ページ

ラベル 韓国の近現代史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 韓国の近現代史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年3月27日水曜日

韓国の近現代史~その六、朴正煕のクーデター

 この連載も個人的に書いてて楽しいところまでようやくたどり着いた気がします。そんな今回はある意味で今ホットというか恐らく韓国史を扱う上で最重要人物の一人である朴正煕の政治界デビューこと、5・16軍事クーデターを取り上げます。

5・16軍事クーデター(Wikipedia)

 最初に前回までのおさらいをします。前回では韓国の初代大統領、李承晩が朝鮮戦争を経た後も自身の地位保全のため選挙妨害などを行うなどしたことからデモが起こり、1960年に退陣して亡命するところまで書きました。
 李承晩の退陣後、韓国では尹潽善(ユン・ボソン)という初代ソウル市長でもある民主党最高委員が二代目韓国大統領として就任しました。ただ李承晩の後に改正された韓国の憲法では大統領にはあまり実権がなく、政権はむしろ首相であった張勉という人物が運営するような形でした。この時期の韓国政界の特徴としては、ほかの時代や国でも同じですが、共通の敵(=李承晩)を打倒した後というものは主導権争いこと内紛が起こるもので、韓国でも与党である民主党内部で激しい内紛が起こり政局は安定しませんでした。また本来協力し合わなければならない大統領の尹潽善、首相の張勉の二人の関係もしっくりと行かず、こうした状態に懸念を持つ勢力が出てきたということです。

 その懸念を持った勢力こそ、ほかの何物でもない軍部で、1961年には後に大統領となる朴正煕ら韓国陸軍士官学校8期生を中心に軍事クーデターが実行されます。
 彼ら軍部がどうしてクーデターを引き起こしたは色々な要因がありますが、Wikipediaに書かれている内容を抜粋すると以下の通りとなります。

1、自由党政権を引き継いだ民主党政権の政治的無策と党内抗争
2、民主的改革に対する民主党の曖昧な態度、経済状況悪化[2]に対する国民の不安の高まり
3、学生や革新政党を中心とする民主化運動と「行こう!北へ!来たれ!南へ!会おう板門店で!」をスローガンとした統一運動の高まりに対して軍部が危機感を抱いた。
4、分断の固定化と朝鮮戦争によって肥大化した韓国軍では軍人事が停滞し、それによって進級が進まなかった下級将校に不満が蓄積されていた。
5、不正腐敗を働いた高級軍人を追放するため下級将校によって進められた「整軍運動」が失敗し、運動の首謀者が追放されそうになっていた。

 1~3までが社会的背景で、4~5が直接的要因と書かれてあります。私個人の意見としてはやはり4番の理由こと、出世要因が最も大きいとみます。軍人というのは基本、戦争がなければ飛び抜けた実力、才能があってもなかなか出世しづらい職業です。それ故に平時は官僚同様に年紀で昇進するわけなのですが、上記にも書かれている通りに何かの拍子で軍人が余っちゃうと途端に出世が遅れ、8期生とか11期生とか、士官学校の卒業年代別で階級に大きな隔たりが生まれます。それ故に軍隊というのは世代間対立が激しい所で、戦前の日本で起こった皇道派、統制派の対立も突き詰めると世代間対立が原因で、最終的に二二六事件にまで発展したことを考えるとこのクーデターもそう言った対立の延長かなと思ってしまいます。

 話はクーデターに戻り、当時少将だった朴正煕を中心とした8期生の将校らはデモ鎮圧を口実に出動し、そのまま国会やテレビ局といった国家の主要施設の占拠に成功します。驚くべきはこの時のクーデター実行部隊兵数で、わずか5000人にも満たない兵力だったそうです。
 何故それだけの兵力で国盗りが見事に成功できたのかというと、一つにソウルの主要施設をすぐに占領できたことと、軍部の長老の懐柔にうまく成功できたという二点が挙がります。後者の軍長老の懐柔ですが、要するに身の安全や今後の保証を約束した上でクーデターの正当性を認めさせたということなのですが、実際にはこの約束は反故にされてクーデターの成功後、軍の長老らはみんな放逐されております。

 また成功要因としてもう一つ、権力保持側である政権がほとんど抵抗する姿勢をみせなかったということもあります。クーデター開始後、時の首相の張勉は女子修道院に隠れ姿を見せず、大統領の尹潽善もクーデター実行部隊側の要求を聞き入れて非常戒厳令を追認しております。こうした二者の行動に対して批判する声もありますが、当事者としては命にかかわる事態だっただけに私としては批判する気はありません。

