・タフなビジネスマンが持つべき3wayビジネスバック(ドラゴンブログ)
後輩がビジネスバッグに関する記事をこのほどアップしましたが、ちょうどこの件で私も言いたいことがあったので相乗りしようと思います。どうでもいいけどこの前近い年齢同士で、「ラブワゴン」の思い出話したら少し盛り上がりました。私は一人で「デブワゴンの企画もあったらよかったのに」とほざいてましたが。
先々週末、私は日本に一時帰国して野暮用を済ませていたのですがその際に夜遅くの電車の中で、今まで一切気が付かなかったある事実に気が付きました。その事実というのも日本の会社員が持つビジネスバッグの特徴で、身も蓋もない言い方すればみんなダサいビジネスバッグを使っていると感じました。
私自身、そんなビジネスバッグにこだわる人間でもなく今使っているのもノンブランド品で一万円もしないような鞄ですが、そんな私の目から見てもその日の夜に満員電車の中で見た会社員らが持つビジネスバッグはどれもダサすぎるように思え、なんでもっといいのを持たないのか素直に疑問を覚えました。見た感じの印象で述べると大半の人が如何にも安そうなビニール製のぺらっぺらのビジネスバッグを使っており、真ん中で折ればきれいに半分に割れちゃいそうで、っていうかビジネスバッグというよりむしろ中古ノートパソコン買った時に無料でついてくるようなバッグしかもっておらず、中には革製の鞄を持っている人もいましたがお世辞にもきちんとした皮でなく合成皮革製で、しかもかなり使い込まれたのかしわくちゃになって色褪せ切った鞄でした。
まだ入社したての若い子とかリクルーターならそういう安いのを持っているのもまだ理解できますが、そこそこ年齢の行ったような会社員ですらまるで安さを競おうとでもいうかのようなぺらっぺらの鞄をみんなして持ち歩き、ほんと誰一人としてまともそうな鞄を持っていなかったのは個人的になんか衝撃的でした。加えて言えば、中国ではドレスコードにうるさくないのもあって大半の人はリュック背負って通勤していますがそういうのを除くと、上海のビジネス街を出歩く人の鞄と比べても日本人が持ち歩いている鞄は見劣りするレベルです。
よく入社したばかりの若手に先輩社員が、「時計は人に見られるものだからいい物を買っておけ」などとどこの会社でも先輩風を吹かす人がいるとは思いますが、私としては時計以上に鞄の方が客に見られる機会が多い道具なんだからその理論ならこっちにも金をかけるべきだと思うものの、少なくともパッと見た限りだとこの方面にお金をかけようという日本人は極端に少ないような気がします。何もめちゃくちゃ高い物を買うべきとまでは言いませんが、なんだかんだ言いつつ値段を上げると耐久性がよく長持ちする上、収納性、外観などで2000円程度の物と一線を画すようになるので、個人的には多少お金出してでもいいビジネスバッグを使った方がいいと思え、少なくともパソコンバッグを流用するのだけはやめといたほうがいいでしょう。
改めて考えてみるといま日本のアパレル業界で勢いあるのは減益したユニクロを尻目に増収増益を重ねているファッションセンターしまむら(福利厚生がかなりいいらしい)でしょうが、ユニクロは置いといて品質やデザインよりも価格の手ごろさを売りにしているしまむらが勢いあるっていうことは、それだけ日本人が着飾るという意識が落ちてきている証拠かもしれません。もちろんしまむらが悪いわけじゃなくここは私も個人的に贔屓にしている会社ですが、日本帰って男性衣料品店を回っているとどこもチェック柄のシャツしか売ってなくて、なんでこんなに日本のファンションの範囲は狭いんだと前から感じていたこともあり、いいものを求めるという意識が明らかに落ちてきているのかもしれません。西武グループもこういったこと最近言わなくなったしなぁ。
なおビジネスバッグについては偉そうに語る私ですが靴に関しては全くこだわりがありません。っていうか高い革靴ほど歩き辛いように思え、いざ突然ショッカーとか野生の解放軍が襲ってきたりしたら全く対応できないため、革靴の中でも比較的スポーティな走りやすそうな奴を常に選んで買っています。第一、鞄と違って靴は簡単に汚れるんだし汚れてナンボなんだしこんなんにこだわってもしょうがないと割り切っています。
服に関してはYシャツにはそんなこだわる余地はなく、私服についてはほかの大多数の日本人と被らないようにチェック柄だけは買わないようにしています。
おまけ
この件を名古屋に左遷された親父に、「ほんとに最近の人は鞄に対するこだわりがないよなぁ」と話したら、「俺も安いのつかっとる」と言われました。もうちょいこだわれやと10分くらい説教しました。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2016年10月31日月曜日
2016年10月30日日曜日
中日新聞の記事捏造事件に対する処分について
昨日一仕事終えた自分へのご褒美としてきゆづきさとこ氏の「棺担ぎのクロ。~懐中旅話~」の2巻をKindleで購入した所、タブレットPCでうまくダウンロードできないばかりか妙なエラーが出て再ダウンロードすらできなくなり泣きながら布団に入りましたが、ノートPCでダウンロードできないか試したところどうにかうまくダウンロード出来て読むことが出来ました。Amazonのレビュアーの一人が「大人のための絵本」と評していましたがまさにその通りで、読んでて何度も泣きそうになりました(ノД`)
そんな私の心温まる読書録はさておき、久々に激怒させるニュースを見て血圧上がりました。
・<中日新聞社>子どもの貧困関連記事の検証掲載 記者ら処分(毎日新聞)
・「新貧乏物語」の削除問題を検証(中日新聞)
ニュース概要は上のYahooニュース配信の毎日の記事の方が見やすいですが私の方から簡単に説明すると、中日新聞が「新貧乏物語」というタイトルで組んだ特集記事連載の「子供の貧困」をテーマにした複数の記事で貴社が事実内容並びに写真を捏造していたとのことです。この捏造記事は今年五月の紙面に掲載されほぼ掲載直後に捏造が発覚していながら紙面でのお詫び掲載は今月となる十月まで一切なされず、でもって捏造問題(中日自身は「削除問題」と言葉を変えているのがムカつく)の検証記事を今日30日に掲載したわけです。
細かい内容は上記リンク先の検証記事内容を読んでもらいたいのですが、その捏造内容の幼稚さもさることながら最終的な社内処分の内容は正直目を疑いました。毎日の記事の記述をそのまま引用すると、「同社は、管理・監督責任として臼田信行取締役名古屋本社編集局長を役員報酬減額、寺本政司同本社社会部長と社会部の取材班キャップをけん責、執筆した記者を停職1カ月とする懲戒処分を決めた。いずれも11月1日付。」とあり同じ内容が検証記事にも書かれていますが、これを見て皆さんはどう思うでしょうか?
私個人、というより元記者としての常識で語れば執筆した記者は問答無用で退職以外の処分は有り得ないと思えるほか、管理責任者であるキャップも更迭か降格に準ずるような処分を受ける以外有り得ないでしょう。こうした記事捏造や誤報については共同通信社が業界で最も厳しいのですが、過去の事件を検索すればわかりますが共同であれば執筆者は即刻クビになり、編集長クラスも直接自分が見たり指導していなくても確実に更迭されます。管理責任者の処分については状況次第で考慮の余地もありますが、これだけの捏造をした記者がクビにならず、わずか一ヶ月の停職で済むなんて自分の常識ではまずもって有り得ません。
しかもこの中日の捏造記者、取材対象の子供がさも貧乏で苦しく、小学生ながら惨めそうに働くような写真を自作自演して撮影しており、やり方が非常に悪質です。なおこの写真捏造の経緯について検証記事では記者とカメラマンの意思疎通に問題があったなどと書いていますが、この程度の取材でカメラマンなんて使わせてんじゃねぇよと見ていてイライラしました。これくらいは記者本人にカメラ持たせて撮らせれば済むだろうに無駄金使いやがって。
もう一つの捏造記事に至っては中学生の少女が部活の合宿費一万円が出せなくて寮に宿泊できなかった(実際には支払って宿泊している)と少女本人に取材せずに書いてたそうですが、こうした貧困物の記事というのは非常にセンシティブで記事内容によっては取材対象の子供が学校などでいじめられるきっかけになることもあるだけに、何故こいつらはさらりとこんなこと書いているんだと言葉を失いました。それこそこのケースだと、記事を読んだ周りからすれば少女が嘘ついて貧乏をかこついているようにも見えかねず、非常に危険な記述にしか思えません。
またお詫び記事の掲載が遅れた理由として中日新聞は、「写真の問題発覚後から男性記者が精神的に不安定になり、詳しく事実関係を聞くことができない事情もあった。」と言い訳をかましていますが、自分らは病気だろうななんだろうが相手の事情なんて一切気にしないで普段取材しているくせに身内には随分甘いんだななんて、反吐が出るような言い訳に見えます。第一、こんな悪質な捏造をやった記者に同情の余地なんてなく、精神が不安定になろうがおかしくなろうがこういう輩はどうせこの先生きてたって世の中にとって百害あって一利ないんだから自殺にまで追い込んだっていいってのに何をか言わんやです。というより、この記者は十一月一日付で停職一ヶ月都の処分ですが、五月に捏造が発覚してからも記事書いているんじゃないかと思われるのですがその点については何も言及しておらず、そもそもクビ以外有り得ないというのにまだ仕事をさせている時点で組織としての中日新聞の異常性を感じざるを得ません。
たとえば取材者が嘘をついたためなどの無自覚な誤報であれば処分はともかく再起のチャンスは必要です。しかし意図的に、しかもセンシティブな内容で写真や事実を捏造する行為はジャーナリストの世界ではただの一度たりとも許されず、やったが最後退場してもらう以外有り得ません。何故ならこういうことを一度やった人間は確実に再びやらかすことが目に見えているからです。
今回の中日新聞の検証記事を読む限りだと再発防止策について何も触れていないことからまるで反省している素振りがなく、最初に捏造が発覚した後もほとんど検証せずに別記事の捏造に気づくまで一ヶ月程度かかっており、自浄作用が全く働いておらずその処分内容の軽さから言っても真摯に反省しているとは私にはとても感じられませんでした。多方面にケンカ売るのも我ながらどうだと思いますが、外部検証委員として参加した木村太郎氏、吉田俊実氏、田中早苗氏、魚住昭氏の四名の方々は本当にこれでいいとでも思っておられるのでしょうか。私だったら「処分が軽すぎ無反省だ」と断じた上で、今後の対策について何も言及していない点などを挙げて余計な火の粉を浴びないように委員を降ります。しゃらくさいのではっきり言うが、この四人はこの件で何を検証をしたというのでしょうか。
そんなにキャリアあるわけじゃなく偉そうなことを言える立場でありませんが、ジャーナリストの仕事を私は神聖なものと考えています。強引な取材や横柄な態度で周囲の人間を困らせることはいくらでもありますが事実を正しく報じるという姿勢があればこそそうした行為もある程度は許容されるもので、大前提となる真実を捏造するような行為は人殺しよりも許されない行為であるとすら思います。
自分が記者だった頃にはまさにこういう姿勢を徹底的に叩き込まれ、それこそ仮に捏造でもしようものなら多分ボコボコにぶん殴られて窓から放り投げられただろうと思うくらい厳しく言われました。そうした信念は昨日今日作られるものではなく、今回の処分内容を見る限り中日新聞の今の姿勢は昨日今日作られたものではないんだなと感じました。
おまけ
記者時代に記事内容がしょぼかったりして上司に怒られた際によく、「お前のせいでまた血圧上がるだろこの野郎! 俺、病気だから血圧上がったら大変なんだぞ!」と怒鳴られていましたが、記事内容がしょぼいことには反省しつつも、(血圧上がって大変になんだったら毎晩酒飲み歩くなよ……)と、心の中で反論していたのはここだけの内緒です。
そんな私の心温まる読書録はさておき、久々に激怒させるニュースを見て血圧上がりました。
・<中日新聞社>子どもの貧困関連記事の検証掲載 記者ら処分(毎日新聞)
・「新貧乏物語」の削除問題を検証(中日新聞)
ニュース概要は上のYahooニュース配信の毎日の記事の方が見やすいですが私の方から簡単に説明すると、中日新聞が「新貧乏物語」というタイトルで組んだ特集記事連載の「子供の貧困」をテーマにした複数の記事で貴社が事実内容並びに写真を捏造していたとのことです。この捏造記事は今年五月の紙面に掲載されほぼ掲載直後に捏造が発覚していながら紙面でのお詫び掲載は今月となる十月まで一切なされず、でもって捏造問題(中日自身は「削除問題」と言葉を変えているのがムカつく)の検証記事を今日30日に掲載したわけです。
細かい内容は上記リンク先の検証記事内容を読んでもらいたいのですが、その捏造内容の幼稚さもさることながら最終的な社内処分の内容は正直目を疑いました。毎日の記事の記述をそのまま引用すると、「同社は、管理・監督責任として臼田信行取締役名古屋本社編集局長を役員報酬減額、寺本政司同本社社会部長と社会部の取材班キャップをけん責、執筆した記者を停職1カ月とする懲戒処分を決めた。いずれも11月1日付。」とあり同じ内容が検証記事にも書かれていますが、これを見て皆さんはどう思うでしょうか?
私個人、というより元記者としての常識で語れば執筆した記者は問答無用で退職以外の処分は有り得ないと思えるほか、管理責任者であるキャップも更迭か降格に準ずるような処分を受ける以外有り得ないでしょう。こうした記事捏造や誤報については共同通信社が業界で最も厳しいのですが、過去の事件を検索すればわかりますが共同であれば執筆者は即刻クビになり、編集長クラスも直接自分が見たり指導していなくても確実に更迭されます。管理責任者の処分については状況次第で考慮の余地もありますが、これだけの捏造をした記者がクビにならず、わずか一ヶ月の停職で済むなんて自分の常識ではまずもって有り得ません。
しかもこの中日の捏造記者、取材対象の子供がさも貧乏で苦しく、小学生ながら惨めそうに働くような写真を自作自演して撮影しており、やり方が非常に悪質です。なおこの写真捏造の経緯について検証記事では記者とカメラマンの意思疎通に問題があったなどと書いていますが、この程度の取材でカメラマンなんて使わせてんじゃねぇよと見ていてイライラしました。これくらいは記者本人にカメラ持たせて撮らせれば済むだろうに無駄金使いやがって。
もう一つの捏造記事に至っては中学生の少女が部活の合宿費一万円が出せなくて寮に宿泊できなかった(実際には支払って宿泊している)と少女本人に取材せずに書いてたそうですが、こうした貧困物の記事というのは非常にセンシティブで記事内容によっては取材対象の子供が学校などでいじめられるきっかけになることもあるだけに、何故こいつらはさらりとこんなこと書いているんだと言葉を失いました。それこそこのケースだと、記事を読んだ周りからすれば少女が嘘ついて貧乏をかこついているようにも見えかねず、非常に危険な記述にしか思えません。
またお詫び記事の掲載が遅れた理由として中日新聞は、「写真の問題発覚後から男性記者が精神的に不安定になり、詳しく事実関係を聞くことができない事情もあった。」と言い訳をかましていますが、自分らは病気だろうななんだろうが相手の事情なんて一切気にしないで普段取材しているくせに身内には随分甘いんだななんて、反吐が出るような言い訳に見えます。第一、こんな悪質な捏造をやった記者に同情の余地なんてなく、精神が不安定になろうがおかしくなろうがこういう輩はどうせこの先生きてたって世の中にとって百害あって一利ないんだから自殺にまで追い込んだっていいってのに何をか言わんやです。というより、この記者は十一月一日付で停職一ヶ月都の処分ですが、五月に捏造が発覚してからも記事書いているんじゃないかと思われるのですがその点については何も言及しておらず、そもそもクビ以外有り得ないというのにまだ仕事をさせている時点で組織としての中日新聞の異常性を感じざるを得ません。
たとえば取材者が嘘をついたためなどの無自覚な誤報であれば処分はともかく再起のチャンスは必要です。しかし意図的に、しかもセンシティブな内容で写真や事実を捏造する行為はジャーナリストの世界ではただの一度たりとも許されず、やったが最後退場してもらう以外有り得ません。何故ならこういうことを一度やった人間は確実に再びやらかすことが目に見えているからです。
今回の中日新聞の検証記事を読む限りだと再発防止策について何も触れていないことからまるで反省している素振りがなく、最初に捏造が発覚した後もほとんど検証せずに別記事の捏造に気づくまで一ヶ月程度かかっており、自浄作用が全く働いておらずその処分内容の軽さから言っても真摯に反省しているとは私にはとても感じられませんでした。多方面にケンカ売るのも我ながらどうだと思いますが、外部検証委員として参加した木村太郎氏、吉田俊実氏、田中早苗氏、魚住昭氏の四名の方々は本当にこれでいいとでも思っておられるのでしょうか。私だったら「処分が軽すぎ無反省だ」と断じた上で、今後の対策について何も言及していない点などを挙げて余計な火の粉を浴びないように委員を降ります。しゃらくさいのではっきり言うが、この四人はこの件で何を検証をしたというのでしょうか。
そんなにキャリアあるわけじゃなく偉そうなことを言える立場でありませんが、ジャーナリストの仕事を私は神聖なものと考えています。強引な取材や横柄な態度で周囲の人間を困らせることはいくらでもありますが事実を正しく報じるという姿勢があればこそそうした行為もある程度は許容されるもので、大前提となる真実を捏造するような行為は人殺しよりも許されない行為であるとすら思います。
自分が記者だった頃にはまさにこういう姿勢を徹底的に叩き込まれ、それこそ仮に捏造でもしようものなら多分ボコボコにぶん殴られて窓から放り投げられただろうと思うくらい厳しく言われました。そうした信念は昨日今日作られるものではなく、今回の処分内容を見る限り中日新聞の今の姿勢は昨日今日作られたものではないんだなと感じました。
おまけ
記者時代に記事内容がしょぼかったりして上司に怒られた際によく、「お前のせいでまた血圧上がるだろこの野郎! 俺、病気だから血圧上がったら大変なんだぞ!」と怒鳴られていましたが、記事内容がしょぼいことには反省しつつも、(血圧上がって大変になんだったら毎晩酒飲み歩くなよ……)と、心の中で反論していたのはここだけの内緒です。
2016年10月29日土曜日
敢えて「ずらす」価値
現在の私の職場では昼休みの時間は明確に定められておらず正午前後にそれぞれが勝手に出て行って昼食を取るようになっています。こうした環境にあることから私は大体11時40分頃に出て行って近くのスーパーで弁当買って食べたりするのですが、12時ちょうどの混雑を嫌うというのもありますが時間をずらせるものはずらした方が価値があるという妙な信念を持ってやっております。
私がこのように考えるようになったきっかけとして大きいのは学生時代にアルバイトをしていた喫茶店での体験です。やはり週末ともなると12時前後に客が集中して忙しくなり、働きながら内心で「他にも店あるんだから余所行け余所」と愚痴ったりしながら働いていました。逆に時間をずらしてきてくれるお客、具体的には11時頃とか13時頃に来てくれるお客はありがたく、サーブするこっちも妙な感謝の念と共に配膳していました。
一般的に、周囲と歩調を合わせることは効率の向上につながるはずなのですが、それもやや過剰となるとピークの負担を高めることとなり、返って効率を下げる結果につながると断言できます。逆にそのピークを分散させるということは手持無沙汰な時間と忙しすぎる時間を減らし、同じ勤務時間と労働量でありながら勤務者や設備、そして顧客自身にも上記のような飲食店の例だと待ち時間を減らせることとなり見事な一挙三方得ともいうような結果が得られます。
その上で述べると、日本社会はやはり何でもかんでも歩調を合わせ過ぎです。お昼休みもどの会社も12時から一時間とかにせず業種とかに合わせて13時からとか11時からとかに切り替え、ついでに勤務時間も7~16時とか10~19時とかに、難なら同じ社内の人間同士でも異なる勤務時間で共存してもいいように思えます。なにせその方が効率的なんだし。
一応フレックスタイム制というのもありますがやはり今の日本の状況を見ているといまいち機能しきれていないのではと思う節があります。また仕事だけに限らず先程の昼食時間とか連休のある期間なども敢えてずらすことこそ今の世の中では価値があるように思え、反骨精神満々な私は常にほかの人間とはずれた行動を取るように心がけています。
具体的には旅行シーズンでない期間に有給取って旅行行ったり、休日も忙しくないであろう3時とかにスーパー行って買い物したり、果てにはほかの人がやりたがらないであろう仕事を敢えてやろうとしたりなど。日本では最低な人間の代表格ともいうべき特徴として「空気を読まない」というのがありますが、見方によってはそういった空気を読まず、集団と歩調を敢えて合わせないような人材こそ日本社会の発展において必要なのではないかと思う時があります。それが正しいかどうかは置いといてこの記事で言いたいこととしては、逸脱を許さない社会は案外非効率だっていうことです。
私がこのように考えるようになったきっかけとして大きいのは学生時代にアルバイトをしていた喫茶店での体験です。やはり週末ともなると12時前後に客が集中して忙しくなり、働きながら内心で「他にも店あるんだから余所行け余所」と愚痴ったりしながら働いていました。逆に時間をずらしてきてくれるお客、具体的には11時頃とか13時頃に来てくれるお客はありがたく、サーブするこっちも妙な感謝の念と共に配膳していました。
一般的に、周囲と歩調を合わせることは効率の向上につながるはずなのですが、それもやや過剰となるとピークの負担を高めることとなり、返って効率を下げる結果につながると断言できます。逆にそのピークを分散させるということは手持無沙汰な時間と忙しすぎる時間を減らし、同じ勤務時間と労働量でありながら勤務者や設備、そして顧客自身にも上記のような飲食店の例だと待ち時間を減らせることとなり見事な一挙三方得ともいうような結果が得られます。
その上で述べると、日本社会はやはり何でもかんでも歩調を合わせ過ぎです。お昼休みもどの会社も12時から一時間とかにせず業種とかに合わせて13時からとか11時からとかに切り替え、ついでに勤務時間も7~16時とか10~19時とかに、難なら同じ社内の人間同士でも異なる勤務時間で共存してもいいように思えます。なにせその方が効率的なんだし。
一応フレックスタイム制というのもありますがやはり今の日本の状況を見ているといまいち機能しきれていないのではと思う節があります。また仕事だけに限らず先程の昼食時間とか連休のある期間なども敢えてずらすことこそ今の世の中では価値があるように思え、反骨精神満々な私は常にほかの人間とはずれた行動を取るように心がけています。
具体的には旅行シーズンでない期間に有給取って旅行行ったり、休日も忙しくないであろう3時とかにスーパー行って買い物したり、果てにはほかの人がやりたがらないであろう仕事を敢えてやろうとしたりなど。日本では最低な人間の代表格ともいうべき特徴として「空気を読まない」というのがありますが、見方によってはそういった空気を読まず、集団と歩調を敢えて合わせないような人材こそ日本社会の発展において必要なのではないかと思う時があります。それが正しいかどうかは置いといてこの記事で言いたいこととしては、逸脱を許さない社会は案外非効率だっていうことです。
2016年10月27日木曜日
ポスト55年体制を彩った二人の壊し屋
