水木しげるの自伝漫画である「水木しげる伝」(コミック昭和史)の中では同業の漫画家が何人か登場しますが、主だった人物を挙げるとつげ義春氏、池上遼一氏、白土三平の三人じゃないかと思います。
このうちつげ義春氏についてはアシスタントも務めていたこともあり描写も多く、何となく水木しげるとも馬が合いそうな人であったほか、どことなく一目置いていたような感じで描かれています。池上遼一氏については鼻っ柱の強そうないかにも若者然としたキャラクターで描かれていますが、彼については「漫画狂の歌」でそのまま主人公として漫画作品も作られている点から言っても、若いころから非常に特別視していたことがうかがえます。もっとも、「漫画狂の歌」はまだ手に取ることができていないのですが。
一方、白土三平については「乞食のような姿で、スパゲッティをおごってもらった」エピソードが描かれており、描写はそれほど多くないものの怪奇なキャラクターとして強く印象に残る描かれ方をされていました。実際、そんな感じの人だったらしいし。
このほか手塚治虫については石ノ森章太郎との徹夜自慢を語り合う場面で描いていますが、全体として描写はほとんどないと言っても過言じゃありません。その分、「一番星」という作品で何でも一番じゃないと気が済まない手塚をモデルにして漫画を描いてはいますが、先ほどの白土三平が出てくる漫画家が集まってのフォーラムにも手塚と一緒に登壇しているにもかかわらず描写がない辺り、水木しげるも若干ライバル視していたのではと伺えます。
以上のメンツに加え、ほんのワンシーンですがもう一人出てくる漫画家として、「釣キチ三平」の矢口高雄がいます。「水木しげる伝」の中で矢口はアシスタント希望者として秋田から上京して水木しげるを訪ねたものの、「秋田で銀行員してんのなら無理して漫画家なんか目指さない方がいいよ」と追い返したものの、「その後彼はガロで描くようになり有名になった」と紹介されています。
実はこのくだりについて、矢口自身も自分の漫画で描いていたということをつい最近知りました。その作品とは「9で割れ!!」という矢口の自伝漫画なのですが、水木との出会いについて描いているというか、矢口の目から見て水木はどう映ったのかが気になり、矢も楯もたまらずすぐ電子書籍で購入して読んでみました。
この「9で割れ!!」は、矢口が高校卒業後に秋田県の旧羽後銀行に就職してから漫画家になるまでの間を描いた自伝漫画です。なお銀行の閉店後の現金計算で違算が発生した場合、10万円出金するところを1万円出金してしまったなどの桁違いミスではないかを確認するため、まず違算差額を9で割っていたことから、こういうタイトルになっています。
実は矢口の漫画を読むのはこれが初めてなのですが、非常に躍動感のある絵柄に読みやすいストーリーで、こりゃ一時代を築いただけあると感嘆させられました。特に最近やる人が増えている、両面2ページのうち上半分または下半分をページを跨ぐ見開き1コマにして、残りの半分のページは細かくコマを割るという手法を90年代にすでにこの作品で使用しているあたり、かなり先を行った表現手法を駆使していると思わせられました。
話を戻すと、矢口と水木の邂逅のきっかけは矢口がガロに成人後、初めて完成させた漫画作品を投稿したものの落選し、落選理由を尋ねるために上京してガロ編集部を尋ねたことからでした。この時に当時の編集長からは絵があまり上手くなく、また年齢も24歳(本当は27歳だが矢口がサバを読んで投稿していた)で伸びしろがないと矢口は言われ、たいそう落ち込んだそうです。
ただこの際に矢口は、後の「釣キチ三平」の主人公の名前につけるほど私淑していた白土三平に会わせてほしいと嘆願したそうです。しかし編集長は、「白土三平は人嫌いの激しい人で頼んだって会ってくれない。とはいえ秋田からわざわざ来たのだしプロの漫画家を一人くらいは紹介してあげよう」と、すぐその場で電話して水木に渡りをつけたそうです。
