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2011年2月20日日曜日

清末期に争われた立憲君主制と共和制

 先日に中国の歴史参考書を購入したと書きましたがその参考書中で近代のページを見るにつけ、中国近代史においてこれまで着目していなかったある点に目がいくようになりこのところそのあたりをやけに詳しく調べています。具体的に何を気にするようになったかというと、本記事の表題に当たる清朝末期における立憲君主制支持派と共和制支持派の争いです。

 現在において立憲君主制国家の代表格と来れば今度ウィリアム王子が結婚することで早くも盛り上がっている大英帝国ことイギリスで、基本的にこの立憲君主制という政体は憲法をベースに議会が実際の政治を切り盛りするものの最高権力者として世襲制の王を戴くという形で、実質の権力はイギリスと比べると小さく、なおかつ議論も少なからずあるものの天皇制を持つ日本も広義では間違いなくこの立憲君主制国家に含まれます。
 それに対して共和制というのはこれの反対で、いうなれば国王や皇帝といった世襲の権力統治者や象徴が存在せず議会や内閣、大統領が最高権力者となる国のことを指しており、現在でしたらやっぱりアメリカやフランスが代表格です。

 そこで本題に戻りますが、現在の中国は中国共産党の一党独裁による国で君主制か共和制かといえば一応は共和制ではあります。あくまで一応だけど。
 ではそれ以前の中国はどうだったのかというとほかの国同様に君主制こと、王朝が政体をなしておりました。そんな中国における最後の王朝は少数民族である満州族が設立した清朝ですが、その末期において、具体的には1900年前後の日清、日露戦争の時代に中国では今後の政体を立件君主制とするか共和制とするかで知識人内で激しい対立があったようです。

 清朝は日清戦争以降、それ以前のアヘン戦争は言わずもがな日本にも敗戦したことでようやく西洋技術を取り入れなければ最早どうにもならないという認識が各界に根付いたようです。日本も幕末は薩英戦争など当初は攘夷思想が強かったもののそれ以後は率先して西洋技術を取り入れてきたことを考えると今更かという気がしますがその辺は中華思想ということで、とにもかくにもそういったプライドをかなぐり捨ててようやく光緒帝の頃に変法運動といい、政体の革新などを図ったようです。
 その頃に光緒帝の元で活躍し、この変法運動を大いに推進したのは康有為と、その弟子の梁啓超なのですが、どちらも恐らくは漢民族だとは思いますが満州族の清朝を盛り立てて中国の独立を保とうとしています。彼らが目指したのはそれまでの権力を皇帝一人に集中させる専制性ではなくそれこそ明治期の日本のような立憲君主制を目指していたようですが、彼らのこういった革新行動はかの有名な西太后ら清朝保守派のクーデターによって阻止され、光緒帝は幽閉され、康有為と梁啓超はそれぞれ日本に亡命することになります。

 そうした立憲君主制を目指す勢力がいた一方、西洋技術の取入れなどといった点は共通していながらもこの際清朝を打倒し、新たに政体を共和制にして一から構築しなおすべきだと主張する勢力もこの時期に現れております。このような共和制を目指す勢力の代表格は孫文や後に中国共産党初代総書記となる陳独秀らですが、これらの共和制支持派は主に海外に拠点を持って中国国内に革命を呼びかけるなどして清朝打倒を目指していたようです。

 結論から言うと西太后の死後にまだ幼い宣統帝溥儀ことラストエンペラーが即位したこともあり、当時軍権を握っていた袁世凱があっさりと孫文らに裏切って清朝は崩壊して共和制支持派の面々が権力を握ることとなりました。もちろんその後、梁啓超など立憲君主制支持派だった面々も議会に参加するなどして活動を行っておりますが、なんとなくこの争いを日本の薩長を始めとした統幕派、会津藩を中心とした佐幕派の争いのように見てしまいます。
 明治維新期の日本も大きくこの二派に分かれて内戦を起こしましたが、戊辰戦争以後は幾度か内戦が起こったものの、清朝崩壊後の中国ほど激しい混乱にはならず徐々に統一国家への道を歩んでいきます。逆に中国は清朝崩壊以後は各地で軍閥が台頭し、目立った勢力を挙げるだけでも袁世凱の後釜を争って勝ち残った張作霖、中国共産党を引っ張った毛沢東、財閥のコネクションから上海で軍権を得た蒋介石などなど、文字通り群雄割拠の時代が訪れて統一ともなると蒋介石による北伐完了までまたなければなりません。