前回の都知事選直前に友人から選挙予測を尋ねられた私は「小池百合子の圧勝」と述べたところ友人は、小池都知事の過去何度も行った転身ぶりを指摘して資質に問題があるのではと懸念をしました。その懸念に対して私は無用な心配だと否定した上で、「現在の女性政治家の中でも間違いなくトップクラスの資質を持っている。なんでこんなことが言えるのかというと、以前に小泉と小沢について述べた論評が非常に的確だったからだ」と説明しました。
その論評とは文芸春秋2008年1月号に載っている「小沢一郎と小泉純一郎を斬る」という論評です。たまたまですが今月の文芸春秋の巻頭コラムで立花隆氏が、小池都知事の人となりを知ろうと読んだ過去の著作の中で読者にもお勧めできる内容として紹介してたのでびっくりしたのですが、実際に当時この論評を読んだ私もその内容のあまりの的確さに強い印象を覚え、小池氏についてしっかりとした見識を持っている政治家だと評価を改めさせられた論評でした。
ではこの論評はどういう内容だったのかというと、タイトル見出しの通りに小池氏がかつて仕えたというか小池氏を政界の中で引き上げた二人の人物こと小沢一郎氏と小泉純一郎氏について、傍で見ていた立場から両者を比較した内容です。小池氏のWikipedia記事中にも一部内容が引用されておりますがそこで引用されてある内容よりも私の中で強く印象に残ったのは、「本質的に両者はよく似ている」という指摘でした。
この指摘は両者のバックグラウンドを知っていればよりインパクトが強くなり、というのも二人とも1942年生まれで、出身大学は共に慶應義塾大学、そして二人とも親が自民党の政治家だったのに学生時代は割と学生運動にのめり込んでいた点まできれいに一致しています。ただ議員になったのは小沢氏が1965年だったのに対し、小泉氏は初めて立候補した際は落選の憂き目を見て、初当選は1972年と小沢氏に対し7年遅れでの政界デビューでした。
政治家となった後の足跡は対照的で、若くして田中角栄に気に入られた小沢氏は最年少で党幹事長を務めただけでなく自民党を出て新進党を創立した90年代においては日本政治の中心にいたと言っても過言ではありません。一方、小泉氏は当選直後から自民党の票田であった郵政を解体するとのたまうなどして党内での評判はすこぶる悪く、文字通り一匹狼として党内で浮いた存在であり続けました。
小池氏が政界入りするきっかけは小沢氏からのスカウトで、政治家となった後も実質的に小沢氏の薫陶を受け続けました。しかしその後、小沢氏と袂を分かった小池氏の知名度を大きく飛躍させたのは「刺客候補第一号」として郵政選挙で小池氏を東京の選挙区へ送り込んだ小泉氏で、郵政選挙以降も他の総理候補にも劣らないほど小泉氏に重用され、JPOP風に言えばその後もなんだかんだを踏み込えて今や堂々たる都知事になったのですから結構波乱万丈な政治人生です。
話は戻りますが小池氏は上記の論評で小沢氏と小泉氏の二人を本質的にはよく似た者同士だと踏まえた上で、「決定的に異なる点は根明か根暗かの違い」だと指摘し、宴会の席では延々と下ネタしか口にしない小泉氏に対し、あまり宴会を好まず一人でこもっていることが好きな小沢氏を比較してこの点が2008年現在の両者を分けたのではと述べていました。
両者の傍で見て来ただけあってやはり見どころが違うというか細かい点だけど実に重要な点をついていると思えこの指摘にちょうど8年前の私(当時は日本で髀肉の嘆をかこってた)は大いに唸らされたのですが、改めてこの評価を見るだにやはり小沢氏と小泉氏は似ているというか似過ぎた政治家で、ほんのわずかなベクトルの違いが年月を経て両者を大きく分けた例だったろうと思えてなりません。
昨日に書いた記事で私は政治家は大別して創造型、破壊型の二種類に分かれると説明し、小沢氏も小泉氏も既存秩序を破壊する破壊型、それもとびっきりの壊し屋であるかのように書きました。戦後の日本政治をこの観点で見ると55年体制はまさに創造の時代でしたがバブル崩壊とともに終焉を迎え、いわゆる「失われた十年」こと1990年代は不良債権を筆頭とした負の遺産の処理に追われる期間となりました。
この失われた十年において主役であったのは前述の通り小沢氏で、恐らく本人もその気があったと思うのですが「自民党」それ自体を負の遺産と捉えて飛び出し、新党運動を経て自民党を第一党からも引きずり下ろすに至りました。ただ小池氏曰く「党利党略だけの人」と言われただけあって小沢氏は政界内の改革には熱心であっても実社会に対する政策は何も持っておらず、その結果が何もしないまま過ぎ去ったといわれる「失われた十年」を招く一因にもなったと私には思えます。
その後、自民党に残り「加藤の乱」を鎮圧したことで一気に名を挙げた小泉氏が総理総裁となり、いわゆる小泉時代を迎えます。この小泉時代には郵政や不良債権を始めとにもかくにもいろんな既存秩序が破壊されたのですが、理想を言えばこれらはどれも90年代に行われるべき政策でもありました。無論遅くなったとはいえ、00年代に果たされたことには高い意義があるのですが。
そして現在ですが、やはり「ポスト小泉時代」というべきであるほど小泉政権の影響がまだ強く残っているように私には考えられます。小泉政権が破壊した後の日本にどんな秩序を打ち立てるのか、これを模索し続けているのがこの10年で現在進行形でまだ続いています。
現状に対する評価はさておき、少なくとも55年体制崩壊以降の日本政治は先に小沢氏、次いで小泉氏が主役であったと私は考えており、この二人が似た者同士というか生粋の壊し屋同士であったということを考えるだに、あの時代はそれだけ負の遺産が多くそれらを壊す解体家が本当に求められていたのだなとも思えます。しかし壊す対象が政界か、金融界だったのかの違いが、こういう結果になるというのもまた色々と思うところが出てくる結果です。
その論評とは文芸春秋2008年1月号に載っている「小沢一郎と小泉純一郎を斬る」という論評です。たまたまですが今月の文芸春秋の巻頭コラムで立花隆氏が、小池都知事の人となりを知ろうと読んだ過去の著作の中で読者にもお勧めできる内容として紹介してたのでびっくりしたのですが、実際に当時この論評を読んだ私もその内容のあまりの的確さに強い印象を覚え、小池氏についてしっかりとした見識を持っている政治家だと評価を改めさせられた論評でした。
ではこの論評はどういう内容だったのかというと、タイトル見出しの通りに小池氏がかつて仕えたというか小池氏を政界の中で引き上げた二人の人物こと小沢一郎氏と小泉純一郎氏について、傍で見ていた立場から両者を比較した内容です。小池氏のWikipedia記事中にも一部内容が引用されておりますがそこで引用されてある内容よりも私の中で強く印象に残ったのは、「本質的に両者はよく似ている」という指摘でした。
この指摘は両者のバックグラウンドを知っていればよりインパクトが強くなり、というのも二人とも1942年生まれで、出身大学は共に慶應義塾大学、そして二人とも親が自民党の政治家だったのに学生時代は割と学生運動にのめり込んでいた点まできれいに一致しています。ただ議員になったのは小沢氏が1965年だったのに対し、小泉氏は初めて立候補した際は落選の憂き目を見て、初当選は1972年と小沢氏に対し7年遅れでの政界デビューでした。
政治家となった後の足跡は対照的で、若くして田中角栄に気に入られた小沢氏は最年少で党幹事長を務めただけでなく自民党を出て新進党を創立した90年代においては日本政治の中心にいたと言っても過言ではありません。一方、小泉氏は当選直後から自民党の票田であった郵政を解体するとのたまうなどして党内での評判はすこぶる悪く、文字通り一匹狼として党内で浮いた存在であり続けました。
小池氏が政界入りするきっかけは小沢氏からのスカウトで、政治家となった後も実質的に小沢氏の薫陶を受け続けました。しかしその後、小沢氏と袂を分かった小池氏の知名度を大きく飛躍させたのは「刺客候補第一号」として郵政選挙で小池氏を東京の選挙区へ送り込んだ小泉氏で、郵政選挙以降も他の総理候補にも劣らないほど小泉氏に重用され、JPOP風に言えばその後もなんだかんだを踏み込えて今や堂々たる都知事になったのですから結構波乱万丈な政治人生です。
話は戻りますが小池氏は上記の論評で小沢氏と小泉氏の二人を本質的にはよく似た者同士だと踏まえた上で、「決定的に異なる点は根明か根暗かの違い」だと指摘し、宴会の席では延々と下ネタしか口にしない小泉氏に対し、あまり宴会を好まず一人でこもっていることが好きな小沢氏を比較してこの点が2008年現在の両者を分けたのではと述べていました。
両者の傍で見て来ただけあってやはり見どころが違うというか細かい点だけど実に重要な点をついていると思えこの指摘にちょうど8年前の私(当時は日本で髀肉の嘆をかこってた)は大いに唸らされたのですが、改めてこの評価を見るだにやはり小沢氏と小泉氏は似ているというか似過ぎた政治家で、ほんのわずかなベクトルの違いが年月を経て両者を大きく分けた例だったろうと思えてなりません。
昨日に書いた記事で私は政治家は大別して創造型、破壊型の二種類に分かれると説明し、小沢氏も小泉氏も既存秩序を破壊する破壊型、それもとびっきりの壊し屋であるかのように書きました。戦後の日本政治をこの観点で見ると55年体制はまさに創造の時代でしたがバブル崩壊とともに終焉を迎え、いわゆる「失われた十年」こと1990年代は不良債権を筆頭とした負の遺産の処理に追われる期間となりました。
この失われた十年において主役であったのは前述の通り小沢氏で、恐らく本人もその気があったと思うのですが「自民党」それ自体を負の遺産と捉えて飛び出し、新党運動を経て自民党を第一党からも引きずり下ろすに至りました。ただ小池氏曰く「党利党略だけの人」と言われただけあって小沢氏は政界内の改革には熱心であっても実社会に対する政策は何も持っておらず、その結果が何もしないまま過ぎ去ったといわれる「失われた十年」を招く一因にもなったと私には思えます。
その後、自民党に残り「加藤の乱」を鎮圧したことで一気に名を挙げた小泉氏が総理総裁となり、いわゆる小泉時代を迎えます。この小泉時代には郵政や不良債権を始めとにもかくにもいろんな既存秩序が破壊されたのですが、理想を言えばこれらはどれも90年代に行われるべき政策でもありました。無論遅くなったとはいえ、00年代に果たされたことには高い意義があるのですが。
そして現在ですが、やはり「ポスト小泉時代」というべきであるほど小泉政権の影響がまだ強く残っているように私には考えられます。小泉政権が破壊した後の日本にどんな秩序を打ち立てるのか、これを模索し続けているのがこの10年で現在進行形でまだ続いています。
現状に対する評価はさておき、少なくとも55年体制崩壊以降の日本政治は先に小沢氏、次いで小泉氏が主役であったと私は考えており、この二人が似た者同士というか生粋の壊し屋同士であったということを考えるだに、あの時代はそれだけ負の遺産が多くそれらを壊す解体家が本当に求められていたのだなとも思えます。しかし壊す対象が政界か、金融界だったのかの違いが、こういう結果になるというのもまた色々と思うところが出てくる結果です。
2016年10月26日水曜日
破壊型、創造型に分かれる政治家のタイプ
いまいち需要があるのか自分でもよくわからないですがまたどうでもいい近況を書くと、先週末に日本帰った際に立ち寄った松戸(マッドシティ)の伊勢丹で信楽焼のオールドカップを買ってしまいました。値段は3000円でしたが何とも言えない光沢と歪みで、本来は焼酎や日本酒を入れることを意識して作られていると思いますが酒が飲めないため夜な夜なお茶を注いではニヤニヤして飲んでいます。包装箱によると、富田正氏の作品で「黒金彩オールド」という商品名です。
なおこれを買う際、同時に美濃焼カップ6個セットが3300円くらいで売っていたので、陶器趣味の伝播を図っている上海人の友人へ送ろうとこれも買ってしまいました。箱がでかくて、移動中は色々辛かったけど……。
話は本題に入りますがかなり昔、具体的には12年くらい前に読んだ政治評論記事にて「政治家には大きく分けて二つのタイプ、創造型と破壊型に分かれる」という指摘があり大いに唸らされたことがありました。これはどういう意味かというと文字通りで、新たな制度やグランドデザインを作り出すタイプの政治家が創造型に当たり、逆に古い制度や組織を破壊するタイプの政治家が破壊型に当たります。
具体例を挙げると破壊型政治家に属し近年の有名どころとなると間違いなく小泉純一郎元首相で、スローガンの「自民党をぶっ壊す」に始まり郵政の民営化や社会保障制度改革などで既存制度や概念を破壊し、そしてハンセン病訴訟問題や不良債権処理といったいわゆる「負の遺産」を一気に処理していたことから破壊型政治家の名に相応しいでしょう。もっとも、「自民党をぶっ壊す」については言葉とは裏腹に自民党を延命させてしまったというのが私の評価です。
反対に創造型政治家の例としてはやや古いですが竹下登元首相、橋本龍太郎元首相がこのタイプに入ると考えております。竹下元首相は在任当時は大いに叩かれましたが消費税の導入を行い、橋本元首相も行政改革を通して現在の省庁体制を確立し、後の小泉政権における内閣主導の布石を作っています。
この二つに分かれる政治家のタイプについて元の評論記事では、「概して創造型政治家は嫌われやすく、破壊型政治家は人気が得られやすい」と指摘してあり、その例として上記の通り破壊型は小泉元首相、創造型は竹下元首相を引き合いに出して両者の事業と功績を見比べて、竹下元首相の消費税導入は日本政治史における偉大な一歩だったが嫌われたまま終わってしまったのに対し、小泉元首相は壊すだけ壊してまだ何も残していないと評価していました。言われて私も火今でも非常に納得する意見です。
ここから私の評論に移りますが、破壊型、創造型のどちらが優れているわけではなく政治においては両方とも必要不可欠であると考えております。時代に合った制度を創造する必要性は言うまでもなく大事で、またその逆に時代に合わなくなった古い制度、現代であれば連帯保証人制度や上記に上げた不良債権などですが、こうした旧弊というか負の遺産を吹き飛ばし新しい制度を設置する余地を生む破壊も時代によっては非常に重要となります。ややくどいですが繰り返して述べると、創造の上に創造するということは実際有り得ないことで、新たな制度や概念を作るためには一度更地に戻すというかスペースを作る行為もまた必要だというのが政治だと私は思います。
この政治における破壊と創造のサイクルですが、もちろん政治家は両方できるに越したことはないのですが私のこれまでの知見から述べると、やはり各政治家はこの二つのうちどっちかの方向に意識なり能力が傾くため、二項対立的な概念は好きではないもののこと政治家においてはこの二種類のタイプに大別した方が見やすい気がします。
近年の政治家でタイプを分類すると、まず安倍首相は憲法改正や安保法案の海底にこだわる点を見ると創造型で、麻生財務大臣は悪い方の破壊型、石破議員はやや創造型かと思えます。民主党時代の主要人物となると鳩山、管の両元首相はどちらも完全な破壊型で、言い方悪いですが自己破滅的な破壊型だったなと思え、最後の野田元首相が唯一創造型だったと見ております。
ここでちょっと破壊と創造に沿って日本政治史を敢えて追うと、日本はいわゆる55年体制の期間中は一貫して創造的な政治が求められ、池田勇人や田中角栄といった創造型の政治家が大いに活躍できた時代でした。しかし55年体制の終末に近づくにつれ明らかに「負の遺産」が溜まっていき、自民党が第一党から落ちて55年体制が終わって以降はバブル崩壊後の日本経済同様、破壊型の政治家が求められていたのでないかと思えます。
しかし、創造型にも破壊型にも分類できず敢えて言うとしたらやっぱ自己破滅型だった村山元首相以降の橋本、小渕の両首相はどっちも創造型で、時代的な観点から見ればミスキャストな点が大きかったでしょう。そしてその次の森元首相に至っては今のオリンピック委員会を見ていてもわかるようにこの人も自己破滅型でお話にならず、小泉元首相が来てようやく破壊の時代が幕開けしたとも言えるでしょう。
そしてポスト小泉時代こと現代について言えば、小泉政権で破壊しつくされた後ということもあって新たな制度や概念が明らかに求められており、この記事を書いている現時点においても創造型の政治家の方が破壊型に比べ有利な時代であると思われます。ただ安倍首相は創造型政治家であるもののグランドデザインとか国家体制といった範囲の広い分野は明らかに苦手で、創造できる範囲が憲法や安保だけに絞られており経済に至っては完全な範囲外であるのが自分やや物足りないと思う点なのかもしれません。
とはいえ民主党政権時代の破壊型、というより自己破滅型の政治家に比べればそこはやはり創造型であるというだけ分があり、現在においては安倍首相以外に総理の適任者はほかにいないというのは間違いないでしょう。なおこれは私見ですが、安倍首相への支持率を最も支えているのは安倍首相の政策や施政とか自民党の組織活動ではなく、あまりにもだらしない野党の存在に間違いないとも思っています。
少し話が二転三転しましたが、破壊型と創造型の二タイプに分けることで政治に対する視野が大きく広がるので、この見方なり概念は個人的にお勧めです。ちなみに「自己破滅型」という言葉はこの記事書きながら作った概念ですが、案外言い得て妙だな思え、破壊型、創造型に続く第三のタイプとして売り出してみるのも面白いかもしれません。
おまけ
途中で書きそびれたので最後に付け加えますが、小池百合子都知事は間違いなく破壊型の政治家で、そういう意味で今の東京都には求められていた人材であったと見ています。その小池都知事が何故破壊型だと断言するのかというと、彼女の師匠筋というか引っ張り上げた二人の人物が揃って破壊型で非常によく似てそっくりな政治家同士だからです。
2016年10月24日月曜日
派遣雇用の三年ルールの現状
先週末はたった三日間だけ日本に帰国していましたがこの間に私が取った行動を軽くリストアップすると以下の通りです。
・散髪
・時計の修理
・書籍購入
・タブレットPCのアップデート
・ゲームのダウンロード購入(ZERO ESCAPEなど)
・伊勢丹で焼物購入
・漫画喫茶で5時間連続耐久読書
・会社社長と7時間半連続耐久トーク
宿泊先はまた慣れ親しんだマッドシティこと松戸でしたが、床屋のおばちゃんが私のこと覚えててくれてちょいちょいうれしかったな。
さて話は本題に入りますが上記に上げたリストに加えもう一つ、前回のマージン率調査で協力いただいた派遣労働者の方とも会ってきました。前々からメールで連絡を取っており同年代ということもあって東京に行くことがあればお会いしようと思っていた所、快く快諾いただけて、たまたま近くにいた冷凍たこ焼き好きの友人も、「どうせ興味あるでしょ」といって呼びつけて一緒に会ってきました。
合流して田端駅前にあるガストへなだれ込むとまずは調査に協力いただいたお礼を言い、その後しばらく雑談をした後で、「前から気になってたんだけど、例の三年ルールは今現場ではどうなっているの?」と私の方から切り出してみました。
・厚生労働省説明資料
派遣の三年ルールとは簡単に説明すると、派遣社員は同じ派遣先では最長三年しか働くことが出来ないという制限です。もし同一職種で三年以降も雇い続けたい場合、派遣先の会社は当該の派遣社員を正社員に切り替えなければならず、派遣社員の正社員採用を促す目的で設けられました。
このルールが設けられたのは民主党政権時代ですがその時は通訳や開発などといった専門26業務についてはこの期間制限はつけられず無期限に雇用できたものの、去年の改正派遣法によって専門26業務に対しても三年ルールが適用されると共に、制度開始からちょうど三年くらいになりそうだということで派遣業界ではちょっとした話題にはなっていました。
正直言って業界内では派遣会社、派遣社員、派遣受入先の三者が揃って総スカンしたくらい歓迎されておらず、三者ともなるべく長く同じ派遣先で働きたい、働かせたいと考えているのにこのルールのせいで三方全損みたいになると批判めいた主張も数多く見られました。また派遣から正社員への転身を図りたいとする派遣労働者の層もそれほど歓迎するような声は聞かれず、私の印象論で述べるとこんなルールがあろうがなかろうが派遣の正社員採用が進むとは思えないと感じる様な空気が漂っていました。
ではこのルールは果たして実際に運用されているのか。ストレートに聞いてみたところその派遣労働者の方は、「少なくとも自分の周りでは適用される例を見たこともないし全く聞かない」と教えてくれました。そしてこの回答は、私としてもある程度予想していた通りでした。
何故適用されていないと考えていたのかというと理由は複数あり、まずは上記の通り派遣に係る三者が揃って望まない制度であること、二つ目として派遣業界はマージン率の公開といい遵法意識が極端に薄いこと、三つ目として実際に適用された例というのがネットで情報を集めている限りだとほぼ全く見られなかったためです。
一応、去年の派遣法改正前後では、「君、来月以降は受け入れられなくなるから」なんていうセリフとともに「混乱する派遣の現場」みたいな見出しで記事が出ていましたが、内心この手の記事はエア記事だったんじゃないかなとすら思っています。恐らくは実際に三年ルールが適用されてしまった人もある程度はいたかと思いますが、三年以上を経過していた圧倒的多数の適用対象者はこの三年ルールを無視し、なし崩し的にそのまま働き続けているのではという気がします。だって、「三年ルール適用された日本死ね」みたいな言動が全くと言っていいほど聞こえないし見えないからです。
とはいえあくまでこっちは派遣問題ではもうかなりの専門家だけど部外者の身であるためこれまで発言は控えてきましたが、今回こうして派遣労働者の方から直接話を聞いて疑念が確信へと切り替わったのでこうして記事に仕立てました。またその派遣労働者の方によると、ある派遣大手では「無期限派遣雇用」というオプション形態を用意しているらしく、正面切って堂々とこの三年ルールを無視しているという情報もいただけました。一応、除外規定として「60歳以上の派遣労働者」に対しては確かに三年ルールは適用されませんが、罰則もないだけにここまで思い切って無視してしまうあたりはさすがは派遣業界といったところでしょう。
この三年ルールについて、自分としてはどうせ守る人も会社もいないんだし三方揃ってデメリットしかない制度にしか思えないためとっとと撤廃した方が早いと考えています。こんな制度があった所で正社員化が進むとはとても思えませんし、また派遣のメリットという奴も台無しになる可能性があります。
それよりも直接的に派遣労働者を救済するべく、個人的には交通費の派遣先負担を義務づける制度などが今必要なのではないかと思います。あまり知られていませんが派遣労働者は勤務先への交通費は自己負担であり、これがかなり可処分所得を落とす原因にもなっていると思うだけにこうした点から地位改善の取り組んでもらいたいものです。
なお現地採用の私も交通費は自己負担ですが、上海市内だと地下鉄は一回3~4元(約45~60円)なので痛くもかゆくもありません。逆にこっちに慣れてしまうと日本の交通費が高くてしょうがないように思え、交通機関が頑張って経営しているのはわかるけれどもう少しやすぅならんかと思うばかりです。
・散髪
・時計の修理
・書籍購入
・タブレットPCのアップデート
・ゲームのダウンロード購入(ZERO ESCAPEなど)
・伊勢丹で焼物購入
・漫画喫茶で5時間連続耐久読書
・会社社長と7時間半連続耐久トーク
宿泊先はまた慣れ親しんだマッドシティこと松戸でしたが、床屋のおばちゃんが私のこと覚えててくれてちょいちょいうれしかったな。
さて話は本題に入りますが上記に上げたリストに加えもう一つ、前回のマージン率調査で協力いただいた派遣労働者の方とも会ってきました。前々からメールで連絡を取っており同年代ということもあって東京に行くことがあればお会いしようと思っていた所、快く快諾いただけて、たまたま近くにいた冷凍たこ焼き好きの友人も、「どうせ興味あるでしょ」といって呼びつけて一緒に会ってきました。
