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2022年10月6日木曜日

曹操はいつ簒奪を考えるようになったのか

 例によって中国史の再復習している最中、曹操はいつから漢朝に対する簒奪心を覚えるようになったのかが気になってきました。

 お話の三国志演義の中だと曹操は登場シーンからして野心満々な人物に描かれ、その後の行動や発言にもブレなく、本来主である献帝に対しても不遜な態度を取りまくります。しかし実際の史実で見ると、少なくとも若年時は尊王の志も高く、朝廷に対する意識も周囲より高いと伺える行動が見られます。
 具体的には、一番最初の反董卓連合結成時の行動です。董卓を叩くため各地の諸侯が結託するも、みんな自分の兵を失いたくないから率先して戦おうとしない中、自ら進み出て董卓軍と戦ったのは孫堅と曹操だけだったそうです。もっとも曹操はすぐ負けたのに対し、孫堅は呂布相手にも打ち勝って、董卓が長安に逃亡するきっかけになるほどの大活躍を見せましたが。

 少なくとも上記の時点では、もしかしたら打算あってのものかもしれませんが、朝廷に対する深い忠誠心を持っていたと思える節があります。実際そうした姿勢を見せたからこそ、漢朝復興を目指す荀彧などの名士が曹操の陣営に参加するようになったとも言え、実際に曹操配下の人材は曹操を助けるというより、曹操を通して漢室を復興させることが目的だった人物が少なくありません。

 しかしその後の歴史を見ると、曹操は皇帝である献帝の皇后を、彼女の父親が生前に曹操の暗殺を目論んでいたという理由で処刑し、また荀彧との決裂の原因にもなった「魏王」という爵位を受けるなど、漢朝に対する露骨な簒奪プレイを見せるようになります。最終的に彼は「周の文王でやめとくよ(´・ω・`)」といって、自分自身は止めの簒奪はやらずに最後の一手は息子の曹丕に任せていますが、上記発言が出る辺りは確実に簒奪の意思を持っていたと言っていいでしょう。

 仮に曹操が反董卓連合時点ではまだ忠節を残していたとしたら、一体いつから彼は漢室に見切りをつけるようになったのか。考えられるポイントはいくつかあります。

・董卓軍に敗北した際
 前述の通りに曹操は孫堅とともに果敢に董卓軍に挑むも惨敗し、その後連合から離脱して勢力の充実化を図るため引きこもっています。この間に戦ったのは自分(と孫堅)だけだったことや、こんなに頑張っているのに報われない等の思いから、漢室への忠誠をなくした可能性が考えられます。

・献帝保護時
 董卓が死んで李確らが支配するようになった長安から逃亡した献帝は曹操によって保護され、これ以降は曹操が朝廷の権威を思うがままに使えるようになります。この段階で漢室を再興させるよりも、好きなだけ利用して天下取ったろ的に野心を拡大させた可能性もあるでしょう。
 ただ、保護当初から献帝は早々によってないがしろにされていたことを自覚していたようで、「敬う気がないならとっとと退位させてくれ」と献帝自身が早々に述べたと伝えられています。これ以降、曹操は献帝に会うのを控えるようになったとされ、状況から考えると献帝保護以前から既に忠誠心を失っていたと考えるべきでしょう。

・暗殺事件発覚時
 曹操には二度の暗殺計画が企図されており、一つは董承によるもの、もう一つは伏冠によるもので、どちらも献帝の指示によるものされています。どちらの事件も発覚時に関係者は妊婦を含む一族もろとも処刑されていて曹操の怒りぶりは傍目にも相当なものだったと伝えられていますが、恐らく曹操もその指示役が献帝だということを知っていたとされ、担いだ神輿の上から殴られそうになったという思いから、この辺で愛想が尽きたというか忠誠を失った可能性もあるでしょう。
 まぁそれ以前からかなりやりたい放題だったからこそ、暗殺が企図されたわけなのですが。

 自分の見方だと最初の董卓軍敗北時が可能性としては高い気がしますが、人情的には暗殺事件がきっかけという可能性も捨てきれません。それ以前に、曹操はハナから漢室簒奪の意思を持っていたという従来の見方も否定できないわけですが、この辺は曹操本人に聞くよりほかがありません。

2022年9月27日火曜日

夷陵の戦いの開戦は必然だった?

 例によって中国史を勉強しなおしていますが、ちょうど三国志のあたりで夷陵の戦いについて興味深い見解が中国で唱えられていることを知りました。

 夷陵の戦いとくれば三国志マニアには説明不要ですが、簡単に経緯を説明します。蜀を得て、漢中で魏軍を撃退して日の出の勢いだった劉備軍団でしたが、呉の裏切りによって荊州を奪われたばかりか、劉備の義弟の関羽も戦死する事態に陥ります。この呉の裏切りに対する雪辱戦として劉備が呉を攻めてたところ、後の陸遜により大敗したのがこの夷陵の戦いです。

 この戦いは諸葛亮をはじめとする幕閣が反対する中、関羽の仇を取りたい劉備の意思で強行されたと言われているのですが、中国で出ている意見の中には実際はそうではなく、蜀としては何としてでも荊州を取り戻さなければならない事情があったとして、劉備の意思以前に戦略的にも不可避な戦いだったとされています。

 具体的にどういうことかというと、諸葛亮が編み出した天下三分の計に則り劉備軍団は蜀こと益州と荊州を得ることに成功しました。そして漢中を奪取すると、劉備は関羽に指示して荊州から魏の領土、具体的には南陽を攻めさせ、一時は優勢であったことから魏の心胆を大きく寒からしめました。
 実はこの一連の流れこそ、天下三分の計の肝ともいうべき戦略でした。何故かというと、益州と荊州の二方面から攻撃を仕掛けることで魏軍を常に分散、疲弊させるというのが、魏攻略における戦略の柱だったからです。つまり劉備が魏を攻略するためには、軍隊を二方面で展開する必要があり、そのために益州と荊州が揃っていなければならないわけです。

 実際、この戦略は見事にはまっていました。先にも書いた通り、漢中では大勝し、荊州でも関羽があまりに勝ち進むことから魏では首都遷都も検討されたほどでした。また魏の立場からすると、距離の離れた二地域から、どちらか手薄なところを常に攻撃してくるとなると気が気でなく、防衛においてはその広大な領土が却って仇となる面があります。

 しかしこの後、こちらも前述の通りに呉が劉備との同盟を破棄して関羽を攻撃し、荊州を奪取することとなります。蜀としては益州側から魏に攻撃することはできるものの、史実の北伐の様に魏側としては防衛ラインを絞ることができ、対策することが出来てしまいます。一応、北伐時には呉も牽制のため魏に攻撃を仕掛けていますがあまり熱意はなく、そもそも漁夫の利が発生することを恐れ真剣に戦うことはありませんでした。実際に出兵してもすぐ撤退することが多く、蜀が魏を倒すためにはやはり自らが二方面で戦線を展開し、連携する必要があったでしょう。

 こうした魏討伐という戦略のためにも、蜀としては何としてでも荊州を呉から奪い返す必要があったというのがここで紹介している意見です。もちろん関羽の弔い合戦という面もあったでしょうが、冷徹な目で見るのなら単純に蜀が生存していくためにも荊州は必要不可欠で、夷陵の戦いの発生は不可避であったと言えます。もっとも呉が同盟復活のために荊州を差し出すと提案してきた際に受け入れていれば、というイフは成り立ちますが。
 逆を言えば、夷陵の戦いに敗北後、益州一つだけでその後も魏と戦い続けられたのは、ひとえに諸葛亮という大天才がいたからであって、実際に諸葛亮が亡くなるや蜀は斜陽の道を歩むこととなっています。そういう意味では彼一人で荊州一つ分の価値がリアルにあったと言えるでしょう。

2022年8月14日日曜日

ドイツの敗戦は日本のせい?

 昨日壊れたエアコンは今日正午に大家が修理業者を呼んできてくれて無事直り、今も余裕の夜を過ごしています。途中から修理シーンを見たため詳しい故障原因は聞きかねましたが、ボンベからガスを入れていたのでガス抜けかと思っています。

 話は本題ですが一昨日友人に二次大戦における各国の参戦経緯という、また妙なトピックで講義をしてきました。なんでこんな話になったのかというと、戦車の話になって、ドイツとソ連がお互い戦っている最中にものすごく戦車を発展させ、同時代においてはこの二ヶ国が戦車技術で突き抜けたとかそういう話から何故か突入しました。具体的には、「そんな血で血を争った二ヶ国も、開戦当初は仲間同士だったんだけどね」っていう切り口からでした。

 これはどういうことかというと、わかる人には早いですが1939年のポーランド侵攻のことです。二次大戦はこのドイツによるポーランド侵攻から始まったと歴史上では定義されていますが、このポーランド侵攻は西からドイツが、東からソ連が攻め込み、両国がポーランドを文字通り分割しています。こうしてポーランドを落としたドイツはその後フランスへと襲い掛かり、英国を除く西ヨーロッパの大半を握るに至ります。
 その英国に対しても、ドイツは当初自らの戦果を誇示して講和を持ち掛けますが、英国はこれに対し拒否して抗戦する姿勢を見せ、その後のバトルオブブリテンへと至るのですが、ヒトラーとしては当初、英孝は講和に応じるはずだ、真の敵はソ連であってお互い仲良くなれるはずだと本気で信じてたようです。

 先のポーランド侵攻では共同で攻め込んだドイツとソ連ですが、そもそも政治信条的にはお互い真逆(国家社会主義VS共産主義)という立場であり、また国境も深く接し合う不倶戴天の敵同士です。ポーランドはあくまでお互いの利害が一致しただけの結果であり、両国ともその後、雌雄を決しなければならないと考え、開戦準備を進めていました。

 そんな独ソ戦開幕前夜、ドイツにやってきたのが我らが松岡洋右です。彼は若干しっくり来ていないように見えるドイツとソ連に対し「日本が仲立ちになろう」的なこと考えてたようです。というより、ドイツとソ連は既に仲間同士であって日本もその輪に入ればいい的に思ってた節もあります。
 当時既に日独伊三国軍事同盟を結んでいた日本でしたが、その表敬のためドイツを訪れた松岡はヒトラーから直々に「ソ連には気を付けた方がいいよ」と言われましたが、そんなのお構いなしに帰路にモスクワによって、日ソ中立条約を結んでしまいます。これによってドイツとの戦争時に日本側から背後を脅かされる懸念がなくなったことでスターリンは大喜びし、わざわざ駅まで松岡を見送りに来たほどでした。

