本軍が野砲を打ち込んだところ米軍から反撃を受けて連隊が陣地ごと吹き飛ぶシーンについては、画面では壮年のおっさん二人が防空壕に潜り込み、出てきたら陣地が跡形もなく吹っ飛んでいたという風に映るので、子供の頃の私はてっきり撃ち込んだ後の野砲が暴発して周り全部吹き飛んだという風に理解していました。防空壕に潜り込む前に兵士も、撃つべきじゃないのに言わんこっちゃないなどと砲撃したことをなじるセリフがあったことも影響しています。

 また結末に関しても、まぁ救いのない結末であり、見終わった後の感想としてはあまり言い物ではありませんでした。そもそも何故敵軍に単身でバイク乗って突撃するのかそのメンタリティが当時わからず、また途中で降ろされた若い兵士も救われない結末であり、なんでこうなるんやという感想でした。
 そんな風にあまりいい印象を覚えていなかったものの、記憶には結構よく残っている作品で、昔わけわからない戦争アニメを見たというのは割と記憶していました。ただそれがどんなタイトルで、どんな媒体で作られたものなのかなどが全く分からず、テレビのスペシャル番組などで作られたものじゃないかという風に誤解していました。

 ではなんで昨夜にこの作品の正体を突き止めたのかと言うと、話せば長くなります。

 まず先日に公開された藤田信雄の記事で機嫌よくなって、彼が乗っていた零式水偵のプラモを作りたくなりました。元々、晴嵐のような水上機を一つ作ってみたいと前から思っていたことからAmazonでひたすら水上機プラモを検索してはお気に入りに入れていく作業を行っていたところ、水上機もいいけど陸上機、それも陸軍の戦闘機もまた作りたいと思っていろいろメーカーとか比較しているうちに三式飛燕のエピソードをまた読みたいと思ってWikipediaを見始めました。
 そうして飛燕のページを見ていたら末尾にこの飛燕が登場する作品として「戦場まんがシリーズ」のリンクがついており、どんな漫画やねんとリンクを辿ってみたところ、冒頭でオムニバス形式の戦記漫画で松本零士が書いており、OVA作品も出ているという記述を見て、「もしかして子供の頃に見たあのアニメもここからでは?」と、この時点でなんか妙な予感がありました。

 そうしてそのページを読み進めたところピタリと予感が的中し、まさに自分が子供の頃に見たアニメのプロットが「鉄の竜騎兵」の項目に書かれていました。思わぬところから自分の記憶をの確認再現を果たして驚きつつ、改めて確認するため動画検索をしてぶち当たったのが最初の動画でした。

 今回改めて感じたのは、子供だった頃の自分の理解力です。戦争の背景や兵器の仕組みなどが分からなかったことから冒頭に書いた誤解をしていましたが、10歳くらいの年齢だとああいう誤解をするのがかえって自然なんだなと大人の立場からみて感じます。
 よく同じ時代に放送されていた「Vガンダム」でも、子供の頃は主人公の13歳の少年が敵機をバッタバッタ撃墜するのに心躍らされたけど、大人になってみると少年兵を「使えるから」という理由でこき使いまくる主人公の周囲の大人に狂気を感じるといった感想を見ますが、これもそういった戦争という背景やルールがわからないことによる誤解の一種だと思います。少年兵の問題もまた、この点に集約されるでしょう。

 そういう意味ではちっちゃい子供にあれこれ戦争はどうとかこうとか教えるべきかという点について、やはり難しいという思いがします。全く教えなければそのまま無理解のままだし、かといって中途半端に教えても、物事を変な風に誤解して捉えてしまう可能性があり、アプローチの仕方が難しいです。まぁ水木しげる戦記は見せても全く問題ないでしょうが。
 私自身も軍属じゃないので戦争がどんなものかを理解しているかと言ったら無理解もいいところでしょうが、戦争は言うのとやるのとでは大きな違いがあるという点だけは肝に銘じておくようにしています。ただ自分が子供だった頃に「戦争はやったらダメ」と頭ごなしに言い続けるのもまた違うような気がして、そういう意味では案外、自分の戦闘機プラモ趣味のように、兵器というある意味感情のない中立的な道具というミリタリー趣味方面から徐々に入っていくのが意外と無難かもしれません。

2021年3月28日日曜日

90年代ホラーゲームの背景

 この土日も数時間ずつとはいえ残業して目が回りそうな状態です。晩飯も喉を通らず、土日の夕食でご飯1合も食べられなかったのはかなり久々な気がします。ちなみに学生時代は毎日の夕食で2合食ってたような。でもってその時、「何故世の中の茶碗はこんなにも小さいのだろう?」といいながら、どんぶりをデフォルトにしてごはんよそってました。

 話は本題ですがこの前ブログに書いた「慟哭 そして…」というアドベンチャーゲームをノーヒントで1回クリアしました。エンディングは何故かツインテールの女の子の黄金エンドのみたどり着きましたが、個人的にはあまりツインテールは上方としては好きじゃないだけに「どうしてこうなった(´・ω・`)」という感情も覚えるものの、横田守の書いたキャラ見るの久々なのでそこそこ満足してます。
 なお関係ないけど高校の図書館に「魔法戦士リウイ」だけはありました。

 まだ1回、それも単独エンドだけなので未だにこのゲームで主人公らを廃奥に監禁して殺しまくる犯人についてはその動機はおろか正体すらつかめていませんが、1回通しで遊んでみた感じとしてはゲームとしてそこそこ楽しく、また雰囲気もよく出ている気がします。逆を言えば近年、この手の不気味なホラーが減ったというかあまり遊んでいない気がして、元々このゲームはセガサターンで90年代に発売されていることを考えると、やはりあの時代の方がこの手のホラーが充実していた気がします。

 その90年代ホラーというのはどういうものかと言うと、「なんで襲われるのかがわかんない?」といった感じの正体不明ホラーじゃないかと考えています。貞子でお馴染みの「リング」なんかまさにその典型で、わけわからん貞子になんでして襲われなければならないのか、どうしたら襲うのやめてくれるのか的に迫ってくる内容がそこそこ受けたんだと思います。
 どうでもいいですが京極夏彦氏は昔、「土俵(リング)・でぶせん」などの作品を収めた「どすこい」という短編小説を出しています。

 話を戻すと、よくわからないのに謎の怪人なり正体不明者に襲われ、しかも人里離れた屋敷なり孤島なりに閉じ込められるという系の作品が90年代には多かった気がします。何故この手のホラーが最近減ったかと言うと、一つは携帯電話などの小型通信機器が発達して情報の取得や外部との連絡が容易になり、クローズドサークル自体が現代だとほとんど成立しなくなったことがあると思います。真面目にその手の空間作ろうとしたら外海上か山中しかもはやないです。
 次に、ゾンビが大量発生するなどのパニックホラーがやはり今強いことも大きいでしょう。特にゲーム業界に関しては昔と違って表現力が増し、三国無双並みにゾンビを大量に描画せしめることも余裕なため、海外でも売りやすいパニックホラーゲームがよく作られているように見えます。

 どうでもいいけど、無双が今度コラボするなら「バイオハザード無双」でもいいような気がする。

 またまた話を戻すと、さっきのパニックホラーの隆盛はある意味、90年代ホラーゲームの特徴というかその成り立ちを暗に示しています。どういうことかと言うと、昔はゲームを作ろうとしても表現能力などの制限があり、プレイヤーの操作や画面演出が非常に限定されていました。その限定された範囲でホラーゲームを作ろうとしたら、移動範囲、登場人物を制限できるクローズドサークルにするしかなく、必然的にああいうゲーム形態にならざるを得なかったのでしょう。
 またテキスト量なども制限があって、その辺も含めて犯人役が一見してよくわからない動機というか行動で襲い掛かってくるというパターンも作られていったのだと推察します。逆を言えば、最近のこの手のホラーやミステリー、サスペンス系作品はやたらと犯人の動機や殺人の背景を長々語ろうとする癖があり、犯人を追う主人公以上に犯人の人物造詣が掘り下げられ、どっちが主人公だと言いたくなるほど主客逆転した作品もみられます。

 私としては90年代に少年時代を過ごしていることもあってやはり上記のような「正体不明な恐怖」が個人的に好むのですが、今この手の恐怖を作ることのできるクリエイターはどれだけいるのか。そもそも襲い掛かってくるゾンビやクリーチャーを倒すばかりのホラーゲー全盛の時代で、そのような正体不明な恐怖が復権するのかとなるともはや疑問です。実際ゲームとしても、恐怖をあおる演出よりもアクション要素の方が重視されてしまってるし、昔のゲームみたいにヒロイン格の美少女キャラもそう簡単には殺せなくなってるし。

 まぁこう言いながら、自分が一番恐怖したホラーゲームは「SIREN」ですが。最近またYoutubeで関連動画を見まくってます。

2021年1月20日水曜日

中国版桃鉄で盛り上がる

 一部ニュースで報じられていますが、アリババのジャック・マーが約3ヶ月ぶりに表に現れました。でもってこの3カ月間何をしていてどうして姿を見せなかったのかについて何も語っておらず、闇が深いです(ΦωΦ)フフフ…
 それはともかくとして先月、会社の飲み会で同僚らと話をしていた際にふと誰かが、「中国版桃鉄とかあったらやばくね?」という言葉を洩らしました。

 桃鉄とは言うまでもなく、「桃太郎電鉄」という会社経営型ボードゲームのことで、先日発売された新作は過去最高という空前の売上げを記録するなど、根強い人気を見せつけました。この新作は発売前、それまでのキャラデザが一新されて「こんなの桃鉄じゃない!」などという批判も一部見られましたが、コロナの影響の巣ごもり需要などもあって、前述の通り現在も好調に売れているようです。ちなみにこの前評判と裏腹な好調な売り上げを見て、同じく最初キャラデザが批判されたロマサガのミンストレルソングを自分は思い出し「デッデッデデデー」というイントロを口ずさんでいました。

 話は戻すと、日本で好調な桃鉄ですが、かつてあったUSA版みたく同じシステムとゲーム内容で、中国を舞台にしたバージョンを出したらかなり面白んじゃないかと誰かが言い出し、それを受けて周りも「絶対やりたい!」などとかなり盛り上がりました。その場でいろんな案が出てきて、それこそ物件は四川省なら麻婆豆腐屋、北京なら北京ダック屋などお馴染みの地元料理店が並び、浙江省ならジャックデマーなネットショッピング企業が買えたりと、現実の産業配置でマップ作ったら普通に中国社会を遊びながら学べるなどと言い合っていました。

 もちろんこうした物件だけでなく、桃鉄でお馴染みの突発イベント案もいろいろ出てきました。真っ先に出てきたのは「共産党に財産没収される」でしたが、「そんなの生ぬるい、いきなり懲役食らって数年単位で休みになるとか」ともっとダーティなイベントを言う人もいれば、「それより高速鉄道カード使って移動しようとしたら脱線するなんてのもいるだろう「と提案する者もいました。

中国版桃鉄にありがちなこと(togetter)

 同じようなこと考えてる人いないかなと検索してみたところ、2011年と今から10年も前ですが掲示板が立っているのを見つけました。やはりみんないろんな案を出していて、

・目的地に釣魚島(尖閣諸島)がある
・物件どころか都市ごと葬り去るカードがある
・決算が毎回粉飾されている
・貧乏神が大躍進なのね、文革なのねと言って物件を消してくる
・貧乏神が共産党
・列車がよく事故る
・COMキャラのレベルは民工、城管、憤青、公安、党員、幹部という順番

