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2010年3月31日水曜日

郵政民営化の逆行について

 昨日の閣議にて、先週より各所を騒がせていた郵便貯金の保障限度枠を現行の1000万円から2000万円にまで引き上げられる事が決められました。この件について私の意見を言えば、率直に残念だといわざるを得ません。

 この限度枠の拡大に限らず郵政大臣の亀井静香は一度民営化した郵政をこのまま国営化に戻すつもりのようで、かねて私も頑張って書いた「郵政民営化の是非を問う」の記事にて問題性が高いと指摘した「財政投融資」についても、今朝のテレビ番組で限度枠の拡大で集めた資金をどうするかと聞かれ、「道路建設などに使う」と発言するあたり事実上復活させるつもりなのでしょう。「郵政民営化の是非を問う」の記事の繰り返しになりますが、無駄遣いのまさに根本とも言える財政投融資を折角潰したのに、またも復活するなんて聞いてて本当にバカらしくなります。

 ちょっと今回の民営化逆行には私自身が利害に関わる立場ではないものの納得行かない点が多いので亀井静香のネガティブキャンペーンを張るとすると、彼自身は俗に言う郵政票を多く持つという立場であるがゆえに郵政民営化に反対しているだけで、具体的にどのように民営化に反対しているのかという方向性には乏しいと言わざるを得ません。また彼に限らず一部の政治家は政治を行う事を本業とするのではなく選挙に受かる事が本業となっており、亀井静香についてはホリエモンこと堀江貴文氏も著書にてその点を厳しく批判しております。

 堀江氏はかつての郵政選挙の際に自らも自民党の推薦候補として亀井氏の選挙区にて立候補しましたが、新人候補でありながらその抜群の知名度ゆえに落選こそしたまでも相当数の票を獲得するに至りました。この選挙の際、亀井は堀江氏を格差論者だなどと口汚く批判していたのですが、堀江氏が例の事件で一時収監されて出獄後、なんと堀江氏に対して国民新党に入って選挙に出馬しないかと打診してきたそうです。

 堀江氏によると、恐らく亀井としては今後選挙で自分を脅かす前に自分のところで囲っておこうとして打診してきたのだろうと推測していましたが、私もこの堀江氏の意見に同感です。この一件について堀江氏は政治家というよりも選挙屋とも言うべきそのあくなき根性に呆れたと述べていましたが、そんな選挙屋が大臣やっているということに私もいろんな意味で疲れてきます。今度また一本記事を独立して書いてもいいのですが、私は基本的に政治家という職業はこうした選挙屋を生み出さないためにも副業でやるべき仕事と捉えるべきだと考えております。

2010年3月30日火曜日

明治天皇と戦争

 このところ書いていないけど恐らく一番の人気コンテンツであろう歴史物をまた一本投下しておこうと思います。

 現代の日本において最大のタブーと来ればそれは言うまでもなく天皇家で、そのためか明治以前ならともかく以後の天皇となると国内で歴史的評価や検証を行う事もやや難しく、今日取り上げる明治天皇のように日本国内以上に中国を初めとした外国の方が知名度や評価が高かったりすることも少なくありません。その明治天皇ですが、日本人であれば恐らく君主らしくひげを生やした軍服姿の天皇の写真を思い浮かべる事は可能でしょうが、具体的にどのような人物でどんな性格であったかとなるとあまり答えられない方が多いかと思います。私自身がそうだし。

 では明治天皇はどんな人物だったのか、そのわずかな人となりを知る上で私がよく参考にしているエピソードに、明治時代の日清、日露の戦争に対する明治天皇の反応があります。

 日清、日露ともに明治維新後の日本の運命を決める重要な戦争であった事に間違いはありません。この戦争に対して権威という神輿に担ぎ上げられた存在とはいえ憲法上の主権者であった明治天皇は開戦当初にどのような反応をしたのかというと、まず日清戦争については実は開戦に反対だったそうです。