 この直後、独ソ戦が開始され、慌てた松岡は日ソ中立条約を破棄してソ連を攻めるべきだと主張します。しかし外交ミスの原因を作った張本人が何を言うかと大顰蹙を買い、松岡は間もなく罷免されますが、その後の歴史は言うまでもなく、日ソ中立条約は日本の終戦間際にソ連によって一方的に破られ多くの悲劇を生むこととなります。

 以上は日本側の視点に立った流れですが、これをドイツ側の目で見ると、本当に日本はうざいことしてんなって思えてなりません。というのも、ドイツが日本と軍事同盟を結んだ最大の目的はほかならぬ、ソ連に対する牽制以外何物でもありません。それを日本が日ソ中立条約を結んだことで、軍事的には三国同盟は何のメリットを持たなくなりました。それどころか、ソ連側は極東の防衛兵力を西側に移動させることができるようになり、ドイツに対する防衛力を高めたことは間違いありません。仮に中立条約を結ばず、日本がソ連に対して牽制だけでもしていたら、独ソ戦はどうなっていたのかという議論はできるかと思います。

 またその後についても、日本が真珠湾攻撃によって米国と開戦したことで、ヨーロッパ戦線における対独米国参戦も招いています。この直前まで英国は非常に厳しい立場に置かれていたとされ、米国の参戦が遅れていれば英国も陥落していたのではないかという説もあります。それだけに米国も国内世論が反対する中にもかかわらず政府は参戦を急いでいたとされ、日本側から攻撃させて世論を参戦に持ち込むよう挑発していたという陰謀論が出てくるわけです。 
 まぁこの陰謀論は実際そうですが、真珠湾攻撃を知ってたってのは嘘だと考えています、米国はどうも、日本は最初フィリピンなどを奇襲すると予想していたようで、地理的にもそう思うのが自然でしょう。

 話は戻しますが、日米開戦によって米国が参戦したことで、ドイツは東のソ連と西の米英という二面作戦に追い込まれます。正確には北アフリカ戦線もあるのでほぼ三面作戦でしたが、仮に米国の参戦が遅れていたらもっと序盤に対ソ連戦に集中できたと思え、そうだったらまた結果も違ったんじゃないかなと思う節もあります。
 この辺まで話し終えて私も、「ぶっちゃけ、ドイツの目から見たら日本が悉く敵を増やしており、なんか日本のせいで敗戦したと思われても仕方ないような……」という一声が喉から出てきました。それ以前に、日独伊三国軍事同盟は軍事的なメリットは一切運ばず、デメリットのみ締結国にもたらしているように見えてきます。

 この辺、空気を読むことに命を懸けている民族の癖に、日本は国際社会の空気を悉く読み違え、結果的に自国の亡国を招いたばかりか、なんかドイツさんにやたらと負担をかけていたような気がします。自分も今回、時系列で解説している最中にこの構造に初めて気が付いたのですが、ネットで検索してみるとこうした主張をしている人はあまり見かけません。
 それだけに気になるのが、ドイツ人はこの辺をどう思っているのか。日本のせいで二次大戦負けたとか彼らは思ってないのかが若干、というかかなり気になります。内心、ドイツ人にそう思われても仕方ないような気がします。

2022年5月26日木曜日

優秀な副官に恵まれ過ぎた軍神たち

 何故か仕事中に作ったフォルダの名前を「潜航量産型アッシマー」と名付けてました。アッシマー好きすぎ。っていうかバンダイはもっと水中モビルスーツ作れ。

 話は本題ですが、日本で軍神と言ったらまず間違いなく上杉謙信、次いで東郷平八郎が上がってきますが、基本的には類まれなる戦争指揮能力を持った人間にこの異名は授けられます。では世界史における軍神はと言ったら、中国だったら恐らく韓信が来るでしょうが、欧州であればやはりナポレオンの名前が挙がってくるかと思います。
 実際に彼の戦績はすさまじく、皇帝となった後のアスペルン・エスリンクの戦いまでは全戦全勝で、一部の戦闘においては完膚なきまで敵軍を叩いており、最初のプロイセン(ドイツ)との戦いでは文字通り敵軍兵士を「溶かす」と言っていいくらいにまで撃滅しています。もっとも上記のアスペルン・エスリンクの戦い当たりから徐々に精彩を欠くようになり、ロシア遠征では結果論ではあるものの判断ミスをかなり連発しています。

 ただ、ナポレオンの最大の敗戦と言ったらやはりその最後のワーテルローの戦いでしょう。この戦いで完全敗北した彼は遠く離れたセント・ヘレナ島に流される羽目となりますが、そのきっかけとなったワーテルローの戦いは敗北こそしたものの、ほんの一つのボタンの掛け違いがあれば、ナポレオン率いるフランス軍は大勝した言われます。
 具体的には数万の兵を率いて別動隊となっていた軍を本軍に合流させていれば、崩壊間近だった英軍を完全に突破することができたと言われています。実際、ナポレオンはこの別動隊に開戦直前に本軍への合流を指示していますが、伝令兵が道を間違えて伝令が届かず、結果的に合流を逃しました。

 なおその別動隊を率いていたのはグルーシーという元帥で、遠くから砲弾の音が聞こえるから本軍に向かうべきだと周りから進言されたものの、プロイセン軍を追撃するという最初の命令を墨守してしまっています。

 この伝令についてですが、送ったのはワーテルローで参謀を務めたスルトという元帥(フランス外人部隊の生みの親)で、彼は一人の伝令しか送っていませんでした。戦後にこのことを知ったナポレオンは、「ベルティエなら1ダースの伝令兵を送っただろう」と言ったとされます。

ルイ=アレクサンドル・ベルティエ(Wikipedia)

 漫画の「ナポレオン」ではホビットのような姿で描かれてるこのベルティエですが、「皇帝の影」と呼ばれたように、ナポレオンが若かった頃から彼の最側近の参謀として仕え、彼の覇業を大きく支えた人物です。
 ナポレオンの戦争指揮は非常に断片的かつ分かりにくい指示が多かったそうですが、そうした指示をベルティエは的確に理解して現場を手配し、軍をうまく回していたそうです。しかしワーテルローの戦いの直前、ナポレオンがエルバ島から脱出してパリへ向かっている最中にナポレオンからこっちに来るよう連絡されたベルティエは自殺しており、ワーテルローで参謀を務めることはありませんでした。

 仮にベルティエが参謀でいたら上記のスルトのミスは起こらず、別動隊も合流して勝利していたと思われるだけに、ナポレオンにとって最も致命的な死は彼だったとする声も少なくありません。同時に、天才過ぎる司令官はその天才を理解する人物なくしては実力を発揮できないことの例えとしてもよく使われます。

 そんなベルティエとナポレオンの例に近いと思うのが、米国の南北戦争において南軍を率いたロバート・リー将軍がいます。彼も天才的な用兵によってブル様に勝る北軍を何度も撃退し、彼一人で南北戦争を数年長引かせたとまで言われ、米国史上でも最高の軍指揮官と名高い軍神です。
 ただ、彼の戦歴をよく見ると、南北戦争前半では勝っているものの、後半は割と負け続きであったりします。そりゃ北軍の方が三国志の魏じゃないけど物量で上なのだから長期戦となると有利になるのは当たり前と見ることができますが、実は彼が負け始める直前、ある人物が亡くなっています。


 亡くなったのははリー将軍の副官だった、上記のジャクソン将軍です。ナポレオンと似ていて、リー将軍も戦争支持は必要最低限なことしか言わず、下手したら地図を指さすだけとかもあったそうです。そんな面倒くさい上司の意図を的確に理解し、現場に上手く伝えるという暗号解読機みたいな役割を果たしていたのがジャクソン将軍で、リー将軍も彼のことを大いに頼って、二人で連戦連勝を重ねていました。

 しかしジャクソン将軍は大勝した戦闘の帰り、なんと味方の誤射によって射殺されてしまいます。弾は左腕に受けて左腕を切断したものの容体は回復せず亡くなったのですが、彼の訃報を聞いたリー将軍は、「ジャクソンは左腕を失ったが、自分は右腕を失った」とまで言ったそうです。
 事実、その後その通りな展開となり、かの有名なゲティスバーグの戦いの戦いでリー将軍率いる南軍が敗北してからというものの、その後ほぼ全く優勢を得ることなく南軍は追い詰められていきます。このゲティスバーグの戦いも、ジャクソン将軍がいたら南軍が勝っていたという主張もあります。

 ただそれ以上に、リー将軍の用兵を理解して実践に落とし込む副官が消えたという事実の方が、その後の南軍の敗北的には大きいかもしれません。ナポレオンにしろリー将軍にしろ、どちらも戦争の天才であることは間違いないものの、その天才性は優秀な副官があって初めて発揮されるものであり、副官を失うということは文字通り、彼らの天才性の喪失に直結していたとも考えられます。
 そう考えると、優秀な副官に恵まれすぎると、天才は彼らなしではいられない一種の依存状態に陥る者なのかもしれません。そうなれば後は一介の将軍に成り下がりかねず、その点ではある意味軍神は不幸でしょう。

 現代のビジネスにおいてもそうした例はいくつか見られます。優秀な副社長や専務に去られてしまった、かつては天才と呼ばれながら会社をダメにする経営者などは枚挙にいとまがなく、どれだけ天才であろうと、自分一人でその才能を支えきれなければほんの一人がいなくなるだけで途端に無能と化すものです。そういう意味では、天才はこの辺を理解した上での謙虚さも、必要条件として求められてくるでしょう。

2022年4月13日水曜日

江戸末期の豪商が消えたわけ

 次回の特集用にいろいろ調べていますが、江戸時代においては既に中期頃より、支配階級である武士よりも商人の方が地味に強い力を持つに至っていました。江戸の徳川家を含め各藩はどこも商人に多額の借金を抱え、彼らなしには参勤交代はおろか、領国経営すらままならない状態でした。シムシティで言えば、常に借金を抱えながらプレイする状態といったところでしょう。
 それゆえ、マジで商人に頭が上がらなかった藩主もいたとされ、商人の嫌がらせ喰らって自分の藩になかなか変えることができなかった藩主も結構ざらだったと言います。

