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2026年9月24日木曜日

共働きが増えてるのに夫婦別姓はまだか?

 先ほどちょっと気になったので専業主婦世帯の割合を調べてみたところ、どこも総務省データを引用して約3割弱としていました。1992年くらいに共働き世帯に初めて逆転されたとしながらもなんかこのデータは若干実感がないというか、フルタイムかパートタイムか、自営業か被雇用者なのかもっと細かくデータを出してくれないと判断しきれないような気がします。
 少なくとも自分の周りでは専業主婦の方はほぼ見ず、もはや絶滅危惧種ではないかとすら思っています。それに伴ってか寿退社とか「家庭に入る」という言葉も見なくなり、この10年ちょいでもかなり女性の社会進出や勤務がそれ以前に比べて進んだ気がします。

 もっともこの辺、自分の友人も言いますが日本の歴史的には今のライフスタイルの方が平常運転であり、むしろ昭和後期にあれだけ専業主婦がいたという時代の方が特別であったとみるべきです。なお家庭内で女性が弱い立場にあったとする意見についても都市部では当てはまらないことが実際には多いという研究もあり、女房に尻に敷かれる男が意外に多いと戦後すぐに日本に来た外国人学者が報告しています。

 話を戻すとこれほど女性の社会進出が進んでいるにもかかわらず、日本の法的制度は昔のままです。具体的には見出しの通り夫婦別姓が認められておらず、これはいい加減何とかしろよと言いたくなります。
 結婚して名字を変えるとなると銀行やクレジットカードなど、多くのサービスで本人確認を含め登録をやり直さなくてはなりません。また企業役員などの立場にあれば公的登録もし直さなくてはならず、この手の手続きがマジ大嫌いな自分からしたら結婚で名字が変わる方は本当に大変だと思え同情を禁じ得ません。

 中国では初めから夫婦別姓(子供は父親の名字を名乗ることが多い)ということもあってかねてから私は日本でも夫婦別姓にすべきだと主張してきています。一時はこの手の議論も盛り上がったように見えたのですが、現在の高市政権は女性人気が高くないこともあってかこの手の制度改正には冷淡というか消極的です。
 しかし現実的には前述の通り女性も働くのが一般化しており、またウェブサイトをはじめ本人確認や登録がどんどんと複雑になってきており、SSOが今後さらに普及して少しは手軽になるかもしれませんが、やらなくてもいい余計な負担や管理は排除すべきだという立場を採ります。

 そもそも論で言えば、私は日本の戸籍制度そのものをこの際廃止すべきだと考えています。あったところで何かの足しになるとも思えないし、マイナンバーで血縁者を紐づける設定にしてマイナンバー一つで行政管理を行う方が効率的でしょう。よく日本経済がよくないからと色々案を出す人がいますが、経済効率を高めるうえでこうした制度面の無駄な管理をなくすことが非常に重要だと思うのに、この辺に言及する人はほとんど見ません。
 何でもかんでも効率重視でどんどん変えるべきだとは言いませんが、名前はアイデンティティに及ぶし夫婦別姓を認めるだけでかなり効率跳ね上がると思うだけに、もっと関心持ってこの問題をみんな見てもらいたいものです。

2026年9月16日水曜日

辺野古抗議団体の謝罪が何故このタイミング?

・みゆちゃんはずっと友達(カドコミ)

 最近この漫画を描いている英貴氏の漫画をよく買って読んでます。正直に言うと「1年A組のモンスター」は表紙の絵が媚びた感じで目は引くけどどうなの的に疑問持ってましたが、読んでみたら意外というか面白くてはまりました。この人の作品全体に言えるけど、ちゃんと一貫した行動理由はあるんだけど一見して本心がわからず、何考えているのかわからないキャラクターを作るのがうまいと思います。


 さて大きくニュースになった沖縄知事選が冷めやらぬ中でこのニュース、一見して「なんでこのタイミングというかどんな力学?」という感想を覚えました。

 初めに沖縄知事選ですが、若干興味はあったものの詳しい現地事情も知らないし妙な主張も飛び交っていたのであんま関わらない方がいいと思ってこのブログでは敢えて取り上げませんでした。書くのがめんどかったとかそういうのはないです、多分。
 結果は現職のデニー知事が破れ自民党などが推す古謝氏が当選したのですが、その三日後になってこれまでどれだけメディアが「謝罪は?」と聞いても一切謝ろうとしなかった辺野古抗議団体が、上記報道の通りに急に謝罪を表明してきました。まぁなんやねんとみんなも思うのか、トレンドランキングでも急浮上してましたが。そもそも論でいうとあの同志社国際の高校生も亡くなった事故発生直後にきちんと謝罪を表明しない時点でおかしいのですが、それだけ頑なに謝罪を拒んでいたあの団体がこのタイミングで何故謝罪したのかがやはり疑問に覚えました。

 まず一番思い当たるのが、時期的にも近い沖縄知事選でこの団体が応援していたデニー氏が落選したことがきっかけではという推測です。デニー氏が謝罪するなと指示していたのではなどというつもりはありませんが、この知事選で団体における内部または外部の力関係の変動を受け軟化路線へと切り替わったのではないかという風にまずは思いました。


 もう一つ可能性を感じた出来事として、先週に上記リンク先の通りデイリー新潮が報じたあの事件のもう一つの当事者である同志社国際高校の教師による「刑事告訴中なので謝らない」発言です。最初この報道を見たときは私も猫みたいに開いた口が閉じず、一体何考えてるんだと他人事ながらこの学校に対して怒りを覚えました。
 決して法律や司法に詳しいわけではないですが、この事故の内容を鑑みると謝罪するかしないかが裁判にどうすれば影響するんだと逆に聞きたいほどです。強いて言えば、反省の態度が薄いとしてより刑罰が重くなる可能性しか浮かばないのですが。

 それこそ仮に私が辺野古抗議団体の人間だったら、上の同志社国際の姿勢を見たらこれはチャンスだと思い、知事選も終わったしこのタイミングで謝罪を出すのがまさに好機だと思って行動します。いち早く謝罪を表明することで、少なくとも同じ穴の狢だった同志社国際よりはかなりマシに見えるからです。そういう見方から、沖縄知事選よりも同志社国際の先の発言の方が、辺野古抗議団体の謝罪表明をより促したのではないかという風に見ています。
 逆を言えば同志社国際は孤立無援になったというか、謝罪しない発言によってますます立場を悪くしています。既に教師1名も自殺されたと報じられており、この期に及んで何故こんなわけのわからない態度をとるのか理解できず、私ですらこの際だからこの学校は廃校にした方がいいのではないかと思えてきました。

 なお実際に同志社国際出身の知り合いも、「あそこは人をダメにする」とよく言っていました。基本的に規律のない学校なため行動のおかしい人間が多く、その知り合いも高校時代までPC室のコピー用紙は盗んで当たり前だったと言っていました。私も貧乏だった学生時代は学校のトイレのトイレットペーパーを盗もうかという考えが一瞬よぎりましたが、さすがに盗んだところで節約できる金額があまりに少ないことに気づき実行には移しませんでしたが。

2026年9月7日月曜日

「それでもボクはやってない」のプロデューサーが巻き込まれた冤罪解雇

 周防正行氏が監督した映画の「それでもボクはやっていない」を自分は公開時に映画館で見ていました。このところ盛り上がりを見せている邦画は当時は氷河期そのもので、ハリウッド映画に完全に負けていたこともさることながらテレビ局主導で有名事務所のタレントを入れるキャスティングありきの駄作が目白押しだったこともあり、私自身も邦画という時点でその映画を見るのをやめていたほどでした。
 そんな中、この映画に関しては当時痴漢冤罪が問題になっており、私自身もその他の冤罪事件への関心を持っていたことから興味を持ったため確か友人と一緒に見に行ったのですが、映画として単純に面白い作品であるとともに社会的啓発内容も多く、ああこうして映画でここまで打ち出せるのかと強く感心したのを覚えています。辛口で評点が80点を超えることがほとんどない超映画批評の前田有一氏もこの映画に対しては98点という好評価をつけており、その評論コメントは私も見ていて納得するまとめ方となっています。