 などなど、見ていてこっちもめちゃ楽しい案が並んでいます。これに敢えて加えるとしたら、「ベンチャー応援家としてジャックでマーっぽい人がランダムで現金くれるけど、ある年を境に消える」というイベントを自分は考えてましたが、今日あっさり出てきちゃったからなぁ。

 ただこの中国版桃鉄ですが、中国も割と鉄道マニアが多いのと、こうした経営を競い合うようなゲームはかなり琴線に触れると思うので、実際ちゃんと作って出したらかなり売れる気がします。イースポーツ自体も中国だと最近盛り上がってきているので、こうした桃鉄などは団体戦などで組んだりすれば見ている方も楽しくいい商材となりうると本気で考えています。実際同僚らも、「これ絶対テンセントとかに提案すべきだよな」と割とガチで言ってました。敢えてタイトルつけるとしたら「漫遊桃鉄」とかになりそう。

 と、以上まで考えるに至ってふと気が付いたことが一つあり、先ほどのイベント案の羅列を見ていて、「中国ってほんとゲームイベントかと思う冗談みたいな出来事がしょっちゅうリアルに起きてんだな(;´・ω・)」という考えがよぎりました。下手にゲーム企画するより、中国の日常をゲームに落とし込む方が案外面白いかもしれません。

2021年1月2日土曜日

ワンピースの実売部数に関する疑問

 一生のうちに使ってみたいセリフに「新手のスタンド使いか!?」というセリフがありますが、なかなか使用機会がないので念願を果たせずにいます。
 なお最近日本では「鬼滅の刃ごっこ」が流行っていると聞きますが、自分が子供時代は「ジョジョごっこ」はありませんでした。あったとしたらスタンド役と本体役をどう分けるかで揉めそうな気がします。友人は「北斗の拳ごっこ」でよく五車星を組んでいたと言ってましたが。

 さて話はその「鬼滅の刃」に関連しますが、私がいちいち言うまでもなくこの作品は昨年に驚異的なセールスを記録しただけでなく、つい先日にも映画版が「千と千尋の神隠し」を追い抜いて日本映画史上最大の興行収入を記録するなど未だに快進撃を続けています。ただその快進撃が思わぬ余波を生んだというか、このところ少年ジャンプの看板作品である「ワンピース」について、いろいろと批判めいた疑義が呈されるのを見ることが増えています。

 まず単純にコミックスの販売数で言えば、オリコンの年間実売部数ランキングで「鬼滅の刃」は「ワンピース」を抜いていることは間違いない事実です。しかもその差ですが、「鬼滅の刃」が約8234万部に対し、「ワンピース」は約770万部で、最初は桁が異なっていることに気が付かす、「ほうほう、その差は50万部……いや500万部?いやいやいやいや、7500万部やんけ」と自分でツッコミを入れるくらいの差でした。
 まぁこれは「鬼滅の刃」がとんでもなく恐ろしいモンスターコンテンツである故なのですが、2020年のこの結果が出る以前にも、「ワンピースは本当に言われているほど売れているのか?」という見方が出ていました。というのもこの作品、連載期間は既に20年を超えており、連載の長期化により新規読者がすでに入りづらくなっている上、「前の方が面白かった」などと古参読者からも過去と比べての評価がなされるなど、いろいろと弊害が出てきています。

 その上で、出版社の集英社としてはやはり看板作品ということもあって、この作品が「売れている」ということを数字として大々的にアピールするため、必要以上に発行することで発行部数を釣り上げているという噂が以前から出ていました。そのため「ワンピース」の実売部数はどの程度なのか、実際は大量に発行された後で大量に返本されているのではという意見もしばしばみられました。

 ただ先ほど挙げたオリコンの書籍ランキングですが、あちらは実態書籍店舗を対象にした「実売部数」のランキングで、実際に発行されて消費者に売れた部数という意味では出版社発表の発行部数以上に信用のおけるデータです。さすがに「鬼滅の刃」には劣るもののそれでも年間で770万部というのは立派な数字であり十分に誇れる数字ですが、それでもこのデータにも抜け穴があります。具体的に言うと、電子書籍の販売部数は含まれていないように見えるからです。

 オリコンのサイト上では「WEB通販含む」とは書いていますが、電子書籍のカウントについては明言されておらず、きちんと確認しない限りは何とも言えませんが、現状みる限りでは電子書籍の販売部数に関しては除外されている可能性が高いように見えます。
 すでに電子書籍はスマホの普及とともに広く普及していることを考えると、電子書籍販売部数をカウントしないデータは書籍販売においてあまり意味がないと正直思うのですが、日本の出版業界は以前からかなりクローズドで陰気な業界であり、情報公開にも非常に不熱心この上ありません。なので本当の作品全体の売上げというのも、かなり見えづらいところがあります。

 ただ「鬼滅の刃」に関して言うと、電子書籍の発行部数をカウントした場合、さらにとんでもない数字を叩き出す可能性が高いです。というのも最近はあまり見なくなったものの、以前はAmazonの電子書籍(Kindle)販売ランキングをほぼ毎日チェックしており、「鬼滅の刃」は一時期、最新刊のみならず既刊単行本も上位を独占し続けていました、かなり長期にわたって。
 その逆にというか、過去数年間ランキングを見ていて思ったのですが、「ワンピース」はあまりそのランキングで上位に出てこない、出てきてもそこまで長期的に上位に入り続けていないように感じました。無論、「ワンピース」の読者層は小学生らがメインだということを考えるとハードコピー本の販売比重が高いと推測されますが、それを推しても電子書籍の売り上げランキングで「キングダム」など他の人気作品と比べるとやや順位の動き方がそこまで好調そうに見えない気がしていました。

 はっきりとしたデータがないので何とも断言することはできないのですが、私個人としては出版社が発行部数を大々的に喧伝するほど、実際の販売数で「ワンピース」は振るっていないのではという疑念がやはりもたげます。ハードコピー本を含めて。もちろん「ワンピース」が毎回とんでもなく売れるモンスターコンテンツであることに間違いはないものの、実態以上にその売り上げは誇張気味に伝えられている感じは以前からしており、図らずも、どれだけ売れまくっているのかかえってその実態がみれない「鬼滅の刃」というコンテンツが生まれた結果、「ワンピース」の売上げ実態についてはっきりその差が出てきてしまったようにも思えます。

 自動車業界などは業界団体が車種別の販売台数を毎月細かく発表するなどしてデータの透明化に務めています。然るに出版業界は、「返本」という特殊な販売制度があるにもかかわらず、未だに出版社は発行部数でしかデータを出しません。また前述の通り電子書籍という販売方法も普及しているにもかかわらず、こちらもきちんとしたデータを出しません。このままでいるよりかは、もっときちんとデータを出し合った方が業界の発展につながると思うのですが、あと20年は化石みたいな頭して、多分変わることはないでしょう。
 でもってこうした不徹底な情報公開を利用して今後悪さする出版社も出てくるかもしれません。まぁその時くらいに、改革を手掛ければいいのかもしれませんが。

2020年12月14日月曜日

漫画の文学性に関する評価の少なさ

 さっき家帰ってGmailつけようとしたら例のGoogleの障害でつながらずちょい焦りました。何かトラブルあると中国からだとアクセス制限あるのでいろいろ手間取るから嫌です。

 話は本題ですがこのブログでも何度も取り上げている「チェンソーマン」がアニメ化するニュースが出ましたが、正直何も驚きありません。単行本の8巻と9巻の刊行ペースが普段より遅かったため予感あったのと、これだけの作品だからアニメ化しないわけないとみていたので、何を今更的な感すらあります。ちょうど「進撃の巨人」がもうすぐ最終回を迎えるタイミングとあって、漫画界の主役転換の時期にあるのでしょう。

 さてそのチェンソーマンは「この漫画が凄い」という賞でトップ取ったそうですが、「次に来る漫画」とか「男がはまる漫画」とかそういった漫画ランキングが毎年どこかしらで行われていますが、この手のランキングってどれ見ても基準が面白いか否かで、男女のどの年齢向けかで分けられているに過ぎません。逆を言えばプロ野球みたく分野別の評価は全く行われておらず、はっきり言ってしまえば売れるかどうかの浅い評価で決まっている感があります。
 もちろん売れることが漫画にとっては至上命題であり、梶原一騎の「俺の本はノーベル取った川端康成より売れてるぞ」という、多分悔しいから言ったセリフはまさに真理だと思います。どんなに批判評価が多くても、売れたものが一番偉いというのがこの手の世界の原理です。

 ただ、ランキングなり評価というのは埋もれているけど実はすごい作品を引き上げるという役割もあります。芥川賞も当初はそうした目的で、あくまで新進作家の奨励賞的だったのですが最近は「如何にして作品を売り込むか」という目的で売れそうな「キャラ」な作家を選ぶ賞に成り下がり、日本の小説から文学性というものがどんどん薄れていくことなりました。ぶっちゃけ、あと20年は盛り返すことはないでしょう。

 それで話を戻すと、ふと考えると文学性を評価する漫画賞とかないなと気づいた次第です。そもそも文学性とは何かですが私の定義は以前書いたこの記事のように、物語とを推しての追体験、疑似体験の深さや汎用性、そして究極的な選択問いがあるかだと考えており、この定義に照らすなら文学性を盛った漫画はあってしかるべきです。

 文学性を盛った漫画の議論となるまず出てくるのは「寄生獣」で、私自身もこの作品は「捕食者と非捕食者の逆転」というテーマで、現代を舞台にした世界で疑似体験性も高く、下手な文学小説よりもずっと文学性を備えていると私も見ています。そのほかの文学性を持った作品というと、世界的名著を漫画化した作品が挙げられることがありますが、そうしたものよりテーマ性で見るならあんまこの手の議論で見ないけど手塚治虫の「火の鳥」とか来るかもしれません。もっとも私は断片的に読んだ限りであまりこの作品にのめり込めなかったですが。
 なおソ連人民の敵であるうちの親父は火の鳥の初版本かなんか持ってたらしいですけど、小銭欲しさにあっさり古本屋に売って、あとで後悔していました。

 このほかシュルレアリスム的な漫画であればつげ義春の作品がそれにあたり、あと歴史大作で言えば原作付とはいえ横山光輝の「三国志」などは十分な文学性を備えた傑作と言えるでしょう。歴史系の作品であれば他にも注目すべき作品はあり、贔屓も入りますが詫び寂びの概念と当時の文化的転換を描いた「へうげもの」などは、独自解釈も含まれており20年後も読まれ続けるのではと思う傑作と考えています。

 翻って先ほど言った疑似体験性の面から見て文学性の高い作品を他にあげるとしたら、地味にジャンプで連載していた「暗殺教室」はもっと評価されていいと思います。一見エンタメ作品に見えますが私が考えるこの作品のテーマは「後悔」であり、「あの時ああすればよかった」、「なんでああしなかったんだ」、「だからこそ、二度と同じ過ちを犯してはならない」というテーマを、名門校の落ちこぼれ生徒たちを軸にして描いているように思え、少年少女向け作品としてみれば稀に見る傑作であったと密かに評価しています。

