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2023年2月23日木曜日

意外と見つからないAIの活用法

「やめて」「この野郎」「ドーン」叫び声や物音が…“女性アナ宅侵入”NHK男性アナ逮捕 3階から飛び降りてケガ(FNN)

 上の記事の見出し、特に「ドーン」を見て、「現場に喪黒福造でも来てたのかよ」と本気で勘違いしそうになりました。っていうかシチュエーション的に、実際に彼がいてもおかしくなさそうなのが笑える。
 なお変に触発されてか同僚に、「これ、日本で黒いドラえもんって呼ばれてる作品なんだよ」とビリビリで配信されている2017年版のアニメのリンクを送信しました。でもマジで笑ゥせぇるすまんは中国人にこそ見てほしいしヒットしてほしい。

 話は本題ですが、友人から先日ChatGPTが日本で盛り上がっていると聞きました。聞いた時点では何のことかわからなかったのですが、先週に入ってきた辺りからまとめブログにもよく出てくるようになり、確かに大きな盛り上がりになっているのがわかります。
 このChatGPTはマイクロソフトが出資しているとのことですが、これ聞いて思ったのはGoogleの凋落ぶりです。GoogleはかねてからAI開発に力入れていると自ら宣言してきましたが、ChatGPTが出たころに出したAIが初歩的なミスをやらかして株価が下がったように、これまで目立った功績はあまり聞きません。翻訳とかでもGoogle翻訳はあんまいいとは聞かないし、DeepLとかの方が知名度も高いでしょう。なお地味にMSN翻訳の性能はいいと私は評価しています。

 話は戻しますがGoogleはぶっちゃけ検索、それとAndroid以外であまり実績を目にせず、ゲーム事業を始め手を出した新規事業は割と空振っていることが多い気がします。それこそ成功に至れる新規事業をAIにでも聞いてみたらと、内心思います。

 話が二転三転しますがそんな盛り上がりを見せるAIですが、具体的な活用法に関しては意外とまだないのではないかとみています。っていうか実際にAIを売るコンサルの友人から、企業向けにAIをデザインして販売するにあたり、どんな活用ができるのか教えてほしいと相談されたことがありました。
 現在のところChatGPTは大喜利、つまり冗談めかした会話や回答を出すのが主な使われ方となっており、AIだからできる社会的な仕事はまだ見つかってないような気がします。まだ翻訳とかなら使えますが、仮に自動車部品製造業とかでAIがあればどんなことに使えるのか、それこそChatGPTに聞いてみないとわかりません。これは言い換えると、AIの産業活用は意外と難しく、一般企業向けに販売するのも難しいのではないかとみています。

 それこそ自動運転とかはっきり機能目標がある分野なら別ですが、汎用的なAIで何ができるかと言ったら結構絞られてきます。AIの強みとしては瞬時の判断力であることから、原材料にレアアースや貴金属を使うメーカーなんかにこの手の原材料の相場データを読み込ませ、最適とみられる調達時期を割り出すのとかどうかと友人には提案しましたが、ぶっちゃけこれ以外は私も浮かびません。
 またAIイラストもこのところはやってきていますが、最初でこそ物珍しさがあったものの、目が慣れてくるとやはり似たような特徴を持っていることが一目でわかるようになり、個性のない絵のように見えてくるようになりました。既存のイラストから目や口を少し動かせ、Live2Dみたいに仕上げるのならともかく、ゼロからフルデザインするイラストで多くの人の目に適う作品となるとまだ早い気がします。

 こんな感じで、すごいAIができてもその活用方法ができないと、果たして事業として成立するのかという点で疑問を覚えます。むしろ活用方法ができてからの方が、AIとしても開発速度が高まるのではないかと思います。

