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2024年10月27日日曜日

幕末一のイケメンは誰か?

 部屋を模様替えしてまたパソコンデスクを通常の椅子から座卓に戻しました。夏場だけ椅子で冬は布団にくるまるため座卓にしていますが、座卓の方が姿勢が良くなる気がします。

 話は本題ですが例によって漫画「だんドーン」の最新刊を買ったところ、長州の久坂玄瑞が作者の奏三子氏的に最大級のイケメンに描かれていました。彼自身の肖像画や写真はなく、伝わっている肖像画は彼の近親者を元にして描かれたものなのですが、どうもその肖像画を気に入ったのかめっちゃイケメンにされています。
 もっとも久坂は身長180㎝と長身で、実際にイケメンだったという証言も多数あるので間違ってはいないですが。

 なお一緒に登場した高杉晋作は写真の通りに馬面で、セリフにもはっきりと書かれていました、この馬面という単語を聞いて私の中では、真っ先にカープレジェンドの佐々岡真司氏の顔が浮かんできた辺り、自分の中の馬面のテンプレートはやはり佐々岡氏なのだろうと再確認しました。

 話を戻すと久坂がイケメンに描かれていたわけですが、仮に幕末で最強の剣士ならぬ最強のイケメンを選ぶとしたら誰になるのか、割と盛り上がりそうなネタでありながら実際にはあまり見たことがない議論であるような気がします。
 同じく「だんドーン」では桂小五郎もイケメンに描かれていて私も彼がイケメンであることに異存はないものの、明治期の写真が完全に村上ショージ氏なため、幕末最強と言われると「村上ショージが?(;´・ω・)」という感じがするので、素直に首肯できないところがあります。

 逆に、誰からもイケメンであることに異論がない人物を挙げるとしたら間違いなく新選組の土方歳三が挙がってくるでしょう。写真を見る限り現代から見てもイケメンですが、幕末当時においても非常にモテたと自分で言っており、最強イケメン候補の一つとして申し分ないでしょう。
 逆に「イケメン化される幕末人物ナンバーワン」こと沖田総司に関しては、イケメンだったという声は当時において全く聞かれず、肖像画もありていなヒラメ顔な辺り、候補には入ってこないでしょう。

 また馬面枠で探した場合、外務大臣として有名な陸奥宗光もかなりの馬面でありながらイケメンだと思います。ちなみに奥さんも美人で有名です。

 またイケメン候補に戻ると、時代がやや幕末からずれはしますが日本海海戦で有名な東郷平八郎も若いころはマジやばいくらいのイケメンです。ケツ顎系が多い薩摩出身ながらすらりとした甘いマスクをしており、何故薩摩からこんなイケメンがと思うくらいの美男子で、この人も十分最強候補に入ってくるでしょう。

 以上を踏まえた上で敢えて私一押しのイケメン候補を挙げるとしたら、幕臣の山岡鉄舟がやっぱり最強イケメンじゃないかと思います。この人も身長が180㎝を超える長身で、しかも恵まれた体躯でかなりがっちりしていますが、顔も細面ではないですがハリウッドのガチムチ系イケメンをしており、しかも笑顔の写真とかも残っていてめっちゃかっこいいです。性格もマジイケメンで明治天皇だろうがお構いなしに相撲でぶん投げたりと公正公明で筋道を大事にする性格イケメンでもあり、もっと人気になってもいいのにとすら思う人だったりします。

2024年10月22日火曜日

語られなくなった歴史

 大分前に江戸時代の農民の生活ぶりはあまりわかっていないという記事を書いていますが、この記事の中で慶安のお触書について触れています。これは知ってる人には早いですが、農民は酒を飲むな、米食うな、死ぬまで働けなどというブラック企業の社内規定未定な内容で満載な、幕府がその所領もしくは全国に出した通達とされていました。
 しかし実際に内容通り施行されていた形跡が見えないどころかこの文書の存在に触れる他の文書すらなく、現代においては偽書の類とされ、仮に実際に発行された文書であってもごく限られた地方でしか出回っていないものとほぼ確定されています。そのためかつては小学校の歴史の教科書などにも幕府の農民弾圧の根拠として教えられていたのですが、現在では教育現場で触れられることもなくなっていると聞きます。

 私が小学生だった頃はまだ現役だったため、この慶安のお触書についても覚えさせられました。ただ教える塾講師からは、「飲酒やたばこが禁止されていたはずはなく、偽物である可能性高いと現代では言われている」と補足してくれており、そうした背景もあるのかテスト問題に出てくることもありませんでした。
 前述の通りこの慶安のお触書は偽書または地域限定文書だった可能性が高いのですが、江戸時代が過ぎた後の時代に妙な形で見つかり、取り上げられたことで、全国的に出されていた布令と勘違いされて文書発行当時よりも無駄にメジャーとなった節があります。敢えて現代にたとえるなら、さだまさしの「関白宣言」の歌詞が数百年後に掘り起こされ、「20世紀末の日本において主婦は虐げられる生活を強制されていたのだ!」といわれるようなものでしょう。

 こうした慶安のお触書に限らず、かつては教育現場でも教えられながらその後の研究によって否定され、なかったことにされる歴史は他にもあります。今現在で一番ホットなのはやはり坂本龍馬で、彼の功績とされる薩長同盟も龍馬が仲介する以前に成立していたという説すらあります。また船中八策に関しても後年の創作説が強まっており、「幕末の功績をでっち上げていた胡散臭いコンサル」という評価すら出てきています。

 以前にも書いたかもしれませんが、こうしたなかったことにされる歴史というのは大体後年の創作または恣意的解釈に起因しますが、その発生原因を追えば「こうであってほしい」という願望に端を発する気がします。慶安のお触書に関しては「幕府が農民を弾圧していてほしい」、龍馬に関しては「ロマンあるキャラがいてほしい」などがあり、私が以前にJBpressで書いた元寇の根拠史料とされた「八幡愚童訓」も、武士は情けなくて神仏の力で撃退できたというまじないが求められたのでしょう。

 その理論に乗っかると、地味に戦時中の日本海軍戦闘機であるゼロ戦も「神話」の一種ではないかと思う節があります。というのも米軍は開戦当初にゼロ戦と、陸軍戦闘機の一式こと「隼」を区別できておらず、同じ戦闘機とみていました。そのためゼロ戦の撃墜数には隼の分もカウントされている、というより実際は隼の方が活躍していたという意見すらあります。
 では何故隼よりゼロ戦がもてはやされたのかというと、それはやはり陸軍悪玉・海軍善玉論が影響しているように見えます。陸軍は弱いくせに偉そう、海軍は強くてまともだったけど陸軍に邪魔されていたという図式が戦後直後から当てはめられ、この流れでゼロ戦も持ち上げられてた節があるような気がします。

 そういう意味では「願望に都合のいい歴史解釈」というのは、やはり注意してみなければならないでしょう。ドラマチックな背景とか動機というのは案外なく、歴史というのは意外にシンプルかつシビアなものであり、無駄にロマンある内容ほど創作である可能性が高いからです。

 このほか今評価が変わりつあると思う人物を挙げるとしたら、足利尊氏かもなぁ。彼の場合も、彼を否定したいとする勢力が一時多かったことだし。

2024年9月14日土曜日

イスラム教の賢い税政策

 社会学を先行していたこともあり比較文化論的な話は前から好きなのですが、この手のもので特に良く読むのが宗教学者の島田裕巳氏の本です。私自身は「神はいない(でも妖怪は絶対に存在する)」という無神論者ですが、宗教やその価値観はオカルト趣味もあって昔から好んでおり、ちょうどこの辺を突くかのよう島田氏の本は感性をくすぐるので新刊が出たらよく買っています。
 てな感じでこの前買った「宗教戦争で世界を読む」ですが、この本では宗教が主導または宗教間で起きた戦争を取り上げてその原因や結果などについて書かれてあるのですが、個人的に一番面白いと思ったのはイスラム教の人頭税ことジズヤの話でした。

 知っての人には早いですが、かつてイスラム教は非イスラム教徒に対しては人頭税という税金を課していました。これだけ聞くとひどいことするなという感じがしますが、実際には当時のキリスト教圏ではキリスト教以外の活動や信仰を一切認めず、キリスト教内でも異端に指定されたら弾圧されるような状況の中、イスラム勢力圏では税金さえ払えば自由な信仰(当初はキリスト教とユダヤ教限定だったが後にこのほかの宗教にも拡大)を認めており、当時としてはむしろ他宗教に対し非常に寛容な態度だったそうです。
 それどころか、このジズヤはイスラム教国にとっては重要な財源でもあっただけに、払ってくれる他宗の教徒に対してはウェルカムな態度すら持ち合わせていたそうです。実際、キリスト教圏から追われたユダヤ教徒を「こっちにおいでよ(=゚ω゚)ノ」てな感じで迎え入れたこともあったそうです。まぁユダヤ人は金持ってそうだしね。

 こうした財源的な意味でも価値を持つジズヤですが、イスラム教圏の拡大においても大きな役割を果たしていました。というのも基本どの時代、どの国にもいるでしょうが、周りや親が信仰してたるから自分も何となく信仰を続けているだけのなんちゃって教徒は世の中溢れています。そうした人たちに対してもジズヤは課されるのですが、先にも述べた通りこれはイスラム教に改宗すれば払う必要はなくなります。
 このように、他宗の信仰心の薄い層に対し「税金払わなくて済むなら(´・ω・)」という感じでイスラム教に誘導させる効果もジズヤは持っていたそうです。でもってイスラム教は生活そのものが信仰というぐらいに戒律や作法が厳格な宗教で、一度はいるとなかなか抜け出せられない特徴を持ちます。そんなイスラム教の特徴と相まって、ジズヤの効果はウマイヤ朝やアッバース朝時代のイスラム教の急拡大を支えたと言われています。

 ただ、これまた先にも述べた通りジズヤは財源としても非常に重要な収入源でした。そのため一部地域では他宗の教徒が集団でイスラム教に改宗しようとしたら財源がなくなることを恐れた領主がそれを止めようとしたという、本末転倒な話もあったそうです。人間、やっぱりお金が大事。

2024年8月31日土曜日

戦国大名の本拠地移転

 相変わらず政策議論の盛り上がらない自民党総裁選ですが、かつてあったのに今や全く語られなくなった政策議論として、道州制と首都移転があります。どちらも重要だと思う議論でしたが、今やだれも関心がなく今後も盛り上がることはないでしょう。

 このうち首都移転についてですが、戦国時代においては地味に本拠地移転は非常に重要な要素であったと思います。この本拠地移転を度々繰り返したのは言うまでもなく織田信長で、父の代からの清州城からスタートして、美濃攻めのために前線に近い小牧山城へ引っ越して以降、岐阜城、安土城と次々に拠点を移しています。実現こそしなかったものの、安土城の次には本願寺跡地、即ち大阪への引っ越しも検討していたと言われており、戦国の引っ越し王の名は伊達じゃありません。
 この信長の本拠地移転の目的は色々ありますが、第一に領土拡大に当たっての前線により近いところから迅速に指揮を行うためにあると言っていいでしょう。交通の便はさることながら、当時の中央(京都)に近づくように移しており、非常に合理的な判断をしていたと言えます。

 逆にどれだけ合理性がありながらも本拠地移転を行わず、非常に惜しいことをしていたと思うのが武田家と上杉家です。武田家は滅亡するまで甲斐(山梨県)の躑躅ヶ崎館を本拠地としていましたが、ここはお世辞にも交通の便がいい場所とは言えず、また前線となる他国の境界にも近い場所ではありませんでした。それ以前に、石高の良くないエリアでもあったし。
 事情を無視して合理性から考えれば、今川家滅亡後に占領した駿河に本拠地を移していれば徳川家、北条家の眼前でややリスクはあるものの、主力を前線へ動かしやすく武力で優っているというのなら領土拡大は確実に捗っていたでしょう。しかし武田家はそのような本拠地移転はとうとう行いませんでした。

