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2025年11月1日土曜日

犯罪抑止のために国民全員のDNAを登録させたら……

名古屋・西区の主婦殺人事件で容疑者逮捕 発生は1999年11月(ガハろぐ)

 山本由伸選手の活躍で盛り上がってるワールドシリーズの最中、文字通り度肝を抜く逮捕劇と言えるのがこの事件でしょう。私自身も事件発生時に報道され、その後も被害者遺族が事件現場を保存し続けているということも聞いていましたが、まさか26年を経て犯人が捕まるとは思いもせず、粘り強く捜査した関係警察に深い敬意を覚えます。
 すでに出頭してきた犯人と現場に残されたDNAは一致しているためDNA鑑定不正でもない限りこの事件の捜査は決着していると言えるのですが、前々から思っていることとして、出生時点で全国民のDNAを検査、登録しておけば、こういう犯罪が起きた場合にデータベースに照合するだけで一発で犯人を捕まえられ、各犯罪を大いに抑止できるのではないかと思います。

 知らない人もいるかと思うので書きますが、外国人に関しては日本は既に全員の指紋を取得して登録しています。初回の入国時に指紋を取ってデータベース化し、以降の入出国時にはその指紋とパスポートなどを照合させることで本人確認しています。これは日本に限らず中国も同じで、恐らく世界的に同じ取り組みをしていると思うので大半の国で実施されているのではないかと思います。
 そのため仮に外国人が日本で犯罪を犯してうっかり指紋を残しようものなら、その時点で一発で犯人が分かってしまうようになっています。これがもし外国人に限らず日本人全員、ひいてはDNAまで全部登録しておけば、警察の捜査は大いに捗って犯罪者もすぐ足がつくことから犯罪をより手控えるようになるかもしれません。

 とはいえ、国民全員のDNA情報の取得は基本的人権やプライバシーのない中国ですらまだやっていません。ましてや中国人と比べても妙にプライバシー意識の高い日本では、こんな案を口にしようものなら真っ赤になって否定しようとする人が大挙して出てきそうなので、私自身も実現性なんてほとんどないと考えています。
 ただあれだけ批判されていた街中の監視カメラも、犯罪抑止や犯人逮捕に役立つことがわかってからは旧左翼の人たちも批判の口を叩かなくなりました。前述の通り国民全員DNA情報登録は現状で実現性はほぼないと私も思ってはいるものの、もう少し時代が下って考え方とか変わってきたら案外、本当にやる国とかも出てくるかもしれません。

 ただ犯罪抑止になるとはいえ、デメリットも存在します。端的に言えばデータ情報の流出で、それにより先天的障害などのある方への差別につながる可能性は十分あるでしょう。個人のDNA情報なので商業面で悪用することは難しいのではないかと思いますが、人によっては物凄い詐欺的手段を編み出して悪用するかもしれず、この点で懸念が持たれるのは私も当然かと思います。
 敢えて最も大きなデメリットを挙げるとすれば、前述のDNA情報の流失によって他国に吉田沙保里氏のDNA情報が流れて彼女のクローン兵が大量に作られたとしたら、文字通り世界は終わってしまうことになります。これはマジ恐ろしい未来なので、これ考えると確かにDNA登録はやめといた方がいいかなと私ですら思ってしまいます(;´・ω・)

2025年10月27日月曜日

人目を気にする生き辛さ

 本題と関係ないですが嘘つきが手を入れると抜けなくなると言われる彫刻の「真実の口」について、一昨日久しぶりに「思春期ルネサンス!ダビデ君」を読んでいる最中、「『真実の尻』ってのはないのだろうか?」という妙な妄想がもたげました。多分この間、「ケツバトラー」の漫画紹介を見た影響だと思います。


 話は本題ですが、先日死刑判決が下りた2023年の中野市四人殺害事件の犯人についてですが、リンク記事でも触れられているように犯人は精神病であったと主張してはいるもの、冷静に被害者へ銃を向けその後立て籠もった経緯を考えると詐病であるように思います。昔法学部の友人が言っていましたが、殺人犯は基本的に殺人を犯す時点で常人と比べ精神が異常な状態にあるため、ちょっとやそっとの精神障害では減刑理由は成立しないそうです。極端に言えば、うんこ食べるくらい気が狂ってなければお話にもならないそうです。

 以上からこの犯人はこうして詐病を装うあたり、本人は死刑を望んでいるようなことを言っているものの実際は恐れているんじゃないかと思います。仮にそうだとしたら非常に卑怯な人間だと思え同情の余地も感じないのですが、彼が主張した人目を気にする生き辛さというのには密かに共感を覚えるものがあります。
 裁判などでの供述によると、犯人は大学に入ったあたりから自分が馬鹿にされているのではと人目を気にするようになってひきこもるようになったそうです。特に笑い声が聞こえると自分が笑われているのではとも思ったと語っているのですが、この供述については嘘ではなく、実際の本音だったのではないかという気がします。というのも、この犯人ほどではないのですが私もそのような経験があるからです。

 一番記憶に古いものだと子供の頃に連れてこられた外国で外人が笑っていると、子供心に「自分が笑われているのでは?」という風に思ったことをはっきり覚えています。また成人後も、厳しい状況にあった時なんかは外から笑い声が聞こえると、さすがに自分が笑われているとは思わなかったものの何となく肩身の狭くなるような感情を催しました。
 私個人の所見で述べると、上記のような体験は日本人ならほぼ全員が多かれ少なかれ経験しているのではないかと思います。主な場面としては小中高の環境、そして私が上記に挙げた外国人から聞こえてくる笑い声が候補であり、悪意がないはずだと分かっていながらも何となく嘲笑されているような居心地の悪い生き辛さを感じた経験は誰しもあるでしょう。

 恐らくこれはほかの国の人にも同様に当てはまる気がしますが、その度合いで言えばやはり日本人の方が高いのではないかと考えています。何故かというとやはり日本人は人目を気にするというか、自己評価よりも他者評価、つまり外部からの評価を重視する傾向にあり、自分が自分のことを高く評価していても外部からの評価が低ければ「俺って無能?σ(゚∀゚ )」という風に思い込む人が大半で、中には自己評価なんて一切しない人も珍しくありません。まぁそれは自我がないせいでしょうが。

 この点、中国人なんかは人目を気にしない人間ばっかで、自分も感化されたのか昔と比べると今は周りの目をあまり気にしなくなりました。そんな自分からみていると、やはり日本人の大半は人目を気にしすぎるあまり、それだけで生き辛さを感じているように見えます。まったく気にしない人もはた迷惑ではあるものの、生き辛さを感じるくらいならもっとわがままに生きたらといいたくなるほどなのですが、多分日本の教育ではそのような人目を気にしすぎる人にすら「もっと周りを見て行動しなさい」といって、余計に追い込む気がします。

 そういう意味で自分としてはもっと、この「人目を気にする生き辛さ」という単語を広めて、気にしすぎると本人にも周りにもよくないし、極端なことを言えばこの中野市の事件の犯人のように暴発する可能性もあるという認識を社会全体で持った方がいいと思っています。っていうかぶっちゃけ、日本国内の統合失調症の人の多くが「誰かに見られているような気がする」と口にする当たり、この人目を気にする習性は日本の精神衛生を大きく悪化さている要因ですらあるようにも思えるし。

 このような見方を持ったのと、「やや理解を得辛い自分の好きなことを理解し合える関係」をテーマにしている聞いたことから、今回の日本滞在中は漫画喫茶で「その着せ替え人形は恋をする」を一気読みしてきました。実際、このテーマが作品全体で貫かれており、キャラの心情も良く描けていてこりゃ人気が出る作品だと納得な面白さでした。個人的には主人公の男の子が、男の自分からみても一貫して自分の夢を追い続ける姿勢がかっこいいと感じました。

 今回こうして問題提起的に記事書いていますが、正直なことを言えばなぜ日本人がこれほど人目を気にするのかが実はよくわかりません。ムラ社会だからといえば話は早いですが、村落文化が衰退した現代でこの図式をそのまま当てはめるのはやや安直だと思えるし、また着せ恋じゃないですが、何故個人の趣味に良し悪しというか人目を気にするもの、気にしなくていいものがあるかについても、何か考慮する余地があるのではないかと思え、確固とした線をいまだ描けずにいます。
 敢えて言えば、人目を気にする背景には劣等感が確実にあり、その劣等感がどこからどのようにして生まれるのかというメカニズムに何かヒントがあるような気がします。地味にこの劣等感についてはこれまでも学生時代も一切触れてこなかった感情で、自分も何度も抱いてはいるものの、何故抱くのかについてはいまいち分析できていないような気がします。

 最後に着せ恋について、主人公に両親がいない背景についてアニメ版で原作にない背景が掘り下げられたことについて作者が、「(ストーリーの構成上)邪魔だから殺しただけだったのに……」と言いながらアニメ見て感動したというエピソードが一番強烈な印象に残りました。

2025年10月26日日曜日

日本における駅名の英語表記について

 前々から思っていましたが、日本の駅名の英語表記はやっぱおかしい気がします。日本の駅名の英語表示は基本的にローマ字表記にするだけで、例えば「東京→Tokyo」、「大阪→Osaka」などと表記されます。こうした固有名詞の地名なんかはこれで何も問題ないと思いますが、例えば「南浦和」など、広範囲にわたる地名をそのエリアによって分けた駅名の場合も「Minami Urawa」などと表記されます。