 明治天皇がどのような意図を持っていたかまでは私も把握していないのですが、開戦時において周囲に対し、「この戦争は朕の戦争にあらず」と発言していた事は間違いないようで、同じく開戦に反対していた時の首相の伊藤博文らを呼んでは何度も愚痴を述べていたそうです。とはいえ明治天皇は公私というか自分の役割はきちんと認識できる方だったようで、開戦後は重臣の意見に従って大本営の置かれた広島に自ら赴きそこでしばらく執務を取ったそうです。

 一体何故明治天皇は日清戦争に反対していたのかというと、いくつかある意見の中でもやはり勝算を見込んでいなかったというのが一番有力です。当時は列強にやられっぱなしとはいえ「眠れる獅子」とまで呼ばれた清に対し、幾ら日本が明治維新で頑張ったとはいえ勝てると考えていた人間は少数だったそうです。
 それにもかかわらず、というより何で主権者である天皇が反対しているにもかかわらず開戦となったのかと思われる方もおられるでしょうが、まだ明治の時代は天皇の神格化がそれほど進んでおらず、また伊藤博文や山県有朋といった維新の元勲らも多数生きてて政治の実権は彼らが持っていたために現実的には明治天皇はそれほど決定権がなかったというのが実情です。

 ついでに書いておくと昭和の時代において軍部が暴走した際に彼らが錦の御旗として使った「統帥権の干犯」という概念ですが、これは主権者である天皇の意思を無視して軍事の決定を行ってはならないという考え方であるものの、天皇の意見なんて大日本帝国憲法制定当初から最後までほぼ一貫して無視されていたということになります。さらに付け加えると、この「統帥権の干犯」という表現はロンドン海軍軍縮条約を結んだ与党を攻撃するために当時野党議員の鳩山一郎が使ったのが最初です。恐らく横で聞いてた軍部は、「こんな便利なものがあったんだ!」と思ったに違いないでしょう。はっきり言いますが鳩山一郎という政治家は決してハト派ではなく、孫同様にその時々において平気で意見をひっくり返す癖のある政治家でその評価は肯定的な部分と否定的な部分の両面共に大きいといえます。

 話は明治天皇に戻りますが、当初は反対こそしていたもののなんとか日清戦争は勝利を得る事が出来ました。それにしても日清戦争の日本側死者の八割以上が病死というのは凄いものですが。
 その日清の後の日露戦争では開戦前、相手が強国ロシアということもあって日清戦争以上に重臣達も開戦には慎重でした。そこで明治天皇はどんな風に考えていたのかですが、ちょっと記憶が曖昧ですが確か昔出ていた「週間日本史」で書かかれていた記事では、明治天皇は開戦に反対だった伊藤博文を呼ぶとこう尋ねたそうです。

「この戦争、もし負けたら朕はどうなるのだろうか?」
「さすがに殺されるということはないでしょうが、フランスのナポレオン三世(敗戦によって退位し、亡命した)の例もあります。ただでは済まないでしょう」
「もしその時、おぬし達はどうする」
「もちろん陛下と運命をともにします」

 このやり取りを受けて、最終的に明治天皇は日露戦争に対して腹を括ったと聞いております。
 さっきの日清戦争のエピソードはあちこちで言われてはいますが、こっちの日露戦争については何度も言いますが記憶は曖昧です。ただ実際にも、こんな感じのやり取りがあったんじゃないかと私は思います。

 別に私に限るわけじゃないですが明治天皇の資質や性格はともかくとして、実際に切り盛りする維新の元勲らとその旗頭となった天皇の連携はこの時代において非常に上手く機能しており、それが明治維新の大成功につながったというのは間違いないでしょう。それだけに維新の元勲が去って東大、陸海大学校出身者が切り盛りするようになった昭和前期の日本が勝算のない戦争を始めて国土が灰燼に帰すまで戦争を続けてしまったというのは、明治時代に元勲と天皇の連携に過分に頼ってしまっていたということも一因であると私は思います。