 上杉家に至ってはもっと影響が大きかったというか、仮に上杉謙信が本拠地を越後(新潟県)から峠を越えた北関東地方に本拠を移してさえいれば、きっと彼は北条家も打倒して関東を支配していたことでしょう。というのも上杉家は桶狭間の戦いより前はほぼ毎年関東地方へ遠征し、北条家の支配を切り崩しては領土を拡大してはいたものの、冬になって越後に帰り路が雪で閉ざされると、北関東で北条家が盛り返して領土を奪い返し、一度は帰順した豪族らも再び北条家につくということを繰り返していました。
 仮に上杉謙信が北関東に本拠地を置き関東地方に対し年間を通してにらみを利かせていれば、小田原方位にも成功しているだけに関東地方一円を支配できたことでしょう。逆を言えば何故それをしなかったのかと言えば、本拠地を移せなかった事情があったということになります。

 武田も上杉も共通していますが、本拠地を移そうにも空いた元本拠地を維持する、任せられる人材や基盤が両家にはなかったため、どちらも本拠地を移すことができなかったと考えられます。電話のある今の時代と違って通信状況の悪かったあの時代、反乱が起きても遠隔地に連絡がいくには数日は必要で、仮に本拠地を移して反乱が起きようものなら根拠地を失う羽目となります。
 また拠点防衛を任せようにも、下手な人材に任せたら他勢力に切り取られるし、また有能な人物に任せたら裏切られて独立される恐れがあります。この点、信長は自らの息子らに多くの領土管理を任せ、与力というか参謀に重臣を置いて補佐させています。

 こうした領土管理面の問題もさることながら、兵の動員面でも彼らは本拠地を移せない事情があったと推察されます。当時、織田家を除いてどの勢力も自領の農民を主兵力としていましたが、その動員は大名自らというよりは各地の豪族任せな一面がありました。
 具体的には大名は各地の豪族に動員を命じ、これに応じた豪族らが兵を引き連れ集合する形態が主でした。大名自身も直接動員力を持っていたものの、全体に対する比率はそこまで高くなかったと言われます。

 こうした動員方式を取っていたことから、基本的に大名も豪族もその土地に縛られていた面があります。自分の兵隊を自由にどこでも移動したり配置したりすることはできず、戦争のたびに引っ張っていくようなありさまで、本拠地を移転したところでその兵士たちも一緒に移転できるというわけじゃありませんでした。なのに本拠地を移転しようってもんなら、恐らく兵士のみならず、支配地が地元に縛られている豪族たちも拒否したことでしょう。
 唯一の例外は織田家で、織田家のみ当時としては農業に従事せず、戦にのみ専従する専属兵士を大量に抱えており、信長の命令一つでいつでもどこでも移動させることができました。部下の家臣らも同様で、織田家の家臣らはある時期までほとんど領土を与えられず、俸禄のみで雇われていたため、上司である信長の命令一つでいつでもどこでも転勤することが可能でした。
 こうした織田家の動員体制には争っていた毛利家の人間からも、「織田家はうちよりもかなり先を行っている」と舌を巻くほどでした。

 こうした動員体制から信長はより領土拡大や支配に都合のいい本拠地へポンポン移動できたのに対し、武田や上杉は本拠地から動けず、むしろ領土が拡大するにつれてその兵士の前線までの移動がより長く困難になっていく面もあったように見えます。そうした点も考慮すると、織田家以外の勢力はその地元民を使う動員方式により、領土拡大はある範囲で制限がかかりストップしてしまう傾向もあったように見えます。

 以上を総括すると、腰が落ち着かず本拠地を度々移していたことから信長は支配地を拡大していったように見えますが、むしろ本拠地を何度も移せるくらい融通の利く動員体制を築いていたからこそあれだけ勢力を拡大できたと言えるかもしれません。

 なお織田家以外に本拠地移転をした大名としては、徳川家が岡崎城から今川家滅亡後に浜松城へと移し、岡崎城は長男の信康に任せていました。ただこの結果として家臣内で岡崎派と浜松派の派閥争いが起こり、岡崎派に担ぎ上げられた信康は一悶着あって切腹させられる羽目となっているだけに、領土の遠隔管理の難しさが見られます。
 このほか北条家も伊豆で旗揚げした後、勢力拡大初期に本拠を小田原城へと移しています。これは単純に伊豆だと実際行ったから実感わきますが、半島の出口抑えられたら一瞬で密室が出来上がるほど交通が閉ざされており、支配拡大にも困難な地域だったから移って当然とも言うべき選択です。逆に小田原はちょうど関東から東海へ至る入り口に当たり、交通面でも要衝であったことからいい場所柄だったのでしょう。

2024年7月29日月曜日

桜田門外の変に参加した薩摩藩士とだんドーン

 「ハコヅメ」でおなじみの奏三子氏の幕末漫画「だんドーン」の4巻がこの前発売されて読みましたが、よくもここまで桜田門外の変を掘り下げたものだと感心して読んでました。特に、この桜田門外の変に水戸藩士に紛れて薩摩藩士が一人だけ参加していたということは知ってましたが、その人物がどのような人物であったのかを、この「だんドーン」で初めて知りました。

有村次左衛門(Wikipedia)

 その唯一の薩摩藩士が上記の有村次左衛門で、負傷した井伊直弼を駕籠から引きずり出し、彼の首を取ったのも彼だったそうです。私はてっきり水戸藩士の参加者と仲の良かった薩摩藩士が助っ人的に参加したのだとかねて思っていましたが、実際には島津斉彬死後の調停工作で薩摩藩と水戸藩がタッグを組んでいた際、連絡役などで両藩の仲介となっていたのが彼だったそうです。そうした縁からこの桜田門外の変にも参加したとのことでしたが、まさか井伊の首まで取っていたとは。

 それでこの「だんドーン」の襲撃シーンですが、非常に迫力のある重苦しさが強い仕上がりとなっています。守勢の彦根藩士らの奮戦ぶりもしっかり描いており、手や指が切り裂かれるシーンなども実際の襲撃場面をしっかり研究して描かれているように見え、「大老の井伊が暗殺された」という教科書の中では字面だけの場面がこれほど迫力ある場面だったとはとこれまた感心させられました。

 中でも、水戸藩士らに囲まれる中で井伊がいる駕籠を孤軍奮闘とばかりに彦根藩士が守る中、上記の有村次左衛門が示現流ならではの咆哮を挙げて襲い掛かるシーンは見ていて強い恐怖感をこちらも覚えました。
 知ってる人には早いですが、薩摩藩士が習っていた薬丸示現流という流派は、一太刀目でで必ず相手を殺せるよう全力で振りかぶる剣法で、外したら隙が多いものの、下手に受け太刀したら刀ごと真っ二つにされることもあったという防御を捨てた捨て身剣法として有名です。しかもそんな全力斬りを例の「キエー」という奇声とともに振りかぶってくるのだから、相手からしたら恐怖以外の何物でもないでしょう。

 しかもこの桜田門外の変では乱戦入り乱れ、襲撃側も同士討ちするなど現場は非常に混乱していたそうです。そんな乱戦の最中、奇声挙げてこっちに大きく刀を振りかぶってくる示現流の使い手を前にしたら自分だったら逃げ出すと思います。このあたりの示現流の使い手の恐ろしさが「だんドーン」では非常にうまく描かれており、実際に単行本の作者コメントによると「実に立派な襲撃でした」などと水戸藩士のようなメールが送られてきたそうです。

 その作者の奏三子氏自身もこの回で、「これからが維新の始まりだ」ということをにおわせるセリフを入れています。「ハコヅメ」の時も思ってましたが変なところで凝り性で手を抜かない人のようで、歴史考証やストーリー構成が非常によく練られており、「陽気な人斬り半次郎」こと桐野利秋も次の巻から登場するとのことなので非常に楽しみです。
 ちょっと大げさかもしれませんが、非常に構成が優れるだけに将来大河ドラマの原作に使われるかもしれません。

2024年7月4日木曜日

武田信玄はクズ

 しかのこのこのここしたんたんが耳から離れない……。

 話は本題ですが以前にJBpressで「評価が逆転した歴史人物」として、石田三成や田沼意次を取り上げたことがありました。この記事では評価がいい方向に逆転した人物を挙げているのですが、好評だったら続きとして逆方向の評価が下がっている人物を取り上げようかと思っていました。ただあんま好評でなかったのと、書き方によっては反発される可能性が大きいと思って結局執筆を見送りましたが、もし敢えて今書くとしたら、武田信玄について書いていたでしょう。

 武田信玄とは言うまでもなく甲斐こと現在の山梨県を根城にした戦国大名で、織田信長が最も恐れ、また三方ヶ原で家康にうんこ漏らさせたことからも、人によっては戦国最強武将(上杉謙信を除く)とも呼ばれる超有名戦国武将です。実際に彼の存命中に武田家は最盛期を迎え、甲斐一国から現在の長野県こと信濃も併呑するなど周囲に押しも押されぬ勢力を築いてはいるのですが、近年見ている限りだと彼の評価は年々下がっているように思えます。
 一体何故下がっているのかというと、外交にあまりにも一貫性がなく、その結果として大きな負債を後代の武田勝頼に残し、結果的に武田家を滅亡に追いやったとみられるようになったからです。

 前述の通り、信玄は甲斐一国から信濃、あと静岡県東側ことの現在の静岡市(当時は駿河)に至るまでの勢力範囲を築きました。これだけ見れば戦国大名としては十分評価に値するのですが、ここに至るまでの過程で、外交で反復常ならぬ態度を繰り返した結果、周辺大名からは総スカンを食らってたりします。

 元々、武田家は今川家と家族ぐるみで仲が良く、今川家に嫁いだ姉妹を見に父親が駿河を訪れたところで信玄は親父を追放し、家督を乗っ取るくらい今川家とは仲が良かったです。自分で書いててアレな気がしますが。
 その今川家は国境を接する北条家とは、その始祖の北条早雲の代から親戚ぐるみで付き合っており、武田家以上に深い関係を保っていました。そうした関係で、なおかつお互いに国境を接していたことから、武田家、今川家、北条家の三家は文字通りの三国同盟、いわゆる甲相駿三国同盟を結び、今川義元が桶狭間で亡くなるまではの同盟は非常に機能しました。

 特に、武田家と北条家の共通の敵である上杉謙信に対し、謙信が関東に来るや武田家は信濃北部に攻め入り、また謙信が越後に戻るや北条家は関東北部に攻め入るという、交互に殴りかかる戦略で謙信を大いに苦しめました。多分これがなければ、謙信は関東全域を支配した可能性もあったでしょう。

 しかし1560年の桶狭間の戦いで今川義元が亡くなるや、武田家は今川家に対しそっけなくなります。跡を継いだ今川氏真を頼りなく思ったのか、最終的には徳川家康と組んで一緒に今川家に攻撃して滅亡させ、徳川家は浜松を、武田家は駿河を支配するに至ります。
 これに怒ったのが北条家で、たくさん親戚もいることから武田に対抗して今川家に援軍を送るほどでした。これにより、武田家と北条家の同盟も解消となり、昨日の友は今日の敵と相成ります。

 ただこうした今川、北条との同盟関係の破綻以上に武田家にとって大きかったのは、今川家から嫁を貰っていた嫡男の武田義信が抗議の自殺を遂げたことでしょう。これにより信玄は跡継ぎを失い、後継として自分が滅ぼした諏訪家の姫から生まれた武田勝頼を指名することとなります。
 しかしこの継承は非常にややこしいものがあります。勝頼はすでに諏訪家を継承することとなっていたため、武田家を率いる立場にはなるものの、武田家の正当な継承者としては指名されませんでした。武田家を継承することとなるのはあくまで勝頼の息子であり、勝頼はその後見人としての立場しか認められないという不安定な立場にされたため、後の武田家の統率に影響を与えたとされます。

 こうして対外的にも対内的にもヒビを入れた後、信玄は長年の敵であった上杉謙信とは足利義昭の斡旋を受ける形で和睦します。これ自体はおかしいものではないものの、結果論となりますがむしろもっと早くに謙信とは和睦し、織田家や徳川家と戦っておけばよかったのにということになります。
 むしろ対上杉に集中するため、織田家や徳川家とは互いに不干渉という同盟関係を維持したことで、結果的に両勢力の拡大を許してしまい、武田が天下を取るチャンスをみすみす失ってしまったともいえます。まぁこれは予測し辛いが。

