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2009年1月16日金曜日

ヘタリアについて

アニメ「ヘタリア」放送中止 「諸般の事情」で(YAHOOニュース)

 リンクに貼ったニュースによると、今度アニメ化が予定されていたネットマンガの「ヘタリア」が韓国側の抗議を受けるような形で放映が中止されたようです。実はこのヘタリアは私もずっと前からネット上で楽しんで読ませてもらっていた作品で、去年に単行本化された際はすぐに買った作品です。ただその単行本は買ったものの、その次の日には古本屋へと持っていかれる運命でした。

 このヘタリアについてはこれまでにも何度かこのブログで記事を書こうかとしていたのですが、いちおうネットマンガだしあんまり書くべきじゃないかと思っていて伸ばし伸ばしにしていたのですがこの際書いちゃうと、あの単行本は出版した編集者はよほど頭の悪い人なのではないかと、はっきり言って神経を疑うようなひどい出来でした。具体的に言うと、ネットでの閲覧時には元ネタとなっている話や内容を理解するために必要な知識解説が一コマ絵で描かれているのですが、単行本ではそれらの解説が一切合財なしで、多分ネットでオリジナルのマンガを読んでいないと理解できない箇所がいくつも見受けられました。その上単行本化されるのだから何かしらおまけがあるだろうと思っていたのですが、確か書き下ろしは表紙絵だけで、中身のマンガの方はすべてネット上で無料で公開しているのと全く同じで、なんて無駄なものにお金を使ってしまったのだと激しく後悔しました。んでもってすぐ売っちゃいました。

 内容については前述の通りに非常に面白く私も気に入って入るのですが、今問題になっているように韓国の描写についてはちょっと私にも意見があります。というのもマンガの中の韓国の設定が日本の2ちゃんねるが持つステレオタイプに書かれているため中国のことを「兄者」と呼ぶなど、中韓の日本なんかと比べ物にならない憎悪関係を知っている私からすると強い違和感があります。大分前にも書きましたが、日中と日韓関係などより、中韓関係はずっとずっと仲が悪くてお互いかなり意識しあって憎み合っています。

 さらにアニメ化についてですが、これはあくまで私個人の意見ですがこの作品はあまりアニメにするには向いていない作品のような気がしてなりません。やっぱりアニメ化が向いている作品とそうじゃない作品というのは分かれており、前者であればドラゴンボールとかでヘタリアはやっぱり後者で、これまでのように単行本化などせずにネットマンガとしてやっていく方が内容的にもあっているんじゃないかと私は思います。
 なので今回アニメ放映中止の報道を受けて、作品的にはある意味よかったんじゃないかとすら思いました。

 今日は日馬富士は負けちゃったか(ノД`)シクシク

センター試験について思うこと

 昔から日本にはカレンダーに書かれていない行事として大学入学試験日というものが毎年あると言われていますが、明日から二日間がまさにこの重要な試験日に当たるセンター試験が行われます。それでこのセンター試験ですが、この前ノーベル賞を取った益川氏や東大名誉教授の宇沢氏を始めとして自由な解答、発想を阻むとして行うべきではないという批判が多いのですが、結論から言うと私は現状の入試制度はそれなりにいいのではないかと考えています。

 まず益川氏など教育関係者がセンター試験を批判している点として第一に、解答がマークシートであることが挙げられます。マークシートでは答えは選択肢の中から選ぶ解答が主になり、言ってしまえば過程がわからなくとも大雑把な予想、言い方を変えれば受験テクニックを駆使することで正しい解答が出てしまうこともあり、更には選択問題の特性上作れる問題の幅も狭まってしまいます。問題の幅が狭まるということは言ってしまえば予想が立てられやすくなることで、こちらも受験テクニックによって正解率が動きやすくなるのを誘発します。

 こうしたマークシート制ゆえの問題に限らずこちらは宇沢氏がよく批判している点ですが、大学ごとの選抜方式に個性がなくなるという弊害もよく指摘されています。なんだかんだいってどの大学にもそれぞれ独自のカラーというものがあり、そのカラーに合った学生が入学するに越したことはありません。たとえば真面目に静かに勉強したがっている学生と侃々諤々に議論を持ちたがっている学生が一緒になるより、それぞれの傾向がある程度出来ているところに入った方が学生にも指導側にもプラスです。ではどうやってその傾向というかカラーに合った学生を選抜するかですが、選抜する試験の傾向で意外に分別できるそうです。

