ページ

ラベル 猛将列伝 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 猛将列伝 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2008年8月23日土曜日

猛将列伝~今村均~

  「尊敬する人は?」という質問が来た際、私はいつも、「水木しげると今村均です」と答えています。水木しげる氏についてはその思いのたけをこのブログでも何度も書いていますが、今村均氏については多分今回が初めてだと思います。
 今村氏は新潟県出身の旧日本陸軍の大将です。同じ出身だということで、山本五十六海軍司令官とも仲がよかったそうです。この今村氏は戦闘での華々しい大勝利という経験こそなかったものの、その決断と指揮については硫黄島での栗林忠道中将と並び旧日本陸軍でも随一と呼ばれています。

 今村氏が主な戦場としていたのは太平洋戦争最大の激戦地と呼ばれた東南アジアに位置するラバウルです。この場所はオーストラリア軍、アメリカ軍からの最前線にもなるというのに本国からの補給が難しい場所にあったのですが、そんな難しい地点の防衛を任された今村氏は早くに敵軍によって補給路が遮断されると読み、諸葛孔明の五丈原での対陣かのようにあらかじめ部下を使って畑を耕すなどして持久戦に備えていました。
 アメリカ軍は当初、マッカーサーの強い意向もあり進路を完全制覇しながら進んでいこうと考えていましたがこのラバウルでの激しい抵抗を受け、補給路を寸断して日干しにしていくという「飛び石作戦」に切り替え、今村氏の読み通りに戦争の途中でラバウルは日本との補給路を遮断されました。しかしすでに述べたとおりに今村氏はこのような状況にあらかじめ備えており、結局アメリカ軍は最後までラバウルを陥落させる事が出来ず終戦まで日本側が保持し続けることができました。

 この戦略眼一つとっても今村氏は大した人間と言えそうなのですが、このエピソード以上に終戦後には今村氏のその人格の高さを伺える素晴らしいエピソードが残されています。
 終戦後、ラバウルに残っていた将兵たちはこれからどうなるのかと当初は不安に思っていたそうです。実際に満州など中国東北部に駐留していた部隊はその後ロシア軍から攻撃を受けて捕縛され、厳しいシベリア抑留を受ける羽目となっており、ラバウルの部隊でも米英軍の捕虜になって日本に帰ることはできないのではないかと言われていたそうです。しかし玉音放送の後に今村氏は、

「諸君らからなんとしても日本に帰還させる。だから安心してほしい」

 と言い切り、ある兵士はこれを聞いて、「なんとなく、生きて帰れるような気がした」と語っています。

 その後現地で武装解除したラバウルの将兵は無事日本に帰還できたのですが、今村氏は戦争指導者として戦犯裁判にかけらることになり、禁固十年の刑を言い渡されてほかの戦犯同様に巣鴨プリズンへと送られることとなりました。しかしその際に今村氏はマッカーサーに対し、こんな手紙を出しています。

「B、C級戦犯となった私の元部下らは巣鴨よりずっと環境の悪いパプアニューギニアのマヌス島の刑務所に入れられているのに、私一人がここでこんな待遇を受け続けることはできない。願わくば、部下たちと同じ刑務所に移送してくれないだろうか」

 この手紙を受け取ったマッカーサーは、「まだ日本には武士が残っていた」と言い、すぐさま今村氏の願いを聞き届けてマヌス島へと移送したそうです。一説によると、自分の刑期は終えたにもかかわらず部下が最後の一人が釈放されるまで今村氏は留まったとまで言われています。こうしたエピソードが、今村氏をこの記事の題のように「聖将」と呼ばしめる要因となったのです。

 その後今村氏は刑期を満了して日本に帰国してその命を全うしましたが、こうした戦中戦後のエピソードに限らず、ほかにもなかなか面白いエピソードをいくつか持っています。
 なんでも、子供の頃から夜に熟睡することができず、将軍となった後でもいろんな場所でしばしば居眠りをしていたそうです。ある日の会議でも居眠りをしていてそれを見咎めた議長が起きろと怒ったところ、今村氏は飛び起きるやその会議での発言を一語一句逃さずに最初から最後まで復唱して見せて、議長に何も言えなくさせたそうです。

 こんなエピソードのようにその秀才ぶりは凄まじく、陸軍大学校も首席で卒業しています(同期卒業に東条英機がいる)。その上占領地の軍政も非常に心得ており、今でも現地の教科書などで紹介されるほどらしいです。
 そんな今村氏ですが、ラバウルにてある日一人の兵士を見て、「やけに太っているな、こいつ」と言ったそうです。その言われた兵士というのも、私が尊敬するもう一人の人物である水木しげる氏です。先ほどの生きて帰れると思ったということを話したのも水木しげる氏ですが、変な話というか、私の尊敬する人は二人ともラバウル帰りなのです。

