本日未明、米議会で日本の安倍首相が演説を行い、その内容について日系、海外系を問わず多くのメディアが大きく取り上げています。主な論点は安倍首相の歴史認識、というより二次大戦中におけるアジア諸国へ日本が行った行為の反省と謝罪があったのかなかったのかという点ばかり取り上げられているのですが、良くも悪くも首相演説がここまで大きく注目されるというのは珍しく、私の覚えている限りだとこんなの小泉元首相以来じゃないかと思います。
ではその安倍首相の演説内容はどうだったのかですが、さすがに全文は確認せず各メディアで報じられている内容でしか確認していませんがその上で私の感想を述べるとするなら、なかなか悪くはない演説だったのではないかと考えています。
まず一部日系、韓国系メディアが主張しているような従軍慰安婦などに対する言及がなかったことについては、そもそもこれは米議会での演説であって、韓国くらいしか問題視していない従軍慰安婦問題をわざわざここで話題に挙げるのはナンセンスでしょう。二次大戦全体については「痛切な反省」という表現を用いたとのことですが、まだこれなら日本と米国がこの戦争で戦ったことを考えると適当な表現だと思え、現在の日本の大戦に対する歴史認識を表現する上ではおかしくない気がします。米議員を前にしているのだからこそ、日米関係を中心にして演説することこそが筋でしょう。
その日米間系に関する内容に関しては、なかなか見事だと感じたのはかの有名な硫黄島の戦いを引用したことです。硫黄島の戦いは日本人の間では映画「硫黄島からの手紙」が公開されてからその内容を知る世代が広がりましたがが、米国にとっては太平洋戦争で最も手こずったというか損害が大きく、また海兵隊がその軍としての存在価値を大きく明確化させるに至った戦いともあってその記憶に強く刻み込まれています。
今回、安倍首相はこの硫黄島の戦いに参加した元マリーンと、硫黄島の戦いで日本軍を指揮した栗林忠道の孫である新藤義孝前総務大臣を招き、あの戦いに関係する両者がこうして同じ場に立てるほど日米の紐帯は強まったというパフォーマンスを行いました。私個人的な見方で述べるとこの演出は見事に感じられ、この一点をとっても今回の演説は非常に効果的だったと思います。
こうした演出などが効を奏したのか、演説中に安倍首相は何度もスタンディングオベーションを受けるなど現地ではなかなか好評だったそうです。それに対し最初に述べた従軍慰安婦に関するやっかみが来たのはある意味、安倍首相が嫌いな連中からしたら目障りな演説のように見えたからこそではないかと思えます。逆を言えばそういう連中と明確に対立路線を打ち出している安倍首相にとっては一種好都合かもしれませんが。
最後にどうでもいい豆知識ですが、「栄光ある失敗」で有名なアポロ13号の乗組員が地球へ帰還した際、この脱出艇を回収したのは「イオージマ強襲揚陸艦」で、この名前の由来は言うまでもなく硫黄島からです。そして映画「アポロ13」でこのイオージマの艦長役を演じたのはアポロ13号の実際の乗組員だったジム・ラヴェル本人で、映画を見る度に、「乗っとったのはお前やんけ」などと毎回心の中でツッコミを入れています。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2015年4月30日木曜日
2015年4月29日水曜日
ブログテンプレートを変更
今日こちらのサイトを見て、「あれっ?」って思った方は多いのではないかと思います。見てわかる通り、このブログのレイアウトテンプレートを昨日までのシンプルなものから背景付きのテンプレートに変更しました。
なんで変更したのかというと今日何気なくテンプレートの種類を見ていたらちょっと良さそうなのがあり変更してみたところ、一見して悪くないと感じたからです。元々以前のテンプレートは自分のソウルカラーであるオレンジ色した背景だったため嫌いではありませんでしたが、さすがにシンプルすぎやしないかと少し懸念もありました。
今回のテンプレート変更に当たって気を付けた点としては、一にも二にもテキストが読みやすいか否かです。通常のブログと異なり私のブログはテキスト量が半端なく多く読む側にも相当な負担がかかっていると思われ、文字は可能な限り読みやすいようシンプルイズベストを心がけています。幸いこのテンプレートだと記事部分は白い背景がつくため文字はフォントサイズにさえ気をつければ割かし読みやすい形態です。あと今度のテンプレートだとリンクの付いたテキストは暗めの赤色で表示されるため、以前の明るみが入ったオレンジ色よりはなんぼか見やすくなっているかと思われます。
テンプレート自体は既存の物であればすぐに変更できるので、しばらく使ってみて気に入らなければまた変更するかもしれません。今のところは気に入っていますが、こればっかはある程度時間かけてみないとわからないもんですし。
2015年4月28日火曜日
創業家列伝~長瀬富郎(花王)
今更ながら恥ずかしい話ですが私は2005年に留学のため中国で生活していた際に初めてP&Gが日系企業じゃないということを知りました。ただ同じような間違いをしていた人はほかにも多くおり、何故それほど自国の企業だと誤解する人が多いのかというと単純にP&Gが世界市場で圧倒的なシェアを誇ること、各地域の市場に根差していることが要因ではないかと思われます。
実際に石鹸やシャンプーといった一般消費財市場は世界規模でP&Gが大半のシェアを持っており、中には同じ業種で対抗する企業がほとんどないという国や地域もあると聞きます。そんなP&Gという巨人に対し、日本国内市場では花王という会社が「調査兵団」みたいな感じで割と頑張って抵抗してたりします。
・花王(Wikipedia)
後に花王を創業することとなる長瀬富郎はまだ江戸時代だった1863年に現在の岐阜県福岡町にある酒造業者の次男として生まれます。富郎は小学校を卒業すると親戚の商家に奉公へ出て下積み時代を過ごし、22歳の頃に自らの独立資金を貯めると奉公を終えて上京し、独立資金を増やそうと米相場の先物取引に手を出します。
この時投じた金額は150円という明治初期としては非常に大きな金額ですが、案の定というか富郎はこの資金を全てすってしまいます。本人もこれには大分懲りたのか、「もう投機的なことは絶対しない」と言っては自分の信念にしていた節があります。
独立資金を失った富郎は再び奉公に出てお金を貯め、25歳の時に再び独立して東京の馬喰町に洋小間物を取り扱う自分の店を構えます。この時はいろんな商品を取り扱っていたようですがその中でも富郎が目をつけたのはほかならぬ花王の代名詞ともいえる石鹸で、洗浄用としては幕末に海外から輸入され明治期には一般市民にも大きく普及していたものの当時の国産石鹸は海外性と比べて品質が著しく悪かったそうです。
富郎本人も客からのクレームを受けながらまともな品質の国産石鹸を探しあぐね、以前の奉公時代に知り合った村田亀太郎という石鹸職人が独立して石鹸作り始めると聞くや富郎は専属契約を結み、村田と一緒に石鹸の品質改善に取り組むことになります。
二人は薬剤師の親戚から石鹸に必要な知識や技術を学ぶと試行錯誤の末に一年半後、ついにこれはと言えるような石鹸を作ることに成功します。この石鹸を売り出すに当たって化粧用石鹸のことを当時は「顔石鹸」と読んでいたことから音を取って「香王」と名付けて商標を登録しますが、売り出し前に思い直し「花王」と改め、こちらの名前で売り出すことにしました。
こうして売り出された「花王」石鹸は他者と比べて高い値段設定であったものの評判が評判を呼び、売り出しはじめから割とよく売れたそうです。しかし売れ行きが良くなるにつれて模造する業者が続出し、最初に商標登録までした「香王」や「花玉」などと似たような名前の石鹸が次々と売り出されたそうです。あながち昔の日本人も中国人を笑えんな。
こうした模造品に対して富郎は何度か告訴したりもしましたが終いには「品質では勝ってる。ほっといてもパクリメーカーは潰れる」などと無視する方向に舵を切ります。その一方で自社製品の宣伝には当初より力を入れており、鉄道沿線に宣伝看板を設置するのを始め全国の新聞にも積極的に広告を掲載していきました。
この間、品質の向上も怠らずに続けており、その甲斐あってか1904年に米国セントルイスで開かれた万国博では花王の石鹸がその品質を評価され名誉銀杯を取得しています。その後もシアトルやロンドンの博覧会でも賞を取り、国内外でその品質への評価は日増しに高まっていきました。
このように書くと富郎の人生は順風満帆のようにも見えますが途中途中で何度か痛い目にも遭っており、いくつか例を挙げると資金余裕を持って工場の拡張に取り掛かろうとしたところいきなりメインバンクの東西銀行が破綻して多額の出費を迫られ計画を延期しています。ただ最初の米相場の失敗経験から堅実経営は貫いており、この時の出費で会社を致命的な所まで追い込んでいない辺りはさすがというべきでしょう。
世界各国で石鹸が高く評価され始めた頃に富郎は病にかかり、晩年は割と寝たきりの生活が続いてたと言われます。病床で富郎は自分亡き後の会社について遺言状を下記、当時まだ小学一年生だった三男を後継者に指名した上で弟二人に後見人となるよう指示します。こうした備えを終えてから富郎は1911年、48歳という年齢でこの世を去ります。時代的にちょうど明治期を貫通するような生没年だったりします。
長瀬富郎に関しては経歴以外はあまり書くネタを持っていないのが実情ですが、特筆すべきはやはりその品質へのこだわりでしょう。当初から高級路線で石鹸の製造を志していたことは間違いなく、それが発売当初から評価され現代に続く日系消費財メーカーの雄として活躍する下地はここにあると言えるでしょう。
多少国策的なことを言えば、日系企業を応援するという意味ではP&Gよりも私は花王やライオンの消費財を敢えて選ぶようにしています。P&Gが嫌いというわけでもなく品質に疑いを持っているわけではありませんが、一応地元を応援するって意味合いで。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
実際に石鹸やシャンプーといった一般消費財市場は世界規模でP&Gが大半のシェアを持っており、中には同じ業種で対抗する企業がほとんどないという国や地域もあると聞きます。そんなP&Gという巨人に対し、日本国内市場では花王という会社が「調査兵団」みたいな感じで割と頑張って抵抗してたりします。
・花王(Wikipedia)
後に花王を創業することとなる長瀬富郎はまだ江戸時代だった1863年に現在の岐阜県福岡町にある酒造業者の次男として生まれます。富郎は小学校を卒業すると親戚の商家に奉公へ出て下積み時代を過ごし、22歳の頃に自らの独立資金を貯めると奉公を終えて上京し、独立資金を増やそうと米相場の先物取引に手を出します。
この時投じた金額は150円という明治初期としては非常に大きな金額ですが、案の定というか富郎はこの資金を全てすってしまいます。本人もこれには大分懲りたのか、「もう投機的なことは絶対しない」と言っては自分の信念にしていた節があります。
独立資金を失った富郎は再び奉公に出てお金を貯め、25歳の時に再び独立して東京の馬喰町に洋小間物を取り扱う自分の店を構えます。この時はいろんな商品を取り扱っていたようですがその中でも富郎が目をつけたのはほかならぬ花王の代名詞ともいえる石鹸で、洗浄用としては幕末に海外から輸入され明治期には一般市民にも大きく普及していたものの当時の国産石鹸は海外性と比べて品質が著しく悪かったそうです。
富郎本人も客からのクレームを受けながらまともな品質の国産石鹸を探しあぐね、以前の奉公時代に知り合った村田亀太郎という石鹸職人が独立して石鹸作り始めると聞くや富郎は専属契約を結み、村田と一緒に石鹸の品質改善に取り組むことになります。
二人は薬剤師の親戚から石鹸に必要な知識や技術を学ぶと試行錯誤の末に一年半後、ついにこれはと言えるような石鹸を作ることに成功します。この石鹸を売り出すに当たって化粧用石鹸のことを当時は「顔石鹸」と読んでいたことから音を取って「香王」と名付けて商標を登録しますが、売り出し前に思い直し「花王」と改め、こちらの名前で売り出すことにしました。
こうして売り出された「花王」石鹸は他者と比べて高い値段設定であったものの評判が評判を呼び、売り出しはじめから割とよく売れたそうです。しかし売れ行きが良くなるにつれて模造する業者が続出し、最初に商標登録までした「香王」や「花玉」などと似たような名前の石鹸が次々と売り出されたそうです。あながち昔の日本人も中国人を笑えんな。
こうした模造品に対して富郎は何度か告訴したりもしましたが終いには「品質では勝ってる。ほっといてもパクリメーカーは潰れる」などと無視する方向に舵を切ります。その一方で自社製品の宣伝には当初より力を入れており、鉄道沿線に宣伝看板を設置するのを始め全国の新聞にも積極的に広告を掲載していきました。
この間、品質の向上も怠らずに続けており、その甲斐あってか1904年に米国セントルイスで開かれた万国博では花王の石鹸がその品質を評価され名誉銀杯を取得しています。その後もシアトルやロンドンの博覧会でも賞を取り、国内外でその品質への評価は日増しに高まっていきました。
このように書くと富郎の人生は順風満帆のようにも見えますが途中途中で何度か痛い目にも遭っており、いくつか例を挙げると資金余裕を持って工場の拡張に取り掛かろうとしたところいきなりメインバンクの東西銀行が破綻して多額の出費を迫られ計画を延期しています。ただ最初の米相場の失敗経験から堅実経営は貫いており、この時の出費で会社を致命的な所まで追い込んでいない辺りはさすがというべきでしょう。
世界各国で石鹸が高く評価され始めた頃に富郎は病にかかり、晩年は割と寝たきりの生活が続いてたと言われます。病床で富郎は自分亡き後の会社について遺言状を下記、当時まだ小学一年生だった三男を後継者に指名した上で弟二人に後見人となるよう指示します。こうした備えを終えてから富郎は1911年、48歳という年齢でこの世を去ります。時代的にちょうど明治期を貫通するような生没年だったりします。
長瀬富郎に関しては経歴以外はあまり書くネタを持っていないのが実情ですが、特筆すべきはやはりその品質へのこだわりでしょう。当初から高級路線で石鹸の製造を志していたことは間違いなく、それが発売当初から評価され現代に続く日系消費財メーカーの雄として活躍する下地はここにあると言えるでしょう。
多少国策的なことを言えば、日系企業を応援するという意味ではP&Gよりも私は花王やライオンの消費財を敢えて選ぶようにしています。P&Gが嫌いというわけでもなく品質に疑いを持っているわけではありませんが、一応地元を応援するって意味合いで。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
千葉のマッドシティ~ラーメン屋「兎に角」
また松戸市民以外には全く需要のないこの連載ですが、今日は一部のラーメン好きにも見てもらえるかのようなラーメン屋紹介記事です。
上の写真は松戸駅から徒歩数分のところにある「兎に角」というラーメン屋の入り口前の写真です。このラーメン屋は私の松戸潜伏場所からもほど近い所にあり、駅から潜伏場所に帰る際は必ずここの前を通過していたのでそこそこ思い入れのあるお店であったりします。それで通過する際はいつも、「おっ、今日はこのくらいで済んでるんだ」などと店の外まで続く長い行列を見てはよく感想を洩らしてました。
この「兎に角」というお店ですが、ラーメン通にはそこそこ有名なお店らしく休日ともなるとほぼすべての時間帯でお客が列を成して待っている姿を見ることが出来ます。実際にここの近くにあって私が通っているカレー屋の店主(元ラリースト)も、「この周辺だと兎に角さんが一番ですね」と断言するほど昔から高い集客力を誇り、現在もなお繁盛し続けています。
私も過去に、たまたま松戸に来ていた大学の先輩と一緒に行列に並んで食べに行ったことがあります。看板に書かれている通りにつけ麺が人気商品なのでこれを注文して食べましたが、口うるさい先輩曰く「まぁまぁうまい」と太鼓判を押し、私も人気店なだけあって確かにおいしいというため息が洩れました。味はやや濃口で、スープも割と濃厚だったと記憶しています。
味覚は人によって異なるので誰もがおいしいということは恐らくないでしょうが、ひとまずほかの人にもおいしいお店だよと勧められるラーメン店ではあるので、興味のある方は寄ってみるのもいいかもしれません。
2015年4月26日日曜日
教員免許の国家資格化案に対する意見
政治系ブログなのにゲームやマッドシティばかりこのところ取り上げていますが、今日は久々に政策に対する意見のような考察を書くことにします。
・<教員免許>国家資格に 自民提言へ、資質向上図る(毎日新聞)
私がこの国家資格案に対して反対する理由はいくつかありますがまず第一に大きいものとして、そもそも数年の研修でそこまで教員の質が上がるのかという疑問です。現在でも40代や50代といった教員として長い経験を持った教師ですら指導能力が著しく低くて問題となるケースを聞きますし、一年やそこらの研修で指導力が上がるかと言ってもそれ以前の問題のような気がしないでもありません。
そもそも同じ「質の向上」というお題目で始まったものに弁護士資格のロースクール制度がありますが、少なくとも私が効く限りだとロースクール制度が始まってから弁護士の質が向上したなんていう話は一度として効いたことがありません。むしろこの制度で弁護士が量産された末に資格は取得したものの仕事がなく食っていけない弁護士が増え、行きつく先はグレーゾーン金利の取り立てばかりでむしろ前より質が低下していないかと思える状態です。
話しは戻って国家資格化案に反対する二つ目の理由ですが、これもロースクール制度と被りますが、教員になるまでの期間を延ばすことによって教員志望者の懐というかお金の負担も大きくなる懸念があります。
知ってる人には有名ですが現在、司法試験合格者は平均で数百万円の借金を背負っているという塔系が出ています。ロースクールに通って試験に合格するまでは全くの無収入で、そこからさらに司法修習生として研修を矯正されるため弁護士として独り立ちする頃には身動き取れないくらいの借金漬けな人が多いそうです。
仮に教員試験も研修期間を設けるとしたら、その期間の収入はどうするのか。政府が出すのか出さないのか、出さないとしたら奨学金で借金を背負わせるのかという疑問があります。だったらあまり効果があると思えない研修なんてやめてとっとと現場に送る方が社会全体で効率がいいように思えます。
最初にも書いた通りに現行制度も果たしてどうなのか、教員免許を取る人には効率のいい指導方法を学ぶ機会がちゃんとあるのかという疑問もありますが、少なくとも今回出てきた国家資格化案は何も改善がなく新たな問題を作る懸念が大きいとして今の状態であれば私は反対です。そもそも国家資格として定めることで資格取得者が保護できるか、質を上げられるかとは全く別問題でしょう。
そもそも近年の日本の士業は先ほどの弁護士、公認会計士、行政書士など、どの資格も取得はしたもののほとんど仕事が出来ない、収入アップにつながらないなど権威の失墜が激しく進んでおります。そういう意味では教員免許だけとは言わず、日本の資格制度を根本から考え直すべき時に来ているのかもしれません。
・<教員免許>国家資格に 自民提言へ、資質向上図る(毎日新聞)
上記リンク先の毎日の報道によると、自民党内で教員免許を現在の都道府県ごとの教育委員会による任命方式から、中央政府による一元的な任命方式に切り替える提案を準備しているそうです。切り替えに当たっては統一国家試験を設けるほか、1~2年程度の学校での研修期間も作ることなどが検討されているそうで、「教員の質の向上」をお題目にしてこれらの改革を行うなどと書かれてあります。
この政策案に対する私の意見を最初に述べると全く以って反対で、現行制度が正しいわけではありませんがこの改革案だと何も改善が期待できず、また別の問題を噴出させる可能性もあると考えております。
従来制度とこの国家資格化案とで最も大きな違いはなにかとなると、免許取得までの流れです。従来制度であれば大学で必要な単位を取得することで自動的に教員免許が得られますが、国家資格化案では単位を取得して大学を卒業した後に国家試験があり、その試験通過後にも数年の研修が課されることとなります。仮に報道の通りであれば新制度になると正式な教員として教壇に立つまで現行より数年遅くなることなり、そのかわりにしっかり研修なり教育なりを施すことで教員としての質を高められると考えているのでしょう。