 そんなこの映画、並びに「Shall we ダンス?」などでプロデューサーを果たした関口大輔氏が冤罪事件に巻き込まれて解雇され、あのワーナーブラザーズ相手に裁判をしていたという事実は目を疑うものでした。

 事件の詳細は上のフラッシュの記事リンク先を見てくれる方が手っ取り早いですが簡単にまとめると、関口氏は根も葉もない経費流用の疑いをかけられて問答無用で解雇されたのですが、その後に解雇事由となった事実がそもそも存在しなかったにもかかわらず解雇が取り消されなかったどころか、業界関係者にワーナー関係者自らが悪評を振りまいていたため裁判を起こし、2年の歳月を経て不当解雇が認められたことが報じられています。本人も語っていますが、冤罪がテーマの映画のプロデューサーがまさか冤罪に巻き込まれたという冗談のような出来事があったようです。

 この記事を見るまでこんな事件が起きていたとは全く把握しておらず、また結審を経て寄せられた周防監督などのコメントからも本来このような冤罪と関口氏は無縁のような人物に見えるのですが、こんな人ですらこのような災難がふりかかるという事実に驚きを覚えました。同時に、これほど悪意に満ちた濡れ衣にすらワーナーはまともな対応もできないのかと呆れ、だからパラマウントに買収されるほど落ちぶれたのだという妙な納得感を覚えました。

 以前私はある友人に、「こっちが何もしなければ絶対に殴られたりしないとか思ってないよな?」ということを口にしたことがあります。何が言いたかったのかというと、たとえこちらが手出しせず、敵対的態度をとらなくてもトラブルに巻き込まれることがあり、そうならないためにも、というよりそうなったときには好むと好まざるになく闘わなければならず、そうした覚悟を常日頃より持っておけと伝えたかったためです。
 今回の関口氏の例はまさにこの典型で、どれだけ善人であろうとこのような無用な騒動に巻き込まれるものかと改めて感じました。ただ報道内容が事実なら、そのような不幸に屈さず戦い抜いた関口氏には敬意を覚えるとともに、本当に排除すべき人間は誰なのかを問うためにこそこの記事がもっと読まれることを望んでいます。フラッシュの人もいい取材するなぁ。

2026年8月26日水曜日

事故や災害報道に年齢情報は必要か?

 さっきニュースを見たら交通事故の報道があり、その中で「被害者は20代の女性と70代の女性で……」と読み上げられたのですが、正直なんでそこで年齢必要なのかと疑問に覚えました。普通に二人怪我したとだけ言えばいいものをいちいち年齢まで読み上げており、果たしてそれは必要な情報なのかという疑問を覚えました。

 例えば死亡者がおり、その人の身分確認ができないような状況だったらおおよその年齢情報を出す価値はあると思います。そうした情報がきっかけで本人確認につながると思いますし、何も出さないより出した方がいいでしょう。しかし今回の事故のように怪我して意識があるような被害者の場合は本人確認は必要ではなく、またどの年齢層の人が事故に遭ったなんて情報ははっきり言って無価値です。年間での被害者数の年齢層を統計に出すっていうのなら話は別ですが、個別の事故で年齢情報を出す必要なんて皆無でしょう。
 事故報道に限らず、日本は何でもかんでも年齢情報を出し過ぎではないかという気がします。例えば遭難から救助された人に関しても男性か女性か、あと未成年(子供)であるかどうかの情報はまだ報じる価値を覚えますが、いくつの年齢の人が救出されたとかは果たして必要かと言えばこれもどうかと思います。

 以前にも書きましたが、自分は中国にいるとよく自分の年齢がいくつであったかを忘れたりします。何故かというと日常で自分の年齢を意識することがないというか、何か書類に身分情報を書く時に年齢情報を求められることはほぼないからです。
 逆に日本はちょっとしたアンケートでも細かく実年齢を書かされ、中には生年月日を聞きながら「で、あんた何歳?」と二重に聞いてくることも多く、なんでそんなに人の年齢聞きたいんだよと逆にこっちが聞きたくなってきます。でもってこういうことするから日本人は社会の中で年齢数を異常に意識し、三十路やアラフォーなどと言う言葉で無駄に年齢で階層化し、ステレオタイプも作ろうとするのではないかとみています。

 そうした延長ゆえか上記の事故報道の年齢の読み上げも、若干過剰ではないかと思うわけです。プライバシーだなんだと言いながらこうしていちいち年齢を公共の電波で飛ばしてくるのはダブルスタンダードもいい所だと思います。

2026年8月10日月曜日

人権教育に意味あるの?

 前回記事で小学館のマンガワン問題に関する報告書の感想を述べましたが、多分私だけだと思うけどあの報告書の「人権意識が足りなかった」という結論には正直疑問を持ちます。というのも人権意識といいますがこれは教育とかで高まるものではなくどちらかと言えば社会の価値観に左右されるものであり、組織として内部人員にあれこれ教育したところで、社会の常識がその基準に至っていなければ多分誰も守らないと思うからです。

 一例を挙げると、セクハラパワハラの概念は昭和時代になく、平成初期も非常に薄いものがありました。漫画とかの中でもおっさん社員が女性の尻をなでるシーンは当たり前のようにありましたが、今現在ではそのようなシーンは「ToLoveる」をはじめとするお色気漫画にしか存在しません。まぁ「ToLoveる」も大分古いけど。
 このような描写の減少は漫画出版社が人権教育を高めた結果というよりは、日本社会全体で女性に対する性的接触はよくないという概念の普及によるものだと断言できます。ここで重要な点は、社会の常識を上回るレベルまで人権意識を教育で高めることはできず、その逆もほぼ然りという点です。

 前述の通りセクハラパワハラの類は今ではやっちゃいけないし、やったら社会的制裁を受ける暗黙の了解が存在します。ではそれ以上の基準、セクハラパワハラ以上に高次な人権的対応や意識を持てるかと言ったら多分持つことはできません。逆に人権意識が低い所ではセクハラパワハラが横行しているかと言ったら、まぁぶっちゃけ横行している企業はたくさんあるっちゃありますが、そういう組織の人員に人権教育いたところで何か変わるかと言ったら多分何も変わらないと思います。
 なぜならそういった組織が置かれている環境ではそれらセクハラパワハラは悪いことではなく、何にもとがめられない一般的行為だからです。これがもし咎められる行為となる場合、具体的には事案があれば指名や取引停止にまで発展するのであれば改める可能性もあるでしょうが、そうじゃなければ多分辞めないでしょう。

 こんな具合で法律で明確に禁止して刑事罰などが設けられている場合を除けば、社会的制裁がなければ案外誰も高い人権意識をもって行動に移すことはないと私は考えています。そもそも人間は自らが自らを定義するのではなく、ほかの人を含む周囲の環境によって定義され、その性格や行動も変化させる存在です。確かに教育も外部からの働き掛けによるものですが、周辺環境がその教育が求める水準に達していなければすぐ周囲の基準に合わせてしまうでしょう。ましてや人権への配慮など面倒で手間のかかるものであれば尚更です。