 しかし英語のわかる外国人に「Minami」とローマ字で書いただけで「南(South)」だと分かるわけがありません。この点、中国ではこのような東西南北が付いた駅名には「South 〇〇 Road」などと、無意味に中国語の発音表記(南→Nan)そのままに書くことはせず、英語の意味に合わせた単語を当てはめます。また「人民広場」など一般名詞に近い駅も「People Square」などと英語の意味に合わせた単語を当てています。日本人なら漢字だけででわかりますが、漢字のわからい外国人にとってはこうした英語表記の方がわかりやすく、地名も覚えやすいでしょう。

 自分はついさっきに京都から帰ってきましたが、京都市営地下鉄終点の「国際会館」もそのまま「Kokusai Kaikan」などと書かれてあって色々思うところがあります。これこそ「Intenational conference hall」とかの方がわかりやすいし、そもそもそういう場所なんだから意味に合わせて英語表記すべきでしょう。日本語の音に合わせてローマ字化したところで、得する人の方が少ない気がします。

 ただこれで困るのは「新〇〇」系の駅です。都内なら御徒町に「御徒町」、「新御徒町」、「仲御徒町」と複数駅ありますが、最初の御徒町こそ「Okachimachii」または「Okachi Town」で十分ですが、次のは「New Okachimachi」と書くとなんか不自然な感じします。それだったら元の御徒町駅は「Old Okachimachi」になったりするのかと思えてくるし「Naka Okachimachi」に至ってはもはや意味不明です。いっそ「新御徒町」については「Brandnew Okachimachi」などと開き直った方がいい気すらします。
 その点、「北千住」と「南千住」なら「North Senju」と「South Senju」で迷うことがありません。ただ個人的には「Good Senju」、「Bad Senju」とかでもいい気がします。

 最後に、松戸も「松戸」、「東松戸」、「北松戸」、「新松戸」と松戸とつく駅名がたくさんあります。新松戸なんか自分もよく使う駅なのでこの際、「Matsudo NOVA(マツド・ノヴァ)」などと派手な英語表記駅名にした方が盛り上がるんじゃないかと密かに考えています。

2025年10月18日土曜日

孤立無援な医療業界

 かねてから私はこのブログで、団塊の世代が平均寿命を迎える時期、具体的には2030年くらいまでは社会保障が文字通りうなぎ昇りに増え続ける時期なため、国民負担は増えるものの社会保障を支えるために増税ペースを維持するよりほかないと主張しています。この見解に今も変わりはなく、何となく財務省も公言しないもののこうした方針で今増税をやっているのではと思う節があるのですが、その影響で一番割を食っているのが医療業界であるように思え、密かに憂慮しています。

 言うまでもなくこの二年ぐらいで日本の物価は急騰し、賃金も上昇しているとはいえ自分が見る限り今年1月と比べると10月の現在は大きな変動はなく、上昇ペースが鈍ってきているように思えます。
 その一方で値段の変わらない、というより変えようがないのが医療費です。日本の医療費は点数制で、健康保険の対象の治療については国が価格を設定しており、自由診療対象の治療でなければ病院側が勝手に価格を変えるわけにはいきません。

 このように病院の売り上げにあたる治療費価格は変更できない一方、病院で働く医師や看護師、病棟などの不動産費用、設備機器の購入費や維持費、そして電気代などは上がり続けています。効率化を図ろうにも製造業と違って医療では限度もあります。また先のコロナ対策で隔離病棟などを設けるためにも費用が掛かっているように思え、売り上げは増えないのに経費は高騰し続けるという、聞いてるだけで暴れたくなるような状態にあります。

全国で8割が赤字の公立病院:患者減少×物価高の中、石川の富来病院が模索する“生き残り戦略”…能登半島地震の追い打ちにもめげず模索する住民の“命”と“健康”を守る地域医療の要(FNN)

 実際にメディアの報道などで、全国の多くの病院で経営が追い込まれているという話を聞きます。人件費や物価が高騰する背景を考えたら医療費引き上げもやむなしとは思うのですが、結論から言うと、病院関係者を除くと誰も医療費引き上げを望んでいないというのが現状です。

 まず消費者からすると、ただでさえ増税や物価高騰で困ってるのにここにきて医療費引き上げなんてマジ勘弁です。次に政府からすると、医療費を引き上げると国が負担する保険料も増大することとなり、ただでさえ重い負担となっている社会保障費負担がさらに増します。なので消費者、政府からすると、どう見たって医療業界は財政的にヤバいくらい追い詰められているというのに、彼らを助けるため医療費を引き上げると自分らの首が締まるもんだから助けようとはせず、見捨てるどころか感心すら持たない状況が今であるように感じます。
 それこそ仮に議員や大臣が今この時期に医療費引き上げを口にしようものなら、「こんだけ増税してるのに何を言うか!(# ゚Д゚)」と消費者、特に医療費がかかりやすい高齢者などは怒り狂って批判するのが目に見えます。私個人としては病院側の努力には限界もあり、またコロナ期を含め医療関係者は大きな負担に耐え続けていることを考えると引き上げも仕方ないし、早く上げるべきだと思うのですが、こんな考えしているの自分は確実にマイノリティに属すでしょう。

 そういう見方から現状、医療業界は孤立無援というか消費者にも国にも見放され、誰も助けてはくれないのに「医療を支えろ!」と言われているような状況にあるように見えます。私個人としては医療を維持する上でも一定の財政強化は必要であるように思え、増税を維持しつつ医療費引き上げをするよりほかないと思っており、それができないなら給付金なんてばらまいてないでその予算を全部医療に回すべきだと思います。
 敢えて落としどころとしやすい案としては、医療機関への寄付を奨励する、具体的には医療機関への寄付には減税率をダブルアップするキャンペーンなどを組み、資産家などに医療機関へどんどん寄付してもらい、この急場をしのぎつつ、物価高騰対策を打つのが手じゃないかと思います。もちろん、実現性は無視するとして。

2025年10月7日火曜日

2025年からの5年間の日本

志位氏「人間は馬ではない。公党の党首が使ってよい言葉とは思えない」 →では出馬もしないで下さい(痛いニュース)

 先日の総裁選勝利から高市氏への追い風が吹いているというか、上記の上げ足をとるような志位氏や妙なフェミニズム団体の批判に対して日本の世論は逆批判が起きており、高市氏へのわけのわからない批判への同情というか支持も広がってきているように見えます。私自身もそこまで高市氏を評価する立場でなかったものの、このところの外野からの呆れた批判を見るにつけなんか応援したくなってきました。

 それはそうと昔はよくやってた政治的未来予測記事を久々に書こうかと思ってこうして書いていますが、かねてから私は今後5年間、2030年までは何があっても増税を続けるべきで減税するならその後からだと主張してきました。この主張の根拠は社会保障費が2030年までは劇的に増加する最後の時期であると踏んでいるからです。
 理屈はごく単純で、日本の人口ピラミッドを大きく歪にさせている団塊の世代(1946~1949年)が平均寿命の約80歳を迎えるのがこの時期だからです。もちろん団塊の世代がある程度逝去したとしても少子化が続いていれば社会保障負担は拡大を続けますが、それでも拡大ペースの速さという意味ではこの5年間がまさにラストスパート的な時期で、2030年以降はややこのペースが鈍化へと転じる可能性があると考えています。

 この間、国家財政を支えて他の支出への影響を防ぐとなると国民に負担をかけること前提で増税ペースを維持することもやむなしかと考えています。何せ具体的にどれだけ社会保障負担が伸びるかがはっきり読めないところもあり、減税などを行うにしても2030年まではやはり待つべきというのが私の持論で、何となく財務省もそんな腹積もりなのではないかとこの頃見てて感じます。

 幸いというか日本の経済状況は現在はまずまずという状態にあり、少なくとも失業者が溢れるような状況ではなく、また人手不足によりブラック企業という単語がマジでこの2年くらい一切見ないほど社会問題からなくなりつつあります。そもそも日本経済の効率を大きく引っ張っていたのがまさにこのブラック企業であり、ブラック企業を摘発していくだけで日本経済は効率化されプラスになります。
 中小企業保護政策こそがこのブラック企業の温床であり、何となく私が昔から主張してきたこの持論をほかの一部日本人も持つようになってきているように見え、多分このまま妙な中小企業保護政策は徐々に減っていくという確信があります。即ち、日本経済は結構安泰じゃないかと楽観視してます。

 ただ社会保障と一緒で、これからの5年間は何となく日本も転換期を迎える気がします。多くの投資利益をもたらしてきた中国経済がこれから劇的に悪化し、日系企業の海外戦略もこれから大きく転換していくことでしょう。また米国もトランプ政権を機に弱体化へと転じ、従来の流通というか国際分業体制も大きく変わっていく気がします。

 その中で日本人個人に目を向けると、このところ就職ランキングでコンサル系が上位を連ねるなど会社に頼らず、会社を離れても食っていけるようなスキルが身につく企業が好まれる傾向がある気がします。これは何も若者に限らず、日本人自身が所属組織よりも自らが持つスキルを資産活動でより重視するようになっているように見え、これまで以上に個人主義化がさらに進んできているようにも感じます。
 まぁ中国で戦い続けてる私に言わせれば、それでもまだまだ日本人の多くは集団主義に取りつかれているように見えますが。

 とはいえ今後日本の雇用市場はさらに流動化を迎えるのではないかと思います。それは逆に、大企業にブランド以上の魅力アピールを迫ることとなり、日産のような看板だけの企業はますます優秀な人材が取れなくなってもっと弱っていくかもしれません。まぁ幹部陣を見ている限りだと、10年前の時点であそこはまともな人材がゴーン以外いなかった気がしますが。

 ここで閃いたというか、やはりこの5年間のキーワードは「流動化」かもしれません。政治も公明党が今連立維持を継続するか議論しており、誰も使わないけど99年体制がいよいよ終わりを迎えるかもしれません。先ほども言ったようにこの5年間は日本国内のみならず世界環境の色々変化があり、日本人もあらゆる面で転換を求められることとなるでしょう。
 そうした時代背景においては言うまでもなく固定的な価値観は邪魔でしかなく、何でも合理性を追求すべきではないものの、変化の方向性を早めに見抜き必要な対応をぱっぱととれる人間や企業ほど生き残りやすくなる気がします。あえて例えるなら、状況に応じて変形できるアッシマー型な人間が求められている、っていうかアッシマーが求められていると言いたかっただけです。

2025年9月28日日曜日

日本におけるネパール人の犯罪報道は何故あまり見ない?