 このように、文学性に着目した漫画賞というのはまずこの世にないでしょう。一部の漫画評論家はこうした文学性に着目した批評を寄せていますが、それでも世間の漫画の文学性に対する目はまだまだ少ないでしょう。もっとも漫画自体をそんな文学性とかなんちゃらで高尚化していいものかという葛藤は私にもありますが、本来文学性というのはそんな高尚なものではないはずで、作品を面白く読めるとっかかりになるメリットもあると思うので、もうちょいこっちに目を向けてもいいのではというのが私の意見です。

 なお芸術性に関して私は、「どれだけ長く愛されるか」がバロメーターだと述べ、10年、20年先まで読まれるかが非常に重要と以前から書いています。先ほどの「へうげもの」はそうした意味で芸術性が高いと考えているのですが、ひょっとしたら意外に芸術性が高いのではと思うもので、「彼岸島」があります。
 最近に至っても「今のパーティが最強だよな」とか「糞みてぇな旗がまた出てきやがった」など関連掲示板で激しく盛り上がっていますが、なんていうかあの不条理さと意味不明なセリフ、でもって全体ストーリーは遅々として進まないのに無駄にスピーディに進む展開は、意外と100年後くらいに「21世紀漫画における奇書」として評価されるのではと思うようになってきました。最近も建物の中で「行くぞ」と言った次のコマで「ザブ・・・ザブ」とイカダで漕ぎ出す場面になるなど、言葉で言い表せない「え、そんなんありなの?」な展開は逆に凄いような気がしてきました。

 その彼岸島で個人的に残念だと思うのは、オンラインゲームが存在しないことです。それこそ「彼岸島オンライン」みたいなタイトルで彼岸島の中を人間と吸血鬼に分かれて互いに殺し合うゲームにすれば、原作のセリフを連呼するファンですぐ溢れかえるんじゃないかと思います。戦闘も、そこらへんから日本刀とか丸太が生えてきて拾えるようにしても「原作再現!」と逆に評価されるだろうし、適当なゲーム設定であっても彼岸島の世界なら許されるでしょう。なんで誰も作らないんだろうか。

2020年11月21日土曜日

小学生の時に受けた絶望体験

 先日に書いた「夏の夕暮れ」という記事は久々にまじめな話題で書いたなと自分でも思いにふけっていたらふとそこで書いた、戦う理由や目的を失ってしまう、男とにとっては絶望的な体験を自分は小学生の頃に何度も体験していたことに気が付きました。

 私が小学生に入った辺りはちょうど、ファミコンからスーパーファミコンへと切り替わる時期でした。ただ切り替わると言ってもしばらくはファミコンソフトも並立して発売が続けられており、こちらで遊ぶ時間も少なくありませんでした。
 私自身もご多分に漏れずファミコンでよく遊んでいたのですが、この時、子供心にもとてつもなく残酷な出来事が何度も起きていました。

 デロデロデロデロデロデロデロデロデーレーッレン♪

 この擬音だけでわかる人なら察しが付くでしょうが、当時のファミコンソフトのバックアップ機能はとてつもなく貧弱で、本当にちょっとした衝撃とかそういうので簡単にセーブデータが度々吹っ飛びました。kの時の絶望感と言ったら本当に半端なく、十数時間かけて進めたデータとかが一瞬で無に帰し、恐らく賽の河原とかきっとあんな感じなのでしょう。
 前述の通り先の「夏の夕暮れ」の中で私は、男にとって闘争は非常に重要だけど、重要なだけにその戦う理由や目的を失ったり、戦ってきた存在に裏切られたら半端ないダメージを受けると書きました。ある意味、ドラクエとかFFなどのRPGゲームを遊ぶことは一種の「戦い」であり、その戦いの成果や軌跡が一瞬にしてなくなるような上記のデータ喪失は、まさにこの男にとって最も致命的な一打に当たるのかもしれないと、何故かスーパーで買い物している時に気が付きました。

 ガチな話、絶望感のレベルで言ったら社会人になってからのあらゆる体験とかとよりも、この時のデータ喪失の時の方がずっと大きかった気がします。スーパーファミコンになってからこの手のバックアップデータは大分よくなり消えづらくなって、プレステになってからは消えることなんてほぼあり得なくなり(サターンは論外)、ある意味昔だからこそ体験できた絶望体験と呼べるかもしれません。

 昔なんかの掲示板で「バイオハザードは暴力的描写で暴力を誘発する」、「桃鉄は金稼ぎしか考えなくなる」などと様々なゲームの子供への悪影響を羅列して最後に、「スペランカーは主人公がよく死んで何度もチャレンジしなければならないから忍耐力が付く」というオチをつける小話がありました。今になって思うとこの小話はある意味間違っていなかったというか、私自身、あのファミコン時代に何度も味わった絶望体験を経て現在における強靭な精神力を身に着けたのではないかと思う節があります。
 というのもつい先日も、Wordできちんとセーブしておらず作業途中のPCの不具合で途中原稿を吹っ飛ばした同僚がいたのですが、「最近の若い奴はこまめにセーブ取らない。俺たちファミコン世代はなぁ……」などと、自分でもよくわからない説教をかましたことがありました。まぁそれを言ったら自分より前の「ぱすわーどがちがいます」世代なんかはもっと深い含蓄があるのかもしれませんが。

 その上で結論を述べると、理不尽なゲームはゲームとしての価値は下げるけれども、人生の困難に対する心構えを鍛える上ではプラスなのかもしれません。ダークソウルとかやったことないけど、ああいう死にゲーやってる人はやっぱり忍耐強いのかなぁ(´-ω-`)

2020年10月29日木曜日

ガンタンク+ドダイ

 どうでもいい記事を書きたくなったので書きますが、これまでバンダイから発売されたガンダムゲーはたくさんありますが、私の中で最高傑作を挙げるとしたらPSPの「ガンダムバトルユニバース」が間違いなく来ます。このゲームは紹介動画とか見てもらえばわかりやすいですが、使用可能機体数がとにかく半端なく、シャア、ガトー、ジョニー、マツナガ各専用ゲルググはもちろんのこと、ククルス・ドアン専用ザクまでそろえており、そのラインナップは文字通りほぼ全機体を網羅しています。
 なおククルス・ドアン専用ザクは主武装が岩です。しかも強いし。

 またこの機体は弱い機体でも使っていくうちにステイタスを引き上げることができ、量産型機体でも使っていくうちに愛着が高まってきたりして、めちゃ良かったです。個人的にはジェガンがやたら弱く、逆にメタスがめちゃ強くてよく使っていました。
 そのほか各機体の攻撃方法もぶっ飛んだものが多く、ゾックに至っては超必殺技がウイングゼロのローリングバスターライフルと同じだったり、サイコガンダムがドロップキックかましてきたり、あとシャアの乗った機体はもれなく回し蹴りが入るなど凝っていました。

 そんなこのゲームで一番印象が強かった機体は、意外にもガンタンクでした。ガンタンクというと足がキャタピラなせいでほとんどのガンダムゲーで最弱機体として扱われ、このゲームでも実際初期能力だと接近されたら実質終わり的な弱い機体となっています。
 ただある日ネットで、「ガンタンクをドダイなどのSFSに乗せると強い」と書かれてあり、ほんまかいなと思って試してみたら、やばかったです

 SFS、ようはサブフライトシステムですが、これにガンタンクを乗せたところその弱点であった機動力のなさは一気に解消され、ジェット機の如く空中を飛び回り続けられるようになります。そこへきてガンタンクが元より持つ肩部キャノン砲を撃つと、文字通り重爆撃機のように一方的に空から地上の敵へ強烈な攻撃をし続けられました。
 しかもこのキャノン砲の何が凄いかって、乗っかっているドダイの真下であろうと容赦なく打ち込めるって点でした。初めて見た時、「こんなのアリかよ(;゚Д゚)」と本気で思いました。

 無論、限定条件を解除したあとなら宇宙空間でもガンタンクをSFSに乗せて出撃できるようになり、そこでも無双の如く宇宙を飛び回って敵機を悉く葬りさることができます。SFSというとグフとかジムなどいかにもな格闘系機体ばかりが乗るイメージですが、運用面での真の正解はこのガンタンクの様に支援機を乗せて飛ばすことにあったのでしょう。弾道がどうなるかは気にしないことにして。

 このシリーズは次回作の「ガンダムアサルトサヴァイブ」から路線が切り替えられ、私はこちらを遊んだことはないですが評判が非常に悪く、これ以降一部の応用作を除けばシリーズの続編は出なくなってしまいました。この点は非常に残念この上なく、このバトルユニバースだけでもスイッチとかでリメイクされたら自分買うのになぁ。

 なお蛇足ですが、自分がこのゲームを遊んだのは初めて中国に勤務する直前にPSP本体とともに購入し、その後中国で最初に入ったブラック企業で毎日泣かされて、家に帰った後や休日はずっとこれで遊んでました。苦しい時代を共にしたという意味でも記憶に深いゲームです。

2020年10月21日水曜日

歴史シミュレーションゲームの能力表示の不自然

 いちいち突っ込んだらきりがないですが、信長の野望とかで地味に不自然だと感じる点として、能力値が数値として全部表示される点が気になっています。それこそ戦闘100だとか魅力86など、前キャラクターの能力値が一つのもれなく誰でも簡単に閲覧できる状態とされており、この時代の人達は全員もれなくスカウターを標準装備してるのかというくらいこまごまと能力値が序列化されて表示されています。

 もちろん現実には戦闘力を測るスカウターなぞ存在せず、社内の同僚がどれだけ戦闘力を持っているかを把握することなぞできません。その上で、身内のスタッフがどれほどの能力を持っているのかを手探りで探り、それぞれに適した仕事を割り振ったりするのはマネジメントの醍醐味というか非常に重要な構成部分です。これは何も現代に限らず戦国時代、というより戦国時代の方がこうした能力の見極めが重要だったと思われます。
 具体的には優秀な人材の選抜や、割り当てる軍隊の人数、あとは工事予算の管理や運営など、各人の適性や能力を見極めることは自身の浮沈を大きく左右する要因であったことに間違いありません。しかしそうした能力の見極め作業は、少なくとも私が知る限り、歴史シミュレーションゲームの中で反映された例は一つとしてありません。

 何故ないのかというと、表示済みの能力値をベースにやりくりすることがゲームの大前提(面白味)となっていることと、能力値まで完全にマスクデータ化したらゲームプレイが非常に困難になるという配慮からだと考えられます。ただその辺も最近の技術だったらある程度克服できるように思え、なんとなく気になっていることからもやはり能力値をマスクしたゲームが出てこないかと最近思います。

 一応というか、部分的にマスクデータにしたゲームはこれまでにも出ています。先ほどの信長の野望などは「裏切りやすさ」を左右する義理度というデータがマスクデータになっています。ただこのデータは後々公開もされていることから斉藤道三や藤堂高虎を始め「義理ワン」武将がかなり有名となってて、もはやマスクにする必要あんのかって疑問もありますが。
 また能力値に関しては、現在の能力値はきちんと表示するものの、今後の成長度合いというか成長の早さに関してはマスクデータにしているゲームはいくつか見られます。現在は能力値は低いけど、使っていくうちに呂蒙みたくぐいぐい能力を高めていって頼りがいのあるナイスガイへと変貌していくキャラなどはまさにその恩恵を受け、またプレイしている側も「今はパーだけど将来性を見込んで……」などと考えて使えるので、割かし感情移入も強まります。