 なので今回の小学館も「こういうことはだめですよー」と言っても、それが禁止を裏付ける罰が規定されていなければ多分誰も守ることはないというわけです。そもそも誰が問題ある原作者の連載開始を決定したのかという意思決定根拠すら残さず、責任忌避の余地が多大にある組織では人権意識なんてない物ねだりもいい所です。なので私はあの事件に関しては人権云々以前にガバナンスの問題で、意思決定プロセスや責任配分をはっきりさせなきゃだめだろうと言ったわけです。

 人権教育そのものが全く無価値ではないと私は思いますが、私は人権以上に経済的合理性を追求する方が従業員の不祥事リスクを下げ、経営安定に結びつくものだと思います。具体的には問題ある原作者を採用し、それがバレることによるリスクをきちんと計算出来ていたら、こんなことには小学館はならなかったでしょう。組織としての利益追求姿勢、そして従業員が保身のため逸脱しないかを見張る体制の欠如こそが、今回の問題の核心でしょう。

2026年8月3日月曜日

小学館のマンガワン問題報告書


 大分時間が経って風化しかけてた小学館の漫画ワン問題ですが、どうも今日第三者委員会の報告が出たそうです。ちょっと時間なくて報告書内容は読めてないのですが結論は小学館が悪いとのことで、こんな小学生でもわかる結論出すために安くない金額と長い時間かけてる時点で呆れます。
 まぁ小学館の狙いは、第三者委員会調査を入れることで時間を稼いで一時的に風化させることにあったので、目的はほぼ達成されていますが。

 この第三者委員会ですが成否がはっきりしない、例えばリュウとケンのどちらが強いかなど判定の難しい問題を担当させたりするのには大賛成ですが、今回の小学館のように結論がはっきりしている問題を調査、判定させるというのは茶番もいい所でしょう。はっきり言えば小学館の役員連中はこの程度の正邪すら判断できないというのであれば今後もトチ狂った決断を下すリスクが高いと言わざるを得ず、第三者に調査を依頼した事実をもって即刻退任すべきじゃないかと思います。こうはっきり言えるくらい、もはや一般的判断すら久我瀬ないほど人として劣ると私は思います。

 あとこの問題で一番肝心なのは、問題の漫画家を連載させた担当、そして編集長の処分はどうしたかという点です。編集長に関しては連載を決断をしたのは確か前任者だったというような報道があったと記憶していますが、組織としてみるなら直接的責任は負わずとも管理責任を問うのが当然で、最低でも降格、もし事実を知っていたというのなら更迭または解雇もやむを得ないのではないかと思います。共同通信なら間違いなく更迭してるでしょうし。
 この辺、明日辺り報告書読んで編集長は事実を知っていたかを読み込んでみようかと思いますが、これも逆を言えばこの点について第三者報告書がノータッチだったらこの調査そのものがいい加減だったということになるでしょう。

2026年7月29日水曜日

今回あまり広がらなかった自粛ムード

 昨日夕方の熊本の地震、またその後のイオンの爆発事故で今日のニュースはほぼそれ一色でした。実際に視聴者も気になり注目するだけにメディアが関連ニュースの報道に集中することは問題なく、炎天下で避難を余儀なくされる被災者への支援を広げる意味でも集中的な災害報道は今後しばらくは続ける必要があるでしょう。

 ただ今回の報道や世論を見ていて思ったこととして、過去の大地震と比べると自粛を口にする人を全く見なかったし、自粛ムードも広がっていないような気がしました。以前は誰が言うまでもなくイベント事は中止や縮小され、またそうした自粛を暗に求めるような世論も大きかった気がします。
 ただ以前からも被災地はともかくその他の地域でも必要以上に自粛を行うべきかという逆批判も起こり、経済的にも心理的にもかえってほかの地域は日常を維持することこそが被災地のためにもなるという意見も出ていました。私自身もこの意見に賛成で、被災者に寄り添う気持ちは大事であるものの、予定されていたイベント事を中止にするなど必要以上な自粛は誰のためにもならない不要な自己満足に過ぎないと考えていました。

 それだけにプロ野球のオールスターをはじめ、大規模イベントに対して「自粛しろ」みたいな声がほとんど聞かれず、また勤務など勤めて日常を維持しようとする人が多いことは非常にプラスで、過去と比べると大きく前進しているような気すらします。むしろスポーツイベントなどで被災地への応援メッセージなどを発信する方が重要であるし、特に今回は熊本出身であるホワイトソックスの村上選手にはさらなる活躍を見せてぜひ勇気づけてもらいたいものです。
 何気に現地ホワイトソックスの実況が今回の熊本の地震に言及してくれたのは私としてもうれしく感じました。

 そんなわけで必要以上な自粛は避けるべきといった過去の主張というか反省が、しっかりと現在において実現していると感じた次第です。なお311の時に私は上海にいましたが、やはりあの時の上海の日本社会でも自粛ムードが広がって居酒屋とか人が少なくなっていたのを思い出します。ちょうど自分は311に杭州のくそみたいなハーネス工場やめて次の週から上海の新聞社に移ったからよく覚えていますが、無理に明るく振る舞う必要はなくても必要以上に暗くなるのはやはりよくないなと思います。

2026年7月24日金曜日

岡本公三の死

・「狂信者」「人生台無しに」 イスラエル、空港乱射の犠牲者家族―岡本容疑者死亡(時事通信)

 既に数年前から意識混濁状態にあると聞いていたのでさしたる驚きではなかったですが、ようやく死んだのかというのが真っ先に覚えた感想です。彼の経歴についてはわざわざ説明しなくてもネットで見た方が早いので省略しますが、かつて日本はテロリスト輸出国であったことを示す承認みたいな人間で、半世紀くらい前の事件ですが今の若い世代もテルアビブ銃乱射事件については知っておいてもらいたいです。
 まぁ自分の年代からしても知っている人少ないんだけど。

 その岡本公三が参加していた日本赤軍は重信房子によって既に解散が発表されています。ただ日本赤軍に加入していたメンバーでダッカハイジャック事件により超法規的に国外逃亡が認められた人物は何人かまだ生存しているとされ、個人的に気になるのはやはりあさま山荘に立てこもった坂東国男です。死亡報道がないということは恐らくまだ生きていると思われますが、もし可能なら出てきてあさま山荘事件、山岳ベース事件の内幕についてその視点から語ってほしいというのが本音だったりします。

 このほか取り立てて書くようなことは残ってないのですが紙幅が余っているのでもう少し付け足すと、テロリストの概念も911からイラク戦争の間くらいの頃と比べると、現代においてはなんかイメージが変わってきた気がします。当時はイスラムテロリスト全盛期でしたが、現代においてはイスラエルによるパレスチナ侵攻、ロシアによるウクライナ侵攻、果てには米国によるイラク攻撃など国家軍隊による戦争が相次いで勃発し、テロリストによるテロ活動が目立たないというか911の時のような脅威とはあまりみなされなくなってきている気がします。

 もしかしたら実際にはいろんなテロ活動が計画されてはいたものの未然に鎮圧されているだけかもしれませんが、ガチな戦争が起きている中でテロリストたちもそういう活動をしている場合じゃないような気がします。そういう意味ではテロ活動というのは案外平和な時代にだからこそ起きて、注目されるようなものなのかもしれません。
 日本も赤軍派、そしてオウム真理教などの団体によるテロ活動が活発だったころと比べると最近はめっきりそういう事件も起きなくなっています。まぁこれは日本が物騒になってきたというよりは、世直しという概念そのものが変わってきたためじゃないかと思いますが。ああなんかラッキーマンに出てきた世直しマン思い出した。