 何故中国がこれほどまでに混乱を続けたのかとなると一次大戦など当時の世界情勢も影響しますが、むしろ逆に日本の方が異常な速度でまとまったと見るべきかもしれません。日本は明治維新から約30年後に国会を開設し、未だ薩長閥が勢力を握った上での制限選挙ではあったものの、憲法を制定した上で形なりには民主制の開放を達成しています。然るに中国は共産党が実験を握って70年程度経ちますが、未だに全国で一般市民選挙というものは実施されておらず、この点では日本が大いに優れていたと考えてもいいでしょう。

 あと敢えて中国に対して苦言を呈すならば、清朝崩壊後にどうしてここまで混乱したのかといえばその一つの原因はほかならぬ孫文に大きな原因があるような気がします。孫文についてはWikipediaのページを見てもらえばわかる通りに何かと時代時代で手段を選ばずに交渉を行っては後の火種を自ら作っており、もうちょっと革命後の方針について確固たるビジョンを持って取り組んでたら全然歴史が違ったのではないかと思わざるを得ません。そういう意味では日本も、案外幕府をあくまで打倒しようとした薩長の考え方が正しかったのかもしれません。

2011年2月19日土曜日

必要な苦労、余計な苦労

 自分にしては珍しくここ三日間更新がありませんでした。理由は単純に飲み会が昨日一昨日とあって帰宅がどちらも11時を過ぎてただけで、ネタ不足とかそういうわけではありません。

 そういうわけで今日は久々の更新となりますが、まず一つの話から紹介します。その話が載っているのは文芸春秋の1月号で、料亭の京都吉兆で料理長をしている徳岡邦夫氏のコラムです。
 そのコラムによると老舗料亭である京都吉兆もバブル崩壊後は経営が悪化し、料理長である徳岡氏は再建のために様々な改革に取り組んだそうです。まず取り組んだのは「人」こと人材採用で、それまで縁故採用が多かった料理人の採用に当たってなけなしの予算五万円をかけて外部に求人広告による募集をかけ、そうして集めた新人三人の教育に当たり以下のようなことをしたそうです。

「その施策の中には、かつての料亭文化ではありえないようなものも多かった。たとえば、「料理は見て盗め」といわれていた厨房の世界だが、新人にもどんどんレシピを教えてしまうようにした。また、料理経験のある人ならば、包丁もすぐに持たせてしまうこともある。これも、従来では考えられなかったことだ。
 こうした料亭の常識は、実は百害あって一利なし、先輩料理人が後輩に追いつかれないために存在している悪習でしかないと私は考えて、それらを一掃してしまったのだ。」

(文芸春秋2011年1月号より引用)

 正直に言って私は、こういうことを現役の料理人の方が口にするということに非常に驚きました。私は実際にそういう調理の世界に入ったことはないものの新人は皿洗いなど雑用を数年間経て初めて包丁を握らせてもらうものだと聞いていただけに、入ってすぐにレシピから包丁まで、しかも老舗料亭でそういうことが実施されてたなんて思いもよりませんでした。
 ただ言われて見ると徳岡氏の言う通りに料理人というのは包丁持ってなんぼのもんだし、雑用を誰かがこなさなければならないとはしても新人料理人の教育に際して早くにそういった直接的な技術は教えた方がいいに決まってます。それにもかかわらず「新人は皿洗い」というイメージが私の中にあったのは、これもまた徳岡氏の言うように先輩料理人による悪習としか言いようがないでしょう。

 この京都吉兆は直接関係はないものの例の船場吉兆の事件の際にはとばっちりを受けたそうでいろいろと大変だったそうですが、その後もこうした徳岡氏の改革が功を奏したかミシュランガイドにて三ツ星の評価を得たそうです。この話一つとってもなかなか含蓄があって面白いのですが、ちょっと気にかかったというか先ほどの新人料理人にすぐに包丁を握らせるという話から別に思い当たったエピソードがありました。

 そのエピソードというのはほかならぬ田中角栄の生前のエピソードで、以前に鳩山邦夫氏が言っていた話です。兄に鳩山由紀夫元首相がいるのでこれから邦夫氏と表記しますが、邦夫氏は大学卒業後に政治家を志してすぐに田中角栄氏の秘書を始めたのですが、その秘書時代に田中角栄は邦夫氏に対しこんなことを言ったそうです。