 今日は中国で出勤日だけど、特にそんな仕事多くないから家で冷房かけながら仕事してたら頭痛起こして夕方吐きそうでした(ヽ''ω`)
 関係ないけどかねてより頭痛が多いのは無駄に背筋が発達していて、ずっとマウスもってることから右腕がやや前側に偏って右肩付近で血管を圧迫しているせいじゃないかと思って肩のストレッチをやり始めたらなんか血行が急に良くなった気がします。その代わり、これまで体中にあった血栓が急に全身を巡るようになり、不規則に左人差し指根元など節々が痛むようになり痛し痒しです。

 話は本題ですが、今日本で最も主要な政治トピックとしては在留外国人、特にその犯罪でしょう。犯罪率自体は日本人と比べて極端に高い気はしないのですが、やはり報道で外国人が犯罪を犯したとみると、同じ犯罪でもヘイトが強いというか無駄に憎悪を駆り立てることとなります。また痴漢犯罪でも、日本人がやってもニュースにはなりませんが外国人だったらニュースとして報じられやすく、この点でも外国人犯罪報道が目立ち、体感治安が悪化する悪循環が広がります。

 外国人として中国で長年過ごしならプラモを作り続けている私に言わせると、日本で犯罪を犯している外国人はごく一部であり、大半の外国人は日本社会でルールを守りながら過ごしてるのに一部を全体のように見られて白眼視されるというのはあまりいい環境とは思えず、外国人犯罪への対策は必要であるものの、必要以上にヘイトが高まる状況は良しとみていません。
 なのでこうした偏見を払しょくできる方法はないかと考え、やはりデータをしっかり見せて「みてごらん(´∀`*)ウフフ」と安心させるのが一番だと思ったのですが、その際にふと、「あれ、なんかネパール人の犯罪報道はあんま見ねぇな(;´・ω・)」という事実に気が付きました。

<国籍・地域別在留外国人数(2024年6月末)>
(1) 中国             844,187人 (+22,349人)
(2) ベトナム        600,348人 (+35,322人)
(3) 韓国             411,043人 (+     887人)
(4) フィリピン     332,293人 (+10,247人)
(5) ブラジル     212,325人 (+     485人)
(6) ネパール     206,898人 (+30,562人)
(7) インドネシア   173,813人 (+24,712人)
(8) ミャンマー     110,306人 (+23,760人)
(9) 台湾              67,277人 (+  2,614人)
(10) 米国              64,842人 (+  1,434人)

 以前に留学生数を調べていた時に、中国、韓国、ベトナムに続く形でネパール人が多いという事実を知ったのですが、現在でもその傾向は続いているようで、その在留人数は6位で、絶対伸び数ではベトナムに次ぐ2位となっています。
 ちなみになんで急にネパールに気づいたのかというと、昨日カレー屋に行ったらパキスタン人の店員に携帯画面をみられて「日本人なの?」と聞かれて肯定した後、「日本のカレー屋はインド人、パキスタン人ではなくほとんどネパール人が運営してるよ」という無駄知識を披露したのがきっかけでした。

 話を戻すと、以上のようにネパール人は既に堂々たる人数が日本に在留しているのに、日本の外国人犯罪報道を思い起こすと以前は中国人が多かったのに対し、近年はベトナム人、クルド人が一番多くみるような気がします。フィリピン人もたまに見ますが、それらに比べてネパール人はなんか極端に見ない気がして、この辺どうなのお持ったわけです。

<2020年来日外国人の検挙状況>(警察庁)

 実際にというか、少し古いデータですが警察上のでいたーを見ても、ベトナム人が全体の1/3、中国人が1/4を占めるのに対し、ネパール人は3.0%で約1/33と、その在留人数規模からすると確かに犯罪を起こす率が低いような気がします。これは一体何故(。´・ω・)?
 っていうか自動車窃盗でスリランカ人多いな(;゚Д゚)

 ネパール人には犯罪者が少ないのかと言えば、そこまでは言い切れないと思います。犯罪目的で日本に入国する人が少ない、もしくは入国前の時点で犯罪しそうな人がきちんと審査されて排除されている可能性もあります。またほかの国の人と比べても日本社会に溶け込みやすい文化的傾向もあるかもしれません。
 何が言いたいのかというと、こうした国籍別の犯罪発生率の差から、一体何がこの差を分けているのかという要素を追うことが外国人犯罪を減らす大きな手立てになるのではないかと思うわけです。たまたまかもしれませんがネパール人がほかの外国人と比べても犯罪発生率が低いことを示唆するデータもあるのだし、ネパール人がほかの国、特に中国やベトナムと何が違うのか、この辺を追うことが治安の向上、そして偏見の撲滅につながるかと思え、もっと真剣に追跡すべきじゃないかと言いたいわけです。我ながらいいところに目をつける( ・´ー・`)

 なおネパール人の犯罪報道が本当にないか調べてみたところ、以下のニュースがヒットしました。


 毎度くそ長くてセンスのかけらもない埼玉新聞の見出しですが、この記事は文字通り目を引きました。なんでも、ネパール人とインド人の男性数名が給料として配る現金を持ち歩いていた経営者男性を襲ってその金を奪おうとしたのですが、その際に目潰しとしてスパイスを顔面に塗ってきたそうです。「普通に催涙スプレーとかでいいじゃん(;´・ω・)」などというツッコミもさることながら、ネパール人とインド人というスパイスにおけるゴールデンコンビのタッグによるスパイスクライムに、何故か心動くものがありました。彼らやはり、なんにでもスパイス使うんだなと妙に納得するし。

2025年9月18日木曜日

警察、検察の無罪証拠隠避には罰則を

「園児を虐待」身に覚えのない逮捕…無罪判決に 「有罪のストーリーに都合の悪い証拠は出てこない」(withnews)

 詳細はリンク先の記事を見てもらいたいのですが、簡単に話すとある保育士が元同僚二人にはめられたことで園児を虐待したという冤罪をかけられ、約300日も拘留されました。裁判では無罪判決が下りたものの、その裁判過程で実は検察はこの保育士が無罪であることを示す、元同僚二人が彼をはめた証拠となるLINEのデータを捜査過程で取得、把握していたことがわかりました。
 にもかかわらず検察はその証拠について当初「ない」と嘘をつき、裁判過程で証拠の存在が明らかとなって裁判所から提出を要求されるまで出そうともしなかったそうです。言い換えれば、冤罪と分かっているにもかかわらず被疑者を起訴し、有罪へ持ち込もうとしてたわけです。

 こうした例は何もこの事件に限らず、かつての足利事件、そして比較的新しい大川原化工機事件でも、被疑者の無罪に有利となる証拠を警察や検察は把握していたにもかかわらず、敢えてそれらについて触れないどころか隠蔽しようとして、有罪へ持ち込もうとし、冤罪を起こしています。
 普通に考えれば無罪と分かる証拠があるのだから起訴自体しなくてもいいのに、わざわざ余計な手間かけて有罪に持ち込もうとする辺りはもはや「人を憎んで罪を憎まず」と言わんばかりの態度です。っていうか明らかに思考がヤバいとしか思えず、大川原加工機事件の警察、検察関係者などは一切捜査に係わらせるべきじゃないでしょう。

 そうした無罪の人間を敢えて有罪に持ち込もうとする捜査機関の人間を排除するため、前から思っていましたがこのような被疑者の無罪に有利な証拠を意図的に隠蔽しようとした警察、検察関係者に対しては、明確な罰則規則なり刑法を定めるべきじゃないかと思います。具体的には被疑者が無罪であることを示すような証拠を把握しながら隠蔽、廃棄した場合は懲戒免職、次第によっては懲役刑に課すくらいやるべきでしょう。
 恐らくこんなこと言ったら警察や検察は「現場の捜査員が委縮する」とか言いそうですが、こんなごく当たり前の行為をやれと言ってるのに委縮する時点でもう発想がヤバいとしか私には思えず、今後の冤罪を防ぐためにも、彼らの捜査の暴走を防ぐ罰則制度を設けるべきでしょう。

 冒頭の事件に関しても、警察は無罪と分かっていながら捕まえた男性を300日近くも拘留しています。約1年にもわたり自由が奪われるなんて、しかもそれが冤罪と分かっていながらやっていたと言え、これほど邪悪な人間を野放しにしていていいのかとすら私は思います。はっきり言えばそんな人間は死んでくれた方がマシで、さすがにいちいち殺すわけにもいかないだろうから、最低でも二度と捜査に係われないようにすべきというのが今日の意見です。