 結果的には外交方針に一貫性が余りにもなく、また今川家のように超絶仲良かった他勢力も裏切ったことから信用を無くしており、次代の勝頼の代にいろんな負債を残すこととなりました。その勝頼は上杉家の後継争いの際に上杉景勝に肩入れするなど、より一層上杉家の関係強化に取り組んでますが、時すでに遅しで織田家にあっさりとやられることとなります。
 単純にこのような反復常ならない態度から、武田家の孤立を信玄は招いたと思えます。はっきり言えば三国志の呂布のような態度もいいところで、名将と呼ばれるにはあまりにも黒すぎる気がするのですが、この点は織田家に恐れられた、うんこ漏らされた家康が「負けるのも仕方ない相手」と持ち上げたこともあって、なんか名将扱いされるようになった気がします。

 実際のところ、信玄の代に武田家は織田家とは直接ぶつかっていないことから、本当に武田家が強かったのか疑問視する向きもあります。勝頼の代には長篠の合戦で織田家に大敗してるし、またその滅亡時も信長の息子の信忠が軽く攻撃仕掛けるつもりで進軍したらめちゃよわよわで、そのまま武田家を丸ごと潰しちゃってますし。
 なお以前にもこのブログで書きましたが、武田騎馬軍については実際にはその存在は怪しいです。存在したか定かじゃないのに代名詞のように語られてきた辺り、武田家の実力誇張の大きさが知れます。

 以上のような見方から、近年に武田信玄はクズという評価が強まってきており、少なくとも以前のような完全無欠な名将という評価からは陥落しています。領国統治に関しては確かに見るべき点がありますが、上記の通り外交姿勢や拡大戦略では疑問に思うところがあり、やはりその点も評価に酌むべきでしょう。
 もっとも拡大戦略が二転三転したのは周囲と同盟結んで敵を絞ったところ、その絞った先の敵がよりによって戦国最強の上杉謙信で、どうあがいでも彼を攻略できなかったためにあります。仮に相手が謙信でなければ北進に成功してもっと勢力も拡大できたかもしれませんが、この点は確かに不幸な点だったと言えるでしょう。

2024年4月28日日曜日

日本で影響力のデカかった暗殺事件

【すごい無駄遣い】133人に対し45億円、1度は廃止の憂き目にあったパスポートの電子申請(前編)(ロボティア)

 上のロボティアに書いた自分の記事ですが、アップロードからわずか数時間で2万PVまで行ったそうです。手を抜いたつもりはなかったもののそこまでしっかり詰めて書いたわけではなかったので正直以外であるとともに、やはりこういう小ざっぱりした分量の記事のが受けるのかなと正直迷ってます(;´・ω・)

 話は本題ですが先日発売された漫画の「だんドーン」の3巻を読みましたが、この手の幕末漫画にしては非常に珍しいというか、桜田門外の変に至るまでの過程が細かく書かれているような印象があります。日本の幕末はペリーの黒船来航(1853年)から始まるとされていますが、娯楽作品においてはむしろこの大老であった井伊直弼が暗殺された桜田門外の変(1860年)から始まるのが大半です。「あずみ」の幕末編に至っては、あずみ自身が井伊直弼を暗殺するところから始まるし。
 にしてもいま「あずみ」と入力したら「安住」と変換され、後の世に「安住」というアナウンサー物語の漫画が連載されるのかと思いました。まぁ彼の人生は漫画化しても受ける気がするけど。

 話を戻すとこの桜田門外の変は歴史的にも大事件というか、日本史への影響度は半端じゃありません。仮にこの事件が起きるのが1年早くても、1年遅くても、その後の日本の歴史は大きく変わったんじゃないかと思う節があります。
 1年早ければ安政の大獄で獄死した人間が生き残るものの、かえって優秀な人材が多くいて意見がまとまらず、また幕府への権威も残って明治新政府は発足しなかったかもしれません。逆に1年遅ければ有為な人材が多くなくなり、攘夷ムードが停滞してこの後にオピニオンリーダーとなる長州藩が台頭しなくなったかもしれません。

 以上のシミュレーションを踏まえると、暗殺による政局全体へのインパクトとして桜田門外の変は日本史においてもトップクラスに入るような気がしました。でもって、もっと他に影響力のデカい暗殺事件はなかったものかと思案を巡ったところ、やはり歳出駅にトップとなるのは歴史的にもエンタメ的にも本能寺の変かという結論に至りました。
 言うまでもなく、この本能寺の変がなければ豊臣秀吉の台頭はなく、徳川家が天下を取ることもなかったと言い切れます。武田信玄、上杉謙信亡き後で、また49歳とまだまだ元気だった当時の最高権力者の織田信長の急死のインパクトはあまりにも大きく、暗殺実行者である明智光秀もある意味でMVPみたいな人物と言えるでしょう。

 このほか影響度の大きい暗殺事件としては、鎌倉幕府3代目将軍であった源実朝の暗殺が思い浮かびます。仮に実朝が暗殺されなくても承久の乱は起きたかもしれませんが、鎌倉幕府と天皇家の対立が一気に先鋭化するきっかけになったのと、鎌倉幕府の世襲制が終わることとなった、でもって後の南北朝の対立の原因となった天皇家が二派に分かれる遠因にもなったことを考えると、長いスパンで見ての影響度なら本能寺の変を超えている気がします。

 あと単純に失った人材の惜しさで言えば、原敬の暗殺事件が浮かびます。仮にこの事件がなければ原は確実に元老となっており、その後の総理指名権と相まって日本政治をリードしたことを考えると非常に惜しい人材をこの時失った気がします。

 逆にですが、「だんドーン」にも出てくる大久保利通が暗殺された紀尾井坂の変については、暗殺事件としてみたらその歴史への影響度は高くないと思います。というのも、大久保はすでにあの時点で明治政府が目指す方向性というかグランドデザインを築いており、またそれをしっかり踏襲する岩倉具視や、伊藤博文、山形有朋といった人材を残していたからです。
 特に伊藤に関しては大久保の方向性をしっかり理解し、且つそれを実行する能力も備えていたのが大きく、ある意味、この伊東の存在によって大久保の暗殺はその歴史的価値を低めているともいえるでしょう。言い方を変えると、後進をしっかり作っていたという大久保の功績という風にも見えます。

 直近の暗殺といえば言うまでもなく安倍晋三が最も新しいですが、こちらに関しては総理在任中ではなかったとはいえ、将来の歴史においてどう評価されるのかは若干興味深くあります。まぁ彼が行った政策として一番歴史に残るのはアベノミクスでもなくアベノマスクでしょうが。

2024年4月22日月曜日

米国での賭博で作った損失を肩代わりしてもらった男

 先日の水原一平容疑者の騒動は彼自身が当初行った虚言や隠蔽工作もあり、発覚当初は大谷選手が一平が賭博で作った借金を肩代わりしたと信じた人も少なくなく、事件の全容が明らかになるにつれそのように疑い発言した人らは発言を撤回するようになっています。
 まぁ中には、「米国の銀行のセキュリティ的に大谷選手以外が送金できるはずない!」と豪語して見事に外した、米国通を気取ってかえって知識の浅さを見せた人もいましたが。にしてもこの発言主、なんか今になって昔のホリエモンっぽい立ち位置になってきている気がする。

 かくいう自分も当初の発言の翻し方を見て、大谷選手が肩代わりしたのではないかと思っていました。この点についてはギャンブル中の虚言に乗せられたと反省する限りで、やはりこういう人間の発言にいちいち取りあっていてはならないのだなと今後は肝に銘じようと思います。
 ただそのような、賭博で膨大な損失を作っておきながら、実際に肩代わりしてもらった日本人は過去に実際いました。その金額は何と4億5000万円で、一平の24億円と比べると約5分の1程度に見えますが、この損失額は1973年に作られたものだということを考えると、当時の為替相場から見ても一平に負けるとも劣らない価値に相当するのではないかという気がします。その損失を作った男というのも浜田という人物ですが、ここでピンときたら110番ことあの浜田です。

浜田幸一(Wikipedia)

 そう、この浜田というのはハマコーという通称でおなじみの元ヤクザで国会議員だった故浜田幸一のことです。事件はほんとそのまんまで、ラスベガスのカジノで多大な損失を作ったのですが、これをかつてハマコーを雇用していて「記憶にございません」という言葉を作った小佐野賢治が全額を補填して挙げていました。ただこの時に補填に使われた資金は、あのロッキード事件で小佐野がロッキード社から受け取った金の一部が使われたと言われ、仮にそうだとしたらマネーロンダリングも成立するし、合法的に取得した金でないのは間違いありません。
 ただハマコーが一平と違うのは、この時補填してもらった金は後に自ら不動産取引を行って稼ぎ、小佐野に返金したとのことです。実際はどうなのかわかりませんが、少なくとも一平と違って無断で小佐野の資金を流用したわけではなく、また返済行為も行ってその後も関係を続けている点で、一平に比べれば全然まともと言えるでしょう。賭博が禁止されている日本の国会議員が米国で賭博に明け暮れたって点を見逃せば。

 自分がなんでこの事実っていうか一平事件との共通項に気が付いたのかっていうと、今日たまたま読んでいたドリヤス工場の「昭和怪事件案内」を読んでて、ロッキード事件に絡めてこのハマコーギャンブル事件も紹介されたのを見たからです。ハマコーが米国で多額の金をすったということは前から知っていましたが、その補填に小佐野がロッキードで得た資金を使っていたのは知らず、また一つ勉強になりました。

 それにしてもこのドリヤス工場は同人誌時代から知っていましたが、水木しげる風の作画というか作風をものの見事に完コピしていて、今こう言う歴史ものの作品も手掛けているというのは前で知りませんでした。手塚治虫風の漫画でおなじみの田中圭一氏と同じく、あそこまで画風を模倣できるというのは一種の才能であるように思え、ドリヤス工場の作品をもし水木しげる本人が読んだらどんな感想を残したのだろうかという気すらします。
 っていうか画風を寄せる者同士、ドリヤス工場と田中圭一でコラボ作品でも作ったらいいのに。出たら自分は買います。

2024年3月16日土曜日

島津四兄弟

 再来年の大河ドラマが秀吉の弟の羽柴秀長が主役ということが先日発表されましたが、これに対するネットの反応を見ていると、秀長という題材は悪くないもののまた秀吉というか、信長、家康などといった主要人物周りのネタになるとして、新奇性が低いという意見がよく見られました。自分も全く持って同感で、いくら人気のある戦国時代であってもこうも似たような題材を何度も取り上げていては見ている方も飽きるのが道理でしょう。
 そのうえで、ネット上ではどうせ大河ドラマにするならとこの前自分も提唱した北条氏とか、全く取り上げられない東北や九州の戦国武将を取り上げるべきだという意見も見られました。そしてその中に、鹿児島の大名である島津氏、特に戦国時代の島津四兄弟を使ってはどうかという意見もありました。

 この島津四兄弟とは、知ってる人には早いですが島津貴久の息子の義久、義弘、歳久、家久の四人を指します。貴久の代に基盤を築いた島津氏は長男の義久が家督を継ぐと、その優秀な弟たちを使って九州地方の攻略を一気に進めることとなります。
 特に次男の義弘はこの前も関ヶ原における「島津の退き口」を取り上げましたが、日本国内はおろか朝鮮出兵においても多大な活躍を残しており、島津家の筆頭軍指揮官として、島津家はおろか戦国時代全体で見ても屈指の軍略家と評価されています。