 実際に私の入った大学も試験問題が明らかに他校と傾向が違い、社会科の科目はどの科目も問題が非常に簡単にもかかわらず国語は古典が非常に難しく、また英語の問題に至っては質問自体は簡単なものが多いものの題材とされる英文の長さが一般の受験問題と比べて二倍、三倍くらいに長いという妙な試験でした。そんな妙なのに受かるというだけあり、なんだかんだいって私とその学校は肌が合いましたね。
 また最近あまり話題にしなくなった佐藤優氏は同志社大学神学部の試験を受けた際、当時は残っていた面接試験時に何故神学部を受験したのかと質問されたところ、無神論を研究したいからと、キリスト教を信仰している相手に対してそれを否定する学問を学びたいという恐ろしい返答をしたらしいのですが、面接終了時には試験官より、他校に受かっても是非うちに来るようにと言われたそうです。あの大学は今でもそうですが、基本的にアナーキストとか反逆者を好んで引っ張り込んではそれを量産する傾向があります。いい学校だけど。

 それはともかくとして、こうした学校のカラーに合った試験がなくなってしまうのは問題だと指摘されているのです。こういうと国公立はセンター以外にも二次試験があるではないかと思われますが、どうも教育関係者たちから話を聞いているとやっぱり国公立の試験はセンター試験の配点が大きいために、大概はセンター試験の結果で決まってしまうものらしいです。たとえば東大の二次試験は意外に簡単でみんな揃って点数が取れてしまい、京大の試験は逆に難しすぎてみんな揃って点数が取れないために差が生まれず、結局センター試験で獲得した点数の差で合格者が決まるようなものらしいです。

 こうした批判点は私も確かに問題だと考えており、数学はもとより国語や英語でもやはり記述式の問題でなければ測れない力もあり、またやはり同じテストでばっと測るよりも各大学独自に試験を設けてそれぞれで選抜するやり方の方が学校ごとに個性が生まれてよいと思えます。しかしこうした問題点を推しても、私はやっぱりセンター試験はないよりはあった方がよいと考えています。というのも、地方の受験生の受験環境というものがあるからです。

 私なんかは大学受験時は関東の都市圏で生活していたので特に影響は受けなかったのですが、やはり地方の受験生はというと試験のためにわざわざ東京に泊まりで受けに来たりするなど、交通費や宿泊費が都市部の学生より大変多くかかっていると聞きます。それも試験日がまだ集中していればいいものの、多少日が開いてしまえばその度に上京したり、もしくは長期間に渡って受験地に滞在しなければなりません。それこそ北海道や九州の受験生であれば交通費だけでも数万単位のお金が必要になってきます。
 ですが現状のセンター試験を用いれば、二次試験のある国公立大学はともかくとして私立大学であれば加入校も増えており、狭き門となることがありますがセンター試験での結果を用いて試験とすることが出来ます。地方の受験生からすればそれで受かってしまえば場合によっては十万円くらい無駄な支出を減らすことが出来、幅広く自由にいろんな大学に合格するチャンスが出来ます。この効果を考えると、現状のセンター試験に問題はあっても廃止するべきではないと私は考えます。

 ついでに書くと中国は六月にこのセンター試験に当たる大学入試が行われ、それ一発の成績で入れる大学が全部決まってしまいます。そのためたまたま体調が悪かったりとか事故などで試験に遅れてしまうと、日本みたいに私立大学なんてなくてみんな国立大学なのでその時点でまた来年に強くてニューゲームをしなくてはならなくなります。これ以外にも中国の大学入試はいろいろと問題を抱えており、それらと比べるとセンター試験で落っこっても私立大学が受験生を拾うシステムがある日本はまだマシだと思います。

不思議王国鹿児島の話

鹿児島・阿久根市長:どの市議に辞めてほしい? ブログで不人気投票 議会と対立激化(毎日jp)

 いきなりリンクからですが、これはテレビや新聞で知っている方もいると思われるニュースですが、何でも阿久根市の市長がブログにて「どの市議会議員にやめてもらいたい?」という投票を行ったことから騒動になっているという報道です。
 実を言うとうちのお袋がまさにこの阿久根市出身で、私自身もこの阿久根市に何度も母と一緒に帰省して夏休みを過ごした経験があり、あながち全く無関係でもない場所なので昨日はおふくろと一緒にこのニュースで少し盛り上がりました。なお私が生まれたのはこの近くのタンチョウヅルで有名な出水市です。