 この成長度合いをマスクデータにしている「ギレンの野望」シリーズではこのほか、ガンダム作品の代表的概念である「ニュータイプ」という特殊能力についても完全にマスクデータにしています。このニュータイプはゲーム上で確認できる情報からは全く分からないようになっていますが、見分ける方法はないわけでもなかったりします。具体的には、ニュータイプだと表示されている能力値以上にその実力を発揮するため、戦闘アニメーションを見ると他のキャラの倍くらいビームライフル打ち込んだり、サーベルで切りかかったりするため、こうした実際の現場での戦いぶりからニュータイプであるかどうかがわかるようになってて、この辺は憎い演出だと思います。
 なお昔パワプロのマイライフモードで作ったプロ野球選手の名前は「旧型」と書いて「オールドタイプ」と読ませていました。ゲーム中で生まれた子供は「新型」、「最新型」、「未来型」、「究極型」としていって、後半は段々追い詰められていきました。

 話を戻すと、そこまでリアルに徹する必要があるか議論の余地はあるものの、通常の能力値もマスクにしたシミュレーションゲームもあっていいんじゃないかと思います。では各キャラクターの能力をどうやって判別するかですが、先ほどのギレンの野望みたく実際にコマンドを割り振ってその働きぶりや実績からそれとなく判断させるというのが最もストレートです。
 ただ信長の野望みたいなゲームだったら、同僚同士の評価などを聞くコマンドを設けてみるのもいいような気がします。「あいつについてどう思う?」的なコマンドがあって、それによってキャラクター同士に能力を評価させあって、みんなから評価が高い奴はやっぱり使える的に判断材料としてみたら面白いかもしれません。

 もっともキャラクター全員が正しい評価したら結局意味がなくなるので、キャラによっては自分より能力が高い相手に対して、「あいつなんて大した奴じゃないですよ」みたいなことを言う奴も入れておくとなお楽しくなるでしょう。っていうかこういう奴、現実にもいてリアルだし。
 逆に、どんなキャラに対しても公平に評価するようなキャラクターとかいれば、人材運営面では非常に重宝することになります。こういうシステムがあったら、三国志の闞沢みたく人相見系キャラはもっと輝く気がします。逆に諸葛亮や石田三成とか元々優秀過ぎるキャラには敢えて、どんなキャラにも「あいつは大した人物じゃありません」と言わせたりすればなおいいでしょう。真面目にこういうゲーム、作ってくれるとこないかな。

2020年10月7日水曜日

リアルタイムで見たFF7

 先日友人とFF7ことファイナルファンタジー7の話題になった際、「未だにFFヒロインでティファとエアリスのどっちが上かいっつも槍玉に上がってくる辺り、FFシリーズ史上最高傑作と言われるだけの影響力を持ってるよね」という話をしました。知っての通りこのFF7は先にPS4でリメイク版が出され、好評だったうえにセールス的にも上々だったと聞きます。20年以上前の作品のリメイクでこれほど話題になるというのも、恐らく過去になかったことでしょう。

 このFF7ですが、初代の発売日は小学生の頃にリアルタイムで私は見ていますが、確かに当時はインパクトが絶大でした。それまでの3Dというと初代バーチャファイターの様にカクカクしたものという印象でしたが、FF7ではムービーシーンが非常に滑らかなテクスチャで描かれており、また装備する武器によって画面に映る武器も変わるなど、今となっては当たり前ですが当時としてはあり得ない表現が多彩に詰め込まれていました。

 ただそうした映像表現方面より私個人としては、単純にゲームとしての面白さ、完成度が高かったからこそ現在に続くほどの高い評価を得たのだと考えています。普通にゲームとして遊んでいて楽しく、またストーリーも当時はエヴァンゲリオンの影響で「自己とは何か?」的な内容がやたら流行っていましたが、FF7もこの手のビッグウェーブに上手く乗り切ったストーリーで、時代に歓迎されていました。
 またキャラクターデザインも今から見ても古臭くなく、実際にリメイク版でも衣装などは特に変更されなかったことからも完成度の高さが見て取れます。まぁバレットは蝶野みたくグラサンかけられてましたが。

 ゲームシステム的な面で言えば、マテリアを付けたり外したりすることでまほうやアビリティを変更するというのは単純でよくできたものでした。つくづく思いますが複雑すぎるシステムはゲームにとって基本負荷となり、実際に次作のFF8は「ためなきゃいけないのに使う必要もある」という二律背反で複雑なジャンクションシステムにより、私も含め理解し切れなかったプレイヤーから顰蹙を買いました。あれは絶対小学生とかには理解できないだろうし。
 その顰蹙を買ったFF8の影響により、それまで右肩上がりだった販売本数がFF9では初めて減少に転じたと言われています。実際私もFF9以降はPSPのFF零式を除いて一切遊んだことがなく、私の周りでもFF8でシリーズに見切りをつけた人は少なくありませんでした。

 そうしたFF8との比較もあって、「あの路線を続ければよかった」的にFF7の評価が逆に高まっていったというような感じすらします。実際FF8が出た後も、「エアガイツ」などFF7のキャラクターは他のゲームにもゲスト参加することが多く、キャラクターに対する評価はFF10が出るまでは無双状態でした。まぁ現代ではライトニングさんがいるけど。

 このほか思うことを書くと、まだFF7まではそれ以前のシリーズとつながりがあった気がします。クリスタルこそ出てこないものの、FFらしさというかストーリーや戦闘、遊び方はまだ継続していましたが、それがFF8でぷつんと途切れた感じを当時遊んでて感じました。やや懐古主義的ですが、そういったところが今でもFF7の評価を高めているのだと思います。

2020年9月29日火曜日

ドラクエ1の主人公は本当にロトの子孫だったのか?

 昨日の記事で日本の貴種流離譚好き、並びに血統主義について触れたところコメントで。

「(ドラクエ1の主人公は)彼自身はロトの子孫ではあるものの初期段階ではそれを証明するものを持っていません。そのため『ロトのしるし』という証明書がない状態では勇者として認められない事もありました。」

 このコメントを見て、「そもそもドラクエ1の主人公は本当にロトの子孫だったのだろうか?」という疑問がもたげました。

 上のコメントで片倉(焼くとタイプ)さんが言っている通り、この主人公はゲーム開始時に伝説の勇者であるロトの子孫を名乗ってラダトームの王様の竜王討伐に名乗りを上げています。しかし、ロ度の子孫であることを示すものは何も持っておらず、伝説の剣や鎧はおろか、その最大の証明にもなるロトのしるしすら持っていません。
 それどころか初期装備に至ってはゼロ、つまり全裸というホームレスさながらの恰好で、「龍が如く」でもこんなやばそうな格好した奴はなかなか見ません。っていうかどう見ても食い詰め者が宛てもなくやってきたようにしか見えないいでたちです。何を以って自分がロトの子孫だと主張したのか、むしろ逆に全裸だからこそ子孫であると主張してきたのかもしれず、いろいろ意味不明です。

 それでも最終的には竜王を倒すのだから腕っぷしに関しては認めざるを得ないでしょう。しかし、彼自身が本当にロトの子孫であったということを示す要素は何もなく、一応ロトの剣とかを装備出来ますが、果たしてドラクエ1のロトの剣がドラクエ2のロトの剣、ドラクエ3の王者の剣と同じものかについては実際に議論があります
 まずドラクエ2のロトの剣は攻撃力は同じ40ですが、これより強い武器が他にもたくさん出てきて、最強の武器ではありません。この点については「ロトの剣が劣化した」とか「技術が進歩したから」などと言われていますが、そもそも同一の武器でない可能性があります。
 次にドラクエ3の王者の剣ですが、この武器はどうぐとして使うとバギクロスが使えるものの、ドラクエ1と2のロトの剣にはそんな便利な機能はありません。この一点だけでもいろいろ怪しい。

 上記点を踏まえると、ドラクエ1の主人公が装備できるロトの剣というのはこれも自称しているだけではないかという可能性があります。少なくとも、彼が先祖だと主張するロトが使っていたものと同一のものである根拠は何もありません。このように考えると、「ロトの子孫と詐称したやたらケンカの強い野郎」であったのが真相のように思えてなりません。

 ついでに書くと、前述の通りドラクエシリーズは日本人の血統主義の権化のようなストーリーですが、ライバルのFFシリーズは1から3までは割とガチな庶民が主人公でした。4から月の民、5は伝説の戦士の息子、6は群像劇(雪男)となりますが、7に至って自称ソルジャーの一般兵士と突然庶民に先祖返りします。
 ただこうやってみると、ドラクエシリーズとは対極なくらい庶民キャラがFFシリーズは多いです。13も『「光速」の異名を持ち重力を自在に操る高貴なる女性騎士』と言いつつただの警備員だったし、でもって「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」だし。真面目にドラクエもたまには、ガチな庶民を太閤秀吉みたいに活躍させる作品を1回くらい作ってみたらどうだとか思います。

2020年8月22日土曜日

三億円事件奇譚 モンタージュ (・∀・)イイ!!

モンタージュ (漫画)(Wikipedia)

 例によって漫画の紹介ですが、先日読み終えたこの「三億円事件奇譚 モンタージュ」は近年稀に見るくらい面白かったです。作品自体は2015年、何気に自分が第二次どん底期でどんぶらこしていた頃に連載を終えていますが、当時も人気が高かったようでテレビドラマ化などもされています。

 内容はタイトルの通り昭和未解決事件としては恐らく最も有名であろう三億円事件をテーマにしていますが、作中世界の時間は現代こと2010年頃となっています。なんでそんな時間間隔空いているのに三億円事件と私も当初思いましたが、少しだけさわりを書くと、主人公の少年が偶然出会った死ぬ間際の刑事が「お前の父親は三億円事件の犯人」と言われ、その直後に父親が溺死体で死に、その後高校生になった後で父親の遺品から三億円事件の証拠となる通し番号付きの500円札を見つけるといった流れになっています。その後、近親者の謎の失踪などが続き、三億円事件を巡る騒動に主人公とヒロインが巻き込まれていく形となっています。

 なんでこの漫画を急に手に取ったのかというと、作者の渡辺潤氏の最近のニュースを見たことに始まります。知ってる人には有名ですが、この人はこれまで反社会系の漫画をずっと描いてきた人なのに何故か50代に入ってからやたら萌えキャラを模写、研究し始め、それをTwitterに上げたところやたらバズって急激に知名度をあげています。自分もそのニュース見て、また各萌えキャラの特徴の見方などがさすがベテランと思うほど着眼点が面白く、それで興味を持ったことから比較的直近の作品である「デカウザー」から読み始めて、こちらの「モンタージュ」に至りました。
 渡辺氏の作品を読んでて感じたのはやはり反社会系の漫画を描いてきただけあって悪人の顔がとにもかくにも悪どい、それでいて近年は萌え絵研究の甲斐あってか女性キャラはかわいく書けるようになってて、その辺がとても器用に感じます。ただそれ以上に、これはやはりベテランであるからだと思いますが、コマ運びが非常に上手で、コマを追いながら疑問に感じるところはほぼなく、また激しいアクションシーンの動きの見せ方も秀逸でした。特に「デカウザー」のボクシングシーンは本当に動きが流れるようで無駄がなく、これがベテランの業かと嘆息を付けられました。