「君も将来立派な政治家になろうとするのであれば、今の自分を見てよく反面教師としておきなさい」

 当時の田中角栄は絶頂期であったために邦夫氏は一体先生のどこを反面教師とするところがあるのだと聞き返したところ、続けてこう話したそうです。

「確かに俺は今調子はいいが、ここに至るまで相当無理をやってきている。若いうちの苦労は買ってでもしろとは言うが、余計な苦労はしないに越したことはないんだ」

 後に田中角栄はロッキード事件など金銭に絡む事件で特捜に逮捕されることになりますが、その時に至って邦夫氏はあの時の田中角栄の言葉はこういうことだったのか、つまり金策のために脱法行為も行っていたということを理解したそうです。
 今でこそこういうことは常識はずれですが、当時の政界は工作に当たって何につけても金が必要だったそうですから私はこの点で極端に田中角栄を批判する気はありません。むしろこうした金策に対して田中角栄本人もある程度気にしていたというか、やらずに済むならやらない方がいいと考えていたということが少し驚きで、やっぱり人の子だったんだなとちょっと親近感が湧きました。まぁ逆を言えば邦夫氏の実家が金持ちなんだから無理に金策するなと言っていたんでしょうけど、邦夫氏の兄のことを思うといろいろ複雑です。

 すでに大分長いですが久々の更新でテンションがやけに高いのでこのまま一本の記事にまとめてしまいますが、私が上記二つのエピソードからこのところよく思い耽っているのは「余計な苦労」という言葉です。京都吉兆、というよりそれまで料亭の暗黙の文化だった「新人は初め数年間は皿洗い」といい、田中角栄など当時の政治家による「脱法行為による金策」、どちらもやらずに済むのならそれに越したことはありません。

 上記の田中角栄の台詞の中にあるように世の中には「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉が流布していますが、一応まだこの言葉をかけられる若者身分の私からするとあまり反抗的では良くないと思いつつも、この言葉は上の連中からすると随分都合のいい言葉だなと生意気にも大体中学生くらいの頃から感じていました。そんな性格ゆえによくパソコンに対して八つ当たりするくらい今でも忍耐力がないままなのですがそれでも敢えて続けて言わせてもらうと、苦労とは言っても『必要な苦労』と『余計な苦労』とではっきりと別れるのではないかと思います。

 たとえば大学受験に合格するために長時間の勉強をしたり、体を鍛えるために走り込みを行うなどそれぞれ目的に合致した必要な苦労というものがあると思います。こういった必要な苦労に対してよく運動部などにある上級生の下級生に対するしごき、たとえば野球部における球拾いとか下級生は更衣室を使えないとか(私の実体験)、それぞれのスポーツ技術の向上には全く関係ないと言える余計な苦労も、というかこっちの方が世の中ごくごく溢れかえっております。こういったしごきについてよく指導者や上級生は上下関係を教えたり忍耐力をつけさせるために必要だと主張しますが、では目的に合った苦労では忍耐力はつかないのかと私は逆に問いたいです。

 大学の受験勉強然り、長時間の走りこみ然り、言うは簡単ですがこれらをこなすとなるとなかなか大変な苦労で、実行にあたりそこそこの忍耐力が要求されます。しかも先ほどの運動部によるしごきと比べてこれらの必要な苦労はそれぞれの目的に対して学力の向上、体力の向上といった付帯効果があり、その上で私はちゃんと続けることで忍耐力も共に鍛えられるのではないかと思います。忍耐力がどちらでも鍛えられるのであれば、しごきといった余計な苦労はせずに必要な苦労を率先してやっていった方がずっと効率的ではないでしょうか。

 私は何も、なんでも苦労を避けて楽な道を選ぶべきだと言うつもりはさらさらありません。きちんと目的を持ち、その目的を達成するために必要な苦労はどんどんとやるべきである一方、その目的達成に対して何の関係もない苦労はやらないに越したことはない、むしろ時間の無駄となるのでそういった余計な苦労は避けた方がいいと私は主張したいのです。
 そうは言っても世の中理不尽なことが多いのでそういったことに耐性をつけるためにもある程度は余計な苦労もしておく必要があるのではないかと言われる方もいるかもしれませんが、私はそのような理不尽に対する耐性は必要な苦労でも得られると思いますし、そもそも理不尽に対して何でもかんでも黙っているのもまた問題な気がします。その理不尽を甘受せずに環境を変えるなり対策を行う方がずっと前進的でしょう。ま、多少の我慢はもちろん必要ですが。