2010年3月29日月曜日

鳩山政権、デノミ検討の真偽

 ちょっと当たり障りのないリンクが見つからないのでこのまま内容を書いてしまいますが、日経新聞が3/19日付の朝刊にて鳩山由紀夫首相がデノミ、つまり通貨兌換を去年から検討していたもののその先導役となる藤井前財務相が退任した事から立ち消えになったというニュースを報じました。なかなかに驚きなニュースなので早速私もネット上で、「鳩山 デノミ」と検索ワードをかけて調べてみた所、やはりというかこのニュースを取り上げては鳩山首相を批判するブログがいくつもヒットしたのですが、結論から言うと私はこのニュースの真偽は結構怪しいんじゃないかという気がします。

 デノミというと最近ではジンバブエや北朝鮮が経済改革の切り札として使ったところ見事に大失敗をしてしまい、更なる経済悪化を自ら招いてしまった例が記憶にも新しいかと思います。通貨兌換といってこれまでの1000円を十分の一にして100円にするにしてもその過程では様々な経済的な混乱、システム的な問題が発生されることが予想され、ましてや国際取引市場でも使われる円通貨を不用意に変動させようものなら国際的にもいろいろ問題であり、私としても現時点でデノミをするなんて以ての外だと考えております。

 そんなデノミを鳩山首相は実は画策していたと日経新聞は報じているのですが、ニュース発表から十日が経った現在、このニュースを報じている日経以外のメディアが未だ見当たらないのが私はやけに気になります。もし内容が本当であればそれこそ鳩山政権の運営姿勢を疑いかねない政策ゆえに私は普通ならば他のメディアが追加取材をやっているものだと思うのですが、このニュースを取り上げたブログをいちいち見ても最初に報じた日経以外のソースはないばかりか、民主党寄りの朝日新聞ならともかく普段から鳩山政権にこれでもかというくらいにいちゃもんをつけ続けている産経ですらこのデノミについては全く触れていません。更に言えば、一応毎日テレビニュースで首相会見を確認していますがこのデノミ検討があったのかについて質問する記者も見当たりません。

 また本来、皮肉な話ですがこういったニュースというのは日本だと外国メディアの報道から始まるのが常です。というのも日本には各紙が情報を抜かないための記者クラブ制度がよく整備されており、デノミのような証券市場にも影響を与えかねないニュースだと各社一斉に報じるか外国メディアが報じてからようやく報じるかのほぼ二択です。そういった事例と比べると、今回の日経だけが報じているという浮き方が妙に感じられます。

 で、そもそもの日経の報道記事も読んでみるとネタ元についてはいつも通りに、「周辺によると……」と書いてあるだけで、首相周辺なのか日経周辺なのかすら区別がつかない書き方をしております。
 日経は先日にもサントリーとキリンの合併交渉の終盤において他紙が恐らく破談になるだろうと報じていた中で、一番最初に合併交渉を始めたことをスクープした立場ゆえか破談が正式に発表されるまで強気に合意間近と報じ続けておりました。今回の件と関係ないといえば関係ないですが、ちょっとこのところの日経の報道について疑問を感じたので合わせて取り上げる事にしました。それにしても、日経さんは続報をくれないのかな。

2010年3月28日日曜日

時間の止まった風景について

 私が京都にいた頃、大部分の期間を昔から京都駅前でやっていた喫茶店にてアルバイトをしていました。最初は京都市から離れた場所に下宿を借りていたので電車通勤でしたが、市内に下宿を移してからは自転車でいけるようになり京都市北区から鴨川沿いを朝早くから自転車で駆け下って通っていた事を割と今でも懐かしく感じます。

 この店は京都駅前にあるとはいえ競合する店が数多く、また近年はスターバックスなどのファーストフード店も数多く増えたためにやってくる客と来れば決まって常連の客ばかりだったのですが、ある冬の日、見慣れない初老の男性客が午後に一人で入ってきた事がありました。なんか珍しい客だなと私が水とお絞りを持っていくと、その男性客は店内をしげしげと眺め回しながらこんな言葉を言いました。

