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2015年7月20日月曜日

千葉のマッドシティ~良文堂書店

 久々にこのブログの投票機能を作って、「新国立問題で誰が戦犯なのか?」というアンケートをトップページ右上部に設けたので、興味がある方は投票していってください。ぶっちゃけ、候補に挙げた全員どれも問題抱えてるような気がするけど。
  そんなわけで本題ですが、今日は松戸ことマッドシティ市民なら恐らく誰もが知っていると思われる、良文堂書店松戸駅前店を紹介します


 上記写真の良文堂書店は松戸駅東口目の前にあり、松戸駅とはコンコースが直結していて夕方くらいになると帰宅者たちが大勢目の前を通っていくのでいやでも目に入ります。写真はそのコンコースから取られた写真で、この入口から入ると良文堂書店の2階に入ります。

 この本屋の面白い所はなんと6階建ての本屋になっており、階層ごとに置いてある本のジャンルが分けられています。適当な記憶に従って書くと、確か1階は雑誌類、2階以降は文芸書、文庫、漫画、教育参考書、児童書などに分かれてたような気がします。最近行ってないからほんと記憶が曖昧。
 階層は2階ならばコンコースから直接入れますがそれより上は店内の細い階段を昇り降りしなくてはならないのでたまにしんどさを覚える時があります。ただジャンルごとに階層が別れているので捜したい本は割とすぐ見つかるし、雑誌を立ち読みする人とかに邪魔されずに店内を歩き回れるのは地味にいい点だったりします。

 あとこの本屋で特筆すべき点は、個人的には受験参考書の充実ぶりです。松戸駅前には大手予備校の河合塾松戸校舎があり、またその近くには予備校生寮もあることが影響しているのか、ほかの本屋と比べてもこの良文堂にはやたら受験参考書がずらっと置いてあります。私も赤本(大学別の過去問集)は全部ここで買って、関西の大学なんかよそではあまり置いてないのにここにはしっかり置いてあって非常に助かりました。

 オチらしいオチはありませんが、駅の真ん前にあるという立地上、電車で移動する前とか通勤途中に立ち寄るという意味では非常にいい本屋です。ただ松戸はやたらと本屋が多く、競争相手も多そうな気がするので内実はどうなのかなとちょっと気になっていたりもします。

2015年6月28日日曜日

千葉のマッドシティ~二十世紀梨

 「二十世紀梨」というと日本を代表す梨科の品種であると共に鳥取県の名産品(アイデンティティ)でありますが、実はこの梨がマッドシティこと松戸市原産の梨であることはそれほど知られていないような気がします。

 この梨は現在の松戸市に住んでいた1875年生まれの松戸覚之助という人物が13歳の頃、人んちのゴミ捨て場にあった梨の苗木を見つけたところ自分で育ててみて、23歳になって無事結実することで生まれました。結実した梨を売り出すに当たって名称を考えたところ、当初は「新太白」という名前だったののその後東大の教授が、「この梨は今世紀を代表するなしになる」などと言って「二十世紀梨」という名称を提案したところ採用され、現在の名称へと至ったわけです。
 どうでもいいですが昨日紹介した「21世紀の森と広場」といい、なんで松戸の人はやたらと世紀の数字を名称に使いたがるんだろう。

 そんな松戸市原産の梨が何故今では鳥取県の名産となっているのかですが、なんでも鳥取県では昔から梨栽培が盛んだったのですがある年に梨の樹木がかかる病気が蔓延してほぼ全滅みたいな状態になったそうです。その際に苗木を分けたのが松戸市の梨農家で、元を辿れば鳥取の梨は松戸にルーツがあり、松戸原産の二十世紀梨が鳥取へと伝わったことがきっかけでした。

 このエピソードは鳥取県内では広く周知されているようで、私が運転免許の合宿で京都から鳥取の日本海自動車学校へ通った際、路上教習時に私のプロフィールをみた教官が、「君、千葉県出身なんだね。鳥取は昔、千葉県の松戸から梨を分けてもらってえらい助けてもらった」と言われ、感覚的にはエルトゥールル号のトルコ人みたいな印象を覚えました。
 話は戻りますがこうした縁もあって松戸市は鳥取県の倉吉市と提携都市関係を結んでおります。また現在では鳥取県の方が生産量が多いとはいえ松戸でも梨農家はまだまだ現役で数多く、東松戸駅周辺なんかを車で走ってると梨農園が数多くみられます。

  おまけ
 上述の日本海自動車学校での教習はなかなか楽しく、指導内容もしっかりしていてとても満足できる教習所でした。しかしここでの教習の仕方が一般的だと感じてしまったのが運の尽きだったのか、後年に自動二輪免許を取ろうと流山自動車学校へ通ったものの、指導内容は聞いててわけわかんないし教官の態度も尊大に感じられたので、仮免を取る直前で、「お宅の指導はもう受けない」と啖呵切ってやめちゃいました。さすがにこういう人間はほかにいなかったのか、向こうも結構慌ててたな。

2015年6月27日土曜日

千葉のマッドシティ~21世紀の森と広場

 JR武蔵野線の新松戸駅~新八柱間を乗っていると途中で谷みたいなところに入り、眼前にやけに広い公園が広がる箇所があります。公園と言っても広さが結構半端じゃないくらい広く、街中を走ってたのが急にそんな風景へと切り替わるので見方によってはなかなか稀有な場所のように思えるわけですが、そここそが今日紹介するマッドシティこと松戸市の「21世紀の森と広場」です。

21世紀の森と広場(松戸市HP)

 21世紀の森と広場は元々堀があった場所を整備した、1993年に開園された公園です。20世紀にできたのに何で21世紀という名称を用いるんだと突っ込みたくなる気持ちを抑えて紹介を続けると、場所は先ほども言った通りに新松戸と新八柱の間、といっても私の感覚からすると新松戸と馬橋の中間くらいの位置にあって、小高い丘の上にあります。面積は50.5haあり公園としてはそこそこ広く、何よりも丘と丘の間にある窪まった所にあるので公園の中からの視界には外界が映らない点でいい意味での隔絶感があります。
 またこの公園の近くには同時に整備されたホール、博物館、図書館もあり、休日の行楽地としては及第点が得られる場所と言ってもいいでしょう。

「コスプレ聖地化計画」着々と進行中? 千葉県松戸市、愛好家集う「21世紀の森と広場」(THE PAGE)

 何気に今回記事を書くに当たって下調べをしている最中に初めて知ったのですが、なんとこの21世紀の森と広場はコスプレイヤーの撮影場所として密かな人気を得ているとのことです。松戸市のホームページ上でも「コスプレのご利用について」という利用届け出の案内ページまで設けられており、地味に整備されてるのがなんかやらしいです。
 このコスプレ撮影に使われていたという事実は本当に今の今まで私は知らず、試しにリアルマッドシティ市民である冷凍たこ焼き好きの友人にも振ってみたところ、その友人も全くこの事実を知りませんでした。京都市民が地元の寺社仏閣に実は行ったことがないというのと同じというべきか。

 そもそも松戸市をマッドシティと呼ぶようになったのもアニメでそういわれたのがきっかけで、また松戸市内を歩いていると変なアニメ絵で防犯を訴えるポスターが多数貼られていることから、地味にこの町はオタク関連と親和性が高いのかもしれません。とはいいながら露骨にオタク路線を前面に出すわけでもなくあくまで控えめにこうした活動を行っているという姿勢はなかなかに評価できるもので、出来ることなら今の路線のままマッドシティはやっていってもらいたいです。

 最後にこの21世紀の森と広場について個人的な思い出を書くと、ここは先にも述べた通りに小高い丘の上にあって、その丘に至るまでの道はまっすぐな一本道の坂道だったりします。これがサイクリングで走る上では悪くないコースで暇さえあれば6段変速のシティサイクル(ブリジストン製)に乗ってこの公園の入り口近くまで行っていました。
 確かあれは2010年の頃だったと思いますが、公園に至る坂を上り切りやれやれと一息つきながら自転車をこいでいたところ、後ろからヒュッと一台の自転車に追い抜かれました。私を追い抜いたのは小学校六年生くらいの女の子で、本当に意識の外から入ってこられるような感じで後ろに迫る気配が全く感じられないまま一瞬で追い抜かれてしまいました。

 この時何故か頭文字D的な妙なスイッチが入ってしまい、「ここでは俺がエンペラーだ(#゚Д゚)」と心の中で呟き、ペダルを踏む力を上げて女の子を一気に抜き返し、「体幹は悪くない。だがまだ踏み込みが足りんな( ゚∀゚)」とやけに上から目線な寸評を思い浮かべながらそのまま走り去って、丘の上から馬橋駅側へ降りる坂道を通って100満ボルト(当時はまだあった)に向かいました。今思うと、なんであんな大人気なく抜き返したのかわからないのと、あの女の子はその後も自転車を乗り続けているとすればいい乗り手になっただろうという気がします。