 それでこのニュースですがやっぱり記事とか読んでいると「前代未聞」とか、破格の行動というような報道が目立つのですが、私はというと別に鹿児島だったらこういうこともあるんじゃないかと、取り立てて驚いたりすることなくすんなり受け止めました。というのも、これなんかまんま漫画の鋼の錬金術師じゃないですが、「ありえないことなんてありえない」というのが私の中の鹿児島の位置づけだからです。そこで今日は一つ、私がお袋から聞いた鹿児島のありえない話を紹介しようと思います。

 うちのお袋は高校卒業時まで鹿児島で育ったのですが、お袋が高校生の頃、ある日一人の男子生徒が、
「鹿が食いたいなぁ」
 と呟いたそうです。
 するとその男子生徒は友人一人を誘って学校の体育倉庫から金属バットを借りると、野生の鹿がたくさんいる阿久根大島にフェリーで行って、そのなんというか……なんかバットで鹿を殴り殺して鹿肉を本当に食べたそうです。

 私の友達なんかこの話を聞いてもそんなの信じられないと言っていましたが、お袋によるとマジらしいです。ちなみにその鹿を殴り殺して食べた二人はその後片方はヤクザとなって、もう片方は警察官となったそうです。それでヤクザの方が先に死んでしまったようなのですが、身元引受人がいないもんだから警察官となっていた方に引き取ってもらいたいと連絡があったそうですが、さすがに警察官が友人とはいえヤクザの死体は引き取れないと断り、最終的には親族が死体を引き取ったのですが、最後まで面白い二人です。

 これ以外にも村長選挙の際は島中が真っ二つに分かれ、支持者同士で本気で殴り合いになる戦争のような選挙戦が繰り広げられる離島とか、「だるまさんがころんだ」とは言わずに「いんどじんのくろんぼう」という妙な遊び文化があったりと、いろいろと鹿児島は変なところだと私は思っています。ただこれは大相撲の元力士寺尾(今の錣山親方)が東京出身にもかかわらず父親が鹿児島出身なので自らも鹿児島出身だと言い張るのと同じくらい、生まれただけで育ちはずっと関東の私も鹿児島に対して強いアイデンティティを持っています。
 もっとも、現地の言葉は私にも全然わかりません。なんでも二次対戦中にベルリンが陥落した際、日本大使館ではその事実を本国に電信使用としても暗号機が壊れてしまい、やむを得ず鹿児島出身の者に鹿児島弁で電信を送り本国の鹿児島出身の者に翻訳させたらしいですが、電信を傍受した米英はやっぱり解読出来なかったそうです。

2009年1月15日木曜日

ノンマルトの使者

 年末にマンガ「ケロロ軍曹」の単行本をまとめ買いして読んでいると、ある話の中で「ノントルマ」という単語が出てきました。この単語を見て私は相変わらずいいところ選ぶと、改めて作者の吉崎観音氏を見直しました。別にこの例に限るわけでなくこのマンガは他のマンガやアニメのパロディがふんだんに使われている作品なのですが、このノントルマの引用に関しては読んでる私も思わずうなりました。

 結論から言うとこのノントルマというのは恐らく、ってか間違いなくウルトラセブンの「ノンマルトの使者」という話が題材でしょう。私自身はこの「ノンマルトの使者」の回、というよりもウルトラセブンを見たことがないのですが、ちょうど二年位前に国際政治関連の授業にて突然講師がこの話を紹介し始めたので知ってたので、この話のあらましを今日はちょっと簡単に私も紹介します。

 まず前置きとして、ウルトラセブンは他のウルトラマンシリーズと比べて話が非常に大人向けに作られていると言われています。他のウルトラマンシリーズは勧善懲悪的なストーリーで一貫しているのですが、ウルトラマンセブンだけはアニメのガンダムシリーズのように、善と悪の概念が曖昧なまま話が進むそうです。
 それで件の「ノンマルトの使者」ですが、何でも話は海の上で軍艦が次々と落とされる事件が起こり早速ウルトラ警備隊が調査に向かうと、海辺である少年が主人公のモロボシ・ダンことウルトラセブンらに対し、
「海底はノンマルトのものだ。人間は来るな」
 といった内容の言葉を言って謎の警告をして立ち去っていきます。