 ただ、創業100年以上がざらにある和菓子屋や大工(工務店)と比べ、江戸時代から脈々と続く商家というのは実は少なかったりします。明治以降も生き残った豪商といったら三井、住友、鴻池くらいしか私も浮かばず、少なくとも各藩の地元でブイブイ言わせていた豪商となるとほぼ壊滅状態です。それこそ鴻池みたく令和のこの時代において存在しないならまだしも、明治の前半には江戸時代の豪商の大半は消え去っていたとされています。では何故、江戸時代の豪商は維新後に消えたのでしょうか。
 答えは非常に簡単で、旧大名こと華族に悉く借金を踏み倒されたからです。

 維新後の廃藩置県を経ていわゆる旧大名家は日本から消失しましたが、旧大名家が抱えていた借金も一瞬で消えたわけではありません。ではそれら負債は最後どこが負担したのかというとどうも大半が大名家に金を貸していた豪商たちで、廃藩置県の後に「もう藩がないから知らないもん」とばかりに、みんな揃って地元や江戸、大阪の有力豪商達の借金を踏み倒したと言われています。
 豪商たちもいちおう明治政府に補償を求めたそうですが、「うち関係ないから(^ω^)」といってにべもなく断られ、これによって維新後に悉く潰れていったそうです。

 逆に生き残った上記の三井、住友、鴻池は、まだ幕府が生きていた幕末の段階で薩長(維新政府)寄りの立場を明確に打ち出し、薩長側に資金や運送面で便宜を図ったことにより維新後、論考として両替商(金融業)の営業許可がもらえたりして上手いこと生き延びました。恐らく明治政府としても、各地の豪商をそのまま生かすのではなく、息のかかった政商たちに糾合させる方が全国統一ネットワークの形成面でも有利と踏んで、豪商を意図的に破綻に追い込んでいたのではないかと思います。

 その他にはさっき調べて知りましたが、安田財閥も江戸末期に両替商としてスタートして、うまいこと維新の動乱を乗り切ってその後の財閥化を果たしていたようです。江戸末期の豪商ではないけど、如何に明治政府のパイプを持つかが当時の財界において重要だったかを示す一例だと思います。

 江戸期の豪商というと紀伊国屋文左衛門とかしかあんま出てこないですが、実際に当時、どれだけ力を持っていたのか、どんな影響力があったのかなどはもうちょっと研究される価値があるのではないかと思います。まぁその辺を含めて今いろいろ調べている最中ですが。

2022年3月28日月曜日

平頼盛は何故マイナーなのか?

 土曜に小区が封鎖解除されていろいろ買い物出来て、なんかうれしくて色々食べてたら日曜に下痢しました。それでもうれしい。
 でもまた次の週末から自分の住んでるところは今度はガチなロックダウンされる予定です。川の向こう側の浦東は予告なしで今日からロックダウンなのでまだ恵まれていますが、今度はしっかり備蓄して対策打っとこうかと思います。っていうかロックダウンを理由に仕事休みたい(ヽ´ω‘)


 そういうわけで今日配信の自分の記事ですが、これは2017年にこのブログに書いた自分の記事の焼き直しです。なんで焼き直ししたかというと、土日も毎日普通に働くほど取材する時間がないに尽きます。ガチで今日、半ギレ気味に上司に「あと5人よこせ」と言うほど忙しいです。
 そんな状況だからハナから取材はあきらめ既存記事を使いなおそうと思って歴史記事を検索して過去記事を見つけたのですが、読み直して「こんな奴おったんや(´・ω・)」と、自分の記事を見返すまで今回の主役である平頼盛の存在のことを完全に忘れていました。記憶力に定評のある自分ですが、本気でひとかけらも記憶に残ってなかったのでマジビビりました。

 ただこれは私だけではなく、恐らくほとんどの人に当てはまるのではないかと思います。ヤフコメの反応見てても、こんな人物がいたなんて知らなかったなどというコメントが入っていますし、私自身も歴史通で名を馳せますが、前回調べた時にも全く知りませんでしたし、今回改めて調べなおすまで完全に存在を忘れていました。逆を言えば、それくらいこの平頼盛は影が薄い存在であるように思えます。

 記事中にも書いている通り、頼盛自身は清盛の弟で、異母兄弟であるからやや嫌われて、最終的には平家の中枢ぶ賞でありながら源氏に与して天寿を全うするなどドラマ性のあるキャラクターです。にもかかわらずここまで知名度低いのはかなり特殊であるように思え、改めてその背景について少し考えてみました。

 まず一番の理由としては、平家武将であることが大きいでしょう。どうも平家だと清盛とその長男の重盛以外はあまり取り上げられず、平宗盛といってもどういう人物かパッとわかる人は少ないと思います。
 なお今回の記事、「~盛」という人物名がやたら多く、「清盛と頼盛は同じ忠盛の元で生まれた異母兄弟」みたいに名前を並べると見ていて非常に読み辛くなるため、なるべくお互いの名前を離し合うように気を付けています。また「頼盛は父・忠盛の~」などの様に続柄も随所に入れる工夫をしており、意外と簡単そうに見えて真似して書くにはかなり難しい記事だったりします。

 話を戻すと、源氏方と比べると平家の武将はあまり取り上げられない傾向にあり、また基本やられ役ばかりなため、どうもあんまり表に出されず、マイナー化している気がします。
 また頼盛の場合、最終的に平家と袂を分かって生き残ったというのも拍車をかけているでしょう。というのも平家物語を筆頭に「もののあわれ」こと滅びの美学の代表の如く平家は扱われています。そんな平家において、最終的に敗死しなかった頼盛は上記の美学範疇からも外れることとなり、この辺でも取り上げられない理由になっている気がします。

 あともう一つ付け加えるとしたら、上に書いたように平家だと「~盛」という名前が多すぎるのも一因かもしれません。このせいで非常に区別し辛いし。かえって「平中納言」みたく官職などをつけて区別した方が、後の時代に伝承する上では有利かもしれません。

 そういうわけでまた次の週末は忙しい本業の合間に記事書かないといけません。何か中国ネタとかでリクエストあれば受け付けるので聞きたいことあったらコメント書いてください。マジで。

2022年2月16日水曜日

ずるいや兄ちゃん( ˘•ω•˘ )

ロッキンオン、古塔つみ描き下ろしグッズを一時販売停止と返品対応に すべての作品を調査を行うため(ガハろぐ)

 本題と関係ないけど今も検証が続けられているトレースレーターの報道とか見ていると、逆にオリジナル作品を見つけ出すことの方がハードなのではないかという気がしてきました。っていうか最後に書かれている「引用派の巨匠」という言葉が強すぎる。

 話は本題ですが先日も取り上げた「とはずがたり」では、後の南北朝の争乱のきっかけとなった後深草天皇と亀山天皇の兄弟二人が登場します。この二人は実の兄弟ながらどちらも天皇になっているものの、互いに頂点を極めた若貴兄弟と同様というか、その後継天皇をどちらの皇子にするかで対立が深まったと言われ、一般的には仲が悪い天皇兄弟のように認識されています。
 実際に私も長い間そんな風に見ていたのですが、両者の姿については「とはずがたり」でも描かれていて、それを読むと若干印象が変わってきます。

 具体的にはどう描かれているのかというと、ちょうど後深草天皇が自らの側近でもあり朝廷と鎌倉幕府のパイプ役である西園寺実兼を使った運動が効を奏し、自分の皇子(伏見天皇)を皇太子に立てたあたり、後深草天皇と亀山天皇が不仲であるという噂が出回っていたようです。
 これに対し両者は「そんなことないよ(・∀・)人(・∀・)ブラーザ」ということを世に示すため、一時期互いの屋敷を訪問し合ったりしました。訪問理由はいろいろ理由をつけていたのですが、途中からチームで弓の腕や和歌を競い合ったりして、勝った方をお祝いし合うみたいなイベントをやるようになりました。

 そんな交流戦が繰り広げられたある日、後深草天皇が逗留先の屋敷で横になって「とはずがたり」の作者である二条にマッサージしてもらっていたところ、亀山天皇が単身で部屋に入ってきて、こんなやりとりがあったそうです。

亀山天皇「今夜は御供がいなくて夜寂しいの。兄ちゃんの二条貸してよ(´・ω・`)」
二条(何言ってんだこいつ……(;´・ω・)モミモミ)
後深草天皇「二条は今、身重(妊娠中)だからまた今度ね(´-ω-`)マッサージキモチイイ」
亀山天皇「ずるいや兄ちゃん!うちの女房の中で気に入った娘がいたらいつでも言ってねと僕は言ってるのに、兄ちゃんは自分とこの娘を独占すんの?( ˘•ω•˘ )」
二条(ちょっ、待てよこの兄弟。なに勝手に交換条約結んでんだ(;゚Д゚)モミモミ)
後深草天皇「( ˘ω˘)スヤァ」
亀山天皇「兄ちゃん酔っぱらって寝ちゃったね。じゃ、君はこっちへ(´・ω・`)グイッ」
二条(ってオイィ、寝てんじゃねーよこのタイミングで:(;゙゚''ω゚''):)

 っていう感じで、亀山天皇に手籠めにされたといういきさつが描かれています。会話文はもちろん脚色していますが、ガチでこんな内容です

 これ見て当時の宮中の乱れ方とかそういう以前に、「案外仲いいじゃんこの兄弟(;´・ω・)」というのが私が感じた印象です。もちろん仲良くシェアとかしてたのはこの時期だけでその後は険悪だったのかもしれませんが、政治的にはともかく、プライベートでは上記の通り交流があったようです。どちらかというとこれ以降、皇統が分かれたまま時代が下るにつれて派閥間の抗争が激しくなっていったというのが実態かもしれません。

 なおこんな感じの話がガチで「とはずがたり」は多く、戦前とか発禁にならなかったのかなと前から思っていました。ただ先日のJBpressの記事を書いた際に調べたところ、実はこの「とはずがたり」は二次大戦中に古典資料館で初めて再発見され、皇室への社会の意識が強かったこともあり当時は公表されず、1950年くらいになって初めて世間に出されたそうです。

 それで合点がいったというか、他の古典と比べると「とはずがたり」はややマイナーな方に入りますが、それは恐らく古典マニアな明治、大正の文豪が一切触れていないこともあると思います。森鴎外や芥川龍之介を始め、この時期の文豪で古典マニアな人は少なくなく、彼らが小説に取り上げたことでメジャーとなった古典も多いです。しかし「とはずがたり」は彼ら文豪のいた時代には表に出ておらず、昭和になって初めてその存在が再確認されたこともあり、いわゆる源氏物語や更級日記などと比べるとやや知名度が低いのではないかと思います。この前亡くなった瀬戸内寂聴を始め、現代語訳している人はそこそこいますが。

 それにしても「とはずがたり」のエピソードはほんとに顔文字入れやすい。

2021年11月24日水曜日

上杉謙信には野心はなかったのか?