合流して田端駅前にあるガストへなだれ込むとまずは調査に協力いただいたお礼を言い、その後しばらく雑談をした後で、「前から気になってたんだけど、例の三年ルールは今現場ではどうなっているの?」と私の方から切り出してみました。
・厚生労働省説明資料
派遣の三年ルールとは簡単に説明すると、派遣社員は同じ派遣先では最長三年しか働くことが出来ないという制限です。もし同一職種で三年以降も雇い続けたい場合、派遣先の会社は当該の派遣社員を正社員に切り替えなければならず、派遣社員の正社員採用を促す目的で設けられました。
このルールが設けられたのは民主党政権時代ですがその時は通訳や開発などといった専門26業務についてはこの期間制限はつけられず無期限に雇用できたものの、去年の改正派遣法によって専門26業務に対しても三年ルールが適用されると共に、制度開始からちょうど三年くらいになりそうだということで派遣業界ではちょっとした話題にはなっていました。
正直言って業界内では派遣会社、派遣社員、派遣受入先の三者が揃って総スカンしたくらい歓迎されておらず、三者ともなるべく長く同じ派遣先で働きたい、働かせたいと考えているのにこのルールのせいで三方全損みたいになると批判めいた主張も数多く見られました。また派遣から正社員への転身を図りたいとする派遣労働者の層もそれほど歓迎するような声は聞かれず、私の印象論で述べるとこんなルールがあろうがなかろうが派遣の正社員採用が進むとは思えないと感じる様な空気が漂っていました。
ではこのルールは果たして実際に運用されているのか。ストレートに聞いてみたところその派遣労働者の方は、「少なくとも自分の周りでは適用される例を見たこともないし全く聞かない」と教えてくれました。そしてこの回答は、私としてもある程度予想していた通りでした。
何故適用されていないと考えていたのかというと理由は複数あり、まずは上記の通り派遣に係る三者が揃って望まない制度であること、二つ目として派遣業界はマージン率の公開といい遵法意識が極端に薄いこと、三つ目として実際に適用された例というのがネットで情報を集めている限りだとほぼ全く見られなかったためです。
一応、去年の派遣法改正前後では、「君、来月以降は受け入れられなくなるから」なんていうセリフとともに「混乱する派遣の現場」みたいな見出しで記事が出ていましたが、内心この手の記事はエア記事だったんじゃないかなとすら思っています。恐らくは実際に三年ルールが適用されてしまった人もある程度はいたかと思いますが、三年以上を経過していた圧倒的多数の適用対象者はこの三年ルールを無視し、なし崩し的にそのまま働き続けているのではという気がします。だって、「三年ルール適用された日本死ね」みたいな言動が全くと言っていいほど聞こえないし見えないからです。
とはいえあくまでこっちは派遣問題ではもうかなりの専門家だけど部外者の身であるためこれまで発言は控えてきましたが、今回こうして派遣労働者の方から直接話を聞いて疑念が確信へと切り替わったのでこうして記事に仕立てました。またその派遣労働者の方によると、ある派遣大手では「無期限派遣雇用」というオプション形態を用意しているらしく、正面切って堂々とこの三年ルールを無視しているという情報もいただけました。一応、除外規定として「60歳以上の派遣労働者」に対しては確かに三年ルールは適用されませんが、罰則もないだけにここまで思い切って無視してしまうあたりはさすがは派遣業界といったところでしょう。
この三年ルールについて、自分としてはどうせ守る人も会社もいないんだし三方揃ってデメリットしかない制度にしか思えないためとっとと撤廃した方が早いと考えています。こんな制度があった所で正社員化が進むとはとても思えませんし、また派遣のメリットという奴も台無しになる可能性があります。
それよりも直接的に派遣労働者を救済するべく、個人的には交通費の派遣先負担を義務づける制度などが今必要なのではないかと思います。あまり知られていませんが派遣労働者は勤務先への交通費は自己負担であり、これがかなり可処分所得を落とす原因にもなっていると思うだけにこうした点から地位改善の取り組んでもらいたいものです。
なお現地採用の私も交通費は自己負担ですが、上海市内だと地下鉄は一回3~4元(約45~60円)なので痛くもかゆくもありません。逆にこっちに慣れてしまうと日本の交通費が高くてしょうがないように思え、交通機関が頑張って経営しているのはわかるけれどもう少しやすぅならんかと思うばかりです。
重なる不運
この週末はまた日本に密入国して今日になってまた上海に戻りましたが、なんか今日はやたらと不運が重なりました。
空港で飛行機の搭乗を待つ中、吉野家で牛丼(並)を食べようと注文したところ「15番」の番号札が渡されて待っていたところ、「16番でお待ちの牛丼並の方ー」と店員が呼び出し、16番の方がそのまま牛丼を持って行ってしまいました。なんとなく腑に落ちないで待っていたら厨房から、「あ、15番も牛丼並だった」という声が漏れ聞こえ、しばらく待ってたら「ナンバーフィフティーン」って何故か英語で呼ばれて、その店員は私には日本語では話しませんでした。「飛ばしよったなお前」って嫌味の一つでも言ってやればよかった。
その後、飛行機に搭乗しましたが飛び立ってしばらくすると機内食が順番に配られ始めたのですが、最後尾の席に座っていた自分の手前でワゴンを運んでいたアテンダントが、「あ、切れた」といい、私と隣の人を置いてきぼりにワゴンをそのまま引っ張って行ってしまいました。それから大分時間が経ってから別のアテンダントが機内食のトレーを持ってきてくれましたが、他の人にはトレーと一緒に飲み物もくれるのに何故か私と隣の人には飲み物は持ってきてくれませんでした。
いやね、言えば持ってきてくれたでしょうが、なんとなく眠かったし文句も言いたくなかったのでそのまま黙って食べてしまいました。でもってさらに飛行機降りて家帰ってきたらスーツケースのチャックを止める留金の部分のパーツがぶっ壊れてて、恐らく降ろされた時にブン投げられたかなんかで壊れたのかと思いますが、悪いことはやっぱり重なるものです。
空港で飛行機の搭乗を待つ中、吉野家で牛丼(並)を食べようと注文したところ「15番」の番号札が渡されて待っていたところ、「16番でお待ちの牛丼並の方ー」と店員が呼び出し、16番の方がそのまま牛丼を持って行ってしまいました。なんとなく腑に落ちないで待っていたら厨房から、「あ、15番も牛丼並だった」という声が漏れ聞こえ、しばらく待ってたら「ナンバーフィフティーン」って何故か英語で呼ばれて、その店員は私には日本語では話しませんでした。「飛ばしよったなお前」って嫌味の一つでも言ってやればよかった。
その後、飛行機に搭乗しましたが飛び立ってしばらくすると機内食が順番に配られ始めたのですが、最後尾の席に座っていた自分の手前でワゴンを運んでいたアテンダントが、「あ、切れた」といい、私と隣の人を置いてきぼりにワゴンをそのまま引っ張って行ってしまいました。それから大分時間が経ってから別のアテンダントが機内食のトレーを持ってきてくれましたが、他の人にはトレーと一緒に飲み物もくれるのに何故か私と隣の人には飲み物は持ってきてくれませんでした。
いやね、言えば持ってきてくれたでしょうが、なんとなく眠かったし文句も言いたくなかったのでそのまま黙って食べてしまいました。でもってさらに飛行機降りて家帰ってきたらスーツケースのチャックを止める留金の部分のパーツがぶっ壊れてて、恐らく降ろされた時にブン投げられたかなんかで壊れたのかと思いますが、悪いことはやっぱり重なるものです。
2016年10月21日金曜日
電通の過労死事件について
先日、マスコミ業界に関わる人間なら知らぬ人はいない電通で入社したばかりの女性が過労から自殺していたことがニュースで大きく取り上げられたことをきっかけに、超過勤務と過労死に関するニュース報道がこのところ増えています。何故か関電にも飛び火して、月の残業時間が200時間を越えていた社員が過労死したことも報じられていましたが、個人的には何故今更になってこの件が報じられるのかなと違和感を覚えました。
さてこの問題について電通の体質、いわゆる「鬼十則」などと並べ立てて報じるメディアやコメンテーターが多いですが一部で言われているようにこの手の話は広告業界ではごくごくありふれた話で、上の関電の例と同じく「何を今更」という感じがしてなりません。断言してもいいですが電通の様に残業時間が膨大だったり無茶苦茶な暴言が飛び交っている広告代理店なんて掃いて捨てるほどあり、この業界で過労死した人間なんていちいち数えてなんかいられないでしょう。
なお余談ですが名古屋に左遷されたうちの親父が仕事が忙しかった頃、過労死した時の証拠となるように勤務時間を毎日メモっておけとうちのお袋に命じられていました。当時は何とも思わなかったけど、今思うと血も涙もない命令だったなって気がします。
話は戻りますがこの件について電通や広告業界の体質をとやかく論じても意味がないと思うしほかの人間もいくらでも論じられるだろうから敢えて違った視点に立って意見を述べると、エイジスはなんだったのかななんて今回思いました。
・ブラック企業と公表された会社、そして私の過去
上の記事は私が今年五月に書いてアップした記事ですが、概要を述べると厚生労働省が直々に、残業時間が非常に長くて改善が見られないいわゆる「ブラック企業」としてエイジスという棚卸代行サービス会社を公表した件について論じています。記事中にも書いてある通り私はこの会社で学生時代にアルバイトをしたことがあり、あくまでアルバイト目線で言えばそこまで変な会社だとは思わなかったし、棚卸代行という業務内容から言って決算前の繁忙期に勤務時間が極端に長くなるのは仕方のない面もあるのではと擁護するような形で記事を書いています。
このエイジスの件を引っ張り出して何を言いたいのかというと、何故電通はこれまでに厚生労働省からブラック企業として公表されなかったのだろうかと言いたいわけです。報道によると電通では以前にも新入社員が過労死する事件が起きており、また超過勤務も当たり前な上に当局から軽く注意を受けるや少なく申告するといった隠蔽工作も行われていたとのことで、何故これほどまでに既成事実が積み上がっていたにもかかわらず「ブラック企業」だと厚生労働省は名指ししなかったのか。少なくとも私はエイジスで過労死が出たという話は聞いたことがありません。
はっきり言えばエイジスなんかより電通の方がずっと悪質かつ問題も底深い上に、上の事例を鑑みるだに反省のかけらもへったくれも見えません。にもかかわらず厚生労働省は電通には名指しでの批判を行っておらず、先のエイジスの件と比較すれはするほど公平性に欠けた対応にしか見えず、真に批判すべき対象はどっちかと問いたくなります。
何故厚生労働省が電通を批判しないのかは言うまでもなく電通がエイジスなんかよりずっともっと大きい会社だからでしょう。逆を言えば批判しても抵抗することが出来ないとわかっているからエイジスをわざと槍玉に挙げてほかの巨大企業については何も批判を行わなかったのが実情だろうで、一言で言えば厚生労働省は弱い者いじめをやっているんだなとこの件で私は思いました。なので真に取材、批判すべき大将は電通とか関電ではなく厚生労働省で、何故これほど問題のある企業を放置してきたと突っかかった上で、いつ電通をブラック企業として名指しで批判するのかをマスコミは聞くべきではないかと密かに考えています。まぁこうした意見はざっと見ている限り自分以外で発信してる人はいないようだし、そこまでやるマスコミは出てこないでしょうが。
最後に、冷たい言い方をすると既に過労死してしまった人間についてとやかく言い続けても仕方のない面があります。それよりは今後、過労死をどうやって減らすか、過労死を生むような会社をどう淘汰するかを考えることの方がより建設的であるというのが私の意見です。
さてこの問題について電通の体質、いわゆる「鬼十則」などと並べ立てて報じるメディアやコメンテーターが多いですが一部で言われているようにこの手の話は広告業界ではごくごくありふれた話で、上の関電の例と同じく「何を今更」という感じがしてなりません。断言してもいいですが電通の様に残業時間が膨大だったり無茶苦茶な暴言が飛び交っている広告代理店なんて掃いて捨てるほどあり、この業界で過労死した人間なんていちいち数えてなんかいられないでしょう。
なお余談ですが名古屋に左遷されたうちの親父が仕事が忙しかった頃、過労死した時の証拠となるように勤務時間を毎日メモっておけとうちのお袋に命じられていました。当時は何とも思わなかったけど、今思うと血も涙もない命令だったなって気がします。
話は戻りますがこの件について電通や広告業界の体質をとやかく論じても意味がないと思うしほかの人間もいくらでも論じられるだろうから敢えて違った視点に立って意見を述べると、エイジスはなんだったのかななんて今回思いました。
・ブラック企業と公表された会社、そして私の過去
上の記事は私が今年五月に書いてアップした記事ですが、概要を述べると厚生労働省が直々に、残業時間が非常に長くて改善が見られないいわゆる「ブラック企業」としてエイジスという棚卸代行サービス会社を公表した件について論じています。記事中にも書いてある通り私はこの会社で学生時代にアルバイトをしたことがあり、あくまでアルバイト目線で言えばそこまで変な会社だとは思わなかったし、棚卸代行という業務内容から言って決算前の繁忙期に勤務時間が極端に長くなるのは仕方のない面もあるのではと擁護するような形で記事を書いています。
このエイジスの件を引っ張り出して何を言いたいのかというと、何故電通はこれまでに厚生労働省からブラック企業として公表されなかったのだろうかと言いたいわけです。報道によると電通では以前にも新入社員が過労死する事件が起きており、また超過勤務も当たり前な上に当局から軽く注意を受けるや少なく申告するといった隠蔽工作も行われていたとのことで、何故これほどまでに既成事実が積み上がっていたにもかかわらず「ブラック企業」だと厚生労働省は名指ししなかったのか。少なくとも私はエイジスで過労死が出たという話は聞いたことがありません。
はっきり言えばエイジスなんかより電通の方がずっと悪質かつ問題も底深い上に、上の事例を鑑みるだに反省のかけらもへったくれも見えません。にもかかわらず厚生労働省は電通には名指しでの批判を行っておらず、先のエイジスの件と比較すれはするほど公平性に欠けた対応にしか見えず、真に批判すべき対象はどっちかと問いたくなります。
何故厚生労働省が電通を批判しないのかは言うまでもなく電通がエイジスなんかよりずっともっと大きい会社だからでしょう。逆を言えば批判しても抵抗することが出来ないとわかっているからエイジスをわざと槍玉に挙げてほかの巨大企業については何も批判を行わなかったのが実情だろうで、一言で言えば厚生労働省は弱い者いじめをやっているんだなとこの件で私は思いました。なので真に取材、批判すべき大将は電通とか関電ではなく厚生労働省で、何故これほど問題のある企業を放置してきたと突っかかった上で、いつ電通をブラック企業として名指しで批判するのかをマスコミは聞くべきではないかと密かに考えています。まぁこうした意見はざっと見ている限り自分以外で発信してる人はいないようだし、そこまでやるマスコミは出てこないでしょうが。
最後に、冷たい言い方をすると既に過労死してしまった人間についてとやかく言い続けても仕方のない面があります。それよりは今後、過労死をどうやって減らすか、過労死を生むような会社をどう淘汰するかを考えることの方がより建設的であるというのが私の意見です。
2016年10月19日水曜日
後悔より始まる責任感
前回の記事では映画のスパイダーマンについて延々と語りつくしましたがリアルでもあれやると軽く引かれます。とはいえ、自分がどれだけスパイダーマンが好きかはあの記事読んでもらえば大体わかってもらえるでしょうが、私が何故スパイダーマンを好むかと言うと彼のヒーローとしての孤高性はもとより、彼がヒーローとなったきっかけとその動機が個人的に胸を打ったからです。
映画を見ている人なら話は早いですがスパイダーマンの中の人ことピーター・パーカーは偶然スパイダーマンとしての能力を得た直後はその力を私利私欲に使い、掛け試合に出てお金を稼ごうとしたりしますが、捕まえようと思えば捕まえられた強盗を「自分の仕事ではない」と敢えて見逃したところ、その強盗によって自分の養父である叔父が殺害されるという皮肉な結果を招くこととなります。この体験と叔父から受けた言葉からピーターは、自分の持てる力を可能な限り他人のために使うヒーローとなることを決心し、自己犠牲的なヒーロー稼業にのめり込んでいくこととなるのですが、スパイダーマンのヒーローとしての原点はやはりこの時の「後悔」にあると言えるでしょう。
ここで話は変わりますが、今年に高い人気を保ったままジャンプ作品としては珍しく円満に終了した「暗殺教室」という漫画作品があります。この作品の主人公の「殺せんせー」は頭もいいし教え方も上手だし授業帯でも生徒の悩みにいくらでも応えてくれる上にマッハ20で飛び回る、教師としてはこれ以上ないくらい理想的な教師で生徒たちを時に厳しく時に優しく導きます。しかしその姿は見ようによってはやはり自己犠牲的で、まるで生徒の存在が人生すべてであるかのようにももえるのですが、ネタバレになるので核心については省きますが、この殺せんせーも過去に起きたある事件に対する深い後悔をきっかけに生徒たちへの指導に全精力を傾けることを決心するようになります。
この「暗殺教室」についてこうした評論はあまり見ませんが、突き詰めればこの作品は後悔に対する物語だと私はみています。
あくまでお話の上ですが、上記の二作品における主人公はどちらも過去のある後悔をきっかけに強い責任感を持つようになり、その後の行動、ややもすれば自己犠牲的な行為を行うようになります。私は何もこうしたことはお話の中だけでなく現実でもそうであるように思え、責任感というのは大抵は後悔より始まるのではないかと思え、特に他人を巻き込む後悔ほど「二度としてはならない」という意識を喚起させるものはなく、そうした体験が多ければ多いほどその後の行動は慎まれ、反省を生かそうという意識が働いて当人、ひいては周囲にとってもいい影響を及ぼすのではないかと私は考えています。とはいっても、度が過ぎて自己犠牲的になりすぎたらそれはそれで問題でしょうが。
世間ではよく後悔に対してネガティブな印象が強くしないならしないに越したことがないとも言われますが、自分はそうは思わず、率先して後悔しろとまでは言いませんがあったらあったで役に立つから避けるようなものではないと思います。もちろん後悔から何も学ばず同じ後悔を何度も繰り返すのは問題外で、一番肝心なのは二度と繰り返してはならないという強い信念を持つことにありますが。
なお今日の帰り道、ふと一年前の自分を思い返しましたがちょうどこの時期に転職先の当てもまだなかったのに前に所属していた会社を辞めようと決心、というか辞めると会社に宣言しました。辞めた理由は絶対に許すことのできない人間がいたためですが、この決断に至ったのも過去に問題があるとわかっていながらも自分さえ我慢していれば丸く収まると思って我慢した所、余計な人間を巻き込んで不幸にさせてしまったという後悔に対する反省が働いていたかもしれません。
幸いにして一年前と比べれば今の状況は大きく好転しており、行き当たりばったりな自分の決断もたまにはうまくいくもんだとつくづく思います。
映画を見ている人なら話は早いですがスパイダーマンの中の人ことピーター・パーカーは偶然スパイダーマンとしての能力を得た直後はその力を私利私欲に使い、掛け試合に出てお金を稼ごうとしたりしますが、捕まえようと思えば捕まえられた強盗を「自分の仕事ではない」と敢えて見逃したところ、その強盗によって自分の養父である叔父が殺害されるという皮肉な結果を招くこととなります。この体験と叔父から受けた言葉からピーターは、自分の持てる力を可能な限り他人のために使うヒーローとなることを決心し、自己犠牲的なヒーロー稼業にのめり込んでいくこととなるのですが、スパイダーマンのヒーローとしての原点はやはりこの時の「後悔」にあると言えるでしょう。
ここで話は変わりますが、今年に高い人気を保ったままジャンプ作品としては珍しく円満に終了した「暗殺教室」という漫画作品があります。この作品の主人公の「殺せんせー」は頭もいいし教え方も上手だし授業帯でも生徒の悩みにいくらでも応えてくれる上にマッハ20で飛び回る、教師としてはこれ以上ないくらい理想的な教師で生徒たちを時に厳しく時に優しく導きます。しかしその姿は見ようによってはやはり自己犠牲的で、まるで生徒の存在が人生すべてであるかのようにももえるのですが、ネタバレになるので核心については省きますが、この殺せんせーも過去に起きたある事件に対する深い後悔をきっかけに生徒たちへの指導に全精力を傾けることを決心するようになります。
この「暗殺教室」についてこうした評論はあまり見ませんが、突き詰めればこの作品は後悔に対する物語だと私はみています。
あくまでお話の上ですが、上記の二作品における主人公はどちらも過去のある後悔をきっかけに強い責任感を持つようになり、その後の行動、ややもすれば自己犠牲的な行為を行うようになります。私は何もこうしたことはお話の中だけでなく現実でもそうであるように思え、責任感というのは大抵は後悔より始まるのではないかと思え、特に他人を巻き込む後悔ほど「二度としてはならない」という意識を喚起させるものはなく、そうした体験が多ければ多いほどその後の行動は慎まれ、反省を生かそうという意識が働いて当人、ひいては周囲にとってもいい影響を及ぼすのではないかと私は考えています。とはいっても、度が過ぎて自己犠牲的になりすぎたらそれはそれで問題でしょうが。
世間ではよく後悔に対してネガティブな印象が強くしないならしないに越したことがないとも言われますが、自分はそうは思わず、率先して後悔しろとまでは言いませんがあったらあったで役に立つから避けるようなものではないと思います。もちろん後悔から何も学ばず同じ後悔を何度も繰り返すのは問題外で、一番肝心なのは二度と繰り返してはならないという強い信念を持つことにありますが。
なお今日の帰り道、ふと一年前の自分を思い返しましたがちょうどこの時期に転職先の当てもまだなかったのに前に所属していた会社を辞めようと決心、というか辞めると会社に宣言しました。辞めた理由は絶対に許すことのできない人間がいたためですが、この決断に至ったのも過去に問題があるとわかっていながらも自分さえ我慢していれば丸く収まると思って我慢した所、余計な人間を巻き込んで不幸にさせてしまったという後悔に対する反省が働いていたかもしれません。
幸いにして一年前と比べれば今の状況は大きく好転しており、行き当たりばったりな自分の決断もたまにはうまくいくもんだとつくづく思います。
2016年10月17日月曜日
映画「スパイダーマン」の系譜
今年日本でも公開された「キャプテンアメリカ3 シビルウォー」はキャプテンアメリカシリーズでありながらアイアンマンを筆頭に他作品のヒーローが一堂に勢ぞろいして実質的には「アベンジャーズ3」といってもいいような豪華な作品でした。この作品にはキャプテンアメリカ、アイアンマンの主役二人に加えほかにも様々なマーブルヒーローが登場するのですが、その中でも公開前から最も期待が高かったのはほかでもなくスパイダーマンでしょう。
ディズニーが作る一連のマーブル実写化作品でスパイダーマンが登場するのは今回が初めてですが、そもそもマーブルヒーローの中でも屈指の人気を誇るスパイダーマンは何故これまで出てこなかったのかというと映画化権の問題があったからです。スパイダーマンはトビー・マグワイア主演での初の実写映画化作品からずっとソニーピクチャーズが製作しており、映画化権も彼らが持っているためディズニーは他のマーブルヒーローと一緒にスパイダーマンを作品に出演させることが出来ずにいました。