 ということを超頼りになる中国人の友人に話してみたところ、意図するソースコードを伝えてドラフトを作ってもらえば、それを手直しするだけで割と使えるようになるためこれは便利だと、すぐさま応用法を示してくれました。またイラスト専門AIに対し、どんなふうに指定すれば意図通りに描いてくれるのかをChatGPTは教えてくれるそうで、いわばAIへの指示をAIが翻訳してくれるということで、若干皮肉な感じもするけどこれもまた活用法としてアリだそうです。
 そんなわけで、なんだ結構あんじゃん(´・ω・`)的なオチになりました。

2023年2月22日水曜日

好きな新語、嫌いな新語


 上の画像はネットで「社畜リムジン」と言われててさもありなんと思いました。実際はパノラマ撮影がいい感じになってできた写真らしいですが。
 ちなみに「首都高最高のレーシングカー」と呼ばれるプロボックスですが、一回プラモ作ろうと思ったけどキットの値段高くて見送りました。割と思い入れある人多いから、いろんなバリエーションで出せばいいのに。

 話は本題ですが、密かに「出羽守」という新語が大好きです。これは「海外では~」などとことあるごとに海外と日本を比較して日本をディスる発言をする海外帰りの人を揶揄する言葉で、自分も「中国では~」を連呼しているあたり、この出羽守に属すという自覚があります。
 「では」という発音にかけていることと言い、なおかつ実際に世の中にたくさんいるけどこれまで個別名称がなかったのと、若干田舎大将っぽさを感じさせる「守(のかみ)」という言葉に仕上げたのは見事というよりほかなく、あんま使いどころないけど実は大好きな単語です。

 逆に今嫌いな新語を挙げるとしたら、「ファーストペンギン」です。これは最初にペンギンが飛び込むとその後続々と後のペンギンが飛び込むことから、「勇気ある先駆け者」的な意味合いとされていますが、どちらかというと「正直不動産」で使われていたように、詐欺で相手をだます際に「さすがファーストペンギン」などと持ち上げる常套句として使われることが多い気がします。
 そもそもこの単語の意味であれば「一番槍」でもよく、既存単語があるにもかかわらず横文字使うあたりマジ意味わかりません。まぁさすがに「一番搾り」は別の意味か。

 なお上記例に当てはまるシーンが実は去年あり、契約の関係で所属先の法人を一昨年に切り替えた影響で、去年中ごろに確定申告を行わなくてはならなくなりました。日本でも大量の鬱症状者を確定申告は生み出していると聞きますが、それでもまだ日本国内なら超余裕じゃんと私は思います。確定申告を中国でやれって、ぶっちゃけハードル高いし自分もかなり鬱になりました。
 そのため、会社からは「行っとけよ」と言って申告の仕方の案内とかも通達されていましたがなかなかやる気が起きず、一回トライしてみようと思ったら税務署になんか登録とかしなきゃいけないとか書かれてあって、「まぁいざとなれば追徴大目に払えばいいか(-_-;)」などと見て見ぬふりして放置していました。

 そんなこんだで申告期限が近付く中、社内の日本人同僚が隣で「税務署への登録に行きたいんだけど」と中国人スタッフに相談していました。この時、「そうだ、こいつについていく形だったらすんなり処理できるかも(・∀・)」と閃き、背乗りする形で「おう、税務署行くんだな。俺もついでに行ってやるよ(´・ω・`)」などと偉そうな口ぶりで同僚に同行することに成功しました。
 するとこの私と同僚のやり取りを見ていたほかの同僚たちも、「ちょうどいい、俺たちも連れてってくれよσ(゚∀゚ )オレ」などと次々と手を挙げ、さらには翌日に税務署行くから席空けるとチームメンバーにメールで伝えたら、「僕も連れてってください( ;∀;)」と、さらに追加メンバーが増えました。

