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2009年9月26日土曜日

八ッ場ダム建設問題に対する私の意見 その一

 昨日は金曜に加えて給料日ということもあって、このブログも休んでわざわざお金を下ろしに行きました。別に昨日に焦ってやる必要はなかったのですが、給料日ぎりぎりに財布の中身がからになるよう仕組んでいたら本当にそうなったので、なるべく早く補給した方がいいだろうと判断したわけです。それにしてもこのごろは程ほどに涼しいので、夜のサイクリングが非常に気持ちがいいです。
 それでは本題に入りますが、今日はちょっと力の入った記事として現在もニュースをよくにぎわせている、八ッ場ダムの建設問題について私の意見を紹介いたします。結論から先に申し上げると、私はこの八ッ場ダムについては建設に反対です。

八ッ場ダム(ウィキペディア)
八ッ場ダム工事事務所(国土交通省)

 この八ッ場ダムの問題は前原国土交通相が中止発言を行って以降、どうも問題の全体像が私にはなかなかつかめずにいました。来る日も来る日もテレビで放映されるのはマニフェスト通りに中止を実行しようとする与党民主党に対し、水源確保を何だと思っていると主張する石原都知事と関係各県知事、そしてここまで来て何故途中でやめるのだという賛成派現地住民ばかりで、具体的にこのダムの何が問題なのか、また賛成派、反対派はそれぞれどういった意見を持っているのかといった整理された報道がなかなか見当たらず、今回この記事を書くにあたっていろいろ苦労しました。

 そんな中でいろいろと私なりに調べてみたわけですが、まず第一に目に付いたのがこのダムの建設計画が出来た時期とその目的です。
 なんとこのダムの構想が出来たのはまだ日本がアメリカの統治下であった1949年で、具体的な建設計画は1952年に出来たそうです。何故そんな大昔に計画されながら未だに実現に至っていないかというと、元々観光保養地として有名であった建設地における住民の反対運動が根強く、「東の八ッ場、西の大滝」と謳われるまでに地元との合意が出来ず、長らく建設がストップしていたからです。

 ではそれほどまでに長い間地元に反対され続けながらも建設計画が潰されなかった建設目的は何かというと、一つは首都圏における水源の確保と、もう一つはこちらは私が非常に疑問に感じた治水のためです。
 首都圏における水源の確保については先にリンクを張った国土交通省のホームページに詳しいですが、東京を含めた関東一円に対する水源として、利根川水系の一端を担う役割としてこの八ッ場ダムは期待されているわけですが、まぁ見てもらえば分かるとおりにこれは明らかな国土交通省のブラフでしょう。

 国土交通省は夏季に少雨となれば首都圏で水が不足する事態があるなどとこのホームページで主張しているわけですが、何故か引用している降雨量のデータは連続した直近年のデータではなく、また今後降水量が減少する傾向などについては何の言及もありません。この点は首都圏に在住している方なら分かるでしょうが、近年の首都圏ではいわゆるゲリラ豪雨と呼ばれる集中的降雨の発生増加など、むしろ降水量は増加している傾向にあります。何気にこれは地球規模の環境問題ともリンクするのですが、現在世界中で降雨の起こる地域が二極化しており、日本は全体としては以前より降雨量が増えるとされております。
 また住人の水の使用量増加についても高度経済成長期なら多少はその言い分も分かるのですが、現在も東京に人口が集中して増加しているのは確かなもののその増加量は以前と比べて大分緩やかになりつつあり、なおかつ今後は少子化によって人口減少も視野に入ってきているのでそこまでして新たな水源を確保する理由があるとは私は思いません。

 そして今回私が非常に疑問に感じた二番目の治水目的についてですが、これについてはテレビなどでも情報を入手していた通りで、なんと八ッ場ダムが目標とする治水レベルというのは1947年に発生して大規模な被害を残した、カスリーン台風だと国土交通省も主張しております。
 このカスリーン台風についてはリンクを貼ったウィキペディアの記事を読んでもらえば分かりますが、確かにその災害規模は文字通り前代未聞ではありますが、このレベルまでの対策を行うとなると私は疑問です。というのも国土交通省はこのカスリーン台風を「100年に三回起こる可能性のある災害」としておりますが、それだったら1947年から60年以上経つ現在においてあと二回くらい同じのがあってもいい気がしますがそれは置いといて、それくらいなまでに頻度が少ない超規模災害に備える必要があるのかということです。