 最近こっちのブログの方であんま歴史記事書いてないので、JBpressには出せないような推論、仮説記事を書くとしたら、やっぱ上杉謙信の野心アリアリナシナシ議論だと思います。結論から書けば、彼も天下を取るという野心はあったと自分は見ています。

 上杉謙信に関しては自分が以前に取り上げた元寇のように、この10年くらいで研究が進んできたというかこれまでの評価がかなり変わってきた武将であるという気がします。彼の評価が変わってきた原因としてはやはり、一昨日に出した記事で私も取り上げた、彼の関東地方に対する干渉が以前と比べ知られてきたからでしょう。それ以前はというと、上杉謙信とくればまずは武田信玄との川中島の戦い、そして織田家との手取川の合戦ばかりがクローズアップされ、極端な話、それ以外の面に関してはほぼ無視されていたような節すらあります。

 特に川中島の合戦に関しては、信玄に追いやられてきた村上義清などの武将を受け入れ、彼らの救援要請に応えるようにして武田家と戦っているように見えることから、謙信の「義の武将」というイメージを確立させたように見えます。実際のところは亡命武将の要請に応えたというよりかは、勢力を拡張してきて国境が接することとなった武田家を抑えるという明確な領土保全目的、それと対立する北条家の同盟相手である武田家との二面抗争的な面で川中島の戦いは起きているように見え、義のための戦ではないように自分は見ています。

 その上で、やはり上杉謙信としては、勝ち取っても実りのあまり多くない信濃ではなく、鎌倉時代から一応は武士の聖地でもあった関東を支配、つまり北条家との戦いが主目的であったと思います。大義名分としても自らが匿った関東管領の上杉憲政が致し、また京都の足利幕府とも外交を行っており、そうした権威面での補強をしたうえで関東に攻め込んでいることから、領土拡大意識は明確にあったと言えるでしょう。
 またあまり知られていませんが越中こと石川県方面にもしょっちゅう攻め込んでおり、この点一つとっても領土拡大意識が明確にあったと断言出来ます。ただこちらは一向一揆がめちゃ粘り強く抵抗したことで、謙信の思っていたようには領土を切り取ることはできませんでした。確か織田信長包囲網が出来たことで初めて一向一揆と和解してるし。

 ではなんで、戦国最強と言われながらも上杉謙信は領土を拡張できなかったのか。理由としては大きく二つあり、一つは武田信玄同様に本拠地に恵まれなかったことがあるでしょう。雪深い越後を本拠としていたことから冬の間は完全にオフシーズンとせざるを得ず、かといって夏の間は農作業があってあまり兵を動員できずで、戦闘可能な期間はかなり限定されていたでしょう。
 また領土を拡大しようにも、関東には北条家、信濃には武田家、越中には一向一揆と強敵に三方を囲まれており、広げようにも相手が強くてなかなか広げきれないというところもあったかと思います。この点、織田信長なんかは、朝倉義景という無能がまだ相手だった分、得だったでしょう。

 次に、こっちがメインの問題点でしょうが、やはり本拠地が安定しなかった、というより家臣団の団結や忠誠が弱かったため、謙信自らが自国経営にしっかり取り組まざるを得ず、分業が思ったより捗らなかったところもあるでしょう。

 この辺、上杉家に詳しい人ならわかるでしょうが、上杉家(長尾家)は本家と分家の抗争が結構激しく、家臣団も本家派と分家派で根強く対立していました。実際に謙信が死んだ後の後継者争い(み御館の乱)で上杉家は激しい内部抗争を繰り広げており、また謙信自身も当初家督を継いだ兄から、家臣団の後押しもあったとはいえ、家督を奪う形で当主になっています。粛清とかしていたらまた違ったかもしれませんが、カリスマ性抜群だった謙信が生きていた時代ですら上杉家中はもめ事に事欠かない状態でありました。

 また先日の自分の記事に対するコメントにもたくさん書かれていますが、北条高広を始め、上杉謙信を裏切った武将は実はかなり多くいます。無論、裏切りの背景としてはいろいろあるでしょうが、かなり有力な武将ですら裏切っているものがおり、家臣団、また支配地域の統制面が他家ほど上手くいっていなかったように見えます。謙信に責任があるかという点については議論の余地がありますが。

 このように、外的要因もさることながら内的な問題、現代風に言えば内部統制に不備が多かったことから、野心も実力もあったものの謙信はその領土をそれほど大きく拡大することはできなかったと自分は考えており、その上で「義の武将」というのはやはり間違った見方だと考えています。
 逆に内部統制が優れていたとなると、やはり織田家はあれだけ支配地域を広げ、非血縁関係者である重臣に方面軍を任せたりした点から言ってもかなりの水準にあったと思います。まぁ最後は光秀に裏切られたけど。同様に、謙信とメインで対立していた北条家も関東支配に関しては比較的よく収めており、小田原攻めでも圧倒的不利な状況にありながら最後まで裏切らずに戦い続けた武将も多い点から言って、内部統制に優れていたと考えています。

 このように考えてみると、戦国時代の成功のカギは武力以上に内部統制、如何に配下や親戚を裏切らせずに使えるかにあったのかもしれません。これはこれでまた記事書くネタに使えるかもしれません。

2021年10月17日日曜日

日本史で一番不人気な時代

 最近歴史記事書いてないのでJBpress二は使えないような歴史ネタで語らせてもらうと、仮に日本史の中で一番不人気な時代を挙げるとしたら、文字記録のない考古学の時代を除いた場合、奈良時代と平安時代のどちらかではないかと思います。
 どちらも日本国内でもある程度文字資料が残されるようになった後の時代ですが、それでも資料数が少ないことはもとより、基本的に宮廷内での動きしか追えないという負い目があります。同時代の関東地方や九州地方がどうなっていたのか、地方の暮らしはどうだったのか、面白い人はいなかったのかなどに関してはほとんど資料がなく、追える範囲が限定されていることが一因だと考えます。

 それ以上にと言ったらなんですが、単純に歴史の流れた平坦ってのも大きいでしょう。奈良時代に至っては墾田永年私財法に至るまでの政策しか追うものないし、道鏡関連事件はまだ波乱があるものの、それ以外となるとコップの中の騒動的な話しかありません。劇的なイノベーションも少ないし。
 一方、平安時代は文化史などいくつかトピックはあるのですが、こちらに関してはネタ不足以上に上手く整理して解説する人がいないというのも大きい気がします。天皇家よりも摂関家を中心に学校教育では解説する傾向もありますが、後半にはこれが上皇、そして武士へと視点対象が切り替わるため、多分教えられる人は話がぶつ切りになる印象があるのではないかと思います。自分も嵯峨天皇の前後辺りからなんか接続が途切れているし。

 またどちらの時代も小説などがもっと盛り立てないとどうにもならないところがあり、それこそキングダムみたく藤原仲麻呂の乱を盛り上げて書く人がいたら話は変わってくるかもしれません。平安時代は応天門の変を漫画化した作品が確かあった気がしますが、あれもあんま盛り上がんなかったし、むしろ夢枕獏の「陰陽師」の方がこの時代の盛り上げでは大いに貢献しているでしょう。源氏物語なんかは作品化される傾向が多いものの、なんか政治とは切り離されて描かれることが多いため、あんま平安時代物として見られてない気がします。

 もっとも、そもそも私自身も奈良時代はともかく平安時代はそんな好きじゃないので、そんな盛り上げるつもりはさらさらないです。ただ敢えて言わせてもらうと、平安時代は2つに分けた方がいいでしょう。
 具体的には、平安京遷都から摂関家支配時代までを前半、次に白河上皇の院政開始から源平の戦いこと治承・寿永の乱までを後半とする。明らかに院政の開始前後では時代背景というか権力構造が切り替わって二重権力制となっている上、やはり院政の開始が武士の社会的影響力を高めているように思えるだけに、こうして時代を同じ平安であっても前期と後期に分けた方がいいでしょう。

2021年10月6日水曜日

杜月笙に対する中国の見方

 やばいくらいのピーカンでスモッグに覆われた頃が恋しくなるほど暑かった昨日ですが、今日は一転して雲が多く、気温は相変わらず30度越えだけど体感的にかなり涼しく過ごせました。と言っても家でゲームしかしてないけど。

 話は本題ですが、以前にちょっとタイトルに引かれたので「満州アヘンスクワッド」という漫画を読んでみました。時代と舞台はそのタイトルの通り戦前の満州で、この満州を舞台にした麻薬取引活劇漫画といったジャンルなのですが、一目見て時代考証がかなりいい加減だと感じたのと、なんかアヘン中毒者の描写の誇張が過ぎて現代におけるパリピ系の人にしか見えないなどといった点から、1巻を読んでもうそれ以上読むのをやめてしまいました。また上記の描写のほか、ヒロインの父親が満州のアヘン王こと杜月笙だと明かされるシーンを見て、

「またかよ(´・ω・)」

 という風に感じた点も、自分の中で評価を下げた一因です。なんで満州、アヘンときたら毎回の如く杜月笙が出てくるんだか。他に人いないのかよ。

 その杜月笙さんですが、知ってる人には早いですが戦前の上海にて青幇(チンバン)というマフィアのボスで、アヘン王であったと日本ではよく紹介されています。中国でも有名人で、この人の名前を挙げると「ああ、あの人ね」みたいな感じの反応が見えます。
 ただ、彼に対する見方は日本のそれとは違って、マフィアのボスという点は間違いなく一致しているものの、どちらかというと「蒋介石のマブダチ」みたいな評価がなされているようです。

 何かのネタになるかと思って調べてみたのですが、まず青幇は確かにマフィアとして裏社会、特に犯罪関連の賭場や麻薬取引を取り仕切る団体であったものの、その成立は18世紀くらいで、組織内に専用の名前を持つ位階などを設けるなど、マフィアというかは秘密結社、イルミナティみたいな組織に近いような印象を覚えました。
 その上で当時の青幇ですが、何も杜月笙がただ一人トップだったというわけじゃなかったようです。どうもシノギごとに部門が分かれてて、アヘン取引部門は杜月笙がトップであったものの、彼のほかに当時の青幇にはもう二人のトップがおり、その三人による三頭体制で運営されていたようです。なので青幇の当時の最高権力者=杜月笙というのはやや日本人の間違った見方かもしれません。