2026年7月23日木曜日

最近、文豪は自殺しなくなった

 最近あまり自殺関連記事を書いてないけど、学生時代は社会学の一分野として結構自殺を調べていたこともあり、このブログの開設当初も自殺関連記事をよく書いていました。そんな密かな自殺マニアな自分にとって最近のホットトピックは、自殺する文豪がめっきりいなくなったという衝撃的事実です。

 かつて自殺は文豪のお家芸とばかりに、自殺が連想するワードには文豪もしっかり入っていたと思います。この文豪と自殺の組み合わせを強く印象付けたのはやはり芥川龍之介だと思いますが、浅薄な知識で語ると文豪の自殺は明治時代にまでさかのぼる気がします。
 というのも明治の頃に平塚雷鳥をはじめ文壇関係者の心中騒動が幾度か世間の関心を引き、この頃に心中という行為をやや持ち上げるような風潮があったように見えます。その後、芥川の前に有島武郎が心中で自殺していますが、何となくこれが芥川にも影響したように見えるほど当時は大騒ぎとなり、文豪の自殺がやたら箔をつけるようになっていったのではないかと疑っています。やや極端なことを言うと、文豪の自殺は当時としてはやたら持ち上げられる行為となりつつあったとみています。

 なお太宰治に関しては、周辺関係者の証言などを聞くに自殺ではなく心中未遂で終えるつもりが本当に死んでしまった事故死だと私は考えており、今回の文豪の自殺の範囲には入れません。同様に三島由紀夫の割腹自殺も国体思想が強く影響していてほかの文豪の自殺とは一線を画すと考えて、今回は別枠としています。

 話を戻すとそうした文豪の自殺も超大物級だと川端康成あたりが最後で、平成以降で純文学作家の自殺なんてほぼ全くなかったのではないかと思います。こうなったのは先に書いたように昭和期にかけて一種ステイタスと化していた文豪の自殺行為がそれほどステイタスとみられなくなったこと、そして文豪と呼ばれるほど作家が社会的権威を持ちづらくなったことが大きく影響している気がします。端的に言えば、以前と比べ純文学作家があまり世間に注目されなかったといったところでしょう。

 その上で更にもう一つ付け加えると、昭和期まで文豪は作家であるとともに思想家的な側面も強く帯びていたように思えます。人はどう生きるかや世界をどう捉えるか、こうした普遍的価値観を自ら持って社会に訴え、広げていくような役割も一部帯びており、その役割の性格上からも一人でどんどんと考え込むことになりやすかったという点も、かつて自殺が相次いだ原因じゃないかと思います。
 言い換えると、現代の純文学作家においては思想家的な側面はもはやほぼない気がします。何かしらの哲学なりを訴えることもないし、かつてはこの手の人の価値観の柱だった反戦、反抗も今では白眼視されるような始末ですし。まぁそもそも、現代において思想家的な人自体がいなくなっているのですが。

 無論、人が自殺しないに越したことはないのですが、現代の目から見ると逆になんで明治から昭和にかけてあれだけ文豪が悉く自殺したのか理解し辛くなっているような気がします。売れない小説家が生活苦から自殺する方がかえって理解しやすいくらいです。
 もちろん各文豪それぞれに自殺理由があったでしょうが、当時と今とで自殺した人数にこれほど差があることは前述の通り、社会における文豪の位置づけが影響していたという風にしか思えず、実際私も高校くらいまで自殺は文豪の専売特許的な見方を持ってました。しかしそうした価値観なり見方が薄れるとこうも自殺する人は減るものだということから、失恋すると自殺する、生活苦になると自殺するというイメージも薄れたらもっと日本で自殺が減るかもしれません。

2026年7月22日水曜日

何をもって生き辛いと感じるのか

 恐らく日本人相手なら、「今生き辛くありませんか?」と聞いたら八割方「イエス!」と答える気がします。ただこの生き辛いという単語、苦しいとかそういうのとは若干違うと思うしそもそも何をもって生き辛いと感じるのか、ちょっとこの辺がこの前気になりました。
 パッと浮かんだのは金銭的な生活の苦しさのことを生き辛いというのかということでしたが、何となくこれは違うような気がします。というのも比較的裕福な人も生き辛いというし、逆に金持ってなくても生き辛さをあまり覚えていないような人がいます。次にストレスが多い状態のことを言うのかとも考えましたが、これもちょっと違うと思ったというか鬱状態などのような言葉を言うような気がします。

 では人間は何をもって生き辛さを覚えるのか。個人的な解釈ですが選択の幅がなく生活とかのためにあまり望まない行動を取らざるを得ない状況において生き辛さを感じるのではないかという気がします。望まない仕事、望まない人間関係、望まない出費、こんな感じで主観に反した行為を迫られ続ける状態が生き辛いと感じるというか、行動が自発的でなく多発的な状態にあるときに生き辛い気がします。
 こう思うのも私が好き放題に生きてきて、逆に望まない状態に置かれることに物凄い抵抗感を感じるからだと思いますが、何となくほかの人にも上記の定義が当てはまるような気がします。人間が生きる活力を覚えるのはやはり自発性に端を発するように思え、その自発性を奪われた状態だと「生き辛い」とみんな言うようになるように見えます。

 その上で話を発展させれば、今の社会で個人が自発性を発揮できる余地は十分なのかという問いが出てきます。もう現代の中学生は学んでいるかわかりませんが、中国では70年代よりノルマ分の農作物を収めたら余った分は自由市場で好きに販売していいという生産責任制が導入され、それ以降は各自が自発性を持てるようになって積極的に生産活動に勤しみ、生産高が急拡大していきその後の改革開放へと続いていきます。
 この中国の生産責任制を引用するまでもなく、無理やりやらされる作業と、自発的に行う作業ではその効率は圧倒的に後者が勝ります。単純に嫌いな仕事よりも好きな仕事の方が熱入るというのは当たり前ですが、このように好きな仕事、自発性が持てる仕事を現代日本人は選べるのかということです。

 中には好きな仕事の種類なんてなく単純に賃金だけで仕事を選ぶ人もいるでしょうが、私のように記者志望でありながら新卒で記者になれなかった人もいるでしょう。また最初は好きだったけど段々と飽きてくるというパターンもあります。
 何が言いたいかというと、各人がその受け持つ仕事に自発性を持つことができたら効率は上がっていくはずです。出来高制にすれば上がるというわけでもないですが、報酬制度によってはこうした自発性は上がる可能性はあると思います。

 ここで話を戻すと、恐らく大半の日本人は現在生き辛さを覚えているのではないかと思います。そしてその生き辛さは自発性が足りない状態じゃないかと思うわけで、果たしてこのような状況で効率上がるのかといったら上がらないでしょう。たかが生き辛さですが、社会全体経済全体に地味に影響する要素じゃないかと思え、もっとみんなで生き辛さをなくす方策とか制度を議論して、生きやすい世の中を目指すことって大事なんじゃないかというのが言いたいことです。

2026年7月11日土曜日

就職活動開始時期の一層の早期化

 このところ比較的若い年齢層の人たちと話す機会が多いのですが、色々話を聞くだに最近の学生の就職活動の悲惨さに心を痛めてたりします。自分が学生だった頃は三回生の秋ごろより始まり、春休み頃には大体決まっているという感じでした。しかし現代の学生は二回生の夏休み頃からインターン活動をしなければ大企業には受かりづらく、海外に留学を考える人はそのインターンの機会と海外留学を秤にかけ、どっちを取るかを選ばなければならないそうです。