そもそも同じ「質の向上」というお題目で始まったものに弁護士資格のロースクール制度がありますが、少なくとも私が効く限りだとロースクール制度が始まってから弁護士の質が向上したなんていう話は一度として効いたことがありません。むしろこの制度で弁護士が量産された末に資格は取得したものの仕事がなく食っていけない弁護士が増え、行きつく先はグレーゾーン金利の取り立てばかりでむしろ前より質が低下していないかと思える状態です。
話しは戻って国家資格化案に反対する二つ目の理由ですが、これもロースクール制度と被りますが、教員になるまでの期間を延ばすことによって教員志望者の懐というかお金の負担も大きくなる懸念があります。
知ってる人には有名ですが現在、司法試験合格者は平均で数百万円の借金を背負っているという塔系が出ています。ロースクールに通って試験に合格するまでは全くの無収入で、そこからさらに司法修習生として研修を矯正されるため弁護士として独り立ちする頃には身動き取れないくらいの借金漬けな人が多いそうです。
仮に教員試験も研修期間を設けるとしたら、その期間の収入はどうするのか。政府が出すのか出さないのか、出さないとしたら奨学金で借金を背負わせるのかという疑問があります。だったらあまり効果があると思えない研修なんてやめてとっとと現場に送る方が社会全体で効率がいいように思えます。
最初にも書いた通りに現行制度も果たしてどうなのか、教員免許を取る人には効率のいい指導方法を学ぶ機会がちゃんとあるのかという疑問もありますが、少なくとも今回出てきた国家資格化案は何も改善がなく新たな問題を作る懸念が大きいとして今の状態であれば私は反対です。そもそも国家資格として定めることで資格取得者が保護できるか、質を上げられるかとは全く別問題でしょう。
そもそも近年の日本の士業は先ほどの弁護士、公認会計士、行政書士など、どの資格も取得はしたもののほとんど仕事が出来ない、収入アップにつながらないなど権威の失墜が激しく進んでおります。そういう意味では教員免許だけとは言わず、日本の資格制度を根本から考え直すべき時に来ているのかもしれません。
2015年4月25日土曜日
国家への依存を高める傾向
知ってる人には有名ですが故ケネディ大統領は生前、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるのか」という言葉を含む有名な演説を行っております。この言葉自体がアメリカのマッチョイズムを強く体現している言葉ですが、私は敢えてこの言葉を現代の日本人にぶつけてみたらどんなもんだろうとこの頃よく考えます。
結論から言うと、現代の日本人は少なくとも戦後以降としては過去最高と言ってもいいくらいに国家(=政府)に対して強く依存していると私は考えています。
国家に依存するとはどういうことですが、先ほどのケネディ大統領の言葉を借りるならば、「国が自分に何かをしてくれることを期待する」ような状態の事で、具体的に言えば日々の生活や将来の社会保障などにおいて政府の支援を期待する意識が強い状態を指します。断言してもいいですが今の日本人の8割超は老後の年金を政府はきちんとしてもらわないと困ると考えていて、年金なんて当てにしないから自分自身の力で死ぬまで生きてやると割り切っているのは確実に少数派になるでしょう。ましてや、国家の年金を支えるために自分が頑張らないとと思う人間となると皆無になります。
つまり国家への依存とは「国に何とかしてもらう」という意識の事で、私見ながら現代日本人はかつてないほどのこの依存心を今高めているのではと密かに考えているわけです。こうなった最大のきっかけとして思い浮かぶのは2011年の東日本大震災で、今思うとどうもあの後から風向きが変わったというか復興を始めとして社会保障、経済問題などで国の支援を強く当てにする声がそれ以前と比べて強まってきているように思えます。
もちろん被災地の復興や経済対策などにおいて国家の役割は最も重要です。しかしその国家を当てにせず独力でも頑張ろうとする人たち、もしくはそうした対策を行おうとする国家を支えようとする動きや声はどうもそれ以前と比べると小さくなっているというか、「俺が国を引っ張ってやるぜ!」というようなちょいちょいウザいと思える熱い人間が実は減ってきているのではないかと思えてなりません。それどころかむしろ、少々乱暴な言い方かもしれませんが国家の支援がなくなると困ってしょうがない、頼むから何とかしてほしいというような請願のような態度すら見える時もある気がします。
こんな風に思うのも私自身が極端に国家の保護を当てにしないどころか、「てめぇの助けはいらねぇ」とばかりにやたら反発したがる性格だからというのが大きいでしょうが、それにしたって今の日本人は政府の支援を少し盲目的に信じ過ぎなのではと危惧を覚えるほどです。歴史的な視点で述べるとするならば国家の前で個人なんて言うのはほんの小さなチリのようなもので、国家によって簡単に翻弄されることもあればあっさり見捨てられることも珍しくはありません。国家に抗うのは決して楽なことではありませんが、何もそこまで距離を縮めることはなく、適度に距離を置くだけでもそうした荒波から避けるのにいい手段ではないかと個人的に思います。
この記事で私は国家に逆らえとまで言うつもりはなく、また同時に国家に尽くせと言うつもりもありません。ただ「国家がきっと何とかしてくれる」なんていう期待に関しては非常に危険な考え方であり、そうした思想を日本は全体で深めつつあるのではという危惧を誰かに共感してもらえれば幸いです。
結論から言うと、現代の日本人は少なくとも戦後以降としては過去最高と言ってもいいくらいに国家(=政府)に対して強く依存していると私は考えています。
国家に依存するとはどういうことですが、先ほどのケネディ大統領の言葉を借りるならば、「国が自分に何かをしてくれることを期待する」ような状態の事で、具体的に言えば日々の生活や将来の社会保障などにおいて政府の支援を期待する意識が強い状態を指します。断言してもいいですが今の日本人の8割超は老後の年金を政府はきちんとしてもらわないと困ると考えていて、年金なんて当てにしないから自分自身の力で死ぬまで生きてやると割り切っているのは確実に少数派になるでしょう。ましてや、国家の年金を支えるために自分が頑張らないとと思う人間となると皆無になります。
つまり国家への依存とは「国に何とかしてもらう」という意識の事で、私見ながら現代日本人はかつてないほどのこの依存心を今高めているのではと密かに考えているわけです。こうなった最大のきっかけとして思い浮かぶのは2011年の東日本大震災で、今思うとどうもあの後から風向きが変わったというか復興を始めとして社会保障、経済問題などで国の支援を強く当てにする声がそれ以前と比べて強まってきているように思えます。
もちろん被災地の復興や経済対策などにおいて国家の役割は最も重要です。しかしその国家を当てにせず独力でも頑張ろうとする人たち、もしくはそうした対策を行おうとする国家を支えようとする動きや声はどうもそれ以前と比べると小さくなっているというか、「俺が国を引っ張ってやるぜ!」というようなちょいちょいウザいと思える熱い人間が実は減ってきているのではないかと思えてなりません。それどころかむしろ、少々乱暴な言い方かもしれませんが国家の支援がなくなると困ってしょうがない、頼むから何とかしてほしいというような請願のような態度すら見える時もある気がします。
こんな風に思うのも私自身が極端に国家の保護を当てにしないどころか、「てめぇの助けはいらねぇ」とばかりにやたら反発したがる性格だからというのが大きいでしょうが、それにしたって今の日本人は政府の支援を少し盲目的に信じ過ぎなのではと危惧を覚えるほどです。歴史的な視点で述べるとするならば国家の前で個人なんて言うのはほんの小さなチリのようなもので、国家によって簡単に翻弄されることもあればあっさり見捨てられることも珍しくはありません。国家に抗うのは決して楽なことではありませんが、何もそこまで距離を縮めることはなく、適度に距離を置くだけでもそうした荒波から避けるのにいい手段ではないかと個人的に思います。
この記事で私は国家に逆らえとまで言うつもりはなく、また同時に国家に尽くせと言うつもりもありません。ただ「国家がきっと何とかしてくれる」なんていう期待に関しては非常に危険な考え方であり、そうした思想を日本は全体で深めつつあるのではという危惧を誰かに共感してもらえれば幸いです。
2015年4月24日金曜日
「ファイナルファンタジー零式」をクリア!
先月、プレイステーション4などでHD版が発売されたスクウェア・エニックスの「ファイナルファンタジー零式」というゲームですが、私は何故か最初に発売されたPSP版を自慢のPSVita(ソニー製なのに丈夫で有名)にダウンロード購入して遊んでいます。このゲームはタイトルからわかるように日本、嫌恐らく世界で一番有名なRPGゲームシリーズの「ファイナルファンタジーシリーズ」の一つで、携帯機向けタイトルとしてオリジナルのPSP版は2011年に発売されております。
ゲーム内容を簡単に紹介すればアクションRPGといったところで、アクションが異なる各キャラクターを場面ごとに使い分けながら敵を薙ぎ倒していくゲームで、FFらしくレベルアップもあればブリザドやブリザガもあり、また戦闘シーン以外にもRPGらしくアドベンチャーシーンも多くてゲームのボリュームとしてはそこそこの量がありました。
それでこのゲームですが、つい先日にようやく一週目を終えてクリアすることが出来ました。その上で感想を述べると世間の評判通りに傑作と言ってもいい作品で、遊んでいて結構楽しかったです。
ストーリーは割とガチな戦争が舞台となっており、オープニングからして人がバタバタと撃ち殺される上にこのシリーズのマスコットキャラであるチョコボまで容赦なく撃たれるシーンは、「自分の知ってるファイナルファンタジーとちゃう」などと、一発目から度肝を抜かれました。元々FFシリーズ自体が人間の死をやたらクローズアップしたストーリーが多いのですが、このFF零式においては死ぬシーンがやたらとハードに描かれている上に最終的に名前付きで生き残る人間の方が少ない、というよりほぼ全員が皆殺しに遭うという「冨野版ファイナルファンタジー」みたいな結末になるので、合わない人にはこのストーリーは合わないと言われてもしょうがないでしょう。
しかし私個人の印象で述べると全体的にストーリー展開は悪くなく、特にエヴァンゲリオン並に賛否両論が相次いでいるあのエンディング直前に関しては私は高く評価しております。詳細はネタバレになるので敢えて語りませんが、ラストバトルに至るまで展開はそれまでの世界観が一挙に崩れて進むほどかなりアップテンポな展開になっており、この展開が急すぎるという声をいくつか見る一方、私自身はストーリー中にそれとなく「そうなる」暗示めいたヒントが結構転がっていたので、急展開であることには間違いありませんがまたく意味不明でああした展開になるわけではないので内心アリだという風に考えております。あくまで個人的意見ですが。
ただし、全体のストーリーでやや気になった点も少なくありません。一番気になった点を挙げると、このゲーム全体で「責任感のある大人」が誰ひとりとして登場していないことに強い違和感を覚えます。主人公たちを始め出てくるキャラクターはほぼ全員がやたら若いイケメン&美少女キャラばっかで、敵側には1人だけ混ざっていますが威厳があって渋さを覚えるような大人なキャラクターが全く出て来ず、こういってはなんですが「子供だけのピーターパンの世界かよ」という印象を覚えました。
一応味方にもおっさんキャラが少しは出てきますが、どいつもこいつも嫌味しか言わないハゲばっかで大人の威厳なんてありゃせず、そのくせやたら若いイケメンが活躍したりとキャラを美化するのは勝手だけど年齢層的に少々薄っぺらくはないかこの世界はとやっててつくづく思いました。主人公たちが全員高校生くらいの年齢にするのは別にいいんだけど、こういうのをちゃんと引っ張る大人の姿ももう少し描けばよかったのではと苦言を呈しておきます。
ゲーム性については言わずもがなですが、ほかのレビュアー同様に個性がしっかりと別れたキャラクターのアクションは使っているだけで楽しいし、敵キャラとのゲームバランスも非常に良好で、また各戦闘も難しすぎず優しすぎずで、それでいて戦略性を持って臨めば楽にクリアできたりといい仕上がり具合です。
最後、これはこのゲームを遊んだ人間すべてに共通する意見だと思いますが、エンディングで流れるテーマソングが素晴らしくよかったです。そのテーマソングはBUMP OF CHIKENの「ゼロ」という曲でこのゲームのために書き下ろされた曲だそうで、ゲーム製作者もこの曲があって初めて完成したと言うだけあってゲームのストーリーと歌詞がよく噛み合っており、それでいて歌い方というか耳に入る言葉一つ一つがこのゲームにおけるたくさんのシーンを思い起こさせる歌い方になっています。このテーマソングだけでなくゲーム中に流れるBGMはどれも情景に合ってて格段に優れていますが、最後のあのエンディングでこのテーマソングは卑怯だよと言いたくなるくらいに心に響きました(ノД`)
ゲーム内容を簡単に紹介すればアクションRPGといったところで、アクションが異なる各キャラクターを場面ごとに使い分けながら敵を薙ぎ倒していくゲームで、FFらしくレベルアップもあればブリザドやブリザガもあり、また戦闘シーン以外にもRPGらしくアドベンチャーシーンも多くてゲームのボリュームとしてはそこそこの量がありました。
それでこのゲームですが、つい先日にようやく一週目を終えてクリアすることが出来ました。その上で感想を述べると世間の評判通りに傑作と言ってもいい作品で、遊んでいて結構楽しかったです。
ストーリーは割とガチな戦争が舞台となっており、オープニングからして人がバタバタと撃ち殺される上にこのシリーズのマスコットキャラであるチョコボまで容赦なく撃たれるシーンは、「自分の知ってるファイナルファンタジーとちゃう」などと、一発目から度肝を抜かれました。元々FFシリーズ自体が人間の死をやたらクローズアップしたストーリーが多いのですが、このFF零式においては死ぬシーンがやたらとハードに描かれている上に最終的に名前付きで生き残る人間の方が少ない、というよりほぼ全員が皆殺しに遭うという「冨野版ファイナルファンタジー」みたいな結末になるので、合わない人にはこのストーリーは合わないと言われてもしょうがないでしょう。
しかし私個人の印象で述べると全体的にストーリー展開は悪くなく、特にエヴァンゲリオン並に賛否両論が相次いでいるあのエンディング直前に関しては私は高く評価しております。詳細はネタバレになるので敢えて語りませんが、ラストバトルに至るまで展開はそれまでの世界観が一挙に崩れて進むほどかなりアップテンポな展開になっており、この展開が急すぎるという声をいくつか見る一方、私自身はストーリー中にそれとなく「そうなる」暗示めいたヒントが結構転がっていたので、急展開であることには間違いありませんがまたく意味不明でああした展開になるわけではないので内心アリだという風に考えております。あくまで個人的意見ですが。
ただし、全体のストーリーでやや気になった点も少なくありません。一番気になった点を挙げると、このゲーム全体で「責任感のある大人」が誰ひとりとして登場していないことに強い違和感を覚えます。主人公たちを始め出てくるキャラクターはほぼ全員がやたら若いイケメン&美少女キャラばっかで、敵側には1人だけ混ざっていますが威厳があって渋さを覚えるような大人なキャラクターが全く出て来ず、こういってはなんですが「子供だけのピーターパンの世界かよ」という印象を覚えました。
一応味方にもおっさんキャラが少しは出てきますが、どいつもこいつも嫌味しか言わないハゲばっかで大人の威厳なんてありゃせず、そのくせやたら若いイケメンが活躍したりとキャラを美化するのは勝手だけど年齢層的に少々薄っぺらくはないかこの世界はとやっててつくづく思いました。主人公たちが全員高校生くらいの年齢にするのは別にいいんだけど、こういうのをちゃんと引っ張る大人の姿ももう少し描けばよかったのではと苦言を呈しておきます。
ゲーム性については言わずもがなですが、ほかのレビュアー同様に個性がしっかりと別れたキャラクターのアクションは使っているだけで楽しいし、敵キャラとのゲームバランスも非常に良好で、また各戦闘も難しすぎず優しすぎずで、それでいて戦略性を持って臨めば楽にクリアできたりといい仕上がり具合です。
最後、これはこのゲームを遊んだ人間すべてに共通する意見だと思いますが、エンディングで流れるテーマソングが素晴らしくよかったです。そのテーマソングはBUMP OF CHIKENの「ゼロ」という曲でこのゲームのために書き下ろされた曲だそうで、ゲーム製作者もこの曲があって初めて完成したと言うだけあってゲームのストーリーと歌詞がよく噛み合っており、それでいて歌い方というか耳に入る言葉一つ一つがこのゲームにおけるたくさんのシーンを思い起こさせる歌い方になっています。このテーマソングだけでなくゲーム中に流れるBGMはどれも情景に合ってて格段に優れていますが、最後のあのエンディングでこのテーマソングは卑怯だよと言いたくなるくらいに心に響きました(ノД`)
Wordpressでのテキストエディタの切り替え不良問題
今日は勤務している工場のある一帯が停電のため臨時休業となり自宅で過ごしてましたが、折角だから姉妹サイトの「企業居点」でポチポチと更新していました。そしたら作業中、突然記事投稿画面でビジュアルエディタとテキストエディタの切り替えが出来なくなるという妙な問題が起こって「こは如何に」と妙な古語が口から出てきました。
そもそもビジュアルエディタとテキストエディタとはなんなのかですが、大抵のブログソフトの記事編集画面には実際にホームページで公開された状態、言い換えるとHTMLが反映された状態で編集する画面と、HTMLを直接打ち込んで編集する画面の二種類を自由に切り替えられるようになっており、Wordpressの場合は前者がビジュアルエディタ、後者がテキストエディタだと呼ばれます。
私が記事を編集するさいは両画面を切り替えながらリンク貼ったり改行弄ったりするのですが、それだけに切り替えが出来なくなると記事編集自体が出来なくなるので非常に困ります。思い当たった原因としては最近、ベースとなるWordpressのソフトが新バージョンに更新されたのでその影響で追加ソフトに当たる「プラグイン」と呼ばれるソフトの中で新バージョンに対応していないのもあり、それが悪さをしているのではないかと推測しました。
なわけで早速プラグインをしらみつぶしに一つ一つ無効化させて不具合が直るか直らないか試した見たところ、意外とあっさり犯人は見つかりました。今回の私の場合、「Jetpack」という、閲覧数の統計やスパムコメントのブロックなどWordpressに様々な機能をまとめて追加してくれるプラグインでした。これ一つを止めたところ先程の問題はピタリとなくなり、こちらが驚くほど万事丸く収まってしまいました。
しょうがないのでこの「Jetpack」はしばらく封印せざるを得ないですが、なくてもいいといえばそれまでなのでもしかしたらこのまま削除することになるかもしれません。
ちなみに今日はまた150件ほど海外拠点データを打ち込んだ後、このブログで連載している「創業家列伝」をそのまま向こうのサイトにもコラムとしてアップロードしました。同じ経済系のネタだから相性いいだろうという判断からですが、アップロードに当たって以前に書いた安藤百福に関する記事を読み返し、「俺もええこと書いとるやないけ」と自分で書いた記事を自分で読んで感動してました。
そもそもあの創業家列伝自体、安藤百福について記事を書きたいと思ったことがきっかけで作った連載であって、正直な心境を話すとほかの人物については小倉昌男を除いてやはり熱意が一段低くなっております。この辺は佐野眞一氏も書いておりますが、経歴が怪しかったり物凄い決断をするような人間的魅了に溢れた人物はルポ記事を書く側にとっても魅力的で、書き手からしても「この人物を書きたい」という気持ちにさせられます。安藤百福然り、中国史の猛将然り、紹介したいと思う人物に対しては全力疾走で記事が書けますがそうでもない人となると引き上げられる熱意にも限界があります。