こうしてアシスタント志望という水木の記憶とは異なり、プロの漫画家現場見学として矢口は調布の水木邸を訪れることとなりました。
ガロ編集部訪問から翌日、さっそく水木邸を訪れた矢口を最初に出迎えたのは当時アシスタントをしていた池上遼一氏で、矢口自身も「今や劇画界の第一人者」として池上の印象を「9で割れ!!」の中で描いています。
その池上氏に案内されて作業室に入ると、水木は必死の形相で漫画制作を続けており、矢口が来たと言っても反応も示さず、執筆をそのまま続けていたそうです。そのあまりの迫力に矢口が驚いていると池上氏が「今がチャンスですよ。後ろからしっかり覗くんです」と促し、言われるままに水木の執筆状況を後ろから眺めたそうです。
ここの描写が非常に鋭いというか細かく描かれてあったのですが、片腕のない水木は重い文鎮で原稿用紙を抑えつつも、時に体をねじって左肩で原稿用紙を抑えつつ描き続けていたそうです。その執筆速度は非常に速いものの、線の一本一本が非常に正確で流れるように描かれ、「これがプロの技なのか」と矢口も驚嘆させられたことが描かれてありました。
その後、仕事がひと段落ついた水木はようやく矢口とあいさつを交わし、さっそく彼が投稿した作品を見せてみろと言って一読するやその絵を誉め、才能があると元気づけたそうです。しかしガロの編集長からはうまくない、また年齢的に伸びしろがないと言われたと矢口が伝えると、「あの人は漫画の編集長だが絵を描く人じゃない。あの人とプロの絵描きである僕のどっちを君は信じるんだい?」と言って、矢口を大いに励ましたそうです。この励ましには矢口自身も、「もしこの時がなければ、漫画家にはなれなかったかもしれない」と述懐しています。
っていうか、「水木しげる伝」で描かれていたやりとりと全然違うじゃん……。
その後、矢口は池上遼一氏を含む水木のアシスタントらから漫画の描き方に関してレクチャーを受け、教えてくれた中にはつげ義春氏もいたそうです。この時に池上氏からは線の描き方を教えられ、「単調な線を毎日数時間描き続ける。これを半年やって一人前」と言われ、線一本でこれほどまでするのかと驚かされたということが描かれてありました。
その後、秋田に帰った矢口は水木プロでの指導を元に再び一から漫画の練習をして、本気でプロを目指すようになり、この時の水木プロでの経験は非常に重要であったと語っています。なお、当時の矢口はいっぱしの銀行員で、残業も珍しくない勤務をこなしながら夜自宅に帰ってからは漫画の練習と執筆をし続けたそうです。さらに夏場のシーズンに入ると、午前3時から起きて出勤前にひとしきり釣りをしてから銀行へ行っていたそうで、妊娠中の奥さんからは「あんたは漫画と釣りと、好きなことばかりして!(# ゚Д゚)」と怒られたそうですが、そりゃそうだろうとみていて思います。
っていうかこのバイタリティはかなりやばいというか、そりゃ釣りキチ漫画だって十分描けるよ(;´・ω・)
その後、矢口は「どうせプロなんてなれっこないんだし、仕事を疎かに漫画を描くのはいい加減にしとけよ」と上司に言われたことをきっかけに発奮し、すでに何度か読み切り作品が入選して掲載されていたこともあり、銀行を辞めて上京し、プロ漫画家へと転身を遂げることとなります。なお初めて連載作品を得るや真っ先に届いたファンレターは「鮮やかなデビュー、おめでとうございます」と書かれた、かつての上司からのものだったそうです。
最後どうでもいいけど、「釣りキチ三平」というタイトルは「釣りキチ」が「気違い」と重なることから放送禁止用語的な扱いになっているそうで、伊集院光氏は皮肉って「釣り著しく好き三平」などとラジオで口にするそうです。
正直、「気違い」に関する使用禁止は私も疑問に思うところで、こういうところで妙な言葉狩りはやめてほしいです。もっとも、「賭けキチ一平」というタイトルならたぶん誰も文句言わないだろうし、今なら注目集められるかもしれません(੭ु´・ω・`)੭ु⁾⁾