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2008年11月6日木曜日

失われた十年とは~その七、転換点~

 久しぶりの連載記事です。前から書こう書こうと思っているのですが、別の記事を片付けていると途端にものすごい疲労感があってこの三日間は手が出せませんでした。別に何かで忙しいとかそういうことはないのですが、ぶっちゃけ今も疲労がものすごくてへとへとになりながら書いてます。

 それでは今日は失われた十年全体において、その年を以って前期後期と分けるような象徴的な一年となった97年について解説します。
 この連載の四回目の「個人消費」についての記事で私は、失われた十年の前半期は企業業績が全般的に落ち込みながらも、世界的にも歴史的にも珍しく当時の日本では個人消費はなかなか下降しなかったと解説しました。そしてこの経済の中で唯一好調だった個人消費が落ち込むことでこの時代の平成不況は本格的に深刻さを表してくるのですが、ちょうどこの97年が個人消費が落ち込み始めるようになった年であるのです。

 では何故97年に個人消費が落ち込み始めたのかですが、以前の記事で解説したように世帯ごとの貯金が減っていったなどの継続的な理由もありますが、やはり一番の引き金となったのはこの年より施行された消費税のそれまでの3%から5%への引き上げです。これによって日本全体で物価が底上げされて個人消費が激減したことにより、日本は企業業績が悪化する一方で物価は上がる「スタグフレーション」という、名実ともに底なしの不況へと突入していきました。

 政治界でもこの消費税増税による反発によって自民党の支持が急激に減ったためにこの年の参議院選挙で自民党は大敗し、当時の橋本龍太郎首相も退陣を余儀なくされています。もともとこの消費税の増税は世界中の経済学者が時期的に不適当だと批判されながらも橋本首相が強行した政策であり、結果的には橋本氏のそれが命取りとなったのですから皮肉なものです。なお私自身の橋本元首相への評価をここで紹介すると、彼の在任中の業績は言われているほど低くはなく、特にこちらも強行して取り組んだ行政改革は日本の政治史においても大きな成果であり、これがなければ後年の小泉改革により一時的な成功もなかったものと私は確信しています。もっとも既に書いたように消費税の増税のタイミングは本当に最悪のタイミングであり、この増税を実行したことについての非難はやむを得ないでしょう。

 何はともあれこの年になるとしばらくすればまた景気は回復するだろうとの楽観論も完全に消えうせ、社会全体で先が見えない暗い雰囲気が立ち込め始めてきました。企業の方も上がらない業績に徐々に経営が追い詰められ、データで見てもリンクが貼れないのでアドレスだけ紹介すると東京商工リサーチ(http://www.tsr-net.co.jp/new/zenkoku/transit/index.html)のデータで、92年から96年までは企業倒産数は14000件台から15000件台の間にあるのが97年には一万六千件台に入り、その後も小渕政権でありえないくらいのバラ撒きが行われた99年を除いて18000件台から19000件台という非常に多い数字が2002年まで続きます。にしても、東京商工リサーチはいいデータを公開してくれている。帝国データバンクとは大違いだ。

 そしてこの年の倒産といえばなにより、察しのいい人はもう勘付いていると思いますが、あの山一證券の倒産を抜きにして語ることは出来ないでしょう。
 それまで野村、日興、大和と並んで四大証券と呼ばれ、日本を代表するエリートが集まると言われた大企業の一つ、山一證券がこの年に破綻をして本当に跡形もなくこの世からなくなってしまいました。この時に私は中学生でしたが、未だに当時の野澤正平社長が泣きながら記者会見で、

「みんな私たちが悪いんであって、社員は悪くありませんから! 善良で能力のある社員たちに申し訳なく思います。優秀な社員がたくさんいます。ひとりでも再就職できるように応援してください」

 と、思わず全文を引用してしまうほどの重みを持った訴えをしたのが目に浮かんできます。それほどまでにこの山一證券の破綻は日本社会に大きな影響を与え、もはや大企業といえども安心ではないと、この日を境に社会の空気が一変したと、当時の私ですら感じました。
 また大企業の倒産と言えばこの山一證券が破綻した11月22日のほんの五日前、11月17日にはこちらもエリート街道まっしぐらと言われた北海道拓殖銀行が破綻しております。