 私は本来、自然災害というものは防ぎようのないもので、対策すべてを否定するつもりはありませんが災害被害をすべてなくすことは不可能だと考えております。ましてやこのカスリーン台風級ともなると100年に三回程度発生する可能性で、いくら規模が大きいからといってそんな低い可能性の災害まで高い費用をかけて対策を行う必要があるのかと疑問に思います。それであれば必要最低限な対策を施した上で、今後そのような大規模災害が起こりうる予測が立った時に住人を素早く避難、保護できる態勢を整えることの方がずっと建設的で、費用的にもずっと安上がりなのではないかと思います。

 こうして私なりに建設目的やその成り立ちを整理すると、やはりこの八ッ場ダムを差し迫って建設する必要はないのではないかと感じます。こうした点に加え、予算面とダム建設による弊害についても考えると、あくまで素人の立場ではありますがやはり建設には反対せざるを得ません。すこし長くなったので、予算とダム建設による弊害は次回の「八ッ場ダム建設問題に対する私の意見 その二」の記事に回します。

2009年9月24日木曜日

鳩山首相の訪米報道の違い

 ちょっと準備しているネタがあるので、今日もまた手軽な記事でまとめておきます。

 現在も訪米中の鳩山首相ですが、先日のオバマ大統領との日米首脳会談について各紙それぞれ記事を書いているのですが、どうも読んでいて産経だけ妙に浮いた記事を書いているように感じました。そういうわけで各紙の特徴と産経の主張を比較しながら紹介いたします。

 まずどの新聞にも共通している報道内容として、鳩山首相とオバマ大統領は北朝鮮の核問題、核軍縮、環境問題について一致した見解を示し互いに日米同盟の強化に取り組むことを表明したものの、現在日米間で懸案となっている沖縄のグアムへの基地移転問題などについてはほとんど言及がなかったと、まるで判を押したかのように前段は同じような文章の組み立てで報じられています。恐らく共同通信の記事をみんなちょこっといじったんだろうな。

 こうした各紙共通した前段の記事内容の上で朝日新聞は後段にどんなことを書いたかといえば、やはりお家柄というべきか核軍縮についての記述が多いような気がします。一応これ以外にもアフガニスタンの復興支援などについても言及がなされており、優等生らしくオーソドックスな報道内容に見えます。
 なお朝日はこの記事以外にもこの会談を聞いた被爆者の方のメッセージを載せた記事も書いており、この辺の扱いは他紙を圧倒して多い気がします。

 それに対して読売新聞は、朝日新聞以上にシンプルで会談の骨子をさらりと流して書いております。もっとも読売に限らず日本国内でもあまりこの日米首脳会談は盛り上がっておらず、むしろ前日の日中首脳会談のほうが扱いが大きかったことを考えるとこの読売の扱いも多少はしょうがない気もします。

 では毎日はどんな風かというと、こういうと元も子もありませんが読売と同じくシンプルに報じています。オリジナルティーがある場所はといえばせいぜい、「この会談には岡田克也外相、クリントン国務長官が同席した。」と書いてあるくらいです。あと不思議なことにほとんど読売と同じ内容なのですが、こころなしか毎日の記事は読んでてつまらなく感じます。今に始まったことじゃないけど。

 そして今回私がちょっと不審に感じた産経の記事が、これです。

気まずさ漂う日米首脳会談、鳩山首相は「基地」「対等」一切触れず

 題を見て分かるとおり、他紙が割りと事務的な報道をしているのに対して産経のみが今回の会談をやや否定的に報じております。具体的な内容はリンクを貼った記事を読んでもらえれば分かるのですが、やはり基地移転問題などについて言及がなかったことを問題視し、「忍耐のオバマ政権がいつ態度を硬化させるかはわからない」とまで書く力の入れ込みようです。オバマ政権が忍耐を持っているなんて初めて知ったけど。