もちろん、この連載で取り上げている人物はどれも面白い人たちだし、そこそこ熱意を盛って書いてはいるつもりです。しかし安藤百福と同程度にまではモチベーションを上げ切れず、多分記事を読んでいる方にしてもそういう温度差が感じられるのではと推測しています。この前書いた樫尾四兄弟の記事なんかいい記事にしようと執筆前に集中しながら音楽聞くなどしてややトランス入った状態にしてから書きましたが、悪くはない仕上がりだけど他を圧倒するかのような記事にはとうとうできませんでした。好き嫌いで仕上がりに差がつくというのはよくないんだけどなぁ。
そもそもビジュアルエディタとテキストエディタとはなんなのかですが、大抵のブログソフトの記事編集画面には実際にホームページで公開された状態、言い換えるとHTMLが反映された状態で編集する画面と、HTMLを直接打ち込んで編集する画面の二種類を自由に切り替えられるようになっており、Wordpressの場合は前者がビジュアルエディタ、後者がテキストエディタだと呼ばれます。
私が記事を編集するさいは両画面を切り替えながらリンク貼ったり改行弄ったりするのですが、それだけに切り替えが出来なくなると記事編集自体が出来なくなるので非常に困ります。思い当たった原因としては最近、ベースとなるWordpressのソフトが新バージョンに更新されたのでその影響で追加ソフトに当たる「プラグイン」と呼ばれるソフトの中で新バージョンに対応していないのもあり、それが悪さをしているのではないかと推測しました。
なわけで早速プラグインをしらみつぶしに一つ一つ無効化させて不具合が直るか直らないか試した見たところ、意外とあっさり犯人は見つかりました。今回の私の場合、「Jetpack」という、閲覧数の統計やスパムコメントのブロックなどWordpressに様々な機能をまとめて追加してくれるプラグインでした。これ一つを止めたところ先程の問題はピタリとなくなり、こちらが驚くほど万事丸く収まってしまいました。
しょうがないのでこの「Jetpack」はしばらく封印せざるを得ないですが、なくてもいいといえばそれまでなのでもしかしたらこのまま削除することになるかもしれません。
ちなみに今日はまた150件ほど海外拠点データを打ち込んだ後、このブログで連載している「創業家列伝」をそのまま向こうのサイトにもコラムとしてアップロードしました。同じ経済系のネタだから相性いいだろうという判断からですが、アップロードに当たって以前に書いた安藤百福に関する記事を読み返し、「俺もええこと書いとるやないけ」と自分で書いた記事を自分で読んで感動してました。
そもそもあの創業家列伝自体、安藤百福について記事を書きたいと思ったことがきっかけで作った連載であって、正直な心境を話すとほかの人物については小倉昌男を除いてやはり熱意が一段低くなっております。この辺は佐野眞一氏も書いておりますが、経歴が怪しかったり物凄い決断をするような人間的魅了に溢れた人物はルポ記事を書く側にとっても魅力的で、書き手からしても「この人物を書きたい」という気持ちにさせられます。安藤百福然り、中国史の猛将然り、紹介したいと思う人物に対しては全力疾走で記事が書けますがそうでもない人となると引き上げられる熱意にも限界があります。
もちろん、この連載で取り上げている人物はどれも面白い人たちだし、そこそこ熱意を盛って書いてはいるつもりです。しかし安藤百福と同程度にまではモチベーションを上げ切れず、多分記事を読んでいる方にしてもそういう温度差が感じられるのではと推測しています。この前書いた樫尾四兄弟の記事なんかいい記事にしようと執筆前に集中しながら音楽聞くなどしてややトランス入った状態にしてから書きましたが、悪くはない仕上がりだけど他を圧倒するかのような記事にはとうとうできませんでした。好き嫌いで仕上がりに差がつくというのはよくないんだけどなぁ。
2015年4月22日水曜日
創業家列伝~鈴木道雄(スズキ)
軽自動車大手であるスズキの経営者ときたら現会長の鈴木修氏が非常に有名ですが、その創業者となるとトヨタの豊田喜一郎やホンダの本田総一郎と比べると印象が薄い気がします。案外ほかで紹介されていることが少ないような気がするので、いい機会なので今日はそのスズキ創業者である鈴木道雄を紹介しようと思います。
スズキの創業者となる鈴木道雄は1887年に静岡県浜松市にある農家の次男として生まれます。知ってる人には有名ですが浜松市は豊田佐吉や本田総一郎など著名な日本人発明家が数多く生まれており、知る人ぞ知るパワースポットだったりします。なんでここに発明家が集中しているのかいくつか仮説はありますが、一番大きいのは恐らく繊維産業の中心地だったということに尽きるでしょう。
話は戻りますが道雄の家は貧しかったために道雄も14歳から大工へ奉公に出ております。道雄を雇った大工は当初は通常通りに普請を手掛けていたそうですがある時期から木製の足踏み織機の製造販売を始め、弟子でいた道雄も一緒になって織機を作り始めたそうです。
奉公に出てから7年後、21歳となった道雄は大工の親方から独立して織機職人として活動を始めます。道雄は自ら設計した織機第一号「鈴木式織機」を自分の母親へプレゼントするのですが、この織機が他の織機と比べて能率が格段に優れていると評判になり道雄の元にはたくさんの受注依頼が舞い込むようになります。こうした追い風を受けた道雄は従業員を雇い入れるなど事業を拡大し、1920年には「鈴木式織機株式会社」を設立して経営者としてのスタートを切ります。
道雄の会社は大正の大戦景気後の不景気にも揺さぶられることなく順調に拡大していき、昭和に入ると娘婿で後に二代目社長となる鈴木俊三がアジア各国を回って織機を売り歩き、インドネシアに至っては約2万5000台の織機を出荷するにまで至ったそうです。こうして織機メーカーとしてその名をとどろかせる一方、道雄は日本にも欧米のようなモータリゼーションの時代が来ると考え、そもそもの発明家としての気概からか戦前の時代から自動車の開発を手掛け始めます。
道雄はこれまた別の娘婿でありエンジニアでもあった鈴木三郎にまずオートバイエンジンの試作を行わせ、これに成功してから四輪自動車の試作車開発にこぎつけます。ただその後、二次大戦の本格化に伴って自動車開発は一時ストップし、会社も軍部から指定を受けて軍需品の生産を引き受けることとなります。
終戦後、軍需工場がたくさんあったことから浜松は戦火に焼かれて道雄の会社も大半の工場が消失する憂き目に遭いました。しかし比較的被害の少なかった工場で鍋釜などの生産から再開したところ政府から大量の織機の注文を受けたことで再び息を吹き返し、新規開発にも取り組めるだけの体力を戻すに至りました。
この時に先程出てきた娘婿の俊三(後の二代目社長)から提案されたのが、自転車に原動機を付けた製品、ってかそのまんま原動機付自転車こと原付でした。待望のスズキ製原付第一号は「バイク・パワーフリー号」という名前でこれが大いに評判となり、道雄たちはこの後も続々と二輪車の新製品を市場へと売り出していきます。
道雄自身はこの時代からかねてから夢だった四輪の開発に従事したかったもののまた時期尚早と考え、この時期は二輪の開発に従事し続けたそうです。その甲斐あってか1954年には4サイクルエンジン二輪車の「コレダ号CO型」が富士登山レースで優勝し、「二輪のスズキ」という名を全国に轟かせ、それに合わせてか同年には会社名を「鈴木自動車工業株式会社」に変更しています。
会社名の変更とともに道雄はいよいよ四輪車の開発を社内に指示します。しかし社内からはまだ四輪について何のノウハウもなくまだ時期尚早だという声が強かったそうですがそこは道雄が押切り、社内から設計が出来る人間を選抜して開発チームを組織します。もっともこの時に選抜されたメンバーは3人とも運転免許すら持っておらず、運転免許を持っているという理由だけで途中から静岡大を出たばかりの新人2人を追加するという状態だったそうです。勢いだけはよく感じる。
開発チームはまず既に発売されている他社の自動車を購入し、分解するところからはじめ、比較的構造が簡単で模倣がしやすいという理由からロイトLP400をベースに試作車の開発を始めます。この開発の間、道雄は多忙にもかかわらず朝早くから研究室に入って開発メンバーを激励し続けたと言われており、やはりというか自動車に対する並々ならぬ情熱があった模様です。
試作車開発に当たって様々な困難はあったものの今も動き出したら結構早い鈴木なだけに、開発開始からわずか8ヶ月で試作車は完成しました。出来上がった試作車2台は輸入自動車販売大手のヤナセの二代目社長である柳瀬次郎に実車を評価してもらうため浜松から東京へと試運転を行いましたが、最大の難所である箱根越えで1台がトラブルを起こし、仕方なくマフラー外して無理矢理運転することでどうにかこうにか東京へと持っていくことが出来ました。
到着時刻は既に夜11時を過ぎていたものの柳瀬次郎はスタッフ一同共に工場前で出迎え、持ってこられた試作車を夜中ずっと乗り回してその性能を確かめたと言います。その上で道雄に対し、「認めてやろう。いい車だ」と、「頭文字D」の須藤京一のようなセリフを言ったかどうかは定かではありませんがとりあえず高評価を下し、道雄も俄然自信をつけたと言われます。それにしてもこの柳瀬次郎も面白い人だな。
この後もありとあらゆる改良がくわえられ、翌1955年に満を持してスズキ初の自動車、そして世界初の軽自動車である「スズライト」が発売されることとなります。なおWikipediaの記述によるとスズライトの初代ユーザーは女医で、当時は軽自動車なら二輪免許だけで運転できるということで往診の足として購入したそうです。
このスズライトが発売された2年後の1957年に道雄は社長職を引き、1982年まで長生きした上で往生を遂げています。彼について私の評価を述べると、戦前の代から自動車開発に強い情熱を持ちつづけスズライトの開発を主導した経緯を考えると、非常に粘り強い精神の持ち主だなという印象を覚えます。特にスズライト開発に当たっては本当に何もノウハウがない所から、日産やトヨタの様に資本にも余裕がない状態にもかかわらずかなり体当り的に作り始めたことを考えると今も昔もスズキはワンマントップのバイタリティが半端なく高い会社と言えそうです。
そんなスズキの代表的な特徴といったらなんといっても代々の経営トップがその前のトップの娘婿が就くという点にあります。道雄→俊三→修と、俊三と修氏はどちらも娘婿として鈴木家に入っていますがどちらもスズキの成長に大きく貢献しており、特に現在の修氏は金融業界から入ってきたにもかかわらず現在の日系自動車メーカートップとしては最も高い評価を受けている人物です。前にも書きましたが修氏がスズキに入社して間もなく、周囲から「銀行屋風情が」と言われながらもジムニーのライセンスを購入したという話は「慧眼まさに恐るべし」と感じるほどのセンスの良さを覚えます。
そういう意味ではスズキもオーナー色が濃くリーダーシップが強い会社と言えるのかもしれませんが、直接の血縁者ではなく優秀な外部の人間をオーナー一家に代々取りこんでいるという点ではかなり特徴的な日系企業と言えるような気がします。まぁこの辺はほかの人もたくさん書いているので詳しく書きませんが、「葵徳川三代」みたいに「Sの字鈴木三代」ってドラマとか作ったりしたら案外面白いんじゃないのとくだらないこと言ってまとめにしたいと思います。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
スズキの創業者となる鈴木道雄は1887年に静岡県浜松市にある農家の次男として生まれます。知ってる人には有名ですが浜松市は豊田佐吉や本田総一郎など著名な日本人発明家が数多く生まれており、知る人ぞ知るパワースポットだったりします。なんでここに発明家が集中しているのかいくつか仮説はありますが、一番大きいのは恐らく繊維産業の中心地だったということに尽きるでしょう。
話は戻りますが道雄の家は貧しかったために道雄も14歳から大工へ奉公に出ております。道雄を雇った大工は当初は通常通りに普請を手掛けていたそうですがある時期から木製の足踏み織機の製造販売を始め、弟子でいた道雄も一緒になって織機を作り始めたそうです。
奉公に出てから7年後、21歳となった道雄は大工の親方から独立して織機職人として活動を始めます。道雄は自ら設計した織機第一号「鈴木式織機」を自分の母親へプレゼントするのですが、この織機が他の織機と比べて能率が格段に優れていると評判になり道雄の元にはたくさんの受注依頼が舞い込むようになります。こうした追い風を受けた道雄は従業員を雇い入れるなど事業を拡大し、1920年には「鈴木式織機株式会社」を設立して経営者としてのスタートを切ります。
道雄の会社は大正の大戦景気後の不景気にも揺さぶられることなく順調に拡大していき、昭和に入ると娘婿で後に二代目社長となる鈴木俊三がアジア各国を回って織機を売り歩き、インドネシアに至っては約2万5000台の織機を出荷するにまで至ったそうです。こうして織機メーカーとしてその名をとどろかせる一方、道雄は日本にも欧米のようなモータリゼーションの時代が来ると考え、そもそもの発明家としての気概からか戦前の時代から自動車の開発を手掛け始めます。
道雄はこれまた別の娘婿でありエンジニアでもあった鈴木三郎にまずオートバイエンジンの試作を行わせ、これに成功してから四輪自動車の試作車開発にこぎつけます。ただその後、二次大戦の本格化に伴って自動車開発は一時ストップし、会社も軍部から指定を受けて軍需品の生産を引き受けることとなります。
終戦後、軍需工場がたくさんあったことから浜松は戦火に焼かれて道雄の会社も大半の工場が消失する憂き目に遭いました。しかし比較的被害の少なかった工場で鍋釜などの生産から再開したところ政府から大量の織機の注文を受けたことで再び息を吹き返し、新規開発にも取り組めるだけの体力を戻すに至りました。
この時に先程出てきた娘婿の俊三(後の二代目社長)から提案されたのが、自転車に原動機を付けた製品、ってかそのまんま原動機付自転車こと原付でした。待望のスズキ製原付第一号は「バイク・パワーフリー号」という名前でこれが大いに評判となり、道雄たちはこの後も続々と二輪車の新製品を市場へと売り出していきます。
道雄自身はこの時代からかねてから夢だった四輪の開発に従事したかったもののまた時期尚早と考え、この時期は二輪の開発に従事し続けたそうです。その甲斐あってか1954年には4サイクルエンジン二輪車の「コレダ号CO型」が富士登山レースで優勝し、「二輪のスズキ」という名を全国に轟かせ、それに合わせてか同年には会社名を「鈴木自動車工業株式会社」に変更しています。
会社名の変更とともに道雄はいよいよ四輪車の開発を社内に指示します。しかし社内からはまだ四輪について何のノウハウもなくまだ時期尚早だという声が強かったそうですがそこは道雄が押切り、社内から設計が出来る人間を選抜して開発チームを組織します。もっともこの時に選抜されたメンバーは3人とも運転免許すら持っておらず、運転免許を持っているという理由だけで途中から静岡大を出たばかりの新人2人を追加するという状態だったそうです。勢いだけはよく感じる。
開発チームはまず既に発売されている他社の自動車を購入し、分解するところからはじめ、比較的構造が簡単で模倣がしやすいという理由からロイトLP400をベースに試作車の開発を始めます。この開発の間、道雄は多忙にもかかわらず朝早くから研究室に入って開発メンバーを激励し続けたと言われており、やはりというか自動車に対する並々ならぬ情熱があった模様です。
試作車開発に当たって様々な困難はあったものの今も動き出したら結構早い鈴木なだけに、開発開始からわずか8ヶ月で試作車は完成しました。出来上がった試作車2台は輸入自動車販売大手のヤナセの二代目社長である柳瀬次郎に実車を評価してもらうため浜松から東京へと試運転を行いましたが、最大の難所である箱根越えで1台がトラブルを起こし、仕方なくマフラー外して無理矢理運転することでどうにかこうにか東京へと持っていくことが出来ました。
到着時刻は既に夜11時を過ぎていたものの柳瀬次郎はスタッフ一同共に工場前で出迎え、持ってこられた試作車を夜中ずっと乗り回してその性能を確かめたと言います。その上で道雄に対し、「認めてやろう。いい車だ」と、「頭文字D」の須藤京一のようなセリフを言ったかどうかは定かではありませんがとりあえず高評価を下し、道雄も俄然自信をつけたと言われます。それにしてもこの柳瀬次郎も面白い人だな。
この後もありとあらゆる改良がくわえられ、翌1955年に満を持してスズキ初の自動車、そして世界初の軽自動車である「スズライト」が発売されることとなります。なおWikipediaの記述によるとスズライトの初代ユーザーは女医で、当時は軽自動車なら二輪免許だけで運転できるということで往診の足として購入したそうです。
このスズライトが発売された2年後の1957年に道雄は社長職を引き、1982年まで長生きした上で往生を遂げています。彼について私の評価を述べると、戦前の代から自動車開発に強い情熱を持ちつづけスズライトの開発を主導した経緯を考えると、非常に粘り強い精神の持ち主だなという印象を覚えます。特にスズライト開発に当たっては本当に何もノウハウがない所から、日産やトヨタの様に資本にも余裕がない状態にもかかわらずかなり体当り的に作り始めたことを考えると今も昔もスズキはワンマントップのバイタリティが半端なく高い会社と言えそうです。
そんなスズキの代表的な特徴といったらなんといっても代々の経営トップがその前のトップの娘婿が就くという点にあります。道雄→俊三→修と、俊三と修氏はどちらも娘婿として鈴木家に入っていますがどちらもスズキの成長に大きく貢献しており、特に現在の修氏は金融業界から入ってきたにもかかわらず現在の日系自動車メーカートップとしては最も高い評価を受けている人物です。前にも書きましたが修氏がスズキに入社して間もなく、周囲から「銀行屋風情が」と言われながらもジムニーのライセンスを購入したという話は「慧眼まさに恐るべし」と感じるほどのセンスの良さを覚えます。
そういう意味ではスズキもオーナー色が濃くリーダーシップが強い会社と言えるのかもしれませんが、直接の血縁者ではなく優秀な外部の人間をオーナー一家に代々取りこんでいるという点ではかなり特徴的な日系企業と言えるような気がします。まぁこの辺はほかの人もたくさん書いているので詳しく書きませんが、「葵徳川三代」みたいに「Sの字鈴木三代」ってドラマとか作ったりしたら案外面白いんじゃないのとくだらないこと言ってまとめにしたいと思います。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
2015年4月21日火曜日
現代神話は何故作られるのか
今日はちょっと短くこの前考えたことについて書きますが、いつの時代もというか日本ではよく「少年犯罪の凶悪化」や「子供の学力低下」の二つが取り上げられます。しかし少年犯罪は70年代とかと比べると規模も内容も現代の方が圧倒的に小さいですし、ゆとり教育の世代もよくよく調べてみると大学入試の問題は難問化していて実際は二極化の傾向が強かったりして、現代神話ともいえる先程の二つの言葉は実態を表していないどころか、むしろ内容的に間違っている可能性が高いです。では何故内容的に実態を表していない言葉が、現代社会に置いてこれほどまで広く流布されるのでしょうか。
私の考えをスパッと述べると、「そうであってほしい」と願う人間がたくさんいるからこうした現代神話は生まれるのではないかと思います。どちらも子供関連、それも教育に深く影響する内容ですが、現代教育が間違っているということにしたい人間が案外こういう神話をはやらせているのではないかと何の根拠もなく思えてきました。
考えてみると現代に限らず、神話というのはどの時代でも案外そのように「そうあってほしい」という願望が下地となって作られている気がします。天皇降臨節とか天地創造説とか、作った人間に都合のいいように、権威がもたれるようにして作られているのではと思えてきます。現代における神話とも言うべき眉唾な話しなども、基本はこういった願望が根拠を含まずに独り歩きするものが大半でしょう。