 このように、かつては誰もがうらやむ就職先と言われた大企業の連続した破綻が、日本人はもとより世界中にこの不況はただ事じゃないと強く知らしめました。そして本当に景気が申告に悪化していったために続々と中小企業も倒産してゆき、生き残った企業も合併や所有部門の売却、そして後で解説する社員のリストラの実行とタダでは生き残れない厳しい時代を歩むことになりました。

 このように、全体の景気においても社会の空気においても、失われた十年においてもっとも重要な転換期に当たるのがこの97年、更に言えば山一證券が破綻した11月22日がすべての転換点に当たるとして、便宜上これ以前を前期、これ以降を後期として私は失われた十年の期間を二分しております。
 前期はこれまでも語ってきたように「変なものが流行ったりしてなんとなくおかしな感じだけどまだまだ余裕」な頃で、後期は「皆で後ろ向き、フォーエバー!」ってな頃だと勝手に解釈しております。

 不思議と、書き終わってみると書き始めの頃より元気になっています。

2008年11月2日日曜日

失われた十年とは~その六、ポストモダンとデフレ~

 前回では長引く不況に対して日本政府が景気刺激策の名の元に公共事業を延々とやり続けたが、政策としてはほとんど効果が起こらなかったということを解説しました。今回では何故公共事業が効果を出さなかったのと、それと平行して失われた十年の後半に起きたデフレ現象について解説します。

 まずポストモダンという言葉についてですが、本来この言葉は思想学上で用いる言葉で今回私が使用しようとする意味は全く持っておらず、便宜的に私が別の意味を持たせて造語のように使っている言葉です。この言葉の直訳は文字通りに「近代の次」という意味で、私はこれを経済学の意味合いをもたせて「生活が現代化(欧米化)を完了した次の時代」という意味合いでよく使っています。

 現代化の次、と言っても恐らくピンと来ないでしょうから結論から言うと、ほとんどの世帯に生活必需品と呼ばれるものが完備された後、という意味で私はこの言葉を使っています。
 高校などの歴史の時間に学んだでしょうが、かつての50、60年代には「三種の神器」といって冷蔵庫、洗濯機、テレビの三つの家電を揃えることが一種の生活上のステイタスとなり、国民の消費もこれらの生活家電へと注がれていきました。またこれらがある程度どの世帯にも普及した後には今度は「3C」といって、カラーテレビ、クーラー、自動車が先の三種の神器に代わるステイタスの証として持て囃され、これらの製品も当時の国民はこぞって購入、消費していきました。

 何もこの現象は日本だけでなく、現在発展途上の東南アジア諸国やベルリンの壁崩壊後の東欧などでも歴史的にこういった生活家電や製品に集中的な消費が行われてきており、それこそ日本も当時はお金さえあればすぐにでもほしいといわんばかりにこれらの製品への需要が高かったと言われています。しかし戦後の混乱期をまだ完全に脱出していなかった50年代では三種の神器を揃えるのは至難の業だったようで、うちのお袋の家は早くにこれらを揃えていたことから、夕方になると近所の人が家にやってきてテレビの力道三の試合を皆で見ていたと言っています。

 しかしこれが80年代になるとどうでしょう。言うまでもなく、この頃になると日本もすっかり金持ちになってほとんどの世帯には先ほどの家電がほぼ揃えられていました。しかしこの頃は当時に出たばかりのVHSビデオデッキなどがあり、またテレビの性能もまだまだ発展途上だったので日本人の消費意欲はまだ衰えがありませんでした。しかし90年代に至ると、それこそ生活していく上で「どうしてもあれだけは欲しい」と言われるような明確な製品や商品が完全になくなってしまいます。しいてあげるとしたらWindous95の日本語版発売とともに一気に生活家電入りしたパソコンくらいです。事実パソコンは3、4年くらい前までは売り上げ台数は年々増加していましたが、とうとうピークを割って現在は下降状態です。

 これは私が確か小学六年生くらいの頃だったと思いますが、何で今は不況なのかと親父に聞いたら、皆が欲しいと思って買うような商品がないからだと私に説明しましたが、まさにこの言葉で失われた十年における消費不良を言いまとめることが出来ます。
 私自身も留学時代は毎日自分で手洗いで洗濯をしていましたが、これはやはり結構労力のいる作業でした。洗濯機のない頃の主婦はこれを家族全員の分までやっていたというのですから、その苦労は相当のものでしょう。そんな人間からすれば洗濯機がなんとしても欲しいと思うというのも私は強く理解できます。しかし現代において、それほどまでどうしても手に入れたいと消費者に思わせるような製品というのは私が見回す限りありませんし、90年代はもっとありませんでした。