2015年6月13日土曜日

千葉のマッドシティ~戸定邸

 このマッドシティではいつもどローカルなことばかり書いていますが、今日はまだ一般受けしそうなスポットを紹介します。

戸定邸

 本日紹介する戸定邸とは松戸駅から徒歩で行ける距離にある武家屋敷の事です。武家屋敷と言ってもただの武家屋敷ではなく、元々は徳川慶喜の実弟で水戸藩最後の藩主となった徳川昭武が使っていた屋敷でした。

 まず最初に徳川昭武について軽く紹介すると、徳川斉昭の十八男(多過ぎ)として1853年に生まれた昭武は幕末の動乱のさなか、徳川御三卿の一つである清水家の家督を継ぎ清水家当主となります。清水家は18世紀に継嗣がなく一旦断絶されますが慶喜と昭武の父である斉昭が自分の息子を当主に据えて再興させたものの、片っ端から当主に置かれた斉昭の息子は夭折していき、最終的には十八番目の男児である昭武が襲封することとなったわけです。
 昭武が清水家当主となったのは1857年で、その後すぐに兄であり徳川将軍である慶喜の名代としてパリ万博へ訪れるためヨーロッパ歴訪の旅へ出てそのまま現地で留学を開始しました。しかし翌年の1867年には大政奉還、そして戊辰戦争が起こり徳川家が日本の代表政府から引き摺り下ろされたことによって昭武の欧州における立ち位置も不安定となり、結果的には留学を切り上げる形で同年に日本へ帰国します。

 日本へ帰国した昭武は水戸藩主であった兄の慶篤が死去したことを受け兄の後を継ぐ形で水戸藩主に就任します。と言ってもその後すぐに版籍奉還、廃藩置県が行われたため東京へ移住し、西南戦争の前あたりには再び欧州へ留学に出て、帰国後の1883年には隠居して翌1884年に松戸市に隠居屋敷を構えそこで長い時間を過ごしました。

 この戸定邸というのがまさにこの昭武の隠居屋敷で、聖徳大学、千葉大歯学部のキャンパス近くにある小高い丘の上に構えております。休館日でなければ敷地内の出入りは自由で、保存されている屋敷も入館料を払えば入ることが出来ます。駐車場もあるにはありますが、やけに傾斜が激しく細くうねった登り道を通ることになるので、駅からそんな遠くないので来館される際は電車で来るのがベターです。

 中にある歴史観の展示物について少し述べると、屋敷の主であった昭武ゆかりの品々と共に、その兄の慶喜ゆかりの品々も多く、というよりはむしろ慶喜関連の方がメインであるように見えます。割とこの兄弟は仲が良く、二人揃って写真が趣味だったようで撮影された写真も数多く展示されていますがその多くは慶喜の物で、掛け軸に書かれた書もたしか慶喜の物があったような気がします。知名度の点から言って多少はしょうがないと思うものの、もっと昭武もPRしてこうよと少し言いたいです。

 私はこの戸定邸にうちの名古屋だけでなく広島にも左遷されたことのある親父と一緒に、中学生くらいの頃に初めて訪れました。こう言ってはなんですがマッドシティ周辺に当たる千葉県北西部は貝塚跡はやたらあっても史跡はそれほど多くなく、その中でもまだ由緒深いと思える史跡であったため最初の訪問時から文化的な匂いを感じることが出来ました。また戸定邸は歴史的な背景と共に、小高い丘の上に狭いながらもよく整えられた庭園も備えてあるため、ちょっと時間が空いた時にふらりと訪れるのになかなか気分がよく、その後も機会があればしょっちゅう親父と共にここへ訪れていました。

 ただ文化的に悪くないスポットだと思えるものの知名度は決して高くなく、私の周囲でもここへ訪れたことのある人となるとほぼ全くいませんでした。茶道をしている人なんかはこの戸定邸の中にある屋敷を借りて開かれる茶会などに参加するなどして来る人もいましたが、そうでもない人となると存在すら知らないことも多いです。今でこそ松戸駅前に「戸定邸はこっち!」というような案内板もありますが以前はなく、ちょっと丘を登らなくてはならないのもあって目につきずらいというのもあってこちらもしょうがない気はしますが。

 最後にこの記事を書くに当たってネットで調べたところ、昭武の息子の武定が華族に列せられたことにより「松戸徳川家」という分家が生まれ、現在も続いているようです。この武定が戸定邸を市に寄付した張本人なのですが、戦前は海軍の設計畑を歩んで潜水艦の研究において大きな役割を果たすなどなかなか胸を熱くさせる人物です。

2015年5月31日日曜日

千葉のマッドシティ~ラーメン屋「とみ田」

 先日に私は松戸市にある有名ラーメン屋さんとして、私の潜伏地近くにある「兎に角」というお店を紹介いたしました。ここの店先は常に行列が出来ていてさぞ有名なラーメン屋なのだろうと思い紹介したのですが、「『兎に角』も有名店だが、それ以上に『とみ田』のが有名だぞ」と、リアルマッドシティ市民の友人が何をかいわんやと言ってきました。
 誠に恥ずかしながらそれほどラーメン、というより食に対してそれほど興味を抱かない性分なため有名ラーメン店のチェックなどほとんどしたことがなく、この「とみ田」というお店についても全く知識を持っておりませんでした。そうした反省を兼ね、先日日本に一時帰国した際にこちらのお店をちょこっと訪問してきたので、一つこのブログでも紹介しようと思います。



 まず「とみ田」がどれだけ有名なお店なのかというと、飲食店ランキングサイトの「なんとかデータベース」のラーメンランキングの項目を見てみると、なんとこの「とみ田」はこの記事の執筆時点で堂々の2位に入っております。先日見た時は3位、ついさっき見た時は1位だったので小幅ながら順位に変動はあるものの、間違いなくランキング上位の常連とも言っていいお店で全国的にも有名なお店のようです。なお先日紹介した「兎に角」は37位に入っており、全国ランキングとことを考えるとこちらも相当な有名店でしょう。



 そうした下調べを経て、空いた時間に松戸駅からやや東南側にある「とみ田」の店先へ行ってみました。時間は昼過ぎの2時くらいで、なんでこの時間帯にしたのかというと訪問してラーメンを食べるつもりが全くなかったからです。なんでラーメン店の取材なのにラーメンを食べる気が全くなかったのかという、友人情報だとこの店はガチな有名店で常に行列が出来ていると聞いており、さすがに長時間並んでまで食べたいとまでは思わず、ひとまず写真だけ撮って記事書こうと考えていたからです。
 そう考えながら店についてみると、上の写真の様に実際には誰も並んでおりませんでした。一体何でやねんと思いつつ入り口前の看板を見てみると、どうもこの日は休業日で、自宅でも作れる麺とスープがセットのお土産品しか販売していませんでした。


 できればごっつい行列でも撮っておきたかったなと思いつつカメラを回していると店の中から店員が私に近づいてきました。「げっ、撮影で注意されるかな(;´Д`)」と思ってやや身構えたところ店員はこの日は休業であるとまず謝罪し、「もしよければ上記のお土産品など如何でしょうか( ^ω^ )」と話しかけてきました。偏見かもしれませんが有名ラーメン店の店員は横柄な人が多いように思っていただけに、この店員の親切な対応を変に感じ入ってしまって言われるがままお土産品の「つけそば」を購入することにしました。
 なおこの購入時に店員へいくつか質問をしたのですが、なんでも店長がお店にこれない日は原則的に休業となってお土産品の販売だけになるそうです。また普段はどれくらい行列が出来るのかと聞いたところ、「土日であれば3時間待ちということもありますね」と話しており、なんかいろいろと考えさせられました。


 そんなやり取りを経て買ってきたお土産の「つけそば」が上記写真です。右上のラップはトッピングのねぎで、他にはスープと麺がそれぞれ入っておりました。なおこの日はお昼に「日高屋」の味噌ラーメンを既にというか2時間前に食べていましたが、時間置くのが妙に嫌だったから結局潜伏地帰ってすぐ作って食べることにしました。なんでこう変にせっかちなんだろう。
 作り方は普通の即席麺と同じでスープを温めた後に麺をお湯でほぐし、それぞれお皿に盛って完成です。


 盛りつけ後の配膳が上記写真です。スープの中にはトッピングのねぎのほか、やや見え辛いですが分厚いチャーシューも入っております。あと左上にある時計は友人が置いているものですが、実際時間より5分ほど早く設定してあるのでちょいちょい鬱陶しいです。

 準備万端整えて試食してみたところ、一言で言えば「一線を画すラーメン」という感想を最初に覚えました。一番変わっているなと思ったのは麺で、写真でもわかる通り比較的太くうどんっぽい見た目をしているのでちゃんと中までほぐれているか心配でしたが、不思議なくらいに麺の中心までほぐれており、それでいて歯応えが全く失われていないくて何で作っているのか気になりました。
 スープことつけ汁は濃い目の味つけがされており、私の舌感覚で言えばおいしいかったです。ただスープの味に関しては人によって多少好みが分かれるかなと思え、やっぱり私が気になったのは麺の方でした。