なおそういう、「そうであってほしい」ことが一番感じられる神話を敢えて挙げるとすれば私の中だと「マリアの受胎」で、ダヴィンチの師匠に当たるジョットが「聖誕告知」の絵でマリアの夫・ヨセフを何やら不安そうな顔に描いた理由を問われた際、「そりゃそうだろ。妻のお腹にいる子供の父親が誰なのかわからないんだからさ」と答えているだけに、ヨセフからしたら「そうであってほしい」と強く神話を信じたんじゃないかと思います。
私の考えをスパッと述べると、「そうであってほしい」と願う人間がたくさんいるからこうした現代神話は生まれるのではないかと思います。どちらも子供関連、それも教育に深く影響する内容ですが、現代教育が間違っているということにしたい人間が案外こういう神話をはやらせているのではないかと何の根拠もなく思えてきました。
考えてみると現代に限らず、神話というのはどの時代でも案外そのように「そうあってほしい」という願望が下地となって作られている気がします。天皇降臨節とか天地創造説とか、作った人間に都合のいいように、権威がもたれるようにして作られているのではと思えてきます。現代における神話とも言うべき眉唾な話しなども、基本はこういった願望が根拠を含まずに独り歩きするものが大半でしょう。
なおそういう、「そうであってほしい」ことが一番感じられる神話を敢えて挙げるとすれば私の中だと「マリアの受胎」で、ダヴィンチの師匠に当たるジョットが「聖誕告知」の絵でマリアの夫・ヨセフを何やら不安そうな顔に描いた理由を問われた際、「そりゃそうだろ。妻のお腹にいる子供の父親が誰なのかわからないんだからさ」と答えているだけに、ヨセフからしたら「そうであってほしい」と強く神話を信じたんじゃないかと思います。
2015年4月19日日曜日
中国雑誌の山口組特集
昨夜は上海に行って友人と一緒に夕食を取った際、昨日に書いたベルリン五輪の日本人選手の記事で「トレーナーにNIPPONって書いてあって時代を感じた」と話したところその友人から、「でも花園さんも夏場はよく、胸にHONGKONGって書いたTシャツ着てるじゃないですか」とツッコまれて苦笑しつつ、「俺、香港好きやねんから……」としか言えませんでした。なお「I♡上海」のTシャツもよく着て徘徊しています。
そうした私のTシャツセンスは置いておいて本題ですが、前日に引き続き上海をうろうろしていたところ売店で気になる表紙の雑誌が売られていたので衝動買いしてきました。
余計な説明は最早不要でしょう。何故だか知りませんが中国の雑誌に日本最大、というより構成員数では世界最大のマフィア組織である「山口組」の特集が組まれていました。なお表紙に書かれている言葉は「アジアで最も有名なマフィアの生存法則(サバイバル技術)」といったところです。
興味津々でページを開いてみたところこの特集記事を書いたのは日本人ライター二人で、中国人から見た山口組とはどんなものかというのが見たかっただけに少し残念でしたが、記事自体は非常によくまとめられており、後述するよう日本では「週間大衆(ヤクザ業界の業界紙と個人的に考えてます)」くらいにしか書けないネタも書かれてあってなかなか興味深い内容でした。
主な内容は神戸港の港湾運搬組織から発祥する山口組の歴史と彼らを取り巻く「暴力団対策法(暴対法)」を中心とした現況、そして日本社会のヤクザに対する見方などでまとめられています。山口組の歴史についてはネットにも詳しい記事がたくさんあるのでここでの説明は省略しますが、この特集記事ではある意味で現代山口組の祖ともいえる三代目・田岡一雄の来歴が詳しく語られており、映画の「三代目襲名」で田岡を演じた俳優の故・高倉健が田岡と並んで2ショットで写ってる写真が何故か添えられています。今だったらこんな写真は撮れんわな。
山口組の歴史について書かれている部分で興味深かったのは、山口組が芸能事業に進出した昭和の初め頃より吉本興業と手を組んでいて、現代においても重要な傘下組織であるということをはっきり書いてある点です。山口組と吉本興業の間となると何人かの芸人が構成員と付き合いをしているという報道は日本でもたまに出てきますが、吉本興業の発足当初から会社ぐるみであるとスパッと書いてあるのは中国雑誌ゆえでしょう。なおこちらはタブーが取れかかっていますが美空ひばりも山口組傘下の芸能事務所で活動していたと触れ、あと現代では芸能事務所のバーニングは今でも付き合いがあってこのバーニングに所属する誰もが知るような有名芸能人の名前もいちいち挙げています。
このほかの記述となると北野武氏のヤクザ映画と彼本人のヤクザに対する意見などを引用して、日本の芸能界とヤクザは関わりが深いことを比較的冷静に紹介しています。実際、否定できないし。
それとなかなか読ませられた部分として、暴対法について書かれてあるところは面白かったです。記事中では日本の暴対法について、「このようにマフィア組織を対象とした規正法はほかの国には存在せず、ある意味でヤクザの存在を法律上で認めているような法律でもある」と指摘しており、私もこの指摘は至極その通りのように見えます。そして1992年の施行以来、この法律による摘発を恐れ庇護主を得るために山口組に参加する規模の小さい暴力団が多かったと述べ、山口組の勢力拡大の一因にもなったとも指摘しています。
ただ規制の威力自体は高く、施行以来ヤクザによる犯罪は減少しており、またヤクザ関係者からも悲鳴にも近い暴対法の見解を引用した上で、「ヤクザをやめるか、警察に捕まるか、どちらにしろ彼らは消えていく存在だ」という警察関係者の言葉でまとめています。
果たして、中国人はこの記事読んでどう思うのだろうな。試しに何人か読ませてみようかね。
そうした私のTシャツセンスは置いておいて本題ですが、前日に引き続き上海をうろうろしていたところ売店で気になる表紙の雑誌が売られていたので衝動買いしてきました。
余計な説明は最早不要でしょう。何故だか知りませんが中国の雑誌に日本最大、というより構成員数では世界最大のマフィア組織である「山口組」の特集が組まれていました。なお表紙に書かれている言葉は「アジアで最も有名なマフィアの生存法則(サバイバル技術)」といったところです。
興味津々でページを開いてみたところこの特集記事を書いたのは日本人ライター二人で、中国人から見た山口組とはどんなものかというのが見たかっただけに少し残念でしたが、記事自体は非常によくまとめられており、後述するよう日本では「週間大衆(ヤクザ業界の業界紙と個人的に考えてます)」くらいにしか書けないネタも書かれてあってなかなか興味深い内容でした。
主な内容は神戸港の港湾運搬組織から発祥する山口組の歴史と彼らを取り巻く「暴力団対策法(暴対法)」を中心とした現況、そして日本社会のヤクザに対する見方などでまとめられています。山口組の歴史についてはネットにも詳しい記事がたくさんあるのでここでの説明は省略しますが、この特集記事ではある意味で現代山口組の祖ともいえる三代目・田岡一雄の来歴が詳しく語られており、映画の「三代目襲名」で田岡を演じた俳優の故・高倉健が田岡と並んで2ショットで写ってる写真が何故か添えられています。今だったらこんな写真は撮れんわな。
山口組の歴史について書かれている部分で興味深かったのは、山口組が芸能事業に進出した昭和の初め頃より吉本興業と手を組んでいて、現代においても重要な傘下組織であるということをはっきり書いてある点です。山口組と吉本興業の間となると何人かの芸人が構成員と付き合いをしているという報道は日本でもたまに出てきますが、吉本興業の発足当初から会社ぐるみであるとスパッと書いてあるのは中国雑誌ゆえでしょう。なおこちらはタブーが取れかかっていますが美空ひばりも山口組傘下の芸能事務所で活動していたと触れ、あと現代では芸能事務所のバーニングは今でも付き合いがあってこのバーニングに所属する誰もが知るような有名芸能人の名前もいちいち挙げています。
このほかの記述となると北野武氏のヤクザ映画と彼本人のヤクザに対する意見などを引用して、日本の芸能界とヤクザは関わりが深いことを比較的冷静に紹介しています。実際、否定できないし。
それとなかなか読ませられた部分として、暴対法について書かれてあるところは面白かったです。記事中では日本の暴対法について、「このようにマフィア組織を対象とした規正法はほかの国には存在せず、ある意味でヤクザの存在を法律上で認めているような法律でもある」と指摘しており、私もこの指摘は至極その通りのように見えます。そして1992年の施行以来、この法律による摘発を恐れ庇護主を得るために山口組に参加する規模の小さい暴力団が多かったと述べ、山口組の勢力拡大の一因にもなったとも指摘しています。
ただ規制の威力自体は高く、施行以来ヤクザによる犯罪は減少しており、またヤクザ関係者からも悲鳴にも近い暴対法の見解を引用した上で、「ヤクザをやめるか、警察に捕まるか、どちらにしろ彼らは消えていく存在だ」という警察関係者の言葉でまとめています。
果たして、中国人はこの記事読んでどう思うのだろうな。試しに何人か読ませてみようかね。
2015年4月18日土曜日
ベルリン五輪に出場した日本人レスリング選手
今回はちょっといつもと趣向が異なる記事で、友人から提供いただいたちょっとした記録的写真を紹介します。
この写真はこのブログによくコメントくれる若生わこさんから提供いただいた写真です。写真に写っている人物は誰かというと若生さんの親戚で、見ての通りというレスリング選手だったそうで1936年のベルリンオリンピックに日本代表として出場した際に撮ったのがこの写真だそうです。
如何にもベルリンって感じがするのはこっちの写真ですね。日本人でありながら体格の大きいドイツ人と並んでいても見劣りしない辺りさすがはレスリング選手だという気持ちを覚えます。ただ、「NIPPON」って刺繍のあるトレーナーはいくらか時代を感じてしまいます。
こちらは日本国内で撮影された写真のようです。このベルリン五輪に日本はレスリング選手を明大から二人、早大から三人を選出して計五人だったとのことですから、一番右の方が監督で他の方々がその五人のレスリング選手だと思われます。
こちらも日本国内で撮影されたものと思しき写真で、郷里の壮行会で撮られたのでしょう。この時代でありながら居並ぶ面々がスーツ姿のきちんとした身なりで、また神主さんもしっかり写っているのが印象的です。一人だけ女性も写っていますが、この人が母親なのかな。
こちらが最後の写真となります。日本の国旗、五輪のマークの入ったバッヂがついている辺りは日本代表らしい姿で、体格ががっちりしている分スーツ姿が堂に入っています。このほか思いつく点としては髪型が比較的現代の見方でもそれほど時代を感じさせない髪型で、現代と時代が続いているんだなという気がします。
戦前の時代の写真はそこそこ残っていますが、オリンピック選手の写真となるとこれまで案外見たことがなかったので今回提供いただいた写真は素直に新鮮な感じを覚えました。改めて写真を提供いただいた若生さんにはここで感謝を述べさせてもらいます。
2015年4月17日金曜日
創業家列伝~樫尾四兄弟(カシオ計算機)
たまに友人から、「あの創業家列伝の連載ってもう終わったの?」って突っ込まれるほど掲載時期に幅のあるこの連載です。書けるネタ、書きたいネタはたくさんあるものの書く前にそこそこ調べものとか準備がいるので、ついつい執筆が後回しになってしまっているのが現状ですが、今の所マッドシティとかほかにもいくつか連載記事を抱えたりしているのでなかなか手が回らないのが本音です。てんかん発症気味の状態だったら無限のエネルギーで延々と書き続けられるんだけどなぁ。
そういうわけで今日の創業家ですが、意外と書かれている評伝が少ないと思われるカシオ計算機の創業家、というよりは創業一家である樫尾四兄弟を取り上げます。
・カシオ計算機(Wikipedia)
往年の世代の方であれば「答え一発カシオミニ!」というこのキャッチコピーを覚えているのではないでしょうか。このコピーと共に一世を風靡し、それまで企業向けにしか需要のなかった電卓を一気に個人用として普及させた電子電卓「カシオミニ」は現代においても「電卓といったらカシオ」と言われるほどの大きな成功を収め、同社を優秀な電子機器メーカーとして名指しめました。そのカシオ計算機を創業したのは現社長の樫尾和雄氏(三男)、現副社長の樫尾幸雄氏(四男)の兄である樫尾忠雄(長兄)とその弟の樫尾俊夫(次男)であり、実質的に四兄弟の団結によって生まれ、繁栄した会社と言っても過言ではありません。
長男の忠雄(以下名字は省略)は1917年に現在の高知県南国市で、農業を営む両親の元で生稀増した。忠雄がまだ幼少だった1923年に一家は関東大震災後の東京に移り住み、その翌年の1924年に次男の俊雄が生まれています。
一家の生活は決して裕福ではなく忠雄は小学校高等科を卒業した十三歳の頃には就職し、巣鴨の榎本製作所で旋盤工として働き始めます。ここの会社の社長をしていた榎本博は忠雄の熱心な仕事ぶりを認め、自ら学費を負担する形で十六歳になった忠雄を早稲田の夜間学校へと通わせ、忠雄もまたその期待に応えギリギリまで仕事こなしつつ勉強もしっかりこなして無事に卒業を果たしました。
しかし善人ほどとでもいうべきか、戦時色が強まっていた1936年に榎本博は軍から召集を受け、そのまま戦地で散る運命となりました。榎本の出征に伴って榎本製作所は閉鎖しましたが、榎本は出征の前に忠雄へ愛用のノギスを託したと言い、このエピソードだけでも両者の強い絆というか忠雄の将来性を深く買っていたということが伺えます。
榎本製作所の閉鎖後、忠雄はいくつかの会社を渡り歩き1942年には間借りの工場で独立を果たします。その後、戦争が終結した翌年の1946年に東京都三鷹へと移り「樫尾製作所」を正式に発起して、この時点を現在のカシオ計算機は創業年として取り扱っています。
ただ独立を果たしたものの当時は敗戦直後で物資は何もなく、工作機械にすら事欠く有様だったようです。どうにか中古の機械を調達する算段が出来たものの売主は長野県諏訪市にいたため、父親の茂がリヤカーを引いて往復300キロを渡り歩いてわざわざ運搬してきたほどだったそうです。それにしてもガッツのある父ちゃんだ。
またこの時、兄同様に優秀で当時逓信省に技術者として勤めていた次男の俊雄が公務員という職を捨てた上で樫尾製作所に入社しています。少しでも兄を手伝いたいという一心からの行動だったということで、創業当初はまさに兄弟二人三脚であれこれ製品を作ってどうにかこうにか会社を回していく状態だったらしく、手元の資料によると兄弟がうどん製造機を作って、それで作るうどんを家族が売り歩くということもあったそうです。
そんなこの兄弟の初のヒット商品は指輪に煙草を差せる突起をつけた「指輪パイプ」で、煙草をスパスパ吸う兄を見た俊雄が発案した作業しながらでもタバコが吸えるという製品でした。これが意外にヒットして1日300個も売れる日もあり、創業当初の経営を大いに支援してくれました。
そしてこの指輪パイプに続いた商品というのが、カシオの代名詞ともいえる電卓こと計算機でした。この時既にスポーツマンで行動的な三男の和雄氏、温和で研究肌な四男の幸雄氏も入社しており、四兄弟が揃い踏んだ上で計算機の開発に心血を注いでついにソレノイド式計算機の自社開発に成功します。なお、このカシオのソレノイド式で初めて採用されたボタン配置というのが現在のテンキー配置だったりもします。
ただこの時のソレノイド式計算機は演算速度は高かった掛け算を連続して行う連乗機能がなく、商社からは欠陥商品としてあまり相手にされなかったようです。その悔しさをばねにしてか四兄弟はソレノイド式から今度はリレー式の計算機開発に手を付け、1956年には「14-A型リレー式計算機」の発明に成功、翌年に内田洋行と販売契約を結び正式に売り出したところ市場からも高く評価され、「電卓のカシオ」という名を始めて轟かせるに至りました。
しかしこの時のカシオの成功を見た同業他社もこぞって電卓の開発に乗り出し、電卓市場の競争は非常に激しくなっていきました。カシオもスタート当初でこそリードしていたもののあっという間に技術的差を詰められ、究極のリレー式計算機として開発していた「81型」は当時普及し始めていたトランジスタ採用の電子式計算機との比較によってほとんど評価されず、ほぼ完成しておきながら結局製品化はせずにお蔵入りになるという憂き目を見ています。
なおこの時カシオの最大のライバルとして電子式計算機を持って立ちはだかっていたのはあのシャープです。こういういい時代もあったんだなぁ。
この時は最初の電卓の成功でいい気になってゴルフ三昧だった四兄弟も気を入れ直し、1965年には市場の要求に追いつこうと遅ればせながら電子式計算機の開発に取り組みます。元々切り替えの早い会社でもあるようだし社員も優秀な人材がそろっていたこともあって開発開始から一年足らずでカシオ初の電子式計算機「カシオ001」を世に送り出し、一旦開いた技術的な差を一挙に埋めることに成功し、「電卓のカシオ」の名を維持し続けました。
そしてそれから7年後の1972年、ほとんど法人向けにしか売られてこなかった電卓を個人向けに売る道はないかとカシオは動き出します。当時カシオの社員で現在はオプトエレクトロニクス会長の志村則彰氏を中心に、カシオは個人向け販売に当たって最大の障害となる生産コストの削減を様々な方法で探り、キーをリードスイッチからパネルスイッチにしたり、演算処理にLSIを導入したりなどしてついには当時の市場価格の約3分の1程になる12,800円という定価で恐らく世界初の個人向け電卓「カシオミニ」を世に送り出します。なお原価は4,500円程度だったらしく、定価の設定は社長の忠雄がトップダウンで、というか製品発表日に突然決めたそうです。
このカシオミニは発売当初から大きな話題を集め、発売からわずか十ヶ月でで百万台を販売するなどカシオにとってかつてないほどのヒット商品となり、やはり「電卓のカシオ」と当時は言われたことでしょう。しかもこの時の日本ではボウリングがブームで、ボウリングの点数計算に当たってその使い勝手の良さが評価されたことが追い風となり、電卓を販売した競合メーカーを市場から一気に叩き落とすほどの成功を得ています。
その後もカシオは電卓にとどまらず、電子楽器の「カシオトーン」、高耐久性電子腕時計の「G-SHOCK」など独自性の光る商品を次々と発表し、現代においても一芸のある電子機器メーカーとしての地位を保ちながら「電卓のカシオ」という看板を守っています。何気に私もカシオの電卓使ってるし、例の1・3・7・9・AC同時押しの裏技も知ってるしなぁ。
このカシオという企業について私見を述べると、本当に創業当初から四兄弟が一緒になって盛り立てきて現在も社長と副社長が三男と四男という辺り、いい意味で「創業者が一人の会社じゃない」という印象を覚えます。しかも長男と次男は既に逝去していますが、生前もケンカがあったなどというエピソードは聞かず仲が良かったようで、比べては悪いですがどっかの化学品メーカーの兄弟がいやでも頭に思い浮かんできてしまいます。
既に述べていますが、カシオというのは一癖、一工夫ある商品がやはり多いように思え、四兄弟のオーナーシップがその独自性を高めているようにも覚えます。その点ではこの会社も一種の家族経営企業とみても間違いではなく、その数少ない成功例として考えてもいいと私の友人は話していました。
ただなんでもかんでも成功してきたというわけではなく、1995年には「ルーピー」という女の子向けを意識したゲームハードを発売したものの市場から認知されることもなく淘汰されています。それにしても、現代でこの名称聞くとこっちもまたある元首相が浮かんできてしまうな。
おまけ
先週末に自分の所属するサイクリング部のメンバーと共にボウリングをやってきましたが、みんな揃いも揃って下手で誰もスコアが100に届くことがありませんでした。しかしレベルが低い分、みんなして実力が拮抗したため結構熱くなって楽しかったです。なお昼食はサイゼリヤ。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
そういうわけで今日の創業家ですが、意外と書かれている評伝が少ないと思われるカシオ計算機の創業家、というよりは創業一家である樫尾四兄弟を取り上げます。
・カシオ計算機(Wikipedia)