そんな状況が変わったのは確か一昨年で、やはりヒーローものは勢ぞろいすることに価値があるという打算的観点から、ディズニーとソニーは協議を持ってお互いの作品の中でお互いの版権キャラクターを無料で使い合ってもよいということを確認し合ったことにより晴れて今回、スパイダーマンがディズニー作品に出演することが出来たわけです。
この判断の裏には既に書いたようにお互いに細かいことは抜きにしてエンターテイメントを盛り上げようという打算的観点もありますが、恐らく実際はそれ以上に、アンドリュー・ガーフィールド主演でリブートした「アメイジング・スパイダーマン(アメスパ)」シリーズが思ったより振るわなかったことがソニーを大きく動かしたのではと考えています。
トビー・マグワイア主演の初代スパイダーマンシリーズは歴代興行収入を更新するなど記録に残る大ヒットを残し、「ヒーローものは当たる」という価値観を作り現在のハリウッドにも少なからぬ影響を残すほどの作品でした。しかしソニーと監督側で衝突があったことから初代シリーズは3で終了し新たにリブートして作ったのがアメスパでしたが、興行収入は黒字も黒字で十分にヒットしたと言える成績を残してはいたものの、ソニー側としては「スパイダーマンなのに」と洩らすほど期待したほどの成績ではなく、実際に初代スパイダーマンと比べると確かに成績面で大きな差がつきました。
映画を見た私の目からしてもアメスパは正直物足りないというか、初代シリーズと比べてやや残念な作りでありました。俳優陣は非常に頑張ってて演技力も申し分なく、特にヒロインに関しては演じたエマ・ストーンはマジ美人だと感じるほどの女優でしたが、逆にそれがこの作品にとってネックとなったように思います。具体的に述べると、スパイダーマンこと主人公のピーター・パーカーが幸せすぎるというか流行り言葉で言えばリア充過ぎており、そこそこ体格もよくイケメンで、自分がスパイダーマンだと知っているかわいいヒロインと付き合いながらスパイダーマンやってて、「こんなハッピーなのってスパイダーマンじゃない」って見ながら何度も思ったわけです。
原作を知ってる人には早いですがスパイダーマンはその正体を隠しながらヒーロー活動をしており、活動のせいで大学の授業単位を落としかけたり、バイトをクビになったり、デートに遅れたり、新聞には小悪党などと書かれたりとプライベートでは非常に報われない生活を送ってたりします。だからこそ彼の孤高なヒーロー性は光り、誰かに認められることがなくともヒーローとして戦い続ける姿に皆が強い共感を覚えるため人気ヒーローとなれたわけです。
初代スパイダーマンはこの辺の演出が徹底しており、パーティでグラスを取ったら既に誰かに飲み干されたグラスだったり、片思いの相手が親友と付き合いだしたりと非常に報われず、また主演のトビー・マグワイア自身が華奢な体格のため如何にもパッとせず弱弱しいというのも見逃せない点です。おまけにヒロインのキルスティン・ダンストも美人かと言われたら「?」がつく容姿で、「本当に愛しているのはあなただけ……」と、ピーター(=スパイダーマン)に言いながら何度も男をとっかえひっかえする様は見ているだに憎たらしく、一時期嫌な女の例えとして「MJのような女」という言葉を私も多用しました。
こうしたスパイダーマンをこき下ろす演出や脚本がアメスパにはないため1も2も見はしたもののあまり評価していなかったところ、なんとアメスパは2でシリーズが打ち切られることとなり、二度目のリブートが行われることをソニーは発表しました。そして新たに作られるスパイダーマンには、冒頭の「シビルウォー」でスパイダーマンを演じたトム・ホランドがそのまま続投して演じることが先頃に発表されています。
「シビルウォー」ではキャプテンアメリカ連合に対抗するための援軍としてアイアンマンがスパイダーマンをスカウトするという形で登場し、登場シーンは決して多くはないのですが、それでもそのわずかな登場シーンだけでトム・ホランドについて私は強い期待感を覚えました。スーツを着たアクションシーンはスーツアクターがやっているであろうためこの点の評価は避けますが、バレエをやっていただけあって身体の動きには切れがあり、なおかつ普通の高校生の振りをしながらアイアンマンに茶々を入れられるや一瞬でヒーローの顔つきになる演技の仕方は厳しいオーディションを抜けて来ただけはあると納得させられます。そして何より、初代スパイダーマンことトビー・マグワイアを彷彿させる華奢で弱弱しそうな見てくれは見事スパイダーマンに合致しており、現時点においてすら彼が主役を演じる新たなスパイダーマンが出来上がるのを楽しみでしかたありません。
なおシビルウォーでのキャプテンアメリカ達との戦闘では原作通りに常に冗談を言い続けて敵からも「しゃべりすぎだ」と注意されたり、蹴って殴って盾飛ばすしかないキャプテンアメリカと違い、糸を使って縦横無尽に飛び回りつつ戦うスパイダーマンのアクションは「これこそスパイダーマンだ」と久々に唸らされました。しかも戦闘中、キャプテンアメリカから「イキがいいな坊主、どこの出身だ?」と尋ねられ「(ニューヨークの)クィーンズだ」と答えるやキャプテンアメリカがニヤッと笑い、「(俺は)ブルックリンだ」と返答するシーンの演出はこれまた非常に心憎かったです。
しかもこの映画のスタッフロールの後、傷を負って(痣程度だが)帰ってきたスパイダーマンに同居しているメイ叔母さんから、「誰とケンカしてきたのよ?」と聞かれ、「あー、えーっと、ブルックリンの連中に絡まれたんだ。スティーブって奴に(キャプテンアメリカの本名)」といってごまかすシーンが設けられています。っていうかソニーなんかより、この際だからこのままディズニーがスパイダーマン作ってくれないかな……。
おまけ
「シビル・ウォー」ではトム・ホランドという新たなスパイダーマンに期待を感じた一方、スパイダーマンの育ての親に当たるメイ叔母さんを演じる女優にも目が行きました。これまでの映画でメイ叔母さんは初老の女性で、例えて言うなら「カントリー・マァム」っぽい女優が演じていましたが、この映画だとまたえらく若そうに見えて美人な、例えて言うなら「メルティ・キッス」っぽい女優(マリサ・トメイ)が演じていて、「え、あんた本当にメイ叔母さん?」って目を丸くしました。
スカウトに来たアイアンマン(ロバート・ダウニー)も、「それにしてもこんなに若くてきれいな叔母さんがいるなんてな」と言うや、「叔母さんにだっていろいろあるわよ」と、これまた色気ムンムンに答えるセリフも用意されあり、これまでにない新たなスパイダーマンのストーリーが始まりそうで非常に楽しみです。
なお上記のシーンを演じたマリサ・トメイとロバート・ダウニーの二人には交際歴があったそうです。これ絶対わざとキャスティングしたんだろ。
ディズニーが作る一連のマーブル実写化作品でスパイダーマンが登場するのは今回が初めてですが、そもそもマーブルヒーローの中でも屈指の人気を誇るスパイダーマンは何故これまで出てこなかったのかというと映画化権の問題があったからです。スパイダーマンはトビー・マグワイア主演での初の実写映画化作品からずっとソニーピクチャーズが製作しており、映画化権も彼らが持っているためディズニーは他のマーブルヒーローと一緒にスパイダーマンを作品に出演させることが出来ずにいました。
そんな状況が変わったのは確か一昨年で、やはりヒーローものは勢ぞろいすることに価値があるという打算的観点から、ディズニーとソニーは協議を持ってお互いの作品の中でお互いの版権キャラクターを無料で使い合ってもよいということを確認し合ったことにより晴れて今回、スパイダーマンがディズニー作品に出演することが出来たわけです。
この判断の裏には既に書いたようにお互いに細かいことは抜きにしてエンターテイメントを盛り上げようという打算的観点もありますが、恐らく実際はそれ以上に、アンドリュー・ガーフィールド主演でリブートした「アメイジング・スパイダーマン(アメスパ)」シリーズが思ったより振るわなかったことがソニーを大きく動かしたのではと考えています。
トビー・マグワイア主演の初代スパイダーマンシリーズは歴代興行収入を更新するなど記録に残る大ヒットを残し、「ヒーローものは当たる」という価値観を作り現在のハリウッドにも少なからぬ影響を残すほどの作品でした。しかしソニーと監督側で衝突があったことから初代シリーズは3で終了し新たにリブートして作ったのがアメスパでしたが、興行収入は黒字も黒字で十分にヒットしたと言える成績を残してはいたものの、ソニー側としては「スパイダーマンなのに」と洩らすほど期待したほどの成績ではなく、実際に初代スパイダーマンと比べると確かに成績面で大きな差がつきました。
映画を見た私の目からしてもアメスパは正直物足りないというか、初代シリーズと比べてやや残念な作りでありました。俳優陣は非常に頑張ってて演技力も申し分なく、特にヒロインに関しては演じたエマ・ストーンはマジ美人だと感じるほどの女優でしたが、逆にそれがこの作品にとってネックとなったように思います。具体的に述べると、スパイダーマンこと主人公のピーター・パーカーが幸せすぎるというか流行り言葉で言えばリア充過ぎており、そこそこ体格もよくイケメンで、自分がスパイダーマンだと知っているかわいいヒロインと付き合いながらスパイダーマンやってて、「こんなハッピーなのってスパイダーマンじゃない」って見ながら何度も思ったわけです。
原作を知ってる人には早いですがスパイダーマンはその正体を隠しながらヒーロー活動をしており、活動のせいで大学の授業単位を落としかけたり、バイトをクビになったり、デートに遅れたり、新聞には小悪党などと書かれたりとプライベートでは非常に報われない生活を送ってたりします。だからこそ彼の孤高なヒーロー性は光り、誰かに認められることがなくともヒーローとして戦い続ける姿に皆が強い共感を覚えるため人気ヒーローとなれたわけです。
初代スパイダーマンはこの辺の演出が徹底しており、パーティでグラスを取ったら既に誰かに飲み干されたグラスだったり、片思いの相手が親友と付き合いだしたりと非常に報われず、また主演のトビー・マグワイア自身が華奢な体格のため如何にもパッとせず弱弱しいというのも見逃せない点です。おまけにヒロインのキルスティン・ダンストも美人かと言われたら「?」がつく容姿で、「本当に愛しているのはあなただけ……」と、ピーター(=スパイダーマン)に言いながら何度も男をとっかえひっかえする様は見ているだに憎たらしく、一時期嫌な女の例えとして「MJのような女」という言葉を私も多用しました。
こうしたスパイダーマンをこき下ろす演出や脚本がアメスパにはないため1も2も見はしたもののあまり評価していなかったところ、なんとアメスパは2でシリーズが打ち切られることとなり、二度目のリブートが行われることをソニーは発表しました。そして新たに作られるスパイダーマンには、冒頭の「シビルウォー」でスパイダーマンを演じたトム・ホランドがそのまま続投して演じることが先頃に発表されています。
「シビルウォー」ではキャプテンアメリカ連合に対抗するための援軍としてアイアンマンがスパイダーマンをスカウトするという形で登場し、登場シーンは決して多くはないのですが、それでもそのわずかな登場シーンだけでトム・ホランドについて私は強い期待感を覚えました。スーツを着たアクションシーンはスーツアクターがやっているであろうためこの点の評価は避けますが、バレエをやっていただけあって身体の動きには切れがあり、なおかつ普通の高校生の振りをしながらアイアンマンに茶々を入れられるや一瞬でヒーローの顔つきになる演技の仕方は厳しいオーディションを抜けて来ただけはあると納得させられます。そして何より、初代スパイダーマンことトビー・マグワイアを彷彿させる華奢で弱弱しそうな見てくれは見事スパイダーマンに合致しており、現時点においてすら彼が主役を演じる新たなスパイダーマンが出来上がるのを楽しみでしかたありません。
なおシビルウォーでのキャプテンアメリカ達との戦闘では原作通りに常に冗談を言い続けて敵からも「しゃべりすぎだ」と注意されたり、蹴って殴って盾飛ばすしかないキャプテンアメリカと違い、糸を使って縦横無尽に飛び回りつつ戦うスパイダーマンのアクションは「これこそスパイダーマンだ」と久々に唸らされました。しかも戦闘中、キャプテンアメリカから「イキがいいな坊主、どこの出身だ?」と尋ねられ「(ニューヨークの)クィーンズだ」と答えるやキャプテンアメリカがニヤッと笑い、「(俺は)ブルックリンだ」と返答するシーンの演出はこれまた非常に心憎かったです。
しかもこの映画のスタッフロールの後、傷を負って(痣程度だが)帰ってきたスパイダーマンに同居しているメイ叔母さんから、「誰とケンカしてきたのよ?」と聞かれ、「あー、えーっと、ブルックリンの連中に絡まれたんだ。スティーブって奴に(キャプテンアメリカの本名)」といってごまかすシーンが設けられています。っていうかソニーなんかより、この際だからこのままディズニーがスパイダーマン作ってくれないかな……。
おまけ
「シビル・ウォー」ではトム・ホランドという新たなスパイダーマンに期待を感じた一方、スパイダーマンの育ての親に当たるメイ叔母さんを演じる女優にも目が行きました。これまでの映画でメイ叔母さんは初老の女性で、例えて言うなら「カントリー・マァム」っぽい女優が演じていましたが、この映画だとまたえらく若そうに見えて美人な、例えて言うなら「メルティ・キッス」っぽい女優(マリサ・トメイ)が演じていて、「え、あんた本当にメイ叔母さん?」って目を丸くしました。
スカウトに来たアイアンマン(ロバート・ダウニー)も、「それにしてもこんなに若くてきれいな叔母さんがいるなんてな」と言うや、「叔母さんにだっていろいろあるわよ」と、これまた色気ムンムンに答えるセリフも用意されあり、これまでにない新たなスパイダーマンのストーリーが始まりそうで非常に楽しみです。
なお上記のシーンを演じたマリサ・トメイとロバート・ダウニーの二人には交際歴があったそうです。これ絶対わざとキャスティングしたんだろ。
2016年10月15日土曜日
北朝鮮が本当に憎い相手
昨夜、例のアデランスのMBO実施のニュースについていたYahooのコメントに「ハゲタカファンドが絡んでいるかも」という秀逸なツッコミを紹介したところ友人から、「ハゲネタかなり好きでしょ」と言われました。
話は本題に入りますがあまり世間でこうした分析が出ていないので敢えて私から言うことにしますが、北朝鮮が現在最も憎んでいる相手は日本でも、韓国でも、米国でもなく中国であると私は見ています。一体何故かというと、一言でいえば中国が北朝鮮を援助しているからです。
以前に塩野七生氏のコラムで、「米国が嫌われる理由のその大半は嫉妬からである」という伝聞での指摘が紹介されていましたが、これは実に正鵠を得た意見であると現在でも考えています。世界の富を占有しているとか他国の紛争に介入するとかいろいろ理由はつけられていますが、突き詰めれば世界で一番裕福であるということが憎まれる根源的な理由であり他は別に大したことはありません。その上で塩野氏は同じコラムで、「ODAを散々配っておきながら中韓から嫌われる日本も一考の余地がある」と指摘しており、実に塩野氏らしい鋭いツッコミがなされていました。
話は北朝鮮に戻しますが、どうもこの国の行動を見ているとほかのどこよりも中国に対する憎悪が強いように思えてなりません。具体的に言えばこのところのミサイル、核実験の実施日で、中国の国会に当たる全人代や先日、浙江省杭州市で行われたG20の開催中に行われていますが、中国が国家の威信をかけて仕切っているイベントにぶつけており、実際にG20では本来の議論と並行して北朝鮮問題の対応に各国首脳は追われることとなり、これほど腹立つ嫌がらせはそうそうないでしょう。
ではどうして北朝鮮は中国を憎むようになったのかですが、金正恩が単純に中国嫌いだと言えば片付きそうですがもう少し分析するとやはり先程に説明した米国への憎悪の様に、北朝鮮が中国から多大な支援を受けていることが原因のように思えてなりません。一見すると中国が北朝鮮に便宜を図っているため恩を感じてもいい所ですが、日本から中国へのODAの様に、案外こういう物ってお金や物資を受け取る側からしたら素直に感謝する気持ちよりも、「金持ちだからって上から目線で物恵みやがって……」という、嫉妬に根差したやや理不尽な憎悪を覚える傾向の方が強い気がします。特に北朝鮮は中国からの支援に大きく依存しており、実質的に中国が生殺与奪権を握っているということもプライドの高い北朝鮮政府からしたら我慢ならないのかもしれません。
こうした見方はかねてより抱いていたため、今年に中朝国境にある丹東を訪れた際に私はそばの友人に対して、
「もし北朝鮮が戦争で滅ぶとしたら、この場所から軍隊が北朝鮮領内へ入るだろう。それが米軍か中国軍かロシア軍かはわからんがね」
という予言を行っていました。まぁ実際問題として、南側の板門店から侵攻することはソウルから近すぎるためほぼないとは思います。
おまけ
今日ここで書いたように国際援助というのは与えた金額や物資量が大きかったりすると案外、感謝よりも嫉妬を受ける可能性が高いため、支援のやり方というのは意外としっかり考えないといけないものです。一番ベストな支援方法としては災害時の救助、物資支援で、これは確実に恨まれることもなく強く感謝され、後々まで語り継がれます。あのっていっちゃなんですが、中国でも時々成都大地震の際の日本の災害支援に言及し、中国人自身もよく覚えています。
話は本題に入りますがあまり世間でこうした分析が出ていないので敢えて私から言うことにしますが、北朝鮮が現在最も憎んでいる相手は日本でも、韓国でも、米国でもなく中国であると私は見ています。一体何故かというと、一言でいえば中国が北朝鮮を援助しているからです。
以前に塩野七生氏のコラムで、「米国が嫌われる理由のその大半は嫉妬からである」という伝聞での指摘が紹介されていましたが、これは実に正鵠を得た意見であると現在でも考えています。世界の富を占有しているとか他国の紛争に介入するとかいろいろ理由はつけられていますが、突き詰めれば世界で一番裕福であるということが憎まれる根源的な理由であり他は別に大したことはありません。その上で塩野氏は同じコラムで、「ODAを散々配っておきながら中韓から嫌われる日本も一考の余地がある」と指摘しており、実に塩野氏らしい鋭いツッコミがなされていました。
話は北朝鮮に戻しますが、どうもこの国の行動を見ているとほかのどこよりも中国に対する憎悪が強いように思えてなりません。具体的に言えばこのところのミサイル、核実験の実施日で、中国の国会に当たる全人代や先日、浙江省杭州市で行われたG20の開催中に行われていますが、中国が国家の威信をかけて仕切っているイベントにぶつけており、実際にG20では本来の議論と並行して北朝鮮問題の対応に各国首脳は追われることとなり、これほど腹立つ嫌がらせはそうそうないでしょう。
ではどうして北朝鮮は中国を憎むようになったのかですが、金正恩が単純に中国嫌いだと言えば片付きそうですがもう少し分析するとやはり先程に説明した米国への憎悪の様に、北朝鮮が中国から多大な支援を受けていることが原因のように思えてなりません。一見すると中国が北朝鮮に便宜を図っているため恩を感じてもいい所ですが、日本から中国へのODAの様に、案外こういう物ってお金や物資を受け取る側からしたら素直に感謝する気持ちよりも、「金持ちだからって上から目線で物恵みやがって……」という、嫉妬に根差したやや理不尽な憎悪を覚える傾向の方が強い気がします。特に北朝鮮は中国からの支援に大きく依存しており、実質的に中国が生殺与奪権を握っているということもプライドの高い北朝鮮政府からしたら我慢ならないのかもしれません。
こうした見方はかねてより抱いていたため、今年に中朝国境にある丹東を訪れた際に私はそばの友人に対して、
「もし北朝鮮が戦争で滅ぶとしたら、この場所から軍隊が北朝鮮領内へ入るだろう。それが米軍か中国軍かロシア軍かはわからんがね」
という予言を行っていました。まぁ実際問題として、南側の板門店から侵攻することはソウルから近すぎるためほぼないとは思います。
おまけ
今日ここで書いたように国際援助というのは与えた金額や物資量が大きかったりすると案外、感謝よりも嫉妬を受ける可能性が高いため、支援のやり方というのは意外としっかり考えないといけないものです。一番ベストな支援方法としては災害時の救助、物資支援で、これは確実に恨まれることもなく強く感謝され、後々まで語り継がれます。あのっていっちゃなんですが、中国でも時々成都大地震の際の日本の災害支援に言及し、中国人自身もよく覚えています。
2016年10月14日金曜日
サイレントキラー
これは私が中学三年生だった頃のお話です。その日の朝、私は前夜にも食べたカレーの残りを朝食に食べて登校したのですが、言うまでもなくカレーを食べた後というのはおならが結構臭くなります。ご多分に漏れずその日の私も自分で出しといて自分で臭いと感じるほどだったので、しかもなんか腸の活動がやけに活発で出す頻度もその日は非常に多かったです。今思い返しても威力、頻度ともに桁違いの水準で、出した自分ですら自爆して苦しむレベルだというのにほかの人間が喰らったらマジヤバいだろと自分でツッコむレベルでした。それだけに、私の後ろの席に座る女子生徒が不憫でなりませんでした。
当時の私は一番後ろの列から一つ手前の席に座っており、一つ後ろの席にはもはや名前も憶えていない女子生徒が座っていました。その日の私は大体30分に一発の頻度でおならを出しており、休み時間中ならまだしも授業中であれば席から立って離れることも出来ず、その女子生徒は半日に渡ってその日の私のおならを直噴で、逃げることも出来ずに受け続けたということになります。しかも臭いはきついのに全く音はでないサイレントキラーで。
こうした状況は私自身もよくわかっており、後ろの女子生徒が不憫だと感じつつも自分にはどうすることも出来ず、なんか病気になったりしないかなと心配しつつ何食わぬ顔で授業を受け続けました。そしたら翌日、私が原因かどうかわかりませんが本当にその女子生徒が学校を休んじゃって、「えっ、もしかして俺が原因?(;゚д゚)」と、誰にも言いませんでした内心で凄い焦りました。前に書いた姉に対してやらかした事件の記事を書きながら急に思い出したので、やや下品な話ながらこの話も紹介することとしました。
当時の私は一番後ろの列から一つ手前の席に座っており、一つ後ろの席にはもはや名前も憶えていない女子生徒が座っていました。その日の私は大体30分に一発の頻度でおならを出しており、休み時間中ならまだしも授業中であれば席から立って離れることも出来ず、その女子生徒は半日に渡ってその日の私のおならを直噴で、逃げることも出来ずに受け続けたということになります。しかも臭いはきついのに全く音はでないサイレントキラーで。
こうした状況は私自身もよくわかっており、後ろの女子生徒が不憫だと感じつつも自分にはどうすることも出来ず、なんか病気になったりしないかなと心配しつつ何食わぬ顔で授業を受け続けました。そしたら翌日、私が原因かどうかわかりませんが本当にその女子生徒が学校を休んじゃって、「えっ、もしかして俺が原因?(;゚д゚)」と、誰にも言いませんでした内心で凄い焦りました。前に書いた姉に対してやらかした事件の記事を書きながら急に思い出したので、やや下品な話ながらこの話も紹介することとしました。
2016年10月13日木曜日
公平な視点を保つ秘訣
今月からガッキー主演でドラマが放送され始めたからかAmazonで「逃げるは恥だが役に立つ」という原作の漫画1巻が無料でダウンロード出来るキャンペーンがされていたので、前からそのタイトルとコンセプトに興味を持っていたのでダウンロードして読んでみて、はタイトルは一文字変えれば「禿げるは恥だが役に立つ」だなと思いました。役に立つのか?