 この義弘と義久の関係ですが、一見すると大将の長男、軍事の次男という理想的な組み合わせに見られるものの、実は仲は険悪だったのではないかという説もあります。というのも秀吉の九州征伐に島津家が降伏した際、抵抗した責任を取る形で義久は当主の座から降り、義弘がその跡を継ぐと秀吉に伝えているのですが、実際にはその後も義久が渦中で実権を握り続け、当主としてあり続けたという説があります。
 九州征伐後の朝鮮出兵では島津代表として義弘が出陣し、関ヶ原においても同様なのですが、これは対外的(豊臣政権)には義弘が当主として振舞ったためで、島津家中では前述の通り義久が当主であったとも言われています。この点に関しては今後の研究を待たなければなりませんが、以上のような状況から当時の島津家は二重権力状態になっていたともする見方もあり、義久と義弘の関係もマリオとルイージのように決してうまくいってなかったのではないかとする人もいます。自分も何となく、そんな感じだったんじゃないかと推測しています。

 話を四兄弟に戻すと、次男の義弘に負けず劣らずなのが四男の家久で、最年少ながらも島津家の九州攻略戦後期においてはほとんどの戦で大勝を収めており、秀吉の九州征伐における先発部隊も散々に破り、秀吉軍から非常に恐れられたと言われます。ただ九州征伐後間もなく病死しており、そのあまりのタイミングの良さから才能を恐れた秀吉に毒殺されたのではないかともいわれています。
 なお彼の息子の豊久は、上記の関ヶ原の退き口で殿を務め、叔父である義弘の脱出を見事成功させた上で亡くなっています。

 で、最後に残った三男の歳久ですが、こいつはちょっとなんていうかいわゆるトラブルメーカー的な人物です。割と戦場では兄らと同様に活躍してはいるのですが、秀吉の九州征伐の前に四兄弟の中で唯一秀吉を高く評価し、降伏を主張したそうです。これだけ見るとよく時節をわきまえている様に見えなくもないのですが、その後の戦闘で島津軍が敗北を重ねそろそろ降伏しようかとみんなで話し始めると、「まだ降伏するような時間じゃない」とスラムダンクの仙道みたいなことを言いだし、ここにきて抵抗を見せます。
 挙句に、秀吉本人の暗殺を図ったりするなどして降伏工作を無茶苦茶にするような行動を取っています。どうも降伏後にも暗殺を謀っていたようで、朝鮮出兵にも病と称して応じなかったことから秀吉より追悼命令が出され、島津家本隊が差し向けられる中で内戦を避けるため切腹しています。

 以上のようになんか言ってることとやってることがちぐはぐで空気が読めない節があるのですが、実際にそんないい加減な人柄を窺わせるエピソードがほかにもあります。なんでも四兄弟で生まれたばかりの馬を見に行った際、「馬ってのは母親に似るもんだね。きっと人間も同じだろうね(^ω^)」と言ったそうです。
 これはどういう意味かというと、唯一母親の違う四男・家久を当てこすった発言だったと言われます。これに対し長男・義久はその言わんとしていることを察した上で、「母親に似ることもあれば父親に似ることもある。問題は、本にがどう努力するかだ」と言って家久のことをさりげなくフォローして挙げたそうです。もっとも当の家久はよっぽど悔しかったのか、それから物凄く勉強に力入れるようになったと言われます。

 以上の母親発言といい、歳久に関して自分は評価してないというかきっと嫌な奴だったんだろうなという印象を覚えています。ただこれには下地があって、昔「信長の野望 天翔記」で島津家をプレイした際、一門集なので歳久に一つの軍団を任せたことがありました。
 そしたらこいつ、何を思ったのか本家の軍団と一切連携せずに単独で大友家に対していきなり戦闘をしかけ、案の定というかやばいくらい大敗して逃げ帰ってきました。しかもこいつ戦闘前に有り金はたいて大量の鉄砲を買って、鉄砲隊率いるのに慣れていない武将に配っており、結果的に敗北したことでこれらの鉄砲も大友家にみすみす渡す羽目となりました。

 この大失態にマジ切れして一瞬リセットしようかと思いましたが自分の任命責任を認めるため、その後もプレイを続けました。ただ歳久に対してはどうしても許す気になれず、ゲーム上で一切のメリットがないものの、天翔記には「切腹」のコマンドがなかったため、彼を家中から追放することとしました。
 追放したものの、当主が一門集ということもあってかその後何度も歳久は自らを売り込んでは再雇用するよう訴えてきましたが、やっぱり許すことができず、ずっとはねのけ続けるのですが歳久の方もあきらめず、何度も売り込み続けてきました。この時のやり取りがまた非常に鬱陶しく、何なんだこいつと物凄い悪印象を抱くようになったのですが、その後に上記の空気を読まないエピソードを知るにつけ、変な感じでゲームでも史実っぽいキャラクターとなっていました。

 そういうわけでそんな、長男と次男の見えざる対立、優秀ながら早世した四男と叔父を助けたその息子、空気読まずに騒動ばかり引き起こすトラブルメーカーな三男とった内容を盛り込むことで、実際にドラマ作ったら結構面白くなるような気がします。タイトルも「バブルシマヅブラザーズ」とか、「ウエスト・シマヅ・ストーリー」とかでいいんじゃないかな。

2024年3月3日日曜日

日本の勇者

 先日、「ナポレオン-覇道進撃」の最新刊にあたる26巻が販売されて発売即日に電子書籍で購入してすぐ読みました。前の巻ですでにナポレオンが指揮を執った最後の戦いであるワーテルローが終わっていたこともありこの巻が最終巻になるかと思っていたところ、セントヘレナ島に流されるところで終わっており、最終派は次の巻に持ち越されていました。
 実際、当初の予定ではここで最終回を迎える予定だったらしいですが、編集側よりもう半年連載を伸ばそうとの提案があったことから終わりが延びたと作者も語っています。その延びた関係で、ワーテルローの後に処刑されたナポレオン旗下の元帥であるミュラとネイの処刑にはそれぞれ1話ずつ使われるようになり、特に後者のネイの処刑はこの26巻におけるハイライトでもありました。

ミシェル・ネイ(Wikipedia)

 知ってる人には早いですがこのネイはナポレオンの元帥の中でも最も早く戦死したランヌと並んで屈指の人気を誇り、現代においてもパリ市内の彼の銅像を見に訪れる人は絶えないと言います。具体的にどんな人物だったかというと勇猛さで言えば並み居る元帥の中でもずぬけており、猪突猛進ともいうべき突破力と豪胆ぶりは大軍団での指揮には向いていなかったものの、中規模の舞台を率いた際の戦闘力はすさまじいものがありました。

 そんな彼の最大の見せ場はロシア遠征で、撤退の最中に殿を務めた際に本体との連絡がロシア軍に遮断され、孤立無援の状況に陥っています。この際にネイは、進軍先に待ち構えているロシア軍を避け、来た道を戻って大きく迂回し、氷河を乗り越えて本体への合流を図ります。言うは簡単ですが洗浄はマイナス何十度というロシアという土地で、また部隊も戦傷者が多くまともに戦える兵士や装備にすら事欠く有様でしたが、ネイは自らが小銃を取りながら何日間も不眠不休で指揮を執り、時には自分一人で大砲を打って敵軍を足止めしていたとさえ言われます。

 この超人的なネイの活躍に兵士も打たれ、絶望的な状況ながら最後まで統率を守り、結果的に率いていた部隊は8割がた戦死したものの、ナポレオンのいる本体への合流に成功しました。そしてこの時に生き残った兵らはその後も、「ネイのおかげで生きて帰ってこれた」と、彼の死後もそのロシア遠征における伝説を語り続けたと言われます。
 そんなネイですが前述の通り大軍団の指揮はひどく、ワーテルローの戦いでは前線総指揮官を任されたものの判断ミスを連発し、フランス軍の大きな敗因の一つとなっています。この敗戦後、復権した王党派によって捕らえられましたが、その際に身内の多い軍事法廷ではなく、逆に不利な貴族院での裁判を自ら望み、堂々と自らの正当性を語りましたが敵多く死刑判決が下されます。死刑の際もネイは目隠しを進められるも「俺が銃弾や砲弾を前に何年戦ってきたと思っているのだ」と拒否し、堂々と銃殺刑を受けたそうです。

 話を少し戻すと、ロシア遠征時にネイが生還した際にナポレオンは彼を「勇者の中の勇者だ!」と褒め称えたと言われます。この勇者という言葉ですが、日本だと基本的にドラクエをイメージする言葉となっているものの、仮にこのネイのような豪胆であり超人的な判断だと行動を起こせるような人物として当てはめるなら、日本にそのような勇者はいるのかとふと気になりました。色々考えあぐねた挙句、唯一ネイに近いと言えるのは、あの島津義弘しかいないという結論に至りました。

 島津義弘といえば「島津の退き口」でおなじみの戦国武将です。これは関ヶ原の合戦時、西軍の敗北がはっきりして東軍が残党を潰すための追撃態勢に入る中、それまで戦闘を行ってこなかった島津軍が味方が逃げている西側にではなく、敵軍の真ん前を通過して東側へと突っ込み、退却したというエピソードです。
 一見すると無茶苦茶ですが結果から言えばこれは非常に合理的な判断だったと言われます。というのも、すでに大阪方面へと向かう西口は撤退している他の味方軍で込み合い、これから逃げようにも後ろから東軍の追撃を受けることは必死でした。逆に東側は突破にさえ成功すれば伊勢街道に出て、東軍の追撃を振り切りやすい方角でありました。

 とはいえ、実際にこれをやるとなったら敵中突破をしなくてはなりません。またいくら合理的に正しいといっても、数百の兵隊で数万の敵軍が居並ぶ陣を突破しようなんて普通は決断できないところですが、島津義弘はこの道を決断し、見事突破に成功して脱出しています。もっとも犠牲は大きく、甥っ子をはじめ多くの島津兵が味方を逃がすために文字通りの死守にて敵軍を阻むための犠牲となっています。

 この島津義弘のエピソードなら、ネイに負けず劣らずの豪胆ぶり、そして勇猛ぶりが十分評価される、というよりこれ以外にネイに匹敵するようなエピソードは日本国内では見当たらず、そういう意味で「日本の勇者」と呼べるのは島津義弘かなという気がします。何も伝説の剣を扱えるだけが勇者ではなく、多くの敵兵にひるまず豪胆な決断をやってのける人物だって勇者って呼んでもいいじゃないかというのが、今日の話のオチです。

2024年2月21日水曜日

中国側から見た倭寇

 この前デザインをリニューアルしたヤン坊とマー坊は「ヤクザのヤン坊、マッポのマー坊」で、二人はおいつ終われる関係にあると脳内設定しています。

倭寇(Wikipedia)

 それはさておき今日のお題ですが、この前ふと気になったことから中国語媒体で倭寇について調べてみました。なんで調べようと思ったのかというと、日本側の倭寇に対する見方や解釈で中国側と相違がないかという風に思ったのと、自分の経験からもしかしたら、中国側の方がこの手の解説が充実しているからじゃないかと思ったかからです。結果から言えば、自分の想定通りでした。

 まず日本側の見解、特に前期倭寇は日本人が主体であったのに対し後期倭寇は中国人(当時は明)が主体であったとする学説に関しては、中国側もほぼ全く同じ見解を持っているようです。後期倭寇に関して中国でも具体的な中国人指導者名を挙げ、日本人もいただろうが末端の構成員に過ぎないという風に解説していました。

 次に中国側の解説を見てなるほどと思った点を挙げると、日本人が主体であった前期倭寇に関して、その正体は海賊というよりも南朝方の残党だったのではという説明がありました。
 倭寇が活動した室町時代初期、日本は南北朝の動乱時代にあり、九州は特に南朝の勢力が強い地域でした。その南北朝時代は三代将軍の足利義満によって終止符が打たれますが、敗北して土地を取られたり、中央地域から逃れてきた残党らが海賊となり倭寇となった説を挙げていました。

 この説の真実味がある点として、足利義満が日明貿易を開始するにあたり、明側からの倭寇取り締まりの要請に応じた点が挙げられていました。義満にとってすれば明との貿易で得られる利益は非常に大きいうえに、倭寇を取り締まることは南朝の残党勢力掃討にもつながるだけに、一石二鳥だったからこそ明側の要請に快く応えのではという風に説明されていて、私としては非常に納得感のある説明に思えます。

 一方、この前期倭寇の段階でも中国人主体の倭寇団体が存在していたという風に中国側では説明しています。その勢力というのは明、正確にはその開祖の朱元璋と中国統一前に天下を争った張士誠の残党たちで、彼らも日本人らと組んで海賊行為を行っていたとしています。