 まさに上記の状況における同僚がファーストペンギンともいうべきものでしたが、私自身はペンギンなんかより、誰もが恐怖して抵抗することすらあきらめた魔王(=税務署)に対し、敢然と立ち向かう者が現れ、その勇気に打たれて共に戦うため同行を願うものが相次ぐという場面が思い浮かび、「ああきっと、勇者っていうのはこういうことなんだな」などと勝手に納得していました。そういう意味では、ペンギンなんかよりも「勇者」って呼称の方がいいと思っています。
 まぁその勇者となった同僚、毎回トラブルに巻き込まれるから「地雷原に入って全地雷を踏み抜く男」などと陰で呼んでたりするのですが。

2023年2月21日火曜日

ロシアが脅しを言えば安心できる

プーチン氏、核軍縮の履行停止を表明…ウクライナ侵略を正当化「米欧が戦争始めた」(読売新聞)

 上のニュース見て、「おっ、ロシアは核軍縮を続けるんだな(・∀・)」って感じで安心しました。なんでこんな判断したのかというと、このところのプーチンはやるといったことはやらず、やらないといったことはやるという狼少年になっているからです。具体例としては、

・ウクライナとの戦争は起きない→起こした
・ウクライナを解放する→実際は抑圧しようとする
・原発施設には攻撃しない→攻撃してた
・戦争犯罪はしていない→ブキャをはじめ虐殺していた
・すぐに目標を達成して見せる→できない
・ロシア軍は負けない→負けてる
・作戦は順調に進んでいる→どこが?
・徴兵はしない→した
・その気になればロンドンなんてミサイル一発だ→言うだけ言ってやらない
・ウクライナへの支援はロシアに対する宣戦布告だ→支援国に対し戦端を開かない
・いざとなったら核の先制使用も辞さない→いざって事態になってんのにまだ打たない

 仮にこの1年におけるプーチンの有言実行率を測ったら、やばいくらい低い数値が出るんじゃないかと思います。そもそも本気で核攻撃とかを実行する気なら、わざわざ予告なんてせずに黙ってやる方がずっと効果が高いです。それをわざわざ予告する当たり、実際にはやるつもりがないからこそ脅しとして使っているのでしょう。ぶっちゃけ、核攻撃などについて何も言及しない方が私としては何するかわからない点で怖さを覚えますが、このような脅し文句を使うあたりは実際には行うつもりがないとみていいのではないかと思います。


 同様にこのニュースを見て「」ベラルーシの参戦はないな」と確信しました。理由も同様に、本当に参戦するつもりがあるなら絶対にこんな発言するわけないし、こんな発言して敵に警戒させる時点でまともな指揮官ではないと言えるからです。本当にやる気なら、「ベラルーシはこの戦争に関与することはない」と言い切って相手を油断させた上で突然攻撃を始めるでしょう。

 この辺は沈黙が金というべきか、具体的な選択肢について「あるんだけどどうするかは言わない」方が、脅しとしては効果が高いと私は思います。若しくは、「ベラルーシが参戦するかも」ということを第三国の人間に言わせたりするという手段も考えられますが、自分で言っちゃう辺り、やる気がないと宣言しているようなものです。

 またロシア軍はこれまで、

・最新兵器を前線に持ってきたぞ!→位置特定されてすぐ撃破される
・年末だしみんなでパーティだ→位置特定されて大量の死亡者を出す

 ということを戦闘で繰り返しており、ある意味馬鹿正直だけど、無駄に自分たちの情報を明かしては自らを敗退に追い込む敗北主義者的な行為をやってたりします。思うに国内の情報統制に慣れ過ぎて、外部への情報漏れ対策や対外発信方法に対する意識がすっからかんになっているんじゃないかと思う節があります。それだけに先ほどの脅し文句とかも、黙ってりゃいいのにわざわざ言ってしまってやる気がない手の内を明かしてしまっているということも自分で気づいてないように見え、多分揺さぶれば勝手に機密情報をもっと出してくる気すらします。