 こうして権力を握った朴正煕は国家再建最高会議を組織し、自らが議長に就任。反対デモなどを武力で抑えて軍政を展開します。こうした事態に対して米国こと在韓米軍は、クーデター直後は尹潽善にクーデター軍鎮圧のため軍隊を出すべきだと進言しますが内乱を過熱化させるとして尹潽善は拒否します。そうこうしているうちに米本国は、当時はケネディ政権でしたが朴正煕政権を追認し、朴正煕もこれに応じる形で訪米を果たしております。
 この時の米国の追認ですが、背景にあったのはベトナム戦争だと私は考えています。既に米国はベトナムへの干渉を行ったものの事態は泥沼化を辿っており、下手に手を突っ込んでグダグダになるくらいなら、政権移行がスムースに行くようであれば追認してしまおうと考えたのではないかと思います。どうでもいいですが、日本ではケネディはベトナムからの撤退を準備していたという神話が流れておりますが、ベトナムを泥沼化に追い込んだのはほかならぬケネディでしょう。

 そういうわけで次回は、軍事政権を経て大統領に就任した朴正煕の施政を解説していきます。

2013年3月24日日曜日

韓国の近現代史~その五、李承晩

 このところテンションの上がらない状態が続いておりますが連載再開です。自分でもメンタル弱いのかなとか思ったりしますが、別の見方をすれば今の状態でもブログ更新続けてるのだからもしかしたらタフな方かもしれません。それにしても、ああしんど……。

李承晩(Wikipedia) 

 今日取り上げるのは韓国の初代大統領の李承晩(イ・スンマン)です。彼の来歴を王と共に健康書記の韓国の動きを解説します。

 李承晩は朝鮮半島が日本の植民地だった頃からアメリカに渡って独立運動をしており、1919年に上海市で大韓民国臨時政府が結成されるとこの機関の大統領に就任しております。
 もう少しこの臨時政府について説明すると、要するに日本統治下の韓国の政府機能を認めず、こっちが本流だとばかりに作られた仮の政府です。二次大戦中の仏亡命政府と比べるとあまり国際的な承認を得られませんでしたが、この時の臨時政府跡は今でも上海市、それも観光地である新天地という場所の近くにあって行くつもりはないのしょっちゅう目の前を通っておりました。

 このように独立運動を続けていた李承晩たちでしたが、最終的には日本が二次大戦で敗戦し朝鮮半島の南半分を占領した米国によって与えられる形で独立を回復します。それまで海外で活動していた李承晩達も帰国して政府の設立準備を始めますが、その他多くの国同様に指導者間で徐々に主導権争いが活発化していきました。
 この主導権争いで李承晩は、左派と右派を統合した幅広い政権作りを考えていた呂運亨に対し、米国が望む左派の徹底的弾圧を掲げたことによって米国の支援を受けるようになり、徐々に主流派となっていきました。こうした中で1948年に行われた第一回総選挙では様々な選挙干渉を行った上で李承晩率いる韓民党は勝利し、李承晩も初代大統領に選出されることとなりました。

 ここまで見れば混乱期に紛れうまいこと大統領になれたというサクセスストーリーですが、先に私の評価を言ってしまうと、李承晩は韓国の内政にはあまり興味がなくどちらかといえば自身の権勢を大きくすることばかりに腐心した節があり、それがため現在の彼への評価もそれほど高くありません。
 そうした姿勢は大統領就任当初からもう見え始めており、李承晩は大統領に強い権限を持たせる大統領制を強く主張したのに対し与党の韓民党は議院内閣制を主張し、議会と激しく対立するようになります。こうして国内の政治闘争に明け暮れていた1950年には北朝鮮が南進して朝鮮戦争が開戦するのですが、この間も米国の方針に逆らって勝手に捕虜の処置を決めたり、休戦条約への署名を拒否したりと、一言で言えば国家元首として如何なものかと思う駄々っ子ぶりを発揮しております。面倒くさいのでここではやりませんが、現在の竹島問題に連なる「李承晩ライン」を引いたのも朝鮮戦争中です。