 話はモンタージュに戻りますが、一応ミステリー漫画に属すので内容のネタバレがない範囲で感想を述べると、まずミステリーとして非常にストーリーのレベルが高いです。主人公はトラブルに次ぐトラブルに巻き込まれて、しつこく追跡してくる殺し屋をかいくぐりながら何度も死ぬ思いをしますが、それらトラブルの脱出方法が、都合の良い展開とも揶揄されているものの、少なくとも説得力が全くない強引な要素は私には感じられず、単純なアクションものとしても十分読めます。
 またそうしたトラブルを経て徐々に三億円事件の真相に迫っていくのですが、その真相に迫る過程で特筆すべきは、回送シーンの入れ方が神がかっています

 三億円事件をテーマにしていることから1968年の事件当時の場面が何度も回想シーンとして作中で入るものの、その回想シーンは一度にすべて流れるわけでく、事件前や事件後、果てには事件中に至るまでいくつかか分割されて入れられています。その入れ方が秀逸で、また現代において回想シーンの中の人物が登場するにつれて真相が徐々に明らかになるなど、読者をぐいぐいと引き込む見せ方がなされています。
 また長期連載であったことから登場人物も非常に数多いのですが、ほんの些細なわき役に至るまでキャラが非常に立っているのは驚きでした。具体的には、ハードな内容のため苦渋の決断を迫られることが多いのですが、どの登場人物もなし崩しで決めるのではなく、悩んだ末に犠牲を覚悟で厳しい決断を下すことが多いです。そのあたりの心理描写も非常に細かく、一読しただけで細かいわき役のセリフなどを私なんか覚えてしまいました。

 また主要登場人物、特に悪役側に至っては、その行動理念というか信念のすさまじさがやばいです。どのキャラもそれぞれが確固たる信念を持って行動しているように描かれており、それ故に妄執の如く主人公を追い続けたりするのですが、信念の内容はともあれその意志の強さは漫画で読んでても迫力を感じます。そのあたり、血の通ったキャラクターを非常によく出せているように感じます。
 特に、主に回想中に出てくるある重要キャラクターについては、「ああ、覚悟を決めた犯罪者というのはこのような顔をするのか」と、非常に迫力を持った絵で書かれてあり、しばらくそのコマを眺めたほどです。この辺は反社系漫画家の腕の見せ所というべきか、 凄みのある顔については他の漫画家の絵を遥かに凌駕しています。

 などと好き勝手書きましたが、真面目にこの漫画はここ数年読んだ漫画の中でも一番印象に残っており、ぜひ他の人にも手に取ってもらいたいです。


2020年8月15日土曜日

ゲームのグノーシア楽しい(´・ω・)

グノーシア(公式サイト)

 他の人もたくさんレビューしていますが、ハード末期のPSVitaで発売されて注目された後、Switchなどにも移植されたこの「グノーシア」ってゲームにはまっています。このゲームはどういうゲームかというと、特定ルールの中で集団から多数派になろうと目論む人狼を見つけ出すいわゆる「人狼ゲーム」をお手軽簡単に携帯ゲーム機で遊べるようにしたゲームです。

 詳しい解説は他のレビューに譲りますが、傑作であると非常に評判であることと、つい最近に同じく人狼ゲームをテーマにした「レイジングループ」というアドベンチャーゲームをプレイしたことから興味が湧いて購入しました。本来、人狼ゲームは非常に高いロジックでの議論が要求されることからこうしたコンピューターゲームに落とし込むのは難しいとされ、さきほどの「レイジングループ」も人狼ゲームをテーマにしているものの、実際に人狼ゲームを遊ぶのではなく人狼ゲームが繰り広げられる村内の議論をテキストとして見ていく、一般的なアドベンチャーゲームとなっています。

 それに対しこのグノーシアは、非常に高いレベルで人狼ゲームを再現しています。整合性を取るためセリフなどは非常に最低限に抑えられているものの、誰が誰を疑い、誰と連携を組むか、またいかに自分が目立たずに発言するかといった人狼ゲームにおける駆け引きがほぼ完璧に落とし込まれており、恐らくこれ以上人狼ゲームをゲーム上で再現させるのは不可能なんじゃないかと思うくらいシステムに粗がありません。

 またそれ以上に、このゲームのもっとも特筆すべき点は1周当たりのゲーム時間です。このゲームでは配役を入れ替える人狼ゲームを何度も繰り返していてことの真相を解き明かしていくいわゆるループ物になっているのですが、1回当たりの人狼ゲームはわずか10分程度で終わり、ともすればだれやすくなる人狼ゲームを非常に速いテンポで何度も繰り返し遊べるようにしています。実際に遊んでいてこのテンポの良さは驚愕に値するほどで、うっかり人狼(ゲーム上では「グノーシア」)に開始早々殺害されてもすぐまた仕切り直して遊べるし、また終盤まで生き残ったとしても経過時間は10分程度ということから、終わった後に「さぁもう一回」という風にまた遊んでみようという気になります。そのせいで、3時間くらいぶっ続けで人狼ゲームを繰り返す人も、私以外でも珍しくないのではないかと思います。

 またゲームの背景となるバックストーリー、BGM、キャラクター造形も非常によくできており、宇宙船内で人間を殺害していく異性体を探すというSFな状況は人狼ゲームと非常に合っており、また時折出てくるゲーム内用語もSFの世界観を崩さず、むしろ映えさせて雰囲気づくりに一役買っています。
 中にはまんまリトルグレイな宇宙人っぽいキャラクターがそのまま出てきて、しかも他のキャラの名前はみんなカタカナなのにこいつだけ「しげみち」で、「俺は人間だって」としゃべりだしてきますが、それでいて何故か周りに溶け込んでいるのは、スタッフの見事な力の賜物な気がします。にしてもこの「しげみち」はほんとに憎めないキャラだ。

 そのしげみちに限らず他の脇を固めるキャラクターも、個性が際立ってキャラがしっかり作られており、どれも好感が持てるキャラクターになっています。逆に、好感が持てるからこそ「実はグノーシア」だったという結末時の裏切られた感が大きく、ゲームの面白さを高めています。キャラの中には性別は男性女性でもない「班」というのがありますが、これに属するセツというキャラなんか文字通りかっこかわいいキャラクターで、よくこういうキャラを作れたものだと感心します。

 真面目にこのゲームは遊んでいて、比類なき完成度を持ったゲームであると感じます。人狼ゲームの設定作りは作り込まれていますが、システム自体は比較的シンプルにまとめられており、それでいて粗がほぼ全く見つかりません。丁寧に完成度高く作られており、それでいてこれほどの魅力があるというのは称賛すべき出来であり、遊んでない方や人狼ゲームに興味ある方はマジ本気でお勧めできるゲームです。

2020年5月15日金曜日

五等分の花嫁の最終巻がつまらなかったわけ

佐賀新聞の「押し紙」を認定 元販売店主が勝訴、賠償金1070万円 佐賀地裁判決(弁護士ドットコム)

 上のニュースも大事だけどそれ以上に重要なこと思いついたのでそっち書きます。

 先日にも少し書きましたが、これまで絶賛していた漫画「五等分の花嫁」の最終巻をこの前ようやく読んだところ、あまりのつまらなさにびっくりしました。それまではどの巻も非常に楽しめて満を持しての最終巻も非常に楽しみだったのですが、読んでる最中も驚くくらい面白くなく、なんでこんなつまらないんだろうと訳が分からなかったです。普通、買ったばかりの漫画は数回通しで読むのに、この五等分の花嫁の最終巻は一回読み終えるとまた読もうとは思わず、そのままデータすら削除してしまいました。

 この後はネタバレを含むので、先を黙っててほしいと人はそのままそっとお閉じください。



 ヒロイン五人の中で私の推しは誰かというと、読み始めた頃から四葉一筋でした。最終的に勝者となったのはこの四葉でしたが、四葉推しでありながら先ほどから書いているように最終巻は全く面白いと感じませんでした。この結果については自分でも非常に不思議で、なぜこんなつまらないんだろうとここ数日ずっと気になっていましたが、今日会社休んだのに結局自宅で作業している最中にふと納得のいく結論が出てきました。
 なぜつまらなかったのかというと、四葉が勝者となる理由がほぼ皆無だからです。

 この結論に至った最大のヒントは結末について議論し合っているネット掲示板でみた、「この漫画のヒロインは加点方式ではなく減点方式で決まってしまった」といった内容のコメントでした。実際その通りというか四葉が何故ほかの五つ子を差し置いて主人公に選ばれることになったかという理由は実はほとんどなく、逆にというか他のヒロインが選ばれなかった理由が後半にかけて断片的に描かれていたように感じます。いわば、「この子がいい!」という理由ではなく、なんとなく消去法的に四葉が選ばれてしまった感があります。

 そんな風に考えていたところ、今日休みなのに結局仕事する羽目となって嫌だなぁとか思いながらお茶を入れている最中、「当て馬」という単語が出てくるとともに、頭の中でパズルピースがピタリとはまる感覚を得ました。それによって、四葉が選ばれることについての不自然さが明確化しました。

 この漫画では物語当初、勉強マニアの主人公は「恋愛なんて無価値だ」と否定していたのですが、主人公を慕うようになった五つ子からのアプローチを受けて徐々に恋愛行為を否定しなくなり、最終的に自身も恋愛感情を持つに至るという展開となっています。問題なのはこの過程で、主人公が恋愛感情を持つようになったアプローチはすべて四葉以外の五つ子から受けたものでした。逆に四葉は自身の負い目もあって主人公に対しては何の恋愛アプローチも行わず、むしろ一歩引いた距離を主人公と終始保っていました。
 ですが家庭教師開始当初から他の五つ子たちと違って主人公から素直に勉強を教わっていたという理由から(だけで)、主人公は最終的に四葉を選びます。ぶっちゃけていうと、「え、理由これだけ?(;´・ω・)」っていう気がしてならないのですが、実際にこうだからしょうがない。

 この構図を意識して改めて全体内容を見返してみると、主人公に振り向いてもらうために他の五つ子(実際のところ三人だが)たちはアプローチをかけて見事に主人公を恋愛感情に目覚めさせたものの、そうして目覚めた恋愛感情はそれまで全くアプローチをしてこなかった四葉に向かってしまったように見えます。こんなん、アプローチかけてた他の五つ子たちは当て馬以前というか、なんかおかしくね?
 仮にアプローチがなかったとしても、主人公が四葉との間でもっといろんなコンタクトやイベントがあったならまだしも、物語全体でそうした類のイベントは明らかに少なく、最終逆転要素とされた小学生時代の思い出も最終巻では全く触れられずに終わりました。こういっちゃなんだけど、「もしかしてあの時の女の子は?」くらいは入れた方がよかったのでは……。

 以上の様に、他の五つ子が苦労して育てた果実を、何も育成作業を手伝わなかった四葉が丸ごといただくような構図となってしまったことが、自分がこの漫画の最終巻をつまらないと感じた原因だと考えています。先にも書いているとおり、それでも主人公が四葉を選ぶ理由や感情がもっと描かれていればまだしも、他の五つ子のアプローチを無視して四葉を選ぶ理由はほとんど見つからず、不自然極まりない展開であったと思います。

 加えて言えば個人的な意見として、最終巻の絵にはなんかまるで魅力がありませんでした。元々その美麗なイラストもこの漫画の人気の一つで、実際他の巻はここぞという場面のイラストや構図が素晴らしくよく、見開きページのセンスも抜群でした。しかし最終巻はどのページもこれはと思うページがなく、特に最終ヒロインの四葉に至ってはなんかかわいさが他の巻と比べて2割減、下手すりゃ半減と感じるくらいに魅力を感じませんでした。四葉推しの私ですらそう感じたのですから、他の五つ子ファンなんかどうだったんだろう。
 なんていうか、四葉に関しては告白後も不気味なくらい変化がなく、それ以前のまんまなキャラクターであったのが読んでて不思議でした。さらに最後の見せ場の結婚式の場面でも使い古された「五つ子当てゲーム」をやる展開となり、折角の見せ場なのに全員全く同じ造形を延々と見させられ、「( ゚Д゚)……」みたいな気になりました。マジで。

