ページ

ラベル 社会のはなし(・∀・) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 社会のはなし(・∀・) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年12月19日木曜日

やっとナベツネが死んだ

 故人に対してこういうのもなんですが、読売新聞主筆のナベツネこと渡辺恒雄の逝去報道を見て「やっと死んだか」という感想が真っ先に頭をもたげました。

 こんなこと言いながらだと信じてくれないでしょうが、彼の記事は昔読んだときはその迫力の強さに驚き、ライターとしては間違いなくとんでもない実力者だとかねてから感じていました。しかし一個人として見た場合、特に彼のプロ野球界で行ってきた行為を振り返るとそのすべての方針なり施策は日本のプロ野球人気を落とし続け、自前の巨人ですら人気を貶めていたとすら感じます。そもそも記者が書いた記事によってではなくそうした活動で名前が知られること自体が本末転倒だと私は思っています。

 振り返ると平成初期から中期にかけて、Jリーグ発足によるサッカー人気に食われたという点もあるものの、この時期に日本のプロ野球人気、市場規模は右肩下がりでした。この間にオーナーという立場で好き勝手やってきたのがまさにこのナベツネで、特に逆指名制度こと希望入団枠の導入は廃止した今になって誰も再興を望まないあたり、完全な失敗だったように思えます。
 また20年目の節目ということでこのところよく取り上げられている2004年の近鉄球団売却に伴うプロ野球再編騒動においても、ナベツネは10球団1リーグ制を主張していますが、現在のパリーグの隆盛ぶりを見るにつけ先見の明がない方針だったと言わざるを得ません。

 なおその再編騒動において当時選手会長の古田氏への「たかが選手発言」に関して、これがナベツネの失墜要因になったという声をたまに見ますが、私自身は当時を思い出すにつけかねてから暴言の多い人物だっただけに何も驚かなかったし、元から反感も持っていたので新たに反感を覚えることもなかったです。
 むしろ同年に発覚した一場事件こと学生選手への栄養費を渡していた事件の方が、野球界におけるナベツネの影響力低下で大きな役割を果たした気がします。ちなみに当時に各球団が一場氏に出した金額は、

チーム金額
巨人2,000,000
横浜600,000円
阪神250,000円
広島2,000円

 という、広島の桁違いの金額ぶりに逆に驚いてました。

 話を戻すと、昭和の若いころの活動はあまり知りませんがこと平成期においてはナベツネはプロ野球界のガンそのもので、彼がいなくなってからというものパリーグ人気は高まり、黒字球団は巨人と阪神しかなかったのが今やほとんどの球団が当たり前のように黒字化を達成するようになり、そして選手もまた米国代表にすら負けないしメジャーでも活躍する選手を何人も排出できるようになるなど、あらゆる方面で拡大を続けています。別にナベツネ一人の責任だと私も思ってるわけじゃないですが、プロ野球界にとってはいない方が絶対マシだった人物ではあると断言できます。

 そういや書いてて思いだしたけど、第一次政権の原を追放したのもナベツネだったな。最終的にはその後の、「加藤の乱」と並ぶ平成二大反乱に勝手に入れている「清武の乱」で完全に止め刺されましたが。
 ちなみに自分はよく「いい人ほど早く死に、悪い人ほど長生きする」と話してますが、この例にナベツネをよく使ってましたが、これからはまた別の人間探さないといけません。

2024年11月26日火曜日

Yahooショッピングとタオパオの情報共有疑惑

 先日、ふと一式戦闘機こと隼のプラモが欲しくなり、中国で手に入らないかタオパオで検索してみました。しかし検索で出てくるのはスズキ・ハヤブサとか「ファイティングファルコン(中国語名:戦隼)」ことF-16の模型ばかりで、自分の望む隼はとうとう出てこず仕舞いでした。
 それから大体二週間くらいたったころ、Yahooのポータルサイトを開いたところサイト右下にある広告欄にYahooショッピングが映り込み、そこでなんとおすすめ商品として隼のプラモが表示されていました。正直面くらうとともに、「何故?」という疑問が強くもたげました。

 というのも私はこれまで隼についてYahooで検索したことはなく、そもそもYahooショッピングすら一度も使ったことがありませんでした。にもかかわらず何故ダイレクトに隼のプラモをお勧めに挙げてきたのか、自分の知らないところで日本の成人男性の間で空前の隼ブームでも起きているのかと一瞬疑いましたがそんなの「永遠のハヤブサ」なんて小説でもヒットしない限りありえないでしょう。
 となると考えられるのは、Yahooショッピングとタオパオは顧客情報を共有しあっているのではないかという疑念です。結構笑えないというか、こうしたマーケティングデータの共有はかなり幅広く行われていると言われ、ビジネス的にも企業側にもメリットが大きいという点です。しかし私自身はタオパオにしろYahooにしろ、自分の個人情報を他社に共有することを許可した覚えは一切ありません。

 この点、日本は知らないですが中国では個人情報保護法というのがあり、結構厳しく規制されています。国が個人情報を一切許可なく吸い上げるのは中国では全くおとがめはないですが、企業がこの手の個人情報を取り扱うにはいろいろ手続きがあり、退会手続きなどの情報もわかりやすいところに表示するよう義務付けられています。無論、取得した個人情報を許可なく第三者へ提供することはご法度です。

 私自身は同じ企業グループ内でこの手の個人情報を共有することは、ビジネス的にも仕方ないかなと考えてあまり気にしていません。しかしこれが第三者となると話は別で、それこそ犯罪組織などにわたる場合、高額な商品を購入している人の情報なんて流行りの強盗のターゲッティングに使われる恐れがあるだけに、規制して当然だし、そもそも無断でそんなことやるなと言いたいです。
 そういう意味で上記の疑念に関しても割と真剣に見ており、実際どうなのか確認したいとも考えています。

 仮にタオパオを使用した同じPCならば、ブラウザなどから情報が抜き取られていたという可能性も考えられます。ぶっちゃけこれもアウトっちゃアウトですが、可能性としてはあり得ます。
 しかし今回の私のケースではそれは当てはまりません。というのも隼がおすすめ商品として表示されたのは会社で使っている業務用PCで、そのPCではタオパオは一切使ってないというか、そもそもアクセスできないように設定されているからです。その会社PCではYahooアカウントを接続してメールなどを見ていたりはしますが、タオパオとの接続は一切ないにもかかわらずお勧め商品にかなりニッチな、タオパオでしか接点のない商品が出てきたから深く疑問に思っているわけです。

 そこへきて昨日、疑念が確信に変わったというかまたおすすめ商品にハニカム座布団ことゲルクッションが突如また表示されてきました。それもまた会社用PCに。
 これもまた私がタオパオで検索していた商品で、割とケツに重心かけるために座布団がすぐケツ型の跡ができるため、なるべく変形しない低反発の座布団を1週間くらい探していました。最終的にはやや硬めの素材を使った座布団を購入して今も座っているのですが、購入候補というかタオパオではこのゲルクッションがたくさん表示され、「こういうのもあるんやな」と眺めていました。

 先ほどのハヤブサといい座布団といい、一体何故タオパオで検索した商品を悉く私におすすめ商品に表示してくるのか。最初は記憶ないけどプライベートPCでGoogleとかで検索していたかもしれないと思い、Googleとの情報共有を疑いましたが、タオパオで検索して大体1~2週間くらいでダイレクトに表示してきた辺り、やはりタオパオとの共有の方が可能性として高い気がします。
 この辺、王の面倒くさいのでどっかのメディアに情報売ってもいいですが、先にYahooあたりに一回くらいは聞いてみようかと思っています。さすがに自分の商品購入情報を知らないところで共有し、変な風におすすめとして表示されるのは気分がよくないです。

 それ以上に、自分の個人情報持ってるなら何故アッシマーをおすすめに出さないのか。日々「飛ばないアッシマーはただのアッシマーだ」をスローガンに生きている自分にアッシマーをおすすめしないなんて、逆に馬鹿にされている気がして腹立ちますヽ(`Д´)ノプンプン

2024年11月1日金曜日

コミュ障は何故増えているのか?

 前に書いた記事でコミュ障キャラの漫画を紹介しましたが、これ書いた後でなんでコミュ障が増えているのかという点が少し気になりました。実際にコミュ障が増えているのかに関してはそんな統計もないので断定できないものの、少なくとも20年くらい前には「コミュ障」という単語がなかった(出始めた頃だったと思う)ので、ここまで一般化する辺りは増加と断定はできないものの、「こういう人がいても珍しくない」程度に普及したとは思います。
 ちなみにコミュ障の普及によって、「人見知り」という単語は駆逐されつつあるような。

 話を戻すとこのコミュ障増加の背景について軽くネットで検索したところ、SNSなどコミュニケーションツールの増加に伴うものと指摘しているものがありました。ただこの意見について私は疑問で、携帯電話メールの登場時にも同じようなことが言われましたが、実際にはこれら新たなコミュニケーションツールの登場によってコミュニケーションの頻度や量は確実に増加しています。
 かつては夜間なんかは家族以外とはコミュニケーションがなかったものの、現代は24時間国境すら関係なく対面でリアルタイム動画でほぼ無料で話せるようになっており、質、量ともに昔と比べて現代の方が優っていると断言できます。

 っていうかこの手のコミュ障議論は、コミュニケーションツールに軸足を置き過ぎるきらいがあります。初めて電話が登場した時も、なんか同じような議論があったんじゃないかな。

 そこで社会学士らしく、敢えてひねくれた目でこのコミュ障増加の背景について考察した場合、私から出てきた意見としてはむしろ「共有体験の減少」が主原因ではないかという結論でした。
 コミュニケーションに関して色々ハウツー本とか議論とかありますが、私個人の考えで述べると、突き詰めるとコミュニケーションというのは共有体験がすべてのベースにあると言えます。単純な会話一つとってみても、同じテレビ番組を見ているか、共通の知り合いを持っているか、同じプラモを作ったことがあるかはいずれも、両社の会話やコミュニケーションで果たす役割が大きいです。以上の例は話題(トピック)に過ぎませんが、これが文化という単位になると、同じ日本人であるかもコミュニケーションの発展を占う上で言うまでもなく重要です。

 突き詰めれば、同じ文化や価値観、知識を持っているかによってコミュニケーションの発展させやすさは非常に大きく左右されます。もちろん何も共有しない者同士、具体的には外国人同士の場合でも、共有しない者同士の交流方法ともいうべきものがありその関係を深めることは可能ですが、共有体験がある者同士と比べるとやはりその難易度はやや高まると言えるでしょう。
 まぁ共有体験がない者同士だと、数少ない共有体験を互いに軸にしようとするので、そのような数少ない接点が強く結びつけて一気に関係を深めることもありますが。