話は本題に入りますがそれほど機会は多くはないもののこのブログの読者と会って感想を聞くとよく、「評論の視点が非常に公平だ」という評価をいただきます。あまり図に乗るべきではないとはわかっていながらもやはりこうして言われるとうれしいものがあるのですが、実際に自分でもこのブログを書く際に視点が偏らないように普段から気を付けており、ある程度の努力は行っていると自負しています。
そこで今日は私なりに、公平な視点を保たせる秘訣というか心がけを紹介しようと思います。以前にも似たようなことを書いているかもしれませんが、最近こういう思想めいた記事を描いていないように思うためどうかご容赦ください。
秘訣その1 一緒に怒らないし、一緒に悲しまない
公平な視点を保つ上での秘訣はなにかと突き詰めて言えば究極的には「当事者にならない」ということになるのですが、そのファーストステップとしてはこの「一緒に怒らない、一緒に悲しまない」であるのではと考えています。
事件の被害者などに対して「痛みを分かち合う」という表現があり彼らの気持ちに立ってあげることが大事だと言われますが、その行為自体は否定しないものの評論をする上では所詮は他人事として切って捨てるべきでしょう。というのも被害者の気持ちに寄り添い過ぎると加害者に対する憎悪が強まり、自分が被害を受けたわけでもないのに不必要な怒りを覚えてしまう可能性があるからです。こうした態度は明らかに物事を見る目を曇らせ通常であれば見えるものを見えなくさせてしまうため、被害者に対し同情を覚えることはあっても彼らの立場に立って物事を主張してはならないというのが持論です。
秘訣その2 自分の感じた気持ちを押し出す
これは状況によっては逆効果を生むかもしれませんが、こと私に限っては評論を行う際に自分の気持ちを前面に押し出すようにしています。先程のその1とも被りますが、他の誰かの立場や視点に立って物を述べると見方によってはやや無責任な言い方になるきらいがあり、具体的に言うと、誰かが苦しんでいるからその苦しませている原因は批判してもよい、というように被害者の存在などを言い訳にして批判するような口上となってしまうからです。
もちろん上記のような主張の仕方も全部悪いわけじゃないですが、冷静にその原因が社会に対してどのような影響を及ぼしているのか、その影響が自分にも回ってきて損をさせられそうだというように自分の視点で物を考えて批判する方が私は好きです。ほかにも不正に儲けているような人間や団体に対しても、搾取された人間の立場で不当だと述べるより、「一人で儲けやがって、俺にも寄越せよこの野郎!」みたいなトーンで批判する方が割とストレート且つほかに人間にも共感が得やすい主張となるためいいような気がします。
秘訣その3 自分の保身を考えない
これが出来るのは案外自分だけかもしれませんが、自分の願望なり不満なりが入るともちろん評論というのは偏りが出てしまいます。逆に自分の損得を越えた意見というのは聞く側からすれば高い説得力を持ち、特に自分が不利になるような意見を敢えて主張すればまず相手は信用するし、その意見が公平であると信じ込みます。
私の場合は普段からして全く保身めいた行動や言動がなく周りから、「もっと自分を大事にしろよ」とガチで言われるくらいやや特殊な性格しているため、このブログで主張する意見にもそうした物が反映され、それらが公平な視点であるかのように見えるのかもしれません。ただ私みたいな性格した人間はそんなに多くはないだろうし、これができる人間はほかにもいるのかと言われれば少し悩みます。
おまけ ちょっとした説得テクニック
秘訣その3で述べた、自分が不利になるような意見を敢えて主張するというのは実際の交渉テクニックとしてほかでも述べていますが、日本人は横並び意識が極端な強いため敢えて自分を落とすことで極端な主張をしても許されるし受け入れさせるというか反論できなくさせることもできます。
たとえば、「戦争になっていざとなったら人間を盾にすればいい」といえば相手は確実に、「他人を踏み台にするのか?」と聞いてくるのでその後で、「いや、真っ先に使えない自分が盾にされるよ」といったら十中八九相手は黙ります。実際に盾になる気持ちがあるかどうかは置いといて、面倒な議論を終わらせたいときには敢えてこういう主張の仕方をして黙らせています。
話は本題に入りますがそれほど機会は多くはないもののこのブログの読者と会って感想を聞くとよく、「評論の視点が非常に公平だ」という評価をいただきます。あまり図に乗るべきではないとはわかっていながらもやはりこうして言われるとうれしいものがあるのですが、実際に自分でもこのブログを書く際に視点が偏らないように普段から気を付けており、ある程度の努力は行っていると自負しています。
そこで今日は私なりに、公平な視点を保たせる秘訣というか心がけを紹介しようと思います。以前にも似たようなことを書いているかもしれませんが、最近こういう思想めいた記事を描いていないように思うためどうかご容赦ください。
秘訣その1 一緒に怒らないし、一緒に悲しまない
公平な視点を保つ上での秘訣はなにかと突き詰めて言えば究極的には「当事者にならない」ということになるのですが、そのファーストステップとしてはこの「一緒に怒らない、一緒に悲しまない」であるのではと考えています。
事件の被害者などに対して「痛みを分かち合う」という表現があり彼らの気持ちに立ってあげることが大事だと言われますが、その行為自体は否定しないものの評論をする上では所詮は他人事として切って捨てるべきでしょう。というのも被害者の気持ちに寄り添い過ぎると加害者に対する憎悪が強まり、自分が被害を受けたわけでもないのに不必要な怒りを覚えてしまう可能性があるからです。こうした態度は明らかに物事を見る目を曇らせ通常であれば見えるものを見えなくさせてしまうため、被害者に対し同情を覚えることはあっても彼らの立場に立って物事を主張してはならないというのが持論です。
秘訣その2 自分の感じた気持ちを押し出す
これは状況によっては逆効果を生むかもしれませんが、こと私に限っては評論を行う際に自分の気持ちを前面に押し出すようにしています。先程のその1とも被りますが、他の誰かの立場や視点に立って物を述べると見方によってはやや無責任な言い方になるきらいがあり、具体的に言うと、誰かが苦しんでいるからその苦しませている原因は批判してもよい、というように被害者の存在などを言い訳にして批判するような口上となってしまうからです。
もちろん上記のような主張の仕方も全部悪いわけじゃないですが、冷静にその原因が社会に対してどのような影響を及ぼしているのか、その影響が自分にも回ってきて損をさせられそうだというように自分の視点で物を考えて批判する方が私は好きです。ほかにも不正に儲けているような人間や団体に対しても、搾取された人間の立場で不当だと述べるより、「一人で儲けやがって、俺にも寄越せよこの野郎!」みたいなトーンで批判する方が割とストレート且つほかに人間にも共感が得やすい主張となるためいいような気がします。
秘訣その3 自分の保身を考えない
これが出来るのは案外自分だけかもしれませんが、自分の願望なり不満なりが入るともちろん評論というのは偏りが出てしまいます。逆に自分の損得を越えた意見というのは聞く側からすれば高い説得力を持ち、特に自分が不利になるような意見を敢えて主張すればまず相手は信用するし、その意見が公平であると信じ込みます。
私の場合は普段からして全く保身めいた行動や言動がなく周りから、「もっと自分を大事にしろよ」とガチで言われるくらいやや特殊な性格しているため、このブログで主張する意見にもそうした物が反映され、それらが公平な視点であるかのように見えるのかもしれません。ただ私みたいな性格した人間はそんなに多くはないだろうし、これができる人間はほかにもいるのかと言われれば少し悩みます。
おまけ ちょっとした説得テクニック
秘訣その3で述べた、自分が不利になるような意見を敢えて主張するというのは実際の交渉テクニックとしてほかでも述べていますが、日本人は横並び意識が極端な強いため敢えて自分を落とすことで極端な主張をしても許されるし受け入れさせるというか反論できなくさせることもできます。
たとえば、「戦争になっていざとなったら人間を盾にすればいい」といえば相手は確実に、「他人を踏み台にするのか?」と聞いてくるのでその後で、「いや、真っ先に使えない自分が盾にされるよ」といったら十中八九相手は黙ります。実際に盾になる気持ちがあるかどうかは置いといて、面倒な議論を終わらせたいときには敢えてこういう主張の仕方をして黙らせています。
2016年10月12日水曜日
海外拠点閉鎖に対する富士通の態度
・富士通、英で最大1800人削減へ EU離脱「無関係」(朝日新聞)
狙ってたわけじゃないですが上のニュースを見てタイミングがいいなと思いました。というのもつい先週、富士通に対し海外拠点閉鎖(本文中では解散、清算、譲渡を指します)について心あったまるメールを送っていたからです。
知ってる人には早いですが私は「企業居点」という日系企業の海外拠点情報ををかき集めたサイトを運営しており、先週の休暇中にいくらか追加することでとうとう収録件数は2万件を突破し、誇張ではなく日系企業の海外拠点に関しては自分が最も多くのデータを保有していると自負しています。
ただこの海外拠点データですが調べるのも大変であるもののもっとも厄介なのは更新で、日系企業が海外拠点を新設したり閉鎖した場合をどうするかという点で結構頭を悩ませています。一応、企業のプレスリリースを毎日チェックして発表があれば適宜編集を加えているものの、新設はまだ発表されることも多くマシですが閉鎖となると実は発表しない企業の方が大半です。
上場企業は投資家に対し、経営に影響を及ぼす情報については可能な限り早くかつ正確に開示する義務が課せられています。このような前提に立てば工場を含めた海外拠点の閉鎖ともくれば経営に対し大きな影響を及ぼす重要事項としか思えないものの、実際には株価へのマイナス影響を恐れてかほとんどの企業は閉鎖情報をめったに公開することはありません。
実際に具体例を挙げるとたとえば2012年にパナソニックは上海にあったプラズマテレビの生産工場を運営する現地法人を閉鎖しましたが、これなんて一切プレスリリースで情報は出さず、私が直接広報部に聞くまでは明かしていませんでした。何気にこの情報は日系メディアで自分が最も早く報じたけど、それほど大きな新聞じゃなかったから世間には無視され、三ヶ月後に共同通信が報じたらYahooニュースのトップに載っててなんだかなって気になりました。
またシャープもこの前無錫法人を閉鎖していたことを財務報告書にこっそり書くことで明かしましたが、単独ではプレスリリースを出していません。このように往々にして企業は、日本国内の子会社ならまだしも海外拠点の閉鎖については情報を出し渋り、はっきり言えば隠蔽しようとする傾向すらあります。
情報というものは公開されればされるほど世の中は良くなるはずだという思想を持つ私からすればこうした日系企業の現状はあまり好ましくなく、経済的にも不効率な点が出てくると思うだけに企業居点使ってなんかやってみようかななどといろいろ考えてたりもします。
そうした延長だったというべきか先週に拠点データを色々あさっている最中にふと、富士通の拠点を洗い直してみようと思い立ちました。なんで富士通なのかというと私のサイトでは海外現地法人のホームページもリンクで結んでいるのですが、このリンクが切れるというかホームページサイトが消失する例が富士通に突出して多かったからです。特に半導体系。
恐らく海外拠点を閉鎖したんだろうなと想像はしていたものの三年前に収集した海外拠点データをこれまで実際に比較し直したことはなかったため、今回改めて現在公開されている情報と照合して残っている海外拠点、消失した海外拠点を洗ってみました。結構多くの拠点で名称がかわってたりもしましたが、私の調べだと以下の拠点が富士通のオフィシャルサイトから情報が消失していました。
<サイトから情報が消えてしまった富士通の海外拠点>
・富士通半導体設計(成都)有限公司
・至亜網絡技術(上海)有限公司
・Glovia International Asia Pacific Pte. Ltd.
・Fujitsu PC Australia
・Inmotion Audio (Australia) Pty. Ltd.
・Teamware Group Oy
・ICL-KMECS
・Fujitsu Caribbean (Bahamas) Limited
・Fujitsu Caribbean (Barbados) Limited
・Fujitsu Caribbean (Jamaica) Limited
・Fujitsu Mexico Systems S.A. de C.V.
・Fujitsu Ten de Mexico, S.A. de C.V.
・Fujitsu Caribbean (Trinidad) Limited
如何にも日系企業らしく曖昧にごまかそうとする回答ですが、存続していたら堂々と存続するという回答が出されるはずだと考えるとどうやら上記の会社は大半が閉鎖済みと見て間違いないでしょう。それにしても友人も言っていましたが、海外現地法人をこれだけ潰して「影響は軽微」と主張するのは無理があるし、富士通の広報は大したレベルじゃなさそうです。何気に今まで一番手ごわかった広報はみずほ。
もっとも今回、富士通は割とレスポンス早く回答してくれたことと、サイト上ではきちんと情報を削除している辺りはまだマシと見るべきかもしれません。名指しで悪いけど東海カーボンに至っては、2013年に西格里特種石墨(上海)有限公司(SGL TOKAI CARBON Ltd., SHANGHAI)という海外拠点を閉鎖しておきながらホームページ上ではまだ情報を載せています。
繰り返しになりますが海外拠点の閉鎖情報を隠そうとすることは確かに株価維持という保身の面から見て全く理解できないわけじゃありませんが、インサイダーや企業統治の面でリスクになる可能性も高いだけにこうした風潮は早々に改めるべきだと私は考えます。
最後にきちんと拠点閉鎖情報を公開した例として、最近目を見張ったのはトクヤマのマレーシア拠点の閉鎖です。かなり大きな案件ですがトクヤマはきちんと閉鎖情報を公開した上で詳細なデータや今後の影響を解説しており、この一点を以ってしても情報公開のしっかりした会社だという印象を受け好感が持てます。他の日系企業もぜひトクヤマを見習い、経済記者が楽できるような情報公開を行ってもらいたいものです。
狙ってたわけじゃないですが上のニュースを見てタイミングがいいなと思いました。というのもつい先週、富士通に対し海外拠点閉鎖(本文中では解散、清算、譲渡を指します)について心あったまるメールを送っていたからです。
知ってる人には早いですが私は「企業居点」という日系企業の海外拠点情報ををかき集めたサイトを運営しており、先週の休暇中にいくらか追加することでとうとう収録件数は2万件を突破し、誇張ではなく日系企業の海外拠点に関しては自分が最も多くのデータを保有していると自負しています。
ただこの海外拠点データですが調べるのも大変であるもののもっとも厄介なのは更新で、日系企業が海外拠点を新設したり閉鎖した場合をどうするかという点で結構頭を悩ませています。一応、企業のプレスリリースを毎日チェックして発表があれば適宜編集を加えているものの、新設はまだ発表されることも多くマシですが閉鎖となると実は発表しない企業の方が大半です。
上場企業は投資家に対し、経営に影響を及ぼす情報については可能な限り早くかつ正確に開示する義務が課せられています。このような前提に立てば工場を含めた海外拠点の閉鎖ともくれば経営に対し大きな影響を及ぼす重要事項としか思えないものの、実際には株価へのマイナス影響を恐れてかほとんどの企業は閉鎖情報をめったに公開することはありません。
実際に具体例を挙げるとたとえば2012年にパナソニックは上海にあったプラズマテレビの生産工場を運営する現地法人を閉鎖しましたが、これなんて一切プレスリリースで情報は出さず、私が直接広報部に聞くまでは明かしていませんでした。何気にこの情報は日系メディアで自分が最も早く報じたけど、それほど大きな新聞じゃなかったから世間には無視され、三ヶ月後に共同通信が報じたらYahooニュースのトップに載っててなんだかなって気になりました。
またシャープもこの前無錫法人を閉鎖していたことを財務報告書にこっそり書くことで明かしましたが、単独ではプレスリリースを出していません。このように往々にして企業は、日本国内の子会社ならまだしも海外拠点の閉鎖については情報を出し渋り、はっきり言えば隠蔽しようとする傾向すらあります。
情報というものは公開されればされるほど世の中は良くなるはずだという思想を持つ私からすればこうした日系企業の現状はあまり好ましくなく、経済的にも不効率な点が出てくると思うだけに企業居点使ってなんかやってみようかななどといろいろ考えてたりもします。
そうした延長だったというべきか先週に拠点データを色々あさっている最中にふと、富士通の拠点を洗い直してみようと思い立ちました。なんで富士通なのかというと私のサイトでは海外現地法人のホームページもリンクで結んでいるのですが、このリンクが切れるというかホームページサイトが消失する例が富士通に突出して多かったからです。特に半導体系。
恐らく海外拠点を閉鎖したんだろうなと想像はしていたものの三年前に収集した海外拠点データをこれまで実際に比較し直したことはなかったため、今回改めて現在公開されている情報と照合して残っている海外拠点、消失した海外拠点を洗ってみました。結構多くの拠点で名称がかわってたりもしましたが、私の調べだと以下の拠点が富士通のオフィシャルサイトから情報が消失していました。
<サイトから情報が消えてしまった富士通の海外拠点>
・富士通半導体設計(成都)有限公司
・至亜網絡技術(上海)有限公司
・Glovia International Asia Pacific Pte. Ltd.
・Fujitsu PC Australia
・Inmotion Audio (Australia) Pty. Ltd.
・Teamware Group Oy
・ICL-KMECS
・Fujitsu Caribbean (Bahamas) Limited
・Fujitsu Caribbean (Barbados) Limited
・Fujitsu Caribbean (Jamaica) Limited
・Fujitsu Mexico Systems S.A. de C.V.
・Fujitsu Ten de Mexico, S.A. de C.V.