 その上で最初に書いた内容に戻ると、どうも蒋介石は国民党の派閥抗争に孫文ともども負けて零落していた頃、自らの資金稼ぎのために上海で株取引に明け暮れた時代があったそうです。その時に大損して、殺し屋差し向けられるくらい大借金抱えた際に、自らの保身を条件に青幇に加入したそうです。
 青幇側としても、国民党関係者との縁故を作っておくことは得策だと考えて彼の加入を受け入れ、借金を棒引きするとともに、陰から蒋介石の活動をサポートするようになります。この過程で、蒋介石と杜月笙は意気投合し、互いに義兄弟となったそうです。

 そんな両者の関係が最も花開いたのは1927年に起きた上海クーデターです。第一次国共合作を経てとりあえずは連携していた国民党と共産党でしたが、共産党勢力の追放を画策した蒋介石率いる国民党が上海市内にて、突如共産党員らを襲い大量に殺害した事件です。この事件時に大活躍したのが杜月笙で、配下の手下たちを使って共産党員を襲い、成功へと導いたとされています。

 このように見てみると、やはり日本の杜月笙に対する見方はアヘンこと麻薬王のみに集中しているきらいがあり、彼の実像からむしろ離れてしまっている印象すらあります。この辺また調べて記事化するかもしれません。

2021年6月24日木曜日

もう一つの満州王朝

 最近歴史記事はこのブログではあまり取り扱わなくなっていますが原因ははっきりしており、歴史を語れる相手が周りにいないに尽きます。それでもまだ日本国内だったら何らかの書籍を手に取ってインスピレーション刺激されて書くこともありますが、中国だと電子書籍をそんな探すようなこともなく、やはり歴史的刺激がやや弱めです。基本的に何か知らない分野学んで、面白いと思って書くことが多いですし。
 ただこの前、何の気なしに南宋王朝を調べていたところ面白そうだ思ったトピックを見つけて、落ち着いたころにまた勉強してみようかなと思う分野がありました。それは見出しにも掲げたもう一つの満州王朝こと金朝のことです。

 金朝とは何かですが、ちょうど日本の平安朝後期の12世紀にできた王朝で、作ったのは女真族の完顔阿骨打(ワンヤンアクタ)です。この女真族ですが後に合算離合を繰り返し、16世紀にヌルハチによって再統一された後に名称を「満州族」に改めていますが、女真族も満州族も名前が違うだけで同じ部族です。言うまでもなく満州族はその後ラストキングダムこと清朝を設立した部族です。
 あまり知られてないというか意識されていませんが、満州族は清朝を作る前に12世紀の時点で金朝を作り、皇帝も出しています。この金朝は元々は万里の長城の向こうにいた部族ですが、当時の王朝だった宋(北宋)と組んで、北京周辺(燕雲十六州)を占領していた遼という国を挟撃しています。当初は遼を叩き潰したら領土は山分けみたいな約束でしたがこれを宋に反故にされ、なめんなこらとばかりに怒って攻撃して、宋の皇帝一族を丸ごと捕虜にするほどの大勝を挙げます。その後、金朝は宋をガンガンと南に追いやり、あっという間に中国の北半分を占領してしまいました。

 この時代、華北を金朝が、華南を宋(南宋)が治め、実質的に中国は南北朝ともいうべき時代を迎えます。体制が固まった当初はどちらも「絶対殺す(# ゚Д゚)」ムードでガンガンやり合っていましたが、途中から双方ともに割と現実主義な皇帝が立ち、宋が臣下という立場を受け入れることで和平が成立して、そこそこ落ち着いた時代を迎えるに至っています。意外とこの時の皇帝が面白いというか、北伐を主張する家臣らを皇帝自ら説得して和睦に至り、その上で「俺が決めた」と強い責任感見せる人で、単純に魅力を感じます。

 一方、金朝の方もそこそこ英邁な皇帝を輩出する一方、ローマで言えばコンモドゥスみたいな「色狂いの馬鹿」と呼ばれる皇帝も出たりと波乱があります。またその滅亡に関しても、かつて宋の求めに応じて遼を挟撃しましたが、今度は宋がモンゴル帝国と組んで襲ってきたため、金朝は滅亡するに至ります。なおそのモンゴル帝国は言うまでもなく、後の元です。

 この辺しっかり勉強すればまた別にJBpressで記事書けそうなのですが、最近忙しくて取材できないこともあり歴史記事に逃げること多いなとちょっと反省気味です。今の連載終わったら記事ネタないのにまた取材する時間もないから、多分前打ったチャイナワクチン体験記でも書いて逃げようと考えています。
 言い訳じみてますが、この手のネタに困っての逃げのネタほど当たりやすいです。芸術というのは苦しめば苦しむほどいいものができると一部言われますが、これはマジで、本当にあれこれ考えあぐねてもうこれしかないと追い詰められたところで光るものが最後に出てくると思います。そういう意味では自分を追い込むことが創作においては何より大事だと内心考えてるし、その追い込みにどれだけ耐えられるかという体力とメンタルの分厚さがその振り幅を左右すると思ってます。

2021年6月4日金曜日

台与は誰?

 先日、DMMの電子書籍セール時に、前からちょっと興味あった「雷火」という藤原カムイ氏の漫画を1巻だけ購入しました。この漫画の舞台は邪馬台国で、ヒロインは台与(壱与)という、中国の歴史書において卑弥呼の後を継いだ巫女です。

台与(Wikipedia)

 卑弥呼に関しても謎は少なくないですが、それ以上に謎の多いのがこの台与です。中国の歴史書に日本の統治者として名前は出るものの、若干13歳で卑弥呼の後を継いだという事実以外はほぼなにも紹介がなく、そうしたファンタジーを感じさせる経歴から先ほどの「雷火」を始めそこそこ漫画に登場する機会も少なくない気がします。
 なおその場合、大抵卑弥呼はクソババアみたいな描かれ方するけど。

 一部で古事記に出てくる皇后を台与に当てはめようとする歴史学者も少なくないですが、大分昔にも書いた通り、同じように類推しようとする卑弥呼同様にそうした行為は無意味だと私は考えています。まだ関連記述資料のある倭王武を雄略天皇に比定することはもっともであるものの、卑弥呼や台与に至っては資料がないことをいいことに無理やりなこじつけ論ばかりしかなく、正直言ってその手の議論は嫌いです。そういう意味では卑弥呼も台与もファンタジーな存在としてあるべきでしょう。

 しかしそれでも気になるのは台与はその後どうなったのかです。前述の通り、中国の資料では13歳で女王となったそうですが、そんな若さで大丈夫かとやたら心配になってきます。また何故古代日本で二代続けて女王が出たのか、この辺も興味が尽きません。女性に相続権があったのかもしれませんが。

2021年4月23日金曜日

徳川慶喜の子孫

 昔「ヒットラーの息子」という、草葉の陰で「勝手に子供あったことにすんなよと」とアドルフさんが起こりそうなタイトルの漫画がありました。なんでこんなタイトルになったのかというとやはり当時としては世界最大の極悪人というイメージがあったからだと思いますが、実際にはヒトラーは自決直前にエヴァ・ブラウンと結婚式を行いましたが基本的には独身で、子孫とかもいません。
 なお現代で同じような作品を作るとしたらどんなタイトルになるのかなと想像したところ、やはり「ビンラディンの息子」になるのかと思ったその直後、ソ連人民の敵であるうちの親父は無駄にアラブ人顔してて会社でのあだ名が「ビンラディン」だったことを思い出し、「ビンラディンの息子って、もしかして俺のこと?(;゚Д゚)」と焦り始めました。

 そんな無駄に長い前置きはおいといて、「将軍の息子」といった場合にその将軍は誰かとなると、恐らく大半の人がラストジェネラルこと徳川慶喜の名を想像するのではないでしょうか。実は最近ネットで見た情報で、慶喜の息子というか徳川慶喜家の代々の当主の逸話を聞いて一人で結構盛り上がっています。ではその子孫というか系譜はどんなものかというとこんなもんです。

ひ孫:徳川慶朝

 見ての通り慶喜家の当主はきちんと「慶」の字をつけているようです。なおひ孫の徳川慶朝の逝去年は2017年で、つい最近だったりします。

 一人一人簡単に説明すると、息子の慶久は七男ながら兄を差し置いて家督を継いでおり、貴族院議員などを歴任しています。ただ薬の服用ミスとみられる理由で37歳という若い年齢で亡くなられていますが、写真を見る限り非常にダンディな容姿で、柔道などの武道や油絵などの芸術にも通じていたとされ、かなり持てそうな感じがする人です。

 その慶久の息子で慶喜の孫の慶光はというと、戦時中になんと三度も召集を受けています。一度目は病気にかかってすぐ病院に入りそのまま除隊し、二度目も検査に落ちて即除隊でしたが、三度目は中国大陸に派遣されていろいろ苦労したそうです。私が慶喜の子孫について知ったのもこの慶久が元将軍の孫だと言っても特別扱いされてなかったという話題をネットの掲示板で見たのがきっかけでしたが、武門トップの一族とはいえ現代戦争ではどうにもならなかったものかというのを感じます。

 慶久はプライベートでも不倫をやったり、事業に失敗したりといろいろ面白い人生を歩みつつ、80歳で大往生を遂げたようです。その慶久の息子で慶喜のひ孫にあたる慶朝は曾祖父の慶喜同様にカメラに傾倒し、カメラマンを仕事にしていたそうです。ただ離婚後に養子も設けなかったことから、彼の代で慶喜家の嫡流は途絶えています。まぁ今の時代に家計を繋ぐという考え自体が古いかもしれませんが。

 それにしても慶喜の子孫というだけで興味がわくだけに、やはり一時代を彩る人物であったんだなというのを感じます。

2021年4月11日日曜日

冷戦構造における日本の好条件

 先日、このブログで上海熊さんから勧められた「物語東ドイツの歴史」を読み終えたのですが、一読して感じたことは「ホーネッカーってこういう奴やったんか」といったところでした。何故か知らないけどこの名前の音だけは知ってて、なんとなく学者かなんかだろうと思ってたら実質上の東ドイツ後半期の厳守で、割と空気の読めないおっさんだったようです。まぁルーマニアのチャウシェスクなどと違って処刑されずに済んだだけマシだったのかもしれませんが。