 その少年が立ち去った後、ウルトラセブンは突然、自分がM78星雲にいた頃、地球のことをノンマルトと呼んでいた事を思い出します。そして再びその少年が現れると、その少年は自分たちノンマルトは人間が現れる以前から地球にいたのに人間が現れ海底にまで住処を追われたと話し、その海にまで人間は侵略しようとすると非難して再び立ち去ります。
 その後、お決まりのように海から怪獣が出てきてセブンやウルトラ警備隊によって退治した挙句、海底にあった怪獣の住処も完全に破壊します。すべて終わってひと段落かと思うと再びセブンの前に先ほどの少年が現れ、
「地球はノンマルトの星なんだ、人間こそ侵略者なのだ」
 と言って、姿を消します。

 この少年の言葉を受け元々地球をノンマルトと呼んでいたセブンは、自分は宇宙の侵略者たちから地球の人間を守るためにやってきて戦っているが、この地球の元々の居住者は自らをノンマルトと呼ぶあの怪獣たちで、もしかしたら自分は侵略者の人間を助けているのではないかと悩みながら話が終わります。

 この回の話を突然授業中に引用したその講師は最後に、この回の脚本を作ったのは沖縄出身の人だと話し、元々国家という概念は民族や文化、宗教などで構成されていると思われがちだがそれらは限りなく根拠のない建前のようなもので、実態は言わば最も強い支配層が力の弱い層に対して服従を強要して成り立っていることが多いと説明し、明治維新後に半ば強制的に日本という国に組み入れられたばかりか二次大戦では戦場とされるなど悉く犠牲にされてきた沖縄の歴史と本土の日本人の意識の差を、その脚本家こと金城哲夫氏は「ノンマルトの使者」に込めたのではないかと話しました。

 あとこれは私と友人が話をしている時に出た話ですが、仮に沖縄の人たちが日本からの独立を望むというのなら私はそれを止めることが出来ないと話し、この時の意識は「ノンマルトの使者」の話を聞いてなおいっそう強まりました。

 あ、今日は日馬富士が勝ったんだ(n‘∀‘)η

2009年1月14日水曜日

今場所の前半戦について

 さて一月と来たら私の中では相撲の初場所しか来ません。特に今場所は朝青龍の進退がかかっており、今週初めからスポーツ新聞では連日の一面に相撲記事を持ってくるほど世間でも注目が高まっています。ただ肝心の朝青龍が今日を含めて四連勝したことからちょっと話題に欠けはじめ、ここらで一敗してくれればまた物凄い盛り上がりが期待できます。

 私は相撲を2005年からよく見るようになりましたが、その頃から一番好きな力士は安馬こと今の日馬富士です。その日馬富士ですが大関昇任後初めての場所となる今場所でなんと四連敗と、非常に波に乗れずにいます。確かにこれまでも日馬富士は下位の力士に負けることが多くて逆に上位陣には毎回勝つという弱きを助けて強気をくじく取り組みが多かったのですが、それにしても今場所は見ていて明らかに動きが悪いです。特にこれまでの持ち味だった下半身の粘りが消え引き落とされると簡単に倒れてしまうという、なんと言うか日馬富士らしくない取り組みが見られます。
 こうなった原因として昔は体重が少なく(当時は幕内最軽量)それこそ土俵上で相手の攻撃をかわしながらまわしを取るというスタイルだったのが、ここ数場所は体重がすっかり増えて逆に突進力で相手を圧倒する取り組みが増え、その分自慢の足腰が弱っていったのが原因ではないかと思います。なんにしても、早くスランプを脱出してもらいたいものです。

 同じ大関だと琴光喜もすでに三敗と波に乗れていません。まぁこの人は八勝七敗で終えることが非常に多い力士なのでほっといても挽回するでしょうが、なにげに陰に隠れて弟弟子の琴欧州が四連勝と調子がいいです。普通この人は取りこぼしが多い人なのですが今回はそれが見られず、宿敵キセの里相手に万全の相撲で勝っているなど今場所のダークホースとなるかもしれません。

 それで優勝候補はといったら、それはやっぱり横綱白鵬となります。どの取り組みを見ても隙がなく、日馬富士とは対照的に現力士中最強の防御力とも言えるほどの強靭な足腰で危ういところを一切見せません。対する今場所の主役の朝青龍は四連勝こそしているものの、かつての目にも止まらぬ素早さはすっかり影を潜め、往年と比べると明らかにパワーダウンしているのは否めません。今日の取り組みでも雅山の突進を受けきれずに横にさばいて勝利を得ましたが、昔の朝青龍であれば軽く突進を抑えられたことでしょう。