・Fujitsu Caribbean (Trinidad) Limited
どれも確認してみましたが閉鎖したと発表したプレスリリースは出ていません。さてそうなると聞くしかないわけで、「これらの会社の情報が消えてるけど閉鎖でもしたの?」と富士通に直接聞いてみて、返ってきた回答は以下の通りでした。
<富士通からの回答>
グローバルサイトの海外拠点情報につきましては、
当該子会社の解散・精算・譲渡・社名変更等により
掲載情報が変わることがあります。
一方で、グループ会社の解散・清算・譲渡・社名変更を
全て公開しているわけではございません。
当社連結財務諸表に重大な影響を与える変更等は
プレスリリース等により適時開示されていますが、
影響が軽微な拠点の変更等については社外秘事項として
非公開となるケースも多く、解散・清算・譲渡に限らず、
会社名変更などにより、 以前掲載されていたサイト等からは
当該情報が参照できなくなることもあります。
如何にも日系企業らしく曖昧にごまかそうとする回答ですが、存続していたら堂々と存続するという回答が出されるはずだと考えるとどうやら上記の会社は大半が閉鎖済みと見て間違いないでしょう。それにしても友人も言っていましたが、海外現地法人をこれだけ潰して「影響は軽微」と主張するのは無理があるし、富士通の広報は大したレベルじゃなさそうです。何気に今まで一番手ごわかった広報はみずほ。
もっとも今回、富士通は割とレスポンス早く回答してくれたことと、サイト上ではきちんと情報を削除している辺りはまだマシと見るべきかもしれません。名指しで悪いけど東海カーボンに至っては、2013年に西格里特種石墨(上海)有限公司(SGL TOKAI CARBON Ltd., SHANGHAI)という海外拠点を閉鎖しておきながらホームページ上ではまだ情報を載せています。
繰り返しになりますが海外拠点の閉鎖情報を隠そうとすることは確かに株価維持という保身の面から見て全く理解できないわけじゃありませんが、インサイダーや企業統治の面でリスクになる可能性も高いだけにこうした風潮は早々に改めるべきだと私は考えます。
最後にきちんと拠点閉鎖情報を公開した例として、最近目を見張ったのはトクヤマのマレーシア拠点の閉鎖です。かなり大きな案件ですがトクヤマはきちんと閉鎖情報を公開した上で詳細なデータや今後の影響を解説しており、この一点を以ってしても情報公開のしっかりした会社だという印象を受け好感が持てます。他の日系企業もぜひトクヤマを見習い、経済記者が楽できるような情報公開を行ってもらいたいものです。
2016年10月10日月曜日
国家が反逆者を育てる意味と価値
いきなり言うのもなんですが、私の出身大学は国家や政府に対する反逆者を作るという意味ではそこそこの環境と実績を持った大学だったと思います。知ってる人には早いですが私が卒業した関西の私大では、「ルールがあったらまず破る」というような妙な価値観が学生全体に蔓延しており、フリーダムというよりはただただ反逆的で、「これこれこうしなきゃならない」と言われたら、「じゃあまずそれは置いといて」と言い返して無視するところから始まるというのがリアルで多かったです。特に、「従順こそ最大の美徳」、「周囲と同じであることは素晴らしい」という価値観が皮肉ではなく本気で蔓延している関東から関西に渡った私からすればかなりのカルチャーショックを受ける場でもありました。
一体何故私の出身大学がそんなアナーキーな学校だったのかというと一番大きな理由はまず関西圏にあること、次に私学であったことが挙げられます。もっともそれ言ったら、国立の京大もアナーキーっぷりには定評ありますが。
上の二つ以外に私の思う理由を挙げると、単純に創立以来の校風がやはりそうさせていたんだと思います。なんちゃってミッション系スクールから始まりとにかく自由を追い求める校風となったそうで、戦時中に学生が喫茶店にいたところ憲兵に見つかり、「学生の分際で何しとるんやこら。お前、どこの学校のもんや?」と聞かれ学校名を答えたら、「あかん、あそこは治外法権や」と言われて許してもらったという冗談みたいなエピソードもあります。
とまぁそんな感じでそこそこ有名なテロリストも輩出したこともある大学なのですが私にとっては非常に相性が良く、小中高と常に学校嫌いであったにもかかわらずこの大学だけは好きになることが出来ました。そしてそんな私に言わせると、私の出身大学の様に国家や政府、果てには既得権益層に対して理不尽に反感や拒否感を持ち噛みつこうとする反逆者を、国家や社会はある程度育てる必要があると思います。もちろん、そういうのばっか育てまくったらそれはそれで問題ですが……。
一般に国家による教育となると、国家に対して従順な国民を作ろうとする教育を想像するかと思います。もちろん今の日本の教育の根底にあるのもこうした考え方ですが(日教組は逆だろうが)、その一方で私は国家に対して反逆意識を持つ人間を教育で作ることも国家にとって必要であり責務であると考えています。一体何故そう考えるのかというと単純に、反逆思想を持つ人間が一定割合いる方が国家として明らかに強くなるからです。
・問題を探す力、発見する力
上記記事は8月に私が書いた記事ですがこの中で私は、「エリートは問題解決能力には優れるが問題を発見する力には疎く、逆に非エリートは問題を解決することはできないが発見する力には優れている」と主張し、卑近な例として豊洲問題で活躍中の共産党を引き合いに出しました。
突き詰めて言えばまさにこの点が反逆者を育てる価値のポイントに当たり、国家というのは従順なものばかりで構成されると問題がそこに存在しながらも誰も気づかずに手をつけなくなる傾向があり、こうした問題なり欠陥を指摘して社会に解決を促させる上である程度社会の中で反逆者を育て、囲う価値が絶対的に存在すると主張したいわけです。
ある意味こうした役割は自分たちにのみ都合のいい報道の権利をかざすジャーナリストがになっており、問題があるとわかってても彼らをある程度野放しにしておくことこそが「反逆者を囲う」こととなり、彼らのような存在を一程度の比率で存在し続けさせるためにも「反逆者を育てる」ということも必要で、その役割はやはり私学が担っていると関西発の私学出身者である私としては信じてやみません。
恐らく普通の日本人が以上の私の主張を見たら、「なんてこいつは過激な奴なんだ」と思われるかもしれませんが、一切の反逆者を許さない社会を想像されたら私の意見に即賛同していただけるかと思われます。具体的に言えばそれは旧ソ連や今の中国、極端な例なら北朝鮮とかで、こうした国々の社会では社会に問題があっても是正が効き辛く、既得権益層もずっと存在し続け、よっぽどまともな改革者が運よくトップにでも立たない限りは何も変わることはありません。こうした社会を比べるにつけ、料理に混ぜる少量のスパイスじゃありませんが国家にとって反逆者を5%くらいは存在させ続けるべきではないでしょうか。
もちろん、暴力的な活動を行うようなテロリストは論外でこうした連中は見つけたそばから殺しておくに限るでしょう。江戸時代の農民政策じゃありませんが、生かさず殺さずが反逆者に対する扱いのポイントです。
過去の歴史を見るとやはりこうした反逆者を一程度許容する国や社会ほど強く、明治以降の日本も限定付きではありますが社会主義者の結党を認めたり、国立以外の学校も大学として認めて加えるなどしてこうした治世のツボをしっかりとつかんでいたように思われます。あとこれは映画「マトリックス」のセリフですが、「一程度の不確定要素を備えることでシステムは安定する」とはなかなかに金言な気がします。
最後に蛇足かもしれませんが、私は日本の新聞社などは反逆者として認めていません。何故なら彼らは完全な既得権益層に成り下がっており、それを知らない振りして自分たちが弱者であるかのように振る舞っているからです。更に言うと、弱者であるということが武器になると知ってて弱者だと声高に主張する者はもはや弱者ではない。強い弱いに関係なく、ただ気に入らないという理由だけでむやみやたらに噛みつく者こそが真の反逆者である、というのが私の反逆論であります。
補足
上記でお手頃な反逆者の割合は5%と書きましたがこれは完全に適当に述べただけの数値で特に根拠はありません。逆に80%とか100%みたいに反逆者が多数派の世界ってどんななのかなと想像してみましたが、映画の「マッドマックス」の世界しか浮かびませんでした。
一体何故私の出身大学がそんなアナーキーな学校だったのかというと一番大きな理由はまず関西圏にあること、次に私学であったことが挙げられます。もっともそれ言ったら、国立の京大もアナーキーっぷりには定評ありますが。
上の二つ以外に私の思う理由を挙げると、単純に創立以来の校風がやはりそうさせていたんだと思います。なんちゃってミッション系スクールから始まりとにかく自由を追い求める校風となったそうで、戦時中に学生が喫茶店にいたところ憲兵に見つかり、「学生の分際で何しとるんやこら。お前、どこの学校のもんや?」と聞かれ学校名を答えたら、「あかん、あそこは治外法権や」と言われて許してもらったという冗談みたいなエピソードもあります。
とまぁそんな感じでそこそこ有名なテロリストも輩出したこともある大学なのですが私にとっては非常に相性が良く、小中高と常に学校嫌いであったにもかかわらずこの大学だけは好きになることが出来ました。そしてそんな私に言わせると、私の出身大学の様に国家や政府、果てには既得権益層に対して理不尽に反感や拒否感を持ち噛みつこうとする反逆者を、国家や社会はある程度育てる必要があると思います。もちろん、そういうのばっか育てまくったらそれはそれで問題ですが……。
一般に国家による教育となると、国家に対して従順な国民を作ろうとする教育を想像するかと思います。もちろん今の日本の教育の根底にあるのもこうした考え方ですが(日教組は逆だろうが)、その一方で私は国家に対して反逆意識を持つ人間を教育で作ることも国家にとって必要であり責務であると考えています。一体何故そう考えるのかというと単純に、反逆思想を持つ人間が一定割合いる方が国家として明らかに強くなるからです。
・問題を探す力、発見する力
上記記事は8月に私が書いた記事ですがこの中で私は、「エリートは問題解決能力には優れるが問題を発見する力には疎く、逆に非エリートは問題を解決することはできないが発見する力には優れている」と主張し、卑近な例として豊洲問題で活躍中の共産党を引き合いに出しました。
突き詰めて言えばまさにこの点が反逆者を育てる価値のポイントに当たり、国家というのは従順なものばかりで構成されると問題がそこに存在しながらも誰も気づかずに手をつけなくなる傾向があり、こうした問題なり欠陥を指摘して社会に解決を促させる上である程度社会の中で反逆者を育て、囲う価値が絶対的に存在すると主張したいわけです。
ある意味こうした役割は自分たちにのみ都合のいい報道の権利をかざすジャーナリストがになっており、問題があるとわかってても彼らをある程度野放しにしておくことこそが「反逆者を囲う」こととなり、彼らのような存在を一程度の比率で存在し続けさせるためにも「反逆者を育てる」ということも必要で、その役割はやはり私学が担っていると関西発の私学出身者である私としては信じてやみません。
恐らく普通の日本人が以上の私の主張を見たら、「なんてこいつは過激な奴なんだ」と思われるかもしれませんが、一切の反逆者を許さない社会を想像されたら私の意見に即賛同していただけるかと思われます。具体的に言えばそれは旧ソ連や今の中国、極端な例なら北朝鮮とかで、こうした国々の社会では社会に問題があっても是正が効き辛く、既得権益層もずっと存在し続け、よっぽどまともな改革者が運よくトップにでも立たない限りは何も変わることはありません。こうした社会を比べるにつけ、料理に混ぜる少量のスパイスじゃありませんが国家にとって反逆者を5%くらいは存在させ続けるべきではないでしょうか。
もちろん、暴力的な活動を行うようなテロリストは論外でこうした連中は見つけたそばから殺しておくに限るでしょう。江戸時代の農民政策じゃありませんが、生かさず殺さずが反逆者に対する扱いのポイントです。
過去の歴史を見るとやはりこうした反逆者を一程度許容する国や社会ほど強く、明治以降の日本も限定付きではありますが社会主義者の結党を認めたり、国立以外の学校も大学として認めて加えるなどしてこうした治世のツボをしっかりとつかんでいたように思われます。あとこれは映画「マトリックス」のセリフですが、「一程度の不確定要素を備えることでシステムは安定する」とはなかなかに金言な気がします。
最後に蛇足かもしれませんが、私は日本の新聞社などは反逆者として認めていません。何故なら彼らは完全な既得権益層に成り下がっており、それを知らない振りして自分たちが弱者であるかのように振る舞っているからです。更に言うと、弱者であるということが武器になると知ってて弱者だと声高に主張する者はもはや弱者ではない。強い弱いに関係なく、ただ気に入らないという理由だけでむやみやたらに噛みつく者こそが真の反逆者である、というのが私の反逆論であります。
補足
上記でお手頃な反逆者の割合は5%と書きましたがこれは完全に適当に述べただけの数値で特に根拠はありません。逆に80%とか100%みたいに反逆者が多数派の世界ってどんななのかなと想像してみましたが、映画の「マッドマックス」の世界しか浮かびませんでした。
2016年10月9日日曜日
広島ガス子会社の循環取引事件 後編
前回に引き続き広島ガス子会社に起こった循環取引という会計不正にまつわる事件を紹介します。
さて前回では広島ガス株式会社の子会社である広島ガス開発株式会社(HGK)の営業社員Xが知らないうちに木工資材の循環取引に巻き込まれ、途中からはもうやめられなくなって何故だか自分が取りまとめ役にまでなってしまったというところまで解説しました。そもそもこのXが社内の上司らに報告しなかったとはいえ、どうして会社側はこの循環取引に途中で気付かないまま十年近く同取引を続けてしまったのでしょうか。
この理由について先に説明すると、まず循環取引はほかの会計不正と比べてばれにくいある大きな特徴があり、それは何かというと現金と伝票がきちんと取り交わされるという点です。商品という実態のない取引とはいえ続けている間は取引先から正式な伝票が発行された上で入出金もきちんと行われるため、内部監査などでも担当者が問題ない取引だと言ってしまったら検出することは非常に難しいでしょう。
加えてHGKの場合だと同取引は問題のXが取り仕切っていたため第三者の目が入り辛く、また途中からXが営業課長にもなったため上司による監視の目も減ってしまいました。Xに誘われ循環取引だと知らずに参加してしまった同じ広島ガス子会社の広島ガスリビング株式会社(HGL)では実態のある取引なのかより厳しくチェックしており、最終消費先となる工事名から工事現場などに足を運んで実際に工事が行われているかを確認していたようですが、循環取引の取りまとめ役があらかじめ行われる予定の工事をネットなどで調べた上で取引明細に加えておくという隠蔽工作を行っていたため、上記のHGLによるチェックも潜り抜けていました。
話は戻りますが、それまでの取りまとめ役だった人物が交通違反で逮捕収監されることとなってしまったことで2008年よりXが代わりに取りまとめ役を務める羽目となりました。取りまとめ役となったXは違法な行為がばれないよう、循環取引に関わる各社に対し取引の価格や量を事細かに指示し、上記に描いた様な最終消費先となる工事案件を調べて明細に加えたりなどして偽装を続けましたが、終わりっていうのは案外あっさりくるものです。
同じ2008年の8月、この月に起きたマンション大手(時期的に見て同じ広島県の「アーバンコーポレイション」と思われる)の破綻を受けて、HGL社内で木工資材の今後の販売はリスクが高いと判断して同取引からの即時撤退を決定しました。
広島ガスの報告書によるとこの循環取引が発覚した経緯は翌2009年3月の国税調査からの指摘としていますが、実際には撤退に先だって行った取引先とのやり取りや過去の取引の見直しなどから明るみに出たのだと思います。2009年3月発覚で同年4月に調査報告書を出すのはかなり難しいと思うし。
とにもかくにも、木工資材取引からの撤退が契機となってすべてが明るみとなりました。過去約10年間の同取引の累計売上高は約444億円、累計利益は約12億円にも達しており、売上げ高だけで見れば昨今の大きな会計不正事件にも勝るとも劣らない金額です。
事件発覚を受け親会社の広島ガスでは弁護士をメンバーに入れた調査委員会を組織して調査し、今私が見ている報告書をきちんと作成した上で公表しておりこうした姿勢は非常に好感が持てます。なおこの報告書は非常にわかりやすくまとめられているため興味がある方は是非一回は読んでもらいたいです。
そしてその後の結末ですが、HGKでは全役員が解任された上で民事再生法の適用を申請して破綻した後、グループ会社の広島ガステクノサービスに事業譲渡して清算されました。当時の報道によると循環取引に関わった会社は計25社あったとされ、事件発覚後に少なくとも5社が経営破綻したそうです。
関係者については事件の主犯となったXはもちろん解雇され、後に詐欺容疑で逮捕されています。そのXと共にパナソニック電工の子会社であるパナソニック電工リビング中国の社員を含む4人が一緒に逮捕されており、計5人が捕まる結果となりました。そして事件当時のHGK社長であった人物は翌年、自動車の車内で練炭自殺した姿で発見されました。
自分がこの事件を知ったのはたまたま偶然でしかないのですが、一見してすごいドラマがある話だと感じました。事件の大きさといい循環取引という非常に見え辛い会計不正の手口もさることながら、主犯となってしまったXが本人も知らないうちに循環取引に巻き込まれ、いつの間にか取りまとめ役になってしまっていたという点でいくらかの同情心と共に、その運命の翻弄具合には言葉では言い表せない感情を覚えます。
それこそXについては彼を循環取引に誘った他社の人物が、HGLが同取引からの撤退を決めるわずか2ヶ月前の2008年6月に交通違反で逮捕されなければ取りまとめ役になることもなかったわけで、どっちにしろ捕まったとは思いますがその後の印象とかが色々違っていたのではと思うとまたここにも運命のいたずらのようなドラマを感じます。
ややキザったらしい言い方になりますが、一旦運命に絡め取られてしまうと如何に人間は抗いようがないかをまざまざと見せつけられているような気がする事件で、小説とかドラマの題材にしたっても十分じゃないかと思います。その上で広島ガスについては前述の通り、この事件に関して非常に詳細な報告書を作成しており、三菱自動車とは対照的に個人的には非常に真摯な態度であるように思え評価に値する対応を取っていると考えます。果たして東芝とかはこれより面白い報告書を作成してくれるのか、期待するだけそれは無駄か……。
参考サイト
・当社子会社の不適切な取引に関する調査結果等のご報告(広島ガス)
・民事再生法適用を申請した広島ガス開発(HGK)の架空循環取引に責任問う声(自己破産と民事再生情報)
さて前回では広島ガス株式会社の子会社である広島ガス開発株式会社(HGK)の営業社員Xが知らないうちに木工資材の循環取引に巻き込まれ、途中からはもうやめられなくなって何故だか自分が取りまとめ役にまでなってしまったというところまで解説しました。そもそもこのXが社内の上司らに報告しなかったとはいえ、どうして会社側はこの循環取引に途中で気付かないまま十年近く同取引を続けてしまったのでしょうか。
この理由について先に説明すると、まず循環取引はほかの会計不正と比べてばれにくいある大きな特徴があり、それは何かというと現金と伝票がきちんと取り交わされるという点です。商品という実態のない取引とはいえ続けている間は取引先から正式な伝票が発行された上で入出金もきちんと行われるため、内部監査などでも担当者が問題ない取引だと言ってしまったら検出することは非常に難しいでしょう。
加えてHGKの場合だと同取引は問題のXが取り仕切っていたため第三者の目が入り辛く、また途中からXが営業課長にもなったため上司による監視の目も減ってしまいました。Xに誘われ循環取引だと知らずに参加してしまった同じ広島ガス子会社の広島ガスリビング株式会社(HGL)では実態のある取引なのかより厳しくチェックしており、最終消費先となる工事名から工事現場などに足を運んで実際に工事が行われているかを確認していたようですが、循環取引の取りまとめ役があらかじめ行われる予定の工事をネットなどで調べた上で取引明細に加えておくという隠蔽工作を行っていたため、上記のHGLによるチェックも潜り抜けていました。
話は戻りますが、それまでの取りまとめ役だった人物が交通違反で逮捕収監されることとなってしまったことで2008年よりXが代わりに取りまとめ役を務める羽目となりました。取りまとめ役となったXは違法な行為がばれないよう、循環取引に関わる各社に対し取引の価格や量を事細かに指示し、上記に描いた様な最終消費先となる工事案件を調べて明細に加えたりなどして偽装を続けましたが、終わりっていうのは案外あっさりくるものです。
同じ2008年の8月、この月に起きたマンション大手(時期的に見て同じ広島県の「アーバンコーポレイション」と思われる)の破綻を受けて、HGL社内で木工資材の今後の販売はリスクが高いと判断して同取引からの即時撤退を決定しました。
広島ガスの報告書によるとこの循環取引が発覚した経緯は翌2009年3月の国税調査からの指摘としていますが、実際には撤退に先だって行った取引先とのやり取りや過去の取引の見直しなどから明るみに出たのだと思います。2009年3月発覚で同年4月に調査報告書を出すのはかなり難しいと思うし。
とにもかくにも、木工資材取引からの撤退が契機となってすべてが明るみとなりました。過去約10年間の同取引の累計売上高は約444億円、累計利益は約12億円にも達しており、売上げ高だけで見れば昨今の大きな会計不正事件にも勝るとも劣らない金額です。
事件発覚を受け親会社の広島ガスでは弁護士をメンバーに入れた調査委員会を組織して調査し、今私が見ている報告書をきちんと作成した上で公表しておりこうした姿勢は非常に好感が持てます。なおこの報告書は非常にわかりやすくまとめられているため興味がある方は是非一回は読んでもらいたいです。
そしてその後の結末ですが、HGKでは全役員が解任された上で民事再生法の適用を申請して破綻した後、グループ会社の広島ガステクノサービスに事業譲渡して清算されました。当時の報道によると循環取引に関わった会社は計25社あったとされ、事件発覚後に少なくとも5社が経営破綻したそうです。
関係者については事件の主犯となったXはもちろん解雇され、後に詐欺容疑で逮捕されています。そのXと共にパナソニック電工の子会社であるパナソニック電工リビング中国の社員を含む4人が一緒に逮捕されており、計5人が捕まる結果となりました。そして事件当時のHGK社長であった人物は翌年、自動車の車内で練炭自殺した姿で発見されました。
自分がこの事件を知ったのはたまたま偶然でしかないのですが、一見してすごいドラマがある話だと感じました。事件の大きさといい循環取引という非常に見え辛い会計不正の手口もさることながら、主犯となってしまったXが本人も知らないうちに循環取引に巻き込まれ、いつの間にか取りまとめ役になってしまっていたという点でいくらかの同情心と共に、その運命の翻弄具合には言葉では言い表せない感情を覚えます。
それこそXについては彼を循環取引に誘った他社の人物が、HGLが同取引からの撤退を決めるわずか2ヶ月前の2008年6月に交通違反で逮捕されなければ取りまとめ役になることもなかったわけで、どっちにしろ捕まったとは思いますがその後の印象とかが色々違っていたのではと思うとまたここにも運命のいたずらのようなドラマを感じます。
ややキザったらしい言い方になりますが、一旦運命に絡め取られてしまうと如何に人間は抗いようがないかをまざまざと見せつけられているような気がする事件で、小説とかドラマの題材にしたっても十分じゃないかと思います。その上で広島ガスについては前述の通り、この事件に関して非常に詳細な報告書を作成しており、三菱自動車とは対照的に個人的には非常に真摯な態度であるように思え評価に値する対応を取っていると考えます。果たして東芝とかはこれより面白い報告書を作成してくれるのか、期待するだけそれは無駄か……。
参考サイト
・当社子会社の不適切な取引に関する調査結果等のご報告(広島ガス)
・民事再生法適用を申請した広島ガス開発(HGK)の架空循環取引に責任問う声(自己破産と民事再生情報)
2016年10月8日土曜日
広島ガス子会社の循環取引事件 前編
「木工資材の中間取引に入らないか?」
すべての発端はこの一言からでした。
広島ガス株式会社の子会社でガス工事などを手掛けていた広島ガス開発株式会社(HGK)の営業社員であるXは1999年に、取引先である木工事業者の担当者Hよりこのように誘われたそうです。当時、HGKでは従来のガス工事だけでなく内装工事なども手掛け始めたものの売上げは思ったより上がらず、Xが芳しくない状況をHに洩らした際の返答が上の発言でした。