 私はこのところ自分を取り巻く環境に対し、今自分が負担に感じている苦労は必要な苦労なのか余計な苦労なのかとよく考えています。もちろん必要な苦労だと思えば心情的にも軽くなるし頑張ろうという気持ちも持てますが、余計な苦労だと一体何のために我慢しているのかと考えれば考えるほど余計に辛くなってきます。ただ単に自分が未熟で必要な苦労か余計な苦労か判別も出来ないのかもと思う一方、先ほどの「新人料理人は数年間は皿洗い」など、世の中では一般化されていたとしても明らかに余計だとわかるものははっきりわかる気がします。
 何でもかんでも人生思い通りに行くわけではないので多少のことはもちろん我慢するべきです。しかしあまりにも余計過ぎる苦労は周囲から非難を受けるとしてもやはり避けるべきで、きちんと目的を持って必要な苦労を求めていくことが我慢強いとされる日本人に必要なのではないかというのが、今日の結論です。

  おまけ
 今回の記事内容について先に友人と相談をしたのですが、その友人とはある苦労を共有しておりました。我々が通った大学の一、二回生時キャンパスは辺鄙な田舎にあり、我々二人はそのキャンパス近くに下宿を借りて住んでいたものの本当にシャレにならないくらいの場所の上に中途半端に都会に近いもんだから精神病を起こす学生もいるほどで、ご多分に洩れず我々二人も入学当初にすぐ五月病をリアルに発祥するなど苦労をしたのですがその時の体験について、

花園「あそこでの生活は確かに辛かったけど、今となれば『必要な苦労』だったかな( ´ー`)」
友人「いや、僕にとっては『余計な苦労』以外の何者でもなかった(´д`)」

 と、見事に意見が割れました。この後もお互いに『必要な苦労』と『余計な苦労』とこの二つの言葉を使い分けてあれこれ愚痴を言い合いましたが、「社内のお局対応は『余計な苦労』だ」、「あの上司の指導は厳しいが、『必要な苦労』だった」など、使ってて意外に便利な言葉だと思いました。

  おまけ2
 三日ぶりの更新ですが見事四千字を越える長文、書いててものすごく気持ちよかったです。やっぱり定期的に文章書かないと自分は駄目ですね( ´Д`)

2011年2月15日火曜日

小沢氏の党員資格停止について

「党員資格停止」を議決=反対論押し切る―民主常任幹事会(時事通信)

 昨日一昨日と力の入った記事を連日投下したので、今日はさらりと流せるニュース解説です。
 ようやくこの問題に一つの目処がついたというべきか、上記リンク先のニュースで書かれている通りに強制起訴された民主党の小沢氏に対して本日民主党幹事会は裁判が確定するまで党員資格停止するという決議を行いました。この決定に対する私の意見は、まぁ当然といえば当然だけどこれまでの対処期間を考えるとやや決断が遅かったかなといったところです。

 小沢氏に対する評価は色々ありますが、先日産経のニュースにてやや高所ぶった目線で書かれていましたがこんな記事がありました。その記者がタクシーに乗った際に政治ついて運転手と会話したというのですが、そのタクシー運転手はこんな世の中だからこそ豪腕の小沢氏が政治を主導した方が何か変わるのではというものの、その記者は小沢氏は豪腕とよく言われるもののこれまでの日本の政治史において何か政策を主導したことはなく、また具体的な政策目標を何も持ってないとしてそのタクシー運転手の意見を否定したというないようです。

 この記事の内容が、小沢氏についてよく言い表していると私は思います。小沢氏は確かに細川連立内閣を作って55年体制に終止符を打つのを主導したことは間違いなく、またその後の小選挙区比例代表制制への以降も彼の強い希望で行われました。この二つを功績と取るならば確かに功績ですが、しかしその後の彼の政治キャリアはというとただ政党を作っては壊し、無駄に日本の政権を不安定にさせてきただけとしか私には思えません。しかも何故政党を何度も壊し続けたのかというとこれも、どう見ても彼が主導して実現した政党交付金制度を悪用して私服を肥やすためでしかないでしょう。
 特に一番罪業が重いというか、公明党とともに連立を組んでいた小渕政権時に自民党の立場が苦しい時期を見計らって無理難題を吹っかけ、要求が通らないとわかるや連立を離脱したことです。実質このときのショックが引き金となって小渕元首相は脳梗塞を起こして死去しており、政治に駆け引きは必要だとは思いますが不必要な要求のために無駄に権力を不安定化させた小沢氏の行動には疑問を持ちます。

