二年以上も放置してましたが最近この連載記事に興味持つ人が出てきたのと、プライベートで余裕が出てきたこともあるのでまた有名企業の意外と知られていない創業家を取り上げます。今日はなんとなくサラダ日和だと思うのでキユーピーの中島董一郎です。
・中島董一郎(Wikipedia)
<医師の家だが幼少時は貧乏>
後にキユーピーを創業する中島董一郎は愛知県西尾市に、医師をしていた父親の元で1883年に生を受けます。実家は祖父の代から続く医師の家で幼少期は裕福な生活だったものの人のいい父親が他人の借金の保証人となったことから破産し、夜逃げして名古屋市に落ちぶれてきます。中島董一郎は長男であったため家に居続けられましたが、上記のような経緯から弟や妹らは他家に養子へ出されるほど生活も困窮し、母親も中島董一郎が9歳の頃に亡くなっています。
名古屋市から東京へ移住し、長じた中島董一郎は医師である父の後を継ぐため一高を受験しましたがこれに落第し、代わりに現在の東京海洋大学にあたる水産講習所に入学します。卒業後は適当な就職口がなかったため京成電鉄で測量の仕事を行っていましたがこの際に英国人商人のW・H・ギルと知遇を得て、後の事業の飛躍のきっかけとなる出会いを果たします。
京成電鉄を一年の勤務で辞めると今度は若菜熊次郎商店という、名前からしても如何にも個人商店な感じする小さな缶詰問屋へ入りました。しかも入って三日目にして店主の命令によって北海道と樺太に市場調査へ行かされたりしています。
<海外実習生に>
中島董一郎は29歳となった1912年、農商務省が海外実習生を募集していることを学校の先輩(何気に後で東洋製罐の社長になる人)から教えてもらいこれに応募して選ばれると、当時は限られた人間しか行けなかった海外へと派遣されます。最初に派遣された英国・ロンドンでは先程のW・H・ギルの紹介でニコルス商会に入り缶詰関連の実習を受けるも、一次大戦が激しくなると避難をかねて今度は米国へと渡ります。
辿り着いたシアトルでは鮭缶工場で働きましたが、この時期に現地の日本人会で出された鮭缶に玉ねぎとマヨネーズを加えた料理を初めて食べ、「これや!」みたいな感覚を覚えたのか帰国したら必ずマヨネーズで商売すると決めたそうです。
<会社の設立、事業開始>
1916年に日本へ帰国した中島董一郎は、まだマヨネーズは日本人の口には合わないとの市場調査を受け、日本橋で「中島商店」を起こすと従来の缶詰事業からスタートさせました。何度も出てくるW・H・ギルの支援もあって短期間でぐいぐい業績を伸ばし、三菱商事からも缶詰事業を全部任されるほどまで急成長させ、1923年の関東大震災に被災するもすぐまた立ちなおす辣腕ぶりを見せます。
その震災後、日本人の生活にも西洋化の波が押し寄せたことを受けいよいよもってマヨネーズ事業に取り掛かります。名称は学校の先輩のアドバイスを受けて「キユーピー」とし、作るマヨネーズは卵黄の量を米国製の二倍にするというこだわった代物にして売り出しました。当時に売り出した価格は一瓶(128グラム)当たり50銭で、ハガキ一枚が1銭5厘だったことを考えると品質重視の高級路線で打って出たと考えられます。最初はその値段の高さとマヨネーズ自体の理解の不足からポマードに間違えられたなどというエピソードもありますが、毎日新聞に、「キユーピーマヨネーズを毎日の食膳に」という広告を打ち続けたことも甲斐あって売上げは年々伸びていきました。
マヨネーズを売り出す傍ら本業の缶詰事業も継続し、キユーピーの兄弟会社に当たる「アヲハタ」を設立してミカン缶詰、オレンジマーマレードを市場に供給し始めます。なお最初に作った中島商店はその後、「中島董商店」という名前になり現在も食品販売を手掛けており、キユーピー、アヲハタと合わせた三社で一つの連合企業となっています。何気に今知ったしこの事実。
<戦後の混乱期も品質を崩さず>
マヨネーズが普及するとともに追従する会社も続々と現れ競合品も出てきましたが中島董一郎は、「半端な物真似ヤローには負けねえ」と一顧だに介さず、事実市場でのキユーピーの優位は揺らぐことがありませんでした。この点は花王の長瀬富郎と全く同じだと言えるでしょう。