 無論これは私個人の感想でしかありませんが、それまでの面白さがびっくりするくらい感じられない結末だっただけに、何故だか無駄に考察を広げてしまいました。なおこの後に読んだ「エリア88」も「なんだよこの結末は(´・ω・)」という幕引きで、なんか意気消沈させられるラストを二本連続で見させられました。

2020年5月6日水曜日

ガンダム世界で一番あり得ないこと

 ガンダムシリーズの世界では、なんでもミノフスキーで片づけてしまうほぼ無尽蔵なエネルギーとか、未だ模型で完全再現がなされていない謎なゼータガンダムの変形機構などあり得ない設定がたくさんありますが、中でも自分が一番あり得ないと思うのは地味に通信です。どういう意味かというと、戦闘中にもかかわらず敵機と延々と通信して話し続けるという点です。

 通常、っていうか普通の神経していたら戦闘中に敵軍と会話するなんてまずあり得ないことです。作戦目的や行動の意図が読み取られる恐れがあり、自分のみならず味方すら危険に招きかねない行為なのに、なぜかガンダム世界では戦場で敵同士が出会うと当たり前のようにおしゃべりを始めてしまいます。SEEDに出てくるアスランに至っては、味方よりも敵との通信時間の方が長いんじゃないかと思うくらい延々と敵機とおしゃべりを続けてました。でもって案の定毎回すぐ裏切るし、でもって強いしで、ガンダム界の呂布奉先もいいところでしょう。

 なぜガンダムでは敵同士なのに会話するのかというと、これは昔のテレビインタビューで監督の富野氏自体が「リアリティがないのはわかっている」と話した上で、会話シーンを持たせないと作画が持たないためという苦肉の策だということを認めてました。まぁそれを考慮してもアスランは適としゃべり過ぎだし、裏切り過ぎですけど。

 改めてこの点に着目すると、ガンダム世界における戦闘というのは基本的に駆け引きがないということにも気が付きました。例えば戦闘機であれば現代では数機でフォーメーションを組むのが当たり前で、また二機一組でも一機が旋回しながら囮となって敢えて敵機を背後につかせ、もう一機がそのさらに背後を突くというのが定石の戦法となるなど、戦闘における駆け引きは非常に複雑かつ有用です。
 にもかかわらずガンダム世界では双方ともに真正面から相撲の様にガチンコでぶつかり合うだけで、僚機がいても何も通信しながら連携を取ることなく、互いに好き勝手に敵機と戦うだけです。中には味方機から勝手に離れて勝手に戦い続ける奴すらいる始末です。

 なんでこんなことを書くのかというと、意図の読めない相手というのは非常に手ごわいと感じるからです。味方機が撃墜されても気にすることもなく移動を続けようとしたり、一機だけ前に出ながら他の僚機は何故か延々と旋回していたりとか、こうした何をするかわからない相手だとこちらもどう出るか判断が難しく、そこをどう打開するかというのが空戦における駆け引きになってきます。
 然るにガンダム世界ではそんな高尚な戦場の駆け引きなど一切なく、っていうか作戦目標すらあるのかと疑いたくなるくらい目の前の敵と戦うだけです。基本、戦闘は攻略戦などは少なく両軍出会い頭の遭遇戦ばかりというのも、上記の「敵と通信で会話する」という要因の影響ではないかとすら思います。

 何もとことんリアリティを追求しろと娯楽作品に向かって言うつもりはないですが、やはり戦闘における味方との連携、敵を出し抜く作戦とかあった方が面白いと思うので、こんなこと書きました。なおガンダム世界にはこれらがないないと言ってますが、08小隊のグフカスタムは長距離砲の破壊という目的をはっきり持って、見事に敵を出し抜く戦いぶりを見せており、何気にガンダムシリーズ最高の戦闘シーンだと個人的に思ってます。
 あと連携だと、いちおう初期にジェットストリームアタックというのが存在していますが、その後似たような連携攻撃戦術はほとんど皆無な状態です。あ、でも今思い出したけどガザストームはあったか。大抵こういうのやるとその後すぐ負けちゃんだけど。

2020年5月1日金曜日

優れていると感じる自伝漫画

 また更新がしばらく空きましたが、全部仕事のせいです。キーボードの叩き過ぎなのか一昨日は仕事中、右肩が上がらなくなり、眩暈や動悸をリアルにしながら作業を続けていました。まだやっている仕事が楽しいのが救い。
 単純に忙しいためというより、今年2月ごろから延々と忙しい状態が続いていて、会社から要求されているイーラーニングをやる暇もないほど隙間なく働いています。3月中はまだ体力が持っていたけど、4月に入って以降は蓄積もあってか頭も体もまともに動かなくなっていきました。その成果先週末に至っては、革ベルトを付けたままズボンを洗濯機に放り込んでおり、心なしかベルトがきれいになったものの短くなって帰ってきた気がします。

 話は本題ですが、先日「『ど根性ガエルの娘』を少し読んで」という記事の中でこの漫画のことをかなり激しく批判しました。理由としてはお金を支払う漫画作品としてはあまりに質が悪いためで、その原因は編集方面の混乱もあるとはいえ、作者自身が心の整理がきちんとついていないのか、どうしても主観性が色濃く反映されているように見えると推測しました。
 「バクマン」以降、漫画政策の裏側を見せる内容が受けると見たのか、こういった漫画家の自伝漫画というのが増えた気がします。そうした漫画家の自伝漫画を今まで読んだ中でよくできていると感じたのは、巨匠こと永井豪氏の「激マン!」です。

 知ってる人には早いですがこの漫画はデビルマンやマジンガーZなど、永井氏の代表作の執筆当時を振り返った自伝漫画です。一部フィクションを交えて主人公も「ながい激」などとしていますが、故石川賢や未だ現役衰えない辻真先氏などは実名でそのまま出ており、当時のライブ感が作中で強く反映されています。
 なお辻氏についてはウィキペディアの記事にも書かれていますが、「デビルマンの脚本の打ち合わせをしながら別の作品の脚本原稿を書き続け、書き上げていた」というエピソードが「激マン!」の中に書かれています。これを初め読んだ時、「昭和の作家というのはこんなとんでもない化物ばかりだったのか……」と激しくショックを覚え、とても自分はこういう人たちとは肩を並べられないだろうという思いを感じました。令和においてもこの人は現役ですが。

 話は戻りますがこの「激マン!」が特に優れていると感じたのは、前述の通り作品ごとにテーマを絞っていることです。私が読んだのはデビルマン編だけですが、同時連載中だったマジンガーZについてはそれほど触れられず、デビルマンがどのようにして制作され、作者が当時どんな心境だったのかが良く描かれています。特に飛鳥了というキャラクターが独り歩きし始めたことや、あの伝説的な結末に至った背景について細かに書いてあり、非常に納得感のある内容でした。
 そうした裏話的な要素とともに、先にも書いた通り客観性が非常に保たれているという印象を受けました。本人は照れ隠しのために主人公は自分ではなく架空の人物としていますが、それがかえって主観性を薄めることに効果を発揮したのかもしれません。

 それ以上に、これも先に書いているように当時周囲にいた人物を非常に多く登場させ、彼らの特徴などを細々と描いています。ダイナミックプロのメンバーだけでなく出版社やアニメ会社の人物などをよく覚えているなと思うくらい登場させ、彼らとの会話や関わり、作品の展開などがしっかり描かれてあって、非常に読みごたえがありました。
 こうした点を踏まえて、やはり自伝漫画、それ以前に自伝というのはやはり主観性が強いとだめで、周囲の人物を含めて自分をどこまで客観的に描けるかが、読み手にとって面白さにつながるのではないかと思います。そしてそうした客観性が保たれていると感じるもう一つの自伝漫画としては、まぁわかるかもしれませんが「水木しげる伝」です。

 作者の水木しげる自体が下手な漫画のキャラクターより漫画っぽい人物という、極端に強いキャラクター性の持主ではありますが、この「水木しげる伝」の中では本当に一人の漫画のキャラクターの様に自分のことを客観的に描いています。また「激マン!」同様、有名なのんのん婆をはじめ周囲にいた人物を隔てなく描いており、またその見方も意外と客観性に富んでいるというか、漫画を見た後で実際にその人物を追って調べてみると、驚くほど特徴が共通していることが多かったです。
 一例を挙げると、白土三平氏がいます。初登場のシーンで、「ホームレスかと思った」と描いてあります。しかもその後で漫画家同士で飲食店に入った後、当時他の漫画家みんな食うや食わずやだったから、当時稼いでいた白土氏におごってもらう雰囲気をみんなで作っていたということも描いています。

 万事がこんな感じで、あくまで水木しげる本人が中心として描かれているものの、各時代における身の回りの人物や出来事を中心に、客観性とユーモアに富んだ視点で描かれてあって水木しげるの自伝というよりも、昭和の時代背景を読む作品としての価値の方が高いかもしれません。

 ただ敢えて一点、作者本人の主観が強く打ち出されて描かれた場面が一つあると私は考えています。それは従軍中、戦場で部隊が全滅する中で一人生き残りジャングルを逃げ回っていたところ、まるでぬり壁を目の前にしたかのように深夜に突然、どうやってもそこから前へ一歩も進めなくなったということを回想しているシーンです。翌朝になってみてその先は崖であったということがわかるのですが、このシーンに限っては非常に珍しく1ページ丸ごとの大きなコマで描かれており、作者にとって忘れ得ぬほどの強い体験だったのではないかと密かに見ています。
 私は自伝漫画に主観は不要とさっきから書いていますが、こうした一部のワンシーンで主観を大きく前に出すことは否定しておらず、むしろ作品にいい刺激すら与えると考えています。生憎ながら「ど根性ガエルの娘」では、そうではなくほぼ全面主観に満ちていましたが。

 話を戻すと逆に「水木しげる伝」で非常に恐ろしい点は、作者が左腕を失ったシーンです。爆弾が落下して吹き飛ばされ、軍医に施術されるという流れが非常に淡々と描かれており、その後の人生でも左腕のないハンデについてまったく気にしてないのかと思うくらい触れられません。恐らくほかの人間だったらこの場面だけで数十ページを使うのではと思うような場面ですが、どうしてこうも客観的に書けるのかと思うくらい淡泊で、この点一つとっても作者がとんでもない人だと偲ばれます。
 それだけに、先ほどのぬりかべのシーンの感情の入れ具合との差が際立っているとも思えるのですが。

 なお少し補足をすると、何かのインタビューで左腕喪失について悔しさみたいなものはないかと尋ねられた際、「全くない。生きて帰れただけでも幸運だ。あの時代、生きたくても生きられなかった人たちがたくさんいた」と回答したと聞きます。こうした点を考えると、やはり激烈な体験こそが物事を客観的に捉える視点を養うのかもしれません。

2020年4月26日日曜日

「ど根性ガエルの娘」を少し読んで

ど根性ガエルの娘(Wikipedia)