 これだけだったら私もあまり気にしなかったのですが、この日米首脳会談の報道とともに出てきたのがこの今日の産経抄です。この産経の社説は読んでもらえれば分かるとおりに、鳩山首相の外交デビューについて、「そんなに甘くないぞ」と言った論調で書かれています。槍玉に挙げられているのはあの「CO2を25%削減目標」で、国内の公約みたいにやれなかったで済まないぞと主張しているのですが、私はというとどうせ他の国、特に欧州諸国もCO2の削減にそれほど熱心じゃないんだから、実際にできなくとも表向きは「やってみようかな」という態度を示しただけでよかったんじゃないかと、それほど問題視しておりません。お金さえ無駄にばら撒かなければね。

 それにしても先の記事と比較しても、産経は鳩山政権がそんなに気に入らないのかとばかりに何か否定的な記事ばかり書いているような気がします。これに限らずロシア外交の記事でもやっかみに近い内容を書いているし、外交を行うにしては政権が出来たばかりで不安だなどと書いていますが、私からすると麻生前首相の外交の方が見ていてずっと危なっかしく思えてなりませんでした。
 少なくとも今回の訪米で鳩山政権は日米同盟に否定的という見方は現地米国で多少は払拭できたので、その点だけはまだ評価してもいいと思います。もっとも東シナ海のガス田問題は桜井よしこ氏の言う通りに中国のペースに乗るのは非常に危険なので、安易に妥協すべきではないというのは私も見ていて思いましたが。

 最後にロシア外交について、なんでもロシア本国においてプーチン首相とメドベージェフ大統領の間に隙間風が漂い、二頭政治に変化が起き始めているという噂を聞きます。今回鳩山首相はメドベージェフ大統領と会談を行いましたが、先の事実の真偽をしっかりと確かめた上で交渉相手をしっかりと選ぶことがこれからロシアとの間では重要になってくるかもしれません。

2009年9月23日水曜日

猛将列伝~趙匡胤

 中国史と来ると日本人は「史記」、「三国志」の二大史書の影響からか、春秋戦国時代から後漢末期まではよく知っている方がおられるものの、その後の晋朝から五胡十六国時代以降となると途端に認知度が低くなってしまいます。ただこの時代以後の中国史を扱っている歴史書はないわけではなく、ポピュラーなものとして「十八史略」という中国史入門者用の歴史書があります。

 この十八史略はその名の通りにそれ以前に成立した史記や三国志を含む十八の歴史書を簡単にまとめた本で、十二世紀までの中国史を一通り扱っている史書です。私が読んだのは陳瞬臣氏の「小説十八史略」という、陳氏のオリジナルな記述が多くて本編とはやや異なる内容の本なのですが、それでもこの本を読んだことによって三国時代にとどまらず幅広く中国史を学ぶいいきっかけとなりました。

 そんな小説十八史略の中で私が一際目を引かれた人物というのが、本日ご紹介する趙匡胤です。この人物は十世紀に成立した宋朝の初代皇帝で、通称は「太祖」とされています。この趙匡胤は宋朝の前の後周朝の将軍だったのですが、英邁な君主であった世宗の死後、跡を継ぐ恭帝がわずか七歳で即位したことに不安を感じた軍人らに勝手に祭り上げられる形で、趙匡胤本人は渋々と皇帝に即位したと言われております。もっともこの即位劇には裏があり、実際にはかねてから趙匡胤が即位するよう軍内部で打ち合わせられて行ったとも言われており、恐らくはこちらの説の方が正しいと私も考えております。

 ただこの趙匡胤がほかの皇位簒奪者と大きく違っていたのは、皇位を奪った恭帝を殺さず、その後彼ら元皇族の一族を手厚く保護した点にあります。三国志における献帝よろしく、皇位を奪われた皇帝とその一族の末路は惨めな例が多いのですが、趙匡胤はそういった例を踏まなかったためにこの点において後世の歴史家からも高く評価されております。
 またこれ以外にも、元々軍属出身であったにもかかわらず趙匡胤は皇帝に即位するや、その後一貫して軍部勢力を解体していき、現代的に言うならシビリアンコントロール、当時の言葉で言うなら官僚による文民統制を国の形として整えていきました。実際にその後、それまで軍閥同士が激しく争った戦乱極まりない五大十国時代の騒乱は徐々に収まり、科挙を経て任官された官僚らが大いに活躍する安定した時代へと移って行きました。