「ここだけは、変わってないなぁ」

 話をしてみると、なんでもその男性客は十年位前にも私のバイト先の喫茶店を訪れた事のある方だったそうで、京都駅前が十年前と比べるといろんな建物が出来たりしてすっかり様変わりしているのに対してこの喫茶店だけは十年前と何も変わっていないことに驚いていたそうです。その方が感慨深げにコーヒーを一杯飲んで帰ると店主は自慢げに、「どや、うちは昔からずっと同じでやねん」と話した上で、あの客が言った様にその喫茶店の周囲である京都駅前は駐車場が出来たりでかいビルが建ったりするなど、その変容振りはずっとここに住んでいても驚くほどだと話しました。

 私は時間というものは基本的に、視覚的にも聴覚的にも、なにか変化を感じ取る事で初めて時間の経過を認知できると考えております。逆を言えば目に見える風景、耳に入る音がなんの変化もなければ時間というものは感じ辛く、何も聞こえない部屋にずっと閉じ込められたりしたらすぐに時間の感覚は狂うんじゃないかと考えております。
 そこで今回のバイト先の喫茶店の話です。店主も言うとおりにその喫茶店は昔からずっと同じ佇まいで同じ内容の商品を提供し続けており、周囲が大きく様変わりしていることに比べるとなにか一人だけ時間から置いていかれたような、十年ぶりにやってきたその客にとってすれば時間が止まった様な空間であったのかと思います。

 この時間が止まったような空間、言い換えるならば変化が見られない空間というものは、目立たないけど個人々々の時間感覚に大きく影響を与えるものなんじゃないかと私は考えております。

 誰にでもある経験でたとえると、かつて卒業した小学校の前などを久しぶりに通ると、「ああ、ここを卒業してもう○○年だなぁ」などと感じる事は皆さんにもあるかと思います。もっともその小学校が取り壊されていたり改築されていたらちょっとしおらしくなっちゃいますが。
 私は時間の止まった空間というのものは、その空間にかつて触れた事のある時間と現在までの時間の経過をその人に強く認識させる格好の材料なのではないかと思います。ただ漠然と五年前、十年前と抽象的に考えるより、先ほどの小学校との例を出せば卒業してから現在までの時間が○○年だなどというように、抽象的な時間の概念と具体的な時間の概念を結ぶ大きな材料になるような気がします。

 またそのように時間概念を結ぶだけでなく、これは私見ですが時間の止まった空間というものは見た者にぐっと往年の心象を呼び起こす材料にもなるかと思います。これまた誰にでもありそうな例でたとえると、学生時代によく行った飲食店に立ち寄る事ですっかりサラリーマン化してしまった思考が一時的に学生時代に戻り、あの頃は若かったなと振り返りつつもしばらくは学生っぽい考え方をするのが続いたりするなどと。
 もちろんこの様になるのは時間の止まった空間だけでなく昔に聞いた音楽や食べた料理、なんだったら懐かしい知人に会っても十分に起こり得るでしょう。ただ知人の場合、その人が以前とすっかり変わってしまっていたら逆の意味で時間の経過を実感する事になるかもしれませんが。

 友人の言によると私は昔から全くキャラクターが変わらない人間らしく、なんかこのところ会う度にいろんな人間から、「花園君は変わらないなぁ」と言われたりします。ただこれは全く意識していないわけでなく、見かけはともかく私は意図的に思考の根っこのところは自分を変えないように日々努力しております。何故そうしているのかという理由はひとまず置いといて、その自分を変えないための一つの手段として用いているのがまさに今回紹介した時間の止まった空間で、別に大した儀式めいた事をしているわけではないのですが自分の人生の節目節目において、その当時の自分を強く想起させるような風景や場所を心中で設定し、記憶に留めるようにしております。

 目下の所、今の自分にとって一番思い入れが深い「時間の止まった空間」に当たるのは京都市伏見区にある伏見稲荷神社で、京都に立ち寄った際には必ずここを一回は通るようにしております。何故伏見稲荷がそのような場所に設定されたのかといえば、まず第一には神社ゆえにこれ以後もめったな変化が起こらないことが予想されることと、割と自分が野心満々だったころに初めて訪れたということからです。