 話を戻すと、それこそ昭和から平成初期くらいの昔であれば娯楽も少なく、アニメ番組の放送数も少なく、そうした少ない娯楽に対して多くの人が集中して消費していました。そのため現代と比べると当時は共有体験が非常に多く、誰でも野球の話題で盛り上がり、スラムダンクの話題で盛り上がり、「東京ラブストーリー」で盛り上がることができました。
 然るに現代は娯楽種類が非常に多様化しているというか激増しており、動画一つとってもテレビだけじゃなくYoutubeなどでもたくさん配信されており、アニメ番組も四半期ごとに何十作も新作が作られる時代です。漫画作品も主要雑誌がウェブサイトでも別作品を連載するようになっており、「同じものを見た、体験した」という人と社会で出会うことの方が逆に難しい時代かもしれません。

 前述の通り共有体験があるかないか、多いか少ないかはコミュニケーションの発展に非常大きく影響します。共有体験がない、少ない場合、自然と話せるトピックも少なくなってくれば価値観も異なっている可能性もあり、誰にとってもコミュニケーションは取りづらくなるでしょう。
 もちろんこれまた前述の通り、共有体験がなくてもコミュニケーションを取る方法は確実に存在します。しかし私が見る限り、日本の教育現場や社会はそうした「共有体験がない者同士」のコミュニケーション法を教えないし、体得していない人が元から多いうです。そのため日本では上の年代の人間が自分の趣味や価値観を押し付けるというコミュニケーションを強制することが多く、以前までならまだかろうじて存在した若者世代とも共有できる体験(野球や歌手など)がつなぎとめていたものの、現代においてはそれすらなくなってきたことから、完全にコミュニケーションが破綻して相手を「コミュ障」と罵るようになってきているのではないかという気がします。

 なおこの辺で言えば、まだ中国人の方がコミュニケーションの取り方がうまい気がします。というのも中国は少数民族も多く、「俺とあいつらの文化や価値観は異なるかもしれない」という前提をみんな持っており、共有する体験や知識、文化がなくても、そうした相手とコミュニケーションを取る方法をきちんと体得しています。まぁ端的に言えば、相手の知識や文化に耳を傾ける努力なのですがそれは。

 以上を踏まえて言うと、現代の若い世代がコミュニケーションが下手というよりかは私は共有体験が少ないこと、そして共有体験がない者同士のコミュニケーション方法を日本人のほとんどが体得していないことが、コミュ障が増え続けている原因ではないかとみています。改善策としては何度も書いている通り、共有体験がない者同士が交流する方法を会得するに限り、もっとそうした交流方法をきちんと教育するとか、異文化体験を通して学ばせるべきでしょう。

 なお今の職場に来る日本人は海外に来るとあって、この辺のコミュニケーションがやっぱみんな上手というかまともだと思います。一番駄目なのは自分のやり方を押し付ける人間で、そうではなくまず最初に向こうのマナーなり価値観なりに耳を傾け受け容れる人間が総じて「コミュ力が高い」といえると私は思います。

2024年10月17日木曜日

最近のヤフコメの荒れ具合

 早くブログ切り上げてエースコンバット7をやりたいがために何書こうかうんうん悩んでたところ、ヤフコメが突然浮かんできました。

 さてこのヤフコメですが、ニュース記事におけるPV数を大きく引き上げているのかYahoo側も結構大事にしている節があります。ただこのヤフコメの内容、自分もJBpressで記事書いてた際に色々見ましたが、全く根拠のない憶測で批判する輩も少なくなく、自分なんかも「中国を持ち上げるこいつはきっと中国人に違いない」などという謎の認定を受けました。
 自分が描いたもの以外の記事を見ていても、記事本文の内容すらきちんと読み込まずに誤解しながら批判している者も見られるほか、差別的な内容も非常に多いです。そうした批判も受けてYahooも去年から投稿の際にはショートメッセージによる確認を必須にさせましたが、これによって国外でショートメッセージを受け取れない自分なんかは一切コメントを投稿できなくなりました。地味にこれ、海外現地にいる人間の意見が封殺されてえらいこっちゃじゃないのとか思ったりします。

 このほか最近のネット中傷問題を受けてか、確か去年の春くらいに差別的コメントが一定数越えたらコメントの投稿、閲覧をストップさせる措置を取っていましたが、現在このストップ措置が一切なされなくなっています。私が見る限り差別的投稿は決して減っておらず今も、特にこの前の深圳の事件のような記事にはたくさん投稿されているのですが、Yahoo側は一時採用した対策措置を何故かやらなくなってしまっています。
 また投稿、閲覧の禁止までと行かずとも、差別的コメントを個別に削除する措置も一時やっていましたが、これも何故か今や一切行われなくなりました。前は「このコメントは差別的なので削除しました」的な表示がコメント欄に出ていたのですがいつのまにかなくなり、もしかしたら見えないところでやっているのかもしれませんが、それにしては差別的コメントは今でもよく見ます。

 何となく、Yahooはこの辺の対策に一時動いたものの途中で放り投げてしまっているのではないかと疑っています。なんかの研究でSNSをやっている人は無駄に憎悪を滾らせ不要にストレスを高めているという結論が出されていますが、何となくわかるというか、ストレスをネットに吐き出すどころかより高めて憎悪に変えている節がある人を見ます。何が楽しくてSNSやってんだろうか。

 そういう意味ではこのブログなんかは一方的に且つ長文で書き続けられるものだから、ストレス解消にもってこいです。何気に前に見た記事で、巨人の阿部監督が試合中にしきりにメモとっていて研究熱心かと思ったら、「あの野郎」、「本当にプロか」、「ふざけやがって」などと、試合中でミスした選手の悪口を延々と書いているだけだったらしいです。
 なんでもこのように口に出さず紙に書くことで、相手を一切傷つけずに自分の怒りを収められるアンガーマネジメントの一つとしてやっているそうですが、実際こうして自分の考えを文字にすることはストレス解消に役立つと私も思います。この辺、日記を書いている人のメンタルヘルスはどうなっているのか研究したら面白いかもしれません。

2024年10月11日金曜日

袴田秀子氏に対する尊敬心

 これまでこのブログでは取り上げてきませんでしたが、日本の冤罪事件の中でも最上位クラスに入る袴田事件について先日、被告であった袴田巌氏に対する無罪が確定されました。この際に裁判長からは長きにわたる拘留、そして遅れた最新手続きに対する謝罪もなされ、謝ったから許されるわけではない暴挙であったものの、明らかな間違いが正されたことは本当に良かったと思います。
 もっとも大川原化工機事件で揺れる検察の態度は謝罪から程遠く、前にも書きましたが明確な捜査怠慢、証拠捏造を行った警官や検察官に対する刑罰を定めた方がいい気がします。いやほんとはあるし、その道の専門家はヤフーでオーサーコメント書いてたりするんだけどね。

 この袴田事件の再審に際してですが、ご本人の袴田巌氏もさることながら、弟の無実を信じて半世紀以上も活動されてきた姉の袴田秀子氏について初めて知りました。かなりのご年齢ながら非常に淳良つとしていて、インタビューに対する答えも常に前向きであるということに驚くとともに、このようなすごい人がいたのかといつも感じさせられています。
 水木しげる同様に、自分もこのような人になりたいと思わせられる強さを感じており、今回の無罪確定に対するコメントを見てもただただ頭が下がる思いがします。

 ちなみにちょっとケースが違うものの昔に「世界仰天ニュース」だったと思いますが、殺人の冤罪で収監された兄を助けるためにその妹が、すでに結婚して年齢も30歳を越えていたにもかかわらず、捜査権限を持つ弁護士資格を取得するために一から数年間学び、大学に入り、40代になって見事弁護士資格を取得したという話を思い出しました。この件では晴れて弁護士となった妹が当時の証拠を改めて検分したところ、裁判での証言とは明確に矛盾する特徴を見つけたことで、兄の冤罪を見事晴らして刑務所から解放していました。
 袴田事件もそうですがたとえどれだけの時間が経過しようとも、冤罪を晴らすための行動はいつか実るということを示唆しているように思えます。とはいえ約半世紀に収監された袴田巌氏の気持ちを考えると自分ですら申し訳なさを感じ、このような冤罪は起こしてはならないと改めて決意させられます。

 ちなみに自分にも姉がおり、もし自分が中国でスパイ容疑で捕まった場合には袴田秀子氏のように解放するための活動とか頑張ってくれないかなと密かに期待しますが、あんま仲良くないので多分してくれなさそうに思います。
 なおその姉については以前にも記事に書きましたが、一度マジで笑いの神が降り立ったことがあり、当時を思い出すにつれて今でも噴き出すとともに、我ながらえらいことやってもうたなぁと反省させられます。

2024年9月28日土曜日

「しごき」をメンタル教育としてみることでわかる日本社会の変遷

 間に総裁選とノーパソ不具合の記事を挟みましたが、前回記事で私は日本人のメンタルが年々弱くなりつつある中、どうすればメンタルを強くするのかと言えば単純に苦行が一番捗ると主張しました。基本的に人間は今が苦しいか楽かという判断は過去の苦しかった時の体験との比較でしか判断できず、過去にめっちゃ苦しい体験していたらその後の人生における困難や課題も「あの頃に比べたら」的に乗り越えやすくなるのではという風に考えています。

 この仮定に立った場合、現在精神疾患者が激増中の日本はメンタルが全体として弱くなっていることは間違いなく、ならなんでメンタルが弱くなっているのかというと過去の苦行、激烈体験がそれ以前よりも減ってきているという風に解釈できます。では過去、具体的には昭和時代の人たちは苦しいことのベンチマークとなるような体験として何を経験してきたかっていうのが、意外と重要な着目点となってくるわけです。

 仮に戦前世代まで掘り起こした場合、この世代の最大の苦行はやはり戦時体験でしょう。直接戦地に赴いた人だけでなく、日本国内のいても空襲や、戦後の食糧不足という筆舌にし難い苦しい体験を乗り越えてきており、実際にこの世代から「戦時中に比べれば」という言葉を自分もよく耳にしました。この世代からすれば、その後の人生における困難もストレスを大きく受けるほどのものにはならなかったでしょう。
 では戦後世代はどうか。結論から言ってしまえば、昭和から平成初期にかけて日本人のメンタル教育において非常に重きをなしたのは「しごき」だったのではないかと今思います。しごきという言葉の定義については省略しますが、学校での部活、職業現場での上下関係によるしごきは、殴る蹴るは当たり前、人格否定の罵詈雑言は日常茶飯事で、現代とは比べ物にならないほど激しいものがありました。

 なおソ連人民の敵であるうちの親父は就職間もないころ、「契約取ってくるまで絶対帰ってくるな!」と上司に言われ、神主やってたいとこの家にも売り込みに行って「何考えとんねん!」と追い返されてたそうです。