ただ第二次大戦の影響はキユーピーにもおよび、原材料の仕入れにも事欠くようになっただけでなく工場も空襲を受けて消失してしまいます。仕切り直すこととなった戦後も品質重視の姿勢は崩さず、供給量が減っても原材料はケチらない方針を維持しつつ、適切なコストカットによって他社が付け入る隙を一切見せることがなかったそうです。
なお戦後直後、あるレストランに訪れた客がシェフに今日のマヨネーズはあまりおいしくなかったと告げたところ、「申し訳ありません。経費上の問題からキユーピーのマヨネーズが買えず、米国製のマヨネーズを今日は使いました」と返事したというエピソードが伝えられており、為替格差が大きかった戦後直後でありながらキューピー製は高く、なおかつその味は米国製を上回ってたことが伺えるエピソードです。
<幾度かの危機を乗り越え>
戦後の経済成長とともに事業が安定してきた矢先、日本食品業界の雄たる味の素が1967年、マヨネーズ事業に参入すると発表します。これには中島董一郎も当時は大いに慌てていたと伝えられる一方、「俺たちの味を維持すれば負けることはない」と某国のサッカー代表みたいなセリフを言ってガチンコ対決に臨みました。
幸いにして味の素の参入は屋台骨を揺らがすほどには至らなかったものの、当時幅広く使われていた「チクロ」という人工甘味料が発癌性を持つ事がわかって使用禁止となり、これがマヨネーズに使われているという風評が立ってマヨネーズ業界にも逆風が吹きましたが、キューピー製マヨネーズには一切これが使われていないということがわかり、消費者から高い信頼を得てキユーピーに限っては追い風となるという事件に巡り合います。
病気を重ねたことから1971年に中島董一郎は経営の第一線を退きましたがその直後、仕入先の食用油メーカーが生産した食用油から毒性を持つ塩化ビフェニールが検出されるという事件に見舞われます。この会社と取引関係にあったことからキユーピーのマヨネーズも疑いの目を向けられる中で中島董一郎は、「こうなったら倒産覚悟ですべて回収するしかない」と後継者に指示し、実際に市場から一切の自社製マヨネーズを回収するという行為に及びます。
ただ回収されたマヨネーズは生産開始前の食用油に対する品質検査はすべて問題がなく、また回収したマヨネーズからもどれ一つとして件の毒性物質は出なかった上に厚生労働省による検査も「シロ」と断定されました。しかしキユーピーがこうした検査結果が出る前にも拘らず果断に商品回収に踏み切ったことが消費者からは支持されたことにより風評被害は一掃され、販売が再開された後はそれ以前と比べても暖かく消費者に迎えられたと言われています。
この風評事件がひと段落ついてしばらく、中島董一郎は1973年に満90歳で逝去します。私の寸評を述べると自身の海外体験から舶来品を事業化するというのは他の創業家にもよく見られる例ですが、このキユーピーという会社に限って言えばマヨネーズ一本を常に変わらぬ味で提供し続けるという恐ろしいまでの愚直さには敬意を覚えます。はっきり言えば競合品が出やすい商品にも拘らず戦前から現在にかけてマヨネーズの代名詞として君臨し続けるその事業ぶりには、生前から徹底して高い品質にこだわり続けた創業家の精神をきちんと宿した会社であるという風に私は考えています。
おまけ
ここだけの話、私自身はマヨネーズの味が実は苦手だったりします。高校生の頃までは普通に食べてましたが大学に入ったあたりからキャベツの千切りには「ピエトロドレッシング」一本となり、マヨネーズをつけるくらいなら何もつけずに生で野菜食べようとするくらい敬遠するようになってしまいました。なおまだマヨネーズを使っていた高校時代までも、マヨネーズ+しょうゆという組み合わせてサラダは食べており、友人の目の前でこれやったらドン引きされました。
おまけ2
学生時代、下宿で後輩に夕食を振る舞った際にピエトロドレッシングを出したら、
「先輩、これ高いドレッシングじゃないっすか!?」
「おう、これやないとわし野菜あかんねん。気にせんでええからお前もどんどん使ってええで」
「ほんまっすか、ほな使わせてもらいます!」
といって、かなりドバドバ使われました。「うまいうまい」言いながら食べる後輩の横でこの時は軽くちょっと睨んでいました。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
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