 かねてから主張しているように、学生にとっての就職活動の長期化は何のメリットもありません。費やす時間が多ければ多いほど学業にマイナスですし、また学業以外に励みたいことがある人にとってもそうしたものに時間が取れなくなります。また企業側にとっても採用活動が長期化することで人事部の負担というか作業量は増え、いくら優秀な学生を早期に囲い込むという目的があるとしても、双方にとって徳にならないのではないかという気がします。
 ただ企業側の目線に立つと、ほかの企業の採用が早くなっているから自分たちも早くしないと出遅れるという考えがあるように見え、さながらチキンゲームのような様相で無辜の学生を巻き込んでいるようにも見えます。

 そもそもこうした新卒就活の早期化などの根本的な問題点を突き詰めるとしたら、四月に新卒一括入社するという日本の慣行にこそ問題があるような気がします。言うまでもないでしょうが大学卒業直後にすぐ職に就かなければその後の就活で「この間何してたの?」と聞かれるなど、マイナスに働きます。中国とかだとそんなことなく卒業後半年してから就活する人とかもいるのですが、日系企業は異常なほど新卒にこだわる傾向があり、その結果として学生の就活が半ば儀式化しており、そしてその儀式の影響を受けて学生の時間が奪われているように見えます。

 そのため根本的な解決を図るとしたら、この新卒一括入社の慣行こそ打破すべきである気がします。年中常に必要な部署に必要な人数のみ採用にかける、いわばジャストインタイムのようにあらかじめ募集職種などを示したうえで臨機応変に募集をかけることで、企業も学生もハッピーハッピーになると私は思っています。
 もちろん新卒一括入社なら研修などをまとめて行えるというメリットがありますが、ぶっちゃけそういうのもインターンでどうにかなるのではないかと思います。そもそも社会にまともな常識やマナーを持った人は敬語の使い方を含め少ないし。

 この辺もう一つ要素を挙げるとしたら、総合職採用という慣行もよくなく、上記のように職種別採用をもっと日系企業は行うべきでしょう。配属ガチャという言葉もあるように折角希望の会社に入ってもやりたい仕事につけないというのは雇用のミスマッチを生むだけに、もう少し理性的かつ合理的に日系企業は採用を行ってもらいたいものです。

2026年7月6日月曜日

薄味のレパートリーが日本にない


 昨日、友人と一緒に元栃ノ心がやってるジョージア料理店に行ってきました。この日食べたのは以前牛丼屋でも限定商品として出されていたジョージアの代表的料理であるシュクメルリでしたが、非常に濃厚な味でおいしかったです。値段もランチはまだリーズナブルなものでそこそこお勧めできます。
 なお寝坊して遅刻してきた友人は弁護士、公認会計士、行政書士、司法書士の業務範囲の違いについてなぜかやたらと聞いてました。本人の職業は医者なのに。

 そんなわけのわからない業務範囲の話は置いといてシュクメルリについてですが、前述の通り味はかなり濃く、ほかのスープなども濃いめの味が多かったです。そうした料理に触れたこともあったのですが私の方から友人に対し、「実は昨日気が付いたんだけど、日本の料理ってなんかどれも濃くなってない?」という話を持ち掛けました。
 マジな話でつい一昨日、リンガーハットでちゃんぽん食べながら気が付いたのですが、なんか日本の料理が前より濃くなっている気がします。それと同時に、薄味の料理のレパートリーがほぼ皆無というか見つからなくなった気がします。関西地方なら違うかもしれませんが比較的薄味とされるうどんですらなんか以前より味が濃くなっているような気がし、正直なんでこんなに味濃いんだろうと疑問に思うほどです。

 私が普段いる中国の中華料理も恐らく大多数の日本人は味が濃いと思うかもしれませんが、確かに濃い味の料理が多いものの、それに負けず劣らず薄味の料理も多く、味の幅はそれなりに広いです。それに対しなんか今の日本は薄味の料理が全く視界に入ってこず、またこの数年のグルメネタ記事とか読んでも、「薄味」という表現を見ることが皆無で、なんか日本全体で味覚が濃い味にしか反応しなくなっているのではないかという気がしてきました。
 なお中国のラーメンは日本と比べるとかなり薄味で、それに慣れた自分からするとマジで日本のラーメンは味が濃すぎて若干引きます。

 話を戻すと、単純に味が濃い方が印象には残り、多分まずいかうまいかで言えばうまいという人の方が多いと思います。ただ私の実感から申すと、薄味でなければ感じられない味は確実に存在し、そうした味を普段体験しなくなるのはやはりもったいない気がします。濃い味を全否定するつもりはないのですが、もう少し薄味に日本人は関心持った方がいいのではないかと言いたいわけです。
 はっきり言えば日本人は知らず知らずのうちに濃い味に慣れてしまい、若干薄味に対する味覚を喪失しつつあるのではないかと懸念しています。

2026年6月17日水曜日

高市総理の中傷動画騒動を静観したわけ

・高市首相陣営の「中傷動画」問題、共同通信がオンライン向け写真を削除…事実関係に疑義(読売新聞)

 今国会でも盛り上がっている高市総理の選挙中の他の候補に対する中傷動画についてですが、昨日あたりからこれが証拠だとばかりに出された動画内に選挙後の画像が混ざっていたことがわかり、共同通信とかも報道を取り下げています。まぁ一言で言えば面白いことになってきました。
 この中傷動画ニュースですが、自分も先々週辺りから記事書くべきかなと実は考えていました。若干後出し孔明っぽい言い方になってしまいますが何故書かなかったのかというと、単純にリスク高いと考えたからです。要するに、この中傷動画騒動自体がデマの可能性があると疑っていました。

 一体なぜそのように考えたのかというと理由は大きく分けて二つあり、まず初報を発信したのは文春でしたが、新聞系メディアを含むほかのメディアが一切後追い報道をしなかったためです。ほかの種類の報道ならともかくただでさえ朝日新聞とかが飛びつきそうな報道ながら何故か後追いしなかったため、明確な報道に足る根拠がないのではないかと疑いました。
 もっとも今回疑義の出ている動画が公開された辺りから大手メディアも後追いし始め、そうしたのを見て私もブログに書こうかなと少し思いました。

 次に、文春の報道の順序がおかしいと考えたからです。「中傷動画を作っていた」という報道なら普通、中傷動画そのものがまず真っ先に出てこないと普通おかしいです。しかし文春の報道は動画作成を依頼した秘書のやりとり音声を最初に出し、肝心要の中傷動画はなかなか出しませんでした。はっきり言えば、あの報道が出た時点で中傷動画はそもそも存在しなかったのかもしれません。
 殺人事件に例えると、死体が出ていないのに「あの人は人を殺した」というような感じで、この点で凄い疑問でした。普通中傷動画というくらいならYoutubeとかの媒体で配信してなんぼなのに、その履歴すら出てこないし動画そのものも最初ないというのはどう考えても奇妙で、一言で言えばこの順序がおかしい点で疑いました。

 あと蛇足かもしれませんが、言い方悪いけど高市総理は他の候補を陥れるため中傷動画を作ろうとするほどIT方面に知識が強くないという気もしていました。

 そもそも論でいうと、ここ数年の文春の報道を見ていて如何なものかと思うところが前からありました。10年くらい前にスクープ連発していた時は編集長が「クロをシロにする作業」、即ち疑惑を否定するものがないかの裏取りを徹底的にやっていると報じていました。実際それだけあって初報の段階で報道を信じるに足る根拠と裏付けがなされていて大した編集部だと思っていたのですが、なんか三年前くらいから見出しのわりに中身が異様にしょぼい記事が増えてきており、以前ほどの信頼性を覚えなくなっています。

 もちろん今回の中傷動画騒動はまだどう転ぶかわからず、こっから凄い証拠とか出てくるかもしれません。しかしその逆だった場合はそれこそ週刊新潮みたいなことを文春がやったことになるわけで、ぜひともその報道の真実性を裏付けるのに努力してもらいたいものです。