 その結果日本の国民に起きたのが、お金はあるけど特に使うあてがない、という状態です。そのためいくら政府が公共事業で国民にお金をばら撒いたところで、90年代の後半に至っては一切それが使われずに貯蓄に回ってしまい、個人消費が一切伸びなくなりました。私はこの現象のことを経済のポストモダンと言い、生活水準が先進国に追いつくことで急激に消費が冷え込み、それまでの政策、逆を言えばまだ生活水準が追いついていなかった高度経済成長期には非常に有効であったバラ撒き政策が途端に効果をなくしてしまう現象のこととしています。
 この現象は日本だけでなくそれこそアメリカやイギリスにおいても同じような現象が起きており、こうした状況から有効需要を増やす公共事業の必要性を説いたケインズ政策は過去のものだ、これからは別のスタンダードこと「第三の道」が必要なのだとして、フリードマンの新自由主義政策が生まれていくことになっていきます。

 このように、お金がばら撒かれても個人消費が伸びないものだから企業も製品を安くせざるを得なくなり、このような連鎖が積もり積もって起こったのが平成デフレでした。このデフレは言葉がよく先行していますが内容をよく知らない人が多いのでちょっと説明すると、

1、物が売れない→2、値段を安くする→3、儲けが少なくなる→4、会社が従業員へ払う給料も減る→5、個人がお金がなくて物が買えなくなる→6、もっと物が売れなくなる→7、もっと値段を安くせざるを得なくなる→3に戻る

 といったのが大雑把な過程です。デフレスパイラルとはよく言ったもので、悪循環がこう延々と続いていってしまう現象です。日本の場合はポストモダンに突入していた上に消費税率増加が引き金となって最初の1が起こり、そこからデフレへと突入していきました。

 ちなみに、日本政府が公式にこのデフレが現象として日本に起こっていると発表したのは小泉政権が発足した後の確か2001年になってからで、私はこのデフレを恐らくわかっている人はわかっていたでしょうが政府として早くに認識して対策をしなかったというのが、非常に致命的な政策ミスだったと思っています。
 結果論ですがこのデフレ現象は90年代末期にははっきりと目に見える形で起きていました。96年くらいからは今も全国展開しているダイソーが100円ショップとして生活雑貨を100円で売るようになり、99年にはマクドナルドがハンバーガー一個を従来の半分の価格の60円で売り出し、これを受けて吉野家などの外食チェーンでも猛烈なランチ価格値下げ競争が行われていました。
 普通、こんだけ目の前で起こっていればデフレ懸念が出来たはずだと思うのですが、まぁ私も小さかったので細かくチェックしていませんでしたけど、あまりそういう声は当時はなかった気がします。

 それでも90年代前半は以前の個人消費についての記事で説明したように、急激な個人消費の低下は起こりませんでした。これが本格的に落ち始めるのはその際に書いたように97年の消費税率増加と、バラ撒き策による誤魔化しが通用しなくなったということが原因として挙げられ、個人消費がとうとう低下を始めたことによってようやく日本は不況を実感することになります。
 そういった意味で、個人消費が目に見えて低下し始めたこの97年というのは失われた十年における最も重要な年に当たり、たくさんの意味で大きな転換点となった年でした。次回ではこの97年に何が起きたのか、そしてそれ以前とそれ以後でどのように変化したのかについて解説します。

2008年11月1日土曜日

失われた十年とは~その五、公共事業失政~

 前回ではバブル崩壊後に日本全体で景気は落ち込んでいながらも、世界的にも現象としては珍しく当時の日本は個人消費がほとんど落ちなかったということを説明しましたが、何故個人消費が落ちなかったのかという原因の一つが、今日解説する公共事業です。