2025年9月6日土曜日

父権が喪失していった平成期

 前回記事でなんかやたらと心理学について書きましたが、このきっかけは前にも書いているように河合隼雄の「家族関係を考える」という本でした。この本は1980年に発売されたこともあり、ちょうど「積み木くずし」の時代に近いこともあって、家庭内暴力や不良化などで相談しに来る家族の話が多く書かれています。

 こうした家族について河合隼雄は、特に母親に暴力を振るう子供について、「家族内で絶対的な存在である父親には抵抗できないゆえに、そのそばの母親を代理の対象とする傾向がある」と言ったことを書いていました。ここで言っている内容について私自身も異論はなく、実際そんな感じで母親に暴力を振るったり、敢えて不良とつるんで反抗したりしていた人もう当時は多かったんじゃないかと思います。自分が親に中国まで持ってこさせて読んだ「積み木くずし」なんかまさにそんな感じだったし。
 と同時に、「今じゃこんな図式成り立たねぇだろうな」という感想も持ちました。理由は単純に家庭内における父親の権力というか父権、父性が極端に低下しており、そもそも家族内で「乗り越えるべき対象」にすらならないと思うからです。

 昭和から平成にかけての家族関係の変化としてはやはり核家族化がもっとも代表的だと思います。翻って平成から令和にかけての変化としては、私個人としてはやはり前述の父権の低下が最も大きな変化じゃないかと思います。
 昭和期においてもかかあ天下な家族もいたでしょうが、現代においてはもはやそれが一般化しているのか「かかあ天下」という言葉自体が若干死語になっている気がします。同時に、「家父長」という言葉もほとんど使われなくなっているうえ、男女差別を助長するなどとしてあまり使うべきでないとする風潮すら感じます。

 ではなぜ父権がそんなに落っこちていったのか。これはごく単純に社会における女性の地位向上に尽きにでしょう。特に共働きの世帯だと、父権の源泉ともいうべき「稼ぎ」が父親に限られなくなり、下手すりゃ母親の稼ぎの方が大きいケースも出てきて、家族を意に沿わせる材料はなくなったも同然です。その上で、母親に対しては家族内で求められる役割は現代でも多いと思いますが、父親にはそれほど多いとは思えず、「キャッチボールの相手」もなんだか今だと古風な感じすらします。
 その上で、父権を強めようものなら先ほども言ったように男女差別だと指摘される可能性もあり、家庭内で父親が主導権を発揮しようにもあらゆる方面から制限されているのが現代である気がします。恐らくこんな家族観、1980年代の人たちは想像もできなかったでしょう。

 そもそも前述の家父長という言葉自体もはや過去の物であり、これからは下手すら「家母長」みたいな言葉も出てくるかもしれません。

 こうした父親が家庭内で主導権を持てない環境に変化していったことでどうなったのか。中にこれが少子化の原因だという人もいるかもしれませんが私にはそこまで判断する材料がなく何度も得いませんが、少なくともいえることは「子供が畏怖する父親像」というものは完全に過去の物になったということです。これが子供の非行化に関係するかについて、私個人としては非行化が下がる要因にはなったんじゃないかと思います。一方で、「無気力化」の要因に係わってきている可能性もにらんでいます。

 そういう意味では平成における家族間の変化としてもう一つ、「子供部屋おじさん」という新語も誕生しています。これなんか今後さらに普及していって、当たり前になる概念になるかもしれません。核家族化した家族が核分裂しないまま続くとでもいうべきか。

2025年9月4日木曜日

やっと報告が出てきた川崎ストーカー殺人事件

 すでに報じられている通り、先日に自分が「いつ出るの?」と書いた川崎ストーカー事件の検証報告が本日出されたそうです。マジダッチの差だったので早く記事書いてよかった( ´Д`)=3 フゥ

 で肝心の検証方向の内容ですが、「本部長に報告するという制度が形骸化していたので、新しい報告監督制度を作ります」というものに見えますが、今の制度を守る奴が誰もいないんだったら、新しい制度も守る奴いないんじゃねというのが私の感想です。現行制度がきちんと機能していたらちゃんと防げたのであれば制度厳守を必達すればいいだけなのに、また新しい制度作ったからといって対策になるかと言えばそうじゃないのではという気がします。

 それ以前に、従来の制度はほかの事件ではちゃんと機能していたのかも気になります。はっきり言えば恐らくこの事件以外にも本来やるべき報告を果たされなかった例があるのではないかと思え、その辺はきちんと検証したのかという気がします。いわば類似ケースでの対応分析ですが、何となく分析していない、またはやろうと思ったけどみんな報告してなかったからやばいと思って隠したの二択な気がします。

 また問題であった点として捜査の初動対応を槍玉にしていますが、確か自分が覚えている限りだと、被害者が行方不明になったとに犯人の親族から犯人が殺したかもしれないという通報があったものの、この時も放置していたと記憶しています。ここに至れば初動対応に限るわけじゃなく、一貫して捜査不手際が貫かれたというべきじゃないかと思え、本当に反省しているのか怪しくこの報告の価値を疑います。

2025年8月31日日曜日

川崎ストーカー殺人事件の検証はいつ出るのか?

川崎 遺体遺棄事件 神奈川県警本部長“重く受け止めている”(NHK)

 多分もう忘れている人も多いのではと思いますが、今年5月に発覚した神奈川県川崎市のストーカー殺人事件について、発覚当時に捜査の不手際の検証を約束した神奈川県警ですが、発覚から3か月経過した今になっても未だ何も検証報告は出てきていません。
 過去の記事でも述べていますが、検証も何も事件発生当時(去年12月)に現場検証すらせず事件性なしと判断した警官、それを諾とした上司のあまりの低い能力以外に何が原因なのかと逆に聞きたくなるレベルの低次元な問題で検証するまでもないと思うのですが、やるっつった検証についてすら報告がないというのはいかがなものかと思います。


 上の動画は三週間前にフジテレビが配信した事件をめぐるドキュメンタリー番組ですが、発覚前からフジテレビはこの事件を取材していたようで、被害者家族の取材中に捜査にやってきた県警とも接触していました。

 この動画を見て少し印象が変わったのは、被害者の父親です。発覚当時に警察の捜査を激しく批判する姿ばかりが映像や写真として流れていましたが、私個人としては県警のひどい捜査によって娘が殺されたこともあり怒りを覚えるのも当然だと思っていましたが、中にはこの父親の態度を「被害者だからと偉そうに」、「元々粗暴な性格だったんだろう」というネット上のコメントが当時よく見られました。
 しかしフジの映像を見ると発覚前においては警察の捜査に苛立ちを覚えながらも、比較的冷静に粘り強く捜査を訴えており、娘の安否が気になる中で気丈に対応されているという印象を覚えました。前述の通り発覚後にああした批判をするのは当然だと思っていたものの、自分が思っていた以上に発覚前は重圧がかかる中で気丈に対応されていたのだと感じました。

 そんなフジの捜査中の映像によると、被害者が行方不明となってから数ヶ月後に新たにやってきた担当の刑事が家族から話を聞いた後、初動の担当者に対し電話で「現場検証を何故しなかったのか」という点を何度も聞いていたそうです。それこそ自分だったらこの時点で初動の担当者に殴りかかっていたと思うくらいの呆れた対応なのですが、結局がこれがすべてというか、初動の担当者があまりに無能過ぎたがゆえに事件発覚が大いに遅れた唯一の理由でしょう。

 にもかかわらずいまだに神奈川県警は検証報告をまだ出していません。はっきり言ってしまえば検証すると言いながら初めからやる気がなく、誰もがこの事件を忘れるのを待っているだけでしょう。ついでに言えば、初動の対応を誤った担当者への処分もこのまま一切しないまま放置する気だという気がします。
 自分は犯罪都市と呼ばれるマッドシティこと松戸市にまた住もうかと考えることはあっても、神奈川県と兵庫県、栃木県の三県に関しては逆に何が何でも住みたくないと以前から考えています。この三県はかねてより現地県警が度々不祥事起こしていることもさることながら、不祥事発覚後も「だから何?」と言わんばかりに居直り、もみ消そうとする傾向が強く、単純に治安面でこの三県には住みたくなく、それなら松戸のがまだマシだと思っています。

 まぁ松戸もそんな治安悪いわけじゃないんだけどね。一人じゃだめで二人以上じゃないとニュースにならない、バラシは月1ペースな尼崎とかには遠く及びません。

 私自身はこの時の神奈川県警の対応を記事にも書いたので結構根に持つというか定期的に思い出しては報告書はまだかと追いかけていましたが、フジテレビもこうして後追い報道をやっていたのは見直しました。先にも書いた通り前述の三県警は不祥事以上に不祥事発覚後の検証や対応に問題があるから嫌いで、この辺の事後検証をもっと社会が注目することこそ治安の改善につながるものだと信じています。