2008年6月6日金曜日

猛将列伝 ~宮崎繁三郎~

 さっき見てみたら広告のところに、「派遣会社リサーチ」というのが貼られていました。多分、グッドウィルの記事を書いたからだと思いますが、なんかえらく皮肉っぽい広告になってますね。

 さて今日の猛将列伝、このシリーズでは私が以前に歴史上の名将を全部まとめて書いてみたいと思ったことがあり、それをこのブログでやってみようと少しずつ書いていますが、これまでと違って今回は近代戦の部隊長、旧日本陸軍の宮崎繁三郎氏を取り上げます。

 旧日本陸軍とくればこれまでにも、映画「硫黄島からの手紙」で一躍有名になった知将栗林忠道、ラバウルにて終戦まで守りきった聖将今村均、シンガポールとマレー半島にて大暴れしたマレーの虎こと山下奉文など、戦闘指揮能力については誰が最も高かったかで挙げられる人物は数多くいます。しかし、現実に誰が一番かというと、あの水木しげるをして「日本陸軍、最強の将」と言わしめた、この宮崎繁三郎を私も推します。

 この人がどんな人物かというと、言ってしまえば「無冠の将」といったところでしょうか。戦史に記録されている中でも、この人が関わった戦争で勝利した戦争は一つもありません。しかし、彼が関わった戦争というものは傍目にも、異常な環境にあるものばかりです。
 まず挙げられるのが「ノモンハン事件」。これは満州とソ連の国境争いが元に起こった紛争ですが、基本的に戦争で部隊とは半数でも死傷者がでれば大損害なのですが、この戦いでは日本軍は確か一個師団がほぼ全滅になるくらいコテンパンにやられたと言われています。そんな中、局地戦ながら唯一勝利した部隊というのがこの宮崎繁三郎氏の部隊で、しかもこの人は戦闘に勝利して高地を奪い取るや、その場所に自らの部隊名と奪取した日付を書いた石碑を埋め、戦後の国境画定の際に石碑を掘り出し、その高地は日本軍が勝ち取った場所だということを証明して日本側に有利に国境を広げています。この行為にはソ連軍も驚嘆したそうです。

 そして彼が関わったもう一つの戦争というのが、あの悪名高き「インパール作戦」です。これはインドの独立活動家に東条英機が泣きつかれ、無計画にインドを攻めるために行われた作戦です。この戦争では全体で八万の兵士が出征し、七万人以上が帰って来なかったというほど凄惨を極めた作戦で、しかもその死亡原因の大半は餓死によるものだという、補給線を無視した最低の作戦と今でも語り草とされています。因みに以前に読んだ記事によると、栄養不足による病死を含めた広義の餓死が、旧日本陸軍の兵士死亡原因の七割にも及ぶそうです。本当に、馬鹿な戦争をやったと思います。

 さてそんなインパール作戦ですが、最初から無茶な作戦であるにもかかわらずこの宮崎氏の部隊は連戦連勝。しかも、足りない食料などの補給を敵から奪い取りながら進み、現地で略奪行為はほとんど行わなかったというくらいですから神懸り的です。そうして奪った奥地の拠点のコヒマにて補給を待ちますが、そんなものとても運べるような計画ではなく、いつしか英米軍に包囲されてしまいました。そんな絶対不利な状況にもかかわらず、一ヶ月以上持ちこたえたというのですから大したものです。また、その後の撤退戦でも見事な奮戦振りを見せ、見事部下とともに帰還を果たしています。

 しかし、彼を「最強の将」と呼ばしめるのは、このような絶対不利な状況でも持ちこたえる彼の指揮能力だけが理由ではないと思います。というのも、彼はどんな状況下でも部下を見捨てず、自ら負傷兵を担架に担いで撤退を行うほどだったようです。また部下達も宮崎氏のことを戦後も賞賛し、また戦闘でも彼の命令を忠実に守ってお互いに負傷兵をかばいあったというほどですから、その名将ぶりが伺えます。

 そんな宮崎氏ですが、晩年には何度もうわごとで、「分離した部隊を間違いなく掌握したか?」と何度も呟いたそうです。エピソードから類推できる彼の性格を考えると、どんな思いでこのうわごとを呟いたか、胸が詰まる思いがします。
 何もこの宮崎氏に限るわけではありませんが、旧日本陸軍ではこうした活躍した士官ほど権限も低く地方に飛ばされ、失敗を何度も犯す無能な士官ばかりが中央で出世しています。どの組織でも大事ですが、信賞必罰こそ唯一組織を維持できる鉄則だと私は思います。