往年の世代の方であれば「答え一発カシオミニ!」というこのキャッチコピーを覚えているのではないでしょうか。このコピーと共に一世を風靡し、それまで企業向けにしか需要のなかった電卓を一気に個人用として普及させた電子電卓「カシオミニ」は現代においても「電卓といったらカシオ」と言われるほどの大きな成功を収め、同社を優秀な電子機器メーカーとして名指しめました。そのカシオ計算機を創業したのは現社長の樫尾和雄氏(三男)、現副社長の樫尾幸雄氏(四男)の兄である樫尾忠雄(長兄)とその弟の樫尾俊夫(次男)であり、実質的に四兄弟の団結によって生まれ、繁栄した会社と言っても過言ではありません。
長男の忠雄(以下名字は省略)は1917年に現在の高知県南国市で、農業を営む両親の元で生稀増した。忠雄がまだ幼少だった1923年に一家は関東大震災後の東京に移り住み、その翌年の1924年に次男の俊雄が生まれています。
一家の生活は決して裕福ではなく忠雄は小学校高等科を卒業した十三歳の頃には就職し、巣鴨の榎本製作所で旋盤工として働き始めます。ここの会社の社長をしていた榎本博は忠雄の熱心な仕事ぶりを認め、自ら学費を負担する形で十六歳になった忠雄を早稲田の夜間学校へと通わせ、忠雄もまたその期待に応えギリギリまで仕事こなしつつ勉強もしっかりこなして無事に卒業を果たしました。
しかし善人ほどとでもいうべきか、戦時色が強まっていた1936年に榎本博は軍から召集を受け、そのまま戦地で散る運命となりました。榎本の出征に伴って榎本製作所は閉鎖しましたが、榎本は出征の前に忠雄へ愛用のノギスを託したと言い、このエピソードだけでも両者の強い絆というか忠雄の将来性を深く買っていたということが伺えます。
榎本製作所の閉鎖後、忠雄はいくつかの会社を渡り歩き1942年には間借りの工場で独立を果たします。その後、戦争が終結した翌年の1946年に東京都三鷹へと移り「樫尾製作所」を正式に発起して、この時点を現在のカシオ計算機は創業年として取り扱っています。
ただ独立を果たしたものの当時は敗戦直後で物資は何もなく、工作機械にすら事欠く有様だったようです。どうにか中古の機械を調達する算段が出来たものの売主は長野県諏訪市にいたため、父親の茂がリヤカーを引いて往復300キロを渡り歩いてわざわざ運搬してきたほどだったそうです。それにしてもガッツのある父ちゃんだ。
またこの時、兄同様に優秀で当時逓信省に技術者として勤めていた次男の俊雄が公務員という職を捨てた上で樫尾製作所に入社しています。少しでも兄を手伝いたいという一心からの行動だったということで、創業当初はまさに兄弟二人三脚であれこれ製品を作ってどうにかこうにか会社を回していく状態だったらしく、手元の資料によると兄弟がうどん製造機を作って、それで作るうどんを家族が売り歩くということもあったそうです。
そんなこの兄弟の初のヒット商品は指輪に煙草を差せる突起をつけた「指輪パイプ」で、煙草をスパスパ吸う兄を見た俊雄が発案した作業しながらでもタバコが吸えるという製品でした。これが意外にヒットして1日300個も売れる日もあり、創業当初の経営を大いに支援してくれました。
そしてこの指輪パイプに続いた商品というのが、カシオの代名詞ともいえる電卓こと計算機でした。この時既にスポーツマンで行動的な三男の和雄氏、温和で研究肌な四男の幸雄氏も入社しており、四兄弟が揃い踏んだ上で計算機の開発に心血を注いでついにソレノイド式計算機の自社開発に成功します。なお、このカシオのソレノイド式で初めて採用されたボタン配置というのが現在のテンキー配置だったりもします。
ただこの時のソレノイド式計算機は演算速度は高かった掛け算を連続して行う連乗機能がなく、商社からは欠陥商品としてあまり相手にされなかったようです。その悔しさをばねにしてか四兄弟はソレノイド式から今度はリレー式の計算機開発に手を付け、1956年には「14-A型リレー式計算機」の発明に成功、翌年に内田洋行と販売契約を結び正式に売り出したところ市場からも高く評価され、「電卓のカシオ」という名を始めて轟かせるに至りました。
しかしこの時のカシオの成功を見た同業他社もこぞって電卓の開発に乗り出し、電卓市場の競争は非常に激しくなっていきました。カシオもスタート当初でこそリードしていたもののあっという間に技術的差を詰められ、究極のリレー式計算機として開発していた「81型」は当時普及し始めていたトランジスタ採用の電子式計算機との比較によってほとんど評価されず、ほぼ完成しておきながら結局製品化はせずにお蔵入りになるという憂き目を見ています。
なおこの時カシオの最大のライバルとして電子式計算機を持って立ちはだかっていたのはあのシャープです。こういういい時代もあったんだなぁ。
この時は最初の電卓の成功でいい気になってゴルフ三昧だった四兄弟も気を入れ直し、1965年には市場の要求に追いつこうと遅ればせながら電子式計算機の開発に取り組みます。元々切り替えの早い会社でもあるようだし社員も優秀な人材がそろっていたこともあって開発開始から一年足らずでカシオ初の電子式計算機「カシオ001」を世に送り出し、一旦開いた技術的な差を一挙に埋めることに成功し、「電卓のカシオ」の名を維持し続けました。
そしてそれから7年後の1972年、ほとんど法人向けにしか売られてこなかった電卓を個人向けに売る道はないかとカシオは動き出します。当時カシオの社員で現在はオプトエレクトロニクス会長の志村則彰氏を中心に、カシオは個人向け販売に当たって最大の障害となる生産コストの削減を様々な方法で探り、キーをリードスイッチからパネルスイッチにしたり、演算処理にLSIを導入したりなどしてついには当時の市場価格の約3分の1程になる12,800円という定価で恐らく世界初の個人向け電卓「カシオミニ」を世に送り出します。なお原価は4,500円程度だったらしく、定価の設定は社長の忠雄がトップダウンで、というか製品発表日に突然決めたそうです。
このカシオミニは発売当初から大きな話題を集め、発売からわずか十ヶ月でで百万台を販売するなどカシオにとってかつてないほどのヒット商品となり、やはり「電卓のカシオ」と当時は言われたことでしょう。しかもこの時の日本ではボウリングがブームで、ボウリングの点数計算に当たってその使い勝手の良さが評価されたことが追い風となり、電卓を販売した競合メーカーを市場から一気に叩き落とすほどの成功を得ています。
その後もカシオは電卓にとどまらず、電子楽器の「カシオトーン」、高耐久性電子腕時計の「G-SHOCK」など独自性の光る商品を次々と発表し、現代においても一芸のある電子機器メーカーとしての地位を保ちながら「電卓のカシオ」という看板を守っています。何気に私もカシオの電卓使ってるし、例の1・3・7・9・AC同時押しの裏技も知ってるしなぁ。
このカシオという企業について私見を述べると、本当に創業当初から四兄弟が一緒になって盛り立てきて現在も社長と副社長が三男と四男という辺り、いい意味で「創業者が一人の会社じゃない」という印象を覚えます。しかも長男と次男は既に逝去していますが、生前もケンカがあったなどというエピソードは聞かず仲が良かったようで、比べては悪いですがどっかの化学品メーカーの兄弟がいやでも頭に思い浮かんできてしまいます。
既に述べていますが、カシオというのは一癖、一工夫ある商品がやはり多いように思え、四兄弟のオーナーシップがその独自性を高めているようにも覚えます。その点ではこの会社も一種の家族経営企業とみても間違いではなく、その数少ない成功例として考えてもいいと私の友人は話していました。
ただなんでもかんでも成功してきたというわけではなく、1995年には「ルーピー」という女の子向けを意識したゲームハードを発売したものの市場から認知されることもなく淘汰されています。それにしても、現代でこの名称聞くとこっちもまたある元首相が浮かんできてしまうな。
おまけ
先週末に自分の所属するサイクリング部のメンバーと共にボウリングをやってきましたが、みんな揃いも揃って下手で誰もスコアが100に届くことがありませんでした。しかしレベルが低い分、みんなして実力が拮抗したため結構熱くなって楽しかったです。なお昼食はサイゼリヤ。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
2015年4月16日木曜日
中身を見ようとしない日本社会
先日、例の上海人の友人から、「日系企業にいるなら間違っていると思っても上司の言うことを黙って聞かないと駄目だよ」と諭されました。実際、相手が誰であろうと文句があればすぐ言う性格なので間違っているわけではないのですが、まさか中国人に日本の雇用慣行を諭されるとは夢にも思わなかった……。
そんな日本の雇用慣行について今日は書くつもりなのですが、ちょうど去年の今頃というか4月頃は例の小保方騒動が一番ヒートアップしていた頃だと思います。この騒動においては理研の研究審査体制や体質、女性研究者であることを理由に過剰なまで持ち上げたメディア、コピペ問題などいろいろな問題点が挙げられてましたが、私が内心一番大きな問題だったと思うのはどうして小保方氏が理研に研究員として採用されたのか、その選考方法にあるのではないかと考えています。
報道によると小保方氏はハーバード大留学という経歴を引っ提げて理研に入ったとのことですが、この際に通常の選考で課される英語でのプレゼンは免除されていたそうで、万能細胞という魅力的な研究テーマでもってほぼ一本釣りみたいな形で採用されたと聞きます。しかしその実態はすでに報道されている通り、博士号論文をコピペして出すわ、研究ノートもまともにつけられないは、自然発光かどうかも疑わなかったなど研究者としては全く実力がなく、はっきり言えば中身が全くない人物だったと言っても過言ではありません。ただそんな小保方氏ですが去年の釈明会見を見て私は、「ああ、この人ならどんな採用面接でも受かるだろうな」という印象を覚えました。
何故そのように思ったのかというと、とにもかくにも見せ方というかプレゼンが非常に上手かったからです。大学もAO入試で入ったというだけあって恐らく昔からその手のセンスが鋭かったのだと伺えますが、今の日本だとこのように、中身が全くなくても面接時などの見せ方、しゃべり方が上手かったらそれだけで評価されて通してしまうことが多いように思えます。換言するならば外見と比べて中身はほとんど評価されない傾向にあり、真面目系な大学生ほど就活では苦戦するという話をよく聴くし、私のある後輩なんかまさにそうでした。
何故がさっきから続きますが何故日本社会は中身を評価しようとしないのか。多分一番多いであろう言い訳としては「コミュニケーション能力が求められているからだ」という回答でしょう。確かに私もそれを否定しませんがでは何故(またか)コミュニケーション能力が求められるのか、その理由について考えている人は今の今まで私は出会ったことがありません。
私的な意見を述べると、比較的年齢の高い現役世代があまりにもコミュニケーション能力が低くて意思疎通がほとんど図れないためか、若手の世代が同じように低いか、中身のない人間が多すぎてコミュニケーションする内容がないのか、この三択じゃないかと思います。私が考える原因はこの三つともで、特に理解してもらうよう説明することに努力を払わない人間が多すぎることが大きいと考えています。
中身のない人間が何故評価されるかについて話を戻しますが、基本、中身がある人間と比べてない人間の方が口は軽いに決まっています。物がわかっている人間なら軽々に、「ハイできます」なんて言えるわけないですし、慎重にならざるを得ませんが、小保方氏の様に初めからあるかどうかすらも認識できないなら、「STAP細胞はあります」と堂々と言えちゃうわけで、選考過程ではそりゃ後者の方がいい方に見えることでしょう。
その上で中身をきちんと審査しようとなると、審査する人間の中身も求められますし、また中身を審査すること自体も外見だけを見るのに比べて多大な労力が必要です。この後は言わないけど、こういう点も今の日本で中身が評価されない時代ゆえなのかもしれません。
私は二年くらい前からたびたび、「黙って手を動かす奴が一番強くて偉いんだ」というセリフを言う機会が増えています。何故こんなことを言うとどれだけ実力があっても、力量があっても、外見ばかりが評価される現代ではそのような人間はまずほとんど評価されていないきらいがあるのではと思うからです。もちろん周りを楽しませられる才能があるに越したことはありませんが、人間はやっぱり中身で、そういう点をおろそかにしているから昭和期と比べて今の日本はパッとしないんじゃないかと常々感じるわけです。
そんな日本の雇用慣行について今日は書くつもりなのですが、ちょうど去年の今頃というか4月頃は例の小保方騒動が一番ヒートアップしていた頃だと思います。この騒動においては理研の研究審査体制や体質、女性研究者であることを理由に過剰なまで持ち上げたメディア、コピペ問題などいろいろな問題点が挙げられてましたが、私が内心一番大きな問題だったと思うのはどうして小保方氏が理研に研究員として採用されたのか、その選考方法にあるのではないかと考えています。
報道によると小保方氏はハーバード大留学という経歴を引っ提げて理研に入ったとのことですが、この際に通常の選考で課される英語でのプレゼンは免除されていたそうで、万能細胞という魅力的な研究テーマでもってほぼ一本釣りみたいな形で採用されたと聞きます。しかしその実態はすでに報道されている通り、博士号論文をコピペして出すわ、研究ノートもまともにつけられないは、自然発光かどうかも疑わなかったなど研究者としては全く実力がなく、はっきり言えば中身が全くない人物だったと言っても過言ではありません。ただそんな小保方氏ですが去年の釈明会見を見て私は、「ああ、この人ならどんな採用面接でも受かるだろうな」という印象を覚えました。
何故そのように思ったのかというと、とにもかくにも見せ方というかプレゼンが非常に上手かったからです。大学もAO入試で入ったというだけあって恐らく昔からその手のセンスが鋭かったのだと伺えますが、今の日本だとこのように、中身が全くなくても面接時などの見せ方、しゃべり方が上手かったらそれだけで評価されて通してしまうことが多いように思えます。換言するならば外見と比べて中身はほとんど評価されない傾向にあり、真面目系な大学生ほど就活では苦戦するという話をよく聴くし、私のある後輩なんかまさにそうでした。
何故がさっきから続きますが何故日本社会は中身を評価しようとしないのか。多分一番多いであろう言い訳としては「コミュニケーション能力が求められているからだ」という回答でしょう。確かに私もそれを否定しませんがでは何故(またか)コミュニケーション能力が求められるのか、その理由について考えている人は今の今まで私は出会ったことがありません。
私的な意見を述べると、比較的年齢の高い現役世代があまりにもコミュニケーション能力が低くて意思疎通がほとんど図れないためか、若手の世代が同じように低いか、中身のない人間が多すぎてコミュニケーションする内容がないのか、この三択じゃないかと思います。私が考える原因はこの三つともで、特に理解してもらうよう説明することに努力を払わない人間が多すぎることが大きいと考えています。
中身のない人間が何故評価されるかについて話を戻しますが、基本、中身がある人間と比べてない人間の方が口は軽いに決まっています。物がわかっている人間なら軽々に、「ハイできます」なんて言えるわけないですし、慎重にならざるを得ませんが、小保方氏の様に初めからあるかどうかすらも認識できないなら、「STAP細胞はあります」と堂々と言えちゃうわけで、選考過程ではそりゃ後者の方がいい方に見えることでしょう。
その上で中身をきちんと審査しようとなると、審査する人間の中身も求められますし、また中身を審査すること自体も外見だけを見るのに比べて多大な労力が必要です。この後は言わないけど、こういう点も今の日本で中身が評価されない時代ゆえなのかもしれません。
私は二年くらい前からたびたび、「黙って手を動かす奴が一番強くて偉いんだ」というセリフを言う機会が増えています。何故こんなことを言うとどれだけ実力があっても、力量があっても、外見ばかりが評価される現代ではそのような人間はまずほとんど評価されていないきらいがあるのではと思うからです。もちろん周りを楽しませられる才能があるに越したことはありませんが、人間はやっぱり中身で、そういう点をおろそかにしているから昭和期と比べて今の日本はパッとしないんじゃないかと常々感じるわけです。
2015年4月14日火曜日
日本文学の現状
昨夜遅くまで「ファイナルファンタジー零式」で遊んでいたためジバニャン並に「だるんですけどー」と言いたくなるような状態なので、二分で考えたネタで今日は間に合わせようと思います。
さて日本文学と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。私が真っ先に思い浮かべるのは個人的に一番好きな森鴎外の名前が来てその次に彼の傑作の一つである「高瀬舟」が続くのですが、ふと振り返ると近年に「高瀬舟」とまではいかないまでも時代を代表するような、誰もが読んでいるような文学作品が日本に生まれたのかという疑問がもたげてきます。はっきり言いますがそんな時代を代表するかのような作品は近年、下手すりゃここ20年くらい何も生まれて来ず、未来の日本の教科書には平成期の文学作品など皆無だとして取り扱われるかもしれません。
一体何故、近年の日本で誰もが知るような文学作品が生まれてこないのか。理由はいくつかあって比較的大きいと思われるものをここでいくつか挙げます。
1、新人作家が生まれてこない
これは単純に小説の新人賞が激減しており、純文学作品向けともなるとこちらも皆無に近いと言っていいでしょう。昔は「海燕」という雑誌の「海燕新人賞」が登竜門として有名でしたが、これしか純文学分野の新人賞がなかったものだから雑誌の廃刊直前には「読者よりも新人賞の応募者の方が多い」とまで言われていて、実際に私が昔読んだ小説家志望者向けの本には「おすすめの応募先」にきちんと入ってました。
2、誰も買わないし売れない
一言で文学作品と言ってどのジャンルがこれに属するのかはいくつか意見があるでしょうが、一般的に文学作品と呼ばれる作品ははっきり言って現代では誰も買おうとしないし全く売れません。出版社などの方がこの辺の事情をよく分かっており、かつて新人賞を取ったり一世を風靡した作家の本を「文化事業のため」などと称して大手出版社は頑張って出版し続けたりしていますが出せば出すほど赤字を垂れ流す状態で、本音では手を引きたいなどという業界の話をよく聞きます。
なお友人によると、現代の日本の出版業界は漫画でしかほとんど利益が生まれず、漫画作品しか出版していない秋田書店の経営状態はほかの大手と比べても地味に健全だそうです。さもありなん。
3、芥川賞の陳腐化
かつては新人作家最大の登竜門として君臨した芥川賞ですが、一応毎回受賞者がニュースにはなるものの果たして受賞した作品や受賞作家がその後描いた作品がどれだけ世の中に影響を与えたかとなると非常に微妙な所です。さらに近年は選者が作品の質以前にその作家が世間受けするか否かを基準に選んでいると思える節もあり、こういってはなんですが目立ちそうな風貌や経歴のある作家ばかりが選ばれている気がします。でもって作品はどれを読んでも「だから何?」って思える代物ばかりだし。
4、文壇が文学作品として認めない
何気に一番大きな要因じゃないかと思っているはこれです。文壇についての説明は省きますがこの連中が売れている小説に対してよく、「大衆娯楽的要素が強い」などと批判しては文学ではないとあからさまに否定することが明らかに多いように思えます。一例をあげると私が愛読していた「氷点」や「塩狩峠」に代表される三浦綾子の小説などはまさに格好のターゲットで、現代においても文学作品としてみなす人間は少ないだろうし今後もフェードアウトしていくのではないかという懸念があります。
私個人の意見を述べると、文学とはどこまでが理性でどこまでが狂気か、どこまでがモラルとして許されどこまでがモラルとして許されないのか、いわば価値概念の限界や境界を架空の物語でもって探るということが最大の学術的義務ではないかと思います。最初に挙げた「高瀬舟」などは自殺幇助という現代でも確固とした意見の出ていない問題を俎上に載せており、文体の美しさや登場人物の心象表現の素晴らしさはもとより「人に考えさせる」テーマが何よりも重くていいと思えるだけに私が好きな作品の一つです。