2025年8月19日火曜日

大学進学はもはや上流に入る条件にあらず

 先日書いた「中間層が消滅した日本」の記事で私は、日本にはもはや中間層と社会で認識される集団がほぼ存在していないと主張しました。これは中間層がいなくなったというよりは、それまで中間層と認識される条件となっていた終身雇用制やマイホーム観念が焼失したことによる影響が大きく、また中間層がそのまま下流層に落ちたというよりは、上半分を上流層、下半分を下流層が上下から吸収しただけで、社会における資産配分自体はそこまで変化はなくボトムダウンでみんな揃って貧しくなっただけじゃないかという見方を紹介しました。
 基本的な主張は以上の通りですが前回記事でこうした階層意識、そして古今から階層移動の重要手段とされた教育こと大学進学について、準備していたにもかかわらず触れるのを忘れていました。大体この手のネタは通勤途中の上海地下鉄の中で考えることが多く、家に着いた頃には大体忘れるのがよくない(;´Д`)

 そういうわけで大学進学ですが、昭和後期から平成初期の中間層を構成するかなり重要な要素だった気がします。というのも

・上位大学に入る
↓↓↓
・大企業に入る
↓↓↓
・結婚してマイホームを持つ
↓↓↓
・老後は退職金で老人ホームに入る

 というのが中間層の理想的人生とされ、中間層が中間層足りうる条件の大きな要素となっていました。しかし平成中期以降、就職不況で最初の上位大学→大企業のルートが閉ざされ、いきなりファーストステップでこける形となりました。そして令和となった現代、はっきり言えば自分の目から見て、学歴が持つその価値は年々低下してきているように見えます。

 そうはいっても大企業は学歴フィルターなどがあると言われ実際そうだと私も思いますが、かつてと比べると大学のブランド力だけで就職が有利になるということはかなり少なくなってきているように見えます。具体的にはようやく日系企業もジョブ型雇用を始めるなど、学生が持つスキルを採用で重視するようになってきており、今後この動きはさらに加速すると思います。
 実際はどうだかわかりませんが高専出身者も優遇されると聞いており、私が専攻した社会学や心理学など、産業に一切寄与せず余計なことを言って社会を惑わす学部の出身者は上位大学であってもあまり就職では有利とはならなくなるでしょう。っていうか自分の時代もあんま有利じゃなかった気がするし、実際自分でもこれら文系学部の出身者は役に立たない気がする(´・ω・)

 さらに続けると、日本の最高学府の東大そのもののブランド力も近年低下してきていることも、大学の学歴が中間層、ひいては上位層へのランクアップに寄与しなくなっている要因としてかなりデカい気がします。
 こんなこと言うと東大出身者に怒られるかもしれませんが、総理就任者の学歴を見てもかつては東大が常連であったのに近年はほとんどおらず、最後の人物もよりによって鳩山由紀夫氏だったりします。またかつてと比べ社会で活躍する東大OBもなんか減ってきているように見え、むしろ早慶出身者の方が目立つというか、私自身も大した人だと感じる人が多いです。逆に、メディアなどで知性や教養を一切感じさせられない発言や振る舞いをする東大出身の芸能人は増えており、東大の権威は年々落ちてきているように感じ、そのこと自体に東大も気づいていない気すらします。

 そもそもかつてと比べるとグローバル化で留学もしやすくなり、先端研究も大学より企業で行われることが増えてきているため、東大の存在意義自体がかなり揺らいできているのは間違いない事実だと考えています。昔は東大に入れば一流企業入りは確定、企業内でも出世が約束されてされていましたが、前述の通り今やその後のスキルの方が重要となってきており、東大の学歴だけで上流入りにとはもはや成立しないでしょう。良くて中流層入りと言いたいところですが、中流層の定義がほぼなくなった現代においてはそうも言えない、つまり下流として認識される可能性も出てきている気がします。

 こうした大学進学の価値喪失の背景理由としては、上記の東大ブランドの低下もさることながら、単純な大学進学率の頭打ちこそが最も大きいでしょう。すでに世代の過半数が大学に進学するほど普及しており、「大学進学=エリート」とはもはや言えません。採用する企業の側も大学生が溢れているので、もはや少数派となっている高卒と比較してそこまで優先して採用する必要もなく、より優秀な人を得るためには前述の通り学歴よりスキルを重視する方が有利に決まっています。

 最初に書いたように、大学進学は昭和から平成初期までは中間層、ひいては上流層に入るためにはかなり大きな条件の一つとされていました。しかし上記のような社会の変化を受けて今や上流層はおろか中間層に入るうえでもそれほど威力を持たず、現実に大卒でありながら自らを下流層と意識している人は少なくないでしょう。その点を踏まえると、階層を逆転する手段として教育が日本ではもはやあまり機能していないところがあります。

 それもこれも、日本政府が中間層を拡大しようと大学の定員を拡大した失策によるところが大きいです。結果的に、下手に大学に進学しなかった方がもっと幸福な人生を送れたかもしれない人をたくさん路頭に迷わせることになったと思うし、社会に求められていた技術系学部の定員などをもっと調整していれば、ここまで大学進学の社会的価値が日本で低下することはなかったでしょう。それ以前に、拡大しようとした中間層が消滅することとなる逆の結果も生まなかったでしょう。

 以上あまりまとまりのないことを書き連ねましたが、シンプルに一言でまとめれば「大学進学で社会で有利になる」という中間層を構成する重要概念が消失したことで、上流層と中間層を分ける定義もあいまいとなって、結果的に中間層の概念が消失することになったというのが自分の見方です。

 ちなみに中国も、今若干同じような動きが出つつあります。ただ日本の東大と違うというか、中国トップの北京大学の出身者に関しては自分が会った相手はいずれも優秀な人しかいません。
 一人例を挙げると、短納期で対応の難しい依頼を私にメールで伝えてきたため「無理!(# ゚Д゚)」とすぐ返事したら、「じゃあここだけやってもらえますか?」と、ギリギリ断り切れず、しかも何とか対応できそうな範囲だけを正確に提示しなおしてきました。その修正範囲のあまりの正確さと、依頼メールの丁寧で且つ断りづらい日本語での文面はすさまじく、後にも先にもメール文を見るだけで冷や汗をかいたのはあれきりです。

2025年8月17日日曜日

中間層が消滅した日本

 結論から書くと、かつて「一億総中流」と呼ばれた日本ですが、もはや中間層塔子という言葉は消滅したと自分は考えています。

 最も象徴的なのはほかの人も言っているように「クレヨンしんちゃん」における野原家こと野原ひろしの立ち位置です。連載当初でこそ中間層、さらに言えば自宅のローンに苦しむ中の下として位置づけられていたものの、現代においては上流層として見られるように変貌しました。ここで言う上流層の条件としては、

・正社員
・社内で肩書持ち(係長とはいえ)
・マイカー、マイホーム保有
・子供が二人以上

 ぶっちゃけこの条件揃えれば今の日本においては上流層として立派に扱われるでしょう。逆を言えば、最後の子供数を除くこの条件を一つでも満たさなければ、下流層として扱われることになる気がします。

 この中間層がなくなった背景ですが、恐らく大半の人は富の二極化こと上流と下流の乖離拡大が原因だと考えると思いますが私は逆で、上流と下流の差が狭まったがゆえに中間層が消滅したと考えています。そういうと上の条件でも少し触れていますが「昔は派遣社員なんてなかった」などと、現代の方が格差が広がっているという人もいるかと思います。
 ただ昔は確かに派遣社員はいなかったものの、その分日雇い職は今より多くありました。また努力じゃどうにもならない格差や差別も当たり前で、一例を挙げると昭和の頃は片親の時点で大企業の採用からは門前払いされていたのが当たり前でした。そのころと比べると、現代日本はまだ本人の努力で逆転できる余地も広いと思います。

 さらに加えるとかつては金利が10%近くあった時代もあり、定期預金だけで生きていける層も潤沢に存在しました。いわゆる不労所得で生きている人が当たり前に存在しましたが、現代でもアパート経営で暮らす人も多いものの、逆に騙されて資産取られる人も少なくありません。ただでさえ金利が0.1%も行かない時代なので資産だけで悠々暮らすのは難しく、実際には資産を削りながら働かずに暮らす人も少なくなく、そうした背景を考えると上流層の質というかランクはかつてより下がってきていると私は見ています。
 言うまでもなく失われた10年を経て下流層の暮らしも悪くなり、平均所得も大きく目減りしています。しかし前述の通り、この間に上流層の生活や資産の質もダウングレードしており、それらを踏まえると「ボトムダウン」というのが平成期における動きとしては一番適切だと思えます。

 そんな平成のボトムダウンを受け、かつての中間層からは収入減などを受けて下流に落ちる人がいた一方、それ以前の中間層の暮らしを維持できた人もいたでしょう。その結果、落ちた人は自分が下流と認識し、逆に維持した人は上流と認識するようになったことから、中間層という概念が消滅して上流と下流の二極化が起きたというのが自分の見方です。言い換えれば、上流も下流も、双方でその定義する対象範囲が広がった結果、中間層が上下から浸食されて消えたという考えです。

 またその定義の拡大に関しては、社会前提が崩れたことも大きいと睨んでいます。具体的には終身雇用制の崩壊とマイホーム意識の変化で、前者は言うまでもなく大企業が終身雇用制を完全に放棄し、「大企業に就職できたら一生安泰」という概念がなくなったことに加え、過重労働やパワハラの概念も出てきて将来に対する保障意識が弱まりました。
 これを受けてというかマイホーム保有の意識も、以前は一つの通過点的なものだったのが将来の収入が必ずしも保証されなくなって買いづらくなったうえ、大地震や建築偽装などの事件を受けて保有そのものにリスクが付きまとうようになり、私見ですが「持家派VS賃貸派」の議論は年々激しくなってきている気もします。