 そんな東ドイツの歴史についてはこの本読めばいいので詳しく書きませんが、もう一つ真面目にこの本を読み終えてしみじみ思ったのは、日本は二次大戦後に本当に幸運だったんだなってことでした。特にこの東西に分割されたドイツと比較すると明確です。
 いうまでもなく、ドイツは二次大戦後に東西に区切られて分割され、首都ベルリン市に限っては東ドイツ領内にあるものの、ベルリン市内で西側と東側で分割されるという手の入れようでした。そのためベルリン市内からは西側への逃亡が容易だったことから、往来が自由だった頃はベルリン経由での逃亡が相次ぎ、東ドイツの労働力低下が激しかったことからベルリンの壁が作られることとなりました。

 話を戻すと、そうしたドイツに比べて日本は分割されることなく、強いて言えば沖縄が米国に占領されただけでした。日本とドイツは人口や面積(日本は大半が産地であるが)などの国家数値が比較的近く、尚且つ主力産業も自動車や精密機械などで被りまくっている上、元枢軸国同士という点でも共通しています。そうしたことからソ連人民の敵であるうちの親父をはじめ無駄にドイツにシンパシーを感じている日本人も少なくないのですが、こと東西ドイツの統合前で比べるならば、日本は経済的にはかなり恵まれた環境にあったと言えます。

 単純に大きいのは市場人口で、ドイツは東西に分かれていて約半分だったのに対し、日本は同じ言語、同じ日本円を使う日本人が最初からフルパワーで活用することが出来ました。それに加え、軍事費に関しても西ドイツは文字通り共産圏に対する最前線であり米軍の支援こそあれどもある程度自前で用意しなければならなかったのに対し、日本は自衛隊への制限から軍事費も抑制され、その分を思う存分経済に回すことが出来ました。
 もっとも、昭和時代から意外と日本の軍事費は極端に低くはなかった気はしますが。

 こうした点を比較すると、分割されたドイツに比べると日本は同じ敗戦国でもかなり経済的に恵まれた環境にあり、この辺をドイツ人はどういう風に感じているのだろうかなどと少し気になるところです。

 またかねがね主張しているように、何故日本が戦後に高度経済成長を達成できて、バブル経済を迎えることとなったのかと言うと、日本人の努力だとか基礎教育などいろいろあげつられていますが、それ以上に何よりも大きかったのは冷戦構造による恩恵を日本が一手に受けていたため、つまり日本人の努力以上に、冷戦という世界背景という幸運が日本の経済成長を支えていたのではという風に考えています。だからこそ、冷戦構造の終了とともにバブルがはじけたという風にもついでに見ています。

 そのように考えると日本人は上記の分割されたドイツとの比較を含め、もっと冷戦構造というものをしっかり見直す必要があるのではないかという風に思います。何故かというと未だにバブル経済を懐かしんだりする声が多く、まだあの時代を清算しきっていないように見えるからです。この辺、JBpressでも今度書いてみようかなとも考えていますが、過去に引きずられ過ぎな気がします。

 さて今日も昼過ぎからずっと自宅作業だったので、これから思う存分ゲームして遊ぼうと思います。この約1ヶ月にわたり毎週末家でも仕事するのがさすがに嫌になってきました。

2021年3月3日水曜日

いい感じの西洋史解説本がない件について

 その昔、私が日々ストレス漬けであった中学時代(サラリーマンの今よりもずっとストレス値高かった(# ゚Д゚))、中二病的に十字軍にハマりだしてあれこれ十字軍関連のことを調べようとし始めたものの、十字軍について解説する本がなく、本の概略程度しか調べることができませんでした。それはそれとして仕方ないと割り切り、ついでに他の時代の西洋史も調べようとしたものの、当時あまりにも西洋史関連の解説本が図書館になくて難儀しました。
 唯一見つけた通史の本も教師がずっと借りてたので、「読むからはよ返せ(# ゚Д゚)」とリアルに文句言って返させたことがあります。

 基本的にJBpressで私が解説するのは日本史ネタが多いですが、決して日本史だけしかたしなまないというわけではなく、同じ歴史ということもあって西洋史も人並み以上には嗜んでいます。ただ、私が見る限り西洋史についてはいい感じの解説本がなく、あっても本当に概略程度で手応えの無い物か、やたら専門的過ぎて説明することを放棄しているような極端な本しかありません。また幅広い通史を取り扱う本が多く、特定の時代、特定の国を専門的に扱うようなものは少なく、今なら塩野御大が書いてくれていますが、日本の戦国時代のようだった中世イタリア史なんてかつて興味持った時に全く手がかりがなく、どうして誰も解説しようとしないんだと当時思いました。

 やはり他国の歴史と比べれば自国の歴史の方が話題として盛り上がるし、学術的研究も盛んとなりやすいです。しかし単純にエンターテイメントとして楽しめる余地もあるのに、他国の歴史がこうもあまり取り上げられないというのは、自分自身が触れられないという点もあって非常に残念です。
 今であればインターネットでそこそこ通暁している人が解説しているサイトなどを見比べることもできますが、それでもやはりもう少しわかりやすく、入りやすい感じで専門的に解説する記事や本があってもいい気がします。

 中国史であればまだ比較的日本とも絡むことが多いからたくさん解説本が出ているので苦労しませんが、西洋、特にイタリアやドイツのあたりの歴史はやはり不足気味です。この辺、自分が研究してJBpressで連載してもいいのですが、今まで30年戦争について詳しく教えてくれる友人なんておらず、連載したところで読者が得られるかは未知数すぎます。
 一応、日本人にとって人気なのはフランス史で、百年戦争とナポレオン戦役であればそこそこ読者は獲得できるでしょうが、どちらも私は既にあらかた知識を得ており、個人的にはもうそんな興味ありません。漫画の「ナポレオン 覇道進撃」は面白いからずっと買ってますが。

 なお世界で最も伝記が多く書かれているのはナポレオンらしいのですが、日本で最もゲームに使われるフランス人といったら百年戦争のジャンヌ・ダルクに間違いないでしょう。まさか彼女も何百年も後に萌えキャラとして消費されまくるとは生前思わなかったことでしょう。
 このほかゲームとかでよく出てくる人をイギリス人に限定すると、パッと出てくるのはシャーロックホームズですが、彼を始めイギリス人が出てくるゲームは決まってクソゲーで、尚且つ襲い掛かってくる敵を毎回ステゴロで殴り倒す暴力的なクソゲーが多いです。「ノットトレジャーハンター」に至っては、拳銃を持ってくるもご丁寧に弾は6発しか持ってこないという律義さで、イギリス人は日本のゲーム業界に怒っていい気がします。

2021年2月10日水曜日

連続ドラマに使えそうな偉人

 よく一人で日本人に会った時に適当にごまかすための職業をよく考えることが多く、つい昨日も「中国で空飛ぶアッシマーを作る仕事」などを思いつき、「飛ばないアッシマーはただのアッシマーがー」などとぼやいていたら、


 というニュースが来て、一人でビビってました。ちなみにその前に思いついたのは「ジム2アサルトバスターの研究開発職」でした。

 話は本題ですが、またこの前JBpressで出したような歴史人物の評価転換をテーマに書いてみようかななどといろいろ考えている最中、最近になって徳川吉宗の評価が年々落ちてきていることが気になってきました。江戸幕府の組織構造改革自体は一定の成功を収めたものの、肝心の財政再建についてはただ増税しただけで、根本的な解決には導いていないことなどが指摘されるようになり、その次の田沼意次と比較して過大評価だとする声をよく目にするようになりました。まぁ私も同感だけど。

 こうした吉宗の評価下落は歴史検証が進んできたこともさることながら、暴れん坊将軍の放送がなされなくなり、現代日本人の親近感が落ちてきていることも影響している気がします。逆を言えば水戸黄門と言い、連続ドラマになったらその人の人気はある程度上がると見込まれ、この二人のように連続ドラマで使えそうな偉人、それも史実をガン無視した内容でできそうなのは他にいないかなと少し考えてみました。

 パッと思い浮かぶのだと松尾芭蕉で、この人なんか全国回っているから水戸黄門っぽい話は簡単にできそうだし、また伊賀出身だから無理やりに忍者説とかも出ているので、その辺も組み合わせて連続ドラマ化はかなり余裕そうです。
 次に安土桃山時代に限定して選ぶとしたら、細川忠興が自分の中で上がってきます。美人の奥さんに頭が上がらない一方、ちょっとしたことですぐキレて人を殺しまくるのが史実ですから、ドタバタアクション活劇なんか意外と向いているキャラな気がします。そもそも茶人としての側面もあり、キャラ的に立つ要素が多いです。

 続いて明治時代で選ぶとしたら、ダントツで森鴎外がいいと思います。文人以前に軍人であることもさることながら、極度の甘党であったなどエピソードに事欠きません。それこそドイツでゲルマン忍法を覚えてきて、軍医の傍ら東京都内の不逞な輩を成敗する系の話ならどんと来いって感じです。敵役は山縣有朋とかになるのかな。となると支援者は児玉源太郎と乃木大将になりますが、乃木大将はドイツ留学でも一緒だったし割といいキャスティング。

 こうやっていくつか出しましたが、やはり暴れん坊将軍の大岡越前のように、主役のみならず脇を固める偉人がいるかどうかがやはり重要な気がします。そうした人物配置を上手くすることでかえってノンフィクションな部分が際立つ気がします。

 なおなんでこんな記事いきなり書き始めたのかというと、昨日スパロボα外伝の戦闘シーンを見直してて、改めてヴァルシオーネの動きがオーパーツ的なまでに激しく動くのを見て何故か調べなおし、パイロットのリューネ・ゾルダーグが時代劇好きというプロフィールを見てなんか思いつきました。スパロボはOGシリーズはやったことないけどなんか興味出てきた

2021年1月15日金曜日

山本五十六の評価は低下気味?