 もっともこの文治主義はなんでもかんでもいい結果を生んだわけではなく、軍隊が弱体化したために宋朝はその後異民族の侵入に始終悩まされ、最終的には後の満州族である女真族によって華北地域を追われることで崩壊するに至りました。とはいえ国内の騒乱を終えただけでなく、現在でも宋朝時代の絵画、書画が最も評価されるまでに安定した時代の礎を築いたことは誰もが高く評価しております。

 そんな趙匡胤ですが、彼の政治姿勢とともに優れた見識があったと思わせられるあるエピソードが十八史略に載せられております。
 宋朝の皇帝は即位する際、皇帝となる者以外は決して見てはならない、創業者である趙匡胤が残した宮中にある碑文を読むことが慣わしでした。この碑文は宋朝の時代にはその存在自体が秘匿されていたそうですが、先ほど述べた女真族が華北に侵入して征服した際に宮殿に入ったことでその存在が明るみになりました。その碑文には一体何が書かれていたかというと、大まかな意味でこんなことが書かれていたそうです。

「発言の門で、官僚を処刑してはならない」

 あくまで士大夫である官僚に限りますが、これは言うなれば言論の自由を冒すなという意味です。実際に宋朝においては官僚らがそれぞれの持論を好き勝手に言いたい放題しており、新法旧法闘争において従来の法律を抜本的に改めるべきだと主張した王安石も一時左遷こそされども処刑されるまでには至らず、その後中央官界に復帰まで果たしております。

 この言論の自由というのは案外言うは易く、守るは難い代物で、近い時代の日本においても「核保有論」や「憲法改正論」はそれを実行するかどうかは別においても、議論することすら全く許されていませんでした。最近ではこうした点も議論した上で非核を世界に訴えるべきだと大分タブー性は薄まってきましたが、それでもまだ「天皇制廃止論」ともなると口火を切るだけでいろいろと厄介なことになるのは目に見えます。
 それだけに宋朝において言論の自由を守れと遺訓を残した趙匡胤の先見性は鋭く、世界史にちょこっと名前が出てくるだけにしておくにはもったいないと私に思うわけです。

2009年9月22日火曜日

最近のニュース番組の編成について

 最近私がよく思うことで、通常のニュース番組とワイドショーの境界が段々と見えなくなってきたように思います。ワイドショーというのは言うまでもなく昼間の時間帯に放送される主婦向けのニュース番組で、取り上げられる内容は芸能人のゴシップや美味しいもの、旅行特集ばかりで、世の中に何かを訴えるという報道姿勢というよりは視聴者の求める内容に沿って報道されます。
 もちろんそういう内容ですので、「ワイドショー的な~」と言えば言葉の向けられる先に負の意味がこめられており、対象を馬鹿にするような言い方となります。

 ではそういったワイドショーと対極の位置にある報道番組というのは、一体どんな番組なのでしょうか。
 まず一番硬派であるといえばそれはやっぱりNHKニュースでしょう。女子アナはほとんど出てこずに正面のアナウンサーが一人で番組を淡々と進行する様はシンプルそのもので、そうした変わらない姿勢が受けているのか週間平均視聴率ランキングでは七時台のNHKニュースがほぼ毎週トップを取っております。

 そんなNHKニュースに対抗する民放の、主に六時台のニュースは現在どんなものかというと、こう言っては何ですがこのところはワイドショーと呼ばれる報道番組と変わらないのではと思います。こんな風に私が思うようになったきっかけというのは、察しの良い方ならすぐに想像されるかもしれませんが、酒井法子容疑者の事件からです。

 この酒井法子容疑者の事件は現在進行形で何かしら動きがあるたびにどの局でもトップニュースとして取り扱われ、その報道、解説にも大幅な時間が割かれております。確かにこの事件は視聴者の気を引くニュースであることは私も認めますが、同時期のニュースの価値で言うなら自民党総裁選の行方や、失業問題などといったニュースの方が報道する価値が高いように私は思います。
 そして何より、これは地方局については必ずしもそうではないのですが、このところの東京にあるキー局は何かしら長い取材を経て得た事実の報道で世の中をあっと言わせ、世論に大きな波を作ることがほとんどありません。