 多分今でも中学や高校の政経の時間ではニューディール政策の中の財政出動、いわば今の麻生政権もやろうとしている公共事業の必要性を説いていると思いますが、これは一種のカンフル剤的な効果しか全体の景気には及ぼさず、一時的な個人消費の増加が起こった後は元通りになり長期的に見るならほとんど景気に影響を与えないということがほぼ証明されています。
 詳しく言えばこのニューディール政策はよくTGVというダムの公共事業ばかり取り上げられていますが、真に優れていたと思われる点は私はやっぱり金融対策だったと思います。銀行などに貸し出し猶予を与えるなどして体力をつけさせ、ひとり立ちできるまでのつなぎとして公共事業を行ったというのが政策の肝なのですが、どうも後ろのつなぎの政策にしかならない公共事業ばかりに注目が行ってしまい、日本は馬鹿をやったのではないかと考えています。

 以上のように日本の政策決定者もただ財政出動をして国民にお金をばら撒けば、自然と景気はまたよくなっていくだろうと考えていたのでしょう。それこどこにどのように配るかすらもきちんと考えずに、自分たちの票田となるかといって政治家も土建屋や不動産業界へひたすらお金を回し続け、いざそれが立ち行かなくなると必要以上に膨れ上がっている業界なため、倒産が相次ぐようになったというのが現在の状況です。

 ちなみにこのような土建屋へお金をばら撒くために政府が考えた手段は、いわゆる観光事業の促進、つまり夕張市が破綻する原因にもなった巨大なテーマパークや観光施設などの建築です。90年代はこのように中央の政府から地方の政府へ箱物を建てろと強く命じ、夕張市などはこの中央の指示を真に受けどんどんと国から借金をして愚にも付かないものばかり作っていって破綻しました。そのためこの頃は中央政府から夕張市は逆に政策優等生だと誉めそやされていたと言われ、なにも夕張市にも限らずに他の各地方自治体もこのようにして今の財政難の原因とも言える借金を作っていきました。
 こうした中央と地方揃っての激しい財政出動は結果的に、客もなにも来ない無駄な施設と建物、90年代の大衆文化、積もり積もった借金だけを残しただけでした。まぁこの時期に青春時代を過ごしたというのもあると思いますが、私はこの頃の音楽とか漫画、小説といったものが非常に好きです。江戸時代も元禄時代の文化が一番評価が高いのですから、やっぱり文化というのは無駄遣いをした分だけ発展するものなのかもしれません。

 しかしこういったバラ撒き政策をしていても、不景気の根本的原因であった金融問題をずっとほったらかしにしていたために景気対策においては何の効果も挙げませんでした。
 そうこうしている内にとうとう頼みの綱であった個人消費にも陰りが出てきました。その時期というのも97年、橋本内閣で消費税の3%から5%への引き上げた行われた頃です。この引き上げの結果物価が上昇し、個人消費が急激に減少してその後のデフレ現象へとつながっていきます。

 この時期については後でまた詳しく解説しますが、これに焦った政府は政策の反省を全く行わず、もっとお金を配るしかないとばかりに小渕内閣では現在に至るまで過去最高額の公共事業へ予算が割かれ、さらにはちょうどタイムリーなネタになりますが、連立政権に公明党を引き入れる代わりに公明党が要求する政策を飲んだ結果、あの地域振興券の配布が行われることになりました。
 この地域振興券自体については詳しく解説しませんが、世界的にもこの政策に意味があるのかと疑問視する声は当時からあり、フィナンシャルタイムスに至っては「ミルトン・フリードマンが喜ぶであろう」という皮肉までしています。結論から言うと、本当に何にもなりませんでした。

 これは結果論、といってもちょっと考えれば誰でも行き着くことが出来たくらい簡単な話なのですが、同じバラ撒きをやるにしてももっと未来のある産業へ行っておけば現在の状況は全然違いました。それこそ必要以上とも言えるくらい過剰に土建や不動産業界に金をバラ撒いて姉歯事件でのどうにもならない欠陥建築物を作るより、今問題となっている介護や農業といった業界へバラ撒きが行われていれば雇用問題から食糧問題の規模も現在より全然小さくなっていたはずです。また途中で全然効果が上がらないのだからとっとと政策転換を行っていれば、今ほど国の借金も膨れ上がらなかったのに。
 最終的にはかねてより公共事業に異を唱えてきた小泉元首相の登板によりこれらの一連の政策は改められましたが、それまでに払ってきた代償は決して小さくなく、恐らく私と同じ世代の日本人は死ぬまでこの代償に追い立てられることになるでしょう。まぁもしかしたら、これからまた別の負担を背負うことになるかもしれないけど。