 あまり大した試食レビューになっていませんがこれは私が本当に食に興味が薄い事に端を発するため、どうかご容赦ください。ただ「とみ田」のラーメンは即席麺になって一般小売店などにも手広く販売されているため、それでよければ手に取ることはそれほど難しくはありません。実際、ヨーカドーでも売ってたし。
 最後のまとめとして、本当に今の今まで知らなかったのですがマッドシティこと松戸と、隣接する柏市のエリアは有名ラーメン店の激戦地だとラーメン通の間で見られているそうです。そこそこ長く住んでたけど案外知らなかったもんだ。

2015年5月28日木曜日

千葉のマッドシティ~創学舎

 昨日の記事の流れというべきか、今日は大学受験時に私が通っていた「創学舎」という予備校について紹介します。

創学舎ホームページ

 この創学舎というのは松戸市や柏市などの地域に教室を置く、言ってしまえば地方予備校です。今は恐らく柏教室で行っていると聞きますが、以前は高校生向けの授業は新松戸教室で行われており、私もこの新松戸教室に大学受験時は通っておりました。
 そもそも何故この創学舎に入ったのかというと、高校に進学して親から予備校は入れ、ここなら近くて比較的安いと言われたので言われるがままに入りました。自転車で通える範囲内だったし。

 講義科目は高校生向けに限れば高一と高二は英数の二教科、高三からはこれに現代文、古典、漢文、日本史、物理、化学、小論文が加わってきますが、私の時代もこれと同じでした。私は高一から入学して最初は英数、でもって高三からはたしか国語系科目と日本史、それと小論文を取っていた気がします。
 授業はここもお手製のテキスト、っていうかコピー機で印刷したものを無理やり閉じた手作り感溢れるテキストが使用されてましたが、テキスト内容は今思い返してもよく整理されていた内容で、大学に進学した後も英語なんかは折に触れて読み返したくらいです。また市販されている受験参考書についてもどれを使うべきか講師に相談すると熱心に教えてくれて、その参考書でわからない点があるとこちらもすぐ相談に乗ってくれました。

 私個人の主観で述べると、地方予備校とはいえなかなかしっかりした指導体制で、こと受験に臨むに当たっては信頼が置けるいい予備校だと思います。どの講師も毎年有名大学の受験問題を研究しており、また癖があるというかかなりキャラが濃い面々ですが、一人一人の生徒に対して非常に熱心に受験指導や相談に乗ってくれて、むしろここまで肩入れすると精神的に疲れないのかと逆に心配になるくらいの熱意でした。
 私もご多分に漏れず色々指導してもらい、特に京都の大学に通いたいと相談した所、「お前の場合は確かに一回家を出た方が良いかもな」と背中を押してくれて、決断に当たって大きな要因にもなりました。

 で、そんな創学舎ですが、多分私の本名を言えば何人かの講師は確実に私のことを覚えていることでしょう。別に目立つ気は全くなかったのですが、生来の性分というか何もしなくてもやたら目立つ傾向があり、通っていた頃はこの予備校でもかなり有名人になっていたと思います。
 具体的にどんなことをやらかしていたのかというと、授業中になんかのきっかけでプライベートの趣味はそれぞれなんだという話になり、「小説を書くこと」と自分が話したらじゃあその小説持ってきてと言われ、翌週の授業にでっかいケースの中びっしり原稿用紙積めて持って行ったら、しばらく講師の間で私の小説なりエッセイが回し読みされたそうです。なお読んだ講師の感想はというと、「どことなく坂口安吾のような雰囲気が感じられる」だそうです。多分斜に構えた態度だったからだろうな。

 こうした小説の話だけでなくてもどうも普段の授業態度や行動が目に留まっていたらしく、ある日ある講師から、「ついさっきも職員室でお前のことが話題になっていた」と言われ、どんな内容だったのかと聞いたところ、「あいつは頭がいい、でもノートに何も書かないっていう点で一致した」と言われました。
 これも私の行動の中でかなり顕著な行動で、授業中で教えられた内容はおろか、数学の途中計算式をやたらと省いてノートに書こうとしない所があります。具体的には数学の問題で出された式の後、途中式はなるべく暗算してすぐにイコールで回答を書こうとします。
 このような行動を見られて何度も講師からは途中式を書けと言われましたが、はっきり言ってその度に無視してました。別にその講師が嫌いだったわけじゃないのですが、なんかだらだらと計算式を書くのが面倒くさくて、「結果があってればそれでいい」とばかりに抵抗をし続けました。

 そんでもって極め付けは日本史の授業です。知ってる人には有名ですが私は日本史、というより歴史科目は昔からやたらと強く、小学校からずっと歴史だけは何も勉強しなくてもいつもハイスコアを叩きだしていました。多分日本史、世界史の両方をまとめていいなら、この予備校の中でも通っていた高校の中でも成績は私が一番よかったと思います。
 なもんだから、日本史の授業では実質的に私がペースメーカーとして扱われました。具体的にどんなかというと講師が授業中に誰かを当てて何か質問すると、

講師「○○、この時の人物は誰だ?」
生徒「わかりません」
講師「じゃあ××はどうだ?」
生徒「わかりません」
講師「よし、花園答えてやれ」
花園「□□です」

 という具合に、大体前二人が答えられなかったら私が最後に正しい答えを言って授業は進む形で、一種の進行役みたいな役割を演じてました。なお聞かれた質問には一回も打ち洩らさず、全部正しい答えを言っていたと記憶しています。
 またある日の日本史授業の際にも、一回だけおかしなことを言ったことがあります。

講師「このような過程を経て、アジア初の憲法である大日本帝国憲法が生まれたわけだ」
花園「先生、アジア初の憲法はオスマントルコのミドハト憲法です」

 というように、妙な釘刺しを一回やりました。後で講師も、「今まで日本史の授業を行ってきて一番ビビった」と言っていました。

 こんな具合で、割と好き放題にやらせてもらったこともあってか、まぁ楽しい予備校生活を送らせてもらいました。そういう恩もあってか大学に合格した後は購入した赤本を全て寄贈して、新年度の生徒募集を呼び掛けるチラシにも「お前の文章力が必要だ」と言われてこっちもやる気で宣伝文というか合格体験記を書いてよこしました。

 最後にちょっと本題とは外れるかもしれませんが、この創学舎ではどの講師にもとても親身に接してくれてこちらとしては本当にありがたかったのですが、こちらからしたら大学受験は一回こっきりの経験であっても、講師の側からしたら毎年のイベントで、その度に各年度の生徒たちに親身に接するとなると身が持たないのではないか、燃え尽き症候群にならないのかなと、大学に進学してから思うようになりました。親身に接してくれるのは確かにありがたいですが、生徒の側もそれに甘え続けてはならないのではないか、相談は受けつつも頼り過ぎてはならないという事実に、大学合格後に気が付いたのが私の失敗です。


 上のバナー広告の本は仲の良かった講師が書いた教育理念本です。私も読みましたが興味があればぜひ手に取っていただきたいのと、改めてみると男臭いタイトルだなぁって気がします。

2015年5月27日水曜日

千葉のマッドシティ~青沼英語塾

 地元民以外はすべて切り捨てているこの連載ですが、今日もまたマッドシティの周辺住民なら「ああ、あそこね」とわかるもののそれ以外だとちんぷんかんぷんな所を取り上げようと思います。そんな今日取り上げる場所というのも、松戸伊勢丹近くにある青沼英語塾という私塾です。

入っているビルとその周辺 


アップ写真

 青沼英語塾というのは松戸駅から徒歩数分の距離にある英語科目専門の予備校です。この塾は松戸市とその周辺では非常に有名で、以前見たネットの掲示板だと松戸周辺の現役生は市進予備校とこの青沼英語塾を掛け持ちするのが手っ取り早い受験攻略法だなどとか書かれてもいました。

 具体的にどういう塾かというと、今は増やしているようですが昔は講師が塾長ともう一人の二人だけしかおらず、受け入れる生徒数も定員が決まってて先着順でした。でもって授業はどんなかというとはっきり言えばスパルタ形式で、非常に厳しい言葉でガンガン授業を進めていくようなやり方で、質問に答えられなかった生徒に対しては「なんで答えられない!」と本気で怒鳴ることもありました。
 あと特徴的なのは使用する教材で、どれもこの塾オリジナルの教材が使われているのですがその中でも特に英単語帳は異彩を放っています。詳しくはこのリンク先を見てもらえば早いのですが、書名が何と「Final weapon」という若干中二病めいた名前で、中の内容もゴロ合わせの紹介が多かったりします。今でも覚えているのだと「Merge」の説明で、「合併?マジかよ」というフランクな言葉が確か載っていました。

 ここまで書けば見てわかる通り、ご多分に漏れず私もこの塾に通っていた時期がありました。ここは高校二年生から生徒の募集を行うのですが、英語が苦手だった私を慮ってかうちのお袋が朝一で並んで願書を出して入塾したのですが、私だけでなく同じ高校に通う近所の同級生も数人入塾してました。
 当時、クラスはAクラスとSクラスがあり英語がそんな好きでもないし得意でなかった私はAクラスを希望して入って授業にもそこそこついていけてたのですが、確か6月になって講師の塾長が授業開始と共に現れると、