Hによると、木工工事はマンションなどに木製の内装を施工することが決まり木材資材を発注した後、実際に施工されるまでにはほかの工事を待たなくてはならないため仕入から販売までの期間が比較的長くなる傾向があり、その間に木材を仕入れた業者は売上げが長期間立たずキャッシュ・フローにも影響が出てしまうとのことでいした。こうした資金ショートのリスク分散のため仕入業者とゼネコンの間へ商社の様にHGKを入れさせ、マージンとして販売利益の一部を得ないかとHはXを誘いました。この商流を図で表すと以下の通りとなります。
木材メーカー
↓↓↓
仕入業者(Hの会社)
↓↓↓
中間業者(HGK)
↓↓↓
施工者(ゼネコン)
実際にはHGKやHの会社だけでなく他にも複数の会社が絡むのですがそれは置いといて、こうした取引は一般的に「商流取引」と言われ、資金リスクを分散させるために木材に限らず多方面の商品で実際に行われている取引です。卸会社や商社を経由するのも一種の商流取引で、実質的にはメーカーが最終消費者へ直販するような形態を除けばすべて当てはまると言ってもいいのですが、この商流取引と「循環取引」の違いを述べるとすれば、それは商品が実際にあるかないかだけの差です。
このHGKの取引の場合だと仕入業者から木材を購入し、ある程度の期間を保有した後に次の中間業者へ中間マージンを上乗せして販売する形となりますが、書類上のやり取りだけでお金だけを動かすため仕入れた木材は仕入業者の所からHGKの倉庫へ移動するということはないという取り決めだったのでしょう。あればの話ですが。
話は戻りますがこのHからの提案に賛同したXは早速上司に掛け合い、Xの上司もHGKの販売先となる会社が比較的有名な所であったことから問題ないと判断し、この取引にGOサインを出します。こうして同年には上記取引が2件、取引額にして約2億円が取り交わされ、翌年には12件、約8億円へと順調に拡大していきました。
この取引はすべてHからの指示を受けてXは行っており、仕入価格から販売価格まで事細かに指示を受けて行っていました。取引はその後も年々拡大していったことからXは2003年、同じ広島ガス系列の子会社でガス用機械器具の販売を手掛ける広島ガスリビング株式会社(HGL)も商流に入らないかと提案し、これに賛同したHGLも取引に中間業者として加わるようになります。なお調査報告書によるとこの時のHGLの中間マージン率は2%で、資材の保有期間は一ヶ月程度だったとのことです。
しかしまさにこのHGLも商流に加わった頃から、HがXに指示する販売先がコロコロと変わったり、入金が送れたりなど不審な点が見られるようになります。調査を兼ねてXがHと入金が遅れている販売先へ訪問した所、報告書の記述をそのまま引用すると、「取引に不明な点があることを告げるのを聞いたりしたため」、XはHに対し不信感を抱くと共にもしやこれは循環取引ではないかという疑念を覚えるに至りました。
先ほどに商流取引と循環取引の違いは実際にやり取りする商品が存在するか否かと説明しましたが、もう少し循環取引について詳しく説明しておきます。
A→B→C→A→B→C→A→……
以上の様に、複数の会社間で商品を伴わない実体のない取引を延々と繰り返し続けることが循環取引です。実体はないとはいえお金はマージンが載っかって動き続けるため、取引額は一つ動くたびにどんどんと大きくなり、たとえば一取引当たり10%のマージンが乗るとすると、最初にAかからBへ動く金額は1万円だとすると次にBからCへ行くときは1万1千円、さらにCからAへ行くときは1万1千1百円と、以下エンドレスに段々増えていくこととなるわけです。
言うまでもありませんがこうした実態のない取引は法律でも禁止されているものの、仮にばれなかったとすれば各会社は見かけ上、確実に売上げと利益が伸び続ける取引を半永久的に継続できるため、まぁ一言でいえば楽してかなり儲けられることとなります。あくまで見かけ上は。
しかしおいしい事にはリスクがあるもので、この循環取引について言えば途中で何らかの形で取引が止まってしまうと色んな意味ですべてが終わってしまうこととなります。ばれた状況にもよりますが、下手すりゃ循環取引で得た過去の累積売上げと累積利益が一瞬で吹っ飛ぶ可能性も含んでおり、関与したほかの会社も相応の打撃が待っています。ってかほんとこの場合の会計処理ってどうすんだろね。
再び話はHGKのXに戻ります。薄々、実体のない循環取引であることにXも気が付いてはいたものの、既に2003年当時の年間売上げは48億円にも達していることからやめるにやめることが出来ず、社内の誰にも相談や報告をすることなく指示・まとめ役であるHの書類作成すら手伝うようにもなり、本格的に循環取引へ手を染めていきます。
そのような架空取引を続けたまま数年が経った2008年、思わぬアクシデントが起こります。なんとそれまで取引の指示役だったHが道路交通法違反で逮捕、収監されることとなりました。もちろんHがいなくなり取りまとめ役がいなければこの循環取引は一挙にご破算となるわけで、窮極まったHはXと、同じ循環取引に関わっている別会社の担当者に対し循環取引の各社に対する取りまとめと指示を引き継ぐよう依頼し、両者もこれを引き受けます。
こうして、何も知らずに循環取引に巻き込まれたXが循環取引の主犯となってしまったわけです。その後のXの結末はまた次回に。心ある読者は広島ガスの調査報告書を読むのを1日だけ待っててね♪
すべての発端はこの一言からでした。
広島ガス株式会社の子会社でガス工事などを手掛けていた広島ガス開発株式会社(HGK)の営業社員であるXは1999年に、取引先である木工事業者の担当者Hよりこのように誘われたそうです。当時、HGKでは従来のガス工事だけでなく内装工事なども手掛け始めたものの売上げは思ったより上がらず、Xが芳しくない状況をHに洩らした際の返答が上の発言でした。
Hによると、木工工事はマンションなどに木製の内装を施工することが決まり木材資材を発注した後、実際に施工されるまでにはほかの工事を待たなくてはならないため仕入から販売までの期間が比較的長くなる傾向があり、その間に木材を仕入れた業者は売上げが長期間立たずキャッシュ・フローにも影響が出てしまうとのことでいした。こうした資金ショートのリスク分散のため仕入業者とゼネコンの間へ商社の様にHGKを入れさせ、マージンとして販売利益の一部を得ないかとHはXを誘いました。この商流を図で表すと以下の通りとなります。
木材メーカー
↓↓↓
仕入業者(Hの会社)
↓↓↓
中間業者(HGK)
↓↓↓
施工者(ゼネコン)
実際にはHGKやHの会社だけでなく他にも複数の会社が絡むのですがそれは置いといて、こうした取引は一般的に「商流取引」と言われ、資金リスクを分散させるために木材に限らず多方面の商品で実際に行われている取引です。卸会社や商社を経由するのも一種の商流取引で、実質的にはメーカーが最終消費者へ直販するような形態を除けばすべて当てはまると言ってもいいのですが、この商流取引と「循環取引」の違いを述べるとすれば、それは商品が実際にあるかないかだけの差です。
このHGKの取引の場合だと仕入業者から木材を購入し、ある程度の期間を保有した後に次の中間業者へ中間マージンを上乗せして販売する形となりますが、書類上のやり取りだけでお金だけを動かすため仕入れた木材は仕入業者の所からHGKの倉庫へ移動するということはないという取り決めだったのでしょう。あればの話ですが。
話は戻りますがこのHからの提案に賛同したXは早速上司に掛け合い、Xの上司もHGKの販売先となる会社が比較的有名な所であったことから問題ないと判断し、この取引にGOサインを出します。こうして同年には上記取引が2件、取引額にして約2億円が取り交わされ、翌年には12件、約8億円へと順調に拡大していきました。
この取引はすべてHからの指示を受けてXは行っており、仕入価格から販売価格まで事細かに指示を受けて行っていました。取引はその後も年々拡大していったことからXは2003年、同じ広島ガス系列の子会社でガス用機械器具の販売を手掛ける広島ガスリビング株式会社(HGL)も商流に入らないかと提案し、これに賛同したHGLも取引に中間業者として加わるようになります。なお調査報告書によるとこの時のHGLの中間マージン率は2%で、資材の保有期間は一ヶ月程度だったとのことです。
しかしまさにこのHGLも商流に加わった頃から、HがXに指示する販売先がコロコロと変わったり、入金が送れたりなど不審な点が見られるようになります。調査を兼ねてXがHと入金が遅れている販売先へ訪問した所、報告書の記述をそのまま引用すると、「取引に不明な点があることを告げるのを聞いたりしたため」、XはHに対し不信感を抱くと共にもしやこれは循環取引ではないかという疑念を覚えるに至りました。
先ほどに商流取引と循環取引の違いは実際にやり取りする商品が存在するか否かと説明しましたが、もう少し循環取引について詳しく説明しておきます。
A→B→C→A→B→C→A→……
以上の様に、複数の会社間で商品を伴わない実体のない取引を延々と繰り返し続けることが循環取引です。実体はないとはいえお金はマージンが載っかって動き続けるため、取引額は一つ動くたびにどんどんと大きくなり、たとえば一取引当たり10%のマージンが乗るとすると、最初にAかからBへ動く金額は1万円だとすると次にBからCへ行くときは1万1千円、さらにCからAへ行くときは1万1千1百円と、以下エンドレスに段々増えていくこととなるわけです。
言うまでもありませんがこうした実態のない取引は法律でも禁止されているものの、仮にばれなかったとすれば各会社は見かけ上、確実に売上げと利益が伸び続ける取引を半永久的に継続できるため、まぁ一言でいえば楽してかなり儲けられることとなります。あくまで見かけ上は。
しかしおいしい事にはリスクがあるもので、この循環取引について言えば途中で何らかの形で取引が止まってしまうと色んな意味ですべてが終わってしまうこととなります。ばれた状況にもよりますが、下手すりゃ循環取引で得た過去の累積売上げと累積利益が一瞬で吹っ飛ぶ可能性も含んでおり、関与したほかの会社も相応の打撃が待っています。ってかほんとこの場合の会計処理ってどうすんだろね。
再び話はHGKのXに戻ります。薄々、実体のない循環取引であることにXも気が付いてはいたものの、既に2003年当時の年間売上げは48億円にも達していることからやめるにやめることが出来ず、社内の誰にも相談や報告をすることなく指示・まとめ役であるHの書類作成すら手伝うようにもなり、本格的に循環取引へ手を染めていきます。
そのような架空取引を続けたまま数年が経った2008年、思わぬアクシデントが起こります。なんとそれまで取引の指示役だったHが道路交通法違反で逮捕、収監されることとなりました。もちろんHがいなくなり取りまとめ役がいなければこの循環取引は一挙にご破算となるわけで、窮極まったHはXと、同じ循環取引に関わっている別会社の担当者に対し循環取引の各社に対する取りまとめと指示を引き継ぐよう依頼し、両者もこれを引き受けます。
こうして、何も知らずに循環取引に巻き込まれたXが循環取引の主犯となってしまったわけです。その後のXの結末はまた次回に。心ある読者は広島ガスの調査報告書を読むのを1日だけ待っててね♪
2016年10月6日木曜日
より厳格化される社会
2007年の事だったと思いますが社会学者の鈴木謙介氏の講演を聞きに行ったことがあり、この講演で鈴木氏は、「これからの世の中はすべて二極化する」と話していました。その具体例として鈴木氏は音楽ボーカロイドの「初音ミク」を引用して、「作曲した曲と歌詞のテンポを合わせるため試しに歌わせる作業はこれまでプロになりきれないセミプロの歌手が担っていたが、今後はこの初音ミクで代替されるため、これで生活してきた人は仕事を失くすだろう」と述べ、このようにこれまでは玄人と素人の中間にも仕事があったが今後はその中間の仕事がなくなるため単純に「食えない素人」が増加すると指摘していました。
あれから大分年月も経ちますが、この指摘はやはり正しかったように思えます。ほかの国はどうだか知りませんが少なくとも日本社会においてはそれまで曖昧だった境界がどんどんと明確化し、またそのラインとなる基準もより厳しさを増しています。
いくつか例を挙げると、たとえばゲームだとほんの少しでも些細なバグがあればネット上で槍玉に挙げられて即欠陥品として批判され、生活用品でも使用には問題なくても色あいや形が少しでも崩れていたらこれまた即クレームが起こってメーカーは四苦八苦する羽目となります。かつてであればゲームのバグもよほど進行不能とならない限りはユーザーも多めに見て(進行不能でも許されてたこともある)、生活用品も色合いの一つでおかしいと指摘すれば逆に気にし過ぎだと言われていたように思えます。
こうした「境界の明確化」というか「厳格化」は最初に話した職業の面でも同様で、そこそこの実務スキルを持つ人間でもかつてはそこそこの給与で勤務することが可能であっても、現在においては給与を一段下げたとして勤務すること自体が出来なくなっているのではと思う節があります。何故なら、その人が持つのは中途半端なスキルであって、曖昧な社会では「0.5」とみなされたものの厳格な社会だとゼロサムであるため「0」か「1」しかなく、「1」未満はすべて「0」だからです。
逆に正規スキルホルダーは以前以上の給与を得られることとなります。もっともその一方で、それまで「そこそこのスキルホルダー」が担ってきた業務も担わなくてはならないので前より忙しくなっているのではと思う節もありますが。
長く語ってもしょうがないので結論を述べますが、こうした風潮なり傾向は私が歓迎するところではありません。単純にこの傾向は労働、富の偏極化をもたらし、社会が全体として弱くなる要素を多分に含んでいるように思えるからで、社会全体としてもっと寛容な姿勢を持つような志向が求められている気がします。より端的に述べれば、もっとカオスな社会を私は望んでいます。
またもう一つ例を取り出しますが表現の世界でもやたらと表現を狭めようとする傾向が目立ち、90年代に流行したかつての言葉狩りは勢いが減ったものの今度は「著作権」がやたらと出張るようになり、実在する会社や商品名を作品に登場させることについていちいち許諾が求められるようになるなど世知辛い社会になってきたという気がします。虚偽の事実やあからさまに貶めようとする表現は確かに排除すべきですが、街の風景としてマクドナルドやガストといった飲食店舗をそのままの名前で出したらダメって一体何でやねんと実はすごい不満に覚えたりします。何故なら今そこにある現実を否定するかのような所業に感じるためで、こうした物が続いて行けば現実を表現すること自体が否定されるのではと危機感も覚えます。
最後にもう一つ書き残すと、何故社会が厳格化したのかというとそれは間違いなく社会が情報化したからで、コンピューターの世界が現実社会にも浸透してきたとみていいでしょう。映画の「マトリックス」じゃないですが、あまりにも厳格化した社会だとどうしても齟齬が起きるのだからいくらかファジーな部分、工学でいうなら「遊び」の部分を設けるべきだと私は思うのですが。
あれから大分年月も経ちますが、この指摘はやはり正しかったように思えます。ほかの国はどうだか知りませんが少なくとも日本社会においてはそれまで曖昧だった境界がどんどんと明確化し、またそのラインとなる基準もより厳しさを増しています。
いくつか例を挙げると、たとえばゲームだとほんの少しでも些細なバグがあればネット上で槍玉に挙げられて即欠陥品として批判され、生活用品でも使用には問題なくても色あいや形が少しでも崩れていたらこれまた即クレームが起こってメーカーは四苦八苦する羽目となります。かつてであればゲームのバグもよほど進行不能とならない限りはユーザーも多めに見て(進行不能でも許されてたこともある)、生活用品も色合いの一つでおかしいと指摘すれば逆に気にし過ぎだと言われていたように思えます。
こうした「境界の明確化」というか「厳格化」は最初に話した職業の面でも同様で、そこそこの実務スキルを持つ人間でもかつてはそこそこの給与で勤務することが可能であっても、現在においては給与を一段下げたとして勤務すること自体が出来なくなっているのではと思う節があります。何故なら、その人が持つのは中途半端なスキルであって、曖昧な社会では「0.5」とみなされたものの厳格な社会だとゼロサムであるため「0」か「1」しかなく、「1」未満はすべて「0」だからです。
逆に正規スキルホルダーは以前以上の給与を得られることとなります。もっともその一方で、それまで「そこそこのスキルホルダー」が担ってきた業務も担わなくてはならないので前より忙しくなっているのではと思う節もありますが。
長く語ってもしょうがないので結論を述べますが、こうした風潮なり傾向は私が歓迎するところではありません。単純にこの傾向は労働、富の偏極化をもたらし、社会が全体として弱くなる要素を多分に含んでいるように思えるからで、社会全体としてもっと寛容な姿勢を持つような志向が求められている気がします。より端的に述べれば、もっとカオスな社会を私は望んでいます。
またもう一つ例を取り出しますが表現の世界でもやたらと表現を狭めようとする傾向が目立ち、90年代に流行したかつての言葉狩りは勢いが減ったものの今度は「著作権」がやたらと出張るようになり、実在する会社や商品名を作品に登場させることについていちいち許諾が求められるようになるなど世知辛い社会になってきたという気がします。虚偽の事実やあからさまに貶めようとする表現は確かに排除すべきですが、街の風景としてマクドナルドやガストといった飲食店舗をそのままの名前で出したらダメって一体何でやねんと実はすごい不満に覚えたりします。何故なら今そこにある現実を否定するかのような所業に感じるためで、こうした物が続いて行けば現実を表現すること自体が否定されるのではと危機感も覚えます。
最後にもう一つ書き残すと、何故社会が厳格化したのかというとそれは間違いなく社会が情報化したからで、コンピューターの世界が現実社会にも浸透してきたとみていいでしょう。映画の「マトリックス」じゃないですが、あまりにも厳格化した社会だとどうしても齟齬が起きるのだからいくらかファジーな部分、工学でいうなら「遊び」の部分を設けるべきだと私は思うのですが。
豊洲問題の真の問題と後の展望
昨夜知人たちとまた「いただきストリート」というゲームをしてきて、このゲームでは自分が物件を持っているエリアの株を買ってから増資するというのがセオリー(株価が上がって含み益が出る)なのですが、急ぐ状況から株を持たずに増資することをいつしか「株なし芳一」と呼ぶようになりました。芳一が意味不明過ぎてなんか気に入っています。
話は本題に入りますが先日出た以下のニュースを見て、「まだ早い」と私は思いましたが、同じように思った人間はどれほどいるのだろうかと密かに気になっています。
・フジテレビが1枚の写真で豊洲市場の柱の傾きを疑う→東京都は否定。専門家の見方は(BuzzFeed Japan)
先日知人にもこのテーマで解説を行ってきましたが、一部で言われているように地下空洞における地下水は実はそれほど大きな問題ではありません。環境基準値を上回っているか否かがよく取り沙汰されていますが、飲み水や洗浄用水に使うわけではないため仮に基準値を上回っていたとしても使わなければ豊洲市場自体には何か影響するわけではありません。
ただ都の職員は将来の地下改修工事の際における重機搬入口として作ったと話していますがあれだけ地下水が溜まっていれば重機を搬入するのに影響が出そうで、排出装置は用意してあるとは言っていますがなんとなくこの説明は嘘のような気がします。
では豊洲問題はそんなに大騒ぎしなくてもいいのか、小池都知事が無駄に騒ぎ立てているだけなのか。あくまで個人的見解ですが、今の地下空洞問題は前哨戦に過ぎず、小池都知事は本戦に向けた地ならしとしてこの問題をせっついているのではないかと思われます。では本戦とは何かですが、強度偽装問題が必ずこの後に浮上してくると私は見ており、これこそが豊洲問題の本丸だと考えています。
既に一部有識者などから豊洲の建物強度、耐震強度について疑問視する声が出ています。前者については市場内ではターレというフォークリフトが使われるにもかかわらず床の強度は1平方メートル当たり800kgしかなく、実際稼働時には2トンを越すと想定されるだけに絶対的に足りません。
そして次に耐震強度についてですが、専門家ではないためあまりよくわかっていないのですが、建物を支持する基盤構造が余りオーソドックスなものではなく耐震強度について疑問点があると指摘する声がいくつか出ています。専門的な話は抜きにしてマルクス主義的に(=特に意味はなく)私が強度偽装があるのではと思う理由を以下に羅列します。
・手抜き工事の手法として一番うまみがある
・盛土問題が明らかとなって以降、誰も強度について言及しなくなった
・仮に偽装されていれば最も影響額が大きい
・その影響額を誰が負担するのか
この四つの観点から、強度も結構怪しいのではないかと見ているわけです。
仮に本当に強度が偽装されていれば豊洲市場の建物は完全に使用できなくなるため移転も不可能となります。それだけに事実がわかっていたとしてもおいそれとその事実を現段階で明らかとすることは、関係各所への影響から小池都知事の側としても難しいでしょう。
そして四つ目の「誰が負担するのか」ですが、今の地下水問題はこの点を議論するための前哨戦となっているのではないかと私は見ています。現在いるプレイヤーは「東京都」、「ゼネコン」、「設計事務所(実質ゼネコン)」の三者で、この三者のうち誰が今回の不始末を負担するのかが後々決まってくるでしょう。実質的には東京都かゼネコンかで、今回の地下水問題のやり取りを見てもどちらも自分がババを引かないよう責任回避へ必死に動いているように見え、小池都知事の側も敢えて強度問題について今は触れず、地下水問題で白黒はっきりさせた上でその勢いをかって次のステップに踏み込もうとしているのではというふうに私は見ています。
その上で現状、重要なポイントとなるのは、「誰が空洞案を持ってきたのか」です。先程に私は関係者が「自分がババを引かないように」動いていると指摘しましたが、都側が先日出した報告書では「曖昧なうちに決定された」とふわふわした表現を出してきましたが、多分これは確信犯でしょう。実際の結論は二つしかなく、案を出したのは都かゼネコンかしかないでしょう。
まぁ言うまでもなくゼネコン側が案を出して、それを飲んだ都の責任者が誰かということになるわけですが、少し気が早いかもしれませんけどこの問題で何人か死ぬだろうなという気がします。
話は本題に入りますが先日出た以下のニュースを見て、「まだ早い」と私は思いましたが、同じように思った人間はどれほどいるのだろうかと密かに気になっています。
・フジテレビが1枚の写真で豊洲市場の柱の傾きを疑う→東京都は否定。専門家の見方は(BuzzFeed Japan)
先日知人にもこのテーマで解説を行ってきましたが、一部で言われているように地下空洞における地下水は実はそれほど大きな問題ではありません。環境基準値を上回っているか否かがよく取り沙汰されていますが、飲み水や洗浄用水に使うわけではないため仮に基準値を上回っていたとしても使わなければ豊洲市場自体には何か影響するわけではありません。
ただ都の職員は将来の地下改修工事の際における重機搬入口として作ったと話していますがあれだけ地下水が溜まっていれば重機を搬入するのに影響が出そうで、排出装置は用意してあるとは言っていますがなんとなくこの説明は嘘のような気がします。
では豊洲問題はそんなに大騒ぎしなくてもいいのか、小池都知事が無駄に騒ぎ立てているだけなのか。あくまで個人的見解ですが、今の地下空洞問題は前哨戦に過ぎず、小池都知事は本戦に向けた地ならしとしてこの問題をせっついているのではないかと思われます。では本戦とは何かですが、強度偽装問題が必ずこの後に浮上してくると私は見ており、これこそが豊洲問題の本丸だと考えています。
既に一部有識者などから豊洲の建物強度、耐震強度について疑問視する声が出ています。前者については市場内ではターレというフォークリフトが使われるにもかかわらず床の強度は1平方メートル当たり800kgしかなく、実際稼働時には2トンを越すと想定されるだけに絶対的に足りません。
そして次に耐震強度についてですが、専門家ではないためあまりよくわかっていないのですが、建物を支持する基盤構造が余りオーソドックスなものではなく耐震強度について疑問点があると指摘する声がいくつか出ています。専門的な話は抜きにしてマルクス主義的に(=特に意味はなく)私が強度偽装があるのではと思う理由を以下に羅列します。
・手抜き工事の手法として一番うまみがある
・盛土問題が明らかとなって以降、誰も強度について言及しなくなった
・仮に偽装されていれば最も影響額が大きい
・その影響額を誰が負担するのか
この四つの観点から、強度も結構怪しいのではないかと見ているわけです。