 話を戻すと、令和の現代において完全に否定されているこの「しごき」ですが、ことメンタル教育という面では日本社会において大きな役割を持っていたことは否定できないでしょう。昭和のこの手のしごきは理不尽さ、過酷さをひたすら追求している節があり、理不尽さに耐える力という点ではその育成効果は間違いなくあったと感じます。
 ではメンタルが弱くなりつつある現代日本において、その対策として戸塚ヨットスクールの人じゃないですがまたしごきを復活させればいいのか。この問いに対する私の答えはノーです。

 というのもしごきというのは確かにメンタルを強くするうえでは明確な効果があると思いますが、その代わりと言ってしごきを受ける人間は合理的な思考や考えを失い、盲従的になる可能性が高いと思うからです。日本のスポーツ教育が昭和期に世界で通用しなかったのはまさにこの点にあり、陸上や水泳とかならまだしも、野球やサッカーなどで海外に全く勝てなかったのはこうした面の弱さにあると私は思います。

 またこの手のしごきを受けた人間の中には、暴力性を顕著に高める人間も残念ながらいます。部活指導中の事故死や育児中の虐待死を起こした大人の多くは判で押したかのように、「自分は子供の頃にもっときつい仕打ちを受けていた」という言い訳をしてきますが、恐らく実際にはそう思い込んでいるだけで、子供を死に追いやるほどの仕打ちを彼らは受けてはいないでしょう。
 しかしある程度のしごきを自分が受けてきたから、「自分が受けた分はほかの子供にやり返していい」という勘違いを起こした挙句、自分が受けた以上のしごきを課して虐待するというパターンは実際よく見られます。何故こうなるのかというと、かつてのしごきには教育としての合理的価値がハナから無視されており、「苦しませればいい子に育つ」的に苦しませるだけで、その結果としてしごきを受けた人の合理的判断能力を喪失させていた節があるように見えます。

 ならしごきはやってはだめなのかという話になりますが、そうなると今度は現代のようにメンタルが弱い人を量産することとなってしまいます。実際、この流れで日本人はメンタルが弱くなっていき、精神疾患者が増える一因にもなっていると考えています。

 まどろっこしいので言いたいこと書くと、子供の教育に当たっては合理的な根拠や目的のもとに、苦しませるべきだと思います。昔のうさび飛びのように運動能力向上に何ら貢献しない苦行をやらせるのではなく、健康を崩さずしっかり身体を育成する科学的な訓練メニューを用意して、感情的な判断はせずしごきを行うのであれば、精神的にも肉体的にもいい教育になると私は思います。
 その上で、そうした訓練の目的や効果についてしっかり子供たちにも教え、「こうやるとこうなるんだよ」的に理解させたうえで、子供たちに自発性を持たせ行わせることも大事かと思います。こうすることによって、子供たちもそのしごきの合理性を考え、合理的な価値観や考え方を育んでいくことになります。

 何が言いたいのかというと、「合理的に苦しませろ」というのが、現代日本のメンタル教育に対する私かの意見です。何も学校に限らず勤労現場でも、きちんと苦しむ理由を教えた上でハードワークを課すことが大事だと思え、これがびっくりするくらい日系企業は出来ていない気がします。なんでかというと、中間管理職以上にその手の合理的思考がない人が多いからです。
 「苦しいけど儲かる仕事」と「苦しいのに儲からない仕事」では90度でなく180度意味が違い、後者に関しては儲からないならむしろやらない方がマシ的なものも少なくありません。この手の見極めをした上で、勤労初心者に価値ある苦しみを与えて育成することが、結果的にその人らのメンタル教育にもキャリアアップにもつながると私は考えます。

 冒頭に書いた通り、現代日本でしごきは敬遠されがちです。私自身も不合理なしごきは排除すべきだと考えますが、「必要で合理的なしごき」こと苦行はメンタル教育的にも、やはり若い時にこそ経験しておくべきだとも考えます。そうした、一体何が必要な苦行で何がそうでないかを判断できず、結果的にメンタル教育がおざなりになっているのが現代日本だと思え、あと10年くらいはこの状態が続くかなとみています。

 なお自分の経験で言うと、肉体的な苦行はそれほど経験しませんでしたが、あまりにも非効率な指示に下で不要な業務だとわかっているのに従事させられたのはマジ苦しく、合理性失いかけたけどメンタル的には貢献したかなと考えています。あれに比べれば中国に行って転職活動したりする方が楽だったな。

2024年9月26日木曜日

そもそもメンタルはどうやって鍛えるの?

 先週から仕事が忙しくマジで目が回る状態というかふらふらで、なかなかブログも書けませんでした。来週からは国慶節で1週間の休暇が取れるけど、前半はマジで寝たきり雀になるかもしれません。

 話は本題ですが前回記事で私は、昨今の日本の教育や社会環境が現代日本人のメンタルをかつてよりも弱くさせ、ストレスに弱い人間を増殖していると主張しました。その証拠として、精神科に受診する人間は年々増えており、私自身も実際に精神科医をしている友人に確認して裏付けを取っており、意外と無視できないところまで日本のメンタル問題は来ていると認識しています。
 この問題にどう対抗するかですが、単純にメンタルが強くストレスを受けない人間を増やすに尽きます。おそうなれば精神科の負担は減り、精神疾患で生活や労働に支障が出る人も減り、医療費や社会保障費が減るだけでなく労働力や生産高にもプラスでハッピーハッピーなること請け合いなしです。と言ったところで、そもそもどうやればメンタルは強くなるというか鍛えられるのかというのがトピックとなるわけです。

 ある程度想像してはいましたがネットで「メンタル 強くするには」と検索すると、これでもかというくらいそれぞれのメンタル強化方法を主張しているサイトが雨後の筍、戦場のロシア兵の如く出てきました。中には怪しい自己啓発セミナー的なサイトも見受けられ、このトピックに関心持つ人が多いってのと、これをネタに商売している人もたくさんいることがうかがえます。
 その上でこれだけいろんな人が各種様々なメンタル強化方法を主唱しているあたり、現在スタンダードともいうべきある程度一定の人数が認知している固定されたメンタル強化方法はまだないと言えるのではないかと思います。でなければこれほどバラエティに富んだメンタル強化方法を各々が主張するはずはありません。

 以上踏まえて結論から述べると、私個人が考えるメンタル強化方法としては単純に、「どれだけきつい体験を過去にやったかに尽きると思います。

 例えば突然1時間の行軍訓練をやることとなった場合、行軍なんて一度もしたことがない人と、過去に何度か24時間行軍訓練を受けたことのある人を比べた場合、後者の方が圧倒的に1時間の行軍訓練で受けるストレスは小さいでしょう。また同じ種類の経験でなくても、過去に激キツ体験や苦痛、困難を受けたことがあれば少々の課題にぶつかったところで、「あの時に比べりゃ何ともない」という風に受け取り、同じ体験を初めて受ける人と比べれば感じるストレスを小さくすることができると断言できます。

 この辺、日ごろから私が主張しているように人間というのは基本的に比較を通してでしか物事を認知することができず、きついかきつくないかというのは結局のところ、過去の体験や現状と比べてでしか判断できないと思います。教育や伝聞を通しての仮想体験と比較することも可能と言えば可能ですが(「あいつが受けた苦しみに比べれば!」など)、やはり優先されるのは自分の経験と感覚なだけに、結局のところ過去にきっつい体験を受けるなり乗り越えとけばそれ以降に受けるストレス量は、環境などによる継続的に発生するものを除けば基本的に小さくなるでしょう。
 これは言い換えると、メンタル鍛えようってんならとりあえず苦行を体験すりゃいいってことです。

 それこそ私のようにブラック企業やメディア業界を体験した人間ともなると、普通の労働環境にいるだけでも「めっちゃ幸せやん(´・ω・)」と思えて日々に受けるストレスもブラック企業を経験していない人からすれば確実に小さいと断言できます。またメディア業界で慣らされたこともあり、よく「どっちがヤクザかわからない」シリーズこと警察がヤクザ事務所に乗り込む動画見ても、「怒鳴ってるったって凶器持ってないじゃん(´・ω・)」と思えて、ほかの人の反応と比べるとそんな怖いように見えません。
 そういう意味では、場合によっては耐えきれなくなって精神的に破滅するかもしれないし長期的にはマイナスだけど、短期的にブラック企業を経験、それも若いうちにしておく、見ておくのは長い目で見たら決して損じゃないと思います。もちろん、普通の会社とかでも必要に求められる困難や苦境があるのだから、そういう経験で代替できるに越したことはないですが。

 またその苦行の中身というか成否で見ると、成功体験と失敗体験に分かれます。これは私はどっちがいいというわけではなく、成功体験が多すぎると自信過剰となったり失敗を極度に恐れて積極的でなくなる恐れがあるし、逆に失敗体験が多過ぎると意欲を失ったり、モチベーションがなくなったりする可能性があります。強いて言えば成功も失敗もそれぞれ体験的に必要で、偏らせずともかく苦しい体験を経験しておくに越したことがないという風に見ています。
 もっとも個人的には失敗体験の方が教訓意識が強く得られ、その後の行動にも慎重性が出てくるので、配分的には失敗が成功をやや上回るくらいがいいとは思いますが。

 以上を踏まえて言えば、もしメンタルを鍛えたいっていうのであればともかく死なない程度にきつい体験を今すぐやれというのが私からのアドバイスとなります。体力的には山登りとかマラソンとかを選び、「楽して痩せられるフィットネス」なんて以ての外です。精神的に攻めるってんなら断食とか真っ暗で無音な部屋で数日過ごすとか、やり方次第でいくらでも手段はあります。
 なおゲームでこれやろうってんなら、自分としてはファミコンの「アトランチスの謎」をノーコンティニューでクリアを提唱します。

 ここまで来たところで改めてメンタル弱者を増やしている日本の現状を振り返ると、その原因は苦行不足にあるのではないかと思う節があります。でもって、何故メンタルを強くする苦行が日本で不足してきたのかを振り返ると、結構日本の社会変遷というか価値観の転換が大きく作用しているようにも分析され、意外と根の深い問題であると思うようになってきました。
 次回ではその点、端的に言えば「しごき」の合理性と意識変化について書きます。

2024年9月23日月曜日

ストレスに弱い人間を量産する日本の教育と社会

 冷静に振り返ってみると、今の自分の部屋には戦車や戦闘機のプラモがそれぞれ10台以上転がっており、なんか軍事博物館みたいな状態になっていることに気が付きました。最近はもうほとんど1回は作り終えたから2週目も始まりだしたし(;´・ω・)

 話は本題ですがここに書くまでもなく日本では精神疾患者がこの数十年増え続けており、最近だと精神科を受診するまで最低でも1ヶ月は待たなくてはいけないほど溢れており、なんでこいつこっち行くんだろと思ったけど、自分の医者になった友人も精神科いって案外正解だったかもしれません。
 でもそもそも何故日本で精神疾患者が増えているのか。社会のプレッシャーが高まりストレスが増えたというのも確かに事実ですが、それ以上に私は今の日本の教育がストレスに弱い人間を量産しているからではないかとみています。より具体的に述べると、とにかくあらゆることに気を払え、気をつけろとする教育がストレス耐性を下げている気がします。