 とはいえ今回のこの民主党の決議にてようやく小沢騒動もひと段落しそうです。民主党内の小沢派が反旗を翻して分裂するとも言われておりますが、マルチ商法の親玉である山岡氏はともかく日教組のドンである輿石氏は意外にも早くに見限って菅首相や岡田幹事長側に寄って行っていますので、小沢派の動きはそれほど大きな影響は及ぼさないと思います。どうせすでに参院で過半数割ってるんだし。
 本来ならば小沢氏の強制起訴が決まった段階ですぐにこれくらいの処分は行うべきといえばそうなのですが、曲がりなりにもシンパが多い人なので時間がかかったのはしょうがないのかもしれません。願うことならこれに続いて、勝手にしゃしゃり出ては北方領土などに関して問題発言を繰り返している鳩山前首相も処分してもらいたいのですが。

 あと本件と関係のないニュースですが、ちょっと驚いたというか思うところがあるニュースがあります。

中国の米10%がカドミウム汚染、イタイイタイ病発生(サーチナ)

 内容は中国のお米の10%はあの四台公害病の一つであるイタイイタイ病を引き起こすカドミウムに汚染されているという、実際に中国で生活している私からするとちょっと気が気でないニュースなのですが、実はこのニュースは昨日の中国版Yahooにて載っていたニュースです。たまたま自分も読んでて翻訳してブログで取り上げて見ようかとも思っていたのですが、先を越されたというかまるまんま翻訳しただけのニュース記事に、あまりケチをつけるべきではないと思うもののなにやら釈然としないものをちょっと感じました。
 ちなみに元記事では「イタイイタイ病」のことをそのまま「痛痛病」と書かれており、多くの患者から聞かれる悲鳴から当時の医師が名づけたという由来もきちんと紹介されてます。またその中国の村の土壌が何故カドミウムに汚染されているのかというと、近くに鉱山があってその発掘の際に出る泥などが川を経由して汚染されているのではと書かれていました。よその村から来た女性が言うには、昔からその村にはあまり嫁に来たがる人はいなかったと言うほど曰く付きの土地だそうで、収穫物を国が徴収していた時代(人民公社時代?)もその村は免除されていたとまでいうほどブラックな土地だそうです。

2011年2月14日月曜日

TPPに日本は加盟すべきか 後編

 昨日の前編に引き続きTPP関連の記事です。昨日は主にTPP加盟反対派が強く主張する日本の農業保護を中心に解説した上で私はTPPと農業はこの際一緒に考えるべきではなく、むしろTPPに限らずもっと攻めの農業を考えていかねばならないと主張しました。しかしだからといってTPPに加盟をするべきというわけではなく、現段階ではもっと多方面に渡って議論を行ってTPPに加盟する価値について全体で考えていくべきだという立場だと説明しました。今日は何故私がTPPに対してこのような慎重な立場を取るのかということについて書いていきます。

 まず単純に、何故TPPに加盟する必要があるのかという点でいくらか疑問を感じます。菅首相を始めとして肯定派の人々が決まって主張する理由は、「今加盟しなければ日本は取り残される」という、どちらかといえば消極的な理由ばかりです。もう少し具体的に書くと日本はリーマンショックから未だに不況が続いていますが隣国韓国は自由貿易を推進して目覚しく躍進しているとして、今ここでTPPに加盟して日本も自由貿易化を進めなければ中国の躍進といい、グローバル化に遅れてずるずると衰退を続けてしまうというシナリオをこの手の議論でよく見かけます。

 しかしこうした肯定派の意見に対して反対派の代表的論客である中野剛志氏を始めとした方々からは、TPPに加盟しなければ日本が取り残されるという意見は間違いだという意見が出されており私もこれに同感します。まず先ほどの韓国との比較ではさも日本が自由貿易化に遅れているような印象を与えますが、実際のところ日本は農業を除くと世界的にも関税が低い国で、EUなどと比べるとよっぽど自由貿易国家であります。私も貿易事務をしていた時代に何度か経験しましたがヨーロッパから物を輸入する際には消費税にやられ、輸出する際は関税にやられて商品価格がけたたましく上がるのには面食らいました。
 また韓国は自由貿易を行っているから景気がいいというわけでなく、これも私に限らず多数の方々が指摘しておりますが今の韓国の好景気はウォン安という為替効果以外の何者でもなく、それは逆に日本の不景気は円高以外の何者でもないということです。TPPに加盟しなければ経済は停滞したままと肯定派は主張しますが、仮に加盟したところで現在の円高が解消されない限りは何も変わらないと私も断言します。ではTPPに加盟すれば為替は動くのかといえばこれも結びつく理由は見当たらず、何かすれば都合よく物事が動くなんて信じるのは馬鹿の妄想に尽きるでしょう。

