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2022年4月13日水曜日

江戸末期の豪商が消えたわけ

 次回の特集用にいろいろ調べていますが、江戸時代においては既に中期頃より、支配階級である武士よりも商人の方が地味に強い力を持つに至っていました。江戸の徳川家を含め各藩はどこも商人に多額の借金を抱え、彼らなしには参勤交代はおろか、領国経営すらままならない状態でした。シムシティで言えば、常に借金を抱えながらプレイする状態といったところでしょう。
 それゆえ、マジで商人に頭が上がらなかった藩主もいたとされ、商人の嫌がらせ喰らって自分の藩になかなか変えることができなかった藩主も結構ざらだったと言います。

 ただ、創業100年以上がざらにある和菓子屋や大工(工務店)と比べ、江戸時代から脈々と続く商家というのは実は少なかったりします。明治以降も生き残った豪商といったら三井、住友、鴻池くらいしか私も浮かばず、少なくとも各藩の地元でブイブイ言わせていた豪商となるとほぼ壊滅状態です。それこそ鴻池みたく令和のこの時代において存在しないならまだしも、明治の前半には江戸時代の豪商の大半は消え去っていたとされています。では何故、江戸時代の豪商は維新後に消えたのでしょうか。
 答えは非常に簡単で、旧大名こと華族に悉く借金を踏み倒されたからです。

 維新後の廃藩置県を経ていわゆる旧大名家は日本から消失しましたが、旧大名家が抱えていた借金も一瞬で消えたわけではありません。ではそれら負債は最後どこが負担したのかというとどうも大半が大名家に金を貸していた豪商たちで、廃藩置県の後に「もう藩がないから知らないもん」とばかりに、みんな揃って地元や江戸、大阪の有力豪商達の借金を踏み倒したと言われています。
 豪商たちもいちおう明治政府に補償を求めたそうですが、「うち関係ないから(^ω^)」といってにべもなく断られ、これによって維新後に悉く潰れていったそうです。

 逆に生き残った上記の三井、住友、鴻池は、まだ幕府が生きていた幕末の段階で薩長(維新政府)寄りの立場を明確に打ち出し、薩長側に資金や運送面で便宜を図ったことにより維新後、論考として両替商(金融業)の営業許可がもらえたりして上手いこと生き延びました。恐らく明治政府としても、各地の豪商をそのまま生かすのではなく、息のかかった政商たちに糾合させる方が全国統一ネットワークの形成面でも有利と踏んで、豪商を意図的に破綻に追い込んでいたのではないかと思います。

 その他にはさっき調べて知りましたが、安田財閥も江戸末期に両替商としてスタートして、うまいこと維新の動乱を乗り切ってその後の財閥化を果たしていたようです。江戸末期の豪商ではないけど、如何に明治政府のパイプを持つかが当時の財界において重要だったかを示す一例だと思います。

 江戸期の豪商というと紀伊国屋文左衛門とかしかあんま出てこないですが、実際に当時、どれだけ力を持っていたのか、どんな影響力があったのかなどはもうちょっと研究される価値があるのではないかと思います。まぁその辺を含めて今いろいろ調べている最中ですが。

2 件のコメント:

片倉(焼くとタイプ) さんのコメント...

江戸時代の北前船の海運業も明治時代になって衰退したそうです。
商品は地域によって価格差がありますが、その価格差を知っていたのは
日本各地を移動する海運業者だけでした。 ですが明治時代になり
電信技術が発達して、海運業者は商品の価格差の情報を独占することが
出来なくなりました。 また 鉄道の開通により、危険を冒して商品を
船で運ぶ必要もなくなりました。

以前青森県の深浦町の歴史民俗資料館で、展示品の仏壇(と思われる物体)
を目にしました。 精巧な金細工が施された金ぴかの仏壇であり、素人が
見ても高級品だとわかります。この仏壇は沈没船から引き揚げた荷物から
見つかったものですが、おそらく北前船の海運業で儲けた豪商が発注した
のでしょう。 当時の豪商の財力がしのばれます。

花園祐 さんのコメント...

 前に阿波踊り調べた時、江戸時代は阿波(徳島県)の地元商人が出資してイベントが毎回開催されていたという話を思い出してこの記事を書きましたが、地味に各地の文化育成においても当時の豪商が重きをなしていたと思います。深浦町のお話も、きっと同じような背景があることでしょう。
 もっとも、最近話題の各地にある巨大観音像は今世紀にはなくなるでしょうね。でかけりゃいいってもんじゃない。