 片っ端から挙げていくと本当に切りがないのですが、ちょっとしたマナーや言葉遣い、最近だったら体臭とか他人を不快にさせないようあらゆるものに気を付けると、なんかこのところ脅迫的に相手に求める言動が多いような気がします。今はどうか知らないけど15年くらい前はなんか口臭がやたら大きくピックアップされていたような気もしますし、なんかこんな感じで「気にしろ!気にしなきゃ人にあらず!」的に、芸能人でもないのに世の中気を配るよう強要される項目が年々増えている気がします。

 また学校など教育現場では、「相手の気持ちに立ちなさい」という題目が前面に出され、「これが片付いてないと周りはどう思う?」、「言葉遣いが悪いと相手はどう思う?」などと、他人に対する気遣いを強く強制しているように見えます。
 もちろん中にはそうした他人への配慮が必要な点もありますが、中には「本当にそれ必要か?」と思うことまで配慮を強制されている感じがします。具体的には言葉狩りで、キチガイとか死ねとか言ってはならないとか、了解ですは上から目線だから目上に使うなとか、言葉本来の意味から明らかに外れた排除理由に溢れています。

 ともかくこんな感じで、全神経をフルに使って360度24時間常に気を張るように日本の教育や社会は要求しているように見え、結果的にあらゆるものに配慮しようとすることでストレスに弱い人間を増やしているというのが自分の見方です。実際世の中、何もかも無視していいわけじゃないですが大抵のことは無視して気にしないに越したことはないです。
 例えば太陽が50億年後あたりに消滅すると言って、「太陽がなくなったらどうしよう(;´・ω・)」と現代人が気にする必要は全くありません。学者とかがそんな状況をシミュレーションするなら話は別ですが、普通の人が常日頃から太陽の消滅におびえながら暮らしているとしたら可哀想を通り越して逆に滑稽でしょう。けどそんな滑稽ともいえるくらいに不要なものに怯えながら暮らしいてる人間が現代には非常に多く、また怯えるように世の中も若干求めているというか不必要に煽ってきます。

 この手の例だと上がってくるのはまず年金、次に石油枯渇とかで、特に後者は私が子供だった頃は「2000年ごろには枯渇する」などとよく言われてた気がします。この手のものは学者や政治家に任せ、そいつらがうまくやれなかったら引きずりおろせばいいだけです。
 そうそう環境問題もこの手の例に入るでしょう。ただよく言われているように、航空機燃料が出すCO2は1便だけでもポリ袋数千万枚分と言われ、環境問題を個人は完全に無視すべきだとは思いませんが、脅迫的にペットボトルの蓋を集めよなどとすることはもはや本末転倒で意味ありません。それで気に病むくらいなら、環境問題なんてハナから無視した方が精神衛生上にもいいでしょう。

 逆にというか精神疾患を減らしてストレスに強い人間を増やそうというのなら、「余計なことは気にするな」的な教育をもっと広めた方がいいと思います。いわゆる鈍感力に近いもので、真面目に日本はストレスに強いメンタル強者を量産する方向に舵を切った方が国家的にもいいでしょう。
 金がなくても何とかなる、職歴がなくても何とかなる、俺はまだ本気を出していないだけ……とまでいう人間ともなるとさすがにみていて若干不安を覚えますが、ちょっとやそっとじゃへこたれず「またやり返してやるさ!」的な逆境においても前向きな思考を持つ人間をもっと称賛し、世の中に増やす努力を日本はやるべきでしょう。少なくとも、新卒終活にこけたらもう一生終わり的な価値観が強い今の日本社会は、日本人自身は自覚がないもののかなり異常な価値観だということに早く気付くべきでしょう。

 ぶっちゃけ、日本でいい就職できなければ海外行けばいいだけだろうと私も思っています。でも海外怖い、言葉出来ないという人もいるでしょうが、意外と行けばなんとかなるし、私自身もそんなにメンタル強い方だと思ってないけど日本国内にいる時よりも正気保っている自覚があります。

 まぁグダグダ書きましたが、一番日本人が「気にしてはならないもの」というのは実は「周囲の目」で間違いないんですけどね。そういう意味でも他人の目を気にせずに発言や行動を取れ、なおかつそこに一貫性があるのはほんと貴重な人材だと思います。兵庫県知事も他人の目を気にしませんが、あの人は発言が不規則に変わるから逆に一番排除すべきクズですけど。

2024年9月7日土曜日

日本で消えた戦争文学

 2年半前の時点で、今も続くウクライナ戦争が現在も続くとはおそらく誰も予想していなかったです。私自身も寒さ厳しいあの地域で冬季装備の準備もなく始まった戦争だった故に、長くても次の冬季までには停戦にはなると予想していましたが現実にはさにあらず、ロシア領内のクルスク州にも戦線が広がるなどむしろ拡大を続けています。
 もっともその代償は大きく、かねてからこのブログでも書いているようにロシアはこの戦争が終わった瞬間に戦時中以上の経済混乱に見舞われることになると私は予想しています。幸いな点は中国経済がこのところ不調であるという点で、かつての好景気を維持していたらロシアは中国の経済植民地化する可能性もあった気がします。

 ただこのウクライナ戦争ですが、戦況の報道こそ活発なれども戦争そのものをどう見るかという分析や解説はあまり多くない気がします。もちろん戦争が続いている中でこのようなことを論じようものなら批判も来るだろうし、分析も足りず誤った見方を招く恐れもあるため仕方のないことだと思いますが、この点について先ほど考えたところ、近年において日本で戦争そのものをどう考えるのかという議論、特に戦争文学が極端に少なくなっているのではないかということに気が付きました。
 それもそのはずというか、日本が実際に戦争に直接参加したのは約70年前の二次大戦が最後で、それ以降の戦争において日本は傍観者的な立場であり続けました。実際に戦争を体験することはなくベトナム戦争やイラク戦争を眺めるだけで、これでは戦争がいいか悪いか以前に戦争とは何なのかを深く考えることも難しい気がします。

 それこそ昭和の時代であれば、水木しげるをはじめ実際に戦争を体験した人、それも高所からではなく末端の現場兵士だった人たちが数多く、彼らの体験に対する作品を通して間接的ながらも戦争を考える機会は数多くありました。しかし現代日本においてそのような戦争体験者はごく限られ、目下においては米国における従軍経験者らの話を聞く以外にはこの手の情報に触れることはできなくなりつつあります。

高部正樹(Wikipedia)

 唯一の例外として私もエッセイ漫画を読み続けている、この元傭兵だった高部正樹氏の証言があります。現代においては珍しい実戦込みの従軍経験者な方なだけあって興味深い話が多く、敢えて一つ挙げればエッセイ漫画の冒頭にて語った、

「戦争を避けるための話し合いの重要性は否定しないが、今すぐにも殺されそうな環境にある人たちは確実に存在していて、彼らを守るための武力もまた絶対に必要」

 という、虐殺の危機にある立場にある人からの目線には私も考えさせられました。

 私自身も戦争に関して決して偉そうなことを言えるような立場ではありませんが、それでもまだ若い世代に比べれば昭和の戦争文学や水木しげるの戦争体験漫画を見てきただけに、戦争に関して考える機会はまだ多くあったように思えます。そういう意味で私が憂えているのは、今後時代が下るにつれてますますこの手の戦争文学に触れない世代が増えていくということです。何故戦争が起き、何故続けられ、その結果がどうなるのか、また結果にかかわらず参加した人はどうなるのか、戦争の現場では何が起きているのか、こうしたことについて考える機会を日本国内においてももっと作らなきゃいけないと思います。

 中でも一番自分が危機的だと思うのが見出しにも掲げた戦争文学です。文学とはなにかという定義について私は、「文章を通して自分が体験していない状況や経験を間接的に経験する」ことであり、やはり戦争を考える上では文学の価値は非常に高い気がします。それだけに、実際に従軍経験ある人は少ないものの、聞き取りベースでもいいからもっと戦争文学を日本語で出す必要があるのではないかと思います。
 もちろん二次大戦の戦争文学でもいいのですが、基本的に古い作品が多いだけに現代語に合わせてアップデートや再編集が求められてくるでしょう。そうした努力をもっと日本社会全体で意識で、続けていく必要があるのではという考えた次第です。

 なお戦争をテーマにした文学は少ないもののガンダムシリーズをはじめアニメ作品は枚挙にいとまがありません。ただそのガンダムシリーズ、とりわけあのガンダムWを見て戦争を考察しようとするなら、多分余計に悩みそうな気がする。改めて見返すとガンダムWは登場キャラの思想がどれもぶっ飛びすぎてて「平和って何(;´・ω・)?」って気になってくる、
 むしろ戦後というものをテーマにしている点で、ガンダムXなんかは地味にいい作品な気がします。かつての戦前に囚われている人間、PTSDになっている人間、戦後に生まれ新しい時代に目を向ける若者の対比が非常によくできている気がするし。

2024年8月21日水曜日

日本人が何故体臭で騒ぐのかが不思議

 あまり興味がないのでこれまでブログで取り上げてきませんでしたが、女性フリーアナウンサーが男はもっと体臭を気にしろ、日に三度はシャワー浴びろと公に発言して顰蹙を買い、契約していた会社から契約を切られたニュースがなんか延々と話題になっています。この会社側の処置について解雇は厳しすぎるという声もありましたが、報道を見る限りそもそも雇用契約ではなく仲介登録契約であったようで、であればそもそも解雇じゃないんだし、またあんな発言する時点で危険要素が盛りだくさんなだけに契約切るのは当然だと私的には思います。需要があるなら、拾う会社もあるだろうし。

 それでこのニュースに出てきた体臭についてですが、去年あたりからアイドルの交流会やカードゲーム大会にやってくるお客の体臭がひどい、ヤバ過ぎるというニュースをよく見るようになってきました。実際にそうした現場に行って嗅いだわけでもないためどれほどの体臭なのかは測りかねますが、私個人の見解で述べると、「そんな大騒ぎするほどかよ」と疑問に思う節の方が多いです。何故かというと、日本人で体臭が気になるほど臭う人はそんないないだろうと高をくくってるからです、なんでそんな風に言えるかって、自分が今いるのは中国だからです

 断言しますが、街中で感じる体臭で言えば中国の方が圧倒的にきついです。上海とかならまだマシですが、地方都市なんか行くと周りの中国人ですら表情から見て明らかに引くようなレベルの体臭を出している人間なんて手の指が足りないくらいいます。また上海市内でも、地下鉄とか乗っているとえーって言いたくなるくらい臭う人がおり、でもってそういう人に接近されると大抵その日はダニに噛まれる羽目になり、「臭いくらいなら実害ない」と言いたくなります。