 その点でいえば、まだ日本の方がこの辺の対策ができているかもしれません。台湾有事などに関しても具体的にどうするのかはいちいち発表しないものの、ある程度シナリオを練ってそれぞれに対応した行動指針は作っていると聞きます。それらシナリオはわざわざ公表するまでもなく、黙っているからこそ中国に対する牽制となるわけで、こうした「無言の牽制」をロシアが持ってない、または持てなくなった辺り、分不相応な野心を持った国と言わざるを得ません。

2023年2月20日月曜日

書評:司馬遼太郎の「北方の原形 ロシアについて」

 以前なんかの記事で最近のロシアの行動について司馬遼太郎の本が非常に参考になったと書かれていたので、自分もその本こと「北方の原形 ロシアについて」をこの前読んでみました。結論から言うと非常に面白かったです。

 元々、私自身は司馬史観について海軍善玉論に異常に傾いていることなどから反発があったのと、司馬遼太郎の小説はやや自分のスタイルとは異なる(美文調に偏っていると感じる)ことからいくつか読んだもののあまり好きになれず、彼の著作などに関してはこれまであまり手に取ることはありませんでした。
 ただ遊牧民族マニアだということはかねてから聞いており、その点ではロシアの成り立ちについてもある程度の知見は見込めるという憶測と、ウクライナ戦争開戦以前のロシア評を、佐藤優氏をはじめとする鈴木宗男の関係者以外の目線で探りたいという思惑から、今回こうして手に取るに至りました。機体に違わなかったというか、歴史的な経緯を追いつつこれまで見なかったロシアに対する分析が描かれ、「司馬遼太郎やるじゃん(σ・∀・)σ」とか失礼なことを言い出したりしました。

 内容に関しては実際に手に取ることをお勧めしますが、中でも自分が一番感銘を受けた分析として、江戸時代あたりの近代におけるロシア貴族と幕藩体制下の藩主の所有権に関する差についての記述は目からうろこでした。

 曰く、日本の藩主があの時代に所有していたのは石高だけであり、幕府の転封命令を受ければ所属地を移らなければならなかった立場を考慮すると、その土地と住民に対する所有権(=完全支配権)は持っていなかったと書かれてあり、まさにその通りと言えます。
 それに対し、皇帝の権限が弱い一方で大きな権限を持っていたロシア貴族はその封地において絶対的な権限を持ち、農奴である土地住民は移動の自由すら持ってなかったばかりか、その生命権すら貴族に握られていたそうです。実際、むやみやたらに住民殺しまくったというロシア貴族の話はよく聞きます。

 こうした所有権の違いから、支配に対する価値観がロシアは日本はおろか、ほかの西洋諸国とも大きく異なっていると司馬遼太郎は指摘しています。その上で、貴族と一般住民との間の隔絶も異常に激しく、まさに人か家畜かともいうべき差で、貴族らはその住民に対する憐憫をほとんど持たなかったと指摘したうえで、現代ロシア(当時はソ連)においてもその傾向は中央共産党官僚とそれ以外の人民の関係に見られると述べています。これはそのまま、気にせず死兵を繰り出す今のロシアについても言えることでしょう。

 またシベリア経営のため、絶対的に不足していた食料をロシア西部などから送るのではなく、海伝いに日本から調達するため、江戸時代の日本に何度も貿易を起こすため使節を送っていたことなども説明されており、恥ずかしながらこの辺の事情についてはとんと知りませんでした。もっともロシアは食料に対する交易品にシベリアでとれる毛皮が日本に売れると思ってたそうですが、毛皮よりも絹や綿を好む日本からは全く相手にされなかったそうです。っていうか毛皮とかぶっちゃけ野蛮だなと、現代人である自分ですら思います。