 次回ではちょっと手のかかる内容ですが、デフレについて解説しようと思います。ちょうどいい機会なのでポストモダンの経済政策についてもどんどん書いて行きますが、書く前からしんどい内容になるだろうなぁというのが目に見えています。
(;´Д`)ハァ

2008年10月30日木曜日

失われた十年とは~その四、個人消費~

 実はどの辺から書き始めればいいか、今結構悩んでいます。文化大革命の連載では時系列的に書けばよかったのですが、こっちだと社会的な話から政策的な話と時系列が行ったりきたりするので、しょうがないので政策の話をひとまず全部やろうと思います。

 さて一般に「失われた十年」とこの時代の不況はひとくくりに言われていますが、実際のところ本格的にこれは不況だと認知され始めたのは90年代の後半に至ってからでしょう。はっきり言いますが、バブル崩壊で株価がものすごい下落をしたものの90年代の日本は滅茶苦茶なまでに余裕しゃくしゃくで、恐らく事態の深刻さに気がついていた人間は全くといっていいほどいなかったと思います。

 それがきちんとデータとして現れているのが、今回のサブタイトルにもなっている「個人消費」です。恐らく現在に至るまで日本以外で起こってないであろう事例なのですが、実はバブル崩壊以後に企業業績が振るわずに社会的にも明らかに不況と言える状態であったにもかかわらず、90年代前半の日本では個人消費が一切減りませんでした。普通不況になれば今のアメリカみたいに個人消費というものは冷え込んで減っていくものなのですが、何故だか日本だけはこれが全然減りませんでした。

 当時に個人消費が一切落ちなかったことを表す一つの例として私はよく、当時の音楽CDの販売数を人に紹介しています。90年代前半から中盤まで音楽CDの売り上げは文字通りに右肩昇りで、今じゃ年に一曲か二曲しか出ないミリオンヒットもなんと毎年二十曲以上は出ていました。また似たようなものとしてテレビゲームにおいても98年のピークを迎えるまで売り上げ本数は年々伸びており、逆にそれ以降は音楽CD同様に今度は右肩下がりに売り上げが低迷し、現在両方の業界はともに苦しんでおります。
 せっかくだから自動車の販売台数も出そうと思ったら、なんか月別のデータしかなくて調べられませんでした。これだから三等統計国は……。

 とまぁこんな具合で悪化する経済を尻目に、日本人は消費者的にはそれ以前よりずっと豊かに生活を送っていました。では一体何故、企業の売り上げが低迷しているにもかかわらず個人消費が奮ったのでしょうか。これはなんというか非常に簡単で、理由を挙げろというのなら実はいくらでもあげることが出来ます。

 まず一つが、日本人の貯蓄体質です。最近はずっと目減りしているのですが当時の日本人は本当に貯金と預金が大好きで、そのために経済情勢が悪化しても豊富な貯蓄があったために消費は継続された、という感じです。
 そして二つ目に、当時はまだ終身雇用が生きていたからです。企業業績が悪化しても当時は終身雇用がはっきりと守られており、定期昇給から残業代支給まで今から考えると大盤振る舞いともいえるような俸給が被雇用者、つまり消費者に配られていました。
 でもって三つ目、これが非常に重要なのですが、この時期に政府は景気刺激策の名の元に公共事業政策、要するにバラ撒き政策を大々的に行ったからです。

 この公共事業については次回に詳しく解説しますが、こうしてあげたいくつかの理由によって日本の個人消費は非常に好調で、事実当時の日本経済は企業の業績悪化をよそ目に個人消費に頼って生きながらえていました。しかし最初の貯蓄は使ってけばどんどん減っていくのは当たり前で、二つ目の終身雇用はさすがに企業も被雇用者にいつまでも大盤振る舞いをしてられなくなり、三つ目の公共事業は小泉内閣が出来るまで続けられたのですが、結論を言うと90年代の後半に入ると日本経済で唯一好調だった個人消費もとうとう干上がってしまいます。その時期を具体的に言うと97年で、この年に消費税が5%に引き上げられたことによって個人消費も一気に冷え込み、この時になってようやく日本は事態の深刻さに気がつくというわけです。この辺もまた後で解説します。