 そんなかんだで1953年に朝鮮戦争が休戦し、翌1954年は李承晩の大統領任期を迎えます。当時の憲法では大統領は二期までとなっており李承晩は強制的に退任させられるはずだったのですが、「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という自分にだけ都合のいい改憲案を突然出してきました。この改憲案は改憲に必要な3分の2に当たる135票まで1票足らずで否決されるのですが、「四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えている」として、ジャイアンもびっくりな思考転換を図って無理矢理可決させてしまい、そのまま大統領の座に居座り続けました。
 もうこの頃には韓国国民も李承晩に対してほとんど支持してなかったようですが、選挙の度に露骨な妨害工作を行い、政敵だった曺奉岩に対してはあらぬ罪を着せて処刑までかますというなりふり構わない手段をとるようになってきました。現在に至っても李承晩の枕詞に「独裁者」とつくのはこうした所以でしょう。

 ただそんな李承晩にも終わりの時が迫ります。1960年の大統領選挙でも再選を目指していつものように選挙工作を行っていたところ、慶尚南道馬山で反李承晩デモが起こりました。この際に行方不明となった高校生が遺体で発見されたことによってデモは瞬く間に全国へ拡大。ソウルでは186人の死者が出るほどの大混乱となったそうです。
 こうした状況を見て事実上、李承晩の後ろ盾だった米国も態度を一変。経済支援の打ち切りまで示唆されたことから、「行政からは手を引くが、元首は続ける」と譲歩する姿勢をみせましたがさすがに韓国の人ももうこの人を信用してなかったのか、完全退陣を求めデモはますます拡大していきました。

 事ここに至り、ようやくというかやっと李承晩も大統領職の辞任を発表します。辞任発表から約一ヶ月後、韓国にはとどまらず夫人と共にハワイへ亡命し、そのまま韓国には戻らず5年後に90歳で死去しました。

 先にも書いておりますが、彼の統治を見る限りどうも国を豊かにしようとかそういう情熱はあまり感じません。実際、1950年代の韓国は朝鮮戦争の影響もありますが世界の最貧国の一つで1960年代の朴正煕政権時に大幅な経済成長を果たしたことと比べるとあまりにも政治が悪すぎるとしか言いようがありません。
 にもかかわらず李承晩が政権の座に就き続けられたのは米国の後ろ盾があったからでしょうが、米国ももうちょっとマシな人物を選べよと心底思います。わかる人だけわかってくれればいいですが、李承晩はゴ・ディン・ジエムと違ってCIAに暗殺されなかっただけマシだなと皮肉っぽく感じます。

2013年3月20日水曜日

韓国の近現代史~その四、朝鮮戦争 後編

 大分日が空いてしまいましたが、前編に引き続き朝鮮戦争の経過とその結末について書いていきます。前回では北朝鮮の急襲によって米韓側は一時追い詰められたものの、起死回生の仁川上陸作戦の成功によって北朝鮮に対し米韓が逆王手をかけるに至ったところまで解説しました。この時の北朝鮮側の支配地域は元山市に限定されており、誰もが「朝鮮半島の統一は間近」だという風に考えていたでしょう。

 こうした状況下、北朝鮮と国境を接する中華人民共和国では救援(参戦)するべきか否かで大きく揉めておりました。当時の最大権力者と言ってもいい毛沢東らは参戦に積極的でしたが、多くの人民解放軍幹部はWikipediaにも書かれている通りに反対しており、その反対理由をそのまま引用すると、

1、中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
2、長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
3、中華人民共和国建国後も中国国民党政府の支配下のままとなった台湾への「解放」や、チベットの「解放」など、国内問題の解決を優先するべき
Wikipediaより)

 3番にも書かれている通りに当時の中国は蒋介石率いる国民党との内戦に勝利したばかりで、国内の整備もまだ進んでいない状態でした。そんな最中に外征に出る余裕なぞ少なく、場合によっては米軍に中国本土への攻撃を許す口実すら与えかねない状況でもあるため、多くの幹部が反対したという理由に私は納得できます。
 最終的には「人民解放軍」としてではなく「志願軍」、つまり有志の兵隊が勝手に出向いたという形で参戦してきます。実態的には組織された人民解放軍がそのまま攻め入った形になるのですがその兵力は総勢で100万人近いという説も出ており、単独での参戦兵力数では朝鮮戦争中で間違いなく最大でした。ちなみにWikipediaによると主な参戦国の参戦兵力数を列記すると下記の通りです。