2026年6月4日木曜日

焼き魚食べられる飲食店が思ってたより少ない(;´・ω・)

 密かに先週末から日本に潜入して裏工作を続けていますが(今回は長い)、昨日は急に「なんかサンマとかサバの焼いたの食いたい」と思い立ち、ソ連人民の敵であるうちの親父とそういうのが食える店を自宅近くで探しました。しかし改めて考えるとこういう焼き魚を売ってそうな飲食店が思ってたより浮かばず、居酒屋を除くとファミレスとかでは和食チェーンでもほぼ期待できないということに気が付きました。刺身メニューとかなら出すところは多いけど、サンマ定食みたいな感じで出すお店はマジで見つけられませんでした。
 最終的に夢庵いって、金目鯛の煮付け定食食って帰ってきました。意外とこういう煮付けは上海でも食べる機会少ないからありがたかった。

 話を戻すと、改めて考えるとなんか魚料理を食べられるお店というのが居酒屋以外だとかなり少なくなっているような気がします。以前はもっと焼き魚に溢れていたように思えるし、自分が学生だった頃は500円でマジサンマやサバ定食をよく食べていました。焼き鮭定食なんかはまだ朝食メニューとかで見られますが、頭の付いた魚を焼いて提供するところは本当に限られるように思え、なんか日本の漁業衰退が進んでいるような妙な恐怖感を昨夜覚えました。

 なおその後いくつかのファミレスのメニューを色々見てみましたが、やはり物価高の影響なのか鶏肉系のメニューが増えているような気がします。から揚げやチキン南蛮、チキンステーキなど鳥盛り沢山なかんじなのと、鶏肉に限らずメインのおかずはやはり肉類である印象があります。
 何も魚好きというわけではないですが、もっと魚のメニューが多くてもいいのではないかとちょっと疑問に思います。上海でも魚は食べようと思えば食べられますが、日本よりも価格がやや割高で味も落ちることから今回の日本滞在中はいい魚をたくさん食べたいと思っていたのですが、上記のような状況でやや出鼻をくじかれています。

 思えば「おさかな天国」がスーパー内で鳴り響いていたのも今は昔。あの時も散々言われていましたがあの時以上に日本人の魚離れが進んでいるように思え、折角いい漁場をたくさん持つ国なんだから、もっと魚を食べればいいのにと思わざるを得ません。農水省も「魚メニューを3品以上出さなければ飲食業を認めない」などという規制出してもっと日本人に魚食わせるべきだと思うのですが、突き詰めると日本の飲食店における魚メニューの減少は、セントラルキッチン方式にあるような気もします。
 やはり肉類と比べると魚をレンチンだけですぐ出すのはやや難しく、こうした手間とコストから魚メニューが嫌われているのかもしれません。ならば農水省はレンチンで気軽に食べられる魚メニューを鮭以外にもっと増やすべきで、ともかく何でもいいからもっと魚を日本人に食わせるべきでしょう。ただでさえ円安で輸入食材の価格が上がっているだけに、魚による自給自足戦略を加速すべきです。

 ここまで書いてなぜここまで魚に熱くなれるのか自分でも意味不明です。それはともかくマジ焼きさんま早く食いたい。

2026年5月28日木曜日

密かに評価しているロッキング・オン・ジャパンの情報流出対応

 本題と関係ないですが先日の上海の日本人切り付け事件の舞台となった日本食店が、ある予約サイトの調査で「接待に使いたい店」ランキングで1位になっていたのがなんか見ていて笑えました。皮肉か。

・ロッキング・オン・ジャパン、元従業員が個人情報をUSBメモリで持ち出し 退職時に(ITmedia NEWS)

 話は本題ですが、あんまり話題になっていないですが上のニュースに昨日一際注目していました。事件内容を簡単に説明すると、音楽雑誌などを発行しているロッキング・オン・ジャパン社で先日、退職した従業員が持ち出しが禁止されている顧客情報などをUSBメモリに入れて持ち出していたそうです。
 これだけ聞くとよくある情報流出事件のように見えますが、注目すべきはその時系列です。件の従業員の退職日は3月19日に対し、この不正データ処理を同社が検知したのは3月19日と当日だったそうです。でもって翌営業日の3月23日には外部専門家と検証を行って容疑内容を確認し、3月26日には元従業員を詰めて同行為を認めさせるに至っています。その後、二次被害はないかの確認を経た上で今回の発表を行っていますが、その対応の速さには舌を巻くし、二次被害の有無も確認してのこの発表文はあらゆる方面でパーフェクトです。

 一見すると情報流出を起こしたというとマイナスな印象ですが、私に言わせればどんだけ対策しようがこういうものは起きるものであり、起きた後に果断に対応できるかの方が重要だと思います。そうした観点に立つと今回ROJの反応速度と元従業員をとっちめて被害を最小限にした対応は驚異的というべき迅速さであり、むしろ普段からサイバーセキュリティが徹底されてあると評価すべき内容であるように見えます。

 またこの手の情報流出事件というのは、起きたとしても「そんな事件はなかった、いいね」的に外部へ発表しない圧倒的に多いです。何気にこの業界には結構詳しく、えぐい事件起きているにもかかわらず内々で処理してあとからコンサル呼んで対策こくというのがお決まりのパターンです。今回のROJの事件は恐らく本人らもドヤ顔決めて自慢できるものだからこそ発表に至ったのではないかと思いますが、逆説的にこういう情報流出事件の発生をきちんと発表する会社というのはサイバーセキュリティ意識がしっかりしているという証左にもなると思います。少なくとも、何もこういう発表がない会社よりは私は信用します。

 言うまでもなくROJはIT関連企業というわけではないですが、ことサイバーセキュリティと情報管理に関しては大した実力と意識のある会社だと今回私は認知しました。こういう風に、事件というかインシデント発生を発表する会社をきちんと評価することが社会全体のサイバーセキュリティ向上につながると思え、そういう意味でぜひこの一件は紹介したいと思ったわけです。

2026年5月26日火曜日

巨人・阿部元監督逮捕騒動を見て

 なんか昨日はニュースが目白押しだったというか、日本、いや世界のコンビニの祖ともいうべき鈴木敏文の訃報に始まり、北海道の二件の若者による殺人事件の裁判開幕と一日中ニュース見ていて飽きませんでした。特に後者に関しては犯罪都市の地位を松戸から旭川が奪いつつある事件の代表格も含まれているのですが、なんでわざわざこの二件の事件の裁判を同日に開催したのかがちょっと勘繰ってしまいます。多分、北海道の記者はこのせいで両方の裁判をリアルタイムで追いかけなきゃいけないから、この1週間くらいはずっと大変なんじゃないかという気がします。

 なんていう感じで昨夜はロボステップの原稿書くのに注力してブログは書かず静観してましたが、そしたら夜中に「阿部監督逮捕」という見出しが入って来るじゃないですか。正直言って、最初見たときはフェイクニュースか何かか疑ったくらい衝撃的で、その後の報道で事実と分かるとえらいこっちゃと恐れおののいた次第でした。

 一夜明けた今日はより詳細がはっきりするとともに、本人の申し出もあって監督を辞任することが報じられました。この辞任への素早い判断は阿部氏、巨人ともに迅速であったと評価しており、どっかの伊東元市長に見せてやりたいくらいなのですが、さすがに逮捕まで行ったとなるとこの決断は仕方ないという気がします。仮にこれで留任したらよくない前例を作ることになるし、逆にここでスパっとやめたことで逮捕即退団という、将来の戒めを作ったと思えます。
 その逮捕に至るきっかけですが、現在最も議論されているように通報した阿部氏の娘さんも意図下に物だったようです。これは警察を含む関係者の証言が一致していることから信じられると判断していますが、私個人としては批判の対象は娘さんというより警察じゃないのかなという気がしています。