 そんな前期倭寇ですが日明貿易の開始とともに幕府の取り締まり、恐らく名将と名高い今川貞世の九州統治が働くようになって一時消失したそうですが、義満が死んで四代目の義持の時代になると日明貿易が打ち切られ、それに伴い倭寇取り締まりもなくなって再び活動するようになったそうです。その後倭寇は後期倭寇へと変わっていくのですが、最終的には豊臣秀吉の九州平定が成ったことで治安が回復され、倭寇の拠点であった九州の島々でも取り締まりが行われて完全に消失したとされています。
 なお中国の歴史書では豊臣秀頼の朝鮮出兵も「倭寇」と表現していたそうですが、単純に当時の日本蔑視からくる言葉で、海賊としての倭寇を表しているわけではないと中国側でも解説されています。

 それでこの倭寇ですが、まぁ単純に食うに困って海賊行為をしていたのはわかるのですが、その実入りはどんなものなのかというのがちょっと前から気になっていました。この点について中国側の解説(百度百科)によると、中国と比べて当時の日本ではまだ工業が発達しておらず、衣類などの軽工業製品が異常に高値で売買されていたそうです。具体的には、恐らく銀本位での価値でしょうが、中国での売値に比べ日本での売値は十倍くらいも差があったそうで、だからこそ中国沿岸で強奪してでも日本に物を売りに行こうという海賊が現れたということになります。

 またこれは倭寇について、日本国内ではあまりその被害について触れられないという理由の裏付けにもなると思います。中国側での倭寇の被害は相当なもので、単純な経済的損失だけじゃなく鎮圧に向かった軍隊が逆襲にあって指揮官が何人も死んでたりするそうです。そうした被害の話は日本国内ではあまり聞かれないだけに、「倭寇を止めて」という明側が室町幕府に要請した話も私は子供の頃、いまいちピンときませんでした。
 倭寇からすると日本は強奪した品物の販売先にあたるため、盗難品を横流しすることはあっても襲うことはなかったのでしょう。むしろ襲うことに何のメリットもなく、また日本側からしたら正規の貿易で仕入れるよりも盗難品を安く手に入れられたであろうことから、倭寇取り締まりに対し抵抗する商人や勢力もいた可能性があります。

 このように考えると倭寇というのは、当時の経済貿易を見るうえでも非常に重要な指標足りうる気がします。また倭寇自体、私は日本人とか朝鮮人、中国人のどれであったかという議論はそもそも大きなトピックだとは思えず、現代のように国家意識がはっきりなかった時代なのだし、もっと単純に環東シナ海系住民として捉え、当時のこの地域における人や物の流動を調べる対象として研究すべきじゃないかと思います。

 しかし日本側において、ほぼ確実に倭寇の根拠地であったと推察される対馬や壱峻島はあまりこうした倭寇関連の研究に熱心ではない、というより博物館などを見る限りだとむしろ隠そうとする傾向すらあります。やはり海賊行為だから後ろめたさがあるのではないかと思いますが、当時のあの一帯がどうであったのかを調べるためにも、ありったけの夢をかき集めて研究を盛り上げてもらいたいです。
 もっともこれは対馬と壱峻島に限るわけじゃありません。色々な解説を読む限りだと、沖縄などの島々も倭寇がいたとされ、恐らく九州の沿岸地域においても倭寇の拠点があったと思われます。こうした地域でも探し物探しに行くように、地域の海賊史を調べてほしいです。

 以上のような後ろめたさからやや乗り気でない日本と比べると、被害記録も残している中国の方が倭寇に関して詳しく調べられる気がします。私自身も結構関心を持っているテーマなだけに、今後も何か中国語媒体で発見があったらどんどんここで書いていくつもりです。

2024年2月4日日曜日

知られざる北条家のあれこれ

 先々週に日本に行った際、比較的近場ながら一度も行ったことがなかった小田原城と、その先にある戦国時代の北条家のふるさとこと伊豆半島を回ってきました。このうち小田原城に関しては城の中が博物館となっており、なかなかお金をかけてきれいにされている上に展示内容も素晴らしく、一見の価値がありました。中でも解説に関しては、それまで自分でも知らなかったような記述も多く、参考になる点が数多くありました。

 そんな小田原城の解説の中であの三角形を三つ重ねた北条家の家紋について、あの形は「三つ鱗(みつうろこ)」と呼称するという説明がありました。これで何が納得いったかって、いろいろ事業やってていまいち本業がなんだかわからないけど、一応エネルギー事業が本業であろうミツウロコという会社が、何故ミツウロコと呼ぶのかが非常に得心しました。子供のころからよくここのガスボンベを目にしてたけど、北条家と同じ三つ鱗の家紋を会社商標にしているあたり、これがその名用の由来で間違いないでしょう。

 このほか北条家、というより小田原城について知らなかった事実として、よく小田原城は街ごと堀で囲んだ日本にしては珍しく非常に大規模な城郭であった背景がありました。私はてっきり小田原城は初めからそのような総囲い(総構え)だと思っており、だからこそ上杉謙信に攻め込まれても持ちこたえられたんだろうとも思っていたのですが、実はこれは間違いでした。
 小田原城が総構えとなったのは実は秀吉の小田原攻めの直前だったそうです。それまでは確かに敷地の広い城だったけど総構えっていうほどではなく、秀吉が来るってんで防御機能を高めるためあのように総構えになったそうです。

 そんな小田原城を見て学んだあと、そのまま親父と伊豆方面へとドライブに行ったのですが、改めて思ったこととして伊豆半島はやはり交通事情が悪いということでした。熱海までなら割と行きやすいですがそこから伊東に行くならハトヤ、じゃなくて伊東まで行こうとなると海岸沿いの道だと有料道路となって距離の割に結構お金がかかり、海沿いの切り立った崖の道を延々と走ることとなります。
 この崖沿いの道だけでなく、山間部を縫うようにして源頼家も暗殺された修善寺を経由するルートもあるのですがこちらも道が険しく、周りは覆うような山ばかり。なお山の中でもおわん型した大室山は遠目にもわかり一見の価値があります。親父が高所恐怖症のため、上までリフトで上らなかったけど。

 このような伊豆半島を巡ってみて思ったこととして、現在地震の影響で交通が寸断されている能登半島と同じく、半島の交通の険しさというもの改めて感じました。元々、半島というのは地盤が隆起または沈降してできることから、必然的に海側は切り立った崖ばかりとなり、陸地は大小の山々で平地が寸断される形状となりやすいです。能登半島は訪れたことがないのですが、報道や今回の伊豆半島周遊を巡ってみて考えると、その交通手段というか移動路はかなり限定されていたのではないかと思えます。
 それだけに、道が限られていることから源頼家が修善寺に押し込められたのもよく理解できました。道がないので出ようとしても関所に阻まれるし、逃げようとしても山に阻まれるので幽閉にはうってつけだと思います。かのように半島というのは道路において制限が多いと痛感するとともに、北条氏が韮山から小田原へ本拠を移したというのもよく理解できました。

2024年1月7日日曜日

大河でやるべきなのは北条氏では?

 このところのテレビ離れも反映しているのか、NHKの大河ドラマは年を追うごとに評判が悪くなっている気がします。朝ドラも「あまちゃん」あたりがピークで近年はニュースの話題にすらならなくなっており、視聴者もどんどん縮小していることを考えると今後もさらなる縮小を続けるのではないかとみています。

 さてそんな今年の大河ドラマは全然内容を調べていませんが、源氏物語の作者である紫式部が主人公とのことです。
 関係ないけど源氏物語大好きな日本語に堪能な知り合いの中国人OLがある日源氏物語の話題を振ってきたので、「あの作者、日記に同時代の女流コラムニスト(清少納言)は高慢ちきでいけ好かない奴だとめっちゃ悪口書いてたよ(´・ω・)」と教えてあげたら軽く引いていました。

 話は戻しますが今年の大河は内容が余り史実に沿わず、また篤姫以外の女性主人公の大河ドラマは朝ドラを意識したファンタジーな展開が多くてあまり評判が良くないこともあり、前評判はあんまいいように見えません。かといって毎年ファンが付いてきやすい戦国時代ばかり取り上げるわけにもいかず、なんかよくわからないノリでファンタジーでもいいから平安時代をやるようになった感がある気がします。

 なら一体どんな大河ドラマだったら受けるのかですが、個人的には近年徐々に研究が深まり、関心も高まっている後北条こと、戦国時代に小田原を拠点とした北条氏一族を取り上げるのがベターなんじゃないかとひそかにみています。
 戦国時代は基本的に近畿と東海に注目が集まり関東はあまり取り上げられないのですが、もう一つの理由として当時の関東は非常に勢力争いが激しいうえに群雄割拠が続いており、あまりまとまりがないというのも関心が低くなる理由だと思います。そんな中で北条氏が徐々に勢力を拡大し、一時は上杉謙信と激しい攻防を繰り広げますが、こちらがひと段落ついてからというものは関東支配をほぼ確立しています。

 最終的には秀吉の小田原征伐によってその歴史を閉じることとなったものの、北条氏の時代の関東地方は非常に治安が行き届き、また検地が熱心に行われていたことから当時の各地の石高なども事細かに記録が残されているといわれます。実際、小田原征伐の際に住民らはこぞって北条氏に味方したといわれ、領民の信頼を強く得ていたそうです。
 それ以上に、伊勢新九郎こと北条早雲はかつては素浪人から大名になりあがったといわれていましたが、実際は京都の室町幕府直参、つまり中央官僚で、関東の混乱を視察し、収拾するために派遣されてきたことが近年になってわかってきました。その中央官僚が何故関東に覇を唱えるようになったのか、この辺は親戚関係にある今川氏との絡みを含め今後の研究を待たねばなりませんが、こうした最新の知見を一般に広めるうえでも北条氏で大河ドラマを作る価値はあるような気がします。

 もっとも北条氏を主役に取り上げた場合、如何に武田信玄が信用のならない奴だということがはっきり見えてくるため、山梨県辺りは制作に反対するかもしれません。マジで北条市の視点で見ると、武田信玄は藤原竜也氏が演じてばかりいるクズにしか見えなくなってきます。

2023年12月13日水曜日

医師は転じて革命家となる

 初めてクソゲーと呼ばれたゲームはファミコンの「いっき」ですが、農民反乱をテーマにした作品なだけに中国共産党からお墨付きをもらってもいい内容のはずですが、周りにいる中国人にゲーム画面見せながら聞いたら、「遊んだことあるかもしれないけど覚えていない(´・ω・)」とつれない反応でした。
 もっとも農民反乱といいながら戦うのは一人だけで(二人プレイなら二人)、「一揆」ではなく「一騎」と呼ばれるほど狂った世界観ゆえかもしれませんが。ちなみに中国での呼び名は「農夫忍者」のようです。

 そんな中国における近代化の幕開けとなる反乱を率いたのは言わずもがなの孫文ですが、先日会社の同僚に孫文について解説した際、彼はもともとは医者であったことを教えたら大いに驚かれました。恐らく政治家、反乱指導者としてのイメージが強かったためかと思われますが、彼は若いころに出稼ぎしていた兄を追いかける形でハワイに行き、香港で医学を学び、マカオで医師として開業してたりします。
 そのような孫文の人生を解説していた際にふと、「そういえばゲパラも医者だったな」ということを思い出しました。南米、いや世界において彼を嫌う人間なんているのかと思うくらい世界的革命スターのチェ・ゲパラですが、彼も母国アルゼンチンで医学を学んでいました。

 ここまで思うに至り、孫文といいゲパラといい、何故二人とも医者から革命家に転じたのだろうかという点が気になり始めました。さらに掘り起こすと、日本の幕末期においても橋本佐内を筆頭に医師出身の志士も数多くいた、っていうか数多くの志士を輩出した緒方洪庵の適塾が医学を教えていたのもありますが、なんか医師から革命家になる率は他の職業に比べて高いような気がしてきました。