それ故に、私は一時期に論争を起こした「バトル・ロワイアル」なんかはかえって文学的な作品だったと実は評価しています。銃を渡され殺せと言われたから殺すのか、殺されるから殺してもいいのか、ただ黙って殺されるのが正しいのか、以上の問いが中学生に向けられたら……など、この小説はいろんな点でタブーに近い問いかけを数多くなしており世間で「文学的だ」などと言われている作品よりずっと文学的だったと私は見ています。もっともこんな風に言うのは私くらいなもんで、「やや下品な娯楽小説」という評価のが大半な気がしますが。
最後に少し真面目な話をすると、文字単体ではもはや物語は成立しない時代なのかもしれません。ライトノベルも挿絵があってナンボな所もあり、何らかのイメージがなければ今や物語として触れられることはほとんどなく、文字だけで成立した時代はとうに過ぎているのではないかと少し思います。
そういう意味で話作りが好きな人、そういうことを仕事にしたい人は小説というジャンルよりもシナリオライターという職を目指した方が無難だと以前から思っています。映画でもドラマでもゲームでもいいので、少なくとも小説だけで書いててやって蹴るとは思えないので他のメディアをうまく取り込みつつ自分のセンスを発揮するよりほかがないでしょう。ちなみにゲームのシナリオで言うと、下記の三作品が私の中で素晴らしいシナリオだったと感動した作品です。
1、ヘラクレスの栄光3:終盤のあのどんでん返しは本気で息を飲んだ。
2、リンダキューブアゲイン:狂気をテーマにした作品は数多くあれど、一つの妄執が生む狂気であればこの作品が白眉。
3:幻想水滸伝2:戦争、平和、友情の複数のテーマが見事にかみ合っている。
おまけ
中学生時代に学校で三浦綾子の「銃口」を読んでいたら国語の先生に、「花園君、何を読んでいるのですか?」と聞かれ三浦綾子の「銃口」だと答えたところ、「やはり、あなたはつくづくいいセンスをお持ちですね」とニュータイプっぽいことを言われたのが私の一つの自慢です。
さて、また「ファイナルファンタジー零式」やろっと。
さて日本文学と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。私が真っ先に思い浮かべるのは個人的に一番好きな森鴎外の名前が来てその次に彼の傑作の一つである「高瀬舟」が続くのですが、ふと振り返ると近年に「高瀬舟」とまではいかないまでも時代を代表するような、誰もが読んでいるような文学作品が日本に生まれたのかという疑問がもたげてきます。はっきり言いますがそんな時代を代表するかのような作品は近年、下手すりゃここ20年くらい何も生まれて来ず、未来の日本の教科書には平成期の文学作品など皆無だとして取り扱われるかもしれません。
一体何故、近年の日本で誰もが知るような文学作品が生まれてこないのか。理由はいくつかあって比較的大きいと思われるものをここでいくつか挙げます。
1、新人作家が生まれてこない
これは単純に小説の新人賞が激減しており、純文学作品向けともなるとこちらも皆無に近いと言っていいでしょう。昔は「海燕」という雑誌の「海燕新人賞」が登竜門として有名でしたが、これしか純文学分野の新人賞がなかったものだから雑誌の廃刊直前には「読者よりも新人賞の応募者の方が多い」とまで言われていて、実際に私が昔読んだ小説家志望者向けの本には「おすすめの応募先」にきちんと入ってました。
2、誰も買わないし売れない
一言で文学作品と言ってどのジャンルがこれに属するのかはいくつか意見があるでしょうが、一般的に文学作品と呼ばれる作品ははっきり言って現代では誰も買おうとしないし全く売れません。出版社などの方がこの辺の事情をよく分かっており、かつて新人賞を取ったり一世を風靡した作家の本を「文化事業のため」などと称して大手出版社は頑張って出版し続けたりしていますが出せば出すほど赤字を垂れ流す状態で、本音では手を引きたいなどという業界の話をよく聞きます。
なお友人によると、現代の日本の出版業界は漫画でしかほとんど利益が生まれず、漫画作品しか出版していない秋田書店の経営状態はほかの大手と比べても地味に健全だそうです。さもありなん。
3、芥川賞の陳腐化
かつては新人作家最大の登竜門として君臨した芥川賞ですが、一応毎回受賞者がニュースにはなるものの果たして受賞した作品や受賞作家がその後描いた作品がどれだけ世の中に影響を与えたかとなると非常に微妙な所です。さらに近年は選者が作品の質以前にその作家が世間受けするか否かを基準に選んでいると思える節もあり、こういってはなんですが目立ちそうな風貌や経歴のある作家ばかりが選ばれている気がします。でもって作品はどれを読んでも「だから何?」って思える代物ばかりだし。
4、文壇が文学作品として認めない
何気に一番大きな要因じゃないかと思っているはこれです。文壇についての説明は省きますがこの連中が売れている小説に対してよく、「大衆娯楽的要素が強い」などと批判しては文学ではないとあからさまに否定することが明らかに多いように思えます。一例をあげると私が愛読していた「氷点」や「塩狩峠」に代表される三浦綾子の小説などはまさに格好のターゲットで、現代においても文学作品としてみなす人間は少ないだろうし今後もフェードアウトしていくのではないかという懸念があります。
私個人の意見を述べると、文学とはどこまでが理性でどこまでが狂気か、どこまでがモラルとして許されどこまでがモラルとして許されないのか、いわば価値概念の限界や境界を架空の物語でもって探るということが最大の学術的義務ではないかと思います。最初に挙げた「高瀬舟」などは自殺幇助という現代でも確固とした意見の出ていない問題を俎上に載せており、文体の美しさや登場人物の心象表現の素晴らしさはもとより「人に考えさせる」テーマが何よりも重くていいと思えるだけに私が好きな作品の一つです。
それ故に、私は一時期に論争を起こした「バトル・ロワイアル」なんかはかえって文学的な作品だったと実は評価しています。銃を渡され殺せと言われたから殺すのか、殺されるから殺してもいいのか、ただ黙って殺されるのが正しいのか、以上の問いが中学生に向けられたら……など、この小説はいろんな点でタブーに近い問いかけを数多くなしており世間で「文学的だ」などと言われている作品よりずっと文学的だったと私は見ています。もっともこんな風に言うのは私くらいなもんで、「やや下品な娯楽小説」という評価のが大半な気がしますが。
最後に少し真面目な話をすると、文字単体ではもはや物語は成立しない時代なのかもしれません。ライトノベルも挿絵があってナンボな所もあり、何らかのイメージがなければ今や物語として触れられることはほとんどなく、文字だけで成立した時代はとうに過ぎているのではないかと少し思います。
そういう意味で話作りが好きな人、そういうことを仕事にしたい人は小説というジャンルよりもシナリオライターという職を目指した方が無難だと以前から思っています。映画でもドラマでもゲームでもいいので、少なくとも小説だけで書いててやって蹴るとは思えないので他のメディアをうまく取り込みつつ自分のセンスを発揮するよりほかがないでしょう。ちなみにゲームのシナリオで言うと、下記の三作品が私の中で素晴らしいシナリオだったと感動した作品です。
1、ヘラクレスの栄光3:終盤のあのどんでん返しは本気で息を飲んだ。
2、リンダキューブアゲイン:狂気をテーマにした作品は数多くあれど、一つの妄執が生む狂気であればこの作品が白眉。
3:幻想水滸伝2:戦争、平和、友情の複数のテーマが見事にかみ合っている。
おまけ
中学生時代に学校で三浦綾子の「銃口」を読んでいたら国語の先生に、「花園君、何を読んでいるのですか?」と聞かれ三浦綾子の「銃口」だと答えたところ、「やはり、あなたはつくづくいいセンスをお持ちですね」とニュータイプっぽいことを言われたのが私の一つの自慢です。
さて、また「ファイナルファンタジー零式」やろっと。
2015年4月13日月曜日
劉備の「髀肉の嘆」は演技かガチか?
先週書いた「髀肉の嘆」という私の愚痴記事についてよくコメント暮れる若生わこさんに、「あの記事は若生さん向けのダイレクトパスだったのにコメントくれなかったね」と振ってみたところ、「いえ、コメントしようとしたんですけど劉備が劉表の前で髀肉の嘆をしたのは計算ずくの演技だったのか、それともガチだったのかという疑問を書こうとしたらえらく長くなりそうだったのでやめました」という素敵な返事をくれたので、彼の問いにこたえる形でここで私の考えを書いておくことにします。
まず「髀肉の嘆」とは何かですが前にも書いた説明をそのまま引用すると、
「荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠へ立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、『かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう』と思って泣きながら宴会に帰ってきてそのまま劉表の前で自身の現在の境遇を嘆いてみせた」
というエピソードに端を発し、不安定であったり実力がいまいち発揮できず鬱屈した現状にあることを例える言葉となっています。私にとっては2010年前後がまさにこの状況で、今のままじゃよくないと思いつつも変えようとする努力を怠っていて気分的にも嫌な時代だったことをこの言葉を使って前の記事では説明しています。
さてこの髀肉の嘆ですが、この時の劉備の行動は若生さんの言う通りに確かに疑問符がつく行動です。劉備は自分を亡命者として受け入れてくれた劉表に対し宴会の最中、「昔は戦場を駆け回っていたのに今はこんな惨めな生活だなんて……」と愚痴っているわけですが、これを聞いて恐らく劉表じゃなくても、「戦場で活躍できてないとかいうなんてこいつ、俺の寝首でも掻こうってのか?」と誰もが想像することでしょう。
劉備からしたら当時面倒見てくれる劉表に警戒されるなんて百害あって一利もありません。場合によっては揉め事起こしそうだから追放、下手すりゃ暗殺にもつながるかもしれず、内心では現状に不満を覚えてもそれを口にする、それも面倒役に対して言うなんてのは迂闊としか言いようの行為です。
仮に劉備がこれ以前からも迂闊な行動を取る人間であれば、ただ単に発言が迂闊な人間の妄言の一種として片づけられるのですが、これが劉備となると案外そうもいきません。三国志に詳しい人間ならわかるでしょうが劉備はどの場面でも非常に計算高い人間で、事ある毎に「仁徳」をPRもすれば、自分に警戒心を抱きつつあった曹操の前で雷の音に驚いてみせたり(これは創作ではあるものの、史実でも野心のない振りを曹操に見せている)、袁紹の命令を聞くふりしながらそっと戦線を離脱したりと非常に隙がなく、抜け目のない人物です。
そんな慎重な性格の劉備がわざわざ、それこそ無用なくらいに劉表を警戒させるような「髀肉の嘆」をどうして述べたのか。むしろ劉表に自分をいくらか警戒させるつもりで言った、または一回転して警戒心を解くことを計算して言い放ったのではないかなどと、ついつい深読みしがちになってしまいます。
しかしこうした事情を踏まえた上で私の意見を述べると、やっぱりこの時の「髀肉の嘆」はガチだったのでは、つまり本気で自身の現況を嘆いてついうっかり本音を洩らしちゃったというのが真実ではないかと思います。根拠としては劉備自身が逆境にあってもあまり弱音を洩らさない人間であることと、そこそこ年齢もいってきて天下を狙うのにもうチャンスがほとんどないと自覚し始める状況だったと思えるからです。もっともそんな強固な根拠ではなく、どちらかというと当時の劉備の気持ちになるならこうも言いたくなる、というのがこの説を取る一番大きな理由ですが。
ただ計算ずくの発言という説もまだ捨てきれず、というのもこの後劉備は劉表に請われて荊州の北にある新野という街に手勢を率いて駐屯、支配することとなるからです。この地で劉備は三国志最大のバランスブレイカーとも言うべき軍師の諸葛亮を得て、また何度かやってきた曹操軍を撃退するなど独自の軍事活動を始め、後の躍進の礎を築いています。
つまり劉備は敢えて劉表を警戒させることで、「近くに置いておくよりもどこか離れた土地を任せるなどして遠ざけた方がいい」と思わせたかったのかもしれません。劉備としては小さくともいいからどこかに根拠地を作り、人材発掘から軍勢の編成などをマイプランでやりたかったのかもしれません。正直、こっちの説の方がその後の状況とも符合するから根拠あるような気もするけど。
ただどちらにしろ、流浪の傭兵軍団と言ってもいい劉備がこの数年後に荊州全土を支配し、その上蜀も併呑するに至るなど当時は誰も想像すらしなかったでしょう。2013年に会社起こして潰して再就職活動始めるもなかなか決まらず浪人中で非常にボロボロだった時代の私に対し、ある人がまさにこの時の劉備の例を持ち出してまた再起を期す日があるはずだ励ましてくれたことがありましたが、そろそろ自分も荊州とまでは言わないけどマッドシティくらいは支配したいなぁ。
まず「髀肉の嘆」とは何かですが前にも書いた説明をそのまま引用すると、
「荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠へ立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、『かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう』と思って泣きながら宴会に帰ってきてそのまま劉表の前で自身の現在の境遇を嘆いてみせた」
というエピソードに端を発し、不安定であったり実力がいまいち発揮できず鬱屈した現状にあることを例える言葉となっています。私にとっては2010年前後がまさにこの状況で、今のままじゃよくないと思いつつも変えようとする努力を怠っていて気分的にも嫌な時代だったことをこの言葉を使って前の記事では説明しています。
さてこの髀肉の嘆ですが、この時の劉備の行動は若生さんの言う通りに確かに疑問符がつく行動です。劉備は自分を亡命者として受け入れてくれた劉表に対し宴会の最中、「昔は戦場を駆け回っていたのに今はこんな惨めな生活だなんて……」と愚痴っているわけですが、これを聞いて恐らく劉表じゃなくても、「戦場で活躍できてないとかいうなんてこいつ、俺の寝首でも掻こうってのか?」と誰もが想像することでしょう。
劉備からしたら当時面倒見てくれる劉表に警戒されるなんて百害あって一利もありません。場合によっては揉め事起こしそうだから追放、下手すりゃ暗殺にもつながるかもしれず、内心では現状に不満を覚えてもそれを口にする、それも面倒役に対して言うなんてのは迂闊としか言いようの行為です。
仮に劉備がこれ以前からも迂闊な行動を取る人間であれば、ただ単に発言が迂闊な人間の妄言の一種として片づけられるのですが、これが劉備となると案外そうもいきません。三国志に詳しい人間ならわかるでしょうが劉備はどの場面でも非常に計算高い人間で、事ある毎に「仁徳」をPRもすれば、自分に警戒心を抱きつつあった曹操の前で雷の音に驚いてみせたり(これは創作ではあるものの、史実でも野心のない振りを曹操に見せている)、袁紹の命令を聞くふりしながらそっと戦線を離脱したりと非常に隙がなく、抜け目のない人物です。
そんな慎重な性格の劉備がわざわざ、それこそ無用なくらいに劉表を警戒させるような「髀肉の嘆」をどうして述べたのか。むしろ劉表に自分をいくらか警戒させるつもりで言った、または一回転して警戒心を解くことを計算して言い放ったのではないかなどと、ついつい深読みしがちになってしまいます。
しかしこうした事情を踏まえた上で私の意見を述べると、やっぱりこの時の「髀肉の嘆」はガチだったのでは、つまり本気で自身の現況を嘆いてついうっかり本音を洩らしちゃったというのが真実ではないかと思います。根拠としては劉備自身が逆境にあってもあまり弱音を洩らさない人間であることと、そこそこ年齢もいってきて天下を狙うのにもうチャンスがほとんどないと自覚し始める状況だったと思えるからです。もっともそんな強固な根拠ではなく、どちらかというと当時の劉備の気持ちになるならこうも言いたくなる、というのがこの説を取る一番大きな理由ですが。
ただ計算ずくの発言という説もまだ捨てきれず、というのもこの後劉備は劉表に請われて荊州の北にある新野という街に手勢を率いて駐屯、支配することとなるからです。この地で劉備は三国志最大のバランスブレイカーとも言うべき軍師の諸葛亮を得て、また何度かやってきた曹操軍を撃退するなど独自の軍事活動を始め、後の躍進の礎を築いています。
つまり劉備は敢えて劉表を警戒させることで、「近くに置いておくよりもどこか離れた土地を任せるなどして遠ざけた方がいい」と思わせたかったのかもしれません。劉備としては小さくともいいからどこかに根拠地を作り、人材発掘から軍勢の編成などをマイプランでやりたかったのかもしれません。正直、こっちの説の方がその後の状況とも符合するから根拠あるような気もするけど。
ただどちらにしろ、流浪の傭兵軍団と言ってもいい劉備がこの数年後に荊州全土を支配し、その上蜀も併呑するに至るなど当時は誰も想像すらしなかったでしょう。2013年に会社起こして潰して再就職活動始めるもなかなか決まらず浪人中で非常にボロボロだった時代の私に対し、ある人がまさにこの時の劉備の例を持ち出してまた再起を期す日があるはずだ励ましてくれたことがありましたが、そろそろ自分も荊州とまでは言わないけどマッドシティくらいは支配したいなぁ。
2015年4月12日日曜日
沖縄問題に対する世論の変化
前置きなく一気に始めますがここ数ヶ月、米軍基地問題で揺れる沖縄に対する世間の見方が大きく変化し始めてきたように思えます。具体的には翁長沖縄県知事に対する批判がネット上で散見されるようになり、以前と比べ沖縄県に対し同情する意見や見方が減ってきているような感じです。
一体何故このような変化が起こってきたのかというと原因は間違いなく米軍の普天間基地を辺野古へ移設する計画案で、この計画に反対する住民や団体は移設先の辺野古沿岸国はサンゴ礁があり、移設によって大規模な環境破壊が起こることなどを反対理由として挙げています。しかしこれらの団体は、こうした辺野古での新滑走路建設に反対する一方でそれ以外のサンゴ礁がある沿岸部の埋め立てには何一つ反対活動は行っておらず、特に那覇空港の滑走路増設計画は槍玉として挙げられており沖縄のダブルスタンダードだという声をよく目にします。
結論から言えば私もこれはダブルスタンダードだとしか言いようがなく、また米軍基地反対派は完全な駄目手を打ってしまったと考えています。
こうした事実は何も最近知ったわけでなく、昔から米軍基地移設問題は伊丹空港周辺の様にわざと騒ぐことによって強請りのような行為で稼いでいる連中が陰で暗躍していることを私は知っていました。連中からしたら恐らくサンゴ礁の保護なんて初めから本気で考えているわけでもなく、下手したら普天間基地周辺の住民の安全なども二の次くらいにしか考えていないのかもしれません。そんな連中が何故サンゴ礁の保護を持ち出したのかというと移設問題をややこしくさせたい一心であって、流行りの環境問題と合わせて適当な口実を作ったというのが真相だと思えます。
しかしその結果というべきか、「辺野古以外の埋め立てによるサンゴ礁破壊についてはどうなのか?」という疑問が現在の様に出てくることとなりました。私の友人などは、「初めからサンゴ礁なんて持ち出さず、住民感情だけ叫んでいればよかったものの」と話していますが全く以って同感で、化けの皮が剥がれたというか「理由のない反対姿勢」というものが今回大きく透けて見えることになったと思えます。
恐らく政府も、こうした微妙な世論の動きというものを見ていることでしょう。何故そう思うのかというと、辺野古への移転計画に知事が反対するというのであれば国から県への補助金削減も視野に入れるとアナウンスするなど、以前以上に強い態度を出すようになってきたからです。こうした政府の姿勢に対して知事や一部のメディアは「脅迫的な行為だ」と批判しているものの、「基地施設移転の負担に対する補助金なのだから、移設に賛成しないのであれば支払わないのも当然ではないか」という声も散見され、私個人の印象だとやはり後者の意見の方が強まっているようにも見えます。
自治体問題に取り組んでいる人間ならば誰もが知っていることですが、全国の都道府県のうち東京都を除き、沖縄県は全国で唯一無借金の自治体であります。何故無借金で維持できてるのかというと国から毎年膨大な金額の補助金が供与されており、産業らしい産業は観光以外なく、失業率が全国で最も高いにもかかわらず沖縄は無借金でいられるわけです。