「大変申し訳ないのですが、私の体調不良により今年度の授業を休講とします」

 という、かなり衝撃的なアナウンスと共に解散させられました。
 なんでも神経症の病気にかかって外に出るのも大変な状態だったそうなのですが、もう一人の講師が受け持つSクラスは通常通りに授業が進行されたのを考えると、クラス選択でミスったのかなと当時は思ったものです。ただ次年度、高校三年時は無条件で入塾できるようにするとも言われ、多少は納得いかないもののその場はそれで済ませました。

 ただ、面倒なことはこれだけではありませんでした。授業が休講となってから約二ヶ月後、確か8月だったと思いますが、青沼英語塾から休講となった代わりに市進予備校で代替の授業を行うという連絡が来ました。その連絡では市進予備校にいる講師に生徒を受け入れてくれるよう話しを済ませており、中断した箇所から英語科目を教えるよう特別クラスを作ってもらったと書いてありました。講師も適任となる人物を選んでいるということで休講中はここに通うようにと言われたので、既にほかの塾にも通っていましたが黙って市進予備校に行くことにしました。
 それで9月から通い始めたのですが、はっきり言って最初の連絡はでたらめもいい所でした。入塾料自体は連絡通りに無料でしたが、肝心の授業は中断した箇所とは全く関係なく、講師も大学生のアルバイト講師でした。別に悪い講師ではなかったものの教えられる内容はほかに通っていた塾で履修した内容がほとんどで、真新しく学ぶ内容はほぼ皆無と言ってもよかったです。そのため真実を知ってか毎週行くたびに授業に来る生徒は減っていき、私も2ヶ月くらい通って学ぶものはないと判断してやめました。

 そして翌年、高校三年となって前年の休講を詫びる手紙と共に入塾の案内が届けられました。内心この時点で結構胡散臭いと思うようにはなっていたものの親が通えと言うのでとりあえず入塾しましたが、私が入ったクラスを受け持つ講師は新しく入ってきた講師でした。
 授業自体は前年受けた塾長の物と比べるとピリピリした空気はなかったものの、何度も書いている通りによそに通っていた塾で履修済みの内容がほとんどだったためあまり学ぶものはありませんでした。そしたら一ヶ月後の確か5月、授業開始時間になったらそれまで受け持っていた講師ではなくいきなり塾長が来て、

「あの講師の授業進行は遅れが目立つのでやめてもらいました」

 と話し、別クラスを受け持っていた講師がこれからこのクラスも受け持つという事だけ伝え、新しい講師にバトンタッチして去っていきました。

 はっきり書きますがこの時点で心底見下げました。病気のため仕方がなかったとはいえ一年間の授業を休講し、通う必要のない予備校へ通わせた挙句に新クラスを受け持つ講師をいきなり引き摺り下ろすなど、なんで自分の通うクラスにばかりトラブルを起こすんだという具合に。
 何度も書きますがほかに通っていた塾の方が履修内容は既に大きく進んでました。しかし青沼英語塾の授業日とその塾の英語科目Sクラスの授業日が重なっていたため、その塾の英語科目で別の授業日にあるAクラスに私は在籍していました。塾内のクラス分けテストでは上位にいたためSクラスに行く資格は得ていたものの、このような理由から下のクラスに居続けなければならないのはおかしいと判断し、やたら引き留める親を説得し(さすがに殴ったりはしなかったが)て青沼英語塾を退塾することとしました。

 その後、私は別の塾、というか塾長とは今でもマブダチ(だとこっちは思っている)なのでもう名前出しちゃいますが「創学舎」で英語はSクラスに移籍し、そのまま大学受験を終えるまでそこに在籍し続けました。創学舎についてはまた今度記事を書きますが、青沼英語塾に関しては少なくとも私はあまりいい思い出がありません。むしろ当時はもっと怒ってもよかったかなと今でも思います。
 ただ通っていた生徒の話を聞くと英語の実力が上がったという人は多いので、通いたい人は通えばいいと思います。通いたければね。

 これで締めると愚痴っぽい内容で終わるので最後に英語教育について少し話すと、日本人が英語を苦手とするのは日本語と英語が明らかに相性が悪いということも大きいですが、それ以上に英語教育自体に問題があると私も感じます。たまに中学生向けのテキストを見るとかえって文法理解で混乱を引き起こしかねない説明の仕方がされているのを散見され、真面目に外務省と文部科学省がタッグを組むなどして英語教育の指針やノウハウを作るべきでしょう。まぁそんなこと言ってる暇あったら、自分ももっと勉強するべきなのでしょうが。

2015年5月10日日曜日

千葉のマッドシティ~東葛飾旅券事務所


 千葉県松戸市ことマッドシティネタでリアル松戸市民の友人に材料となる写真を要求した所、今回紹介する東葛飾旅券事務所の写真を意気揚々と送られてきました。
 この東葛飾旅券事務所とは読んでその名の如く、パスポートの申請、交付手続きを受け付ける事務所です。この事務所が申請手続きを受け付ける住民のエリアは比較的広く、隣の市に住んでた私も自転車で近くの伊勢丹に着けて、ここの事務所で手続きを行って交付してもらいました。

 と、正直なところこれくらいしかこの事務所について書くこと出来ないのでちょっとどうでもいいネタを明かすと現在私が持っているパスポートは2008年に発行してもらったのですが、その発行日はなんと2月29日、そううるう日だったりします。
 別に狙ってこの日に申請して取ったわけではなかったのですがたまたまこの日の発行となってしまったため、十年後の更新日は2018年2月28日という風に発行日の日付とずれてしまっております。そりゃうるう年じゃないんだから当たり前ですが、我ながら奇妙なパスポートを持ってしまったとやや反省しています。

2015年4月28日火曜日

千葉のマッドシティ~ラーメン屋「兎に角」


 また松戸市民以外には全く需要のないこの連載ですが、今日は一部のラーメン好きにも見てもらえるかのようなラーメン屋紹介記事です。
 上の写真は松戸駅から徒歩数分のところにある「兎に角」というラーメン屋の入り口前の写真です。このラーメン屋は私の松戸潜伏場所からもほど近い所にあり、駅から潜伏場所に帰る際は必ずここの前を通過していたのでそこそこ思い入れのあるお店であったりします。それで通過する際はいつも、「おっ、今日はこのくらいで済んでるんだ」などと店の外まで続く長い行列を見てはよく感想を洩らしてました。

 この「兎に角」というお店ですが、ラーメン通にはそこそこ有名なお店らしく休日ともなるとほぼすべての時間帯でお客が列を成して待っている姿を見ることが出来ます。実際にここの近くにあって私が通っているカレー屋の店主(元ラリースト)も、「この周辺だと兎に角さんが一番ですね」と断言するほど昔から高い集客力を誇り、現在もなお繁盛し続けています。
 私も過去に、たまたま松戸に来ていた大学の先輩と一緒に行列に並んで食べに行ったことがあります。看板に書かれている通りにつけ麺が人気商品なのでこれを注文して食べましたが、口うるさい先輩曰く「まぁまぁうまい」と太鼓判を押し、私も人気店なだけあって確かにおいしいというため息が洩れました。味はやや濃口で、スープも割と濃厚だったと記憶しています。

 味覚は人によって異なるので誰もがおいしいということは恐らくないでしょうが、ひとまずほかの人にもおいしいお店だよと勧められるラーメン店ではあるので、興味のある方は寄ってみるのもいいかもしれません。

2015年4月12日日曜日

千葉のマッドシティ~レッドロブスター新松戸店

 この連載の前回記事では「ダイエー新松戸店」というまたローカルな場所を紹介しましたが、今日はそれ以上にローカルさを増す場所とでもいうべき、ダイエー新松戸店と道路を挟んで向かい側にある「レッドロブスター 新松戸店」を紹介します。まず間違いなく地元民じゃない限り全く需要のないネタですが、個人的に書かずにはおれません。

Red Lobster(本サイト)
レッドロブスター(Wikipedia)

 知らない人もいるかもしれないので先にこのレストランの説明から始めます。
 「レッドロブスター」とは米国発祥のレストランチェーンで、その店名通りにロブスターを主体としたシーフード系の料理を提供しており全米で約700店舗が展開されています。日本国内ではセリュックスホールディングス傘下のレッドロブスタージャパンが運営しており、ホームページで確認する限りだと現時点で全国に23店舗が展開されているようです。
 レストランとしての特徴としては先ほど述べた通りにシーフード、特にロブスターやカニといった甲殻類系の食材を使った料理が中心で、こうした食材を使うためか料理はやや高めの単価設定となっており、レストランチェーンとしてはハイミドルクラスとも言うべきグレードのお店と言えます。

 今日紹介するレッドロブスター新松戸店はダイエー新松戸店、というよりはその横に併設されてある流通経済大学新松戸キャンパスと道路を挟んで向かい側に位置しており、比較的人通りの多い道路沿いにあります。ちょうど目の前が十字路となっており、一階部分は柱を除いて駐車場で、店舗自体は二階に設置されています。