 このようなニュースとして近年で私が高く評価しているのは、関西にある毎日放送が大阪市職員の出勤時間を長期間取材して「中抜け」や「実体のない残業代」を暴いた例で、その後全国各地の自治体の裏金や違法な労働実態が次々と取り上げられるきっかけとなりました。
 しかるに近年の東京キー局のニュース番組においては、六時二十分を越えた辺りからはワイドショーと比べても何の遜色もない芸能人のゴシップや美味しいもの、旅行特集ばかりが放送され、言ってしまえば情報を何も加工せず右から左に流すような報道ばかりしかありません。

 このような傾向は各局が持っている「報道ステーション」や「ニュースZERO」などの夜間帯のニュースについても同様で、私の結論を言えばもはや民放においては「ニュース番組」と「ワイドショー」の違いはないと考えております。むしろ最近はワイドショーに評論家が多く参加して社会問題などについてもよく議論するので、ニュース番組よりも内容があったりすることもありますが。

 私はもう過去の話だとして今更気にしてはいませんが、戦時中に朝日新聞などを初めとしたすべての民間報道機関が日本軍の戦績を過大に誇張して報道し、誰もあの戦争の是非や行く末を問わなかったことが非常に良くなかったとよく言われております。しかし当時の記録によると、満州事変直後に朝日新聞が反戦記事を書いたところ、三重県のシェアがそれまでの50%くらいから3%に激減したのを受けて急激に朝日は方向転換をしたと言われており、言わば当時の報道機関は読者の要求に応える形で好戦的な報道姿勢に変わって行ったそうです。

 本来ジャーナリズムというのは、たとえそれが読者や視聴者が求める情報だとしても価値のないもの、誤ったものは報道せず、逆にそれが読者や視聴者が求めていない情報だとしても価値のあるもの、正しいものを報道しなければならないという前提があります。無論、中にはそれが正しいかどうかはっきりしない情報もありますが、その場合には報道するに当たりどのような信念があるかどうかで決めるべきでしょう。
 まだまだ報道しなければならない情報や事実を差し置いて、視聴率競争にかまける形で視聴者におもねる情報ばかり報道する現在のニュース番組の是非を、もうすこし日本は議論するべきじゃないでしょうか。

2009年9月21日月曜日

ラジオ体操の後によくしていたこと

 あまり書くことがないので、今日は自分の昔話を一つ紹介します。

 今はどうだか知りませんが、私が小学生の頃は夏休みの間、早朝に近所の公園で小学生向けにラジオ体操が行われていました。ラジオ体操が行われるのは朝の六時からということで本音ではそんなに行きたくなかったものの、友人らも参加するし両親もうるさく言うので大体二、三日にいっぺんくらいの割合で私も参加していました。

 今もそうですが当時の私の住居はマンションで、ラジオ体操の現場もマンション近くの公園で行われるために、ラジオ体操が終わると子供たちは毎日揃って同じマンションへと帰っていました。
 そうやって自宅に戻る際、普段はやることはないのですがラジオ体操帰りで人数も揃っているため、私を含めた小学生らはよくマンションに備え付けられているエレベーターにみんなで乗り込み、重量超過ブザーをなんとか鳴らそうとよく挑戦していました。

 当然乗り込むのは子供だけなので一人一人の体重はほとんど無いのですが、小学四年生くらいが音頭を取って、「ほら、お前らはもっと奥行け。まだ人はいないのか?」などと言ってはぎゅうぎゅうになるまで乗り込み、最後にうまい具合にブザーがなったらみんなで「やったー!」といって喜んでいました。もちろん、ブザーを鳴らしたら延々と乗り続けることはなく、すぐに降りて三々五々に別れてましたが。

 そんなアホなことして帰宅した後、当時の夏休みは八時くらいからよくアニメの再放送が月曜から金曜に放映されていたので友達と一緒に見たりなんやりしてよく過ごしていました。ただ他の子供と違って私は今でも近くをセミが飛ぶだけで冷や汗をかくほど子供の頃から虫類を苦手としていたので、夏休みの子供に定番の虫取りはほとんどやることはありませんでした。
 では何を一番夏休みにしてたかとなると、やっぱり自転車に乗る時間が一番多かった気がします。小学三年生くらいで片道十キロの町までよく行っていたし。成人した今でも私が自転車によく乗ることを考えると、案外子供の頃の行動というのは歳をとっても変わらないもんだと気づかされます。エレベーターのブザーはもうわざとは鳴らさないけど。

