今から五年前の三月、東日本大震災直後に上海の居酒屋にいた私は上司を目の前にして、「これでもうプルサーマル計画も終わりでしょう」と言いました。その言葉を聞いた上司は、「まさか上海でプルサーマルという単語を聞くとはな」と苦笑していましたが、後から聞いたらこの時の私の発言を評価してくれていたようです。
・もんじゅ廃炉方針 「30年協力してきたのに」地元・敦賀は困惑(産経新聞)
私の言ったプルサーマル方式とはまた異なりますが、高速増殖炉のもんじゅについてようやく廃炉を視野に入れた議論が始まりました。結論から言えばこの議論は五年前には始めておいて既に完了させておかなければならなかった議論だと考えており、議論が始まったことは歓迎すれどももっと早くにしておけばという後悔もどうしても出てくると言ったところです。
そもそもまず高速増殖炉とは何ぞやですが私なりに簡単に説明すると、普通の原子力発電所(軽水炉)で消費した燃料の残りカスをこねこね混ぜ混ぜした後でもう一回燃やして発電する発電所といったところです。より深く説明すると、原発ではウランを燃料に使っており一回燃やした後はプルトニウムを微量に含む燃えないウランになります。このウランからプルトニウムを抽出して別の種類のウランと混ぜ合わせることでプルトニウム濃度を高めたMOX燃料という新たな燃料を作り、この燃料を専門的に燃やすための発電所が上記の高速増殖炉もんじゅというわけです。
ついでに書くと高速増殖炉発電とプルサーマル発電の違いは、MOX燃料のプルトニウム含有量の差で前者が約20%、後者が4~9%だそうです。ほかにも違いはありますが正直あまり理解できてないのでこの辺でご勘弁ください。
この高速増殖炉方式だとどんな利点があるのかというと、いわゆる核燃料サイクルというものが理論上発生します。これはどんなものかというと、上記の通りに高速増殖炉は普通の原発の燃えカスを燃料に使うので、言うなれば核廃棄物を燃やしてさらに発電できるということとなります。また高速増殖炉でMOX燃料を燃やすことで今度は普通の原発で燃料として使えるウランが副産物として生まれ、このように普通の原発と高速増殖炉を往復することで燃料を余すことなくエネルギーに変えられるため、さすがに無尽蔵というわけにはいきませんが資源の消費を極限なまでに抑えることが可能となる上に核廃棄物も一緒に減らせるわけです、実現できればの話ですが。
一見すると夢のような循環なだけに日本を始めフランスやロシアなども高速増殖炉を作って実証を試みましたが、今の所成功したと言えるような実績はなく、過去には米国もプルサーマル方式にチャレンジしましたが20年実験し続けた結果、不可能と判断して諦めています。なおさっき調べたらロシアでは2014年に実証炉が稼働して実用化に目途がついたと書かれてありましたが、少なくとも日本はついてく立場に入るべきでフロントライナーに挑戦すべきではないと思います。
そう考える理由というのも、この高速増殖炉もんじゅが全く話にならない代物だったからです。1991年の建設から現在に至る25年間でまともに発電したことはほぼなく(通算100日程度)、常にトラブルを起こして停止されたまま毎日5000万円の維持費だけが空費され続けました。っていうかこんなのに毎日5000万円出すなら少しでいいから分けてほしい。
またもんじゅを管理する組織も一言でいえば腐っているとしか言いようがなく、金属ナトリウムが漏れ火災を起こした際は事故を隠蔽し、その後も必要な点検をサボっていたり監視カメラが壊れているのを放置したりするなど、危険な核燃料を扱う組織としてはとても信用できるレベルではありませんでした。しかもトラブルの度に担当者がよく自殺しており、それにもかかわらず態度というかモラルが改善されないというのも見ていて不思議に思います。
・東海村臨界事故について(陽月秘話)
ここでまた懐かしい自分の記事を引用しますが、もんじゅ向けではなく同じ高速増殖炉の「常陽」向けの燃料を作っていた東海村にあるJCOでは1999年、燃料製造中に臨界事故を起こし作業員二名がなくなるという痛ましい事故を起こしています。一人や二人の犠牲なんてほとんど気にしない私ではありますが、この事故に関しては全く別でどれだけ原子力というものが恐ろしいものなのか、そしてそれを管理する能力が日本にはなかったということを証明する上で忘れてはならない犠牲だったと今この時点においても思います。
東日本大震災とそれに伴う福島原発事故時の東電の対応を見て、根本的に日本は原子力を扱うべき国家ではなかったと当時私は思いました。だからこそ福島原発以上に危険度が高く、なおかつ無駄な金食い虫のもんじゅとプルサーマル計画は直ちに廃止すべきだと五年前に考えたわけですが、政府がこの決断に至るまでには五年かかったわけです。もっとも五年かかったとはいえ、この結論にたどり着けただけ幸いだったと言えるでしょう。
最後に余談ですが、東海村の事故を書いたのはなんと七年前で、改めて読むと当時はこんなに短い記事で一本出してたんだなと何やら不思議な気持ちにさせられます。というより、現在が毎日書きすぎなんじゃないかって話になるわけですが……。
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