 さすがに常習的だったり、骨折など明確な怪我を負うほどの暴行だったら話は違いますが、少しひっぱたくくらいなら家庭内の教育の一環であるように思え、公権力が過剰に介入すべきじゃないかと思います。実際、過去にも少し叱っただけで親を困らせてやろうと子供が警察に過剰な内容で通報し、親が逮捕されるという事件も過去に起きていますが、家庭内への必要以上の介入は避けるべきだと思います。
 そんなこと言って及び腰だと本当の虐待事件を防げないという人もいるでしょうが、言うほど虐待と教育のボーダーはあいまいではなく、むしろ明確です。前述の通り骨折とまではいかずとも大きなあざや近所の評判を聞けば虐待かどうかはすぐわかるもので、少なくとも今回の阿部氏の事件ではその後の影響や騒動を考えるに逮捕するべきだったのかというと正直疑問です。そんな巨人をかばうつもりはありませんが、無駄に騒動をでかくして泣かずに済む多くの人たちを泣かしてしまったように見えます。そしてそのボーダーは、警察が逮捕するかしないかにあり、説諭でとどめておくのがベターだったんじゃないかと思うわけです。

 以上のような見方から、ややオーバーに児相に伝えたかもしれませんが娘さんを批判するべきではなく、むしろ逮捕まで持っていった警察の方こそ自分は批判の対象だと思います。大体、家に来たときは誰も逮捕しなかったくせに( ゚д゚)、ペッ

2026年5月19日火曜日

社会の複雑化に伴う境界知能の顕現

・あと少しIQが低ければ支援が受けられるのに…日本人の7人に1人が抱える「境界知能」という“見えない生きづらさ”(痛いニュース)

 以前に発達障害の大人について記事を書きましたが、これに深く関連してくるのが上のまとめ記事に書かれている境界知能です。境界知能というのは主にIQが健常者(100)と知的障碍者(約70)の間である80前後にある人で、健常者より劣るものの知的障碍者とは認定されないカテゴリです。知的障害とは認められないものの健常者に比べ知能が劣ることから社会での生活で本人が意識しないままトラブルを起こすことがあり、このカテゴリに入る人たちにも支援が必要ではないかと言われています。
 そもそも境界知能という言葉が一般にも広がるようになったのはごく最近で、自分の感覚では2018年くらいから段々と広がってきたような気がします。逆を言えばそれまでは「要領の悪い人間」としか見られず、本人らの能力以上に社会が高い要求を行い、どちらも損するような状況にあったと言われています。

 そんな境界知能について上の痛いニュースの記事を見たのですが、こうした境界知能の人たちにも知的障碍者向けの教育プログラムや社会のアファーマティブアクションが必要なのではといった内容が議論されています。全体としては否定的な声が多いように見え、現在の知的障碍者のラインのように、どっかで基準を区切らないと話が終わらない、知能の低い人向けに社会が合わせ続けることには限界があるなどという意見が見られ、私自身もこうした意見は否定できない気がします。
 ただそれを踏まえた上で言うと、知的障害のラインを少し引き上げるべきなのではないかと思います。具体的には80前後まで引き上げ、支援の対象範囲を広げるべきという考えです。何故こう考えるのかというと、社会がどんどん複雑化しており、かつては適応できた人でも現代では適応できなくなっているのではと思うからです。

 例えば就職一つとっても、昭和から平成初期にかけて就職した後に使い方を覚えなければならない危機と言えば、せいぜいコピー機、FAX、出勤カード機くらいだったでしょう。しかし現代ではパソコンや携帯電話をはじめ様々な電子機器の使い方を覚えなければならず、さらにはパソコン内のメールをはじめとするあらゆるソフトウェアの使用に、かつては技能とされたタイピングもマスターしなければなりません。またそれら機器周りのあらゆる情報管理も徹底しなければならないし、社内行為もハラスメントにならないよう気を配る必要があります。

 仕事だけでなく生活面でも、インターネットやアプリなどあらゆるツールに対する一定の使い方も把握していなければなりません。また契約も携帯電話をはじめ複雑なものが増えており、クレジットカードなども管理する項目は膨大に膨れ上がってきています。
 またこれはギャンブル中毒者に言えることですが、資金調達手段も増加しています。かつては街金の窓口でしか借りられなかったお金が、現在はネットを介してあちこちから借りられるようになり、賭け事にのめりこんだ場合に出来る借金額も増えやすいように思えます。

 以上のように、日本を含む世界の世の中は各種サービスや機器の発達によってどんどん複雑化しており、スマホなどによってアフター5以降も無限に働けるというか働かされるようになってきています。単純に言えば世の中が複雑化していて、社会で生きる人々に要求される水準や知識もうなぎ登りというか増大化していて、実際私も世の中の先進サービスに追いついていくのが段々辛いと感じてきました。ゲームだって、最近はネット接続がデフォで毎日ログイン要求されるし……。
 こうした状況を考えると、以前のもっと単純な世の中だったら境界知能であることが目立たなかったというか気にされずに生きられたのではと思うようになってきました。以前ならそこまで制度やシステムが複雑でなく、知識のアップデート頻度も少なく済んだだろうし、健常者より知能が劣ったとしても読み書きや計算がある程度できれば、周囲とそれほどトラブルを起こさずに暮らせていた気がします。言い換えるなら、社会が複雑化してきたからこそ境界知能者が目立つようになってしまったのではないかと言いたいわけです。

 なんかまとめ方が下手ですが、要するに社会の複雑化に伴い社会が大衆に求めるあらゆる水準が引きあがり、以前は問題なく暮らせていた人たちも知識などで追いつかなくなり、トラブルや問題が増えているのではないかということです。仮にそうだとしたら、社会の要求水準に合わせて従来の知的障碍者のラインを引き上げ、これまで対象外だった人も対象に入れて対策すべきでは二課と思うわけです。そうしたことが社会全体のプラスマイナスで言えばプラスに傾くのではないかと言いたいわけです。

 ちなみにこの要求水準の引き上げですが、意識している人はいないでしょうが漫画界でも同じことが起きていると思います。平成初期と比べて新人漫画家の画力は現代の方がはるかに高く、昔の漫画見ると「この絵で連載できたんだなぁ」と思ったりします。その分全体の品質が向上していて競争力も上がっているわけですが、こういった社会の高度化が今後も無限に進むとなると、なんかついていくのがおっくうに感じてきます。
 多分こういう感情がレトロゲーにはまる人たちを生んでるんだろうな。

2026年5月16日土曜日

「オタク」という単語を見聞きしなくなった( ゚Д゚)マジ

 ただ単に自分が日本に住んでいないからかもしれませんが、ふと気が付いてみたらこの数年か、「オタク」という単語をマジで見聞きすることが亡くなった気がします。かつてはそれこそ毎日どこかで聞きしていたのになんか気がづくと死語になっているかのように使われる機会が減っているように思います。

 そもそもこの「オタク」という言葉ですが、90年代までは完全に侮蔑語でした。アニメや漫画ファンを指して陰気な人たちといったようなネガティブな意味で使われており、漫画家の山田怜司氏の番組に出演したオタクの帝王こと岡田斗司夫氏もはっきりと「受難の時代」といったように表現していました。
 なお岡田氏は新作アニメ映画が公開されるたび、当時のオタク界隈で伝統となっていたのでコスプレして映画館に繰り出していたそうです。ある時は大魔神のコスプレで顔にもしっかりペイントしていったところ、「お前らのような奴が来るからまともな客が来なくなるんじゃねーか!」と映画館の人にマジ怒られそうです。これは映画館の人が確かに正しいでしょう。