 さらに外交上の観点からも今加盟しておかねば東南アジア諸国の中で孤立する恐れがあるという意見もあり、私の見たところ菅首相はこの意見に一番ほだかされてやけにTPPを推進していると思えますが、これも正直なところ疑問です。現時点において東南アジア地域で影響力が強いのは言うまでもなく日中韓の三カ国ですが日本を除く中国や韓国は今のところTPPに加盟するそぶりは見せておらず、この論法で行くのなら中国や韓国は東南アジアの中で孤立していくはずです。また自由貿易によって東南アジア地域との結びつきを強くして経済的連携を強めるべきだという意見も見えますがすでにTPPに加盟している四カ国は経済規模もそれほど大きくなく、さすがに中国やインドみたいに馬鹿でかい人口を抱えていれば話は別ですが、経済的連携を強めたところで得られるメリットというものはほとんど見えてきません。
 もちろん現在ベトナムやオーストラリアなどの国々も参加を議論しており将来的にはまだわかりませんが、ほかの国がやっているから日本もというのは昔からの悪い癖で、よそはよそでうちはうちなのですからしっかりとメリットとデメリットを計算した上で参加は決めるべきでしょう。少なくとも、「ほかの国が入るから……」という理由だけで参加を考えるというのは大きな間違いです。日独伊三国軍事同盟もそんな感じだったし。

 そして一番肝心な点が、TPPに加盟して日本は輸出を増やすことが出来るかです。これに関しては現時点で私はほとんど増えないと考えております。
 前回の記事でも書いたようにもしTPPに日本とアメリカが加盟した場合はこの二カ国で生産高の九割を占めることになるため、この輸出について考える場合もやはりアメリカを相手に見なければなりません。これはいろんなところで引用されているので試しに私も引用して見ますが、日米間の関税で大きなものといったら日本の農作物に対する関税とアメリカのトラック車に対する関税です。アメリカは海外からのトラック車の輸入に対して25%の関税をかけており普通乗用車の5%と比べると確かに高い印象がありますが、それ以外となると自由の国というだけあってアメリカの関税は日本以上にどれも低いです。また件のトラック車においても日本の自動車会社はどこも米国工場を持っており、現地生産してしまえば関税どころか輸送費用もいらないためトラック車の25%という関税がなくなるからといって何か日本の自動車会社に影響があるかといったらはなはだ疑問です。

 このように私は現時点でTPPに対するメリットをあまり感じません。逆にデメリットについて言えば関税がなくなることでいくつかの部門で安い商品が入り、さらにデフレが悪化する可能性が挙げられます。
 だからといって私はTPPをすべて否定するわけでなく長期的な視点で考えれば大きな経済圏を作り、発展途上国の成長も織り込んで自由貿易は徐々に進めていくべきだと考えています。ただ現時点で日本は円高不況の上にデフレも抱えているため、もう少し体調を整えた上で目指すべき方向をしっかりと定めてからこういったものに参加するべきだと考えており、議論を深めないままほかの国に乗り遅れるなとばかりに急いで参加しようとするのはたとえ鈍亀と罵られるようとも反対です。

 本音を言えば私はTPPよりもEUに参加し、アジアの中のヨーロッパの尖兵として周りから集中砲火を食らおうとも独自性の強い国として日本はやっていく方が面白いんじゃないかと考えています。ただどうもEUは日本を目の敵にしているところがあるのかこうした議論に対して一蹴に付すところがあり、血は水より濃いわけじゃないですが腐ってもEUはアジアを受け入れないかと見ていて実現性は低いと思っています。
 そんなEUもリーマンショック前はユーロの導入など割と順調にやって来れていましたが、リーマンショック後のアイスランドやギリシャの金融危機を受けてでかけりゃなんでもいいというわけじゃないんだなという証明をしてくれました。TPPもこういう点で、うかつに参加したばかりに余計な荷物を抱えないよう、日本はしっかりと議論を深めて考えていくべきでしょう。

  参考サイト
慶応大学教授・竹中平蔵 TPP参加で政権公約も見直せ(産経新聞)
中野剛志:TPPはトロイの木馬──関税自主権を失った日本は内側から滅びる(ニュース・スパイラル)

2011年2月13日日曜日

TPPに日本は加盟すべきか 前編

 先日に来た友人からのメールに今の日本は大相撲の八百長問題とTPPのことばかりと書かれてあったので、ちょっと今日は調べる時間もあったのでTPPについて私の意見を紹介しようと思います。