 私がこの店舗を訪れていたのは子供の頃で当時に複数回訪れているのですが、その中でもはっきり覚えていることとしては姉貴の誕生祝いで家族で行った日の事です。うちの姉貴は子供の頃からやたら値段の高い甲殻類料理が好きだったので好きなものを食べさせようという両親の配慮だったと思いますが、当時から私(多分7歳か8歳)はシーフード系料理がそんなに好きではなかったのでこの時の料理にはそれほど手を付けてなかったと思います。その後、この姉貴の誕生祝い以降は何故だか訪れることがほぼなくなってしまったのですが、料理の値段が高いこともあるだけに、もしかしたら不況の煽りからうちの親父の給料が減らされてこの店に行き辛くなったのかなと勝手に推測しています。
 あと通っていた当時についてもう一つ付け加えると、この時はそこそこ人気もあったのかよくテレビでCMも打たれていました。どんなテレビCMだったか映像はほとんど覚えてないものの、CMの最後に流れる、「レーッドロッブッスター♪」というサウンドだけはやけに耳に残っており、確か柴田亜美の漫画「南国少年パプワ君」の2巻で真っ赤に焼けたザリガニが歌ってました。

 正直に言うと子供の頃は数回訪れていたものの小学校の中学年以降は一度も訪れていません。にもかかわらずなんで紹介しようとするのかというと、私が記憶する限りだとこのレッドロブスター新松戸店は少なくとも過去20年以上に渡って、外装に全く変化がないまま営業が続けられているからです。何が言いたいのかっていうと、周囲の風景はダイエー新松戸店を含めて時間と共に大きく変化しているのに対し、何故だかレッドロブスターのある一角だけは20年前の風景と何一つ変わっておらず、変化があまりにも無さすぎて改めて考えると不思議な店だと思えてきたからです。
 どれだけ変化がないのかというと過去20年間に途中途中でペンキの塗り直しなどはされているのですが、色使いといいオブジェの配置といい外装には全く変化がなく、多分同じ角度から撮った10年前と現在の写真を見比べてもほとんど見分けがつかないのではないかという気がします。周辺にある店舗なんかはダイエー新松戸店を含めて改装されたり、店がつぶれた後に新しいお店が新規開店したりとそれなりに変化が見られるのですが、何故だかこの店だけはずっと同じ姿のままであの場所に鎮座し続けています。こんなお店、京都にも少ないぞ……。

 こう言っては失礼かもしれませんが、レッドロブスターのようなやや高めのレストランはデフレ期において一番煽りを受けやすく、この時期に潰れやすいレストランなのではないかと個人的に思うのですがこのお店は潰れることなく、また大規模な改装をされる事もなくずっと営業を続けています。私はよく自転車でこの店の前を通過するのですが、小学生だった頃、中学生だった頃、高校生だった頃、大学生だった頃、社会人になった後もこの店のある一角の風景だけは何一つ変化がなくここまで来るとかえって不気味なくらいです。むしろ、一体何故変化が全くないのか理由を聞いてみたい。
 こんなことを書いても新松戸周辺に住んでいる人以外はピンと来ないでしょうが、逆を言えばこの周辺の住民からすると、「言われてみるとそうだ、あの一角だけずっと昔のまんまだ!」と興奮気味に反応してくれることでしょう。少なくとも、リアル松戸市民の私の友人はまさに上記のような反応をしてくれました。

 まとめとしましては、「新松戸にはびっくりするくらい変化のないレッドロブスターがある」ということをここで訴えたかったわけです。常連客でもいるのかなぁ、あの店。

2015年4月7日火曜日

千葉のマッドシティ~ダイエー新松戸店

 リアル松戸市民の友人がやたらとこのマッドシティシリーズを応援してくれ、この連載に出てくる各名所の写真をよく撮影して送ってくれています。先日もこのまえ紹介したプラモ屋の「わらそう」の跡地写真を送ってもらい、リンク先のわらそうの記事に友人が撮ってくれた写真を追加しておりますので興味のある方は是非閲覧ください。
 そんなわけでまた今日も懲りずにマッドシティ。今日は松戸は松戸でも、JR松戸駅から北松戸、馬橋を挟んで三駅先にある新松戸の名所を紹介します。

ダイエー新松戸店(Wikipedia)
ダイエー新松戸店店舗ホームページ

 もう隠す必要もないし再び踏むこともないだろうから明かしますが、私の実家は流山市の南流山というところにあります。この南流山からJRで一駅行った先が新松戸だったため、松戸とくると市役所のある松戸市中心部よりも実はこっちの新松戸の方が案外馴染み深かったりします。その中でも特に今日紹介するこのダイエー新松戸店は、流山にイトーヨーカドーが出来るまでは近隣にある唯一の大型スーパーだったため、小学校低学年くらいの頃まではほぼ毎週末通っていたような気がします。
 今回私が何でこのダイエー新松戸店を紹介しようと思ったのかというと、この店舗はかなり長期間にわたって営業を続けていることに加え、この間に何度か大規模な改装を行っていてその変遷を辿るだけでそこそこ歴史が感じられ楽しいからです。

 この新松戸店の開店は1981年でなんと私が生まれる前です。私は物心ついたころから南流山にいましたがそのころには新松戸駅周辺のみならず流山市からも常連客が通っており、週末ともなると家族連れで大いににぎわっていたのを今でも覚えています。実際にこの新松戸店はダイエー系列の店舗としても売り上げの大きい店舗だったらしく、リンク先のウィキペディアの記事によるとバブル期の1991年時の売上げはダイエー系列内で7位、スーパー業界でも18位という堂々たる記録を残しています。現在の売上げはちょっと調べてみたもののわかりませんが、2004年にダイエーが経営破綻して以降は全国各地で系列店の店舗閉鎖が相次いだものの、この新松戸店に関しては閉店の噂が全く出ずに今も営業し続けていることから察すると悪くない売上げなのではないかと推測します。

 ちょっと本筋から外れますが、何故この新松戸店の売上げがいいかについてはいくつか仮説があります。まず開店当初は先にも書いた通りに競合店が周囲に少なかったことが何よりも大きいですが、それと同時にもう一つ、この新松戸に住んでいる市民の平均所得がそこそこ高いと思われることも大きいと推察しています。知ってる人には有名ですが新松戸は日本の宇宙開発関連団体の社宅がたくさんあり、実際街中歩いていてもいろんな意味で余裕を感じさせれる人が数多く見受けられます。友人とも協議しましたが恐らくあの一帯の平均所得はかなり高いように思われ、購買力もそれに比例して高いため新松戸店の売上げも良かったのではと見ています。

 話しは戻ってまず私の子供時代の新松戸店について話しますが、時代的にはバブル期で、またほかに大型スーパーというか競合店がなかったこともあって土日は文字通り人でごった返すお店でした。私もよく両親に連れて来られていたのですが専らいる場所と言ったら当時2階にあったおもちゃ売り場で、ここではよくファミコンゲームのデモプレイやゲーム大会が開かれており、デモプレイではドラクエ3がやられてて、ゲーム大会では「忍者龍剣伝(確か3)」を4人が同時にプレイしてクリアを競っていたのを覚えています。

 この時代の新松戸店にあったもののその後になくなってしまったものとして大きいのは、なんといってもスケートリンクでしょう。このスケートリンクは「新松戸アイスアリーナ」といって開業当初から併設されており、リンク横にあるファーストフード店の「ドムドムバーガー」にはスケート靴を履いたままリンクから買い物することが出来たのがやけに印象に残っています。
 前の記事にも書きましたが、このスケートリンクには幼少の頃の町田樹元フィギュアスケート選手も通っていたそうで、私自身も小学生の頃はたまに友人と連れ立って遊びに行ってたのでもしかしたらニアミスしてたかもしれません。ただこのスケートリンクは2002年に閉鎖が決まり、リンクを含む建物は取り壊されその跡地は駐車場になりました。

 新松戸店には元々、店舗内にタワー駐車場があり、さらに屋外にも広い駐車場が設けられていたのですがスケートリンクをぶっ潰した後にも駐車場をまたさらに作ったので、当時は駐車場だけでやけに果てしなく広くて逆に見ていて寂しさを感じました。ただこの果てしない広さはそれほど長い期間は続かず、元々あった駐車場とスケートリンク跡地はどうやら土地ごと売却された模様で、2004年には流通経済大学がこの土地に新松戸キャンパスを設置して現在に至っています。
 やはり大学が来るとその影響も大きいもので、私の子供だった頃と比べてダイエー周辺には若者が数多く歩くようになりました。もっとも見ている感じだとそれほどマナーは悪くなく、大学生にとっても近くにダイエーがあってそこそこいいキャンパス環境なんじゃないかと勝手に思ってます。

 最初にも書いた通りに、子供の頃はほんとにこの新松戸店にはよく訪れていましたが流山にイトーヨーカドーが出来てからはほんとに行く機会が一気に減りました。大体いつも自転車乗って新松戸方面を走っている際に横を通る度に、「まだ続いているんだなぁ」なんて思うわけですが、ここまで街に馴染んでいると下手すりゃ自分が死んだ後も続いているんじゃないかとこの頃思います。
 なおこの新松戸店の1階にはテナントでケンタッキーが今でも入っていますが、リアル松戸市民の友人と確か3年半ぶりの再会を果たした晩、別のお店で飯食った後にここのケンタッキーに入ったのを覚えています。