何も沖縄すべてを批判するつもりはさらさらありませんが、こうしたダブルスタンダード振りは徐々に広がりつつあることを沖縄はもっと自覚するべきで、本当にどっちの方向へ持っていこうとするのか沖縄人自身がもうちょっと考えてコンセンサスを作るべきだと個人的に思います。米軍基地を残してこのまま補助金を受け取り続けるのか、米軍基地を追い出す代わりに補助金を捨て自立するのか、せめてどっちか一つを選ぶべきです。現状では「米軍基地は県外に、その上で補助金も出せ」と言ってるようにしか見えません。もっとも仮に補助金が打ち切られれば沖縄はやってけなくなるのは目に見えており、何かしら産業振興也にもっと真剣に取り組むべきだとは以前から思っていましたが。
仮にこういう記事を五年くらい前に書いていれば私に対しても相当な批判が来ていたのではないかと思います。何故なら沖縄は「被害者」の立場であって「加害者」の立場ではないという一種のタブーめいた見えざるコンセンサスが存在していたからです。しかしそのコンセンサスは徐々に崩れつつあり、最初はこういうネットでの意見からでしょうが徐々に大手メディアの方でも今後態度を変えてくることは予想され、基地問題で交渉できる時間は大分少なくなってきているのではというのが私の意見です。
一体何故このような変化が起こってきたのかというと原因は間違いなく米軍の普天間基地を辺野古へ移設する計画案で、この計画に反対する住民や団体は移設先の辺野古沿岸国はサンゴ礁があり、移設によって大規模な環境破壊が起こることなどを反対理由として挙げています。しかしこれらの団体は、こうした辺野古での新滑走路建設に反対する一方でそれ以外のサンゴ礁がある沿岸部の埋め立てには何一つ反対活動は行っておらず、特に那覇空港の滑走路増設計画は槍玉として挙げられており沖縄のダブルスタンダードだという声をよく目にします。
結論から言えば私もこれはダブルスタンダードだとしか言いようがなく、また米軍基地反対派は完全な駄目手を打ってしまったと考えています。
こうした事実は何も最近知ったわけでなく、昔から米軍基地移設問題は伊丹空港周辺の様にわざと騒ぐことによって強請りのような行為で稼いでいる連中が陰で暗躍していることを私は知っていました。連中からしたら恐らくサンゴ礁の保護なんて初めから本気で考えているわけでもなく、下手したら普天間基地周辺の住民の安全なども二の次くらいにしか考えていないのかもしれません。そんな連中が何故サンゴ礁の保護を持ち出したのかというと移設問題をややこしくさせたい一心であって、流行りの環境問題と合わせて適当な口実を作ったというのが真相だと思えます。
しかしその結果というべきか、「辺野古以外の埋め立てによるサンゴ礁破壊についてはどうなのか?」という疑問が現在の様に出てくることとなりました。私の友人などは、「初めからサンゴ礁なんて持ち出さず、住民感情だけ叫んでいればよかったものの」と話していますが全く以って同感で、化けの皮が剥がれたというか「理由のない反対姿勢」というものが今回大きく透けて見えることになったと思えます。
恐らく政府も、こうした微妙な世論の動きというものを見ていることでしょう。何故そう思うのかというと、辺野古への移転計画に知事が反対するというのであれば国から県への補助金削減も視野に入れるとアナウンスするなど、以前以上に強い態度を出すようになってきたからです。こうした政府の姿勢に対して知事や一部のメディアは「脅迫的な行為だ」と批判しているものの、「基地施設移転の負担に対する補助金なのだから、移設に賛成しないのであれば支払わないのも当然ではないか」という声も散見され、私個人の印象だとやはり後者の意見の方が強まっているようにも見えます。
自治体問題に取り組んでいる人間ならば誰もが知っていることですが、全国の都道府県のうち東京都を除き、沖縄県は全国で唯一無借金の自治体であります。何故無借金で維持できてるのかというと国から毎年膨大な金額の補助金が供与されており、産業らしい産業は観光以外なく、失業率が全国で最も高いにもかかわらず沖縄は無借金でいられるわけです。
何も沖縄すべてを批判するつもりはさらさらありませんが、こうしたダブルスタンダード振りは徐々に広がりつつあることを沖縄はもっと自覚するべきで、本当にどっちの方向へ持っていこうとするのか沖縄人自身がもうちょっと考えてコンセンサスを作るべきだと個人的に思います。米軍基地を残してこのまま補助金を受け取り続けるのか、米軍基地を追い出す代わりに補助金を捨て自立するのか、せめてどっちか一つを選ぶべきです。現状では「米軍基地は県外に、その上で補助金も出せ」と言ってるようにしか見えません。もっとも仮に補助金が打ち切られれば沖縄はやってけなくなるのは目に見えており、何かしら産業振興也にもっと真剣に取り組むべきだとは以前から思っていましたが。
仮にこういう記事を五年くらい前に書いていれば私に対しても相当な批判が来ていたのではないかと思います。何故なら沖縄は「被害者」の立場であって「加害者」の立場ではないという一種のタブーめいた見えざるコンセンサスが存在していたからです。しかしそのコンセンサスは徐々に崩れつつあり、最初はこういうネットでの意見からでしょうが徐々に大手メディアの方でも今後態度を変えてくることは予想され、基地問題で交渉できる時間は大分少なくなってきているのではというのが私の意見です。
千葉のマッドシティ~レッドロブスター新松戸店
この連載の前回記事では「ダイエー新松戸店」というまたローカルな場所を紹介しましたが、今日はそれ以上にローカルさを増す場所とでもいうべき、ダイエー新松戸店と道路を挟んで向かい側にある「レッドロブスター 新松戸店」を紹介します。まず間違いなく地元民じゃない限り全く需要のないネタですが、個人的に書かずにはおれません。
・Red Lobster(本サイト)
・レッドロブスター(Wikipedia)
知らない人もいるかもしれないので先にこのレストランの説明から始めます。
「レッドロブスター」とは米国発祥のレストランチェーンで、その店名通りにロブスターを主体としたシーフード系の料理を提供しており全米で約700店舗が展開されています。日本国内ではセリュックスホールディングス傘下のレッドロブスタージャパンが運営しており、ホームページで確認する限りだと現時点で全国に23店舗が展開されているようです。
レストランとしての特徴としては先ほど述べた通りにシーフード、特にロブスターやカニといった甲殻類系の食材を使った料理が中心で、こうした食材を使うためか料理はやや高めの単価設定となっており、レストランチェーンとしてはハイミドルクラスとも言うべきグレードのお店と言えます。
今日紹介するレッドロブスター新松戸店はダイエー新松戸店、というよりはその横に併設されてある流通経済大学新松戸キャンパスと道路を挟んで向かい側に位置しており、比較的人通りの多い道路沿いにあります。ちょうど目の前が十字路となっており、一階部分は柱を除いて駐車場で、店舗自体は二階に設置されています。
私がこの店舗を訪れていたのは子供の頃で当時に複数回訪れているのですが、その中でもはっきり覚えていることとしては姉貴の誕生祝いで家族で行った日の事です。うちの姉貴は子供の頃からやたら値段の高い甲殻類料理が好きだったので好きなものを食べさせようという両親の配慮だったと思いますが、当時から私(多分7歳か8歳)はシーフード系料理がそんなに好きではなかったのでこの時の料理にはそれほど手を付けてなかったと思います。その後、この姉貴の誕生祝い以降は何故だか訪れることがほぼなくなってしまったのですが、料理の値段が高いこともあるだけに、もしかしたら不況の煽りからうちの親父の給料が減らされてこの店に行き辛くなったのかなと勝手に推測しています。
あと通っていた当時についてもう一つ付け加えると、この時はそこそこ人気もあったのかよくテレビでCMも打たれていました。どんなテレビCMだったか映像はほとんど覚えてないものの、CMの最後に流れる、「レーッドロッブッスター♪」というサウンドだけはやけに耳に残っており、確か柴田亜美の漫画「南国少年パプワ君」の2巻で真っ赤に焼けたザリガニが歌ってました。
正直に言うと子供の頃は数回訪れていたものの小学校の中学年以降は一度も訪れていません。にもかかわらずなんで紹介しようとするのかというと、私が記憶する限りだとこのレッドロブスター新松戸店は少なくとも過去20年以上に渡って、外装に全く変化がないまま営業が続けられているからです。何が言いたいのかっていうと、周囲の風景はダイエー新松戸店を含めて時間と共に大きく変化しているのに対し、何故だかレッドロブスターのある一角だけは20年前の風景と何一つ変わっておらず、変化があまりにも無さすぎて改めて考えると不思議な店だと思えてきたからです。
どれだけ変化がないのかというと過去20年間に途中途中でペンキの塗り直しなどはされているのですが、色使いといいオブジェの配置といい外装には全く変化がなく、多分同じ角度から撮った10年前と現在の写真を見比べてもほとんど見分けがつかないのではないかという気がします。周辺にある店舗なんかはダイエー新松戸店を含めて改装されたり、店がつぶれた後に新しいお店が新規開店したりとそれなりに変化が見られるのですが、何故だかこの店だけはずっと同じ姿のままであの場所に鎮座し続けています。こんなお店、京都にも少ないぞ……。
こう言っては失礼かもしれませんが、レッドロブスターのようなやや高めのレストランはデフレ期において一番煽りを受けやすく、この時期に潰れやすいレストランなのではないかと個人的に思うのですがこのお店は潰れることなく、また大規模な改装をされる事もなくずっと営業を続けています。私はよく自転車でこの店の前を通過するのですが、小学生だった頃、中学生だった頃、高校生だった頃、大学生だった頃、社会人になった後もこの店のある一角の風景だけは何一つ変化がなくここまで来るとかえって不気味なくらいです。むしろ、一体何故変化が全くないのか理由を聞いてみたい。
こんなことを書いても新松戸周辺に住んでいる人以外はピンと来ないでしょうが、逆を言えばこの周辺の住民からすると、「言われてみるとそうだ、あの一角だけずっと昔のまんまだ!」と興奮気味に反応してくれることでしょう。少なくとも、リアル松戸市民の私の友人はまさに上記のような反応をしてくれました。
まとめとしましては、「新松戸にはびっくりするくらい変化のないレッドロブスターがある」ということをここで訴えたかったわけです。常連客でもいるのかなぁ、あの店。
・Red Lobster(本サイト)
・レッドロブスター(Wikipedia)
知らない人もいるかもしれないので先にこのレストランの説明から始めます。
「レッドロブスター」とは米国発祥のレストランチェーンで、その店名通りにロブスターを主体としたシーフード系の料理を提供しており全米で約700店舗が展開されています。日本国内ではセリュックスホールディングス傘下のレッドロブスタージャパンが運営しており、ホームページで確認する限りだと現時点で全国に23店舗が展開されているようです。
レストランとしての特徴としては先ほど述べた通りにシーフード、特にロブスターやカニといった甲殻類系の食材を使った料理が中心で、こうした食材を使うためか料理はやや高めの単価設定となっており、レストランチェーンとしてはハイミドルクラスとも言うべきグレードのお店と言えます。
今日紹介するレッドロブスター新松戸店はダイエー新松戸店、というよりはその横に併設されてある流通経済大学新松戸キャンパスと道路を挟んで向かい側に位置しており、比較的人通りの多い道路沿いにあります。ちょうど目の前が十字路となっており、一階部分は柱を除いて駐車場で、店舗自体は二階に設置されています。
私がこの店舗を訪れていたのは子供の頃で当時に複数回訪れているのですが、その中でもはっきり覚えていることとしては姉貴の誕生祝いで家族で行った日の事です。うちの姉貴は子供の頃からやたら値段の高い甲殻類料理が好きだったので好きなものを食べさせようという両親の配慮だったと思いますが、当時から私(多分7歳か8歳)はシーフード系料理がそんなに好きではなかったのでこの時の料理にはそれほど手を付けてなかったと思います。その後、この姉貴の誕生祝い以降は何故だか訪れることがほぼなくなってしまったのですが、料理の値段が高いこともあるだけに、もしかしたら不況の煽りからうちの親父の給料が減らされてこの店に行き辛くなったのかなと勝手に推測しています。
あと通っていた当時についてもう一つ付け加えると、この時はそこそこ人気もあったのかよくテレビでCMも打たれていました。どんなテレビCMだったか映像はほとんど覚えてないものの、CMの最後に流れる、「レーッドロッブッスター♪」というサウンドだけはやけに耳に残っており、確か柴田亜美の漫画「南国少年パプワ君」の2巻で真っ赤に焼けたザリガニが歌ってました。
正直に言うと子供の頃は数回訪れていたものの小学校の中学年以降は一度も訪れていません。にもかかわらずなんで紹介しようとするのかというと、私が記憶する限りだとこのレッドロブスター新松戸店は少なくとも過去20年以上に渡って、外装に全く変化がないまま営業が続けられているからです。何が言いたいのかっていうと、周囲の風景はダイエー新松戸店を含めて時間と共に大きく変化しているのに対し、何故だかレッドロブスターのある一角だけは20年前の風景と何一つ変わっておらず、変化があまりにも無さすぎて改めて考えると不思議な店だと思えてきたからです。
どれだけ変化がないのかというと過去20年間に途中途中でペンキの塗り直しなどはされているのですが、色使いといいオブジェの配置といい外装には全く変化がなく、多分同じ角度から撮った10年前と現在の写真を見比べてもほとんど見分けがつかないのではないかという気がします。周辺にある店舗なんかはダイエー新松戸店を含めて改装されたり、店がつぶれた後に新しいお店が新規開店したりとそれなりに変化が見られるのですが、何故だかこの店だけはずっと同じ姿のままであの場所に鎮座し続けています。こんなお店、京都にも少ないぞ……。
こう言っては失礼かもしれませんが、レッドロブスターのようなやや高めのレストランはデフレ期において一番煽りを受けやすく、この時期に潰れやすいレストランなのではないかと個人的に思うのですがこのお店は潰れることなく、また大規模な改装をされる事もなくずっと営業を続けています。私はよく自転車でこの店の前を通過するのですが、小学生だった頃、中学生だった頃、高校生だった頃、大学生だった頃、社会人になった後もこの店のある一角の風景だけは何一つ変化がなくここまで来るとかえって不気味なくらいです。むしろ、一体何故変化が全くないのか理由を聞いてみたい。
こんなことを書いても新松戸周辺に住んでいる人以外はピンと来ないでしょうが、逆を言えばこの周辺の住民からすると、「言われてみるとそうだ、あの一角だけずっと昔のまんまだ!」と興奮気味に反応してくれることでしょう。少なくとも、リアル松戸市民の私の友人はまさに上記のような反応をしてくれました。
まとめとしましては、「新松戸にはびっくりするくらい変化のないレッドロブスターがある」ということをここで訴えたかったわけです。常連客でもいるのかなぁ、あの店。
2015年4月10日金曜日
教育におけるインプット、アウトプット
このブログでは政治から歴史、文化に渡って結構幅広い内容を取り扱っていますが、これだけあれこれ書いているだけあって日常生活でもよく知識の豊富さを周りから誉めてもらえることが多いです。その際、「花園さんって頭いいんですね」って言葉もよくかけてもらえるのですが、本音を述べると実はあんま頭はいい方ではない、というより理解力は存外低いのではないかという自己分析しております。
自分が進学した大学はそこそこレベルの高い大学で、模試ではずっとE判定だったにも関わらず問題の相性が良かったのかC判定の所には落ちたくせして何故だか受かり、私は運良く通うことが出来ました。しかし多少分不相応というか、大学でできた友人らと話していると明らかに周囲とのレベルの差を覚え、特に何かを暗記したり内容を理解したりする速度で歴然とした差がありました。具体的な数値で上げると、一般人が3ステップで理解する内容を大学時代の友人は1ステップで理解してしまっており、文字通り周りは通常の三倍の速度で動くような連中でした。
なお自分の理解する速度を先程の数値で表すと、よくて3ステップで下手すりゃ4ステップか5ステップ、換言すれば一般レベルよりも理解速度が遅いのではとも考えています。実際妙な所でどんくさかったり、物覚えが悪くて同じミスを繰り返したりする傾向があり、この辺は改善しようと思ってもなかなか効かないのが苦しい部分です。
だったら何故、理解する速度が遅いにもかかわらずそこそこ豊富な知識を私は持ち得たのか。私の勝手な推測としては、理解する速度は遅いものの頭の回転速度が極端に早いため、なんとか補っているのではないかという仮説を立てています。たとえば暗記ですと、何の脈絡も傾向性もない単語や配列を暗記できるまでには通常7回覚えて、忘れてを繰り返す必要があるそうなのですが、理解度の早い人はこれの繰り返しを3回程度で終わらせてしまうのだと思います。で、人より理解の悪い私はというと暗記するまでこの過程を10回くらい繰り返しているのかもしれませんが、そのかわり覚える速度も忘れる速度も通常の2倍くらい早く、他の人が5回覚えて忘れてを繰り返す間に10回こなしてしまっており、結果的にはほかの人よりやや早く暗記を達成できているのではなんて考えています。
もちろんこれは勝手な憶測であってるかどうかは全く保障できませんが、知識を頭にインプットする「理解する力」というのは極論すると下記のような数式で成り立つのではと思えます。
理解速度×回転速度=理解力
なのでただ単に理解力を高めようとするのではなく、理解速度と回転速度のどっちを高めるのかを意識して取り組むと教育的に面白いのではないかと思います。もっとも、案外この二つとも鍛えるのは難しいような気もしますが。
ここで少し話題を変えますが偏見かもしれない意見を述べると、理解速度の速い人は概して他人に物を教えるのが下手だとも私は考えています。
このように考えるようになったきっかけは二つあり、一つは幕末の新撰組にいた沖田総司は剣の腕は隊の中でもナンバー1だったものの、こと指導に当たっては全く下手で誰も教わりたがらなかったというエピソードで、沖田に限らず天才型の人間は指導が下手だということをよく聞きます。野球の長嶋茂雄氏も、「ここをガーッと行って、クワっとこうして」などと言いながら指導するので聞いてる方はよくわからないらしいし。
もう一つのきっかけは私の友人で、明らかに理解速度は常人を遥かに凌いでいるものの、何かを説明してもらったり解説させてもいまいちピンとこないというか聞いてて核心が掴めないことが多かったからです。
先ほどの数式を用いてこの理由を説明すると、一般の人が理解するまで3ステップ必要な内容を上記の天才型の人間は恐らく1ステップで理解してしまうとします。なので天才型が他人にその内容を教えようとすると、一般人は3ステップを踏まないといけないのに結局1ステップ分の説明しかしようとせず、というか1ステップで理解するやり方しか知らないため聞いてる方はそれだと上手く理解できず、「常人には理解できない領域」というものが出来上がってしまうのではというのが私の憶測です。
なもんだから先程の大学時代の友人に対し私はよく、「俺は君に理解する速度では逆立ちしたって敵わないが、他人に物を教える指導力で君はどうあがいても俺には勝てないよ」とよく言ってやったもんです。実際、指導するという意味では回り道を多くしている人間というか理解速度の遅い人の方が案外うまいのではとも考えています。ヤンキー出身の先生を持ち上げるわけではないですが……。
ただもう一つ、指導において重要な要素に表現力というものがある気がします。表現力というのは読んでそのままの言いたいこと、伝えたいことを言葉にしたり文章に書く力ですが、この表現力の優劣というのは指導力に対してダイレクトに影響を与えると断言します。
ちょっと自慢をすると私は人に指導する事に関してはそこそこ自信があり、これまでも割と隙のない作業マニュアルを多数作ってたりすれば、直接での指導でもうまく相手に理解させられている手応えを感じます。なんでうまく教えられるのかは理解速度がやや遅いこともあるでしょうがそれ以上に、中学生時代からほとんど絶やさずに続けている日々の執筆によって表現力が鍛えられ、何をどう言えば相手がどのように受け取るかということを周囲よりもやや把握出来ていることが大きいように思えます。逆を言えば理解速度が極端に速い人でも、表現力の高い人は指導も案外上手だったりするし、逆に理解速度が遅くても表現力のない人の指導は聞いてて全く分からない気がします。