・韓国軍:約60万
・米軍:約48万
・英軍:約6.3万

・北朝鮮軍:約26万
・ソ連軍:約2.6万
・中国軍:約78万

 こうしてみると、如何に中国軍が巨大だったかよくわかります。現代にも言えますが、中国の最大の長所と短所はその膨大な人口でしょう。

 話は朝鮮戦争に戻りますが、米参謀本部は38度線を超えると中国軍が参戦してくると懸念していたようですが、実際に指揮していたマッカーサーは「そんなことはない」と主張して進軍していたほどで、恐らく参戦を予想していなかったのでしょう。それだけに突如現れた大兵力に対する備えがほぼなかったため、戦線を一気に38度線付近まで押し返されます。

 なお余談ですが、私の専門である中国の話をするとこの時の中国軍を指揮したのは彭徳懐という将軍で、国民党との内戦でも朱徳とともに大活躍した軍人です。朝鮮戦争でも上記の通りにその才能を遺憾なく発揮したのですが、後年に中国で吹き荒れた文化大革命の際には紅衛兵による激しい暴行を受け無残と言わざるを得ない最後を辿ります。建国の英雄と言ってもいい彭徳懐がどうしてこのような仕打ちを受けたのかですが、毛沢東の掲げた方針に反対したなどいろいろな説がある中、この朝鮮戦争が原因という説もあります。というのもこの朝鮮戦争に従軍した毛沢東の長男、毛岸英が戦死しており、毛沢東自身も後継者と期待していた人物だっただけに大いに嘆いたそうです。仮に毛岸英が生きていたら歴史も変わったかもと、個人的に思います。

 行ったり来たりが続きますがまた朝鮮戦争に戻ると、中国軍の参戦によって北朝鮮側は一時大きく盛り返します。こうした中でマッカーサーはトルーマン大統領に対して原爆の使用許可を求めるなどことごとく中央の方針に逆らったため、1951年にとうとう解任されます。かわって指揮を執ったのはマシュー・リッジウェイで、中国・北朝鮮軍の反撃を38度線付近で見事に押し留めます。その後はほぼ休戦状態となって大きな戦闘も少なくなり、1953年に米国ではトルーマンに代わりアイゼンハワーが大統領に就任し、ソ連でもスターリンが死去したことによる大きな状況の変化があり、そのまま1953年中に休戦協定が結ばれました。もっとも、この休戦協定は北朝鮮側が一方的に破棄すると今月発表したばかりですが。

 この朝鮮戦争は米ソの冷戦が実際の戦闘に発展した最初のケースで、その後のベトナム戦争につながる一つの段階と見ることが出来るでしょう。周辺国に与えた影響はいうに及ばず、当事者である韓国と北朝鮮では国土が直接戦場になり、大量の犠牲者が出ただけでなく離散家族の問題など深刻な影響を受けることとなり、冷戦が終わったにもかかわらず現在に至るまで朝鮮半島が統一されない最大の要因となりました。
 私個人の一意見を述べると、まだ90年代は先ほど挙げた離散家族の問題がよく取り沙汰されておりましたが、ここ数年は長い年月を経て当事者が減ってきているのか、この単語自体が見なくなってきているように思えます。それだけにかつては「同じ民族、二つの国家」だったものが、段々と二国間の民族同士のつながりは減ってきたのかなという気がします。

 あと周辺国の影響ではやはり日本は見逃せません。日本は隣国での戦争の恩恵を最大限に受けたというべきか、特需景気によって戦後低迷していた経済が劇的に回復します。先日にも親父と話しましたが朝鮮戦争と言いベトナム戦争といい、日本は冷戦のさなかで最も恩恵を受ける立場を享受していたように思え、また冷戦の終了とともに競争力を減らしたのかなとも思います。

 そういうわけで二回に渡り序盤の山場である朝鮮戦争を取り上げました。次回は韓国初代大統領である李承晩の大統領就任から落ち目までを取り上げていきます。

2013年3月15日金曜日

韓国の近現代史~その三、朝鮮戦争 前編

 この連載も三回目で、今日は序盤最大の山場に当たる朝鮮戦争を取り上げます。今回の連載を始める前から勉強していたから、書きやすいと言えば書きやすいんだけど。

朝鮮戦争(Wikipedia)