 今のところ朝青龍が対戦しているのは実力ある力士ばかりですが、どうもこれまでの相手は朝青龍以外にもよく負けて今場所の調子の悪い力士ばかりです。なのでこれから上位陣と当たることを考えたら、やっぱりそううまくはいかないんじゃないかと思います。
 個人的には、バルトあたりでつまづくんじゃないかなという気がします。

失われた十年~その十九、心理学ブーム~

 前回の終末思想についての記事で私がこの連載の後半でもって行きたい話の筋道をあらかた書きましたが、今回はこの失われた十年の間で流行った妙なものの中から一つ、心理学のブームについて解説します。

 まずこの心理学が一躍社会に注目されるようになったきっかけは前回にも書いたように、映画「羊たちの沈黙」による影響が大きいです。この映画は原作となったストーリーの面白味に加えハンニバル・レクター役を演じたアンソニー・ホプキンスの名演技が光り大ヒットしましたが、映画を見たことがわかる人なら言わずもがなですがこの映画の主役とも言うべきハンニバルの職業は犯罪心理学博士で、映画中にも使われている犯行時の状況から犯人像を絞るという捜査手法の「プロファイリング」が映画同様に大ブレイクしました。

 特にこの心理学ブームが最も顕著に現れたのは大学における心理学部、学科の偏差値の向上においてです。今日調べてみたらどうも以前ほどではなくなってはいますが、それこそ95年くらいの大学入試において心理学関係の入試は他の文系学部より頭一つ抜ける高さで、有名私立大学の心理学部などはそれこそ狭き門となっていきました。この傾向はしばらく続き、私が大学入試をした年も依然として高いままで周りにも心理学を勉強したいというブームに流された友人が数多くいました。
 ちなみに私の知っているある大学は、付属高校の学生を心理学科にどんどんと入れることによって外部生の倍率が高まるために偏差値が高いだけで、教師も認めていましたがそこの学科の学生はあまり勉強のできる奴はいないと言っていました。

 こうした大学の倍率とともに、すでに完璧に死語と化していますが前述の「プロファイリング」も大いに当時は流行りました。そのためか一時はブームに乗っかってテレビではこのプロファイリング特集がよく組まれたり、ジャンプでもこれを主題にしたマンガを連載させてはこけて、97年に起こる酒鬼薔薇事件ではワイドショーなどが自称プロファイリング捜査官を出演させては何の根拠もない実際の犯人とは大きく異なる予想が立てられたりしていました。
 さらにこれも前回の記事でも言いましたが、恐らくこういった背景があったことからミステリーやオカルト分野への社会の関心が高まり、「金田一少年の事件簿」といった推理マンガこの時代に数多くヒットしたのではないかと見ています。「名探偵コナン」はずっとヒットし続けているけど、我が心のふるさと鳥取県出身の漫画家と来たら私の中では未だ水木しげるしかいません。

 それでこの心理学のブームですが、きっかけこそ先ほどの「羊たちの沈黙」でしょうが、ブームが持続したのはこの心理学が利用しやすかったことが原因だと私は考えています。というのも、これなんか私の専門の社会学でもそういう一面もあるのですが、どんな滅茶苦茶な理論でも精神的障害(トラウマ)と統計操作を行うことで、パオロ・マッツァリーノ氏の言う通りに心理学と社会学は思いのままに立証できてしまうからです。

 先に言っておきますが、真剣に研究している心理学者の方々たちには非常に申し訳ありませんが、私はこの心理学を全学問分野の中で蛇蝎の如く一番嫌っています。もちろん真面目に研究している方たちには非常に尊敬もしていて臨床心理学など研究的価値のある分野だと考えていますが、それを推しても現状では以前ほどではないにしろ心理学を錦の御旗に明らかに実証性のないとんでもない理論を振りかざしては流行らす輩が多いため、私はこの心理学に対して常日頃から批判的な立場にあります。

 それこそ心理学がブームだった90年代後半はなんにでも理由付けや根拠に心理学が利用されて、「心理学的には~」とか「トラウマによる影響で」といってはエセ科学や偽情報が片っ端から作られていきました。よくあったのは「こうすることによって心理学的には相手に対してこのような感情を持たせる」というフレーズで、今も数多い恋愛交渉術のやり方が紹介するなどの万能振りを見せ、更にはよくある質問本で、「Aと回答する人はこんな性格」といったようなものまで出てきて、もはや心理学と言えば誰でもなんでも信じ込んだ時代でありました。