 また私の場合だと北京での留学時代、相部屋のルーマニア人がガチでシャワーを浴びるのは月に1回程度で、部屋の中は体臭に満ちていました。なので玄関ドアとか開けておくとその臭いが廊下中に蔓延して、別の日本人も今日自分が部屋を開けているとエレベーターから降りた瞬間にわかったそうです。
 もっともこんなの慣れてしまえばどうってこともないのですが、数ヶ月にいっぺん、彼が洗濯するときは自分も夜は寝れなくなりました。何故かというと当時の学生寮には洗濯機がなく、基本手洗いで下着とか洗うしかなかったのですが、彼は洗面器に下着を水につけるだけで、ゆすいだりとか以前に洗剤も一切使用しませんでした。でもってそれを部屋干しにするもんだから、さすがにその時は自分も眠れないほどの悪臭に悩まされ、洗面器につけてる間にそっと洗剤を少し蒔くようにしてました。

 そんな私のハードな体験、そして冒頭に書いたように日本人より体臭がきつくてもそんなに気にしない中国での生活を踏まえると、元々異常なくらい臭いを出さないし、普段から割と清潔にしている(中国人基準で)日本人が体臭でどうこう言うのはちょっと過剰過ぎるのではという疑念を持っています。鈍感力じゃないですが、礼儀マナーなどと同様に必要以上に過敏に気にするというのはむしろ社会にとっても本人にとってもマイナスで、逆にそうしたことを気にせず寛容に受け止める西郷さんのような人の方が私は立派だと思います。
 なので日本人は、もっと西郷さんを見習うべきだと無駄に薩摩推しな感情がこのところもたげます。

2024年7月24日水曜日

日本の未来を暗示させるユニバース25

 やはり自分の体はお米が合っているのか、さっきへとへとで食欲ないから自宅で冷凍チャーハン食べたら逆におなかすいて、今めちゃくちゃ餓えています。最終兵器のUFOでも食べようかなぁ。ってか仕事忙しすぎ。昨日なんか依頼物差し替えの上に納期短縮を要求されて「なめんなよ(´・ω・)」って相手に凄んじゃったし。


 話は本題ですが、上のカルフーンさんというのは米国の科学者です。なんで急にこの人引っ張り出したのかというと、「ユニバース25」という実験を行った責任者で、上のWikiのページ内にこの実験の内容が書かれてあります。
 そのユニバース25ですが、この実験を私が知ったのは先日もこのブログで紹介したこのところ「竜送りのイサギ」と並んではまっている、生物学大好きっこがうんちくを垂れ流す漫画の「あくまでクジャクの話です(あくまクジャク)」の2巻巻末にて紹介されていたからで、その内容に自分も驚きを禁じ得ませんでした。

 では一体どういう実験だったのかというと、ネズミを使った実験です。この実験では建物内に巣穴と餌、水を完備し大きな空間を用意し、そこに雄雌4組8匹のネズミを放つところから始まります。実験のコンセプトとしては生命の危険のない状態でネズミがどのように繁殖するかを観察することが主眼であったことから、文字通り衣食獣の三拍子が揃った環境を用意したわけです。
 当初、ネズミたちは広いものの閉じられた空間に放り込まれて戸惑いを見せたものの、一定期間を経て慣れると繁殖活動を行うようになり、個体数は日数とともに順調に増えていきました。この空間に用意された巣穴には約3840匹が収容可能であり実験者たちもこの個体数までは順調に増えていき、この数を超えたあたりで領土を巡って血で血を争う戦国時代がおっぱじまると予想していたようです。

 ところが想定外なことに、実験開始から315日目に個体数が約2200匹に達すると、この時点をピークに個体数は逆に減っていくようになりました。同時に、ネズミたちもそれまでになかった異常な行動を取るようになっていったそうです。
 具体的には、巣穴スペースがまだあるにもかかわらず縄張りをつくって他のネズミを追い出すようになったり、親ネズミが子ネズミに虐待を加えたり、同性愛を始めるネズミが出たりしたそうです。それ以上に深刻だったのは、雄が求愛や繁殖行動を取らなくなり、だらだらと生きるだけ、いわゆる食っちゃ寝なライフスタイルを取るようになりました。

 その結果、個体数はどんどんと減少していき、最終的にこの空間にいたネズミは絶滅するに至ったそうです。絶滅直前にこの中のネズミを外に出して別の群れに混ぜても見たそうですが、そこでも出されたネズミは繁殖行動を取ることはせず、その遺伝子を後代に伝えずに死んでいったそうです。

 恐らくほかの人もそうでしょうが、私がこの実験内容を見て真っ先に思い浮かべたのは、少子高齢化でヒートアップしている今の日本の現状です。ある時点をピークに人口拡大が止まり、男性が求愛行動を取らなくなり、虐待事件やニートが増えたりとか、同性愛者が増えてるかはわからないけど日本の現状を見させられているようで、最初は作り話じゃないかと本気で疑ったりもしました。しかし調べてみると本当に行われた実験とのことで、ネズミ社会ですら今の日本のようなことが起こるのかとびっくりさせられました。

 冷静に考えるとそれもそのはずというか、今の日本の少子化現状は何も日本に限らずほかの先進国でもほぼ同様に起きています。米国やフランスなどの克服した国は基本的に移民を入れており、一時は高福祉こそがカギだと言っていた北欧諸国もこのところ少子化が激化しています。
 それらの状況を踏まえると、社会が一定の段階まで発展、成熟すると人口は減少に転じる方がネズミ界同様自然な結果のように思えてきて、仮にそうだとすると、このままいくと日本人もネズミのように絶滅に至るのかもしれません。

 一体何故ネズミ社会が崩壊したのかについては色々意見があり、閉じられた空間だったからとか近親間の繁殖が進んだとかありますが、実験の研究者たちは社会が完成されて社会における役割を持たない個体が増えていくとこうなっちゃうんじゃないのという見解を示しており、自分も何となくそんな感じがします。
 その上で適当なことを抜かすと、食料など生存に不安やストレスのない状況に安住すると、逆にその環境にストレスを覚えるようになるのかなと感じる節があります。こう考えるのは、適度なストレスは程よい緊張感からむしろ心身にいい影響を与え、完全ノーストレスな環境は逆に体に悪いという実験結果を以前に見たからです。

 どちらにせよ、自分が見た中で一番不気味というか変に見直に感じてしまうのがこのユニバース25という実験でした。どっか別の組織が似たような実験してくれないかな。

2024年6月29日土曜日

安藤美姫氏の報道について

【悲報】安藤美姫さん、泣き叫ぶ(暇人速報)

 実際のところはどうだかまだ確認が取れませんが、フィギュアスケートの元選手で現在はコーチもしている安藤美姫氏について教え子の16歳の男子に手を出しているとの報道が出ました。今のところまだ一度も目にしてはいないのですが、自分が真っ先に浮かべたのはジャニーズ事務所の問題で、あれだけ大騒ぎしたにもかかわらずこの件に対する報道がスキャンダル報道にとどまっているということに疑問を覚えます。そもそも報道を受けて警察なども何も動かないのか、この点で違和感があります。

 言うまでもなく報道が事実だとしたら性的虐待に当たる行為であり、なればこそ厳しく状況を調べ、このの真偽を確かめなければなりません。少なくとも文春の報道によると複数人の証言は出ていることからも、「本人同士の問題」で片づけるべき内容ではないと思うし、こう言っては何ですが当事者があの安藤美姫氏っていう点でも、注意しなきゃならない案件だという気がします。

 それにしても社会の反応が鈍いというかなんかこのままいくとジャニーズ問題の反省が全く生かされず、日本はそういう国だと海外からも思われるんじゃないかと勝手に懸念しています。まぁ杞憂かもしれないけど。

2024年6月27日木曜日

黒川元検事長の定年延長に関する情報開示について

黒川氏定年延長巡る文書開示 「個人のため法解釈変更」―大阪地裁(時事通信)

 安倍政権の後半では森友問題をはじめ強引な政権運営が目立ち、特に法律や規定を無視した行為が非常に目立ちました。仮に安倍晋三が今も生きていたら場合によっては激しく糾弾される立場になっていたように思え、そういう意味では彼はいい時期に死んだなと思う節があります。皮肉なことですが、彼の死によって統一教会問題もメスが入ったわけですし。

 そんな安倍政権の独断専行に関して自分が一番眉を潜めていたのは、今回裁判所が情報開示を命じた黒川元検事長の定年延長問題です。この問題については詳細は省きますが、簡単に言えば安倍政権寄りの黒川氏を検事長に据え、森友問題の捜査を妨害することを期し、本来なら定年で退職することが規定されているにもかかわらず、その規定を無視する形で彼を検事長に任じたといったところです。
 なお法規を捻じ曲げてまで検事長に据えてもらった黒川氏ですが、その後記者らと賭けマージャンをやっていることが報じられ、法治国家の根底を揺るがす人事でありながら結末はあっけなく、この件ですぐ辞任となりました。その数ヶ月後には安倍政権も退陣していますが、ぶっちゃけ政権を守る検事がいなくなったこの件が影響したのではないかとも見ています。

 今回はこの黒川氏の検事総長就任を巡る不可解な判断について関連文書を開示せよとの報道ですが、これに限らずこのところ検察の問題がよく取りざたされています。大川原化工機の冤罪事件はもとより、プレサンス事件の責任裁判も進行中、そこへきて大阪地検元検事正が何と5年前の性的暴行事件で今になって逮捕されるなど、かつてないほどのバーゲンセールぶりです。
 特に最後の事件に関しては何故これほどの月日を経て急に捜査が動き出したのか、背景理由が何かあるとみてほぼ間違いないでしょう。考えられるのは大阪地検内部での内部派閥抗争、次に政権側、つまり官邸の方針変更に伴うGOサイン、最後にいまだ明らかになっていない大型不正または冤罪事件といったところかとにらんでいます。

 それにしても大阪地検はプレサンス事件といい、問題ばかり起こす機関だなという気がします。まぁ大阪に限るわけではないですが、このところの一連の不祥事を受けて真面目に検察に対する信頼は大きく揺らいでいるように見え、ちょっとやそっとの対応じゃ信頼は取り戻せないという気がします。
 私自身、もし日本にいて同じ考えを持つものと一緒に行動できるのなら、大阪地検の前を大挙して押し寄せて「容疑者には正直に言えと言いながらお前らは正直に言わないのか!」などとシュプレヒコールをしたいとすら思います。もしこれで捕まったら「記憶にございません」と言えば問題ないようですし。

2024年6月15日土曜日

鹿児島県警の闇

「本部長の犯罪隠蔽」告発で揺れる鹿児島県警の愚挙 批判メディアへの強制捜査、心臓疾患を無視した取り調べ(AERA)