 人間、肉体が老いるということは今の技術ではどうにも抗えません。しかし精神については心がけ次第ではまだどうとでもなる余地があり、自分の精神性がピークに近づいたと感じたのであればゲームのセーブじゃありませんが、時間の止まった空間になにかしらその痕跡を残しておくというのは悪い事じゃないと思います。仮にそれ以後に自分の精神が更なる成長を遂げたとしても、過去のセーブ記録と比較する事で成長を実感したり、その時点で必要なものがわかってくるかもしれません。
 こういうところに妙にこだわるあたり、いつまでも子供っぽいと言われる所以なのでしょうが……。

2010年3月26日金曜日

京都の道の特殊事情について

 先日リンクを結んでいるアングラ王子さんのブログにてコメントしたところ、下記のようなコメントをアングラ王子さんからいただきました。

「京都の人たちに道を尋ねると、ここから北へ~とか西へ○○、っていう感じで方角で言われることが多かったのですが、たまたまだったのでしょうか?」

 この返答を受け取った時に私は不覚ながら思わず笑ってしまいました。恐らく京都に住んだ経験のある方なら私と、同じような印象を覚えるかと思います。

 この京都人の道案内のやり方ですが、本人達は至って悪気はない……とも言い切れないのですが、昔から京都に住んでいる方にとってすればごく自然な教え方なのです。というのも京都市はきれいに東西南北に沿って道路が走っており、しかもすべての通りに一つ一つ名前がついているので道案内をする際には通り名と東西南北の方角を使って説明をします。そのためちょっとした道案内でも、

「ここは二条通りで、向こうに大きな通りがあってそこが今出川通りなんですけど、今出川通りに沿って東に行き続けると京阪の出町柳駅がありますよ」

 という感じで、京都の地理がないとわからんやないけと言いたくなるような説明をみんな平気で言ってしまうところがあります。向こうにとってすると、京都の地理もわからんくせに旅行にようお越しはったなぁ、みたいに思っているのかもしれませんが。

 しかしそんな京都人からすると逆に東京の地理は曲がりくねった道が多く、通りの名前もてんでんばらばら、こんな場所でどうやって暮らせばいいのかと言いたくなるような地理だそうです。実際に東京は徳川幕府が外的の侵入を防ぐという目的や日本の雑多性を好む宗教性が色濃く反映された都市で、世界的にもこれ程複雑な都市構造をした首都は少ないでしょう。そのため東京では必然的になにかしら目的地を辿って歩くという方法にならざるを得ず、

「向こうのパチンコ屋の前まで行ったら左に曲がって、そこから歩き続けるとスーパーがあるのでそこを右に曲がると駅がありますよ」

 みたいな説明の仕方になってきます。京都でも全くないというわけではないのですが。

 ただ関東関西の両方に住んだ事のある私の意見を言うと、やはり地図を見ながら練り歩くという意味では京都の方が圧倒的にわかりやすかったです。東京は地図を見ても現在地がなかなか掴み辛く、また歩いているうちに地図上のどの位置にいるのかがわからなくなって来たりして、いわゆる歩きなれた経験がなければおちおち散歩できないのが辛いです。

 ちなみに京都人は外からやってくる旅行者に対してどのように思っているのかというと、一番参考になるのはここのサイトの情報だと思います。割と京都人というのは物事をビジネスライクに切って分けて考える事の出来る人が多く、旅行者に対して表面上はお客様として対応しますが内心では金づるのように思いっきり見下す方も少なくありません。私としてはそれがはっきりと表に出ないのであればもてなされる旅行者も気分が悪くなる事もないんだし、そういう意味で最も世渡りに長けている人達だと考えています。

 最後に私が京都に住んでいた際、毎回そこを通るたびに気になっていたお店を紹介します。

中国料理 ほあんほあん

 このお店の何が気になっていたかというと、トップページにも入っていますが、「京の名物、皿うどん」という文字とともにパンダが皿に顔を突っ込んで何か食べている絵の看板です。
 皿うどんって京都名物だっけ? それよりもなんで中国料理で皿うどん?
 などと突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んでいいかわからないほどで、嵯峨嵐山店のある確か北大路通りを広沢池に行く途中で見るたびにあれこれ頭を悩ませていました。一回くらい、食べに行っとけばよかったなぁ(・ω・`)