 かつての中間層の条件で非常に重きをなしたのがこのマイホームでしたが、マイホーム保有が絶対ではなくオプションに切り替わったことで、中間層そのものの概念が揺らいだと自分は考えます。この結果として社会上で自分はどの層に属すのか、またどの層を「中間」と捉えるのかが段々とあいまいになり、中間層の上流と下流への分化が進んだというのが私の意見です。
 ついでに書くと、家族の概念も変化というか崩壊したのも定義崩壊の一因でしょう。婚姻率低下に少子化で中間層のモデル崩壊に拍車をかけており、ぶっちゃけ現代では「結婚しているだけで勝ち組」という雰囲気すら覚えます。

 と、ここまでならそんな大した意見じゃないですが、この自分が社会でどの層にいるのかというのは政治意識、特に票取りで大きな要素になります。こうした資産をバロメーターにした社会意識の変化が地味に日本政治の変化の要因になってきているともにらんでおり、この辺はまた今度書きます。

 今日は熱中症の頭痛ないからちゃんとした記事書ける( ´Д`)=3 フゥ

2025年8月12日火曜日

甲子園、宝塚、ジャニーズという聖域

【疑問】広陵高校校長「寮に爆破予告があったから辞退します」→寮に生徒を戻す(ガハろぐ)

 相変わらず燻り続けている広陵高校の事件ですが、上のツッコミの通り寮に爆破予告があるっていうのに生徒を寮に戻す当たり如何にこの学校の運営者がクズなのかが見て取れます。ただ甲子園常連校は広陵に限らず多かれ少なかれリンチや隠蔽は当たり前ですが、一部でも指摘されている通り、大手メディアはそれらに対し一切報じません。

 一部報道によると、今回の広陵高校の事件被害者は新聞メディアにも接触していたものの、各社ともに対応こそすれど記事化は見送られていたそうです。朝日新聞に至っては、対応すらしなかったということですが、ほかのいじめ事件は取り上げるしいじめはよくないというのにこういうダブルスタンダードはやっぱどうかなと誰もが思うことでしょう。
 その報道姿勢のダブルスタンダードと言えば近年最も大きく騒がれたのがジャニーズ事務所の事件で、この事件について大手メディアは自戒を込めた発表を出しています。もっともどうせ口先だけで中身のない反省だと私は思っていましたが、この広陵の事件を見ていても自分の見立てに狂いはないと言い切れます。またこっちはちょっと古いですが宝塚歌劇団の自殺事件に関しても、あれだけニュースになるネタながら大手メディアの報道姿勢は非常に慎重だった気がします。

 元メディア関係者の自分に言わせると、ニュースメディアというのは倫理観以前にそのニュースが大衆に注目されるかどうかで報道するかしないかを決めるべきであり、それ以外の要素を考えること自体がナンセンスです。大衆の知りたい欲望を叶えることを突き詰めることでかえって報道というのは消化されるものであり、ジャニーズ事件など誰もが注目するネタを持ちながら放出しないというのは愚の骨頂です。
 もっとも、上記の姿勢は報道は真実を前提にして虚報を流してはならないというのが大前提です。ぶっちゃけこの二つさえきちんと守れば、若干のプライバシー侵害も自分は無視してもいいと思います。

 話を戻すと、改めて考えるにつけ甲子園、宝塚、ジャニーズというのは報道における一種の聖域であるように思います。この中でどんないじめや性犯罪が行われようともメディアは必ず黙殺してくれるので、中で権力もつ人間としては非常にやりやすいでしょう。もっとも平成から令和にかけてこうした聖域が徐々に弱まったことでどれもスキャンダル化しており、甲子園も今後人気が下がっていけばより聖域の力が失われるのではないかという気がするし、私自身もその方がかえって日本の野球界にとってもいい結果につながると信じています。

 その上で上記以外にも日本にも聖域はあるのかと少し考えたところ、天皇家に関しては言うまでもないのですが、それ以外だとパナソニックやニデックなどの一部大手企業が当てはまるような気がします。どちらも社内外パワハラのきついことで有名ながらどのメディアも一切報じず、なにも知らない学生がクリーンな会社だと思って入ろうとする悪循環が続いています。
 私はかねてより情報というのは公開されれば公開されるほど世の中は良くなっていくという心情を持っており、そうした立場からももっと社会中で情報はオープンであるべきだと思います。逆に、変にクローズドにすることでデマが入り込む余地が生まれるだけに、メディアも余計な忖度せずみんなが注目するネタは周りを気にせずどんどん暴露していってもらいたいものです。

2025年8月9日土曜日

広陵高校事件はいじめの重大事態として届けられているのか?

 阪神の久保田元選手みたく連投となるこのネタですがふと今回の案件について、いじめの重大事態として学校側は届け出ているのかという点が気になりました。

 いじめの重大事態についての説明は省きますが集団での暴行やら退学に至った点などと言い、今回の案件は確実にその認定条件を満たしていると断言できます。軽く調べたところ、いじめの重大事態については教育委員会や文部科学省に届け出ることが義務付けられているのですが、仮に届け出られていなかった場合、学校側が隠蔽を行おうとしたと判断するしかないでしょう。

 この点について広陵高校側の発表を見よても確認できず、報道を見ていても誰も言及していないというかメディアの人も気づいていない節があります。ぶっちゃけ学校側の責任判定を左右する重要な点だと思え、もし報告していなかったら前述の通り隠蔽、報告していたとしら何故それで甲子園を辞退しなかったという話になります。
 また広陵高校同様、高野連もいじめの重大事態を知っていたかどうかで責任が問われるでしょう。事前にくぎ刺す上でも、野球部内でいじめ重大事態があった学校はどうするのか、今のうちに聞いておく方がいいのではという気がします。そもそも論ですが、果断に出場取り消しを決断できなかった高野連も今回の事件ではその責任が重い気がします。

2025年8月7日木曜日

広陵高校野球部はこの際廃部にすべきでは?

「広陵はなぜ辞退しない?」「夏の甲子園はもう限界」開幕早々、批判が“Xトレンド入り”の高校野球…“ネットのおもちゃ”となった必然(東洋経済)

 本当は書くつもりなかったものの、上の記事のようにみんな「なぜ辞退しない?」とは言うものの、私のように「なぜ廃部にしない?」と言わないのかが不思議なのでこうして筆を取るというか腱鞘炎に痛む両手を使ってキーボード叩いています。


 騒動の背景についてはもういちいち触れませんが、上のまとめ記事にもある通り、広陵高校では長年にわたり「ブッチ」、「闇娯楽」と言われる集団リンチ行為がミャクミャクと受け継がれているそうです。これは上の記事の証言者のみならず複数のOBが共通して証言していることからも、その真実性について疑う理由は見当たりません。

 何気に自分の祖父も甲子園の理事やってましたが、そもそもの前提として甲子園というのは野球を通した青少年教育を目的に行われるイベントであるはずです。しかし今回の暴力事件を含め、ほかのスポーツでもそうですが運動部内でのいじめや暴力事件はかねてから後を絶たず、その甲子園の教育目的とは真逆に暴力性をはぐくむ温床となっているように見えます。特に問題なのが生徒同士であれば個人の行動ととれる節もあるものの、コーチや教師がそうした暴力行為を黙認する、それどころか率先してしごきを行うなどして助長する例も枚挙に暇がありません。学校側も生徒を呼び集められることからこうした運動部でのいじめや暴力事件に見て見ぬふりすることが多く、ここまでくると「教育って何?」って言いたくなってきます。

 その上で今回の広陵の事件についてですが、OBらの証言によるとリンチともいえる集団暴行事件は血まみれになる生徒がいても教師を含め誰も問題視せず放置されているという熾烈さもさることながら、こうした行為が長年にわたり続けられていて広陵では完全な伝統となっていると感じます。
 現オリックスの福田修平選手のみがその在籍時に、自分がターゲットになることも恐れずこうした暴力行為を終わらせようと努力していたものの、その後こうして復活しているあたり、たとえ今回の騒動で一旦はおとなしくなったとしても、その後再び行われるようになる可能性が高いとしか言いようがありません。

 そもそもこういったことは学校側が見張ってやめさせなければならないのに、広陵野球部の監督も学校側もどこか他人事というか、騒動に対し「やることやってます、何も問題ありません」と言わんばかりな無責任に感じる態度しかとらないあたり、暴力の根絶を彼らに期待するのは不可能だと断言できます。
 その上で、こんな暴力が蔓延する教育機関なんてそもそもあってはならないし、子供同士が激しく傷つけあうことが伝統になっているという歪さは異常な狂気としか思えず、あらゆる手段を使ってでも即撲滅しなければならないと思います。その手っ取り早い方法となるのは単純に野球部を廃部することに思え、ほかの学校でだっていくらでも野球部はあるのだから、広陵高校の野球部なんてとっとと廃部にすればいいと考えます。

 本音を言えばこれほどの暴力行為を長年にわたり放置してきた広陵高校という学校こそが最も責任が重いように思え、廃部と言わずこの学校を廃校にしてしまう方が後の世のためになると確信しています。ただいきなり廃校というと抵抗強いので、廃部、さもなくば廃校という感じで迫るべきじゃないかと思います。っていうかこんな学校、そもそも教育機関を名乗るべきじゃないでしょう。