 私の目から見ても、90年代前半は豊かな時代だったと思います。さすがにバブル期ほどの悪趣味な散財というものは見なくなりましたが、それでも漫画からゲーム、音楽からファッションといったものへの消費が社会全体で活発で、ファッションにいたっては当時は安室奈美恵などアイドルも数多く現れ、こういった服飾品への支出が非常に煽られていた気がします。今じゃ安いユニクロとH&Mが流行ってるあたり、時代格差を感じます。

2008年10月29日水曜日

失われた十年とは~その三、政治的混乱~

 前回までの記事が導入に当たり、この記事から本題に入っていきます。しばらくは政策的な話が続きそうです。

 さてこの「失われた十年」。ほかの不況と一線を画す特徴は言うまでもなくバブル以後から約十年間にも及ぶ長い間、何の進展もなかったという点でしょう。では一体何故それほど長い間に何の進展もなかったのかですが、私じゃこの原因はこれだと言い切るような一つの原因というものはなく、複数の大きな要因が作用していたためだと考えています。新自由主義が大流行りな昨今の時代では巷に流通している一般の経済書などには恐らく、それまでの日本独特の雇用形態や金融システム、国際スタンダードに乗り遅れたなどを理由として挙げているものばかりでしょうが、確かにそういったものも重要な要因だとは認めますが、私はそのどれよりもちょうどバブル崩壊期に起こった政変と、それによって続いた政治的混乱こそが複数の要因の中でもひときわ大きな原因になっていると考えます。

 まず、以下の表を見てください。

首相名称    在任期間                    任期
昭和
田中角榮  1972年07月07日- 1974年12月09日  886日
三木武夫  1974年12月09日- 1976年12月24日  774日
福田赳夫  1976年12月24日- 1978年12月07日  714日
大平正芳  1978年12月07日- 1980年06月12日  554日
鈴木善幸  1980年07月17日- 1982年11月27日  864日
中曾根康弘 1982年11月27日- 1987年11月06日 1806日
竹下登   1987年11月06日- 1989年06月03日  576日
平成
宇野宗佑  1989年06月03日- 1989年08月10日   69日
海部俊樹  1989年08月10日- 1991年11月05日  818日
宮澤喜一  1991年11月05日- 1993年08月09日  644日
細川護熙  1993年08月09日- 1994年04月28日  263日
羽田孜   1994年04月28日- 1994年06月30日   64日
村山富市  1994年06月30日- 1996年01月11日  561日
橋本龍太郎 1996年01月11日- 1998年07月30日  932日
小渕恵三  1998年07月30日- 2000年04月05日  616日
森喜朗   2000年04月05日- 2001年04月26日  387日
小泉純一郎 2001年04月26日- 2006年09月26日 1980日

 これは田中角栄から小泉純一郎に至るまでの総理大臣の任期を、ウィキペディアから拝借してきた図を元に見やすく簡略化したものです。まず注目してもらいたいのは「失われた十年」の期間内における総理大臣の数で、前回に定義した開始時期である91年の海部俊樹からスタートして数える事なんと九人にも上り、平成年間で見るならば宇野短命内閣も入って十人もこの時期に総理大臣が輩出されています。これは72年の田中角栄から89年に任期を終える竹下登までが七人である事を考えると、この失われた十年に如何に多くの総理大臣が出現したかがわかるでしょう。また十年スパンで考えても以下の表のように、


注:★マークは任期が二年以上

 といった具合で、事の異常さは一目瞭然です。
 こうしてみると失われた十年に当たる平成年間がどれだけ総理大臣のバーゲンセールなのかがわかり、また任期一つを取ってみても海部俊樹から小泉純一郎まで十二年間で九人の総理大臣で、単純計算で一人頭は約12÷9=1.333……と、平均するとこの時期の首相の人気は約1.3年しかありません。最近じゃ皆一年も持たないんだけど。

 現実にこの失われた十年の間に在任任期が二年を越した大臣はというと海部俊樹、橋本龍太郎、小泉純一郎の三人のみで、他の大臣はというと計算通りにほとんどが一年から二年目の間に辞職しています。
 このように首相が代わる代わる交代していった原因はまず間違いなく、93年に初めて自民党が選挙で大敗した挙句に野党に転落した、55年体制の崩壊が原因です。この時に自民党は野党に転落し、またその後も与党に戻ったものの単独政権ではなく連立政権で、更にそれを取り巻く野党らも合従連衡を繰り返していたという、政治的に不安定な状態が続きました。なお最終的に今のひとまず落ち着いた状態に至ったのは小渕政権時の自民、公明の連立以後でしょう。この時には民主党も成立しており、その後は小沢一郎率いる自由党が民主党に合流したくらいですし。