 昨日JBpressの編集部からゲラ来てチェックしましたが、年末に書いた記事がまた次の月曜に掲載されます。今度の記事は歴史評価の逆転をテーマにしておりかねてから温めてきた内容だったのですが、書いてるうちにすぐ文字数使い切っちゃったので、当初この記事に加える予定だった山本五十六については一切触れずに終わってしまいました。
 具体的には、山本五十六の評価は近年、低下気味ではないかと言及するつもりでした。

 山本五十六と言えば言わずもがなの超有名人で、本人は米国との開戦を望んでいなかったものの図らずも海軍を当時指揮する立場であったことから、真珠湾作戦をはじめとする太平洋戦争初期の戦争を指揮し、最後は移動中を米軍に補足され、P-38ライトニングに撃墜されたことで戦死した人物です。
 っていうかこんなのあるんだな。

 話を戻すと、その山本五十六はかつては昭和の軍人の中でもピカ一の人気があり多方面から尊敬されていたのですが、なんとなく近年のメディアなどの取り扱いを見ていると、かつてと比べると人気が幾分低下気味であるように思います。さすがに否定的評価が肯定的評価を上回るほどではないものの、以前は褒められたり惜しまれたりすることしかなかったのに対し、近年は問題のあった判断だという指摘をよく見るようになってきました。

 仮に私の見立て通りに山本五十六の評価が落ちているとしたらそれは何故か。第一の理由としては、海軍善玉論が現代においてほぼ否定されつつあるからでしょう。
 この海軍善玉論否定の第一人者は、先日亡くなった半藤一利氏です。半藤氏の著作を見ると、海軍善玉論自体はやはり司馬遼太郎が大きく持ち上げたことが大きかったと述べる一方、やはり陸軍同様に海軍の責は多いと度々指摘しています。山本五十六自身は先にも書いた通りに開戦には反対の立場でありましたが、「やれってんなら二、三年くらいは暴れてやるよ」などというセリフを当時の政府首脳らにも言っており、半藤氏によると「断固開戦反対」というわけでもなかったと言わしめています。

 実際にというか海軍全体で本気で開戦を拒否していれば、どれだけ陸軍がごねても開戦には至らなかったとみる向きは大きいです。また陸軍内部の開戦反対派も重要な閣議で海軍側から「絶対に勝てないから無理」と反対してほしかったのに、そうした重要な閣議で海軍は毎回「難しいけど、陸軍さんがどうしてもやりたいというのなら……」などと消極的賛成を採ることが多く、陸軍内部の開戦反対派を大いに落胆させたと聞きます。
 このような海軍善玉論の否定、並びに山本五十六自身が断固反対的立場でなかったことが、かつてのイメージをやや崩しているところがあります。

 こうした開戦前の立場に加え、開戦後の指揮や行動に関しても否定的な意見が出ています。例えば米軍と開戦することになったとはいえ、やるからには早期に講和を持ち込むしかないと考えたというくだりですが、早期講和に持ち込むために「序盤で手痛い打撃を負わせる」方針を持って、真珠湾攻撃を敢行するに至ります。結果は知っての通り、確かに米国に予想を超える手痛い打撃を与えましたが、逆にそれで米国内の開戦意識を高め、早期講和どころか徹底抗戦に世論を反対に誘導するに至っています。
 実際私個人としても、手痛い打撃を負わせればすぐ講和に至るというのはいくらなんでも虫のいい話にしか聞こえません。それこそドイツも米国の領土に攻撃を加えるなど外の状況が悪化していくのならともかく、太平洋の領土がやられれば米国としてはむしろ燃え上がるのが自然です。

 むしろリメンバーパールハーバーさせるくらいだったら、フィリピンなどの東南アジアから先に攻めてそこをしっかり固めて米軍を疲弊させる方が良かったのではと個人的に思います。もっともこの案は実質的に持久戦論で、日本の国力では実行不可能だったのですが。
 となると米軍の士気を挫くとしたら、結局はハワイを占領して、太平洋を完全に占領するくらいまで持って行くほかなかったと思います。結果論だけど、奇襲だけじゃなくハワイを一気に上陸占拠するくらいしなきゃダメだったのかもしれません。

 戦術論はさておいて戻すと、もう一つ山本五十六の評価を下げているのは、真珠湾以降の指揮についてです。これに関しては自分からもはっきり否定しますが、どう見ても無駄に戦線を広げているようにしか見えず、余り戦略価値のない島々を占領しては陸軍に駐留させ、そこ米軍によって補給路を断たれて各個撃破されるという事態を招いています。山本五十六が決めたわけじゃないかもしれませんが、アリューシャン列島の占領なんて完全に無意味な進軍以外の何物でもないです。
 またミッドウェー海戦についても、あの戦闘では最初から最後まで攻撃目標が「艦隊撃破」にあるのか「島の基地破壊」なのかが曖昧であり、その曖昧ゆえに魔の兵装換装を招いたと言われています。私もそのように思っており、南雲忠一などはスケープゴートもいいところでしょう。

 以上を踏まえると、確かに真珠湾攻撃の成功は見事なものですが、見事過ぎて早期講和の道を自ら断ってしまっている節があります。そしてその後の指揮に関しても、なんていうか大目標がはっきりしていない節があり、それ故にオウンゴールを招いた面も大きいと考えています。
 まぁ誰がどう指揮したところで、太平洋戦争で日本が勝つというシナリオに持って行くことはまずできないので、損な役割を負ってしまった人物だとは思いますが。

2021年1月11日月曜日

昭和の狭間の時代

 本題とは関係ないけどFF5で出てくる「次元の狭間」という設定はよくできている気がします。でもってFF5に出てくるレナはFF史上、最も影の薄いヒロインであるという気がします。っていうかヒロインか?

 そんな購入したはいいけどまだ全然遊んでいないFF10とかの話はいいとして、以前に平成時代も終わったというのに「昭和的」という単語がニュース記事に出てくることについて触れましたが、あの記事書いてからしばらくして、よく昭和は前期と後期(戦前と戦後)で分けられるけど、次元の狭間的に狭間の時代があるのではと思いつきました。言うまでもなくそれはGHQ占領時代で、具体的には1945年のマッカーサー上陸から1952年のサンフランシスコ講和条約発効(締結自体は1951年)までの約7年間です。

 なんとなくイメージ的には前漢と後漢の間の王莽が支配した「新」のような時代を連想させるのですが、このわずか7年、実際にはマッカーサーが激しく政策を打ち出した最初の3年間くらいの間、日本国憲法をはじめとして現在の日本の骨格なり方針がほぼすべて定められています。それだけ濃密で且つ重要な時代ではあるものの、やはり占領下ということと、その後の高度経済成長期の方が日本人の感情的によろしいためか、「昭和」という時代枠でこのGHQ占領時代、というよりマッカーサー時代が語られることは少ない気がします。

 私は大分前、このGHQ占領時代に行われた農地改革について、「日本はこの農地改革を日本人自身で実行できなかったがために侵略戦争に走った節がある」と指摘しました。この意見はあまりよそでは聞かない独自性の強い意見ですが、我ながらいい点を突いているという自負があり、日本が戦争に走った一因ながら、日本を打ち負かした米国人の手によって解決されるという歴史の皮肉を上手く言い当てられたと考えています。

 この農地改革を含め、やはりGHQ占領時代においてはもっと研究、検討すべき内容があるのではないかとふとこの前思い、もう一回この時代を調べないとと思ってひとまずとばかりびに「半藤一利 GHQ」で検索して買った本を今読んでいます。やはりというか自分の知らなかった事実がまだ多かったことと、1950年の朝鮮戦争勃発以前の日本の姿はどうだったのかが気になりました。ぶっちゃけこの辺、「ギブミーチョコレート!」と叫ぶ子供たちの姿ばかりが映されて、それ以外のところ、地方の生活や復員者の生活などは映されてない気がします。

 その辺とかいろいろ気になるし、この時代はある意味今だからこそもっとスポットを当てるべきだと思ったのと、「孤高の人」を急に買い始めてお金減ってきたから「1946」とかいうタイトルで小説でも書こうかなとか最近考えています。このタイトルだと別の小説をパクってるとか言われそうですが、私個人としては彩京の「1945」シリーズに連なるタイトルにしたいからこうしているだけで、他意はありません。
 ただ冗談をのけると、やはり日本人は1945年に過度に集中してみ過ぎており、その直後に何があったのかを再認識すべきという意味で、「1946」という単語は極めて重い意味と役割を果たすと私は考えます。具体的には1948年、マッカーサーが大統領選を見据えてある意味本気で対日政策に取り組んでいた3年間の時代はやはり、「昭和後期」とくくるのではなく、「第一生命館時代」として独立して取り扱うべきでしょう。

 そういうわけでしばらく研究したらまたおいおい記事にまとめます。それにしても今どきマッカーサーを研究している人とかいるのかなぁ。

2020年12月2日水曜日

ネオ皇国史観は何故衰退したのか?

 先日、合計8回に及んだ日本の歴史観に関する連載を終えましたが、この連載は途中で愚痴ったくらいに当初の想定以上に編集作業で苦しみました。大まかに書く内容自体は決めていたものの、いざ実際に書き始めてあれこれ構想を練っていたら途中からいろいろ気づくところも出てきて、4~5回で終わるかと思ってたらこんな長くなりました。
 ただ着眼点自体は悪くなかったと思え、言及する人は少ないながらも2000年代に入ってから昭和時代のスタンダードであった自虐史観とは明らかに異なる歴史観が少なくとも二つ存在するとはっきり言明したこと、いまいち定着する名称のなかったこの二つの歴史観をそれぞれネオ皇国史観と半藤・保坂史観と名付けたことは個人的には小さくない仕事だと考えています。

 そんな苦労話を振り返りつつ改めて議論すべき、っていうか議論が足りなかったのは、既に連載中の記事でも結構長めに書いた、ネオ皇国史観が衰退した理由です。一時はそれこそ「自虐史観VSネオ皇国史観」みたいなはっきりとした二極構造まで見せたのに、今現在はもはや歴史観としても認知されず、単なる極右思想に付随する歴史認識くらいにまでなり下がっています。

 盛り上がった理由については連載記事にも書きましたが、冷戦構造の終結、中国や韓国の台頭とそれに対する日本人の反感の二つが大きいと指摘しましたが、特に後者は南京大虐殺問題と従軍慰安婦問題が大きな論点となったことが大きいです。
 ただこうした盛り上がった理由については、現在の衰退ぶりと比較するといくらか矛盾があります。どんな矛盾かというと、中国や韓国に対する反感は現在、当時以上に強まっている上、先の二つの歴史問題も収まるどころか今もくすぶり続けているからです。先ほどの理由がネオ皇国史観が盛り上がった理由なら、むしろ現代の方がその勢いは強くなっているのが自然であるのに、むしろなんで衰退してるんだってことになります。でもって、この点を考えることがネオ皇国史観の衰退原因を探る上で大きなとっかかりになるでしょう。