 昨日の今日でなんですが、昨日の記事で批判しようとしたのがこの作品です。昨日書いたように3巻辺り、というか15話から本番だというので3巻まで買って読みましたが、まぁ無理して買う必要もなかったかなという風に考えています。

 この作品を知ったのはふとしたきっかけからで、ネット上で一時話題になった問題作ということから今回の電子書籍セールに合わせて購入してみました。内容は上記のウィキペディアの記事に詳しいですが、漫画の「ど根性ガエル」の作者である吉沢やすみ氏の娘である大月悠祐子氏が、最初のヒット作以降は全く作品が当たらず家庭崩壊していた状況を書いたという漫画です。
 興味を持ったのは私の年代なら誰もが知るであろう「ど根性ガエル」の作者がそのような状況になっていたということもありますが、実はそれ以上に昔「ギャラクシーエンジェルズ」読んでたってのが大きいです。ついでに言うと「アクエリアンエイジ」でもかなんが描いたキャラのカードをよく使ってましたが、このネタが分かる人はかなり限られる気がします。

 話は戻りますがこの作品はいろいろ曰く付きというか事情があり、元々は週刊アスキーで連載されていたものの打ち切られ、その後白泉社のWebサイトで連載が再開というか仕切りなおされています。
 曰く付きなのはその移籍の背景で、アスキーでの連載は吉沢やすみ氏がギャンブル依存症となってDVもあったし過程も崩壊したけど、それでも漫画を愛する心があったからこそ私(=作者)も漫画家になった……的な味付けで話が進むのですが、なんと作者自身が途中でこの方針を拒否するようになったそうです。その理由というのも、家庭崩壊は未だに続いていると考えていたからです。

 その辺の下りは非常によく赤裸々に書かれており、連載企画で親娘対談をやったところちょっとした発言で父親が激怒し、途中で退席してしまっていたのですが、当初の漫画ではそんなことなぞなかったように和やかな会談シーンが描かれました。その後、「あれは実は嘘だった」的に、当時の実際を描いたのが話題となった15話でした。ついでにその回では連載中に吉沢やすみ氏が脳卒中で倒れて一時半身不随になったことも描いています。
 そのほか家庭崩壊に関しては、中学生時代からギャンブルの金欲しさに父親から小遣いを盗まれて、でもって非難したら追っかけられ、母親に伝えたら「お前が悪い」と言われて土下座させられたり、わざと腐った食べ物を食べるよう強制されたりといったエピソードが描かれています。また作者自身の拒食、過食症で引きこもった時期も描くなど、そうしたありのままに当時の事情を描いている点は素直に評価できます。

 ただ、それでも私はこの漫画を評価することはできず、はっきり言えば読む価値もほとんどないとすら考えています。理由は大きく分けて二つあり、一つは単純に漫画作品として質が異常に低いためです。
 実際に読んでもらえばわかりやすいですが、この漫画はどのページもコマがやたら大きく、なのにセリフは少なくて1ページ当たりの質が極度に低い印象があります。書き込みが多ければいいってものではないですが、深刻な家庭事情の話なのに変にキャラクターもデフォルメ化してそれらしい効果もつけられてて、読んでてずっと「なんでこうなの?」という違和感を感じてなりません。

 実際にというか、今朝に2巻と3巻を端末にダウンロードしたのですが、通勤途中の地下鉄に乗っている約20分間で2冊ともほぼ読み終えてしまいました。それくらいコマが大きいためコマ数と情報量が少なく、漫画というより絵本に近い内容です。にもかかわらずやたらと見開きのページが多く、その見開きの絵の内容もびっくりするくらいスカスカで、ページ数を水増しするためやってるのかとすら内心感じます。
 もしかしたら編集などからの指示なのかもしれませんが、もし作者が意図してこれをやってるのなら、単純に漫画家としての技量が不足しているとしか言いようがありません。それだけ1ページにおける薄さがこの漫画は際立っています。

 次に問題だと感じたのは、時系列がてんでバラバラで、読んでて非常に読みづらいという点です。現代の場面が描かれたかと思ったら突然「ド根性ガエル」の連載時代になったり、また現代に戻ったかと思うと今度は急に作者の子供時代→高校時代→中学時代みたいな感じで、時系列が脈絡なく飛び続けます。おまけにそこで描かれるキャラクターも毎回作者や吉沢やすみ氏というわけじゃなく作者の母親や弟で彼らの心情が書かれたりして、でもってまた急に現代になって「当時どうだったの?」的なインタビューがガンガン差し込まれます。はっきり言って読みづらい上に感情移入も全くできませんでした。

 あくまで個人的な憶測で述べると、作者自身が心の整理がついてないからこうなっているのではないかという気がします。家族との関係や過去の体験について向き合ってはいるものの、整理というものは全くついておらず、だから一つの話の流れにまとめることができずエピソードごとに単体としてでしか書けなかったのではと読んでて思いました。そしてそれがゆえに、どうしてもというか各話はどれも主観が強くにじみ出ていて、

弟:数少ない味方、理解者としてカッコよく描かれる
母:女手で育ててくれたことに対する感謝や尊敬を抱くとともに、家族の犠牲にされたという憎悪から二面性が強く描かれる
父:諸悪の根源だがどうやっても抵抗することができない存在のため統一した人格で描かれない

 みたいな感じに描かれているように私には見えました。その上で、こうした実録系のドキュメント、自伝漫画では、主観が入れば入るほど作品としては価値を落とし、やはり客観性が強く求められるものだと私は考えています。主観を全く入れてはならないわけではないものの、作者の主観というのは読者からしたら他人の視点でしかなく、見ていても共感することは基本難しいです。
 こういった自伝系での主観は自分自身を美化する傾向が強いものの、この漫画に関して作者はまだ自分のことを美化することは少なく、むしろ厳しい時期をよく赤裸々に描いているとは思います。しかし周囲に対する表現は主観が非常に強く、またそれがゆえに先ほど指摘した時系列がバラバラで全くまとまりがない事態を招いている節があり、客観的に描き切れていない、即ち過去の事実について整理し切れていないという風に私は受け取りました。

 そのため、作者の家庭崩壊がどれだけ深刻だったのかというエピソード自体は確かに興味深いものの、内容のスカスカぶりに加え主観が入り混じった読みづらさもあり、漫画作品としてみるなら正直あまり評価できるものではなく、はっきりつまらないと感じました。むしろ漫画で読むより、文字情報にまとめた解説文の方が読んでて楽しめる気がします。ぶっちゃけ、漫画よりもウィキペディア記事の方が面白かったです。

 これが私的な作品だったらまだしも、曲がりなりにもこうして有料で出版されている作品としてみるならば、私はこの作品を評価することはできませんし、人にもお勧めできません。何度も書いている通り話のネタ自体はインパクト抜群なだけに、どうしてもっと上手に料理できなかったのかという点で惜しいと感じるところは多いのですが。

 なお同じように客観性がなくなり主観が入り過ぎて失敗した自伝漫画だと、平松伸二氏の「そしてボクは外道マンになる」があります。これなんか最初の方は1970年代のジャンプ編集部と当時の連載作家たちの姿をオーバーな表現で描きつつ、新人漫画家として苦しむ自分の姿が非常に良く描かれていて面白かったのですが、作品が評価され始めた2巻辺りから作者が自分自身を段々美化して描くようになり、また先ほど評価した他の作家陣などの周囲の情景も描かなくなるようになって人気が急落し、単行本4巻で敢え無く打ち切りとなっています。
 自分は全部読みましたが、実際3巻以降はやばいくらい面白くなかったです。非常に皮肉なことですが2巻の後半に出てくるドクターマシリトが現代の作者に向かってこの漫画について、

「平松さんがもっと外道にならなきゃ、この漫画は売れないただのゴミで終わる」

 と批評するシーンがあるのですが、本当にその通りの結末を辿っています。ウィキペディアの記事にすら、「この発言がのちに現実となってしまう」と書き込まれていますが、実際やばいくらいぴったりそのまま現実になってるからこれは仕方ない。
 自伝漫画はやはりというか自分を美化せず、むしろ汚れ役として描き、尚且つ客観性が強く求められるというのが私の持論です。ではどんな自伝漫画そのような作品なのかは、また今度書きます。

  余談
 「ど根性ガエルの娘」の中で作者が父親に少年ジャンプのパーティに連れてってもらえるシーンがあるのですが、そこで作者は当時「キャプテン翼」を連載中(今もとは言わない)の高橋陽一氏を見つけてサインをねだったところ、快くサインしてくれた(岬くん付きで)エピソードが紹介されています。
 一方、「そしてボクは外道マンになる」では平松氏のアシスタントとしてやってきた高橋氏の印象が描かれているのですが、その印象というのも「大人しくて礼儀正しく素直そうな若者」と書かれています。この高橋氏に関しては、どの紹介見ても大体こんな感じで物やさしげで大人しく柔和な人と紹介されており、これほど各自の印象が一致する人もいないなと思うとともに、「実際こんな感じの人なんだろうな」とよく思ってみてます。

  余談2
 同じく「そしてボクは外道マンになる」では連載前のキャプテン翼のネームを見た平松氏が、「ボールは友達」というセリフに衝撃を受けたシーンが描かれています。この時の心境について平松氏は、「俺たちスポ根世代にとっては、ボールなんてのは(試合中に相手を殺すための)殺人の道具でしかなかった」と語って、スポーツを楽しむという高橋氏の描き方に対する驚きを口にしていて、なんかいろいろ笑えました。
 本当にこの作品は作者自身よりも、その周りというか風景を描いてくれているだけでよかったし、その方がずっと面白かったのに(ノД`)・゜・。

2020年2月21日金曜日

ノベルゲーレビュー その七(スパイク・チュンソフト系列)

 また間が空いたけどノベルゲーレビューの最終回です。今回は厳密にはノベルゲーじゃないけど、実質テキスト読むのが仕事なゲームで傑作を出しまくっている、スパイク・チュンソフト系列作品を一気に紹介します。

1、ダンガンロンパ 評価:A
 粉うことなき傑作作品で、遊んでいる間はめちゃ楽しかったです。
 内容は完全に閉鎖された学校内で殺し合いを仕向けられ、いざ殺人事件が起きたら誰が犯人かを学級裁判で議論し、推理していくという半デスゲームです。殺人事件の舞台とトリックがよくできているというか、現場などに残された痕跡を最低限表示しつつ、決定的な犯人確定要素もないまま議論に突入したところで、他の登場人物の証言をその場で解釈しながら犯人を特定するという構成となっています。

 あまりこういった表現する人はいないですが、この過程はミステリーというより民主主義の権化ともいうような形だと私は考えています。ほんの些細な議論点について無視せず、細かくみんなで検証していき、最終的に誰もが否定しない同一の結論へと至るという過程で、民主主義とはかくあるべき姿が描かれています。
 シナリオの出来もさることながら演出、また学級裁判中のミニゲームなどのゲーム性も高いのですが、それ以上に濃い登場人物たちを演じる声優のキャスティングが抜群に上手いというのがこのシリーズです。大物声優ばかりでなく実力派若手もよく使われており、キャラに外れた声というのはこのシリーズでは一人たりともいませんでした。