 先日にも触れたこの鹿児島県警の情報漏洩ですが、その後も一向に火が止むどころか鹿児島県警自らが燃料を投下しているような事態となっています。詳細は省きますが、情報漏洩事件の容疑者が流出させた内部情報を得たメディアに対し、令状もなくパソコンなどを押収した上に該当データを削除していたとのことが報じられました。もっともこれはメディア側の主張で、鹿児島県警側はちゃんと令状もとったし、データ削除にも同意を得たと言ってはいますが。

 正直なところ、情報漏洩よりもこちらのデータ削除の方が内容的にもずっと深刻なのではないかという気がします。いわゆる暴露系Youtuberとかにプライバシーに関する情報が流出した場合には迅速な対応が必要で、上記のような措置も時に必要になるかと理解できますが、今回に関しては曲がりなりにも鹿児島県警を度々批判してるけどきちんと報道活動をしているメディアで、少なくとも現時点で流出した情報のうちプライバシーに関する内容などをみだりに拡散などもしていません。そうした点を踏まえると、今回の鹿児島県警の行動は令状があったとしても、報道の自由に対する侵害に当たると私は思います。

 その上で最初は結び付けるのはどうかなと思っていましたが、ここに至ってかつての志布志事件を思い出すようになりました。

志布志事件(Wikipedia)

 知ってる人には早いですが、志布志事件とは2003年に鹿児島県警が引き起こした大規模な冤罪事件です。10人以上もの人間が全くのでっち上げともいうべき根拠のない容疑で無理やり拘留させられた上に自白を強要され、「お前のことをお前の家族は嘆いている」などと、その家族が言ってもないことを言ってその関係を浸そうとするなど卑劣極まりない事件でした。
 この当時も鹿児島県警ってやばいと思っていましたが、今回のこの一連の事件を見ると、神奈川県警や大阪府警と張り合うレベルでやばいんじゃないかと思うようになってきました。敢えて言うなら基本的な常識に欠け、糊塗に糊塗を重ねようとする体質があるように思え、情報漏洩の容疑者である元鹿児島県警の人もその内部告発の仕方に疑問を覚えますが、鹿児島県警という組織自体に問題があるというのは十分理解できます。

 っていうかこの事件、警察庁は何をしてんのかという気持ちも覚えます。事ここに至っては鹿児島ん県警に自浄というか対応をゆだねるのはもう無理でしょう。ほっとけばそれこそ志布志事件みたく、国家賠償請求が警察庁などにも及ぶであろうし、もっと早く行動すればというように思えます。
 つうか鹿児島県警だし、また志布志事件みたく踏み字とかやってんだろうか。

2024年6月13日木曜日

プレサンス事件の「不適切にもほどがある」検事


 大分前に自分もこのブログで取り上げたプレサンス元社長の冤罪裁判ですが、元社長の国家賠償請求裁判にて、冤罪のきっかけを作った検事本人への尋問が行われたとのことです。

プレサンス事件(日本弁護士連合会)

 この事件の概要については上のリンク先にありますが簡単に自分の方から説明すると、不動産会社のプレサンス社を経営していた山岸氏の部下のある社員が、とある学校理事への個人的融資として会社の金を横領して使用しました。その際にこの社員は、理事個人への貸付ではなく学校法人に対する貸付だと嘘を言って貸し付けました。その後、融資を受けた理事はこれを裏金として使って見事理事長になると、学校の土地を売却し、そのお金をプレサンスへの返済金として使用しました。

 この一連の取引について検察は社員と理事を捕まえると、社員が否定しているにもかかわらず「社長が指示したんだろう」と執拗に供述を迫り、虚偽の自白を取ることに成功し、これをてこに社長の山岸氏も逮捕立件しました。
 しかし、社内報告書などの証拠はむしろ社長が社員に騙されたことを裏付けており、また一度は自白した社員も裁判にて「自白は強要されたもので社長は無関係」と証言し、裁判所も社員に対する検事の脅迫的な誘導があったと認めて山岸氏には無罪判決が下ります。この判決に検察はぐうの音も出ず、かなり珍しいことに控訴すらせずに確定しました。

 そんで以って今回の裁判へと至るのですが、今回登場した検事は社員を脅迫した検事です。その鳥しばれ中の録画映像が公開されたとのことですが、「失敗したら腹切らなきゃいけないんだよ。命賭けてるんだ、こっちは」などとのたまっていたようです。見事に失敗して冤罪を作り無辜の人物に裁判をかけたにもかかわらず、いまだに腹を切らないし、反省の態度も全く見せないあたり、この前流行ったドラマの「不適切にもほどがある」という単語が自分の中で浮かんできました。

 このクソ検事への尋問詳細については赤澤氏の記事をぜひ読んでもらいたいのですが、やはり常々思うのは裁判所から違法な捜査だと認定されたにも係わらず、冤罪事件に関わった検事らは一切処罰されず、むしろこのプレサンス事件や大川原化工機の冤罪事件のように検察が守ろうとすることに強い違和感を覚えます。
 唯一の例外は村木事件の時で、この時は関係検事らが逮捕され有罪となっています。確かにこの事件では前田恒彦が証拠捏造という桁違いの不正をやらかしてというのはありますが、それを言ったらほかの冤罪事件も脅迫や証拠隠避の類はどれも行われているだけに、検察内部の処罰度合いになんか差を感じます。はっきり言うと、この村木事件は被害者が官僚だったから、検察も内部処罰に動かざるを得なかったのではないかという気がします。

 話を戻すと、仮に検察自身が違法な捜査を認定された検事やその上長を内部処分するなど自浄作用を働かせるなら話は別ですが、実体はさにあらず、むしろ保護しようとすらします。無論これは権力の暴走もいいところであり、自浄作用が働かないというのであれば、裁判所に違法捜査と認定された案件の担当検事と上長に対する刑罰を法定化すべきではないかと思います。でないとこれ、後々大きな禍根になるように思えてなりません。

 恐らくそんなこと言ったら検事が捜査に躊躇するなどというでしょうが、立件した案件に無罪判決が下りようとも、違法な捜査さえしなければ処罰されないはずであり、そのような言い訳はナンセンスでしょう。前述の通り検察自身が自浄できないのであれば、ましてや大川原化工機事件のように明らかに法解釈を捻じ曲げて強引な捜査を続けた点も踏まえると、検察の捜査を国家法で制限してでも国民を保護する必要が出てきている気がします。
 具体的な処罰水準に関してはその度合いによって定めるべきであり、単純な法曹資格の喪失、懲戒免職はもちろんですが、上司の命令で関わらざるを得なかった末端の検事などについては、いくらかの温情措置もあっていいのではと思います。具体的には法曹資格の一時停止と研修活動の義務で、冤罪を起こしてはならないという研修コースをみっちり受けさせることを条件に業務復帰を認めるようなのがいいかと思います。

 でも実際にそんな研修ってあるのかな、もっと効果的なのないのかななどとしばらく考えてみたところ、一方的に筋のない主張で延々と怒鳴られ続けることを身を持って体感できる、コールセンター業務を半年間くらいやってもらうのが一番いいのではという結論に至りました。っていうか処罰以前に検事はこれ、絶対やった方がいいとすら思う。カミーユじゃないけど「一方的に怒鳴られる今日がどんなものか、教えてやる!」という具合で、殴られる覚悟のある奴だけ殴ってもいいじゃないですが、脅迫的な手段で捜査される側の立場に立ってもらうのは大事でしょう。

2024年6月9日日曜日

秋葉原通り魔殺人事件の救命現場

「血液が両手の指の間から大量に溢れ出して…」2人の命を救った”通りがかりの民間人”が見た、壮絶すぎる光景《秋葉原通り魔事件から今日で16年》(文春オンライン)

 今年に入ってから読んだ記事の中でばこの記事と、その続きの後半記事が一番というくらい印象の強い内容でした。書かれている内容は約16年目となる2008年の秋葉原連続通り魔殺人事件の糾明現場におられた方のインタビュー内容で、当時の凄絶な現場とその後も思い悩む日々などが綴られています。

 この事件に関してはもう若い人の間では知らないという人も出てくるくらい年月が経っており、また犯人であった男もすでに死刑が執行されており、徐々に過去の歴史となりつつある事件です。確か当時のブログにも書いていたかと思いますが、たまたまですがこの事件で亡くなった大学生が自分の実家近くに住んでおり、別の用事で仏具屋に線香を買いに行った際に「もしかしてご友人ですか?」とお店の方に言われています。
 はっきりとその大学生だった方である裏付けは取れてはいないものの、公判記事で亡くなった方の友人の証言では車に轢かれて亡くなられたことが書かれており、家族や友人などからその死が惜しまれていたことを見るにつけ自分もいろいろ思うところがありました。

 話を戻すと、その前の地下鉄サリン事件の現場でもそうでしたが、救命現場では「誰を優先して治療するのか」という判断が医療従事者に求められます。言ってしまえば助かる見込みのない人間を見捨てる判断も要求されるわけで、その結果救える命が増えたとしても、実際の現場の方からすればぬぐい切れない感情を持つのも無理がありません。
 実際に上記奇異のインタビューアーの方も大きな精神障害を負ったようで、記事へのコメントなどを見るとこの方面の精神治療やバックアップ体制が必要だという声も見られます。これが米国ともなるとシェルショックこと戦場帰りの軍人の精神衛生問題を常に抱えており、もし有効な制度や対策があるなら日本もこの際学んでおいた方がいいかもしれません。

 その上で、この秋葉原の事件が起きた当時は通り魔をどう防ぐかが散々議論されましたが、結論から言えばそんな方法はまずないでしょう。どんなに安定した世の中でも価値観がおかしかったり、自分に都合のいい考えを外部に強制する人間っていうのは出てくるものです。強いて言えば、この手の人間があまり出ないよう社会のストレス環境を下げる、精神衛生環境をマシな状態に保つことが最善策に思えますが、自分で言っててできるならとっくにやってるって思います。
 もっとも被害を減らす方法としては、無責任な言い方をすれば通り魔現場では即射殺を警察に奨励するのも一つの手かと思います。ほかの事件でもそうですが、犯行が警察官を含む大勢の目の前で行われ疑いようがない状況の場合、裁判なんてまどろっこしいことする必要あるのかと前から思っています。裁判せずに犯人を射殺する、または裁判するにしても非常に簡素な審理で終えるなどは、してもいいのではないか思っています。

2024年6月7日金曜日

鹿児島県警の情報遅漏事件に関する所感

 数年使用してきたPC用コントローラーがケーブルが弱ったのかなんか接続が突然切れることが増えてきたので新しいのを買いました。前のはスーファミ用っぽいのだったけど今度はPS用っぽいのにしたところ、振動用モーターがでかいのかやたら重く、ずしりと来るので、商品到着直後にまた別のブランドのPS用っぽいコントローラーを買っちゃました。そしたら今度は重さは許容できるものの、中のモーターが振動すると熱もってやけに手が熱くなるコントローラーで、握り具合も悪いため、また別のをさっき注文しました。
 無駄遣いがひどいと思いつつ、なんで普通のコントローラーをみんな作ってくれないんだろうと疑問に思います。ちょっとガチユーザー向けのコントローラーばかりみんな作ってない?