 以上のような司馬遼太郎の解説を見て私が感じたことは、特にシベリア経営のくだりを見て、本質的にロシアという国は物を育てたり作ったりする農耕性が全くない民族の国だなと感じました。では狩猟民族なのかというとそれもまた違うように思え、敢えて言えば採集民族で、その土地にある天然資源を収奪して売ることしか考えず、集団というのは基本的に搾取-被搾取の関係しか持てないのではないかとすら思いました。
 具体的には前述の通りロシアはほとんど作物が取れないことから、近代における交易品はシベリアでとれる珍しい毛皮が主だったそうです。ではその毛皮をロシア人は狩猟で得ていたのかとさにあらず、シベリア各地で放牧生活をしていた民族集団を奴隷化し、彼らを脅した上で毛皮を取ってこさせ、売っていたそうです。この帝政ロシア時代の経済を見ていると、なんとなく天然ガスや石油を売る今のロシアに被って見えるところがあり、基本的に現地の天然資源を採集する以外の価値観はないのかと、そういう風に思ったわけです。でもってその採集には多大な労働力がいるわけで、ということが先の関係性が生まれる要因になってくわけです。

 このように踏まえると、ロシアというのはやはり欧州国とみるべきかと言ったらやはり違う気がします。またそのメンタリズムも、強烈な支配に根差した関係性が色濃く、今のロシアを見ていてもわかりますが国がおかしくなっても自国民がそれを修正することはまずないようにも見えます。それくらい、一般大衆がこの国は弱すぎるように見えます。
 その点でいえば、中国でも一部有力者は一般大衆を虫けらのように考えている人もいますが、その虫けらと考えている連中は怒らせたらやばいということを理解しているし、また一般大衆も隙あれば取って代わろうと無駄にガッツに溢れていることから、ロシアなんかと比べれば国がおかしくなった際の内的軌道修正がまだ期待できると思います。はっきり言えば、ロシアは上がおかしくなったらそのまま破滅にまで延々と突き進むのではないかと、この本見て思いました。

松本零士の逝去について

 既に各所で報じられている通り、日本のSF漫画の文句なしな巨匠の松本零士が亡くなりました。恐らくこの影響を受けてかアニメ作品の「ザ・コックピット」について自分が以前に書いた「鉄の竜騎兵」のアクセスがわずかですが上昇していました。

 松本氏の作品について敢えて自分の方から述べると、その普遍性は本当に日本の漫画家の中でも実質的に最強と言っていいのではないかと思います。フランス大使館も弔辞を出したとのことですが、日本国内に限らず海外でも非常に高い評価を得ていますが、そうした国境方面のボーダレスもさることながら年代を超えて読み継がれる点では、あの手塚治虫以上ではないかと密かに思っています。
 実際自分も銀河鉄道999の漫画を読んだとき、それが何十年前の漫画であるという古さは一切感じられず、各話で描かれるあの独自の語り口と相まって貪るように当時読みました。またアニメ作品もヤマトをはじめ何度もリメイクされ続けていますが、SFというジャンル性もありますが、それを押してもなおいつどの時代、どの場所で読んでも全くギャップを感じないという普遍性という点で、群を抜いていると感じます。

 今回の逝去報道に関しては前々から体調が悪いと報じられていたことと、あのさいとうたかをや白土三平すらも世を去っていたことから、松本零士もとうとうかという感傷を覚えたのが素直な気持ちです。また同時に、漫画の神様こと手塚治虫と直に交流した世代が本当にほとんどいなくなり、いよいよもって日本漫画第一世代は終焉を迎えつつあることを思い知らされた気がします。

 そもそも日本の漫画は手塚治虫によって始まったと言ってもおかしくなく、ほぼすべての作家が彼の影響を多かれ少なかれ受けています。その手塚治虫が切り開いた漫画手法を松本零士らをはじめとする作家らが独自のスタイルを加える形で派生していき、さらにそこから後続の作家がつながっていく樹形図のような構造を成している考えています。日本の漫画史は戦後から始まっていることもあり、大本の手塚治虫は別格として、いわゆる草創期におけるレジェンドが平成末期から令和のこの時期において次々と寿命を迎えてきています。こうしたレジェンドたちの喪失はある意味、漫画史において最初の喪失期に当たると思われ、いわゆる第一世代に関しては徐々に一巡しつつあるようにも感じます。