 朝鮮戦争は1950年6月25日に北朝鮮軍が突如として38度線を突破してきたことから開戦しました。先に開戦時における国際状況を説明すると、一番大きいのは  中国で1948年 、毛沢東率いる中国共産党が蒋介石率いる国民党との戦いに勝利して中華人民共和国が勝利しております。北朝鮮にとっては同じ社会主義の政権が国共の接する中国に成立しただけでなく、共産党軍と共に国共内戦を戦った朝鮮族の部隊が北朝鮮軍に合流しております。実戦を経験した部隊であるだけに、金日成の決定に何らかの影響を与えたのではないかと私は見ます。

 ただこうした状況の中、北朝鮮と同じ社会主義勢力の中国、並びにソ連は当初、韓国に攻め込むという北朝鮮の計画に難色を示したと言われております。中国は国民党を台湾へ追い出したと言っても建国まもなく国家機構もきちんと整備されておらず、ソ連も二次大戦で若い男性がほぼ全員戦死したことから労働力不足に喘いでいる上、米軍との直接対決にもなりかねない韓国侵攻を望まなかったと言われており、私もこの説を信じます。
 にもかかわらずどうして北朝鮮は侵攻を実行したのかですが、一説ではソ連のスターリンに対しては「中国からは了承を得ている」と話し、中国の毛沢東に対しては「スターリンからは支援してもらうと約束を得ている」と都合のいいことを言って、双方から支援の約束を取り付けたという説があります。その後の経過を見るにつけ、これも多分間違いじゃないんじゃないかな。

 こうして開戦した朝鮮戦争ですが、韓国側の防衛計画が甘かっただけでなく指揮系統の面でも混乱があったために、序盤は北朝鮮の連戦連勝が続きます。ましてや北朝鮮軍にはソ連から二次大戦中で最強の戦車であったT-34を筆頭に最新鋭の装備が供与されていたのに対し韓国軍の火力は低く、開戦4日目の6月28日にはソウルが陥落しました。
 このソウル陥落時は軍、官憲、市民が一斉に脱出を図ったことからひどい混乱となり、市民が渡河中にもかかわらず橋が爆破され数百人が犠牲となった漢江人道橋爆破事件も起こっております。もっとも朝鮮戦争による非戦闘員こと市民の犠牲はこの後の方がひどく、北朝鮮軍、韓国軍共に進軍先でスパイ容疑をかけるなどして万人単位での大量虐殺を繰り返し、合計すれば少なくとも100万人以上が死亡したと試算されております。

 話は戦況に戻りますが、韓国軍は一時は釜山以外の地域を北朝鮮に占領されるところまで追い詰められます。こうした中で米国は、ソ連が拒否権を発動しなかったのもあって北朝鮮に対して国連軍の派遣を決め、日本でGHQを率いていたダグラス・マッカーサーが指揮を執りました。ただ国連軍の派遣後も戦況はなかなか改善せず苦戦が続いたのですが、こうした中でマッカーサーは起死回生を図り、仁川上陸作戦を実行に移します。

(Wikipediaより引用)

この仁川上陸作戦の上陸地点は上記地図のピンクのポイント、位置にして北緯38度線の西側にあり、当時は北朝鮮の占領地域に当たります。いわば敵地のど真ん中に一気に突っ込むという作戦で米参謀本部ではマッカーサー以外はほぼみんな反対したものの、反対を押し切る形で実行して見事に上陸を成功させました。
 この作戦の成功によって長く伸びきった北朝鮮の補給線は寸断され、逆に韓国軍は作戦の成功に勢いづき一気に反撃を開始し、あっという間に北朝鮮軍を38度線以北に追い帰しました。開戦前の領土を奪回したことからここらで和睦という案も当時出たのですが、「いつ統一するのか、今でしょ」って某予備校講師みたいに言ったかどうかは定かじゃないですがマッカーサーは38度線を越境し、北朝鮮軍への追撃を決断します。

 このマッカーサーの決断に米参謀本部、並びにトルーマン大統領は反対をしたのですが、その理由というのも「38度線を越えたら中国の参戦も有り得る」という情報を得ていたからです。果たしてその予感は当たり、北朝鮮の領土の大半を占領し中朝国境に当たる鴨緑江へ迫ったまさにその時、中国の人民解放軍は志願軍という形で参戦してきました。既にかなり長くなっているので、続きはまた次回で。