2010年3月25日木曜日

地下鉄サリン事件、医療現場での奮闘と奇跡

 以前に昭和から平成にかけての猟奇的事件や大量殺人事件を話題とした掲示板を覗いた際、地下鉄サリン事件についてこんな言及をしている方がおりました。

「地下鉄サリン事件での死者は13人って、大きく報道された割にはあまり多くないよなぁ」

 恐らく書き込んだ方は別に悪意があるわけではなく死者数を見ただけの印象を語ったのだとは思いますが、見ている私からすると知らないにしてもやはり憤りを覚えずにはいられない書き込みでした。

 あの1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件は世界史上初のバイオテロ事件でその手口も複数の路線で猛毒のサリンをばら撒くという手段といい、事件の規模は疑いようもなく戦後史上最大の犯罪事件でありその被害に遭われた方も生半可な人数ではありませんでした。それにもかかわらず死者数が13人、それこそ上記の書き込みをした方のように一見すると規模が少ないようにも見えるこの数字の裏には事件発生現場にて治療や救出活動を行った方たちの最大限の努力があり、事件規模の小ささを表すものでは決してありません。はっきり言ってあれだけの大事件にもかかわらず被害をここまでに食い止めたのは奇跡といってもよい偉業で、僭越ながらここで私もあの現場の方たちの努力をここで紹介しようと思います。

 早朝の地下鉄内で突然発生したこの地下鉄サリン事件は、発生当初から関係各所に大きな混乱を引き起こしました。各路線の電車が停止しただけでなくサリンを吸って症状を引き起こす方が続々と倒れ、しかも地下鉄という立地条件ゆえにすでに倒れた方を救助しようと近寄るそばからその救助者も次々と倒れていく始末でわずかな時間の間に膨大な数の要救助者を生みました。実際にテレビのインタビューにて応えた被害者によると、他の要救助者を駅内から地上へ運んでいる途中、自分と一緒に要救助者を抱えている人が突然ひざを落とすのを見たところで記憶が途切れ、次に気がついたときは自分も病院に運ばれていたそうです。

 この突然現れた膨大な数の被害者の治療においてまず真っ先に持ち上がった問題は、収容先の病院をどこにするかでした。今も陣痛を引き起こした妊婦の搬送先がなかなか見つからないなどこの問題は現在進行形で続いておりますが、数千人単位の急患が突然東京のど真ん中に現れてもどこの病院に運べばよいのか、また運んだとしてもすでにその病院が満杯になっていればたらいまわしになり、被害者の運搬において混乱に拍車がかかることも大いに予想されました。

 そんな最中、聖路加国際病院の日野原重明院長(当時)は事件を知るやその日の外来受付をすべて中止させ、被害者を無制限に受け入れる事をいち早く宣言しました。現在も各方面で活躍なされているこの日野原氏は周囲から老人の心配性から来る無駄遣いだなどと批判されながらも、大量に負傷者が現れながらも受け入れすらできなかったという戦前の体験からかねてより病院内の至る所に治療に必要な設備を設置、導入をし続け、その建物規模に比して膨大な人数の急患を受け入れられるように聖路加国際病院の改装を行っておりました。その日野原氏の徹底振りには私も驚かされたのですが、なんと病院内のチャペル内ですら酸素吸入口を設置するなどしていたそうです。
 この日野原氏の決断により聖路加国際病院は拠点病院として機能し、事件当日には数百人の患者を一手に引き受けて治療を行いました。

 しかしこうして被害者の収容は行えたものの、肝心の治療においてはサリンという未曾有の凶器ゆえに当初、現場は大きく混乱しました。始めはそれこそ何が原因でこれほどの負傷者が現れたのかすら定かではなく爆発や列車事故が起こったなどと情報が錯綜し、負傷者の対応に当たった医師らも爆発というには負傷者に外傷はなく、それでいてどうして心肺停止や呼吸不全などという症状が現れるのかと大いに戸惑ったそうです。

