さて話は本題ですが、見出しに掲げた「世界を変えられると思っていた」という言葉を見て何を想像するか。自分の中ではこれを見て浮かぶのは二つ、一つはゲームの幻想水滸伝2の「その力があれば、すべてを守れると思った」というジョウイのセリフ、もう一つは、今日釈放されたあの人です。
・希代のテロリスト重信房子、21年の獄中生活の末に見た「風景」(JBpress)
この重信房子について、連合赤軍と比べると自分はそこまで関心がないのですが、逮捕後に自らの活動の失敗について「世界を変えるといい気になっていた」と述懐した言葉だけは長らく記憶に残っていました。
実際その通りというべきか、極左活動に参加した人たちはみんながみんな、自分たちの活動で世の中いい方向に変わるはず、だから何人か人殺しても、他人の金奪っても問題ないという論理で犯罪行為を繰り返していました。でもって、そうした犯罪行為の積み重ねによって、マジで平和で平等な世の中が築けると信じていた節があります。
結論をここで書くと、幼稚であることはもとより、何か一つの達成によってすべてが好転すると考える、決戦思想の権化のような価値観だと自分は見ています。
詳述しませんが、1970年前後の極左団体は社会主義革命さえ起こればすべての不平等が解決され、戦争もなく平和な世の中になると本気で信じていた節があります。不思議なのは、何故社会主義革命一つ起こしただけで不平等がすべてなくなると考えたのか、革命後にも不平等がはびこると何故考えないのかという点と、たった一つの行為で物事すべてが良くなるという考えを、安直過ぎないかと考えなかったのが不思議です。
基本的に政策変更はメリットとデメリットをほぼ確実に備えています。片方を立てるともう片方は立たなくなるみたいに、ないわけではないですが、誰にとってもプラスとなる政策なんてほぼありません。
そういう意味では、政治というのは基本試行錯誤の繰り返しで、問題を一つ解決したらすぐまた別の問題が起こり、その新たな問題にもすぐまた取り組むという地道なプロセスが必要なのですが、そうした地道なプロセスを極左の場合は完全に度外視しており、それこそ野球で言えば大差付けられても「9回にみんなホームラン打てば勝てる」的に、現実不可能な手段でいくらでも逆転できると考えているようにしか見えません。
今書いたように、こうした地道さ、ちょっとずつ世の中を良くしていこうって考えが全くなく、徹頭徹尾で大逆転しか狙わず、しかも1回逆転すればもう安心的に見ていて、その後の運営とか課題も全部無視しているのが幼稚極まりないと自分には思え、大学生にもなってこの幼稚さに気づけないものかと、当時の連中に対して思っています。
そうした価値観で見ると、重信房子に関しては上記のセリフから、自らの幼稚性については一応認めるに至っているのだなと自分は感じました。もっとも普通の人は、20代で普通に気が付くのですが。
かねがね自分は、日本人に限らないけど、日本人はどちらかというと何か一つが変わると全部いい方向に変わるという妙な決戦思想を持っている節があると主張していますが、この極左の価値観こそまさにその権化で、社会主義革命さえ起こせばオールOKになるという価値観の塊だと思います。塩見孝也とかもそうでしたが、労働者のためなどと言いながら一切労働とかしてこなかった(カンパで生きてた)人間ばかりだったとのことで、私に言わせると「あれおかしくね?」的に、体感で考える能力が極度に低い人間ばかりだったと見ています。
無論、そんな積み重ねのプロセスを完全に無視して、結果と結びつかない殺人や強盗といった犯罪行為を延々繰り返しているだけだったので、その活動が失敗に終わったのは自明もいいところでしょう。その上で、世界を変えようと思うのなら一発逆転なんか狙わず、「10年のシーズンを経てパリーグで優勝を果たす」的な遠大な計画をしっかり練るべきだったでしょう。まぁ幼稚さゆえにこれができないのもわかってるんですが。
逆に世界というか世の中変えたいっていう人は、派手で目立つパフォーマンスなんかに逃げず、じっくりと地道に賛同者を募り、ちょっとずつ理解を変えていくという気長な姿勢が大事でしょう。その辺で日ハムの新庄BBは今後どう出るかが気になってくるわけです。
まぁ一番気になるのは、日ハムに出て行かれた後の札幌ドームの経営なんだけど。