 話は本題ですがちょっと騒ぎになっている鹿児島県警の元部長による情報遅漏問題で、いくつか気になる点があるのでまとめます。

 この事件は鹿児島県警の元生活安全部長が定年退職後、県警職員による犯罪行為に対する捜査を本部長が隠蔽していたとして、その隠蔽していたとする事件内容とともに、ストーカー被害を受けていた被害者の情報を外部ライターに遅漏したことで逮捕されたものです。逮捕後の拘留継続を決める審理にてこの元部長は動機について、本部長が捜査を隠蔽していたからだと主張しましたが、これに対し鹿児島県警の本部長は否定しており、真っ向から意見が対立する様相を見せています。

 仮に元部長の言う通り、本部長が捜査を隠蔽していたとするのであればその情報を外部に伝えることは公益通報として捉えられ、非難されるものではないでしょう。ただ今回遅漏した情報の中には被害者のプライバシーに関する情報も含まれていたとされ、そこまで出す必要はあるのかというと正直疑問です。
 また上記リンク先記事にもある通り、情報の書かれた文書は元部長とは全く面識のない北海道のライターへと送られていたようで、しかも文書では「詳細についてはこいつに聞くように」と、元部長とは別の鹿児島県警関係者の名前や連絡先が書かれてあったとのことです。普通に考えると、元部長のこれらの行動は不自然としか見えません。

 何より自分が一番疑問に感じた点は、元部長の主張する通りこれが内部通報だとすれば、その通報先が何故外部のライターであり、警察庁ではないのかという点です。本部長の捜査隠蔽を糾弾するのであれば確かに鹿児島県警に内部通報することは望ましくないというかほぼ確実に闇に消されるだけですが、鹿児島県警の上級機関に当たる警察庁であれば、通報内容が真実かどうかを調べる権限も力もあり、同じ警察組織ということからも真っ先に訴える先であるように思えます。

 もちろん現段階では分からない点も多く、元部長がこうした行動に出ざるを得ない理由もあるのかもしれませんが、はっきり言えば現状においては元部長の行動に不審な点が多いようにしか見えません。また鹿児島県警はこのところ内部不祥事を連発してることもあり、捜査隠蔽の有無にかかわらず批判されるべき立場にあるのも事実です。なので私自身、あまり鹿児島県警の肩を持つ気にもなれません。

 どちらにせよ内容が内容だけに、この件については事の真偽をはっきりさせ、世間にも詳しく説明してほしいのが市民としての感情です。まぁ市民といっても、今の自分は上海市民なんだけど。

2024年6月5日水曜日

セクシー田中さん事件で思い出した過去の体験

 先日、ドラマ化に起因して「セクシー田中さん」の作者が自殺した事件についての日テレ報告書についてこのブログで触れましたが、その記事でも触れているように日テレの報告書は「何がしたくてこんなもの作ったのか?」と言いたくなるようなひどい出来でした。当事者であるにもかかわらずこれでもかと言わんばかりに他人事のような態度で、わかっちゃいるけどあまりコンプライアンス意識のない会社だなという印象を覚えました。

 そんな感想記事をまとめている最中、突然高校時代のある体験を思い出しました。どんな体験かというと、強いて言えば自分の中ではこの「セクシー田中さん」で起きた出来事に最も近い体験だったのではと考えています。

 事の起こりは私が高校生だった頃、高校生なのに中二病のまんまで当時私は小説家を目指して、多分今以上に平均で多くの文章を書いていました。書き上げた小説はバインダーに閉じて級友らに回し読みさせていたのですが、ある日ふと毎度毎度単発で書くのではなく、連載形式にしてみたらどうか、定期的な同人誌にして回覧させた方がいいのではないかと思いました。こうすることでほかにも興味を持って小説とかイラスト書く奴がいたら一緒に回覧できるし、自分も定期的な締め切りができてもっと追い立てられて小説書くようになると踏んだからです。

 そうして何人かと一緒に準備を進め、確か雑誌名はやっちまった感を出すため「出来心」だったと思いますが、栄えある第1号は無事に出すことができました。確か表紙のイラストとかも自分で描いてました。
 それ以前からも回覧させていたとはいえ、こうして同人誌形式にまとめたことで周りの反応は良く、自分も書いてみたいという奴も出てきたのでやる気満々なまま次の第2号も準備し、例によってまた自分が表紙を描いて作ることができました。

 ところがこうしてできた第2号を回覧させたところ、級友の一人が何故か「乗っ取った!」と言って、自分の描いた表紙の上に上書きするような形で別のタイトルやイラストを載せてきたのです。その張本人は仲間内の中でややカーストの高い人間だったこともありほかの級友も同調し、「残念だったな、花園」、「早くも編集長を追われたか」などと冗談めかして言ってきました。
 ぶっちゃけ、これ書いている現在ですら指が止まるくらい動揺しているのですが、当時の自分のショック感と言ったら甚だしいものでした。向こうが冗談でやっていることはもちろんわかっていたし、本気で雑誌を乗っ取るような意図もなければやる気も創意もないことも承知していました。しかしそれを知っててなお、自分が一から作った創作物をこのような悪ふざけで台無しにしようとする人間がいるものか、またそれを止めようともせず同調する人間しかいなかったという点に、端的に言えば絶望しました。少なくとも、丹精込めて書き上げた表紙イラストは上書きされて完全に台無しにされてましたし。

 その後どうしたかというと、回覧が終わって自分の手元にバインダーごと戻って来るや自分はその同人誌第2号を全員の見てる前で全部真っ二つに破きました。なんでこんなことをしたのかというともう自分自身にこれ以上続ける気力がなかったのと、平気で他人の創作物を汚すことのできる人間がいるというあきらめ感から、もう作ることはないだろうというのが正直な気持ちでした。その上で張本人を含むほかの級友らに「乗っ取ったというのだったらせめて自分たちで同じようなものを作ってみろ」と告げてその場を去りましたが、言うまでもなく、その後彼らは何一つ創作物を作ることはありませんでした。

 真面目にこの時の絶望感たるや半端じゃなく、誇張ではなく首吊ることすら本気で考えてました。自分の創作物を台無しにされたということよりも、人が頑張って作った創作物をああも汚すような行為を平気でする人間が当たり前のように存在している事実の方が自分にとってはショックで、マジでこの時は数日間、帰宅後は自宅で寝込み、何をする気力も湧かずしばらく無為に過ごしてました。
 なお当時級友らは自分が極端な行動を取ったとして謝るどころか自分を批判するようになり、自分も彼らとの交流を一時断ちました。その後、仲介に立つ人間を選んで自分が当時このように考えたと伝えた上で和解に至りましたが、若干自分が無駄に折れたと今は考えており、あくまで孤高を貫くべきだったのではないかという後悔をやや持っています。

 以上の経緯はあくまで自分の中二病体験ですが、それでも自分が経験した中では今回の「セクシー田中さん」騒動の原作者立場に最も近い体験だったのではないかと思います。その上でこの事件の当事者である日テレのプロデューサーと脚本家について自分の見方を言えば、どちらもクリエイターではない、だからこそ他人の作品を汚すことに一切の躊躇がない上、汚される側の立場や意識も現在進行形で全く理解できないのではないかという気がします。
 私自身がクリエイターであるなどと偉そうに言うつもりは毛頭ありませんが(そもそもジャーナリスト自認だし)、少なくとも上記体験から、自分が一から作った創作物を上書きされたり、無用な改変されたりすることで受けるストレスはとんでもなく大きいことはわかっているし、だからこそ他人の創作物にもそのようなことは決して行ってはならないということは理解しているつもりです。そうした感情が、はっきり言えば両者には全く感じられず、原作者である他人の痛みをわからないからこそああしたひどいことを平気で行えるのだと思います。

 また日テレの報告書を見る限りだと、「セクシー田中さん」では「これ意味あんの?」と言いたくなるような不必要で無用な原作改変が繰り返し行われていたようです。これら改変は「ストーリーや撮影の必要性があるから改変する」というより、「改変できそうなどうでもいい箇所があったら自分の爪痕を残すために必ず改変する」というような、自分が手を加えた証拠とばかりに改変を繰り返していたように見えます。
 もし自分が原作者の立場だったなら、多分こういう改変されたら言うまでもなくショックだし、作品をひたすら一方的に汚されているという風に受け取った気がします。なので原作者が改変に度々待ったをかけたり、ラスト2話の脚本を自ら手掛けたというのも当然の帰結のように思えます。

 なお自分が同じ立場だったら八墓村スタイルで突撃していた……と言いたいのですが、多分復讐心よりも絶望感の方が大きく、実際には何も行動できずに寝込むこととなっていたでしょう。そう考えると、自分の作品を守るためにあのような状況で脚本をチェックしたり、自ら脚本を書こうとした原作者に対しては、今更ながらそのバイタリティとプロ意識に強い尊敬心を覚えます。

 その上で、あくまで自分の勝手な憶測として述べると、原作者が自殺に至ったのは日テレや脚本家との対立に疲れたとか、世間の反発を感じたからとかそういうのではなく、過去のドラマ化で何度か経験していたにもかかわらず、また今回も結果的に自らの作品を汚されることとなった点について、自分の作品を守ることができなかったという絶望感が最大の動機だったのではないかという気がします。特定の誰かを恨んだりとかそういうのではなく、作品が汚されることが見えていながら、対策はしたつもりでも結局また繰り返してしまった自分への不甲斐なさからくる絶望じゃないのかと、いま改めて思います。

 最後にこの作品を汚される痛みについて、私自身も上記エピソードを思い出すまでいまいち実感がなかったのですが、もしかしたら経験しないとわからないものなのかもしれません。でもって「作品を汚す」という行為ですが、アニメや漫画の二次創作とかそういうのは当てはまらず、「作者の影を消そうとする行為」がこれに当たるような気がします。自分自身も作品を上書きされて駄目にされたこと自体よりも、軽い気持ちでああした行為を行おうとする悪意が一番理解できなかったし、気持ち悪いと感じましたし。

2024年6月2日日曜日

セクシー田中さん報告書の最重要ポイント

 先月の「けじめをつけた読売、けじめをつけられるか日テレ」記事で、漫画原作ドラマの「セクシー田中さん」問題で日テレが当初予定していた5月初めという報告書提出期限を守らなかったと触れましたが、5月末日の31日になってようやくこの報告書を出してきました。なんでこの日程になったのかは調査が遅れたとかそういう以前に、市民がこの問題を忘れたころに出そうとなるべく後ろに延ばした結果と推測しています。というのも、中身を読んだ限りだと2週間もあれば作れそうないい加減な内容だったからです。

