・莫宣卿(百度百科)
なんか日本語で「科挙 最年少合格者」と検索してもこの人の名前が日本語ページからは一切見つけられないので、自分が紹介することにします。この人がどういう人かというと、中国の科挙を史上最年少で合格した人で、しかも状元こと首席合格者だったりします。
莫宣卿(日本語だったら「もせんげい」?)は唐末期の834年、日本だったら平安時代初期に広東省で生まれた人物です。父親はまじめな農民だったらしいですが莫宣卿が生まれる前に亡くなっており、いきなりシンママとなった母親は生活のため別の男性と再婚します。
再婚相手の継父は比較的裕福な家の人物で、莫宣卿にも邪険にすることなく接していたようです。こうした家庭で育った莫宣卿ですが7歳にして早くも詩を詠み始め、その非凡さが早くから周囲に知られるようになります。継父も連れ子の底知れぬ才能に期待をかけ学問の師匠をつけて教育を施したところ、その期待に応え莫宣卿は12歳で科挙の地方試験に合格してのけました。 その後、莫宣卿が17歳となるこの年に、科挙の本試験が行われました。
ここで補足しておくと科挙の本試験は毎年実施されるわけではなく、天下一武闘会のように3年に1回しか行われず、このサイクルは最後の清代まで続きました。交通の発達していなかった時代ゆえに当時は本試験を受けるため首都(唐の時代なら長安)まで行くのも大変ですし、手紙などの通信をするのも一苦労でした。そうした地理的要因と3年に一度というペースから、本試験に落ちた学生は落第したことを隠すためその後も首都に残ってバイトしつつ、3年後の試験まで浪人生活を続ける人も多かったそうです。もっとも浪人生活が3年で済めばまだいい方で、そのまま死ぬまで受験し続けたという人も珍しくはありませんでした。
話を戻すと17歳で科挙本試験に打って出た莫宣卿ですが、なんと一発合格、しかも冒頭で述べたように首席となる状元で通過してのけました。当時としてもこの年齢での合格は異例中の異例であり、しかも状元となったことから宮廷でも有望な人材が入ってきたと大いに期待されたそうです。その期待に応えるように莫宣卿は順調に勤務を続けましたが、34歳となった868年に故郷の母に尽くすため、郷里に近い南方での勤務を願い出ます。
この転勤願いは問題なく受理されて早速任地に向け出発したのですが、その道中で莫宣卿は病気にかかり、そのまま亡くなってしまいました。その故郷では伝説的な人物とあって今も記念する碑文とかが残されているそうです。
彼の一生を見て感じたこととしては、紛れもない天才であり天才らしい早世の仕方だと思いました。もしかすると34歳で郷里に帰るため地方勤務を願い出たのも、体調の悪化など自分の死期をすでに悟っていたからかもしれません。
実際はどうなのかはわかりませんが、自分が中国のネットで見る限り科挙の史上最年少合格者は彼だとされています。実際、十代での合格者は自分も彼以外知らないし、16歳以下となるともはや受験資格的にも引っかかるような年齢である気がします。さらに状元という条件も含めるなら、間違いなく莫宣卿が最年少であるように思え、多分日本だったら合格祈願の神社が建てられているでしょう。
なお日本では科挙のような採用試験は明治に至るまでとうとう実施されなかったものの、江戸時代の寛政の改革の時に学問吟味という旗本の知能試験が実施され、この試験の優秀成績者は出世の糸口をつかむことはありました。主な優秀成績者はリンク先にありますが、意外な人物としては遠山の金さんの父親である遠山景晋が首席として表彰されて遠山家の出世基盤を築いています。
明治以降となると日本の学問エリートというと年齢を偽って東大最年少合格となった森鴎外、そして昭和の陸軍統制派を率いた永田鉄山(英語試験の前に中国語の本を読んでたが成績はトップ)が代表格と思いますが、平成以降でこれはという学問エリートが見られないというか目立たなくなったように思え、医師と弁護士両方の資格を取った米山隆一氏がまだそういうカテゴリかなと思うものの、この人見てると賢さと社会への貢献程度は一致しないと思えてきてしまうのがまた不思議です。
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