2、スーパーダンガンロンパ2 評価:C
 散々第一作を誉めておきながら第二作目がC評価というのは、単純に二番煎じだったからです。前作の良かったところをきちんと継承してはいるものの、舞台が閉鎖された学校から無人島とはいえ南国の島となり、緊迫感がほぼなくなりました。その上、学級裁判中のミニゲームの出来が良くなく、全体のテンポも悪化し、プレイ中は不満点が多かったです。
 シナリオも決して悪いわけじゃないものの、先ほど書いた通り完全な二番煎じに過ぎず、遊んでいて何も驚きがないというかよくこれで出そうとしたなという呆れたような気持ちでエンディングを見ていました。

 思うに、制作側もこうした欠点を把握していたのだと思います。というのも次作がまさに「二番煎じ」に対する回答を出しているからです。

3、ニューダンガンロンパV3 評価:B
 第三作目のこちらは「結末が最悪」、「プレイヤーを馬鹿にしている」などと発売当初は非難轟轟でしたが、私はそれら非難が何故起こるのかが逆に不思議でした。はっきり言えば、このシリーズ三作目に不満というか怒りを感じた人たちは、「二番煎じ」を受け入れる人たちだったからではないかと思います。
 先ほどにも書いた通り、全体のストーリーはいつも通りに学級裁判の半デスゲームですが、舞台は閉鎖された学校に戻り、この点は単純に良かったでしょう。でもって賛否両論となった結末については、「このまま延々と同じ展開を見続けるつもり?」というアンチテーゼに対する回答となっており、私も前作でまさにこの点が非常に気になってたというか不満に感じていた点だったので、制作側の方から一つの回答を出してきたことになかなか感じ入りました。

 なおその結末以外の部分に関してはほぼ全員が傑作と褒め称える出来で、普通に遊んでいても楽しい作品となっています。個人的には、王魔小吉(漫画「「王様はロバ」の作者のなにわ小吉氏から取られたらしい)役の下野紘氏の怪演がとにもかくにも凄まじかった印象があります。レビューでも、このキャラが出てこない場面がつまらなく感じたという人がいましたが、それには激しく同感です。

4、極限脱出 9時間9人9の扉 評価:A
 「極限脱出シリーズ」の第一作目ですが、ジャンルとしては脱出ゲームで、固定された空間の中で脱出する扉のキーを探し出して進めるという内容のゲームです。この脱出の謎解きが程よい難易度で時間をかければ確実の解けるくらいであり、尚且つステージを進めるごとに進むストーリ内容も秀逸で、終わりどころが分からなくなるほどのめり込む内容でした。
 評価は最大のAとしていますが、何故かというとこの作品はシリーズ第一作目で、特に矛盾点がないからです。というのも次作以降、細かい点ですが前作などとの矛盾点が所々で出てくるようになり、突っ込みだしたら切りがなくなるからです。

5、善人シボウデス 評価:B
 「極限脱出シリーズ」の二作目で、私が最初にプレイしたのはこのゲームでした。プレイ当初は気にならなかったものの、後から前作を遊んでみたら画面上のキャラクターの3D造形が今見るとひどい出来で、なぜ前作同様に2D立ち絵にしなかったのだろうかと思えてきました。
 そうした画面上の問題点はあるとはいえ、相変わらず程よい難易度と、謎の地下空間という閉鎖環境で結構サスペンスなシナリオ内容は非常にのめり込めりました。静的な恐怖というか、グロテスクな画像は少ないのに真相がだんだんわかってくるにつれて寒気を感じるシナリオという意味では秀逸な作品でした。

6、ZERO ESCAPE 刻のジレンマ 評価:B
 「極限脱出シリーズ」の三作目で最終作。ぶっちゃけ前シリーズ作品との矛盾点がそこらかしこにありふれていますが、相変わらず程よい難易度でシナリオが秀逸なのと、前作で課題だった3D造形が劇的に改善したこともあって、ゲーム自体の完成度は高くなっています。
 シナリオに関しては多少の矛盾に目をつむれば一応完結には至っており悪いものではないのですが、前シリーズ作品と比べると暴力描写が桁違いに増えており、且つ冒頭から数人死ぬのは当たり前、でもって死者の死に方も桁違いに凄惨という意味で、そういうのが苦手な人には向いてないかもしれません。

 なお声優ではぶっちぎりで、能登麻美子氏の声が怖かったです。能登こわいよ、能登。

7、AI: ソムニウム ファイル 評価:B
 上の「極限脱出シリーズ」と同じクリエイターが脚本書いているアドベンチャーゲームで、刑事となって生きた人間の片目をくりぬき殺害していく異常者をAIとともに追いかけていくハートフルなアドベンチャーゲームです。ついこの間クリアしましたがシナリオは申し分なく、ゲーム性はソムニウムパートという、相手の夢の中に潜り込んで制限時間内に脱出するくらいでやや深みに欠けるものの、それを補うくらい声優らの演技がどれも凄かったのでB評価にしました。あとイクラマンふとし。
 ダンガンロンパでもそうですが、この会社はとにもかくにも声優のキャスティングが毎回絶妙過ぎる気がします。ここでは取り上げてないものの「ザンキゼロ」も違和感を感じたキャラは一人もいなかったし、むしろあれ以上の適役を見つけるのは無理ってくらいいいキャストが演じています。逆にキャスティングの悪かったゲームを挙げるとしたら、「グローランサー2」かな。

 ちなみにこの作品の声優の中では、並み居る実力派の中で、みずき役の黒沢ともよ氏がぶっちぎりで演技がうまいと感じました。声だけであれだけ演じるというの末恐ろしい人です。

2020年2月15日土曜日

ノベルゲーレビュー その六(イエティ系列)

 少し間が空いてのまたこのレビューの再開です。暇なときは好きな記事を書くに限ります。
 今回は最後のを除き、比較的時代が近いパブリッシャーがイエティという会社で、同じノベルゲー専用ゲームエンジンを使っているソフトを紹介します。

1、ルートダブル 評価:D
 レビューサイトで傑作という評価だから買ってみたけど、ただテキストが長いだけであまり評価できるソフトではないというのが結論です。一応、キャラクターの性格にエニアグラム使ったり、各キャラクターに対する親近感を入れることで話を分岐させるなどいろいろな試みがなされていますが、後者はただ面倒なだけで普通に選択肢選ぶのとあんま変わんなくて、それほど画期的なシステムとは思えませんでした。
 次にストーリーですが、自分に限れば中盤の時点で結末がほぼ完全に読めました。具体的には、「きっとこのキャラはあのキャラの生き別れの○○で元凶なんだろう」というレベルまではっきりわかったくらいです。というのもこのゲーム、序盤にものすごい量の伏線を張っているせいで、一つでも伏線の推測が成り立つと、芋づる式に他の伏線の解釈も成り立ち、その後の展開が簡単に読めてしまうようになっているからです。

 また原発事故という深刻なシチュエーションながら、キャラ原画は如何にもな美少女ゲームテイストな造形をしていて、正直萎えました。この点、一般的な美少女ゲームから大きく逸脱したデザインを敢えて採用した「シュタインズ・ゲート」とは対照的で、もっとリアル寄りのキャラデザインにしておけば見方もまた違ったと思います。
 あとこれは個人的な感想ですが、Bルートの高校生の主人公についてははっきり言って、物凄く痛い奴に見えて仕方ありませんでした。Aルートの主人公の方が人気だったことに製作者は意外だったと言っているようですが、私から見ればそりゃ当然で、Bルートの主人公がとにもかくにも痛々し過ぎてて、はっきり言って気持ち悪いことこの上ないキャラです。なんていうか激しい中二病患者を黙って延々みさせられるような感覚ともいうべきか。

2、デイグラシアの羅針盤 評価:B
 この前レビュー記事書いたばかりですが単純に傑作だと思います。ノベルゲーと相性のいい深海という閉鎖空間の中で、科学的考証もよくなされたストーリーに、実質的に分岐は二か所しかないながら、たった二か所の分岐だけで物語の解釈を無限に広げられるほど解釈余地が存分に用意されています。
 元は同人ゲームということからキャラクターの立ち絵や一枚絵、あとBGMなどが貧弱と指摘されていますが、私としてはやはりノベルゲーはシナリオがなんぼであり、他の要素も良ければ大したものですが、シナリオさえよければ気にするほどでもないと考えています。逆を言えばこの作品は、単純にシナリオの出来だけで高評価を勝ち得るだけの素質を備えた作品だとみています。

3、シークレットゲーム 評価:B
 同じく元は同人ゲーム発のノベルゲーで、参加者全員に殺し合ってもらうといういわゆるデスゲーム物です。分岐はなく用意された複数のシナリオをただひたすらに読むだけの作品ですが、デスゲーム参加者の背景、そしてゲーム参加時のクリア条件などの設定が秀逸であり、また全編にわたってやるかやられるかという緊迫感に満ちたシナリオから、遊んでいる最中は非常に楽しかったです。
 前に出したレビュー記事にも書いていますが、シナリオクリア時に生き残ったキャラクターを見て非常にホッとするというか、読んでるだけなのに生き残ったという実感がさせられる文章で、単純に読ませる文章なのは優れた点です。前評判に違わず、こちらも傑作ノベルゲーだと言えるでしょう。

4、リベリオンズ 評価:D
 正直いって評価はEでもいい気がします。 このゲームは一つ上の「シークレットゲーム」の続編ですが、前作の良かったところをほぼすべてスポイルし切っている稀有な作品です。敢えて例えるなら、何時間もかけて出汁を取ったスープを味見して、納得顔しながら流しに捨てるような。
 シナリオは全編を通して陳腐且つ低次元としか言いようがありません。前作はデスゲームとなる舞台の設定とキャラ背景が非常によく練られており、同じ舞台設定ながら複数のシナリオどれもが読み応えのある作品でしたが、こっちの「リベリオンズ」の方は逆にこの設定面がガバガバもいいところで、話もご都合展開が非常に多かったです。また前作との橋渡しをするある共通キャラクターが存在するせいで解釈余地が極端に狭められるという、やっちゃいけない演出の手本みたいなことをやらかしています

 具体的な内容面に言及すると、前作はデスゲーム参加者だけでなく運営者もゲームのルールに縛られており、運営が特殊な介入をするに当たってはいろいろな制限がありました。しかしこちらではそうした運営側の介入制限はほぼなく、言っては何ですがやりたい放題もいいところで、シナリオライターにとって都合のいい展開がポンポン作り出されているように見えて仕方ありませんでした。
 唯一評価できるのは、粕谷瞳役の声優のひと美氏の達人芸を拝めることくらいです。それ以外に関しては、ただ前作の栄光を貶めることを目的に作っているようにしか見えませんでした。

5、ЫΞδ 評価:F
 先日、名前を出すのも憚られるとあるゲームを遊びましたが、このゲームは普通の人はやってはならないとはっきり思いました。どういうノベルゲームかというと端的に言って「拷問ゲー」で、全編にわたっていろんな登場人物が様々な責め苦を味わされ、目をそむけたくなるような描写と悲鳴が延々と続くゲームでした。あまりの内容の激しさに、銃で撃たれてすぐ死ねるということは本当に幸せなことだと、今現在も本気で信じるくらい価値観をひっくり返されました。
 何が凄いかって、このゲームのシナリオライターはよくあんだけ拷問描写を何本も考えられるなってことです。一応、拷問描写を除いた全体のシナリオ骨子も別のテーマがきちんと踏襲されていて優れているのですが、それ以上に拷問の種類や方法が激しすぎ、あんまり本筋のシナリオは入ってきませんでした。あと声優も、あんなむちゃくちゃなセリフをよく収録したものだと変な意味で感心させられます。