 話を戻すとオタクという言葉の価値が明確に変わってきたのは00年代に入ってきた辺りです。段々と日本産アニメが海外でも高い評価を得ているということが伝わり始めたことと、オタク男性を主役においた「電車男」がヒットしたことで徐々に市民権を得るようになり、それまではやや日陰者でアピールの少なかったアニメファンなどが「オタクで何が悪い」という大上段を切れるようになっていきました。
 10年代に入るともはやオタクという言葉でアニメ、漫画ファンを馬鹿にすることは逆批判されるようにもなっていき、この辺りで侮蔑語としてのオタクという言葉は完全になくなり、率先していう言葉とまではなってなかった気がしますが普通にアニメ、漫画ファンを指すようになったほか、その他の趣味にも「〇〇オタク」みたいな具合に気軽に使いやすくなっていったように感じます。まぁ本来の使い方がそのはずなんですが。

 ところがこの3、4年間を振り返ると、マジでこのオタクという言葉を全く目にも耳にもしなくなったように思います。そもそもこの事実に気が付いたのは先ほど挙げた山田氏の番組の岡田氏出演回をみたためで、この時を除くとマジで全くオタクという単語を見聞きしていません。実際のところはどうかははっきり言えませんが、少なくとも使用頻度はかつてと比べると劇的に落ちていると言ってもいいでしょう。

 ではなぜオタクという単語は使われなくなったのか。一番の理由はアニメ、漫画を趣味とすることに周囲の目を気にしなくなったことが大きいでしょう。子供だけでなく大人もアニメ好きと言ってもそんなキモがられることもなくなり、さらには侮蔑的な意味も消え去って侮蔑語としての価値も失いました。そのため使用者、使用場面自体がなくなり、死語化しつつあるのではないかと思います。
 次に、代替語ができたことも大きいと思います。具体的には「陰キャ」、「チー牛」の二つで、あまり積極的にコミュニケーションとりたがらず風采の上がらないナイーブな人物に対するこの二つの侮蔑語がそっくりそのままオタクに取って代わり、オタクという単語を使わなくなりました。このポイントはかなり自信があるというか非常に大きな要素だと考えています。

 このほか深読みすると、オタクという言葉を侮蔑語として使ってきた層、またはオタクとは対照的な人物像とされていた、欧米風に言うなら「ジョック」こと体育会系の権威低下も要素として挙げられる気がします。かつてのスポ根的な風土は現代ではとうに昔となり、それどころか日大の体育会をはじめ、かつては握りつぶされていたであるものの、世間にも大きく注目される事件が報じられるようになり、以前ほど体育会の人間が偉そうにする空気が今の日本にはない気がします。
 そもそもオタク自体が若干文化部とかに所属する男子を揶揄するような意味合いもあったように思え、体育系との比較として使われることが多かった気がします。しかし対抗馬たる体育系が弱まったことでこの比較もあまり意味をなさなくなり、結果的にオタクという単語自体も埋もれていったのではないかと思うわけです。

 ちなみに自分は漫画はともかくそんな言うほどアニメとか見ていないのですが、メガネかけた見た目からなんかやたらと周りからオタク扱い(侮蔑語としての意味)されていた気がします。周囲の評価をあまり気にしないためか否定したりすることもなかったですが、当時自分をオタク扱いしていた連中の誰よりも積極性、行動力、ポジティブさで当時も今も上回っていると信じて疑いません。
 ぶっちゃけ自分を構成する要素の中で最も目立つのは圧倒的な記憶力(知識量)と暴力性だと思え、もし当時自分を見てこの二つの要素を見いだせなかったとしたら、その時点で人を見る目がないとしか言いようがないと勝手に思っています。

2026年5月10日日曜日

Yahooこそ通信詐欺の加担者

・Yahoo!メールさん、やっと最近届きまくる迷惑メールについての注意喚起を出す(ガハろぐ)

 いやこれほんと同感というか、なんで国や警察は福生市のハンマーおじさん逮捕してYahooの責任者逮捕しないのかと前から疑問に思っていました。

 複数のメールを使っていますが、詐欺メールの受信数で言えばYahooがぶっちぎりです。このブログにアドレスを公開しているGmailと比較したら1:1000くらいの割合でYahooの方が詐欺メールをどんどん受信し、騙されたことはないものの、ほかの正規メールと区別して処理するのが非常にめんどくさいです。っていうかYahooのアドレス公開してないのにな。
 しかもこのYahooメール、上のまとめ記事に書いていますが詐欺メールのフィルタリングサービスを有料しているのが見ていて腹立ちます。自分が知る限りフィルタリングで金とるのはYahooくらいなもので、こんな企業姿勢だから詐欺メールに騙される被害者が生まれているようにしか見えず、通信詐欺事件の流行と拡大の一翼をYahooが担っていると信じて疑っていません。

2026年4月25日土曜日

初等教育の重要性、特に国語

 昔友人が、「米国は初等教育に金をかけず、大学などの研究機関の高等教育に金をかける。何故なら世界から優秀な青年が米国の大学に留学するからだ。初等教育を外国政府に負担させ、自分たちはおいしいとこだけをいただいている」と評しましたが、実際その通りだと思いました。ただその結果として、今のトランプ政権が生まれたのではないかと思う節があります。
 偏見かもしれませんが、今「トランプに裏切られた」と言っている米国民はただのアホでしかないと内心思っています。トランプ大統領が耳障りのいいことを口先だけしか言わないことは彼の経歴からも明らかで、また単純に政治実務能力がなく、関税をはじめ余計なことばかりに実行力を発揮するのは目に見えていました。それでも彼を支持して投票したというのは単純に人を見る目、未来を見る目がなかったとしか言いようがなく、アホでしかない結論に至ります。

 まぁあの選挙当時、相手がカマラ・ハリス氏だったことから自分も米国民ならトランプに票入れたかもしれませんけど。

 そもそも彼のような人間が党内の予備選挙に勝つこと自体が色々あれだと思うのですが、その背景として米国の初等教育の低さがあるのではないかと勝手に思っています。初等教育に金をかけてこなかったからこそああした人を担ぎ上げてしまい、尚且つその結果がどうなるのかを見れなかったのではないかという気がします。
 少なくとも庶民層とエリート層の分断はかなり激しくなっていると聞き、この初等教育に金をかけず高等教育にのみ注力することで、米国は選挙方面でかなりおかしな状態に至ってきているように見えます。

 ただこれは米国だけを笑っていられるかというとそうでもない気がします。日本もこのところ闇バイトなどの犯罪犯した若者が「これで捕まるとは思わなかった」、「懲役期間は半年くらいだと思った」などというコメントをよく残しており、どことなく、何をしたらこうなるという想像力に欠けた人が増えているような気がしてきています。その想像力の減少ですが、突き詰めると初等教育、特に国語教育の劣化が原因ではと疑っています。

 昔の記事にも書きましたが、実際に現在の日本の小学校では英語などの科目を増やしたせいで国語の時間が減らされており、その影響から国語や日本語能力が劇的に落ちてきていることが各所より指摘されています。教育関係の仕事をしている友人も同じことを言っており、国語力の低下による想像力の低下が地味に大きくなっているように見え、米国みたく投票した結果がどうなるかがわからず勝手に「裏切られた」という人が今後出てくるのではないかと懸念しており、マジこの辺の初等教育をどうにかしてほしいと思っています。
 結論を言えば初等教育は大事で、高等教育のように目に見える国への恩恵はないものの、ベースラインを維持するためにももっと日本全体で初等教育の充実を図っていくべきな気がします。