  今回の参考文献
「昭和の名将と愚将」
 半藤一利+保坂正康 文春新書 2008年出版

2008年4月20日日曜日

猛将列伝~島津義弘~ と日韓の歴史の違い

 多分信長の野望とかやった人ならこの人は知っていると思います。島津家の次男坊で鬼島津こと島津義弘です。ゲーム中でも、戦闘能力はどのシリーズでもトップの上杉謙信には及ばないものの最上位に食い込む高さを誇っています。

 一般に習う範囲の歴史だと関が原の決戦においての活躍がまず紹介されています。すでに西軍にとって敗色が濃厚だった頃、残った島津軍に対して東軍が攻撃を仕掛けると、なんと島津軍が逆に突撃をかけてきたといいます。本来ならば退却する戦況であるにもかかわらず、この時島津義弘は追撃を免れるためにあえて敵軍突破を採用し、見事関が原から撤退をしております。まぁ、兵士はほとんど死んだらしいけど。

 この人はこのようにとにもかくにも戦闘のエピソードが多い人です。九州での戦いから朝鮮の役までともかくいっぱい。特に朝鮮出兵では寡兵にて何度も朝鮮軍を撃退し、最終的には朝鮮軍の名将李舜臣も討ち取っており、そのあまりの活躍ぶりに朝鮮の歴史でも「シーマンズ」という名が残り、長い間恐れられたらしいです。
 ただ晩年にはボケてしまったらしいですが、家臣が「殿、戦ですぞ」と言うと、目の色変えて鎧を着けだしていたようです。最後の最後まで戦のエピソードです。

 ついでに言及しておくと、何の作品だかは忘れてしまいましたが、芥川龍之介が歴史について考察を書いており、
「朝鮮の歴史では二人の英雄が日本軍の本陣に乗り込み、朝鮮出兵中に総大将の小西行長を撃ったというように記されているが、小西行長は知っての通りにその後に起こった関が原の合戦で敗戦した後に徳川に首をはねられている。このように、二つの国で歴史を一致させるのは非常に難しい」

 と、まるで現在の教科書問題を筆頭とする日韓の歴史問題を見透かしたようなことを書いております。実際に日中についても、片方が自国の歴史で当たり前と思っている事実が無効では全然別にとられていることもあり、表ざたになっている問題などより実際にはずっと大きな誤解がそれぞれに横たわっていると思います。
 あえて私から提言するなら、それぞれのややこしい問題にならない範囲から両国の歴史を一致させていく必要があるのではないかと思います。一例を言うと、中国での革命の父である孫文は中国では一般的に「孫中山(ソンチョンシャン)」と呼ばれていますが、これは孫文が日本に亡命中に近くにあった家の苗字が「中山」さんで、それが気に入って使っていたというらしいです。こんな風に日本とのエピソードが結構あることはあまり日本人も中国人も知りません。

2008年4月13日日曜日

猛将列伝~韓信~

 また歴史関係のを書こうと思うので、今日は韓信について解説します。

 さて韓信という人物を知っているでしょうか。恐らく一般の方には、「あの背水の陣という言葉を作った人だよ」といえば通りがいいでしょう。この人は前2世紀あたりの人で、中国の漢楚攻防時代の将軍です。
 まず率直に言って、あらゆる歴史を私は勉強してきた自負がありますが、この韓信以上に強いと思われる軍人はまだ見たことがありません。それこそあらゆる戦いにおいて窮地らしい窮地に落ちることなく、文字通り一度進軍すると電光石火の如く敵軍をことごとく倒していっています。

 この韓信本人も、自分の指揮能力に相当自負があったのか自分の主人である劉邦との宴会中に、
「殿は軍を率いるとしても、せいぜい十万人ぐらいが限界でしょう」
「なら、お前はどれほどまでいける?」
「あればあるほどいけます」
 と述べています。
 実際に、漢楚の最終決戦である垓下の戦いにおいて、各地域からやってきた軍団をまとめて率いており、それも見事な統率振りだったと記されています。

 ただこの韓信について、「背水の陣」という言葉はやや独り歩きしているように思えます。この言葉は韓信が趙を攻めた北伐の最中に、敵軍は自軍より多い数を頼みにして自分から攻めてくる。なおかつ、謀略を謀れる人物がいないという状況を見定めて、陣を敷いたという背景があります。そしていざ実際の戦闘が起こると、その伝えられているように川を背にした韓信の軍隊は必死で防戦し敵の攻撃を持ちこたえていましたが、その間に韓信は別働隊を放っており、すっかりもぬけの殻となっていた敵軍の城を奪い取り、その上で改めて挟み撃ちにし、敵軍を破っております。

 一般に、背水の陣というと死中に身を置いて逆転するという意味として捉えられがちですが、実際には必勝の布陣の上での一つの要素にしか過ぎません。ただやたらと危機感を煽ったり逆境にいればいいというわけではなく、きちっとした勝算をもって物事を謀るべきだと私は思います。