2013年3月13日水曜日

韓国の近現代史~その二、独立前後の混乱

 本日から早速「韓国の近現代史」の連載を本格的にスタートさせます。まずは当たり前と言えば当たり前ですが、日本の植民地から独立する前後の時代について書いてきます。

 韓国は1910年に日本によって併合されて植民地となっておりましたが、第二次世界大戦で日本が敗戦したことに合わせ名目上は独立を回復するに至りました。日本の敗戦後に朝鮮半島の処遇については既に米英ソをはじめとした連合国首脳の間で確認されており、米軍を中心とした連合軍が信託統治する方向で決まっていました。ただ日本がポツダム宣言を受諾する以前にソ連軍が単独で満州地域へ進軍していたことから、米ソの間で北緯38度線を境界に北側をソ連、南側を米が面倒を見ると言ってはなんですが分割して占領する方針が確認されました。

 朝鮮半島にとって歴史的に本当に不幸だったのはこの時の分割統治においてほかならないでしょう。朝鮮半島内では1945年に入ってからは早くに日本の敗戦を見越し、朝鮮民族による統一した政府を起ち上げる準備も進められていたのですが、大国の思惑というか戦後の政策を巡って分割されたことによってこれらの統一政府構想は破綻することとなります。

 話は韓国に焦点を絞ります。韓国、当時は南朝鮮は独立運動家の呂運亨らが敗戦前に知日派こと日本統治時代に官僚組織に属していたり、日本に留学を果たしていた同士らを集め朝鮮建国準備委員会を起ち上げておりました。朝鮮建国準備委員会は8月15日の日本敗戦の報を聞くや早速活動を開始し、月の明けた9月6日には朝鮮人民共和国の樹立を宣言するのですが、わずか5日後の9月11日に上陸した米軍からは正式な韓国政府として認められず施政権も米軍が持っていったために、その後の朝鮮建国準備委員会は朝鮮人民党へと変わり政党活動を主に行っていくようになります。

 この朝鮮人民党というか呂運亨グループの特徴は右派からも左派からも幅広くメンバーを揃えて左右合作を唱えていた点にあるのですが、メンバーの全体的な構成では左派勢力が多かったと言われます。こうなった原因は私の推測ですが、日本の敗戦とともにそれまで囚われていた左派系の政治犯が解放されてこれと合流した事が大きいように思えます。
 一方、右派系の独立運動家は朝鮮内よりも上海をはじめとした海外に数多くおり、日本の敗戦から徐々に戻ってきて韓国民主党(韓民党)を結成し、韓国の社会主義化を懸念する韓国財界からも支援を受けて勢力を拡大していきました。また米軍もアメリカでの政治活動経験のある李承晩を推し、彼と韓民党を結びつけて右派勢力の糾合、悪い言い方すると傀儡政権作りを本格化させていきました。

 こうした中、韓国国内はもとより北朝鮮領域内の政治勢力との連合も模索していた呂運亨が暗殺されます。記録を見る限りこの呂運亨は穏健派の政治家だっただけにもう少し生きていればまた何か違ったような気もするのですが、彼の死によって韓国では右派勢力がますます力を伸ばし、逆に左派勢力への弾圧は徐々に強化されていきます。
 この時期は韓国は北朝鮮に、北朝鮮は韓国で政治工作を活発に行っていましたが、そうした中で済州島では警官の発砲事件をきっかけにゼネストが発生し、これに対し右翼勢力や軍が介入して徹底的な社会主義者への弾圧が実行されます。この事件は済州島四・三事件と呼ばれていますが、島民の5人のうち1人、実に約6万人が虐殺されたそうでこの時の難から逃れるために日本へ渡ってきた在日朝鮮人の方も多かったそうです。この事件は本当につい最近になってようやく事実関係が明らかになってきた事件なのですが、恐らく韓国のほかの地域でもこれほど大きくなくても似たような事件が当時は多発していたと思います。

 皮肉な言い方をすればこうした赤狩りの甲斐あってか韓国では米軍の支援の元で右派勢力が多数を占めるようになり、1948年に実施された総選挙を経て韓民党は多数派を占め、李承晩は初代大統領に選出されます。ただ朝鮮半島の南側で独立した政府が成立したことから北側との分断、いわば統一政府構想も破綻することとなりました。
 そうまでして出来た政府ですが、設立当初は大統領の李承晩と議会が何度も対立するなど国家形成の面ではやや足踏み状態が続きます。一方、強大な権力で基盤を固めていた北朝鮮ではソ連の支援の元、 まさにこの時に 戦争準備を固めていたのでしょう。そういうわけで次回は、前半の山場に当たる朝鮮戦争を解説します。