2015年3月27日金曜日

千葉のマッドシティ~縁のある有名人

 また本題と関係ありませんが昨日勤務先の工場に警官二人が来て、何でも先日に工場近くの川で死体が見つかったので何か心当たりはないかと尋ねて情報提供を呼びかけるチラシを置いて行きました。チラシによると死体は壮年男性で身長は162センチ。赤いジャンパーを着ていてその写真もついていましたが、有力情報提供者には1万元(約20万円)を出すと書かれてあったので殺害されたような跡でもあったのかもしれません。ちなみに同僚たちは、「うわー死体だって。どうしよー」などと女子高生みたいにちょっと盛り上がってました。

 そういうわけでまたマッドシティ。毎回、地元の人間以外を置き去りにしたネタばかりを展開しているので今日はもうちょっととっつきやすく松戸市に縁のある有名人をいくつか紹介しようと思います。

松戸市出身もしくはゆかりの有名人(Wikipedia)

 正直な所、私の記事読むくらいなら上のウィキペディアの記事読んだ方が早いだろうし詳しいでしょうが、ひとまず松戸市に縁があって私もそこそこ知っている人を幾人かピックアップして紹介します。

 まずスポーツ選手の枠で語れば、阪神タイガースの現監督である和田豊氏の名前が私の中で真っ先に挙がってきます。和田氏は松戸市出身ですが高校は別の市の高校に通っており、その高校では「ガンダムF91」の主役であるシーブックの声優をしていた辻谷耕史氏と、「少年アシベ」にでてくるアザラシのゴマちゃんの声をしていたこおろぎさとみ氏と同級生だったようです。ちなみにこおろぎ氏はゴマちゃんの収録中、喉から血を出したと聞いております。
 同じ野球枠だとかつての西武のエースで現在は千葉ロッテに在籍する涌井秀章選手も地味に松戸市出身です。また松戸市出身ではないものの、新松戸にあったスケートリンクにはこの前引退したフィギュアスケートの男子選手の町田樹氏が幼少の頃に通っていました。

 次に芸能人枠だと私が反応できる名前は安倍サダヲ氏、高木美保氏、あとラッシャー板前氏がウィキペディアのリストから上がってきます。なんでこの三人なんだろうという気もしますが、この三人以外だといまいちピンと来ないのが本音です。あと押切もえ氏も一応反応できるが、彼女は今どこで何やってるんだろう?
 文化人の枠だともう少し反応できる人が増え、「どうぶつ奇想天外」などで活躍された千石先生こと千石正一、女性宇宙飛行士の山崎直子氏など著名な人物も名を連ねています。特に山崎氏に関しては松戸市も地元の英雄のような扱いをしていて、松戸駅内の通路には常に山崎氏が写ったポスターが貼られてあるくらいです。

 そんな有名どころの下、既にウィキペディアのリンク先を見た方ならもう察しが付くでしょうが、先の二人を軽く凌ぐような超大物の名前がさりげなく書かれています。そう、小保方晴子氏です。去年の騒動の際には彼女が松戸出身であることがネットの掲示板に書かれるたびに、「またマッドシティ出身かよ」などと書かれることもあり、「またってなんだよ……」なんて妙な感想を覚えました。
 それにしても去年の今頃はSTAP細胞でちょうど大騒ぎし始めた頃でしたが、今年も既にみつきも過ぎているにもかかわらず、佐村河内、野々村前議員といった世間の関心を一挙にさらうような人物が一人も出てきていません。当時からも実感していましたが去年はなんかこう、十年や二十年に一度歩かないかってくらいの人材の当たり年だったんだなぁとしみじみ思います。

2015年3月14日土曜日

千葉のマッドシティ~すぐやる課

 どうでもいいですがこのところやけにネット回線の通信速度が極度に落ちています。むしろ先週までが春節の長期休暇の影響を受けてやけに速度が速かったこともありますが、VPNの速度で以前は秒速最大で200kb出てたのが今はどうあがいても40kbしか出ず、現在に至っては20kbが関の山です。地味に調べものとかで影響でるからどうにかしてもらいたいところですが、こっちの通信会社はまるで仕事しないからなぁ。

 そんなわけで本題に入りますが、マッドシティこと松戸市といって何が一番有名かとなるとSTAP細胞を生みだした科学者の出身地であることや、女子大生が殺害され放火された事件があったとか色々ありますが、恐らく全国区で聞くとなると今日取り上げる「すぐやる課」だと思います。
 このすぐやる課というのはドラッグストアチェーン最大手のマツモトキヨシの創業者である、松本清が松戸市長時の1969年に松戸市役所で創設した部署の事です。マツキヨについてはまた今度解説しますが、当時から「お役所仕事」と呼ばれるほど対応の鈍かった市役所の仕事ぶりにメスを入れるため、住民からの要望を市長直轄でダイレクトに応えるために作られました。

 当時の日本は革新市長や革新知事など地方行政改革に注目が集まっていた時代ということもあり、このすぐやる課もメディアなどで大きく報じられるなどして全国区で有名な部署となりました。私個人の評価をここで入れると、案外市役所に相談したいことがあってもどの部署に連絡すればいいのかわからないことが多いだけに、こうした万請負所みたいな部署が一つの窓口となって他の部署とも連携していければなかなか有効な改革だったのではないのか思えます。
 実際、この松戸市での創設を受け似たような部署を創設、またはそのまま同じ「すぐやる課」を創設する自治体も出ており、ウィキペディアの記事によればデンマークのグラズサックセ市も導入したそうです。

 それでこのすぐやる課ですが、現在もなお自分の潜伏地からほど近い所にある松戸市役所内に存在し、活動を続けています。やることは先ほどにも書いたように万請負的な所があるのですが、市役所職員もやってくるカレー屋のおじさん(生粋のラリースト)に話しを聞いたところ、ハクビシンだとかスズメバチなどの害獣、害虫の捕獲、駆除が主な仕事になっているそうです。そのほかの雑務も多いようですが、机仕事ではなく実行部隊的な仕事が多いため話を聞く限りだとなかなか大変な部署とのことだそうですが、もしできるのであればクリミアにまで行って余計なことをしでかしてくる鳩も駆除してもらいたいものです。

2015年2月28日土曜日

千葉のマッドシティ~わらそう(模型店)

 かつてあだ名が「ビンラディン」だった中東系な顔立ちの親父にこの連載どうよと聞いてみたところ、「そんなに松戸が好きだとは知らなかった」とやや返事に困る回答が来ました。好きか嫌いかっつったらそこまで好きではなく、ただそこそこ書ける思い出話が多いというのが本音です。なお一番思い入れがある街はどこかとなると変な話だけどやっぱ田辺かなぁ、わかる人だけわかってください……。
 そういうわけで再び始まるこのマッドシティシリーズ。今日は恐らく私だけでなく、少年時代に松戸近くで住んでいた人なら確実に覚えているであろう一つの模型店を紹介します。その模型店というのも、「わらそう」というお店です。

 わらそうは松戸駅から歩いてすぐ行けるほど近い距離にあった模型屋です。今でも「松戸 わらそう」とネットで検索を多くの人間がその存在を懐かしむページが引っかかるほどですが、実際にその在りし日を見ていた私からしても非常に思い入れがあるお店でした。私自身は松戸市に隣接した自治体で育っておりますが、子供の頃からプラモデルを買いに行くとなると家の近くにある模型店も使う一方、友達と一緒にわざわざ電車を乗り継いだり、自転車漕いだりしてまでもこのわらそうへ訪れていました。

 一体何故それほどまでにこのわらそうは多くの少年(+おっさん)に親しまれたのか。理由はいくつかあるでしょうがその中でも特に大きなものとして私が挙げるとすれば、その広大な店舗面積とそれに付随する圧倒的な品揃えの良さでしょう。わらそうの店舗はちょっとしたファミレスくらいに広くて模型店にありがちな狭い店舗内に模型の箱をぎっしり積み重ねるといったことはせず、整然と商品を並べて通路も大きく取り、この一点だけでも他の模型店とは一線を画しておりました。
 またそれだけ広いこともあって軍艦や自動車といった定番プラモはもちろんのこと、ガンプラからミニ四駆といった子供向け、そして大人向けの鉄道模型まで幅広く、多彩なジャンルの模型を一つのお店で揃えていました。そのため親子連れが来ても子供はミニ四駆、父親は鉄道模型などを互いにじっくり見られるので、実際に私とビンラディンだった親父もよく連れ立って一緒に訪れていました。