 こうした政治的に不安定な状態が続いたことの結果として、政権基盤が不安定なために与党となっても長期的な展望にたった政策を打ち出すことが出来ず、また党を支えるはずの国会議員たちも目下の経済政策より党利党略に神経を使うようになっていったのではと私は思います。
 これは私の推論ですが、この時期に議員達はその政局の流動性から大物議員であれちょっとしたことで選挙にも落選しやすくなり、そのため政策以上に自らの選挙対策に神経を使うようになっていったのではないかと思います。実際にバブル崩壊以後から小泉政権の誕生に至るまでに景気対策の名の元に大型の公共事業がいくつも行われており、その公共事業を地元の選挙対策として利用した議員も少なくはなかったでしょう。だとすると、場合によってはそういった公共事業は景気対策以上に選挙対策といった目的の方が強かったとも言えると思います。

 このような政治面での不安定さが「失われた十年」を政治的、社会的にもより進展のないものにさせた最大の原因と私は睨んでいます。私の不勉強によるものかもしれませんが、どうも巷に出ている書籍はこの点をあまり追究していないような気がします。まぁ今の状況も似たようなものなんですが。

2008年10月28日火曜日

失われた十年とは~その二、期間~

 この連載を始めるに当たってまずやらねばらないのは言うまでもなく、この「失われた十年」が何を指しているのかという定義です。そこで連載一発目の今日はその辺を詳しく定義します。

 実はこの「失われた十年」という言葉は日本で初めて出来た言葉ではなく、もともとはイギリスにおいて二次大戦後、経済的発展が少なく閉塞した時代であった1945~1955の十年を指す言葉だったらしいようです。もっとも今現在でその事実を知っているのはニュース解説者でもほとんどいないでしょう。
 では実質的にどのように使われているかですが、まず世間で流布している一般的な定義としてはバブル崩壊以降の何の進展もないまま延々と不況が続き、気が付いたら十年も経ってしまった、といったような意味合いが主でしょう。別にこの説明に特段疑義を私も持ちません。

 しかしここで重要になってくるのは、実際にいつからいつまでがこの失われた十年の期間に当たるかです。この点は各種の評論においてもいくつか意見が分かれているのですが、始まった時期についてはどの意見も共通してバブルの崩壊時として、年数で言うのならこの場合は日経平均株価が下がりだして本格的に景気が悪化し始めた1991年を指しています。

 株価自体は1989年12月29日の大納会に38915円87銭という最高値を記録してからは下がり続けて90年には一時2万円を割るものの、その後しばらくは日本全体で好景気が続いていました。しかし企業業績の落ち込みが続いてそういった好景気も立ち行かなくなっていき、本格的に「バブル崩壊」という言葉が使われ始めたのはやはり91年頃だったと子供心に私自身も記憶しています。また国際的にもこの年に去年処刑されたサダム・フセイン元イラク大統領によるクウェート侵攻によって湾岸戦争が勃発しており、国際情勢が大きく転換した年でもあるのでひとつの時代のパラダイムとしては適当だと思います。

 問題なのはこの失われた十年が終わった時期です。
 これには様々な意見があるのですが、文字通り91年から十年後で2001年とする説と、昨日までここ十数年のうちで最低株価記録の7607円88銭を出した2003年4月28日という二つの意見が今のところ強いです。
 私の実感で言うと、後者の03年の初期が最も暗いイメージが社会に蔓延していた時期で案の定株価も大底を出しましたが、その大底を境に株価は一応のところ下げ止まり、全体的に暗くはあったものの少なくとも今日より明日はマシなのではないかという実感が徐々に込み上げてきた年だったと思います。株価もその年の10月には11000円台にまで回復し、それまで歴史的な就職氷河期であった大学生の就職戦線も2001年を底にして徐々に採用がまた増え始めてきた頃でした。

 こうしたことを考慮すると、確かに01年が大企業の倒産が相次ぎ実業面で恐らく最も苦しい時期ではあるのですが、そうした状態から脱したという意味合いで03年の方が終結年としては適当な気がします。またこれはちょっとした偶然なのですが、何気に03年はイラク戦争の勃発年でもあってこの年の年末にはフセイン元大統領もアメリカ軍によって拘束されてます。既に述べたように開始年とする91年は湾岸戦争が勃発しており、文字通りフセインに始まりフセインに終わる「失われた十年」と考えるのもなかなか
乙な気がします。