 ただこのからくりですが、当時の時代情勢を考えればある意味で自然な結果だといえるのではないかと思います。スパイファミリーのアーニャの声優をしている種崎敦美氏の口癖をまねて「Becauseなぜなら」というと、上記革命家が活躍した時代において医師というのは、国外の情報に深くアクセスできる特異な立場にあったというのが原因だと推察されます。

 封建制が続く近代化以前の国家は鎖国時代の日本よろしく、大抵どこも外国に対して排他的であったり、国外から入ってくる情報を制限する傾向がありました。しかしこと医学に関してはどの国も寛容で、日本も江戸時代に蘭学として真っ先に研究を解放したのは医学でした。
 これは何故かというと、どれだけ独裁的な封建主義の権力者であっても、自らの健康と命を永らえさせる医学に関しては最先端の技術を欲しがるためと言い切れるでしょう。国家として役立つか以前に、権力者が個人として優れた医学を求めることから、排他的な価値観であっても医学だけは例外的に外部から優れた技術や知識を取り込もうと動くため、鎖国下にあっても比較的自由に学ぶことができれば、国外の情報にもアクセスしやすくなるというわけです。

 ただそうして医学を学ぶ者たちはというと、国外の情報にアクセスできることから次第に自国と他国の違いに気づくようになり、場合によってはその矛盾にすら気づいてしまうわけです。実際、孫文もゲパラも他国に比べ自国の政治体制の古さや問題点に気づくようになり、革命家を志すようになったとみられる過程が存在します。
 こうして矛盾に気づくどころか、封建制が続いていた日本や中国においては西欧の民主主義に触れたりなんかした場合、「うちの国めっちゃおかしいじゃん(;゚Д゚)」と思うのが自然な成り行きです。これは多分医師に限らず当時国外の情報に触れた人間なら誰もが気づいたでしょうが、そもそも情報に触れること自体が制限されているため、必然的に早くから気づけるのは国外にアクセスできる医師に限られてくるでしょう。

 こうした成り立ちというか経緯から、鎖国的な国家体制にの中でも国外情報にアクセスしやすい医師というのは得てして革命家に転じやすいのではないかと私は思います。もっとも情報統制がなされていない国の場合はさにあらずですが、北朝鮮やロシアなんかのような情報統制が激しい国だと、今後も医師から代表的な革命家が生まれてくるかもしれません。
 まぁ現代において国外情報にアクセスしやすいのはギークことIT技術者のほうが立場的に強いし、反国家主義者も現代ではこの界隈に多いので、医師から革命家というパターンはもう成立しないかもしれません。しかし19世紀や20世紀において医師というのは国家に仕える外交官以上にインターナショナルな職業で、それが革命家としての下地を作っていたのではないかというのが自分の見方です。

2023年9月23日土曜日

英海軍の奇跡の作戦「サン=ナゼール強襲」

ウクライナが露セバストポリ海軍基地への攻撃で狙った大きな成果(Forbes)

 先日、ウクライナ軍はクリミア半島にあるロシアのセバストポリ基地をミサイル攻撃し、収容中だった揚陸船と潜水艦を撃破するとともに、軍艦の修理、メンテナンスを行う乾ドックにも火災を起こすことに成功しました。潜水艦の撃破もさることながら、軍艦の補修を行う乾ドックに損害を与えたことは黒海艦隊の今後の活動にも大きく影響を与えるとされ、ロシア側もその被害の大きさを認めるほどのウクライナの大戦果となりました。
 上記リンク先はその今回の攻撃について報道、解説した記事なのですが、この記事の中で「サン・ナゼール」という単語が出てきます。この単語こそ、自分が今回のウクライナの攻撃を初めてみたときに頭に浮かべた単語でした。

サン=ナゼール強襲(Wikipedia)

 サン・ナゼールとはフランスにある港町です。二次大戦中、フランスを占領したナチスドイツはこのサン・ナゼールを大西洋における主要な軍港として扱い、海軍基地を置くとともに大きなドックも設置していました。これに対し向き合う英国は、ドイツ潜水艦Uボートの主な発進拠点でありブリテン島から目と鼻の先にもあることから非常に厄介な拠点だと認識しており、大戦の途中からこの軍港を占領とまではいかずとも破壊することを検討し続けていました。
 最終的に英国作戦本部は、この軍港をとんでもない作戦で破壊することを計画します。その作戦名は「チャリオッツ作戦」といい、爆薬を満載して偽装した軍艦をサン・ナゼールに突っ込ませるというものでした。

 この作戦に英国は米国から供与されたキャンベルタウンという駆逐艦を使用することにし、可能な限りギリギリまで敵の攻撃を受けずに接近できるよう、ドイツ艦に見せる偽装を施します。その上で、突入に至るまでの地上施設破壊、そして突入後の爆破などを果たすため、まだその概念すらなかった時代において後の特殊部隊の原型となる「コマンドス」と呼ばれる特殊な訓練を受けた部隊を投入しました。
 このコマンドスはキャンベルタウンの縁などに身を潜め、突入時に妨害を行うドイツ軍兵器を破壊し、突入後は敵基地施設を破壊するという任務を帯びていました。当然、言うまでもなく非常に危険な作戦であり、また撤退方法も突入後に軍港に入る高速艇に乗り換えるという成功確率の大変低いものでした。それにもかかわらずこの作戦にコマンドスたちは果敢に臨み、後に称賛されるような大きな活躍を見せます。

 以上のような作戦を立てて準備を進めた英軍は、ついに決行の日である1942年3月28日を迎えます。この日の夜間にひっそりと出航したキャンベルタウンは、随行する駆逐艦2隻と脱出用の高速艇を伴ってサン・ナゼールをへと向かい、途中から単独で接近を図ります。途中、ドイツ軍の警備艇に見つかるも偽装が効果を発揮して見事やり過ごし、軍港入り口までほぼ無傷で近づくことに成功しました。
 ただ入り口付近で怪しまれたことから軍港の守備隊より攻撃を受けることとなります。その際、キャンベルタウンは通信で「友軍より攻撃を受けている。直ちに止められたし」と伝え、これにドイツ軍はまんまと騙されて攻撃を止めてしまい、みすみすキャンベルタウンを軍港内に入れることとなりました。

 こうして夜中1時頃、目標とする乾ドックまで約1.6キロまで近づいたサンナゼールは、ドイツ軍旗から英軍旗へと文字通り旗印を翻し、全速で一気にドックまで突っ込みます。これを見て敵艦だとようやく気が付いたドイツ軍はキャンベルタウンの突入を阻止すべく猛烈な攻撃を浴びせますが、これには乗り込んでいたコマンドスが応戦し、その妨害をはねのけ続けます。
 その結果、キャンベルタウンは見事目標地に突っ込むことに成功します。なお突っ込んだ時間は計画時間に対し3分遅れという非常に正確なものだったそうです。

 キャンベルタウンがドックに突っ込むと、乗り込んでいたコマンドスは地上に降りて任務となっていた基地施設の破壊活動を開始します。しかしドイツ軍の猛烈な反撃に遭い、破壊という目標自体は大半が達成できたものの、戦闘に従事した隊員からは多くの死者を出すこととなりました。また生き残った隊員も脱出に使う高速艇の多くが途中で撃沈されたことにより逃げられず、脱出をあきらめ市街戦を展開するも大半が死亡するか捕虜となって捕まり、622名のうち169名が戦死、215名が捕虜となり、計画通りに帰還できたのは228名にとどまりました。
 なお脱出したうち5名は、市街地からドイツ軍の追手を振り切り、第三国のスペインを経由して英国に帰還するという離れ業を見せており、この5名には全員ヴィクトリア十字賞が授与されています。

 こうした嵐のような夜が過ぎ、作戦開始から十数時間を経た同日正午頃、あらかじめ起爆措置が施されていたキャンベルタウンが満を持して爆発します。この際、突入して乗り上げていたキャンベルタウンを調査するため、一夜過ぎて見に来たドイツ軍人を300名超も巻き添えにして吹き飛んだとされ、相当な規模の爆発であったことが伺えます。
 それだけの爆発であったことから、サン・ナゼールの乾ドックは完膚なきまでに破壊され、その後二次大戦期間中は一切使用することができなくなりました。多大な犠牲を払いながらも、この英国の強襲作戦は当初の目標を完全に達成したと言えます。

 この作戦について自分は以前に何かをきっかけに知りましたが、敵艦に偽装して突っ込んで爆破するというまるで映画のような作戦内容と、これほど危険な作戦を遂行したコマンドスの活躍に心底恐れ入りました。このような奇抜な作戦は英国に限らず多くの国でも企画はされるものの大半は実施されず、また実施したとしても大失敗に終わることが常ですが、先ほどの正確な突入時刻といい、綿密に計画して見事成功に至らせた英国には、その国家としての強さを大いに感じさせられます。この点、日本の空虚妄動的だったインパール作戦とは大違いです。
 英国本国でもこのサン・ナゼール強襲は大いに誇りに思われており、その成功を讃える賞や記念碑も数多く設けられているそうです。

 前述の通り、突飛な発想ともいえる計画を見事成功に導いた英国の準備、そして人材には強く感じるものがあり、この国が世界で覇権を取ったのもごく自然な成り行きだったのだろうと深く納得させられます。それにしても英国の発想と行動力は舌を巻かせられることが多く、さすがある意味で神風ドローンの始祖ともいうべき、あのパンジャンドラムを企画だけじゃなく本当に作った国なだけあります。

2023年8月27日日曜日

中国の清朝が維新に失敗した背景

 例によって「蒼穹の昴」を世に続けていますが、この作品は戊戌の変法)(1898年)と言われる、中国清朝末期に行われた政治改革とその失敗を主なテーマとしています。

 簡単に戊戌の変法について説明すると、中国は1840年代のアヘン戦争などを経て西洋技術の導入が必要だと考え、李鴻章らが主導する形で西洋式軍隊をはじめとする改革を行いました(洋務運動)。しかし政治体制は古いまま、官僚も中国の古典の丸暗記で登用する科挙を使用し続けたことからこの改革は当初より限界がありました。
 その限界が露呈したのは何を隠そう日清戦争で、西洋列強ならまだしも同じ東アジアの日本に見るも無残な惨敗を喫し、日本が行った明治維新との差をまざまざと見せつけられることとなりました。

 この結果を経て、康有為をはじめとする急進的な改革派は時の皇帝であった光緒帝に対し、日本に範を取った改革の必要性を強く主張します。これに対し光緒帝も、かねてから叔母である西太后に実権を握られ続けていて自分でも親政を行いたいと考えたことから利害が一致し、西太后が紫禁城から頤和園に引っ越して影響力を弱めたその日からこの戊戌の変法は始められ、約100日後に失敗に終わります。

 失敗に至った原因は守旧派の反発でした。康有為らは科挙も一気に廃止するなど急激に改革を進め、これにより既得権益を失うと恐れた満州貴族、そして漢民族官僚らが大きく反発し、当初は改革に協力的だった人物も距離を置くようになり、西太后を頼るようになります。
 こうした動きを受け西太后も守旧派に祭り上げられるまま光緒帝の妨害を開始するようになる、具体的には日本で上皇が天皇の頭越しに院宣を出すように光緒帝の出した布令と真逆の指示を出し続け、二重権力状態を作りました。こうした状況に光緒帝側は西太后の捕縛も検討しますが、ここで頼ってしまったのが袁世凱で、彼は光緒帝より西太后の捕縛を命ぜられるやそれをそのまま西太后に報告し、逆に西太后の手先として光緒帝を捕縛するに至ります。

 こうして光緒帝の改革はとん挫し、そのまま幽閉され、最後には毒殺されるという末路になっています。

 この一連の改革の流れを見て少し感じたこととして、仮に当時の中国の王朝が清朝じゃなかったら、また違ったのかもなという印象を覚えました。言うまでもなく清朝は満州人による王朝で、数十万人の満州人が数億の漢民族を支配する征服王朝でした。
 それでも統治自体は安定していて漢民族の既得権益や文化も守ったことから、アヘン戦争までは平和にやってこれてましたが、帝国主義時代にあってはかえって古い体制を守り続けたことから国家としては弱くなっており、上記の様な顛末に至ることとなっています。