 まず歴史問題に関しては意外と解釈は簡単で、論争がなくなってきたということが大きいです。南京d内虐殺に関しては今もあったかなかったかでそこそこ議論は盛り上がるものの、中国が90年代に行っていた反日教育が現在は弱まったこと、そこそこ経済成長して余裕を持ち、訪日などをきっかけに前ほど日本に対する憎悪を持たなくなってきて、以前と比べるとこの問題に対する熱は明らかに引けてきています。
 もっとも今でも中国人に南京大虐殺の話題に触れると確実に怒られるので、余計な論争を吹っ掛けるつもりじゃないならわざわざ触れない方がいいです。

 次に従軍慰安婦問題に関してですが、これは「韓国の言っていることの方がおかしい」と考える日本人が大半、私の感覚では七割を超えるようになって、日本国内での日本人同士の論争が完全になくなってきました。
 特にこの前も最高裁が結審しましたが、最初にこの問題を大々的に取り上げた朝日新聞自体が誤報だったと認め、またその記事を書いた元記者が誤報に関する名誉棄損で訴えた訴訟も、「名誉棄損にあらず」と判決が出て、いろんな意味でかつてと比べると信用を失っています。また韓国政府の対応も、従軍慰安婦問題で関係者救済寄りだった日本人らに「これはおかしい」と思わせ、少なくとも日本国内ではもはや歴史問題ですらなくなりつつあります。

 上記のようにネオ皇国史観が支持を集めるようになるきっかけとなった主張が、今や日本で一般化されてきて、「別にネオ皇国史観じゃなくても……(´・ω・)」という風になったことが、衰退原因の一つと考えています。それでも中国や韓国に対する反感は今の日本人も強いですが、それはもはや歴史問題ではなく現代の経済問題であり、歴史観からはある意味切り離されてきているのかもしれません。

 そうした対外的背景に加えて、やっぱり支持層の分裂も衰退理由として大きいでしょう。ネオ皇国史観の当初の支持層を羅列すると、

・天皇崇拝の強い極右主義者
・とにかく米国が嫌いな反米主義者
・戦没者遺族
・自虐史観に嫌悪感を感じていた人たち

 ざっとこの四種類に大別できると思います。ネオ皇国史観の中心提唱者に当たる新しい教科書をつくる会メンバーはほぼ上二つの属性を持つ人たちでしたが、途中で反米右翼と親米右翼で仲違いして分裂しました。この時点でもかなり勢力が削がれましたが、それ以上に致命的だったのは三番目の属性の「戦没者遺族」達が支持層から離れていったことだと自分は考えています。

 何故戦没者遺族の層が支持から離れていったのかですが、一つは単純な自然死で、年月の積み重ねとともに従軍経験者や遺族らは現在もどんどん減少しており、これがネオ皇国史観にも直撃したと考えられます。
 次に、ネオ皇国史観提唱者らが戦争指導者を正当化しようとしたことが地味に大きいとみています。具体的には、「当時の陸軍や海軍幹部の決断や行動は正しく、米国に追い込まれて戦争に至ったけど彼らは必至で頑張っていたし、戦犯にされて殺されたのは悲劇だった」みたいな主張をしたのが最大の悪手だったと私は考えています。

 実際に当時のネオ皇国史観提唱者らの主張みていると、東条英機とかをかなり礼賛していたりして、今見るとなんじゃこりゃみたいな内容も少なくないです。私自身、どっからどう評価しても東條に関しては弁護する余地は全くないとみています。石原莞爾も、「自分と対立してたってみんな言うけど、東條には思想がないから対立のしようがない」と言ってましたが、実際その通りで鳩山由紀夫元首相といい勝負だとみています。東條も昭和天皇相手に「トラスト・ミー」みたいに言ってるし。
 東條に限らなくても、牟田口や辻など米国の勝利のためにわざと自軍の兵力を無駄に損耗させたり、無茶な命令にも現場で奮闘した下士官に責任押し付けて処刑しまくった宦官みたいな連中も旧軍幹部に多いですが、ネオ皇国史観の連中はこういう幹部らも「国に殉じた」などと悦に入って誉めそやしてました。

 私自身、ネオ皇国史観提唱者の上記のような主張や発信を見て、「あ、そういう思想なんだ」と思って一気に支持しなくなりました。ただ私以上に、上記の敗北に導いた幹部らによって命を散らされた兵や士官の遺族らは、失望感を持つようになったのではないかと思います。
 当時の報道などを思い起こすにつけ、遺族らとしては自虐史観で日本の兵隊は虐殺や略奪ばかりしていたという主張に反発を抱きつつ、無茶な命令にも国のためと思って殉じたということを理解してほしいという感情が強いように見えました。それだけに自虐史観の対抗馬として出てきたネオ皇国史観を当初支持したものの、彼らを死に追いやった無責任な幹部らまで提唱者が称賛し始めたのを見て、離れていったんじゃないかという風に見ています。

 実際、私から見てもかなりドン引きな内容をネオ皇国史観提唱者らは一時期主張していました。それゆえ、ある意味最も強固な支持層を自ら離れさす結果となり、「上は無能・無責任ばかりだったが現場の士官や兵隊たちは本当に勇敢だった」とする半藤・保坂史観に流れる結果を生んだとみています。まぁ本人らがそれでいいと思うのなら、別にそれでいいとは思いますが。

2020年11月26日木曜日

日本の歴史観~その8、半藤・保坂史観 後編

 最近コンビニとかで「3Dマスク」と書かれた商品が売られているけど、逆に「2Dマスク」はどんななんだろう。顔にマスクの絵を描いた状態なのだろうか。なんんていうか、「4次元ポケット」に対する「3次元ポケット」みたいな感覚があります。あと今週は残業ないけど重たい仕事多くてやっぱ辛ぇわ……、FF15はやったことないけど。

 話は本題ですが前回から取り上げた半藤・保坂史観について、この史観のもっとも特徴的なのはネオ皇国史観同様に、「極東国際軍事裁判、並びに自虐史観は米国が日本を支配しやすくするために作ったステージと概念」だと指摘している点です。但し、その中身について、両者では見解というか踏み込みが異なっています。

 まず戦後における代表的歴史観の自虐史観では先に取り上げたように、基本的に二次大戦で日本は侵略戦争を起こしたとして、否定的な評価を行っています。ただその侵略戦争を誰が興したかという戦争責任については、はっきりと「旧陸軍幹部」と言明しており、この点について半藤・保坂史観は「謝った歴史認識」という風に指摘しています。
 具体的にどういうことかというと、自虐史観では上記の概念に乗っ取り、「東条英機をはじめとする旧陸軍幹部が日本を誤った方向に導いて戦争を起こし、国民はそれに巻き込まれ塗炭の苦しみを味あわされた」という風に捉えています。

 ここで重要な点は二つあり、一つは先ほどにも指摘したように「旧陸軍幹部」を主犯扱いしており、旧海軍は含まれていないということです。これはそのまま「海軍善玉論」、即ち海軍幹部らは日本は米国との戦争に勝てないことを理解していたが、政権を乗っ取った悪い陸軍に押し通されて負けるとわかっていながら戦わさせられたという風な具合で、海軍には戦争責任はないという見方です。ついでに書くと、この海軍善玉論を大きく発展させた人物の一人として、戦時中の陸軍のしごきを相当恨んでいた司馬遼太郎が含まれます。
 この海軍善玉論ですが、異論はあるでしょうが、やはり半藤・保坂史観の主張する通りに米国が意図的に流布された概念であると私も考えています。理由は極東国際軍事裁判で起訴されたA級戦犯のメンツで、東条英機をはじめとする陸軍関係者が中心となっています。

 また半藤一利氏が主張するように、海軍も要所要所で戦争に向かう動きを実際に後押ししており、また本気になれば開戦を拒否できる立場にあったものの、「陸軍さんがやりたいっていうなら」という感じで、あっさり陸軍の要求を飲んだりして、陸軍内の非戦派を落胆させています。海軍善玉論は非常に長く信じられてきた概念ですが、やはり2000年代中盤当たりに半藤氏らの主張が広まるにつれてその影響力は弱められ、現代においては恐らく専門家の間でこの概念を支持する人はほとんどいなくなっているように見えます。

 次に米軍によって流布された「誤った歴史認識」として半藤・保坂史観が指摘している点は、「国民は巻き込まれただけ」という概念です。この点についても半藤氏ははっきり否定しており、当時の日本国民自身が中国や米国との開戦を望んでいて、むしろ日本政府や陸軍はそうした国民の声を受けて開戦を実行に移した所があると厳しく論じています。
 この根拠として日中戦争開戦直後、朝日新聞が「戦乱を広げるべきじゃない。すぐ和睦すべき」といった社説を書いたら、一瞬で部数が急減し、慌てて論調を180度展開したというエピソードがよく紹介されています。実際にというか当時の人々の日記などを見ると戦争に対して非常に肯定的で、むしろ政府や軍は生ぬるいという、生意気な米国は懲らしめねばならない的な意見ばかり見られます。

 こうした点を踏まえ半藤・保坂史観では、戦争責任については日本国民自身も深く反省すべきところがあるものの、米国の情報操作によってそれら責任は旧陸軍幹部に集約されてしまったとしています。これにより米国としては、そうした扇動者から日本を解放しに来たという大義名分が得られるわけで、自虐史観が実際に定着したことを考えると作戦成功であったと言えるでしょう。

 こうした戦後思想に対する米国の情報統制は、ネオ皇国史観でも指摘した上で批判を行っています。ただネオ皇国史観では実際にどのように米国が日本を「骨抜きにした」という根拠や理屈、背景を示すことができておらず、若干観念臭い主張になっていたように見えます。
 一体何故そうなったのかというと、米国による情報操作をきちんと検証したら彼らの「米国に追い詰められてやむなく開戦に至った」という主張が崩れるからでしょう。だから具体的にどんな風に日本の世論を誘導したのかには触れず、観念的にともかく「骨抜き」にしたとしか言えなかったのだとみています。

 なお米軍によってある意味スケープゴートにされたのは東条英機一味ですが、東條自身に対しては前回にも書いたように半藤・保坂史観では激しく批判しており、「無責任の極み」と切っています。それどころか「やはり米軍の力を借りるのではない、日本人自身が彼を権力濫用で処分すべきだった」、「戦前の国内法でも東條は十分処刑できる」とまで言っています。
 ただ先ほどにも書いた通り、東條一味がスケープゴートにされた点についてははっきりと間違いだったとしたうえで、東条英機と仲が悪かったために米国側から起訴されなかったものの、日本を本当の意味で誤った戦争へ導くことになった戦犯として、石原莞爾に対しては否定的にも捉えています。実際に私も二次大戦において日本に戦犯がいるとしたら、石原以上の人間はいないと考えています。