環太平洋戦略的経済連携協定(Wikipedia)

 このTPPの正式名称は「Trans-Pacific Partnership」で、日本語だと「環太平洋戦略的経済連携協定」になります。この協定は2006年にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドで結ばれたもので、協定締結国内同士では原則関税をすべて撤廃して自由貿易を行うという内容です。一体何故このTPPが急に日本で取りざたされるようになったのかというと去年頃からこのTPPの締結国拡大議論にアメリカが参加するようになり、それに対して日本の菅首相が十月の会見にて参加を目指す方針を述べたことから各業界入り乱れての議論となったようです。すでにあちこちのサイトやニュースにても報道されておりますが、仮に日本やアメリカが参加するとなるとTPP内の総生産高はこの二カ国が九割を占めることになるため、この議論は実質日米のFTA(自由貿易協定)議論であると指摘されております。

 そういうわけでTPPとはアメリカと自由貿易協定を結ぶかどうかという話になるのですが、結論から言うと私はまだ時期尚早で、将来的にはともかく今急いで加盟するべきではなくもっと多方面で議論を重ねた上で決断するべきだという立場を取ります。

 まずこのTPPで一番槍玉に上がっているのは農業です。自由貿易をするとなるとアメリカ産を始めとした安価の農作物が日本に大量に入り込んで日本の農業は衰退を超えて絶滅すると農林水産省を始めとした各団体が主張していますが、率直に言ってこの意見は逆にどうかと私は思います。
 一体何故そう思うのかというとそもそも高い関税障壁の上に税金の保護を行っている現時点でも日本の農業は年々衰退しており、TPPに参加しなくてもこのまま行けば結局駄目になるのがはっきり目に見えているからです。簡単に調べたところ米には700%もの関税がかけられていますがそれでも農家は減少の一途を辿っており、さらに国は減反政策まで取って自ら減らそうとしている始末です。

 確かにTPPで関税がなくなることで大豆(自給率6%)を始めとしたいくつかの品種については国産農家はさら苦しむことになるかもしれませんが、現在農業が衰退している一番大きな原因は現金収入が少なく生計が立て辛いからです。何故収入が少ないのかといえば米が作りすぎてあまってしまうほどそれを食べる人間がいない、つまりは販路がないということや、日本産の作物だと価格が高すぎて市場で売れないなどありますが、その一方できちんと黒字を出している農業法人なども確かに存在します。そういった黒字を出している農業法人からすれば自由貿易による国内価格低下で痛手を被る可能性もありますがその一方でTPPは世界に販路を持つチャンスにもなり、どうせ失うものなどほとんどないのだから挑戦するだけしてみた方がかえって日本の農業振興にはよいのではないかという気がします。

 また外国産の流入によって自給率が下がって大変になるという意見もよく聞きますが、これついても以前に書いた「書評:日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率」の記事の中でも引用しているように、そもそもの日本の自給率の捉え方、対策が問題で、このTPPの議論以前の問題でしょう。
 さらに穀物に限れば仮に安い外国産が入ってきたとしても私はあまり影響はないのではないかと見ています。そう思うのもかつて冷害でミニマムアクセスとしてタイ米が一時出回った時の体験で、やはりお米については高かろうとも国産を食べ続けたいと小学生ながら当時は心底思いました。またこうして海外で生活していてもやはり日本産の米が欲しいといつも思え、多分10キロ5000円であろうとも売っていたら私は間違いなく買います。特にいろいろと問題が起こっている中国にいるだけに……。

 元々、日本人は食にはやけにうるさい民族です。かつての米国でのBSE騒動の際も同じ日本人でありながらどうしてここまで拘るのだろうかと思うくらいの反発を見せましたし、食料ナショナリストとでも言うべきか、穀物に限らなくとも安いからといってそうそう外国産を信用することがなく簡単に乗り換えるようなことはないんじゃないかと思います。
 ただ唯一の懸念としては価格の安さから外食産業が外国産を仕入れるようになるというケースが考えられますが、これの対抗策として前もって「全国産使用販売店」などといったお墨付きや臨検を行うことで国産食材使用店のブランドイメージを意図的に高めるような手を使うのもありなんじゃないかと思います。まぁ吉野家は米国産牛肉使用しているから、関税がなくなればますます価格が下がるだろうけど。