2013年3月11日月曜日

韓国の近現代史~その一、はじめに

 本日からまたしばらくこのブログで連載記事の執筆に取り掛かろうと思います。今回取り掛かるテーマはタイトルにもある通りに韓国の近現代史で、二次大戦後の日本の植民地からの独立から現在の朴槿恵大統領に至るまでの通史をなるべく簡潔にまとめていこうと考えています。

 今回連載をはじめようと思ったのはちょっと前にコメントでまた何か連載をはじめないのかとの書き込みがあったのがきっかけで、執筆するに当たっても現状は余裕がある状態だったのが決め手です。連載をはじめるに当たってどのテーマに手を付けようとしばらく考えていたのですが、中途半端なものにはしたくなかったから自分が比較的得意とする歴史物でなにかと照準を定め、当初は中国の明、または宋の通史が候補でした。

 中国史であればリアルに中国人よりも詳しい自信あるし(実際に中国人にもそう言われた)さらっと書くなら現状の知識でも対応できると踏んではいたのですが、なんかそれだともったいないというか、せっかく勉強する余力もあるのだからまだ手を付けてないテーマの方がいいようにも思えてきました。そう考えている中、朝鮮というか韓国の歴史は今まであまり勉強してきて来なかったことを思い出し、今この時点で勉強することによって日中韓の東アジア三ヶ国の歴史を同時に語れるようになるのではと欲が芽生えました。仮にその範囲が近現代に留まるとしても自分が国際政治を見る上でいいツールになると判断し、最終的な決断へと至ったわけです。

 この連載テーマについて相談した友人からは、「各方面から批判が来るかもよ」と軽い注意を受けましたが、そもそも日本において韓国史は特定の問題、具体的に挙げると竹島問題と従軍慰安婦問題に絡んで特定の部位にのみ説明されることが多く、全体を眺める通史が極端に不足しているように私は感じます。実際に今回の連載に当たって何か一つでもいいから資料に目を通そうとAmazonで検索をかけたところ、近現代の通史を解説する本は自分の想像以上に極端に少なかったです。逆に言うならば、だからこそブログなりなんなりで通史を解説する価値もあるように思え、前の「文化大革命とは」の連載ほどまで行かなくともそれなりに面白い連載になるような気がします。

 先に今回使う、というより自分が買った資料を紹介すると、文京洙氏の著書の「韓国現代史」(岩波新書)です。近現代の通史を取り扱っている本がタイトルを見る限りこれしか見つからなかったので買いました(今日Amazonから届いた)が、厳しいことを言わせてもらうと必ずしもタイトルと内容が一致する本ではありませんでした。一応は独立から盧武鉉政権まで解説がありますが、その大半は韓国全体の近現代史というよりも光州事件をはじめとする済州島、全羅南道地域における市民らの政治闘争史の解説で占められております。はっきり言えばタイトルと内容が一致しておらず、勝手な推測ながら言わせてもらうと筆者が書きたかったテーマと編集者が意図していたテーマが一致せず、いわばコミュニケーション不足が原因でこんな本になったんじゃないかと邪推しております。
 特に編集者の方に対して強く言わせてもらうと、本の中盤ではベトナム戦争のことを「インドシナ戦争」と表記してあるのに後半では「ベトナム戦争」という表記になっていたりと、用語の統一すらおぼついておりません。それだけにさきほどのコミュニケーション不足を強く疑わざるを得ません。

 以上のような本であることから、当初は引用するのだしAmazonのアフィリエイト広告でも貼り付けようかと考えておりましたが、韓国近現代史の解説本としてはちょっと紹介しづらいので見送ります。実際に政治上で結構重要な事件とかがさらりと流されたり、紹介されてなかったりするし。

 そんなわけでまた今度から連載を始めていくので、興味のある方はどうかご覧ください。方向性としては竹島とか従軍慰安婦とか面倒な話はほかでもたくさん解説サイトがあるので無視し、韓国国内の政治の動きと現在の朴槿恵政権にどう繋がっていくかに焦点を絞っていく予定です。