 私がこのわらそうで主に購入していたのはご多分に漏れずガンプラがメインでしたが、大体小学校中学年くらいから歴史に興味を持ち始め、その頃辺りからは城郭のプラモに興味を持って実際に買って作ったもので確実に覚えているのは和歌山城、松山城、安土城、姫路城といったところです。なおミニ四駆は一応私の頃も流行りましたがどうにもはまることが出来ず、一台だけ作ってそれこっきりでした。
 そのほかわらそうで購入したもので覚えているのは、名前はさすがに失念しましたが一隻だけタミヤの駆逐艦も小学生時代に作っています。ただ当時はミリタリーにははまっておらず、またその駆逐艦を作るのにも難儀して「その次も」というチャレンジ心も起こらなかったので折角の機会をふいにしてしまいました。もうちょっといろんなのを作って学んでおけばよかったものを。

 その後、私が中学生になるとこのわらそうに行く機会、というより模型を作る機会がすっかりなくなってしまいました。大きな理由はありませんが周りでも作っている人間は減りましたし、自然と離れていったような感じです。その後大学生になって京都行って、長期休みの時に何気なく自転車で走っていたら、「あれ、ないじゃん?」と気が付き、その時になってわらそうが閉店したことを知りました。もしかしたら大学生じゃなく高校生の頃だった可能性もありますが、ちょっと記憶が曖昧です。
 なおビンラディンだった親父に「わらそう潰れたで」と報告したら「ほんまか!?」とえらくびっくりした反応されただけに、親父も相当思い入れがあったんだと思います。

 このわらそうの閉店後、この店が松戸近郊の少年たちの間で絶大な支持を得ていたことに気が付いたのはひょうなことがきっかけでした。私の知恵袋的な友人はこの松戸市の出身で私の家とも近いことからお互いに成人後、なにやら地元トークで盛り上がり、その際にこのわらそうも上がってきました。

花園「わらそうって店、覚えてる?」
友人「覚えてるも何も、俺の兄貴がそこでバイトしてた」

 やはり同郷で同年代ということもあり、この友人もわらそうを何度も利用していたそうで、また上述のように親類がアルバイトしてたとのことでこの店のことを強く覚えていました。今回この記事を書くに当たって何か覚えてることあると聞いたところ、「道路に面したショーウィンドウの中にある等身大ヨーダがやけにリアルできもかった」と返してくれてそれを聞いて私も、「ヨーダとかいたよなぁ。めっさ懐かしいわぁ」とちょっと盛り上がりました。なお、確かそのショーウィンドウの中にはC3-POなどほかのスターウォーズのキャラも等身大で入ってました。

 最後に模型の話をもう少しすると、中学高校大学時代は一切作らなかったくせに何故か社会人になってからまた興味を持ち出して、ランエボを始めとするスポーツカーの製作に一時期はまっていました。やはり改めて模型を作ってみると自動車の構造について理解が深まり、また指先の動きが脳の活動と完全に一致するといえるような、集中力を伴う模型の製作作業は久々にやると非常に新鮮な感覚をもたらしてくれました。いっぱい作る必要はありませんが、たまに作る分にはすごくいい気分転換になるのでまだ少年の心を失っていない男性の方には実はお勧めです。

かつて「わらそう」のあった土地は現在駐車場に

どうでもいいけどこの辺り駐車場が多過ぎ

横にある「カプリチョーザ」は昔も今も現役です

<追記>

 コロナの影響か、2020年10月12日をもって上の写真のカプリチョーザが閉店したとのことです。松戸仲間の友人がどうやって見つけたのか知らないけど、上記ニュースを教えてくれました。
 なおカプリチョーザに私はリアル髀肉の嘆状態だった2013年に1回だけケーキセット食べに寄ったことがあります。近くに通っている他の喫茶店があったためその後カプリチョーザに行くことはありませんでしたが、雰囲気や味は悪くなかったことをよく覚えています。


<2023年8月1日追記>

 先ほど松戸のソウルメイトから、わらそう跡地にマンションができると向こうから知らせてきました。これでわらそう跡地で再興する夢も絶たれたということになり、寂しさもひとしおです。「わらそう跡地」みたいな石碑でも立ててくれないかなぁ( ;∀;)

2015年2月23日月曜日

千葉のマッドシティ~おかじま電器編

 松戸駅から常磐線で一駅先の北松戸駅、二駅先の馬橋駅の間にある国道6号沿いにはかつて、地元民なら一度は使ったことがあるであろう家電量販店がありました。その名は「おかじま電器」で、途中から「100満ボルト」という名称に変わりました。

100満ボルト|店舗情報

 上記サイト内にある「松戸店」というのがここで話す店舗です。いつ頃に出来たのかはわかりませんが私が物心づいた90年代初頭には既にあり、周囲に同じくらいの規模を持つ家電量販店がそれほど多くなかったために何か購入する際はほぼ確実にここを訪れていました。この店は一階と、半地下一階の二層建てとなっており、一階では主に冷蔵庫やテレビなど大型家電、半地下一階ではパソコンやそのサプライ品などを多く置いてありました。

 なんでこんなどこにでもありそうな家電量販店を取り上げるのかというと、私が小学生だったちょうど20年くらい前、新品のゲームソフトを買うとなるとほぼ確実にここを利用していたという思い出があるからです。実際に買ったソフトで覚えているのだとロックマンの5や6で、うちの姉貴はスーパーファミコンの「かまいたちの夜」を誕生日プレゼントとしてここで買ってました。にしてももうちょっと女の子らしいものを選べよという気もしますが。
 その頃はゲームもよく売れていた時期ということもあって一階の半分くらいのスペースがゲーム売り場に使われており、中古販売もしていて平日はともかく土日ともなれば結構な数の子供や親子連れが訪れていたと記憶しています。今でこそゲームソフトはネットでダウンロード購入も出来ますが、昔はまだ販売店も限られていて中古の安いソフトを捜すとなるといくつもの店舗をはしごして捜さなければならず、そういう意味で「ここなら確実に置いてあるだろう」というこの店舗はなかなかにありがたいお店でした。

 しかし時を経るにつれて近隣の国道沿いには同じような家電量販店がどんどん増えていきました。現時点でもコジマ電機やヤマダ電機が同じ国道沿いに林立して客を奪い合っていますが、それ以上にこの「100満ボルト」にとって大きな存在だったのはわずか数十メートル先に出来た「PC DEPOT」だったと思います。PCデポではもちろんパソコン関連がメインで家電は取り扱っていませんでしたが、チラシなどでは露骨に「100満ボルトさんには負けません」などと書くなど対決姿勢を打ち出され、実際私もパソコン関連となるとPCデポの方に行く機会が多かったです。それでもたまに「100満ボルト」を見ると結構いいパソコンが置いてあって、親父にあげた東芝製ネットブックなどはここで購入しました。

 話は戻りますがそのようにライバル店が増えていったのと、あと折からの家電不況もあって「100満ボルト」を運営するサンキューは2013年9~10月に千葉県内の店舗を一斉に閉店させ、この松戸店もあえなく閉店となりました。ちょうどこのころはまだ日本に帰国中だったのと、松戸の潜伏地へ引っ越す時期と重なったので閉店セールに赴き、シャープ製のピンクの冷蔵庫を最後に購入しました。閉店時は本当に子どもの頃からずっと存在し続けてきた店舗だっただけに一際さびしく、また国道6号沿いを自転車で走る際のあの風景がなくなるということに少なくないショックを受けました。
 その後、店舗跡はしばらく放置されていましたが、私が中国に行ってからなんかテナントが入っていたようですがそれもすぐいなくなり、とうとう建物ごと撤去される運びとなったそうです。その現場を私の友人がわざわざ撮影してきてくれました。



 こうして写真で見ると、本当に何もなくなってしまってという感想が持ち上がってきます。割とこういう店舗の閉店とかには冷淡な態度を取ることが多い私ですが、この旧おかじま電器に関しては子供の頃からの強い思い入れがあっただけについつい思い出に耽ってしまいます。

2015年2月19日木曜日

千葉のマッドシティ~松戸駅前編

 まさかのマッドシティシリーズ化です。松戸市に縁もゆかりもない方々からすれば退屈な記事でしょうが、この狂った街の記憶と記録を存在するうちに残しておきたい気持ちもあるのでどうかご容赦ください。

 さて松戸市で市役所の置かれている市政地は言うまでもなく松戸ですが、その市役所の最寄り駅に当たる松戸駅というのはお世辞にも評価は高くありません。交通の便に関しては常磐線と京成線の乗換駅になっており都内にも30分程度で23区の主要な所まで移動できるので悪くはありませんが、問題なのはその駅前の雑然ぶりで、行ったことのある人なら「ああ、あれね」とすぐに合点がいくかと思います。
 具体的にどのような状態なのかというとまるで整備がなっておらず、小さい店舗や中途半端なビルが乱立している上に線路をまたぐ高架歩道は人でごった返しやすく、一言言えばごちゃごちゃし過ぎているということに尽きます。出口は東口と西口があり、西口はまだ整備が進んできてバスターミナル前が一般乗用車とバスと歩行者がちょっと入り乱れて通行に戸惑う点はあるもののまだまともですが、もう片っ方の東口はちょっと目も当てられない状態で、中途半端にイトーヨーカドーが近くにあるせいもあって買い物客やら通勤客やらで普通に歩いてて鬱陶しくなってきます。