2025年7月20日日曜日

プライドを捨てられるのもまた能力

 今朝、毎晩使っているアイマスクを手もみ洗いで洗濯したら、めっちゃ手がヌルヌルになってビビるとともに、最近覚えたての「ヌル女2」という単語が頭に浮かびました。元ネタは漫画、アニメ、ドラマともにすべて見ておらずこれまで全く興味もなかったのですが、この癖強ワード知ってから俄然興味が湧いており、日本に行ったときに漫画喫茶で読もうかなと考えています。スクエニの単行本って、どれもページ数薄いわりに価格高いからあまり買いたくないし。

 話は本題ですが密かに大した人だと一目置いている人物に、宮崎謙介氏がいます。ほかの誰でもなくあの宮崎氏で、衆議院議員となるも奥さんの出産育休中に不倫し、なんか去年行われたクズ-1グランプリでもトップを飾ったあの宮崎氏です。一体何故自分が彼に一目置いているかというと、上記のクズ-1といい、プライドを捨てきって汚れ役を自らやっているからです。

 よく一度独立して社長職を経験した人は、その高まったプライドから事業が失敗しても一サラリーマンに戻れないという話をよく聞きます。宮崎氏も一度代議士という高い地位についていますが、あくまで日系メディアの報道などを見る限りだと、現在では不倫のニュースが出るたびにコメントを出して「お前が言うな」というツッコミを受けるキャラをよくやっているそうです。
 こと女性関係において彼がクズなのは間違いないことですが、議員という高い地位にかつてついていながらこうしてプライドを捨てきり汚れ役になれるというのはなかなかできないことだと思え、その精神的なタフさというかずぶとさに関しては近年見る中でも特段優れているように見え、一目置くようになりました。

 昨日書いた記事で私は、その死に衝撃を受けた人物として中川昭一と永田寿康を挙げました。両人ともにエリート街道を突っ走っていたものの不祥事をきっかけにものの見事に転落し、永田に至っては精神を病んで自殺し、中川に関しては自殺ではないもののストレスが原因とみられる急死をしています。
 両名ともに高い知名度と人脈があり、特に中川に至っては落選したのは明らかに逆風な選挙であり、次の選挙ではまた再選が期待される立場であったにもかかわらずあのような亡くなり方をしました。はっきり言えばどちらも自分のプライドに殺されたように見える死に方で、もう少ししぶとさというかずぶとさがあればああいう結果にはならなかったように見えます。

 少なくともこの二人より激しく糾弾されていた鈴木宗男氏だって、ああして議員に返り咲いているのだし。まぁこれはムネオがタフ過ぎるだけな気がしまうが。

 何も政治家に限らずとも、プライドの高さというのは古今東西における自殺において間違いなく大きな要因です。基本、プライドが低ければ低いほど自殺し辛くなり、高いほど何かのつまずきをきっかけに自殺へ走ってしまいます。そういう意味では自殺の予防というか防止に関しては、一度高めたプライドを捨て去る、具体的には余裕のある状態から転落しても、泥水すすってでも這い上がろうとする力が求められるものだと思います。

 この点でさっきの宮崎氏なんかまさに典型で、自らクズ代表として露出する当たり只者ではありません。また経営者の中で自分が最も尊敬する日清食品の安藤百福も、二度も破産しながらも心が折れず、インスタントラーメンで見事再起を果たしています。

 よく子供の自殺対策としてこうした方がいいという教育法がたくさん挙げられたり取り入れられたりしていますが、自分は自殺対策としてなら、こうしたプライドの捨て方や逆境からの這い上がり方を教えるのが最も効果的だと思います。しかし後者に関しては、むしろ今の日本の教育は「如何に失敗しないように生きるか」しか教えず、失敗した後のリカバリ方法や立ち直り方は逆に教えられていない気がします。言い方悪いですが、こうした教育の仕方だから子供の自殺者増えてるんだと私は思います。

 そういう意味では真の自殺対策、そして本当に精神の強い人間を育てるうえで、宮崎謙介氏をもっと見習うべきじゃないかと思うわけです。といっても、前述の通り女性関係に関してはこの人本当にクズで、奥さんが聖人過ぎるからまだやってこれている面も多いだけに、単純に見習えと言い切るのも少し考えものです。
 ただ、こと自殺対策に関してはかなりいい模範なので、政府もアイドルとか使うんじゃなくて「いろんなことがあっても、楽しく生きています」といったキャッチフレーズとともに宮崎氏を自殺防止傾圧ポスターに使えばいい気がします。ぶっちゃけそんなポスター見れば、日常の悩みも「こいつに比べりゃ大したことねぇな(´・ω・)」と思えてきて一般人にもプラスになるようにも思えます。

2025年7月3日木曜日

コロナ禍以降に陰謀論者が増えた背景

 昨日の記事で大学を卒業したか除籍されたかを区別できない人はいないみたいに書きましたが、記事書き終えた後で出身学部を聞かれて「立教野球部!」と答えた故長嶋茂雄ならもしやと思うところがありました。


 今日たまたま上の記事を読んだのですが、これを見てちょっと思うというかある仮説が浮かんできました。

 記事の内容自体は選挙期間中、世論を誘導しようしないように報道を控える傾向にあった新聞やテレビなどのオールドメディアに対し、SNSでは選挙や候補についてあることないこと報じまくり、それらに対してオールドメディアが黙っていることから陰謀論を信じる人が増えたといったことが書かれてあります。この点について筆者は、選挙期間中でももっとメディアは発信すべきだし、記者も主観的意見をもっと述べたほうがいいと書いてあり、この点について私も同意します。
 というか読者の側としては情報の最前線にいる人がどう思っているのかを聞きたいわけで、変に遠慮して差しさわりのない事実だけ報じられても困るといった感情を持つものだと私は思います。無論、ジャーナリストが自分の意見を流行らせようなどと言う野心をあまり持つべきではないものの、どう見てもおかしい、矛盾があるような発言に対しては「こりゃおかしいだろこいつ」的に、個人的見解と踏まえた上で発信することも必要だと思います。

 この辺、JBpressでは記者というよりコメンテーターというポジションを選び、自分の主観的意見も良く載せていました。自分の実感としては、やはりそういった主観的意見を読者も評価してくれたのではないかと思っています。

 話を戻しますがそんな一時期はやたら批判していたプレジデントの記事(実際、6年くらい前はヤバい記事が多かった)を読んで、陰謀論がコロナ渦以降に増えた背景というのは明確な根拠があるのではということに気が付きました。
 これも主観的意見と取られるかもしれませんが2020年のコロナの流行以降、明らかに日本国内で陰謀論が力を増したと私は考えています。具体的には反ワクチン運動や上の記事にもあるようなディープステートとかで、これらと比べるとHAARPなんて全然かわいいもんだったと思えて仕方ありません。っていうかこの単語、まだ覚えてこういう風に使っているのも自分くらいでしょう。

 このコロナ以降の陰謀論に関しては、コロナによる外出制限や他人との接触不足などコミュニケーション不足を原因とする指摘をよく見ます。これらも確かに影響してはいると思うのですが、だったらかねてから引きこもり層に陰謀論者が多くなるはずで、今問題となっているように家族のある人たちが陰謀論にはまって家庭を崩壊させるなどの状況を踏まえると、ちょっと違うような違和感を前から思っていました。
 じゃあ何が原因なのかというと端的に言えば、これまでネットにあまり接触してこなかった人が接触するようになったことが、最大の要因じゃないかと思います。

 この思い付きのきっかけは、以前にある信仰を持つ高齢の方から聞いた話です。なんでも、その仏教系の団体ではコロナ流行期に読経会も制限されるようになり、代わりにオンラインでの読経会が開かれるようになったそうです。するとそれまでスマホすら触ったことのなかった高齢者をはじめとする人たちも、このオンライン読経会に参加するために必死で操作を覚えるようになり、今ではオンライン会議の招集から設定、さらにはSNSまで自在に駆使するようになったそうです。

 ここまで極端な例でなくても、コロナ以降に対面回避のため様々なオンラインツールが社会に普及するようになり、それまでネットと縁のなかった、または使っていてもごく限られた機能しか使わなかった人たちが一気にネットの使い方を覚え、習熟したという事実は間違いないと断言できます。しかし、コロナ以前からネット利用に慣れた人と比べると、こうした層はネットリテラシーに疎いままネット上の情報に触れるようになったのでは、というのが今回の思い付きというわけです。
 つまり、ネット上の情報をデマかどうかを判断できるほどネットリテラシーがなかった人たちは、以前はネットそのものをあまり使ってなかったため影響を受けなかったものの、コロナをきっかけに使うようになってデマ情報に触れるものだからそれを鵜呑みにしてしまい、結果的に陰謀論を信じる人が増えたのではというのが、私の見方です。

 このように考えるのもネットがサービスを開始し、2ちゃんねるが影響力を持ち始めてた2000年前後も、結構似たような状況が起きていたということを思い出したのもあります。あの当時は今以上にアングラな雰囲気があり、表に出ない情報が2ちゃんねるとかでは書かれていると信じ、陰謀論者になる、身内受けしかしない情報に染まる人間が結構多くいたように思います。なんでそうなったのかといえば単純にネットリテラシーが低かったとしか言いようがなく、情報の検証や判断が全くできず、過激な意見ほど耳を傾けてしまう人が多かっただけです。
 多かれ少なかれ、どの人も最初にネットを使い始めたころには似たような体験がいくらかあるのではと思います。