 こうした混乱する医療現場に対し、これまたいち早く原因はサリンだと気がついたのは信州大医学部教授の柳沢信夫氏でした。柳沢氏はテレビでの報道を受けこの事件の前年に起きた、こちらも同じくオウム真理教が引き起こした松本サリン事件での被害者を担当した経験から報道される負傷者の症状が酷似している事に気がつき、聖路加国際病院を始めとして東京の各病院へサリンによる毒ガス負傷の可能性を伝えるとともにその治療法をFAXにて伝達しました。
 また時期をほぼ同じくして、かねてより戦争放棄を謳っている国にどうして必要なのかと社会党などから厳しく批判されていた自衛隊内の第101化学防護隊を始めとした化学兵器対策部隊の隊員らが負傷者の症状からこちらもサリンが原因だと特定し、各病院に対して自衛隊中央病院から医師らを派遣して治療法や対応の助言を行いました。

 バイオテロにおいて何が一番怖いかといえば、その凶器の特定がなかなかできずに治療ができないという事態です。その点でこの地下鉄サリン事件は前年に松本サリン事件がすでに起きていた事が大きく影響していますが、かなり早い段階で凶器の特定ができて適切な治療を行えたということが負傷者の拡大を食い止める事に大きく貢献したといえます。特に信州大の柳沢教授の判断とその行動は真に賞賛に値する行為で、如何に人間一人の行動が重要な価値を持つのかということを示す好例だと言えるでしょう。

 しかしこうして負傷原因がサリンだと特定できて治療法がわかったものの、肝心の治療に必要な薬品はその負傷者のあまりの多さからあっという間のストックを切らす事になりました。そのサリンを中和する薬剤は「PAM」という薬品なのですが、これは非常に特殊な条件にて用いられる薬品でそれほど在庫数がもたれない薬品でした。そもそもPAMは商業ベースでは完全な赤字商品で、住友製薬が販売している有機リン系農薬から中毒を起こす可能性があるため社会的責任から会社トップが決断して製造を続けていたという解毒剤でした。
 この緊急事態に対し、住友製薬や薬品卸会社は首都圏以外の営業所からそれこそ持てる限りのPAMを社員手ずから運ぶという措置を行い、新幹線から飛行機、タクシーといったありとあらゆる交通手段を使って東京へと運送を行ったようです。

 上記のように、あの地下鉄サリン事件の裏では様々な人間が負傷者の救助や治療に当たり、その結果が死者13人なのです。確かに13人もの方が亡くなったというのは痛ましい事この上ありませんが、私はあの事件は下手すれば、というよりも通常想定されるケースでは三桁の死亡者が出てもおかしくなかった事件だったと見ております。
 また死者数ばかりに目を囚われがちですが全体の負傷者数は約6300人にも上り、その中には重い後遺症に今も悩まされ続けている方も沢山おられます。またこちらもあまり日の目を浴びておりませんが、政府はこのサリン事件の被害者へはほとんどと言っていいほど治療費などの援助を行って来ず、高い治療費負担からその後の人生を狂わされた方もまた数多くおります。政府が事件の被害者へ援助を行うようになったのは、つい最近です。

 本当はもっとサリン事件を始めとしてこのオウム事件について二十代である自分だからこそまとめておきたいのですが、さすがに準備不足なのでまだやめておきます。ただこの地下鉄サリン事件での治療現場についてはプロジェクトXでもすでに取り上げられているものの、如何に各方面の従事者が努力して被害を奇跡的といっていいほどに小さくしたという偉業とともに、一人一人の人間の行動の価値がどれだけ崇高であるかを伝えたいために、フライング気味に書くことにしました。

2010年3月24日水曜日

派遣法の改正によって予想される雇用推移

 すっかり時事ネタがこのところ遅れてしまっているわけなのですが、先週に閣議にて派遣前面接の禁止など紆余曲折があったもののかねてより貧富の格差を生んだ最大原因として批判されてきた派遣法の改正案が閣議を通過しました。今後は国会での審議を経て法案が通過することでこの改正派遣法が公布、施行される事になるのですが、結論から申せばこの改正派遣法は現時点ではより貧富の格差を生む法律になりかねないと私は考えております。