2009年9月20日日曜日

阪神、藤川球児選手について

 それは2005年のある日のことでした。その日もいつも通りに自宅で夕食を終えて何気なくテレビを点けると、ちょうどよく阪神戦の中継が流れていました。テレビ横のパソコンで作業を進めながらちらちらと見ていると、八回阪神守備の場面にて投手が投げた球に妙な違和感を感じました。

「シュートか、今の球?」

 見た感じでは非常に早い速球ではあったものの、球の軌道が見慣れたストレートのような直線状とは言い切れない何かぐにゃりと曲がったような違和感を感じ、わずかに変化する変化球のシュートを投げたのかと直感的に私は思いました。

 しかしその後にテレビに表示された球速は150kmを超えており、なおかつ球種もストレートとされました。となるとさっきの球は私が横目で見ていたから何かの見間違えかと思って見ていた次の球も、先ほどの球同様に速球でありながら妙な軌道を描いてキャッチャーミットに収まり、またもテレビ画面には「ストレート」と表示されます。
 誰だ、この投手は? と、思って興味を持ったのが、もはや野球ファンであれば知らない者は皆無といってもいい、現在私が一番贔屓にしている球界を代表するクローザーの藤川球児選手との出会いでした。

 この藤川選手へ抱いた私の第一印象はある意味間違いではなく、女房役の同じく阪神の矢野選手に、「伝説のストレートを今受けている」と言わしめるほど藤川選手のストレートは群を抜いているといわれています。そのストレートの質は現役に限らず日本球界史上でも過去最高の物とも言われ、「魔球と呼ばれるストレート」、「火の玉ストレート」の名に恥じず、ストレートで三振を奪っていけるのは現在藤川選手位だろうとよく聞かれます。
 この藤川選手のストレートについては上記にリンクを貼ったウィキペディアの記事にて詳しく解説されていますが、他の投手と違って人差し指と中指をくっつけて投げるゆえか、ボールの回転軸の傾きが進行方向に対してほぼ0に近いため、打者からすれば「浮き上がってくるような」と言わしめるストレートを投げれているのではないかとされております。

 私が何故藤川選手が好きなのかというとこの特別なストレートもさることながら、各場面ごとの藤川選手の人となりや見せ場が私の琴線に触れるというのが主な理由です。
 なんでも親父さんが草野球でノーヒットノーランを達成した日に生まれたもんだから、これで野球選手にならなければ一体どうしたもんかという「球児」という名前をつけられたそうですが、その名に恥じず松坂世代の一人として阪神に入団するも、当初はなかなか芽が出ず引退すら考えた時期もあったそうです。

 そんな中でもくじけず練習を続け、それこそ2003年の阪神優勝時にはほとんど名前の出てこなかったにもかかわらず2005年のシーズンに彗星の如く現れ、「阪神、恐怖のJFK」の一角としてそれ以前の記録を打ち破る最多登板記録と共に最優秀中継ぎ賞を受賞する活躍に、当時は胸を大きく躍らされました。
 特に圧巻だったのは2006年のオールスター戦において、前代未聞のストレート宣言をした上で見事にカブレラ選手、小笠原選手を三振に取った場面で、その後もここぞというところではストレートにこだわって打者を抑えていきます。たまに打たれちゃうけど。また今シーズンにおいては先月に今期初めて試合に出場してきた巨人の高橋由伸選手に対し、全球ストレートで勝負をして見事抑えてくれました。

 藤川選手にかぎるわけじゃありませんが、私も一応日本人の端くれなだけに、不遇な時代を苦労して乗り越え大活躍する人物には非常に好感を持ちます。入団から五年間を経て活躍するようになったこの藤川選手はもとい、ロッテの渡辺俊介選手も同様に好きな選手の一人です。
 本来スポーツというのは白熱した試合を見せると共に、その選手一人一人の努力の過程を見せることも一つのドラマだと私は考えております。そうした意味で、こうしたエピソードなどを野球に詳しくない人にももっと広く知らしめられればとこのごろ思います。

国ごとに変わる時間の感覚

 私が中国に留学する前、私の中国語の恩師にある日こんなことを尋ねてみました。

「先生、中国と日本で決定的に違うと思うものは何ですか?」
「そうだね。これは私だけかもしれませんが、向こうはなんか、時間がゆったりと流れるような気がします」
「時間ですか?」
「そう。なんていうか、中国の一日というのは日本での一日より長く感じるのですよ」