 日本も中国の西洋列強にどう対抗し、どう独立を守るかという立脚点から改革を進めようとした点は共通していたものの、日本の場合は天皇と徳川幕府のどちらをトップにして政治改革を行うかで対立が起こりました。結果的には幕府を取り潰し、既得権益層をほぼ可能な限りに叩き潰してから新体制の設立へと至り、廃藩置県を経て完全なる既得権益層打破に成功しています。
 これに対し中国では、既得権益層は科挙出身の士大夫層だけでなく、その上に満州人貴族も存在するという二重箱状態でした。またそうした体制もあって、康有為や梁啓超のように「清朝を主体に改革を進める」という勢力もいれば、「古くなり切った清朝を廃止して一から国会を作るべし」という孫文のような勢力もありました。日本の明治維新と比較するなら、やはり孫文の方針が近いでしょう。

 このように、確かに日本でも尊王派と佐幕派が存在しましたが、中国の場合はトップ争いにおいて満州族と漢民族の民族対立もやや絡んでおり、いまいち人材が一つの改革勢力に結集しきれなかったのではないかと思う節があります。それだけにもし当時の王朝が征服王朝ではなく漢民族王朝だったら、もう少し既存政体を中心に改革を進めようとする勢力がまとまりを見せ、改革ももっと円滑に進んだのではないかという気がします。もとより、満州貴族という既得権益層もこの場合はいないんだし。

 そう考えると、当時の中国が征服王朝であった清朝であったというのはかなり大きな不幸であったように見えます。清朝の統治は末期を除けば非常に安定していて悪くはない王朝と言えるのですが、如何せんあの時代にあっては征服王朝であったのはあらゆる方面でマイナスに働いており、実際に戊戌の変法を見ていても漢民族に対する革命への懸念もいくらか見て取れます。
 ただ仮に漢民族の王朝であっても、果たして日本の明治維新のようにうまくいったかと言えば話は別です。日本と比べると中国は広くてでかいし、それだけに西洋列強の干渉も強かっただけに、そっちはそっちでうまくいかない要素がたくさんあります。

 何気にこの手の革命で思うことは、革命に成功するか否かより、革命の過程でどれだけいい人材を輩出するか、生き残らせられるかの方が大きい気がします。日本の場合は坂本龍馬と高杉晋作、久坂玄瑞が途中脱落となっていますがそれ以外はうまく生き残ったのに対し、中国の場合はそれ以降の辛亥革命までの過程でかなり多くの人材が死んでいて、それらもまた後の混乱に拍車をかけたような気がします。

2023年8月17日木曜日

大体「太閤記」が悪い

 先週、というより6月から続く激務ゆえか、なんか最近左手がキーボード叩いているときに固まるような感覚を覚えるようになりました。試しに手を広げたりしてみたら左腕全体痛くなったりして、多分、酷使し過ぎて神経痛んできたんだと思います。
 なお自分だけかもしれませんが、手、特に指の神経は視神経と物凄い関連が深いように思えます。指を伸ばしたり手のひらを広げる運動をすると、途端に目がしばしばするようになりそのまま涙があふれてくることもあります。でもってその後、やたら視界がよくなるというか見えやすくもなってきます。若干思い当たる人なんかは、胸の前で合掌して、そのまま合掌した手を合わせたまま腹のあたりまで下げてみるのを試してみるといいです。

 あとストレスたまっているせいか、今日会社でスマホ弄ってまた戦車注文しました。なんか午後の紅茶を午前に飲むかのような悪いことをやっちまった気がします。

 話は本題ですが、時期にして2000年代前半に入ったあたりからこれまで定説というか常識扱いされてきた戦国時代のエピソードが、否定されるケースが増えてきました。その代表格は信長関連のエピソードで、「桶狭間の戦いは奇襲ではなかった」、「長篠の鉄砲三段撃ちはなかった」など、これまでこうしたエピソードをもとに作られた小説とかドラマをどうしてくれんだよ的なくらいにひっくり変わる新説がどんどん出てきました。
 でもってこうした新説は徐々に勢いを持って行ったというか、従来の説は信憑性が低いという見解が広まり、2020年を越した現在においてはもはやほぼ否定されつつあります。

 ではそもそも何故、三段撃ちをはじめとしたエピソードは信憑性が低いにもかかわらず、日本人の常識と化すまで普及していったのか。結論から言えば、小瀬甫庵が書いた「太閤記」が大体の原因です。

太閤記(Wikipedia)

 太閤記という本はいくつかありますが、もっとも代表的なのは江戸時代に儒学者であった小瀬甫庵が本とされています。この太閤記が、戦国時代をある意味で講談のパラダイスと化させ、フィクションまみれにした張本人、っていうか張本本と言っていいでしょう。

 作者の小瀬甫庵は1564年生まれの元医者で、秀吉の甥である豊臣秀次らに仕えたとされます。その後、紆余曲折合って晩年は加賀前田藩に仕え、大坂の陣も過ぎた江戸時代に初期に太閤記を執筆したとされていますが、この本の中に前述の桶狭間や長篠のいかにも小説っぽいエピソードが入っている、っていうか、この本以前にそうしたエピソードは誰も書物に記録していませんでした。それどころか書かれてある事件の日時もいい加減で、話の都合で発生の前後すらも入れ替えたりするほどのファンタジスタぶりを見せています。

 以上のような怪しさプンプンな点は明治や大正期の歴史家も認識していたそうですが、それでもこの本に書かれた如何にも小説っぽいエピソードは否定されることなくそのまま浸透し続けました。これは何故かというと、この太閤記は発刊当時に活版印刷によって世の中に大いに流通したというのが原因として何よりも大きいです。
 ほかのまっとうな歴史書と比べると、講談本としてながら大衆の目に触れる歴史本であり、尚且つ演劇などにも取り入れられたもんだから嘘から出た誠とばかりに、そのままフィクションの内容が史実であると思い込まれた模様です。

 確かに、発刊当時においても「嘘くせー( ゚д゚)、ペッ」と批判する人もいたし、近現代においても信憑性に異議を呈す学者もいましたが、やはり大衆にエピソードなどが浸透してしまうとなかなか「ヾ(*´∀`)ノ゙ うそです」なんて言いづらい雰囲気もあり、最終的にきちんと否定されるまで約300年かかったということとなります。
 ただ歴史に対する実証的な研究がこの20年の間でも強まっており、そうした現場の奮闘もあってか内容が否定され始めた20年くらい前以降、この「太閤記」という書名を世の中で見ることはほぼ全くなくなりました。逆に信長の事績に関する評論などでは「信長記」の引用が増え、もはやこちらが太閤記のお株を奪位のスタンダートと化しています。

 以上のように大衆に普及し過ぎたフィクションがリアルになるという過程は、現代においてもままあります。代表格は言うまでもないでしょうが幕末の坂本龍馬で、彼に関しても近年、数多くあるエピソードが年々否定され、どっかの教科書会社に至っては彼の名前を教科書から外したとも聞きます。薩長同盟も坂本龍馬の仲立ち以前に既に密約として成立していたとか、船中八策も龍馬が考えたものじゃないなど、いろいろと新説が出てきています。

 このほかだと東条英機や山本五十六に関しても虚実織り交ぜた見方が一時広がっていましたが、近年、特に山本五十六に関しては一発屋であったなど評価が急落しつつあります。あとネットで見ると壊血病の一件だけでやたら森鴎外を貶める記述をこのところよく見るようになり、なんか評価が落ちつつあるような気がします。

 こういうのを見ると、ふとしたことをきっかけに歴史というのは誤った見方が広がるものだなという気がします。逆に地上の星じゃないですが地味ながら立派なことを成した人がなかなかスポット当たらなかったりもするので、歴史を生かすも殺すもやはり講談次第であると思わせられます。先の太閤記といい坂本龍馬といい、司馬遼太郎の影響がともに強く、司馬史観が弱まってきたことが龍馬の評価急落にも大きくつながっているでしょう。

 そういうのを踏まえてもっと世の中に知られてほしいと自分が思うのは、最近評価が上がりつつあるけど樋口季一郎、戦国時代だと甲斐宗運、現代作家なら三浦綾子あたりです。

2023年7月30日日曜日

なんでも「(´・д・`)ヤダ」だった谷干城

 最近、明治のテクノクラートという観点から批判閥でありながら政権中枢で徴用されてきた人材について着目し初め、一通りこれらに該当する人材について伝記を読み漁っています。具体的な人物としては、前回にも取り上げた原敬もそうですが、最も知名度の高い人物となると紀伊藩出身で外務大臣を務めた陸奥宗光でしょう。そして陸奥に続く形で元幕臣の榎本武明、土佐藩出身の谷干城がこれに続き、このうち谷干城についてはあんま調べたことがないので以下の本を買って読んでみました。



 谷干城と言えば西南戦争で熊本城に籠り、事実上、西郷軍撃退において最も功績の高い働きをした軍人として有名ですが、第一次伊藤博文内閣で初代農商務大臣になるなど、政治家としても要職を務めました。そんな経歴ながら陸軍の非主流派として政権や長州閥に度々楯突いたりするなど反骨精神のある人物であったと聞いていたので、改めてどんな人物であったのか伝記で読んでみたら、自分の想像以上に反骨の相に溢れた人物でした。
 なお谷干城の「干城」は戸籍名だと「たてき」ですが、本人はよく「かんじょう」と呼んでいたそうです。名前の由来は中国の古典の一説にある「干(=盾)となり城となり」という意味の文章からだそうです。

 話を戻すと、坂本龍馬の二歳下という同年代で谷干城は土佐藩に生まれており、代々の神道学者という家でした。長じて本人も当初は学者として採用されますが、神道の家計なだけあって徐々に尊王攘夷運動にのめりこむようになり、公武合体派で土佐藩の政治を仕切っていた吉田東洋を目の敵にしていたそうです。
 そのため吉田東洋が暗殺された際は真っ先に犯人と疑われたそうですが、暗殺直前に東洋と面談した際は普段から悪口言っている自分に快く時間を割いてくれ、またその主張も筋が経っており評価を見直したと述べています。ある意味、これ以降の彼を暗示しているかのような変節の一端が見えます。

 その後、土佐藩を尊王攘夷へと政策を変えさせようと動きつつ、途中で薩摩や長州と連携して徐々に尊王討幕へと方針を変え、土佐藩兵を京都に出兵させて無理やり討幕に加担させようとするなど過激な行動を取るようになります。大政奉還を経て討幕路線が固まると、同じ土佐藩の板垣退助らとともに土佐藩兵を率いて各地を転戦し、元新選組を甲州で殲滅するなど高い軍功を挙げていきます。
 その後、明治時代に入ると当初は土佐藩の執政として班内改革を進めますが、廃藩置県を経て中央政府に合流し、軍事指揮官として各地に赴任し、西南戦争直前に熊本鎮台司令として赴任します。なおこの人事の裏には、土佐出身で且つ天皇への忠誠が強い谷なら西郷軍に裏切らないという思惑があったそうで、その期待に応え見事西郷軍を撃退します。

 その後、しばらくは軍人として活動するも徐々に政治家に転身し、農商務大臣就任後は主に貴族院議員として活動しています。

 以上が主な彼の経歴ですが、改めて細かく政治思想や言動を追っていくと以上に変節の激しい人物であったというのが正直な感想です。具体的な変節ぶりを如何にまとめます。

・尊王攘夷→尊王討幕→攘夷はやっぱ不可能
・台湾出兵(1874年)に出陣→この際、清と戦争してやっつけろ!→日清戦争(1894年)反対!
・政党なんてカスの集まり→(国会開設以降)政党を中心に議論すべきで政府は勝手に決めるな!
(最後の政党に対する評価は当時の人からも「前と言っていることが違う」と突っ込まれている)

 以上は主だった変節で、細かいところを探ればもっといっぱい「前と言っていることが違う(;´・ω・)」と思わせられる発言のオンパレードです。こうした変節は何も谷に限るわけじゃないですが、彼の場合は変節前に自分の主張を激しく展開しては猛批判した挙句、自分の主張が通らないとわかるや「だったらもう辞める!(# ゚Д゚)」とすぐ辞表を叩きつけるなど、極端な行動が目立ちます。
 特に第一次伊藤政権では外務大臣であった井上馨の条約改正交渉を激しく批判し、内閣不一致を招いて井上馨の辞職を誘引するほどでした。