 この報告書について自分も読みましたが、職業柄この手の報告書を見る機会が多い自分からすると幼稚な内容に見え、よくこんな内容の報告書を出すことに弁護士も署名したものだという気持ちを覚えました。具体的にどの点が幼稚なのかというと、内容の大半がドラマ制作前後の原作者とテレビ局のやり取り内容について書かれており、敢えてたとえるならあらすじばかりで埋めた小学生の読書感想文みたいな内容となっており、一番肝となる考察部分は逆に少ないという有様だからです。
 簡潔性を完全に失っており、恐らく敢えて読みづらい構成にして読む人を減らし、批判を避けようという意図もあるのではないかと思います。もし私に書かせたら、この1/3の分量でまとめてみせましょう。

 以上を踏まえて述べると、この報告書で真に読むべき最重要個所は67ページにおける「② 本件脚本家名のクレジッ ト問題」、またその詳細の書かれた38ページの「4 脚本家と原作者のネット投稿」の個所ではないかと思います。そこに至るまでの経緯もある程度把握する必要はありますが、極論を言えばこの部分のみでも報告書としては成立するかと思います。
 このように考える理由としては、そもそもこの報告書は原作者が自殺に至ったことについての背景や経緯を追い、今後このような事態を引き起こさないための対策をどうするのかという視点で作成されています。この視点に立つならば、それまでの積み重ねもあるもののの、原作者が自殺に至ったもっとも決め手となった点、逆を言えばこれさえなければという点を指弾することこそが最重要な意義であり、私の目から見ると報告書で言う「クレジット問題」こそがまさにその点だったと思います。

 ではこのクレジット問題とは何かですが、直接引用すると以下の通りです。

「上記のとおり、2023年11月1日に本件脚本家の降板と、本件原作者による脚本案をもとに制作を進めていくことが事実上決定した。その後、本件脚本家から、その決定は受け入れるものの、9,10話のクレジット表示について、本件脚本家の名前を『脚本協力あるいは『監修等と入れて欲しいとの要望がなされた。

 しかし、これについては本件原作者から反対の声が上がった。制作サイドとしては、9,10 話の脚本が交替になったとはいえ、8話まで一緒にやってきた脚本家である本件脚本家の 当該要望には最大限応えたいとの考えを持っており、本件脚本家の意向を汲み、『協力』あるいは『監修』等のクレジットを入れられるよう、原作サイドと可能な限りの交渉、協議を行っていた。一方で、本件原作者の意向に沿わない形で事を進めると、最悪の場合、9,10話の放送を認めてもらえないのでは、というリスクにも向き合う必要があった。

 他方で、本件脚本家からは、1話から 8話までの二次利用(配信やビデオグラム化などのこと)について、脚本家としての著作権を行使する可能性を示唆されたことで、状況はより深刻化した。こうして、日本テレ ビは、クレジット表記をめぐり、いわば原作者の意向と脚本 家の意向の板挟み状態になってしまったのである(以下「クレジット問題」という)。

 最終的に、日本テレビの判断のもと、原作サイド(本件原作者)の意向に沿う形でのクレジット表示となり、日本テレビはこの最終決定を本件脚本家に伝えたが、本件脚本家はヒアリングにおいて、『クレジットに関しては日本テレビに決定権があるはずなのに、日本テレビは最後まで自分を守ってくれなかった』と感想を述べ、9,10話 を降板になったことよりも、このクレジット問題に関する日本テレビの最終判断に強い不満を持ったと説明している。かかるクレジット問題をきっかけに蓄積した本件脚本家の不満が、結果的に後の本件脚本家によるSNS投稿に繋がったといえる。」

 原作者が自殺に至った直接的原因はやはり、脚本家の最終9、10話における原作交代に対する不満をぶちまけたSNS投稿にあることは間違いありません。ではそのSNS投稿に何故至ったのかというのが上記のクレジット問題で、要は9、10話に脚本家が自分の名前をクレジットに入れるよう要求し、もし入れなかったら脚本家の著作権を行使して番組の二次配信などを止めるよう主張していたそうです。
 これに対し原作者はきっぱり拒否し、またそれまでの経緯もあって原作者も著作権を行使して二次配信などを止めてくる可能性があったため、テレビ局は原作者の主張を採り、脚本家の要請を拒否してクレジットに入れなかったそうです。

 仮にこの通りの事実であれば、こう言っては何ですが脚本家の人の主張、そしてその後のSNSの行為はやはりどうかと私には思います。本人は「クレジットに関しては日本テレビに決定権があるはずなのに、日本テレビは最後まで自分を守ってくれなかった」と言ったそうですが、「日本テレビに決定権があるのだから、お前をクレジットに入れないのも日本テレビの判断だろ」としか言いようがありません。

 それにこの脚本家、原作に忠実云々をほっといてもそもそもおかしなムーブを見せており、なんでも「家庭の事情で短大に通えなかった」というキャラ設定を、「最近は短大進学者が少ないから……」という理由で、「家庭の事情で制服のかわいい高校に通えなかった」という設定に変えようとしていたそうです。
 短大の進学者が少ないは確かにその通りですが、「制服のかわいい高校」となると全く別物の理由になり、視聴者のそのキャラを見る目もまるで変ってきます。なんでこんな改変しようとするのか、自分ですら理解できないのだから原作者からしたら「駄目だこいつ」と思ってもしょうがないでしょう。実際、こうした訳の分からないアドリブ入れまくるほか、「原作者からの修正指摘を見るのがきつい」と漏らすなどしたことから、脚本家を降板させるよう原作者が要求したそうです。
 なおこの脚本化の「原作者からの指摘を見るのがきつい」という感想に関しては、ここだけの話だったのがプロデューサーが原作者に勝手に伝えたそうです。無駄に両者の関係を煽るあたりは名プロデューサーでしょう。

 ただ脚本家に関しては、「なんで途中で脚本降りたの」と問い合わせが来たり、その後の二次配信の著作権料とかにも影響することから、この問題について無視できなかったという事情は理解できます。とはいえ、関係者同士で話し合うのではなく内輪もめをSNSに投稿したのは完全に言語道断であり、発揮いうと原作者を自殺に追い込んだ張本人の一人であると言わざるを得ません。

 もっとも最大の戦犯となればやはりこのドラマのプロデューサーであり、「原作に忠実に作れる」脚本家を意図して選ばなかったり、そういった指示も脚本化にしなかっただけでなく、要所要所でかなりその場をしのぐための悪質な虚言を繰り返しています。一つ挙げると、原作者の脚本修正要望に対して撮影前なのに「もう撮影しちゃったから」などという嘘をついていたようです。こうした点も原作者の不満、不信につながっていったのでしょう。
 また上記の脚本家のSNS投稿に関しても、投稿前にその意思を示唆されていたそうです。その際に原作者と脚本家の誤解を解くなり、間に入るなりきちんと対応しておけばこんな悲劇はまず起きなかったでしょう。また投稿後に関しても「法務部と相談したけど個人の投稿を取り下げるよう要求できない」ということを理由に、何の対応もしなかったそうです。要するに、法律を盾に両者の和解に努める努力を放棄したことの言い訳ばかりがつづられています。

 最後にこの問題で一番根深い点として、誰一人責任を取っていない点です。はっきり言えばプロデューサーが原作者の意図をないがしろにし、自らの怠慢により原作者と脚本家同士の憎悪を煽り立て、SNS投稿に関しても知らぬ存ぜぬをやらかした結果に悲劇が起きたにもかかわらず、日テレはこのプロデューサーはおろか、その上長を含め誰も責任となる処分を取っていません。そもそもこの報告書自体が、長々とどうでもいいドラマ制作の経緯を書くなどして責任の所在をあいまい化している節があり、なるべくうやむやにさせようという意図のもとで書かれてあります。

 改めて述べると、ぶっちゃけこの報告書に求められているのは犯人捜しであり、責任を究明し、二度とこのようなことを繰り返さないよう内外に示すため果断に処分することにあるはずです。それこそが最大の対策になるはずなのですがそれを完全に放棄して、やるだけのことはやった的にこんな報告書を上げてくるあたり、無反省もいいとことでしょう。
 っていうか漫画家協会も、「きちんとした体制を見せない限りは日テレに原作を提供しないよう推奨する」的な声明を上げてもいい気がします。これくらいやらないと、多分彼らも反省しないでしょう。

2024年5月26日日曜日

国松長官狙撃事件の自称犯人の逝去

警察庁長官銃撃「自白」の男死亡 中村泰受刑者、別事件で服役中(時事ドットコム)

 前略、1995年に起きた国松長官の狙撃事件だと自称していた中村泰が獄中で病死したそうです。この人物については以前、事件を捜査していた元警察の方の手記を読んだことがあり、その内容から判断するに私もこの事件の新犯人は彼だったと思います。

 当時、オウム事件で世の中が大騒ぎとなった中で起きたこの事件ですが、警察は捜査かく乱を狙ったオウムによる犯行だとにらみ、またオウム真理教信者である警官から自白を得たとして彼を逮捕するもまともな証拠は出ず、結局その自白した警官も嫌疑なしで放して時効を迎えています。
 その時効時に警察は、やはり犯人はオウム関係者であると思っていると記者会見で述べましたが、確たる証拠もないのに憶測をあのような形で述べるのは、オウムに肩入れするつもりこそないものの、公平性に明らかに欠けた発言であり現在においても強く疑問視しています。

 話を中村泰に戻すと、彼の場合は米国で射撃訓練を受け、また極端な国粋主義者で警察関係者をつけ狙う動機もさることながら、彼の逃走時にいた協力者がほぼはっきり割れている点から言っても、彼が犯人であると私には思います。その逃走ルートも犯人のみにしか知れない情報が多く、ややうのみにし過ぎとも思いますが十分立証の根拠足るのではないかと思っていました。
 しかし自白さえとれば何でも立件して冤罪を何度も引き起こす日本警察のくせして、何故かこの事件は犯人が自白しているにもかかわらず立件が見送られています。そのりゆつ押しては時効以前に、一度オウムだと見立てた筋から外れる、要するにあてずっぽうな捜査を当初していたことを認めたくないが故の結果じゃないかと考えています。だとすれば呆れるばかりで、こうした体質についてはもっと警察を担当する国務大臣とかがもう少し手を入れてもいいじゃないかと思います。

 なお以前にもネタにしていますが、狙撃された国松長官はコルトパイソンの弾を数発受けながらも無事生還しており、バイオハザードのタイラントよりも強いのではないかと騒がれました。まだご存命とのことで、生命力に関してはマジビビるくらいすごいと私も思います(;´・ω・)