 こういう具合にメディアから商業主義にまでなんにでも利用され続けたため、この心理学は失われた十年の間に一貫としてブームを保ち続けたのでしょう。しかし冷静に今見渡してみると、大分この時と比べて心理学の威力というものは弱まった気がします。ちなみに私が一番好きな心理学の話は、前に私も書いた「パブロフの犬の逆説」です。

2009年1月13日火曜日

どうすれば出版界を救えるのか

 以前に私は「出版不況について思うこと」の記事の中で、質が下がる一方で値段は上がっていくという出版業界の経営努力の足らなさを主張しましたが、じゃあ一体どうすれば出版界を救えるのかという具体的な話を今日はしてみようと思います。

 単純な話、やっぱり質を上げていくほかないと私は思っています。情報が氾濫している上にネットが発達して本が売りづらくなっているというのはよくわかるのですが、それでもベストセラーとなる本はやっぱり私も読んでいて面白い本が多く、「国家の品格」とか「鈍感力」は新品で買っても全然損したとは思いませんでした。やっぱりそういう風に考えると、いい本はなんだかんだ言って売れるので出版社側もいい本を出す努力をやるべきだと思います。

 とはいえ、そんな具合でいい本が片っ端から作れて行けば苦労はないわけで、それ以外の方法をいくつか検討してみたいと思います。
 まずこれは以前に立花隆氏が言っていたことですが、この際本の値段を今の三倍くらいに引き上げて、本の所有それ自体が教養を持っていることを強く示す高級(ブランド)品のようなものにしてはどうかと提言していました。もちろん広く知識を共有するためにこの方法は立花氏もあまりいいものではないとしながらも、出版界が生き残るための一つの手段として挙げていました。

 そうした立花氏の意見に対し、私が考える手段というのは情報の制限、独占というやり方です。
 実は出版不況の中でゲームの攻略本というのは確実に利益の出せる非常においしいジャンルとして今もあり続けているそうです。普通に考えるのならばゲームの攻略情報こそネットで氾濫していて本として売る必要があるのか疑問符がつきそうなものですが、実態はと言うと「パワプロ」や「スパロボ」の攻略本に至っては複数社から販売されながらもきっかり利益を出すほどで、現実にどこの本屋でもこの攻略本コーナーというのは大きな一角を占めていることが多いです。

 それで何故攻略本が売れるかですが、この理由は恐らく情報の制限が行われているからだと私は考えています。昔はともかく今のゲームの攻略本には設定資料やオリジナルイラスト、製作者からの裏情報などただゲームをプレイしているだけでは手に入らない情報が盛り込まれていることが多く、実際に購入する側もそうした情報を目当てに買っていることが多いように見えます。特にシナリオが難解な、私が昔やってた「バロック」とか今やってる「サイレン」なんてそうした攻略本のシナリオ解説がないととてもじゃないけど消化不良でシナリオが理解できずに終わってしまう可能性が高いです。

 この攻略本のように、流通する情報を制限する、もとい「その本を買わなければその情報が絶対に得られない」という状況を意図的に作り出すことが、出版不況を脱す一つの手段ではないかと私は考えます。それこそ一番エグいやり方を使ってもいいのなら本に載せている情報をネット上なり他の雑誌なりで公開された場合、片っ端から訴訟を起こすのもこの手段の一つです。そのほかある分野の情報に対して徹底的に競合他社を排除して、談合なりで一部の本や雑誌でしか公開できないようにするのもありかもしれません。

 ここまで自分で書いてて暴論だとは思いますが、この情報の制限についてはこのところよく考えてしまいます。私自身このブログで書いてて、果たしてこれだけ加工した情報をただで公開していいものなのかとか、逆にマイナーな情報をネットで見かけた時、こんな情報をただで得ていいものかと思ってしまいます。
 ある本の作者が、現代人は情報に対してお金を払って得るという意識がほとんどなくなってしまっていると言っていましたが、これはこれで私も問題な気もします。特にこれは若い世代に強く言いたいのですが、やっぱりいい情報を得ようと思うのならそれだけお金をかけねばいけません。お金をかければ必ずいい情報が得られると言うわけではありませんが、現代人はもうすこし個々の情報に対して価値を持つべきではないかと強く感じます。