 労働者派遣が一体何故貧富の格差を生んだのかはもはやいちいち説明してられないので省きますが、この派遣法を拡大したとして小泉政権、ひいては当時の経済産業相の竹中平蔵氏はよくこの問題で批判されるのですが、確かにこの派遣法は問題が多くあることは認めつつも世間一般で言われているほど竹中氏は批判されるべくではないと私は考えております。そもそも工場派遣を認めるまで派遣法を拡大したのは小渕政権で、また派遣以下と言われる待遇の偽装請負という手法はかねてから横行しており、むしろ小泉政権時の派遣法拡大によってそうした偽装請負の身分で働かされてきた方たちも派遣労働者扱いとすることで労災保険などが適用できるようにもなり、お墨付きといえばお墨付きですが時代背景もあって私はあの判断が一概にすべて間違っていたとは考えておりません。またこれはどこかで聞いた意見ですが、仮に派遣法がなく直接雇用が厳しく義務付けられていたらリーマンショック以降の倒産件数は現在とは比べ物にならないほど多くなっただろうという意見もあり、都合がいいといわれるかもしれませんが私はこの意見にも一理あると見ております。

 それで話は戻って今回の派遣法改正ですが、派遣業者のマージン率(ピンハネ率)の公開を義務付けるなど評価できる点も確かにあるのですが、工場への派遣禁止や一定期間の雇用後に直接雇用を義務付けるなどという案も盛り込まれており、私が思うにこの法案は通過したとしても現在派遣労働者を雇っている企業は派遣を打ち切ってそれ以前からいる正社員にその分の労働を担わせるか、また以前みたいに偽装請負に切り替える事にしかならないと考えております。
 なぜそうなるのかというと、内部留保を増やしてきた大企業は除いて、そもそも雇う側の企業が近年従業員を雇用するだけの体力がなくなってきており、新たに正社員を増やす余裕がないからです。だからといって現行の派遣法を擁護するわけではないのですが、討論番組などで一般のパネリストから、「派遣でもいいからなにか仕事を得て給料を得たい」、「家族を抱えているため時給600円でもいいから仕事が欲しい」などという意見を耳にする事があり、制限を加えて派遣労働者を減らす事が今現在で最もいい選択なのかと考させられてしまいます。

 すでに何度かこのブログで主張していますが、今各政党が主張している雇用対策はすでに正社員となっている方への政策であって、正社員ではない労働者たちには逆に負担を増やしかねない政策となっております。何故そうなるのかというと一言で言えば賃金というパイが限られていることに尽き、社会全体で最低限の生活水準や雇用を維持するためには私は正社員全体の給料を減らしてその分を現在派遣労働に就いている方や失業している方へと回して、仕事を分散させる以外ないと考えております。

 そもそも社民党は口では弱者である労働者の味方などとうそぶいていますが現実には彼らは正社員(それも労働組合のあるような大企業の)の味方でしかなく、主張や政策論などを見ている限りではむしろ派遣労働者の方たちとは利益面で対立する組織にしか見えません。今に始まったことじゃないけど。

 なら派遣法はどのように変えるべきかですが、まずはなんといっても派遣業者のマージン率の完全公開です。その上で派遣労働者たちも自分達で全国的な組合を作り、違法な労働を課す企業などに自らの手で攻撃していくことが何よりも必要になってくるかと思います。
 ただ根本的な解決を目指すというのであれば、私が以前に書いた「日本でのオランダモデルワークシェアリングの必要性」の記事で主張しているように、日本社会全体でワークシェアリングを推し進める以外ないと私は思っております。みんながみんな正社員で当たり前という時代は特別な時代だったバブル期以前の話でもはやあの時代を再現する事は出来ないと踏ん切りをつけ、その上でどう社会を適用させていくかをもっと日本は考えなければならないでしょう。