仮に本当に強度が偽装されていれば豊洲市場の建物は完全に使用できなくなるため移転も不可能となります。それだけに事実がわかっていたとしてもおいそれとその事実を現段階で明らかとすることは、関係各所への影響から小池都知事の側としても難しいでしょう。
そして四つ目の「誰が負担するのか」ですが、今の地下水問題はこの点を議論するための前哨戦となっているのではないかと私は見ています。現在いるプレイヤーは「東京都」、「ゼネコン」、「設計事務所(実質ゼネコン)」の三者で、この三者のうち誰が今回の不始末を負担するのかが後々決まってくるでしょう。実質的には東京都かゼネコンかで、今回の地下水問題のやり取りを見てもどちらも自分がババを引かないよう責任回避へ必死に動いているように見え、小池都知事の側も敢えて強度問題について今は触れず、地下水問題で白黒はっきりさせた上でその勢いをかって次のステップに踏み込もうとしているのではというふうに私は見ています。
その上で現状、重要なポイントとなるのは、「誰が空洞案を持ってきたのか」です。先程に私は関係者が「自分がババを引かないように」動いていると指摘しましたが、都側が先日出した報告書では「曖昧なうちに決定された」とふわふわした表現を出してきましたが、多分これは確信犯でしょう。実際の結論は二つしかなく、案を出したのは都かゼネコンかしかないでしょう。
まぁ言うまでもなくゼネコン側が案を出して、それを飲んだ都の責任者が誰かということになるわけですが、少し気が早いかもしれませんけどこの問題で何人か死ぬだろうなという気がします。
2016年10月3日月曜日
ゲームレビュー:ダンガンロンパ1&2
真面目な記事書いてもいいのだけれどこのところ企業居点の大型アップデート作業に忙しいのでまた緩めの記事書いて気分転換にします。もっとも、固い記事であろうとも政治系の話題ならそれはそれで気分転換になるのですが。
さて本題に移りますが、スパイクチュンソフトから発売されているゲームに「ダンガンロンパ」というシリーズがあり、非常に高い人気を得ています。このゲームはどういう物か一言でいえばアドベンチャーゲームで、カプコンから発売された「逆転裁判」という裁判討論をテーマにした同じアドベンチャーゲームが間違いなくベースとなっています。
具体的なあらすじを述べると、1と2ともに十数人の高校生がそれぞれ閉ざされた学校と孤島に監禁された上で、ドラえもんの声優でおなじみの大山のぶ代氏が演じる「モノクマ」という動くぬいぐるみに、「ここから出ることは許さない。どうしても出たければ誰か一人を殺せば出してやる」と通告されるところからスタートします。ゲーム内では実際に殺人事件が起こるのですが、事件後に現場の検証や聞き取りを済ませた後で学級裁判が開かれ、残った生存者の中にいる犯人は誰なのかを生存者同士で話し合い、突き止めるというのがゲームの流れです。
なお犯人は殺人を済ませただけで解放されるわけではなく、その後の学級裁判で「シロ」認定される必要もあります。犯人が「シロ」認定されれば犯人は晴れて解放され、別の人間を「クロ」と認定してしまった残りの生存者は処刑というか殺される羽目となります。逆に真犯人が「クロ」と認定されれば、真犯人のみが「おしおき」と呼ばれる処刑がなされる羽目となります。
これだけ書くとさも陰惨な話に見えますが集められた高校生は皆、「超高校級の○○」という肩書を持つエリート達でどれも個性が強く、また演出が非常にPOPな感じで仕上げられているのでプレイ中には残酷性に関してそれほど強い嫌悪感を覚えないほどよく練られて作られています。一方で各キャラクターが殺されて死体となって出てきた際には上記に述べた通りに誰もが個性が強かっただけにそれなりの喪失感が感じられ、それとともに仲間たちの中に犯人がいて互いに疑心暗鬼とならざるを得ないシナリオは絶妙といっていいでしょう。
そしてゲームの本番でもある学級裁判も、ほかの参加者の発言の中から矛盾点を指摘したり、事前にかき集めた証拠を突き合わせたりなどしてそこそこ考えながら取り組める内容で、その裁判の過程で新証言が出てくることによって徐々に真相が明らかとなっていくため「自分が事件を解いている」というカタルシスが強く得られます。実際、どの事件でも裁判前に犯人に目星がつくことはこのゲームではほぼなく、裁判過程で「あれ、もしかしてこいつが犯人なのか?」と段々わかってくるようになっています。
私はこのゲームを今年にPSVitaで1と2がセットになったソフトをダウンロードして購入して遊んだのですが、やっている間はとにもかくにも先が気になってしょうがなく長時間、時間を忘れてプレイしました。特に1に関しては、「今までやらずにいて勿体ない」と後悔するくらいの出来で、このシリーズが高い人気を得ているということも非常に納得がいきました。
一方、2に関しても述べると、楽しいっちゃ楽しいですが1と比べると私の評価はガクッと落ちました。1が100点だとすると2は60点、下手すりゃそれ以下くらいといったところで、シナリオ面でやはり1の焼き直しによる二番煎じ感が強く、ネタバレを読まずともなんとなくシナリオの背景というか各キャラクターたちの過去とかが読み取れてしまって真相が明らかとなる終盤のドッキリ感が弱かったです。
またもう少しケチをつけると、2に関しては学級裁判のシーンがとにかくだるくてつまらなかったです。1に関しては難易度も抑えられていることもあってちゃんと論理的に考えればきちんと正解にたどり着くようになっていると感じた一方で、2では発言の矛盾点に関する指摘や選択する証拠の正解がなんとなくカチッと結びつかず、「俺はこういいたいのに何でこいつはそう言わないんだ」というようなもどかしさと共にイライラを何度となく覚えました。正解はわかっているのにキャラクターが思い通りに動いてくれないため、場所によっては総当たり方式で臨まざるを得ませんでした。
そして演出に関しても、1と2でははっきり言って天と地の差というくらい水準に差を感じました。既に述べた通りに「クロ」と認定された犯人は「おしおき」という名の処刑が課せられそのシーンはムービーで流れるのですが、このおしおきは各キャラクターの個性に合わせて用意されており非常に毒が強いというかブラックユーモアがふんだんに盛り込まれてあり、残酷といえば残酷なのですがそれでいて思わず見入ってしまうようなコミカルさを兼ね備えてあってプレイ後も何度も見返してしまうような出来でした。1に関しては。
2のおしおきムービーなのですが、ネットで見ていると私同様の感想を持つ人も多いようで、はっきり言って何も笑えない内容でしかありませんでした。何もユーモアが感じられないし無駄に長いし何が実際に起こったのか見ていてよくわからない内容で、本当にこれ同じ人が作ったのかと本気で疑うくらいレベルが低くて一つの映像としてみても文句なしに駄作といえるようなものがずらりと並んでいます。唯一、2の最後のおしおきムービーだけは「ほう」ってな感じで唸らされるものでしたが、ネット上の噂によるとこの最後のムービーだけが1のスタッフが作ったもので他のムービーはは別人が作ったとのことで、出来を比較する限りきっとその通りだろうと思うくらい差がありました。
こういうシリーズ物は初代の出来が良すぎて二作目以降は悪くない出来であっても批判されるということがよくありますが、このダンガンロンパシリーズに関して言えば、1が非常に高い出来でその壁を乗り越えるのは確かに難しいということは理解できても、2については一つのアドベンチャーゲームとしてみてもちょっとお粗末な出来だったのではないだろうかという風に私は見ています。登場するキャラクターも1と比べると明らかに魅力が落ちるし、主人公の性格も1は見ていて応援したくなりましたが2の方ははっきりしない性格のキャラのため最後まで好きになれませんでした。
ついでに書くと声優に関しては、1に出ている椎名へきる氏はかつてはアイドル声優として名を馳せたものの、ブランクの大きさが祟って棒読みが目立ち他の実力は声優らに囲まれたこともあって明らかに浮いています。2は私が贔屓にしている小清水亜美氏がやっぱりすごいなと感じたのと、花澤香奈氏が多忙のため一人だけで収録に望み、収録を終えた後はまた別の収録に向かったというエピソードが強烈でした。っていうかこの人よく過労死しなかったな。
最後に、真相のネタバレになりかねないのでぼやかして書きますが、ダンガンロンパの1も2も「実は○○だった」という真相はどちらも共通しています。この真相ですが、スケールこそ違うものの同じくスパイクチュンソフトから1と同時期に発売された「極限脱出ADV善人シボウデス」とも完全に一致しています。偶然といえば偶然かもしれませんし双方で独立したシナリオが展開されているのだから厳しくツッコむ必要はもちろんないと思いますが、なんというかこの頃はこういうディストピアオチが流行っていたのだろうかとそういう流行の点で気になる所があります。
さて本題に移りますが、スパイクチュンソフトから発売されているゲームに「ダンガンロンパ」というシリーズがあり、非常に高い人気を得ています。このゲームはどういう物か一言でいえばアドベンチャーゲームで、カプコンから発売された「逆転裁判」という裁判討論をテーマにした同じアドベンチャーゲームが間違いなくベースとなっています。
具体的なあらすじを述べると、1と2ともに十数人の高校生がそれぞれ閉ざされた学校と孤島に監禁された上で、ドラえもんの声優でおなじみの大山のぶ代氏が演じる「モノクマ」という動くぬいぐるみに、「ここから出ることは許さない。どうしても出たければ誰か一人を殺せば出してやる」と通告されるところからスタートします。ゲーム内では実際に殺人事件が起こるのですが、事件後に現場の検証や聞き取りを済ませた後で学級裁判が開かれ、残った生存者の中にいる犯人は誰なのかを生存者同士で話し合い、突き止めるというのがゲームの流れです。
なお犯人は殺人を済ませただけで解放されるわけではなく、その後の学級裁判で「シロ」認定される必要もあります。犯人が「シロ」認定されれば犯人は晴れて解放され、別の人間を「クロ」と認定してしまった残りの生存者は処刑というか殺される羽目となります。逆に真犯人が「クロ」と認定されれば、真犯人のみが「おしおき」と呼ばれる処刑がなされる羽目となります。
これだけ書くとさも陰惨な話に見えますが集められた高校生は皆、「超高校級の○○」という肩書を持つエリート達でどれも個性が強く、また演出が非常にPOPな感じで仕上げられているのでプレイ中には残酷性に関してそれほど強い嫌悪感を覚えないほどよく練られて作られています。一方で各キャラクターが殺されて死体となって出てきた際には上記に述べた通りに誰もが個性が強かっただけにそれなりの喪失感が感じられ、それとともに仲間たちの中に犯人がいて互いに疑心暗鬼とならざるを得ないシナリオは絶妙といっていいでしょう。
そしてゲームの本番でもある学級裁判も、ほかの参加者の発言の中から矛盾点を指摘したり、事前にかき集めた証拠を突き合わせたりなどしてそこそこ考えながら取り組める内容で、その裁判の過程で新証言が出てくることによって徐々に真相が明らかとなっていくため「自分が事件を解いている」というカタルシスが強く得られます。実際、どの事件でも裁判前に犯人に目星がつくことはこのゲームではほぼなく、裁判過程で「あれ、もしかしてこいつが犯人なのか?」と段々わかってくるようになっています。
私はこのゲームを今年にPSVitaで1と2がセットになったソフトをダウンロードして購入して遊んだのですが、やっている間はとにもかくにも先が気になってしょうがなく長時間、時間を忘れてプレイしました。特に1に関しては、「今までやらずにいて勿体ない」と後悔するくらいの出来で、このシリーズが高い人気を得ているということも非常に納得がいきました。
一方、2に関しても述べると、楽しいっちゃ楽しいですが1と比べると私の評価はガクッと落ちました。1が100点だとすると2は60点、下手すりゃそれ以下くらいといったところで、シナリオ面でやはり1の焼き直しによる二番煎じ感が強く、ネタバレを読まずともなんとなくシナリオの背景というか各キャラクターたちの過去とかが読み取れてしまって真相が明らかとなる終盤のドッキリ感が弱かったです。
またもう少しケチをつけると、2に関しては学級裁判のシーンがとにかくだるくてつまらなかったです。1に関しては難易度も抑えられていることもあってちゃんと論理的に考えればきちんと正解にたどり着くようになっていると感じた一方で、2では発言の矛盾点に関する指摘や選択する証拠の正解がなんとなくカチッと結びつかず、「俺はこういいたいのに何でこいつはそう言わないんだ」というようなもどかしさと共にイライラを何度となく覚えました。正解はわかっているのにキャラクターが思い通りに動いてくれないため、場所によっては総当たり方式で臨まざるを得ませんでした。
そして演出に関しても、1と2でははっきり言って天と地の差というくらい水準に差を感じました。既に述べた通りに「クロ」と認定された犯人は「おしおき」という名の処刑が課せられそのシーンはムービーで流れるのですが、このおしおきは各キャラクターの個性に合わせて用意されており非常に毒が強いというかブラックユーモアがふんだんに盛り込まれてあり、残酷といえば残酷なのですがそれでいて思わず見入ってしまうようなコミカルさを兼ね備えてあってプレイ後も何度も見返してしまうような出来でした。1に関しては。
2のおしおきムービーなのですが、ネットで見ていると私同様の感想を持つ人も多いようで、はっきり言って何も笑えない内容でしかありませんでした。何もユーモアが感じられないし無駄に長いし何が実際に起こったのか見ていてよくわからない内容で、本当にこれ同じ人が作ったのかと本気で疑うくらいレベルが低くて一つの映像としてみても文句なしに駄作といえるようなものがずらりと並んでいます。唯一、2の最後のおしおきムービーだけは「ほう」ってな感じで唸らされるものでしたが、ネット上の噂によるとこの最後のムービーだけが1のスタッフが作ったもので他のムービーはは別人が作ったとのことで、出来を比較する限りきっとその通りだろうと思うくらい差がありました。
こういうシリーズ物は初代の出来が良すぎて二作目以降は悪くない出来であっても批判されるということがよくありますが、このダンガンロンパシリーズに関して言えば、1が非常に高い出来でその壁を乗り越えるのは確かに難しいということは理解できても、2については一つのアドベンチャーゲームとしてみてもちょっとお粗末な出来だったのではないだろうかという風に私は見ています。登場するキャラクターも1と比べると明らかに魅力が落ちるし、主人公の性格も1は見ていて応援したくなりましたが2の方ははっきりしない性格のキャラのため最後まで好きになれませんでした。
ついでに書くと声優に関しては、1に出ている椎名へきる氏はかつてはアイドル声優として名を馳せたものの、ブランクの大きさが祟って棒読みが目立ち他の実力は声優らに囲まれたこともあって明らかに浮いています。2は私が贔屓にしている小清水亜美氏がやっぱりすごいなと感じたのと、花澤香奈氏が多忙のため一人だけで収録に望み、収録を終えた後はまた別の収録に向かったというエピソードが強烈でした。っていうかこの人よく過労死しなかったな。
最後に、真相のネタバレになりかねないのでぼやかして書きますが、ダンガンロンパの1も2も「実は○○だった」という真相はどちらも共通しています。この真相ですが、スケールこそ違うものの同じくスパイクチュンソフトから1と同時期に発売された「極限脱出ADV善人シボウデス」とも完全に一致しています。偶然といえば偶然かもしれませんし双方で独立したシナリオが展開されているのだから厳しくツッコむ必要はもちろんないと思いますが、なんというかこの頃はこういうディストピアオチが流行っていたのだろうかとそういう流行の点で気になる所があります。
2016年10月2日日曜日
政治家の海外出張が多い背景
昨夜、大学の先輩らを前に私が政治の話題だったら三食忘れてずっとやり続けると話したところ興味を持たれたのか政治関連で多くの質問を受けました。受けた質問は指摘箇所も鋭ければ具体的で、やっぱ海外にいる人間は日本国内の政治に対しても適度な距離を置いた視点を持つのだなと感じさせられました。
そこで受けた質問の中で一つ、「最近の政治家の愛人関係というのはどうなっている?」という者があり、それについて以下の様に私は答えました。
結論から言えば、かつてと比べると現在はすっかり大人しくなっています。昭和の頃なんて本妻以外の愛人を持っていない政治家を探す方が難しいし持っていること自体も別に咎められるような時代でもありませんでしたが、平成に入ってからは日本人の倫理観も段々と厳しくなっていったこともあって政治かとあってもおいそれと愛人を持つことが難しくなっていきました。
またそれと並行してこれは以前に読んだ政治批評に書かれていた内容ですが、愛人となる女性の側もかつてと比べて政治家に対する忠誠心が薄れており、事と次第というかギャラ次第であっさりと政治かを裏切って関係を暴露するようになってきたことも大きく影響してます。具体例を挙げると最近本を出版して割と景気良さそうが元YKKこと山崎拓氏で、彼なんか週間誌に愛人関係が暴露されたため事実無根だとする裁判を起こしたところ、週間誌出版社側から愛人宅に預けられていたパンツを証拠として愛人により裁判所に提出され、司法すらも愛人関係を認めるという壮大な茶番を演じることとなりました。
また首相に関して述べると、政治部記者によって毎日事細かなスケジュールをチェックされて「首相動静」として報じられるため、愛人といちゃつく時間すら持てないし持ったところですぐ明るみに出てしまいます。なお首相動静についてもう少し述べると、一分単位で何をしたか不明瞭な時間があると各社の政治部記者によって一体何をしていたのかとしつこく食い下がれるとのことです。
一例として、かつて佐野眞一氏が小渕恵三に総理独占インタビューを申し込んだところ、単独で受けると政治部記者かた嫉妬を受けて佐野氏が嫌がらせを受けるだろうと懸念されたそうです。そこで小渕は佐野氏に対し、「官邸の裏のトイレの窓から侵入してくれ」とメタルギアソリッドみたいな潜入を支持した上で官邸内でインタビューを受けたそうです。インタビュー後もまた佐野氏はトイレの窓から脱出し、小渕は小渕で政治部記者から空白の時間に誰と会っていたのかと問われて、「人間と会っていた」とごまかしたことが翌日の首相動静に書かれていたことを佐野氏本人が感慨深げに話したのを聞いています。
話は戻りますが以上の様に記者が張り付いていることもあって総理が愛人といちゃつくなんて今の時代では非常に難しいことです。もっとも、愛に殉じた宇野宗佑みたいな総理も至っちゃいましたが、国内で愛人関係を持つことは至難の業だと昨夜私は述べました。
するとそこで、「なら海外は?」という質問が飛んできました。そしてそれに対する私の答えは、「国内より、明らかに緩くなる」というものでした。
海外出張に出かければ政治部記者ももちろんついてくるものの、日本と違ってセキュリティの問題から総理に近づくことは難しく、宿泊先のホテルにおいてもSPががっちり警備に就くため人の出入りすらホテル前でチェックするよりほかなくなります。それこそ「政府関係者」とか「訪問団関係者」などと名乗られてSPに通されれば、ホテル内で自由に愛人といちゃつくこともできるでしょう。
現役の阿部総理については、割とこの人は奥さん一筋な感じがする人なのであまり愛人はいないと思うため週間誌とかに「真夜中のアベノミクス」などという見出しが書かれることはないとは思いますが、それ以外の大臣や国会議員クラスとなると海外出張というのは愛人といちゃつく絶好の機会なのではないかと話をしていて私も思いました。
そこで議論が盛り上がってきて次に出てきたのが、「そういえば、政治家って海外出張好きだよね?」という意見でした。舛添前都知事を筆頭に地方議員なども大した理由もなく政治活動費を使ってしょっちゅう海外出張や視察に出向くことが問題になるケースがこのところ多いですが、これってもしかして愛人遊びが目的なのではとなんか思えてきました。やや下品な言い方ですが「女体大満足」とも揶揄された乙武洋匡氏も出張にかこつけてスタッフとする愛人と遊びまわっていたとされ、彼に限らず出張に出向こうとする人間は多かれ少なかれこの類なのかもしれません。
こうした考えから導き出される答えは一つで、海外出張を頻繁に行う人間に対しては女性関係を洗うのが案外的確かつ効果があるなかなという知見です。まぁそれ言ったら海外駐在員の実態の方がニュース価値あるのかもしれませんけど。
そこで受けた質問の中で一つ、「最近の政治家の愛人関係というのはどうなっている?」という者があり、それについて以下の様に私は答えました。
結論から言えば、かつてと比べると現在はすっかり大人しくなっています。昭和の頃なんて本妻以外の愛人を持っていない政治家を探す方が難しいし持っていること自体も別に咎められるような時代でもありませんでしたが、平成に入ってからは日本人の倫理観も段々と厳しくなっていったこともあって政治かとあってもおいそれと愛人を持つことが難しくなっていきました。
またそれと並行してこれは以前に読んだ政治批評に書かれていた内容ですが、愛人となる女性の側もかつてと比べて政治家に対する忠誠心が薄れており、事と次第というかギャラ次第であっさりと政治かを裏切って関係を暴露するようになってきたことも大きく影響してます。具体例を挙げると最近本を出版して割と景気良さそうが元YKKこと山崎拓氏で、彼なんか週間誌に愛人関係が暴露されたため事実無根だとする裁判を起こしたところ、週間誌出版社側から愛人宅に預けられていたパンツを証拠として愛人により裁判所に提出され、司法すらも愛人関係を認めるという壮大な茶番を演じることとなりました。
また首相に関して述べると、政治部記者によって毎日事細かなスケジュールをチェックされて「首相動静」として報じられるため、愛人といちゃつく時間すら持てないし持ったところですぐ明るみに出てしまいます。なお首相動静についてもう少し述べると、一分単位で何をしたか不明瞭な時間があると各社の政治部記者によって一体何をしていたのかとしつこく食い下がれるとのことです。
一例として、かつて佐野眞一氏が小渕恵三に総理独占インタビューを申し込んだところ、単独で受けると政治部記者かた嫉妬を受けて佐野氏が嫌がらせを受けるだろうと懸念されたそうです。そこで小渕は佐野氏に対し、「官邸の裏のトイレの窓から侵入してくれ」とメタルギアソリッドみたいな潜入を支持した上で官邸内でインタビューを受けたそうです。インタビュー後もまた佐野氏はトイレの窓から脱出し、小渕は小渕で政治部記者から空白の時間に誰と会っていたのかと問われて、「人間と会っていた」とごまかしたことが翌日の首相動静に書かれていたことを佐野氏本人が感慨深げに話したのを聞いています。
話は戻りますが以上の様に記者が張り付いていることもあって総理が愛人といちゃつくなんて今の時代では非常に難しいことです。もっとも、愛に殉じた宇野宗佑みたいな総理も至っちゃいましたが、国内で愛人関係を持つことは至難の業だと昨夜私は述べました。
するとそこで、「なら海外は?」という質問が飛んできました。そしてそれに対する私の答えは、「国内より、明らかに緩くなる」というものでした。
海外出張に出かければ政治部記者ももちろんついてくるものの、日本と違ってセキュリティの問題から総理に近づくことは難しく、宿泊先のホテルにおいてもSPががっちり警備に就くため人の出入りすらホテル前でチェックするよりほかなくなります。それこそ「政府関係者」とか「訪問団関係者」などと名乗られてSPに通されれば、ホテル内で自由に愛人といちゃつくこともできるでしょう。
現役の阿部総理については、割とこの人は奥さん一筋な感じがする人なのであまり愛人はいないと思うため週間誌とかに「真夜中のアベノミクス」などという見出しが書かれることはないとは思いますが、それ以外の大臣や国会議員クラスとなると海外出張というのは愛人といちゃつく絶好の機会なのではないかと話をしていて私も思いました。
そこで議論が盛り上がってきて次に出てきたのが、「そういえば、政治家って海外出張好きだよね?」という意見でした。舛添前都知事を筆頭に地方議員なども大した理由もなく政治活動費を使ってしょっちゅう海外出張や視察に出向くことが問題になるケースがこのところ多いですが、これってもしかして愛人遊びが目的なのではとなんか思えてきました。やや下品な言い方ですが「女体大満足」とも揶揄された乙武洋匡氏も出張にかこつけてスタッフとする愛人と遊びまわっていたとされ、彼に限らず出張に出向こうとする人間は多かれ少なかれこの類なのかもしれません。
こうした考えから導き出される答えは一つで、海外出張を頻繁に行う人間に対しては女性関係を洗うのが案外的確かつ効果があるなかなという知見です。まぁそれ言ったら海外駐在員の実態の方がニュース価値あるのかもしれませんけど。
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