 なお東口近くにあって高架歩道とも接続している良文堂という本屋は品揃えもよく、特に受験参考書が充実していて高校時代はよく利用しました。ただこの店、5階建ててセクションごとに回数が別れているのですが、どの階も店舗が狭くゆっくり本を選ぶのには難があり惜しい所です。最近は自分も伊勢丹内にあるジュンク堂の方が潜伏地から遠いのに通う回数が増えてるしな。

 話は松戸駅前に戻りますが、東口にはまずイトーヨーカドーがあり、そのほかドトールコーヒー、漫画喫茶、居酒屋、パチスロ屋、メガネ屋、ミスタードーナツ、ゲームセンター、などとあらゆる種類の店舗が目白押しで、さりげなく小さい個人商店も軒を連ねています。あと地味に厄介なのが小学生を対象とした予備校も近くにあり、金曜の夜とかになると授業を終えて出てくる小学生が大挙して狭い道路を占領することもあるのでもうちょっと送り迎えにやり方あるのではと思えてくるほどです。
 確かに帰宅がてらに飲食店へ寄ったり、買い物したりには便利なのですが、やはり駅利用客がそこそこ多いにもかかわらず歩道があまり整備されてなく、細い路地が入り組んでて飲食店などはそこへ無理矢理運搬の車を通すので混乱に拍車がかかっている状態です。しかも松戸市役所に行くには東口から通るので、市役所勤務の人間も地味に多くて侮れません。

 一体何故松戸駅前がこのような乱雑ぶりを見せるようになったのかというと実は理由があり、実際に細かく検証したわけではありませんがどうも暴力団が一部の土地を保有しているため区画整理が進まなかったと言われています。この噂は私が幼少期だった頃より聞いていたのすが、近くにある喫茶店の店員と話をしたところどうもこの噂は事実らしく、暴力団のせいで駅前の整備が進まず近隣の自治体と比べ開発が遅れていると嘆いていました。
 もっとも暴力団だけが原因というわけでもなく、松戸は1970年代の高度経済成長期に街づくりが進んだ都市でもあり、その影響からかビルや住宅が後進の都市と比べ数世代古いまま残ってしまっているというのも大きいと私は考えています。要するに、ビルトアンドスクラップでスクラップの方が進まず古い建造物が軒並み残ってしまっているということです。

 ただそんな松戸駅前もこのところはようやくというか再開発がいくらか進んでき始め、特に松戸駅東口からやや北に向かった先では古いビルなどが取り壊され、大型マンションの新規建設や分譲が相次いでいます。この点について私が潜伏時代に通っていたカレー屋の店主に、「暴力団もようやく土地を手放しはじめたのか?」と理由を尋ねたところそうではないと否定され、「直接的な原因は東日本大震災です」という思いがけない答えが返ってきました。
 なんでも2011年の東日本大震災でこの地域にあった古いビルでは倒壊こそなかったものの軒並みひび割れが起こり、そのまま使用することが出来なくなったために取り壊しが進んだとのことです。以前からあった人気飲食店もこれらの影響で店舗を改装、または移転が進み、ここ数年で大分風景は変わったという貴重な情報をもたらしてくれました。

 実際に行ってみればわかりますが線路沿いだとコインパーキングがやけに多く、東口前の雑然ぶりと比べるとやけに視界が広がっています。またこれは東日本大震災の大分前に既に潰れておりましたが、以前は土屋家具というお店があった松戸市役所前にある巨大な店舗兼集合住宅も昨年になってようやく取り壊しが行われました。この取り壊し工事は2013年末辺りから始められましたが完全に取り壊されるまでには半年以上の時間がかかっており、「中国だったらこんなの一週間でたたむってのに日本は仕事が遅いな」などという妙な感想を当時に覚えています。

2015年2月12日木曜日

千葉のマッドシティ~映画館編

 昨日の記事でも触れていますが、私の日本潜伏地ことリアル隠れ家的賃貸住宅(マジ冗談になってなくて笑えない)は千葉県の松戸市にあります。知ってる人には早いですがこの街は最近、「千葉のマッドシティ」と呼ばれており、その理由はアニメ「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の中でこの松戸市のことを「マッドシティ」と呼んだことがきっかけだったそうです。恐らくこの作品の制作者は「マツドシティ」と「マッドシティ」の音と文字が近いことからこう呼んだのでしょうが、なかなか語呂がいいのと、どうもいくつか全国区で報じられたことのある殺害事件があった街という印象がぴったりはまり、如何にも犯罪都市っぽい雰囲気を持つこの「マッドシティ」というあだ名が定着したのだと思います。
 なおこのマッドシティという言葉ですが、元々はコナミのアクションゲームのタイトルだそうです。それと松戸市の犯罪率ですが、ネット上では冗談めかして若者の9割超が暴走族だとか内戦状態だとかいろいろ書かれてますが、さすがに毎日死人が出るほどはヤバくはないです。過激派みたいな内容を毎日書いてる私が住んでてていうのもなんですが。

 そんな松戸市ですが私自身が住んでいたのは2013~2014年の一年足らずではあるものの、実家が隣の市にあって実は子供の頃から買い物なり遊びなりサイクリングなりでしょっちゅう訪れてて非常に慣れ親しんだ街だったりします。微妙な裏道とかも大体把握しているし、街がどのように変化していったかも持ち前の記憶力で案外覚えてます。
 特に際立って印象に残っている松戸市の変化として、私の中ではかつて存在した二つの映画館が挙がってきます。どちらも松戸駅近くにあった映画館で、一つは松戸輝竜会館、もう一つは松戸サンリオシアターで、どちらも既に閉館しております。

 輝竜会館の方は1959年に建設されてその後幾度か改装をされた映画館でしたがはっきり言って非常に狭く、ガラガラの時ならともかく人気作なら入り口が人でごった返し、正直言って今思い返すとかなり危険なレベルだったのではと思います。しかし東映アニメフェアなど子供の時分に見たい映画は何故か近くの映画館ではこの輝竜会館でしか公開されず、内心行きたくないと思いつつ小学生だった私は友達とこづかいを片手に見に行き、上映終了後にこれでもかというくらいの子供にもみくちゃにされながら脱出していたことをよく覚えてます。パンフレットを買おうものなら争奪戦みたいになってたし。
 なお松戸市出身の友人にこの映画館のことを話すと、「俺はあの輝竜会館って名前を聞いただけで映画を見に行くのをやめてた」と話しており、友人もあの人でごった返す異常な構造を嫌ってたようです。

 対する松戸サンリオシアターは1980年、当初は「松戸サンリオ劇場」という名前でオープン。1993年になってビルが移り「松戸サンリオシアター」と名前を変えたのですが、私が高校生までの間は映画を見に行くとしたらいつも決まってここに見に行っていました。特に小学校低学年の頃はやたらよく映画を見に行っており、うちの姉貴と二人でこづかいもらって見に行き、帰ろうと松戸駅で切符を買ったら姉貴が間違えてJRではなく京成の切符を買ったりして子供心に「頼りにならねぇなぁ」と思ったりしました。
 このサンリオシアターは周辺の店舗との提携活動をよくしていて、たとえば近くの本屋なら映画料金を割り引いたチケットが買え、近くのマクドナルドの二階店舗内にはよく公開中の映画のポスターが貼られていました。貼られていたのだと「ネバーエンディングストーリ―2」のポスターが何故かよく記憶に残ってる、アトレイユ……。

 私は高校生になった頃からあんま映画見なくなってここに通うこともほとんどなくなってしまったのですが、2006年にはスクリーン数を拡大して「松戸シネマサンシャイン」と再び名前を変えていたようですが、他の全国の映画館同様に客足が伸び悩んだことと、周辺の他の街でもシネマコンプレックスが出来ていったことなどからか羽振りが悪かったようで、2013年1月末にはここも閉館してしまいました。
 多分、私が最後にこの映画館で見たのは2003年の「ロードオブザリング 王の帰還」で、友人と二人で見に行ったのを覚えています。なお「ロードオブザリング 旅の仲間」もこの映画館で見ており、その時は家族と見に行っています。私が2013年に日本へ帰国し、たまたまこの映画館跡の前を通った際に初めて閉館したという事実を知りましたが、子供時代から自分の中の風景に存在していた映画館だっただけに軽いショックを当時受けました。

 ちなみに「松戸シネマサンシャイン」の閉館に伴い、松戸市には現在もなお映画館が一つもない状態が続いています。これだけの人口規模を持ちながら映画館が一つもないというのは全国的にも珍しいのではないかと思いますが、この辺りの人からすると小さい映画館に行くくらいなら都内や幕張に出て行くのであろうと思え、今のところあまり需要がないような気がします。とはいえいくらなんでも寂しくはないかという気がするので、どっかが新しい映画館を松戸市内に作ってくれることを陰ながら期待しております。

 それにしても見出しをそのまま「千葉のマッドシティ~」としちゃったけど、こういった松戸の思い出話をシリーズ化する気か?映画館同様需要があるのかどうかも分からんし、自分で書いておきながらなんかよくわからない状態です。