 その上で話を戻すと、コロナ以降に陰謀論者が増えたというよりかは、陰謀論に抵抗力のない人もネットを使うようになったというのがより現状に則した見方じゃないかと思うわけです。最初のプレジデントの記事を見て、そこに出てくる陰謀論を信じる人も単一の情報ソースに依存しているように見え、複数の情報ソースを比較、検証はおろか、そもそも検索すらおぼつかないように見えますし。
 さらに言えば、コロナ以降に陰謀論に染まった人というのはやや年齢層が高い人が多いように思え、この点もそれまでネットに触れることが少なっかた層じゃないかと思う要素です。楽観的な意見を述べれば、今後もネット利用を増やしていけば自然とリテラシーも高まり、「あの頃は若かった」的に思い直してくれる可能性もあるため、ある意味で今くらいが陰謀論のピークで、もうしばらくしたら徐々にこの手の人は減ってくんじゃないかと思います。戻ってこれない人は何人かいるでしょうが。

 にしてもこの点を考えると、今後は中学生くらいのネットを使い始める子供がこうした陰謀論に一時的とはいえ染まることが増えてくんだろうなとも思います。中二病的に早いうちにイタイ体験してもらってリテラシー積んでもらうのもベターですが、こうしたリテラシー教育も今後学校とかでしてかなければならないと考えると、なんか教育が難しくなった時代に入ったとも思えてきます。

2025年7月2日水曜日

伊東市長の学歴詐称について

学歴詐称疑惑の市長が会見「大学に確認したら除籍になっていた。戸惑っている。選挙中に卒業したと言ってないので公職選挙法違反ではない」(ガハろぐ)

 詳細についてはいちいち説明しませんが、学歴作業疑惑の出ていた伊東市の田久保市長がようやく認めました。もっともこの期に及んでも除籍されたのを卒業と思い込んでいたとすぐわかる嘘をついているあたり、この人がカスであることは明白です。「うそつきはプーチンの始まり」とも言いますが、こんなしょうもない嘘をつくあたり絶対に権力もたせちゃダメな人間なのですが、こういう人間が選挙で受かってしまう現状自体が一番問題である気がします。

 ちなみに学歴詐称という自分が真っ先に浮かんだのはサッチーこと野村沙知代で、この人の時は逮捕収監まですぐ行ったのですが、今回の田久保市長についても反省がない当たりさっさと捕まえて下ろした方がいいんじゃないかと個人的には思います。ってかそれ以上に気になるのは除籍理由で、学費未納とかならまだしも何かしらの事件を起こしての除籍であれば話はこんなもんじゃすまないでしょう。

 それだけに、恐らく絶対しないであろうけどこの人に反省の意思があるなら除籍理由を話すべきであり、話さないのであればメディアは除籍理由を必死で追うべきでしょう。ぶっちゃけ、話そうとしないなら適当な憶測でも記事流していいと思うし、それを否定しようとしてもこの人の場合は既に現在進行で嘘ついているから、誤報流したって許される気すらします。どちらにしろ、繰り返しになりますが権力もたせちゃいけない人です。

2025年6月30日月曜日

STOP!時間泥棒('Д')

 去年の夏にあまりの暑さから家にいたくないため週末に映画館に通う出して以降、映画館に足を運ぶ機会というか頻度がめちゃ高まりました。おかげで店員のおばちゃんに顔見ただけに「あいよ、コーラね(^_-)-☆」と言われるほどにもなってます。
 ちなみによく行くカレー屋でも自分が店に入るやおばちゃんが別の店員に、「こいつは野菜カレーだ」とつぶやいてきます。で、案の定野菜カレーをいつも注文します。

 話を映画館に戻すと、自分が言っている映画館では上映時間になるとまず映画館がある商業施設に併設されたマンションの宣伝動画を見させられます。この1年くらいずっと流しているあたり、ずっと完売してないんだろうなってことがわかります。
 そのマンションCMが終わると今度は、戦闘機や戦車、火砲の映像の映像とともに、「強い軍がわが国にはある!」という、中国の国威発揚動画を見させられます。毎回同じパターンの映像を見させられて正直飽き飽きしているので、もっと別バージョンも作れよと中国には言いたいです。

 以上、二つの動画を見終わってからようやく映画本編が上映されるのですが、この二つの動画が流れる時間は大体1分半程度なので、そんなストレスなくいられるというかすっと目当ての映画に移ってくれるという印象があります。というのも日本の映画館だと説明するまでもないですが、別の映画作品のCMを数本見させられた挙句、「auなら割引クーポンが……」と、正直かわいくもないしストーリー仕立ても悪いと思う携帯クーポンの宣伝、そして「STOP!映画泥棒」の海賊版に対する注意喚起パントマイム動画を立て続けに長々と見させられます。
 きっかり時間測ったてるわけじゃないけど、なんかいつも10分くらい見させられているような感じでげんなりさせられます。

 多少広告が入るのは仕方ないとは思うものの、それにしても日本の場合はちょっと長すぎるというか、早く映画を見たいというのにそれをあざ笑うかのようにくそどうでもいい動画を見させられるのはいい気分しません。っていうかこうした動画なくせば上映時間をかなり短縮できるように思え、回転効率も高められるし、また来館者も短くなった時間を別に有効活用できるということを考えると、あの手の上映前クソ広告動画は時間泥棒じゃないかと言いたくなってきます。
 第一、海賊版の撲滅を訴えるならあんな見飽きたパントマイムなんかせずとも文字表示などで5秒くらいで済むだろうと思えてなりません。余計なクリエイター心なんて発揮せず、もっと社会の時間を有効に活用しようという意思を日本の映画館、映画会社は見せてもらいたいです。

2025年6月14日土曜日

高校無償化と給食費についての懸念と疑問

「器が大きく、相対的に小さく見えてしまった」 給食の主菜が唐揚げ一つだけだった件で市教委が釈明(ガハろぐ)

 上のまとめ記事はどちらも直近の日本の小学校における給食事情を取り上げたもので、特に前者はおかずがから揚げ1個と、学生時代の私より貧しいメニューにしょうもない言い訳を福岡市がしてきたという話です。この言い訳からわかることは、福岡市の人間は無駄にプライドが高く論理性がないということくらいです。

 話は戻しますがこうした小学校の給食の貧しさについては昨日今日の話ではなく、何年も前から「最近少なすぎる」という話を聞いています。よく刑務所の食事と比較して「受刑者の方がいいもの食ってる」などと書かれていましたが、その比較が行われた数年前よりも上のから揚げ1個の方が少なく、なんか前より状況が悪化しているような気がします。

 またこれに関連してか、なんかここ数年で給食配食事業者の経営難ニュースも見ることが増えました。確か2年くらい前は高校の寮などに配食していた会社が突然倒産して、配食先の学校で急に食事を提供できなくなったというニュースがあったと思います。この突然の倒産に経営者は、キャッシュ・フローの厳しい状態のままで無理くり経営し続けていたが限界を迎えたためなどと話していました。
 この時の配食事業者の破綻について、学校などの契約料金に問題があったのでは、事業者を安く買いたたき過ぎではという同情する意見も当時見られました。これについて私は逆にそういった同情はせず、経営が成り立たないなら料金引き上げをもっと交渉すべきだったし、そうした交渉ができなかったのは契約を打ち切られる可能性があって言い出せなかったと話してはいましたが、突然配食をストップして多方面に影響を及ぼすよりはずっとマシだったろうと感じ、厳しい言い方ですがこの経営者も問題があったと感じました。

 上記の、「契約料金が安すぎて経営が苦しい」という配食事業者の主張に対する見解は今でも変わりはなく、公立校なども競争入札で業者を選定する必要があるため、苦しいのなら経営改善をするか事業撤退、譲渡も検討すべきという立場を維持しています。ただそんな上から目線なこと言う私ですら最近の米価高騰は警戒しており、その上がり方も急だったことから配食事業者は今どこも大変なのでは、何かしら支援が必要なのではないかと心配しています。
 それこそ徐々に上がるのならともかく、1年ちょっとでこんな風に上がったら企業も対策なんて取れるはずもないでしょう。以前ならともかく今の状況なら「経営が苦しくてやばい」という主張も至極納得でき、また経営者の努力ではどうにもならないと感じます。

 あくまで憶測ですが、最初のから揚げ1個の給食もこうした最近の米価を含む食材の急騰を受けての予算不足が原因ではないかと疑っています。仮にそうであれば緊急的に給食費の引き上げや予算の拡大をしてでも給食の充実化を図るべきで、こういったところにこそお金を優先的に使うべきじゃないかと思います。
 然るに最近は高校無償化が新たに始められ、そこへ予算が投入されます。また選挙前の愚民政策よろしく一時金支給も発表されましたが、私はこの一時金を今からでも遅くないから全部小中学校の給食費補填に使い、給食の充実化、配食事業者支援にこそ活用すべきじゃないかと思います。結果的にこれで地方財政も救われる点があるだろうし、公平性の点でも決して不公平じゃないと考えます。何が言いたいかというと、高校無償化と言って教育費を拡大したと言いながら、別のところで空洞ができてたら意味がなく、きちんと固めるべきは足場なんじゃないかっていうことです。

 蛇足ですが、何故米や農家に対してこれほど政策を投入するのかと某元経営者とか批判してましたが、やはり食糧というのは安定を必ず維持しなければならない分野であり、工業などよりも補助金使ってでも対策打つのは当然だと私は思います。さらに言えば日本人にとって米と醤油は存在意義にも係わる重要要素であり、江戸時代でも同様でしたが米価を制する者こそ政治を制すものです。