 以上のようなイヤイヤを繰り返したことから明治政府内では何度も辞職、復職を繰り返しているものの、主張に首尾一貫したものはほぼないものの、神道学者の家だけあって天皇家、ひいては国家に対する忠誠心は誰もが認めるものがあったことから、「谷君、また一緒にやろうよ(´・ω・)」と辞職しても誰かが復職の世話してくれるので、なんだかんだ言いつつ野に埋もれることはありませんでした。
 もっともそうした復職も、野に放っておけば西郷隆盛のように反乱を起こすかもしれないという懸念から、政権内に取り込んでおくという思惑も強かったそうです。それで反抗心が異常に強かったそうです。

 なお明治天皇からは「西南戦争の英雄」と高く評価され、谷の復職についても明治天皇の意向が強かったそうです。それだけに農商務大臣を辞めた際は「復職してくれるならどのポストでもいい、教育とか好きだったから教育大臣とかどう?」(過去に学習院院長もしている)などと、優先的にポストが提示されています。ただこの時は、議会の中で暴走を食い止めるべく貴族院議員を選んでいます。

 その後、貴族院議員の重鎮として名を馳せますが、ここでもほかの華族を率いて政府の方針に反発しまくり、あまりにも反発しまくることから当初は谷と行動を共にしたメンバーも、後期には彼と距離を置くようになっています。この時に限らず、「悪い奴じゃないんだけど」といろいろ世話して食える人は周りにいたものの、伊藤博文や山縣有朋らのように独自の派閥を形成するほど谷の周りでは徒党が形成されなかったように見えます。

 以上のように自分の見立てでは、主張や反発が激しいながら行動や発言に一貫性がまるでなく、政権にとってすればなんにでも反対してくる厄介な奴でしかなかったんだろうなという評価です。天皇家への忠誠心があったからこそ周りも大分理解してくれていますが、恐らくこれがなければ厄介な人物として暗殺されていたのではと思う節があります。
 概して大局観が一切なく、目先の問題にとらわれて過激な反対運動を展開する人間だったとしか自分には見えません。もっとも西南戦争で見せた軍事指揮や、議論においては理路整然と話すなど能力が高かったのも間違いないですが、その能力を大局観なく奮うもんだからいろいろ迷惑な人間だったようにも見えます。何か処理しなければならない課題が目の前にあれば活躍したでしょうが、なんにでも反対するもんだから反対派のシンボルに担ぎ上げられることも少なくなく、伊藤や山縣と比べるとその評価が低くなるのも自然な結果かなと思います。

2023年7月23日日曜日

比類なきゼネラリストであった原敬

 以前に何かの記事で、「原敬が暗殺された際に元老であった山縣有朋は大いに嘆いた」という記述を見て、強い違和感を覚えました。何故かというと、山縣はかねてより政党嫌いの超然主義者であり、また政敵(最初「性的」と表示されたがこれはこれで間違ってない気がする)であった伊藤博文に引き立てられる形で立憲政友会を引き継いだという立場からも、山縣にとっては完全に線対称でむしろ嫌われる立場にある人間ではないかと考えたからです。
 何故山縣はこのような立場的に対立するしかないような原敬にかような感情を抱いたのか、そうした疑問から以下の「原敬-「平民宰相」の虚像と実像 」(中公新書)を手に取ってみました。


 そもそも原敬について自分は、薩長閥でない初の平民出身の総理となったものの普通選挙法の実施にはやや否定的で、また財閥など大勢力を贔屓にする政策を取ったことから人気を亡くし最終的には暗殺された人物だとみていました。そのほか人柄に関してはやや怜悧な人物で、頭は切れるがやや人望が薄く、慕う人間もそんなに多くなかったという風な印象を覚えていました。

 上記のような私の印象は根本的なところで間違ってはいないものの、あまり語られることが少ない人物でもあることから、その人物の本質については自分はあまり理解できていないかったと今回この本を読んで感じました。具体的には見出しにも掲げている通り、原敬は同時代において比類なきゼネラリストともいうべき人物で、総理になるべくしてなったというような凄まじい経歴と能力の持ち主であったという風に考えを改めています。

 具体的にはその経歴を追う方が早いです。
 盛岡藩の家老の家として生まれるも戊辰戦争後に父はなくなり、家は傾き、立身出世を目指して東京に出てあちこちの学校に入ってはやめてを繰り返して、最終的には法曹官僚育成学校であった司法省報学校に通うようになります。ただここで騒動に巻き込まれたことから退学を余儀なくされ、官界への道は一時絶たれるのですが、伝手を頼りに新聞社(郵便報知新聞)に就職することとなります。

 その後、しばらくはジャーナリストとして活動し、財界ともこの時期にパイプを作ります。ただ新聞社内の派閥抗争に巻き込まれてまた退社を余儀なくされますが、井上馨との縁があり、彼の引き立てでフランス語が使えることから外務省へ入省し、外交官となります。この外交官時代に伊藤博文とも知己を得て、有能ぶりが各所から認められたのですが、その後に外務大臣となり後に政敵となる大隈重信には嫌われ、外務省を追い出される形で今度は農商務省に移ります。そこで新たに上司となったのが、陸奥宗光でした。
 陸奥から信頼されるとともに高く引き上げられた原敬はそのまま陸奥の秘書のような立場となり、陸奥が官界にいる間はずっとサポートし続けます。ただ陸奥が病気となって官界を去るや原もいったんは官僚をやめ、再び新聞社の経営者となりますが、政界、財界、官界にパイプを持ち、尚且つ有能と認めていた伊藤博文の引きにより、立憲政友会の創設メンバーに引き入れられます。

 こうして政治家となった原は伊藤、次いで西園寺公望の片腕となり自他ともに認める政友会の幹部として明治後半期を過ごします。西園寺が政界から引いた後は、自らの人望のなさを自覚してか政友会を集団合議体制にしますが、徐々に党内からも信頼を得たのと、同じ党内のライバルであった松田正久が逝去してからは正式に党首となり、持ち前の頭脳を使って政友会を引っ張り、選挙で度々勝利を収めていきます。

 ただ、総理になるに当たっては当時は元老の指名が絶対必要であり、実質的に藩閥出身者にまだ限られていました。しかし藩閥出身者のうち児玉源太郎や桂太郎などが早くに亡くなり、これという後継もなくなったことで徐々に人選に事欠くようになってきました。チャンスは近いと考えた原は驚くことに、ここで総理就任に当たっての最難関となる山縣有朋を度々訪問し、関係の悪さを率先して修復するように動いたそうです。
 実際、山縣は政党出身者、というより政党に政権を任せてはポピュリズムに走ると懸念していたそうなのですが、原と会って話をするうちに原のことを信頼するようになり、何より政界、官界、財界、果てには貴族院ともパイプを持ちつつ利害調整に長けていた原のことを、物事を総合的に判断できる人物であると信頼するようになったそうです。

 その後、大隈内閣、寺内内閣が世論の批判を受け倒れた後、山縣は当初は西園寺に再登板を促したものの本人が固辞し、またその西園寺からの推薦を受け、原を総理とすることを決断したそうです。

 以上の原の経歴を追っていくと、ジャーナリスト、官僚、(新聞社)経営者、政党政治家といくつもの経歴を渡り歩いており、また官僚時代は外交や経済分野に携わり、政党に入党してからは党内運営や他党との交渉や対策もこなすなど、マジで何でもかんでもやってきています。唯一、本人が苦手と自覚していたのは財税政策で、「過去に要請があったのだから財務大臣をやっとけばよかった」と述べていたそうです。
 そんなもんだから自分が総理の時は財税においては高橋是清にほぼ一任していたそうです。

 実際に原の総理時代の功績を見ると、非常に利に適っているというか高所的判断による施策が多いです。ただマクロ過ぎる政策のため末端の一般市民からすればないがしろにされているとみられたのも無理なく、それが彼の暗殺を招いたというのは真に不幸というよりほかないです。
 地味に驚いたのは、晩年に特に力を入れていたのは後に昭和天皇となる皇太子の摂政就任だったそうです。前準備として皇太子を欧州歴訪に送り出すなどしており、病気がちな大正天皇に変わる執行システムとして、皇室の継続と運営にもかなり気を配っていたことがわかります。
 なお大正天皇と原敬はかなり仲が良く、大正天皇からは頼りにされていたそうです。

 やはり心があったまるようなホットなエピソードが少なく、怜悧で有能な官僚としてのイメージが強いですが、こと政治家、それ以前にトップ運営者としての才能と実力で原敬は明らかに抜きんでた人物であったと、今回思い知らされました。近年の総理でいえば、福田康夫総理に近かったような気がします。
 一方、同時代の原の政敵であり後に普通選挙法を実現する加藤高明に関しては、完全なポピュリストであり、別に崇高な自由平等思想があったわけじゃなく党利党略のためだけに生きてきた人物だったのだなとやや見下げた印象を覚えました。実際、普通選挙法の施行により藩閥勢力は衰えたけど、その代わり軍部が台頭して日本はおかしな方向に向くことになったのだし。

2023年7月7日金曜日

反省文を書きまくった皇帝

 また本題と関係ないけど「アクション対魔忍」の中国語名は「動作対魔忍」でした。なんか少し違うような気がする。

孝文帝(Wikipedia)

 話は本題ですが、日本において「北魏」というと多分世界史を習った人は「大仏」と答えるかと思います。というのも、この北魏(5~6世紀)という中国の王朝に関しては「中国で仏教が盛んになった王朝」で、この時代の大仏を「北魏式」と呼ぶことしかテストに出ないからです。しかし実際には混乱極まった中国の南北朝時代(五胡十六国時代)において、華北地域で初めて安定を得た王朝で、後の隋、そして唐による統一のきっかけにもなるなどかなり重要な王朝だったりします。
 またこの北魏の時代から口分田こと均田制が始まり、これら政策や税制はそのまま日本の奈良時代に引用されています。そういう意味では、日本にとっても影響力の深い王朝です。

 そんな北魏において最盛期を築いたのが上記リンク先の孝文帝です。北魏の王朝は拓跋氏という、鮮卑族による王朝で、孝文帝の本名も「拓跋宏(たくばつ・ひろし)」といいました。しかし彼は早期に漢民族系の文化に染まり、首都を洛陽に移したほか、生活や制度まで漢民族風に一気に切り替えたことで有名です。
 そのため苗字に関しても、わざわざ「拓跋→元」と改名し、途中からは「元宏(もと・ひろし)」と名乗ったりします。

 そんな孝文帝ですが、祖母(実母であった説もある)の馮太后から英才教育を受け、非常に勉強熱心な皇帝としてデビューを果たします。わずか5歳で帝位に就いて当初は馮太后が摂政となったものの、馮太后の死後からは申請を開始し、善政を敷いて北魏の勢いを高めています。その過程で、漢民族と自分の出身である鮮卑族の融和も進めるなど、かなりマルチな活躍ぶりを見せています。

 性格も非常によくできた、物分かりのいい人だったとされているのですが、そうした一端をうかがわせるエピソードとして、反省文の話があります。なんでも、孝文帝は反省文を書くのが大好きで、ことあるごとに「世の中が飢饉なのは僕のせいです」、「中国が統一されないのは僕の努力が足りないせいです」、「皇太子が反乱を起こしたのも僕のせいです(でも討伐する)」などと文書にしたためては、「天よ、罪深い僕を罰したまえ」などと書き続けたと言われています。恐らく、反省文の執筆数でいえば歴代皇帝ナンバーワンでしょう。

 自分は猫の歴史漫画で初めて孝文帝について知りましたが、さっきの「おばあちゃんが実は母親だった?」などといい、こんな面白い人をなんで詳しく教えてくれなかったんだという思いが決行します。割と五胡十六国時代は穴場というかこういうのが多いので、いつかまとめる本でも出そうかな。