 ちばてつや氏をはじめまだ存命の方もいますが、今後に関しては第二世代が大御所としての役割がさらに求められてくるかと思えます。第二世代代表は私的には永井豪氏が真っ先に浮かびますが、この世代のレジェンドたちには先輩方に負けないよう、後進らを引っ張っていってほしいと密かに願います。
 なおこの第二世代最強エースは鳥山明氏とかだと思うのですが、彼の場合はフォロワーがほぼ全く存在しないというか、ドラゴンボールの作風を受け継ぐ漫画家があまりにおらず、突然変異的な天才だと勝手に考えています。マジで誰も見当たらないのが不思議。

 話が少し脱線しましたが、松本零士の場合は鳥山明氏とは違い、明らかに彼の作風に影響を受けた漫画家が数多く存在しています。その点では本当に日本漫画界への貢献は凄まじく、改めてその死が惜しま、末筆ながら冥福をお祈りします。

2023年2月19日日曜日

アゴ痛ぇ(´・ω・)

 いきなり出オチですがアゴ痛くて悶えています。原因ははっきりしていて、リンパ腺が腫れてるからです。

 一昨日辺りから体がだるく、パソコン向かってたら急に目が見えづらくなったり、横になったらなかなか起き上がれなくなるなど、気温の変化が激しいので多分普通の風邪かなんかを引いてたのだと思います。でもって昨夜くらいからリンパ液が活動し始めたのか左アゴがリンパ腺の腫れとともに痛みはじめ、今や口開けてご飯食べるのも痛みと闘いながらです。明日になってよくなってたらいいんだけど。
 それにしても今週末は次のJBpress記事も書かなきゃいけないため、このタイミングで体調悪くなるなよなと、管理者は自分なのになんかそういう恨み言を覚えます。まぁまだ動けた朝の段階では元気にプラモ買いに行ったけど。

 紙幅が余ったので予断を入れると、中国語翻訳業界ってどんななのかなとその手の業務を請け負う翻訳会社のメニューとか見ましたが、料金は1字当たりである程度幅あるけど、浅尾からマージンとかひかれること考えたらなんかあんま儲からなさそうな感じします。
 それ以上に気になったのは納期で、4000字なら3営業日と書かれてあるサイトがありました。ぶっちゃけ自分ならほぼ確実に1000字/時間で、調子よければ2000字/時間も行ける自信があるため、短納期緊急対応できる翻訳業務として料金引き上げたらこの仕事も行けるかなとか勝手に考えています。

 ちなみにさらに詳しく話をすると、正確性はさておき中国語から日本語方向への翻訳なら500字/時間のペースを保てれば一応は雇用できる水準に入ります。もっとも、多分このペースの人だと翻訳の正確性、特に専門用語をその場で調べる能力で劣る可能性があるため、上位者によるレビューが必要になるので、工数的にはもっとかかるのですが。
 っていうか今思い出したけど、体調悪くなるきっかけになったのは一昨日の5500字の翻訳だった気がする。あれを半日で処理して、なんかぐったりしてから体調悪くなった気がする(ヽ''ω`)

2023年2月16日木曜日

この苦しみを分かち合いたい

 このブログでも散々書いているように常日頃からずっとゲームしていますが、ゲームのレビューを見るのも好きでよく見ています。ただ先ごろ出たゲームカタログの「AI: ソムニウムファイル ニルヴァーナ イニシアチブ」に関しては、以前自分もレビュー記事であんま楽しくなかったことを書いてたのに、名作扱いされててちょっと腑に落ちません。しょぼいムービーや刑事物としてのシナリオの悪さとか言及ないのは不満です。