 以上のように、この連載における「失われた十年」というのは1991年から2003年を指す事にします。とはいっても2001年までという説も定義的には決して悪いわけでもなく、先ほどの説明に加えこの01年はその後の政治的、社会的変動の中心となる、小泉内閣の誕生年でもあります。
 その評価はともかくとして小泉元首相がこの失われた十年の構造不況を改革したのは間違いなく、そういった意味で03年が社会実感の転換点としての定義に対し、こっちは社会構造の転換点としての定義とすることも出来ます。そして蛇足ではありますが、01年は日中戦争を代表する人物である張学良がこの世を去った年でもあり、中国とか関わりの深い私としてもこの理由にあわせて01年説を持っていきたくなりそうです。

 なのであえてこの両説を平行して使うのなら、広義としては91~03年、狭義として91~01年と考えるのが失われた十年の期間として適当だと考えます。本連載では先にも言ったとおり基本的には広義を採用するので、2003年に至るまでの事例を思いつくまま解説して以降と思います。

2008年10月27日月曜日

失われた十年とは~その一、予告~

 7607円88銭

 今日はこの数字が非常によく出回った一日でした。この数字、というよりも価格が何を表すかというとニュースを見てればわかりますが、これは「失われた十年」と呼ばれた平成不況期の真っ只中である03年4月28日に記録した、今日以前のバブル崩壊以後としては日経平均株価の最低価格です。
 その最低価格も今日の終値でとうとう更新して、これからまたあの失われた十年の再来、もしくはあの時代以上の不況が日本を覆うのではという悲壮感に溢れた意見が飛び交っていますが、そもそもあの失われた十年とは一体なんだったのか、これはかなり以前から私が考えていたことでした。

 それで、一度はやろうとしました。やろうと思ったのですが、ちょうど去年の今頃からちょこちょこ書いて原稿用紙80枚を越えた時点で何故だか飽きて書くのをやめてしまいました。理由は恐らく、私が当時に別の論文の作成で忙しくなったせいだと思います。
 よくこの失われた十年は経済用語として使用されることが多いのですが、私としては専門の関係もありこの時代を日本の現代史、社会史として位置づけており、経済以外の点でもいろいろと今だからこそ検討する材料に溢れた時代だと考えています。

 折も折でこれまで最低だった前述の株価を今日は更に下回り、今後の経済情勢を占う上でこの時代の分析が真に必要なのは今の時代なのではないかと思います。私としてもやりかけた仕事ですし、ちょっと前まで連載していた「文化大革命」の連載を終えて、
「案外、このブログで連載していても、そこそこまともな論文が書けそうだ」
 という確信を持つに至りました。おかげさまでその文化大革命についての連載については様々な方から反響をいただき、また自身で読み返しても胸を張って人に見せられる内容だという自信があり、これならば失われた十年についてもちょっとずつ書いていけそうだと思い、この度連載を始める決心がつきました。

 また私にとっても都合がいいのは、この連載の場合は今後しばらくは昔に書いた内容に補足する程度で進められる点です。はっきり言って前回の文化大革命の際は資料をまた読み返したり、ネット上で情報の確認を取ったりと、書いてて非常に面白かった分、労力も半端じゃありませんでした。けど今度の連載の場合は開始しばらくは楽が出来そう……と思ってたのですが、書き溜めた論文を今読み返すと文章が敬体じゃなくて常体で書かれてました。結構手直しが必要になりそうです。

 ともかくそういうわけで、しばらく普通の記事と平行してこの失われた十年について分析を行う連載をはじめます。それでは今日の最後として、ちょうど一年前の私が書いた論文の前書き部をそのまま引用してお見せします。思えば、この論文を投げたあたりからこのブログも始めたんだなぁ(´ー`)

「結論から述べるとこの「失われた十年」は言い換えると「モラルパニックの十年」と表現できると考えている。明らかにこの時代を境に日本人は変わったし、また国際世界も変わっている。何も変わらなかったのは案外、同世代では自分くらいなんじゃないかなとかちょっぴり思ってたりもする」