 この先生の言葉は、後に私も中国に留学することで直に実感しました。
 私の体験で申し上げると、感覚的には中国における一時間という時間は日本における二時間分に相当するように感じます。日本では昼食を取ってから夕方になるまであっという間という感じですが、中国ではなかなか夕方にならず、やることがあればまだ気にならないのですが暇な時などはまだ夜にならないのかと、まるで小学生の頃に学校を休んだ日みたいな感覚を覚えました。
 またこれは私と先生に限らないようで中国留学生らが書き込む掲示板などを覗くと、どうも他の多くの方も同じように中国では時間がゆったりと流れるように感じるという意見を何度か見受けたことがあります。

 それにしても考えてみると不思議なものです。言うまでもなく絶対時間は世界共通で差があるはずはないのですが、日本と中国では私にははっきりと自覚できるほど一時間辺りの感覚時間が異なっていました。一体何故感覚時間がそれほど変わってしまうのか、私なりに出した仮説は以下の通りです。

・仮説一、未経験な海外生活
 例えば同じアルバイトなどの仕事においても、毎日やっている仕事とその日が初めての仕事では何事にましても勝手が違います。そして感覚的には未経験の仕事の方が体験済みの仕事に比べ覚えることや気苦労が多く、私の中では両者を比べると未経験の仕事をやっている時の方が時間が長く感じます。
 これと同じように、何年も生活してきた日本での生活に対して初めての中国での留学生活はいわば未体験なことの多い生活でした。そのように留学中ではいろいろと慣れない事が多い生活のため、日々の感覚時間が日本での生活より長く感じたのではないかという仮説です。

・仮説二、国民の時間感覚の違い
 日本のバスと違い、都市間高速バスを除いて中国の市内交通バスには基本的に時刻表はありません。こういうと中にはどんな風にしてバスを利用するのかと思う方がおられるかもしれませんが、使い方は実にシンプルで、乗りたい路線のバスがやって来るバス停でひたすら待ち、やってきたら乗るだけです。
 これはずっと以前から言われていることですが、日本人というのは世界的にも時間の遵守に対して非常に厳しい面のある国民です。バスにしろ電車にしろ、五分でも遅刻しようものなら、「五分程度か( ´ー`)」とは言わずに、「五分も遅れやがって!( ゚Д゚)」とラッシュ時なら平気でみんなで言い合います。しかし海外の方からすると、ほとんど一分以内の誤差で運行する日本の交通機関に皆驚くそうで、母国では五分や十分の遅刻は当然だとよく聞きます。

 中国人も個人で見ればせっかちな人は少なくありませんが、社会的にはまだ日本人より時間にルーズです。十分や二十分くらい平気で遅刻してくれば、待つ方も仕方ないやとほとんど怒りません。
 このような社会全体の時間に対する厳しさとでも言うべきでしょうか、これが中国は日本より緩いために中国で生活する私も日本ほど時間を守らねば、焦らねばという感覚が薄まり、長く感じられたのではないかという仮説です。

・仮説三、単純に私が暇だった……
 この辺は連載中の「北京留学記」でも書いていますが、午前の授業を終えると私はほぼ毎日やることがなく、ずっと暇をもてあそんでいました。あんまり街中に出てお金を使うのも嫌だったし、自習したりすることがなければほぼ毎日昼寝をして何度も読み終わっている本をまた読み返したりして過ごしていました。
 これは別に中国に限らず、日本でも暇な時間というのは感覚的には長く感じます。中国での留学中はそのような暇な時間が多くあったため、ただ私が個人的に「長かった……(;´Д`)」と感じているだけというのがこの仮説です。

 以上の三つが主な仮説です。
 実はこの日本と中国での感覚時間が何故異なるのかという疑問が、私が時間の概念に対して興味を持った最初のきっかけでした。上記の仮説の中に部分々々におわせていますが、なにも国ごとといわずとも同じ日本国内でも場面ごとに感じる時間の長さが異なっていたりします。その差異を生むものは何か、この中国の体験談を話した友人と議論したのがある意味運の尽きで、その後数ヶ月に渡って会うたびに夜中中この議論を繰り返すこととなったわけです。

 そういうわけで次回は、「都会と田舎の時間」について解説いたします。