 それはさておきゲームのレビューですが、こう言っては何ですがクソゲーのレビューほど面白いと感じます。基本的にクソゲーのレビューというのは、「このゲームがどれだけクソなのかみんなにもわかってほしい!」という熱い思いで書かれていることが多く、非常に訴えかけるような感じがしてなんかハートが伝わってきます。
 名作ゲームのレビューでも如何にこのゲームが素晴らしいかをみんなに伝えたいという感じを覚えなくもないですが、それでもクソゲーのレビューと比べるといまいち迫力に欠けるように思えます。

 これはゲームに限らず映画でも同様です。やはり名作映画よりもクソ映画のレビューの方が切実さが凄く、書いている人も何とかしてそのクソっぷりを伝えようと必死に書いてくれていることが多いです。デビルマンとかテラフォーマーズとかのレビューに至っては、マジで名文の宝石箱のように燦然と輝いています。

 では何故ゲームにしろ映画にしろクソなレビューの方が面白く描かれるのか。自分が思うにひとえに書いている人間がまずやる気満々であるのが最大の原因でしょうが、なんでそんなやる気に溢れるのかと言ったら、人はその体験した苦しみこそ他人と共有したがるからじゃないかと睨んでいます。

 何も苦しみに限らず、人間というのは基本的に同じ体験を共有したがるものです。自分の趣味を他人に勧めたり、同じ活動を通して親睦を深めたりするのはまさにその典型です。
 ただそうした体験共有において、楽しみよりも苦しみの方がやっぱ共有したがるし、共有した際のシンパシーはより強いような気がしてなりません。韓国人男性は徴兵時の苦労話こそが一番盛り上がる話題だと聞きますが、自分が体験した深い苦しみを他人と共有できるというのは、実はものすごく価値深いことなのではないかとふと思いつきました。

 そうした観点に立った場合、クソゲーやクソ映画のレビューというのはうってつけもいいところです。意図してか知らずかうっかりクソなメディア作品に触れてしまった後、「クソだった……」と必死になって伝えようとするのは、やはりその苦しみをみんなと共有したいからじゃないかと思います。実際に私も、自分でも遊んだことのあるクソゲーのレビューを見て自分が不満に感じた点をほかの人も指摘していると、「こいつわかってんじゃん(・∀・)」と無闇やたらにうれしく感じます。
 逆にさっきの「ニルヴァーナ イニシアチブ」はそれが極端に少なかったから、レビューそのものに不満を感じたくらいです。

 またよくクソゲーには「負の引力」があると言われますが、クソだと言われてみて何故かやってみたくなることがあります。これはクソ映画にも言えますが、これもある意味、苦しみ体験の共有を後追いで求める動きなのかもしれません。

 それらを踏まえて言うと、多分人間は同じ喜びを共有するよりも、同じ苦しみを共有する方がずっと親睦を深められ、分かり合えるようになる気がします。前向きなケースでいえば仕事とかの修羅場を一緒に乗り切ったり、山登りなど難しい課題に一緒に挑戦したりするというのがこうした状況に当たり、多分仲良くランチしたり、一緒に楽しいマリオカートする以上に関係を深め合えると思います。
 そういう意味では気になる異性と一緒に映画を見に行く際は、甘ったるい恋愛映画なんかよりも、吐き気を催すクソ映画を一緒に見に行った方が、ずっと関係を進展させられるかもしれません。その効果に関しては保障しかねますが。

 あと今思いついたけど、夫婦関係とかも倦怠期に入った際に一緒に楽しいことしてもあんま効果ないのかもしれません。というのも本当か嘘かわからないけど前にネットで、

ニートから脱出したけど、それまで自分のニート問題をどうにかするため団結していた両親が脱出後に離婚した
→「子はカスがいい」とはよく言ったものだ

 というやり取りがありましたが、実際こういうケースってある気がします。同じ難題を抱えているからこそ仲良くできて、難題の解決後に急に関係が破綻してしまうのはよく見聞きします。となると健やかなる時よりも病める時の方が、人間関係的に重要なのかもしれません。