というわけで最後に、教育におけるアウトプットこと指導力について、インプットこと理解力と同じように数式を立てると以下のようになるのではとここで提示します。
表現力÷理解速度=指導力 (理解速度≧1)
よく理解力や指導力をどう上げるかという議論を見ますが、これらを構成する要素に着目して議論した方が面白いのではないかと思え、暇な時なんかこういう数式作って遊んでたりします。
自分が進学した大学はそこそこレベルの高い大学で、模試ではずっとE判定だったにも関わらず問題の相性が良かったのかC判定の所には落ちたくせして何故だか受かり、私は運良く通うことが出来ました。しかし多少分不相応というか、大学でできた友人らと話していると明らかに周囲とのレベルの差を覚え、特に何かを暗記したり内容を理解したりする速度で歴然とした差がありました。具体的な数値で上げると、一般人が3ステップで理解する内容を大学時代の友人は1ステップで理解してしまっており、文字通り周りは通常の三倍の速度で動くような連中でした。
なお自分の理解する速度を先程の数値で表すと、よくて3ステップで下手すりゃ4ステップか5ステップ、換言すれば一般レベルよりも理解速度が遅いのではとも考えています。実際妙な所でどんくさかったり、物覚えが悪くて同じミスを繰り返したりする傾向があり、この辺は改善しようと思ってもなかなか効かないのが苦しい部分です。
だったら何故、理解する速度が遅いにもかかわらずそこそこ豊富な知識を私は持ち得たのか。私の勝手な推測としては、理解する速度は遅いものの頭の回転速度が極端に早いため、なんとか補っているのではないかという仮説を立てています。たとえば暗記ですと、何の脈絡も傾向性もない単語や配列を暗記できるまでには通常7回覚えて、忘れてを繰り返す必要があるそうなのですが、理解度の早い人はこれの繰り返しを3回程度で終わらせてしまうのだと思います。で、人より理解の悪い私はというと暗記するまでこの過程を10回くらい繰り返しているのかもしれませんが、そのかわり覚える速度も忘れる速度も通常の2倍くらい早く、他の人が5回覚えて忘れてを繰り返す間に10回こなしてしまっており、結果的にはほかの人よりやや早く暗記を達成できているのではなんて考えています。
もちろんこれは勝手な憶測であってるかどうかは全く保障できませんが、知識を頭にインプットする「理解する力」というのは極論すると下記のような数式で成り立つのではと思えます。
理解速度×回転速度=理解力
なのでただ単に理解力を高めようとするのではなく、理解速度と回転速度のどっちを高めるのかを意識して取り組むと教育的に面白いのではないかと思います。もっとも、案外この二つとも鍛えるのは難しいような気もしますが。
ここで少し話題を変えますが偏見かもしれない意見を述べると、理解速度の速い人は概して他人に物を教えるのが下手だとも私は考えています。
このように考えるようになったきっかけは二つあり、一つは幕末の新撰組にいた沖田総司は剣の腕は隊の中でもナンバー1だったものの、こと指導に当たっては全く下手で誰も教わりたがらなかったというエピソードで、沖田に限らず天才型の人間は指導が下手だということをよく聞きます。野球の長嶋茂雄氏も、「ここをガーッと行って、クワっとこうして」などと言いながら指導するので聞いてる方はよくわからないらしいし。
もう一つのきっかけは私の友人で、明らかに理解速度は常人を遥かに凌いでいるものの、何かを説明してもらったり解説させてもいまいちピンとこないというか聞いてて核心が掴めないことが多かったからです。
先ほどの数式を用いてこの理由を説明すると、一般の人が理解するまで3ステップ必要な内容を上記の天才型の人間は恐らく1ステップで理解してしまうとします。なので天才型が他人にその内容を教えようとすると、一般人は3ステップを踏まないといけないのに結局1ステップ分の説明しかしようとせず、というか1ステップで理解するやり方しか知らないため聞いてる方はそれだと上手く理解できず、「常人には理解できない領域」というものが出来上がってしまうのではというのが私の憶測です。
なもんだから先程の大学時代の友人に対し私はよく、「俺は君に理解する速度では逆立ちしたって敵わないが、他人に物を教える指導力で君はどうあがいても俺には勝てないよ」とよく言ってやったもんです。実際、指導するという意味では回り道を多くしている人間というか理解速度の遅い人の方が案外うまいのではとも考えています。ヤンキー出身の先生を持ち上げるわけではないですが……。
ただもう一つ、指導において重要な要素に表現力というものがある気がします。表現力というのは読んでそのままの言いたいこと、伝えたいことを言葉にしたり文章に書く力ですが、この表現力の優劣というのは指導力に対してダイレクトに影響を与えると断言します。
ちょっと自慢をすると私は人に指導する事に関してはそこそこ自信があり、これまでも割と隙のない作業マニュアルを多数作ってたりすれば、直接での指導でもうまく相手に理解させられている手応えを感じます。なんでうまく教えられるのかは理解速度がやや遅いこともあるでしょうがそれ以上に、中学生時代からほとんど絶やさずに続けている日々の執筆によって表現力が鍛えられ、何をどう言えば相手がどのように受け取るかということを周囲よりもやや把握出来ていることが大きいように思えます。逆を言えば理解速度が極端に速い人でも、表現力の高い人は指導も案外上手だったりするし、逆に理解速度が遅くても表現力のない人の指導は聞いてて全く分からない気がします。
というわけで最後に、教育におけるアウトプットこと指導力について、インプットこと理解力と同じように数式を立てると以下のようになるのではとここで提示します。
表現力÷理解速度=指導力 (理解速度≧1)
よく理解力や指導力をどう上げるかという議論を見ますが、これらを構成する要素に着目して議論した方が面白いのではないかと思え、暇な時なんかこういう数式作って遊んでたりします。
2015年4月7日火曜日
このブログの検索ワード、2015年4月版
以前にも一回やりましたが、このブログに来る人はどうやって辿り着いているのかをまたちょっとご紹介します。やり方はいたって簡単、以前と同じくGoogle Analiticsの検索ワード順位をそのまま引っ張ってくるだけですので、早速検索数の多いワードを上から順に適当なところまで引用します。
<検索訪問数(セッション)の多いキーワード>
ザーッと見てもらえば大まかな傾向というか訪問しているであろうページがわかるでしょうが、まず一位の「not provided」というのはブックマーク経由などの訪問数で、要するに常連さんの数字ということになります。いつも見に来てくれる方がこれだけ多いというのは本当に感謝に堪えません。
気になるキーワードとしては、「いかりや長介から志村けんへ最後の手紙、というデマ」の記事に引っかかるキーワードが非常に多く、実際にここ一週間くらいのアクセス数だとこの記事がナンバーワンです。正直、適当に書いたどうでもいい記事なのにこんなにアクセスいいってどうよって自問自答ものです。
次に気になるワードとしては「積み木くずし」関連で、恐らく「積み木くずし 最終章について」の記事がやけに引っかかってるんだと思います。この記事もどうせ誰も読むことないだろうなと思いながら書いた記事だったのに、子供の頃から「うちの家族は積み木くずし、なんのそのだよ」と、古すぎるネタで周囲に理解されないのを気にせず言い続けた甲斐はあったかななんて思ってます。
後は派遣マージン率に関するキーワードがそこそこ多いのと、ちょっと個人的に気になったのはカゴメの創業者に当たる「蟹江一太郎」が13位に入っているということです。ほとんど評伝らしい評伝が書かれていない人ですから、ニッチな層に見事に引っ掻かていると思えこれに関しては自画自賛ものです。創業家列伝ももっと書かんとなぁ……。
続いて今度は、訪問した際の閲覧時間の長い検索キーワードを紹介します。このブログは常連さんで成り立っているブログなので、どっちかというとこういう閲覧時間の長いワードの方が気になってたりします。
<閲覧時間(セッション時間)の長いキーワード>
こっちの方は意外な結果で盛りだくさんです。
まず一位はほかのすべての記事を差し置いてあの大津の欠陥マンション訴訟に関する記事でした。この記事は地味に当事者の方々も読んでたのでビビることが多いです。
次に注目すべきはなんといっても「わらそう」です。ほんの20分前にもマッドシティの記事を書いたばかりですが、読む人間は読むだろうと思っていたら案の定長く読んでくれている方がおり、同じマッドシティネタだと「100満ボルト」こと「おかじま電器」もランクインしてます。意外とこういう記事の方が求められてるんだなとちょっと勉強になりました。
このほか美濃加茂市長の裁判記事や積み木くずしネタも数多く入っていますが、逆に以前は閲覧時間が極端に長い傾向にあった「文化大革命」のワードがまたえらく少なくなっています。みんな文革に興味をなくしてしまったのだろうか。
あと最後ちょっと気になったのとして34位の「蟹江一郎」。「太」という字が抜けてます。
<検索訪問数(セッション)の多いキーワード>
順位
|
キーワード
|
セッション
|
1
|
(not provided)
|
3,910(55.63%)
|
2
|
志村けん いかりや長介
|
54(0.77%)
|
3
|
陽月秘話
|
49(0.70%)
|
4
|
サリン事件 症状
|
47(0.67%)
|
5
|
いかりや長介 志村けん
|
30(0.43%)
|
6
|
宮崎繁三郎
|
30(0.43%)
|
7
|
いかりや長介 志村けん 手紙
|
24(0.34%)
|
8
|
hsk5級
|
21(0.30%)
|
9
|
中川 泥酔
|
21(0.30%)
|
10
|
大原騒動
|
17(0.24%)
|
11
|
美濃加茂市長 控訴
|
17(0.24%)
|
12
|
穂積由香里
|
17(0.24%)
|
13
|
蟹江一太郎
|
14(0.20%)
|
14
|
宇都宮病院事件
|
13(0.18%)
|
15
|
任天堂 合併
|
13(0.18%)
|
16
|
派遣 マージン率
|
13(0.18%)
|
17
|
ヒトラー ゲリ
|
11(0.16%)
|
18
|
レッド 漫画
|
11(0.16%)
|
19
|
南海辰村建設 裁判
|
11(0.16%)
|
20
|
派遣会社 マージン率 一覧
|
11(0.16%)
|
21
|
hsk5級 作文
|
10(0.14%)
|
22
|
シドニアの騎士
|
10(0.14%)
|
23
|
デスレス
|
10(0.14%)
|
24
|
ゲリ・ラウバル
|
9(0.13%)
|
25
|
シャルロットコルデー
|
9(0.13%)
|
26
|
猫の目農政
|
9(0.13%)
|
27
|
豊臣政権
|
9(0.13%)
|
28
|
hsk5級 合格基準
|
8(0.11%)
|
29
|
いかりや長介
|
8(0.11%)
|
30
|
積木くずし 最終章
|
8(0.11%)
|
31
|
地下鉄サリン 日野原先生 判断
|
8(0.11%)
|
32
|
派遣 マージン 平均
|
8(0.11%)
|
33
|
派遣会社 マージン
|
8(0.11%)
|
34
|
平野達男 バカ発言
|
8(0.11%)
|
35
|
鈴木修 逸話
|
8(0.11%)
|
36
|
hsk 5級
|
7(0.10%)
|
37
|
ヒトラー 姪
|
7(0.10%)
|
38
|
住友製薬 pam
|
7(0.10%)
|
39
|
地下鉄サリン事件
|
7(0.10%)
|
40
|
中川 泥酔会見
|
7(0.10%)
|
41
|
派遣 マージン
|
7(0.10%)
|
42
|
派遣会社 マージン率
|
7(0.10%)
|
43
|
いかりや長介 手紙
|
6(0.09%)
|
44
|
ゲリ ラウバル
|
6(0.09%)
|
45
|
サリン 妊婦
|
6(0.09%)
|
46
|
スタッフサービス マージン率
|
6(0.09%)
|
47
|
マージン率 派遣
|
6(0.09%)
|
48
|
玄倉川水難事故生存者のその後
|
6(0.09%)
|
49
|
石川啄木 金田一京助
|
6(0.09%)
|
50
|
積木くずし あらすじ
|
6(0.09%)
|
51
|
積木くずし 真相 母
|
6(0.09%)
|
52
|
積木くずし 母親
|
6(0.09%)
|
気になるキーワードとしては、「いかりや長介から志村けんへ最後の手紙、というデマ」の記事に引っかかるキーワードが非常に多く、実際にここ一週間くらいのアクセス数だとこの記事がナンバーワンです。正直、適当に書いたどうでもいい記事なのにこんなにアクセスいいってどうよって自問自答ものです。
次に気になるワードとしては「積み木くずし」関連で、恐らく「積み木くずし 最終章について」の記事がやけに引っかかってるんだと思います。この記事もどうせ誰も読むことないだろうなと思いながら書いた記事だったのに、子供の頃から「うちの家族は積み木くずし、なんのそのだよ」と、古すぎるネタで周囲に理解されないのを気にせず言い続けた甲斐はあったかななんて思ってます。
後は派遣マージン率に関するキーワードがそこそこ多いのと、ちょっと個人的に気になったのはカゴメの創業者に当たる「蟹江一太郎」が13位に入っているということです。ほとんど評伝らしい評伝が書かれていない人ですから、ニッチな層に見事に引っ掻かていると思えこれに関しては自画自賛ものです。創業家列伝ももっと書かんとなぁ……。
続いて今度は、訪問した際の閲覧時間の長い検索キーワードを紹介します。このブログは常連さんで成り立っているブログなので、どっちかというとこういう閲覧時間の長いワードの方が気になってたりします。
<閲覧時間(セッション時間)の長いキーワード>
順位
|
キーワード
|
セッション
|
平均セッション
時間
|
1
|
滋賀 欠陥 マンション 訴訟
|
1(0.01%)
|
0:54:12
|
2
|
青瓦台襲撃事件
|
2(0.03%)
|
0:53:14
|
3
|
石田三成の評価
|
2(0.03%)
|
0:34:03
|
4
|
わらそう プラモ
|
1(0.01%)
|
0:32:08
|
5
|
猫の目農政
|
9(0.13%)
|
0:31:20
|
6
|
わらそう
|
1(0.01%)
|
0:29:30
|
7
|
派遣会社マージン パソナテック
|
1(0.01%)
|
0:29:03
|
8
|
秀吉 陰謀
|
2(0.03%)
|
0:25:54
|
9
|
松戸 100満ボルト 跡地
|
1(0.01%)
|
0:23:38
|
10
|
広瀬健一 声
|
2(0.03%)
|
0:21:39
|
11
|
アデコ マージン 4割
|
1(0.01%)
|
0:21:12
|
12
|
平均的なマージン率
|
1(0.01%)
|
0:20:48
|
13
|
hsk 作文 五級 例文
|
1(0.01%)
|
0:20:40
|
14
|
今の俳優に求められる物
|
1(0.01%)
|
0:20:19
|
15
|
美濃加茂市長検察ねつ造
|
1(0.01%)
|
0:19:52
|
16
|
由香里の死 そして愛 積木くずし終章 あらすじ
|
1(0.01%)
|
0:19:05
|
17
|
長平の戦い 戦力
|
1(0.01%)
|
0:18:17
|
18
|
シチズン 中国 撤退 1日前通告
|
1(0.01%)
|
0:18:05
|
19
|
諸葛亮評価
|
4(0.06%)
|
0:18:04
|
20
|
長平の戦い 生き埋め
|
1(0.01%)
|
0:17:25
|
21
|
竹中平蔵 功罪
|
1(0.01%)
|
0:15:19
|
22
|
時間の概念 文化の違い
|
1(0.01%)
|
0:14:20
|
23
|
第2次上海事件
|
1(0.01%)
|
0:14:03
|
24
|
美濃加茂市長 有罪とするには
|
1(0.01%)
|
0:13:36
|
25
|
地下鉄サリン 日野原先生 判断
|
8(0.11%)
|
0:13:13
|
26
|
中国で反日の強い地域
|
1(0.01%)
|
0:11:20
|
27
|
倒産の面白い話は
|
1(0.01%)
|
0:11:19
|
28
|
埼玉千葉少女殺傷事件 犯人
|
1(0.01%)
|
0:11:09
|
29
|
セガサターンvsプレステ
|
1(0.01%)
|
0:11:07
|
30
|
中国 文化大革命
|
1(0.01%)
|
0:10:47
|
31
|
suzukijidousha 後継者
|
1(0.01%)
|
0:10:37
|
32
|
文世光 処刑
|
1(0.01%)
|
0:10:21
|
33
|
百田 夢を売る男 モデル
|
1(0.01%)
|
0:10:18
|
34
|
蟹江一郎
|
1(0.01%)
|
0:10:08
|
35
|
美濃加茂市長 aitikennkei
|
1(0.01%)
|
0:09:58
|
36
|
派遣会社 平均マージン率
|
1(0.01%)
|
0:09:57
|
37
|
宇沢弘文先生を偲ぶ会
|
1(0.01%)
|
0:09:55
|
38
|
プロジェクトx 聖路加国際病院
|
1(0.01%)
|
0:09:52
|
39
|
積木くずし 内容
|
1(0.01%)
|
0:09:12
|
40
|
マリーアントワネットの初夜
|
1(0.01%)
|
0:08:55
|
41
|
シャルロット コルデー
|
2(0.03%)
|
0:08:50
|
42
|
塚本幸一 インパール作戦
|
1(0.01%)
|
0:08:16
|
43
|
左翼 失墜
|
1(0.01%)
|
0:08:10
|
44
|
大津京ステーションプレース
|
1(0.01%)
|
0:08:05
|
45
|
贈賄側、美濃加茂市長選に知人1カ月派遣
|
2(0.03%)
|
0:07:44
|
46
|
積木くずし 妻 遺書
|
1(0.01%)
|
0:07:38
|
47
|
ケンミンショー鹿児島スーパー
|
1(0.01%)
|
0:07:30
|
48
|
レオ・シロタ
|
1(0.01%)
|
0:07:15
|
49
|
積木くずし母親
|
1(0.01%)
|
0:07:14
|
50
|
外国人犯罪 死刑
|
1(0.01%)
|
0:07:09
|
51
|
地下鉄サリンの負傷者で妊婦いましたか?
|
1(0.01%)
|
0:07:07
|
52
|
陽月秘話
|
49(0.70%)
|
0:07:05
|
53
|
日本の法人税は高い?
|
1(0.01%)
|
0:07:00
|
54
|
サリン事件 解毒剤
|
2(0.03%)
|
0:07:00
|
こっちの方は意外な結果で盛りだくさんです。
まず一位はほかのすべての記事を差し置いてあの大津の欠陥マンション訴訟に関する記事でした。この記事は地味に当事者の方々も読んでたのでビビることが多いです。
次に注目すべきはなんといっても「わらそう」です。ほんの20分前にもマッドシティの記事を書いたばかりですが、読む人間は読むだろうと思っていたら案の定長く読んでくれている方がおり、同じマッドシティネタだと「100満ボルト」こと「おかじま電器」もランクインしてます。意外とこういう記事の方が求められてるんだなとちょっと勉強になりました。
このほか美濃加茂市長の裁判記事や積み木くずしネタも数多く入っていますが、逆に以前は閲覧時間が極端に長い傾向にあった「文化大革命」のワードがまたえらく少なくなっています。みんな文革に興味をなくしてしまったのだろうか。
あと最後ちょっと気になったのとして34位の「蟹江一郎」。「太」という字が抜けてます。
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