 その上で日本は水や南北に長く伸びた国土といった農業上の利点がありますが、耕作可能面積が狭いという難点があります。それゆえに無理にどの作物についても何でもかんでも無理に自給しようとするのではなく、工業についても最近はこの流れですが農業は少量高品質生産を中心に行い、世界で購買力のある層へ販売していくという戦略をとる方が現実的です。元々日本一国で今の人口を全員食べさせるだけ耕地はないのだし、それならば農業を如何に産業として育てていくかという視点でこのTPPを考えていくべきでしょう。
 幸いにも近年の日本食ブームで日本でしかほとんど消費されない食材を世界で販売するチャンスは増えてきております。また今の日本人もそうですが食というものは一回おいしいものを食べてしまうとなかなかそれより味の劣る同じ食材を選びづらくなる所があるので、日本の高品質で味のよい食材を日本食ブームに乗って口にさせて二度とほかの食材を口に出来なくさせてしまえば日本の農業としてはしめたものです。なんか麻薬の売り方みたいだけど。

 こんな具合で私はこのTPPを考える上では農業保護はあまり考えなくともよいのではないかと考えています。むしろTPPによって日本の農業は発展する可能性もあるので、こと農業については私は加盟を検討すべきだと思います。
 現在農業保護を理由にTPP加盟に反対しているのは農水省と全農ことJAですが、私はこれまでこの二組織が日本の農業に対して何をやってきたのかという点で疑問を持っており、特にJAについてその運営から世界的にもあまりに高い日本の農作物流通コストを考えると日本の農業を駄目にしている張本人ではないかとすら疑っています。なんか聞くところによると、市場価格の十分の一程度しか生産者の手元には来ないというくらいだし。

落選させようTPP反対派議員-関税で農業は救えない!!(アゴラ)

 中には上記リンク先の北村氏のように結構激しい意見を言う方もいますが、農業についてはもっといろいろな意見を議論させて見る必要があるものの現時点では農水省の言い分を私は信用しません。

 ではそれにもかかわらず何故今回のTPPについて慎重にするべきだと最初に言ったのは、実はTPPによって好影響があるといわれている工業方面において疑問があるからです。すでに大分長いので、続きはまた次回にて。
 それにしても狙ったわけじゃありませんが、リンク相手のリュウマの独り言さんと見事に記事内容がTPPでかぶってしまいました。なんていうか街中で同じTシャツを着た人に会ってしまったような気まずさですが、これはこれで参考になったりお互いに意見を見比べあったり出来るので歓迎しようと思います。リュウマの独り言さんのところでもTPPについていろいろ書かれているので、もしよければこちらも一緒にご閲覧をお願いします。


  参考サイト
のらくり

2011年2月12日土曜日

戦争における殺人

 通常、どの社会においても殺人行為は処罰の対象となります。これは法律とかそういうもので決められているからではなく生物は基本的にメスの奪い合いなどといった例外事態を除くと同属を殺害する際には強いストレスを感じるように出来ているので、いわば本能に根ざした禁止、自然法的な概念だと私は考えております。しかし人間社会において唯一殺人が奨励され、処罰がなされないのが戦争です。

 国際法やら戦争法で決まっているのかどうかまではわかりませんが、基本的に戦争中における兵卒同士の殺人は処罰がなされないこととなっております。もちろん軍属が民間人を殺害した場合は軍法会議などで処罰対象となりますが、双方戦争を行うという合意に基づいての殺人は責任を問われないということになっているそうです。もっとも実際のところは太平洋戦争後のB、C級戦犯などのように戦勝国側に敗戦国側の兵士や仕官が一方的に裁かれることが多く、近年もイラク戦争でもあのアブグレイブ刑務所の捕虜虐待事件とかを見ているとやはりこういったことが行われているのではないかという気がします。

 さてこの戦争における殺人ですが、どのように捉えるかは非常に難しいものです。上記のように捕虜や民間人を殺さないという戦争のルールに則っていれば許されるものなのか、それともいくら戦争とはいえ殺人は殺人として許すべきではないのか、人によって意見は様々です。中には日本の自衛隊が影響しているのか自衛戦争において侵略者を殺害するのであれば許されるという意見もたまに見受けられますが、これは戦争には正しい側と正しくない側が存在するという前提があっての意見になり、そうなると戦争に正義はあるのかという議論にまで色々と発展していきそうです。

 先日元ライブドア社長の堀江氏がツイッターか何かで、「殺人は犯罪、しかし戦争で人を殺すのは無罪。両者にどんな違いがあるのか?」と書いたそうでなんか一部で議論となっていましたが、この意見を聞いて少し思い出した本があります。その本は加藤尚武氏による「戦争倫理学」という本で、よく人から「戦争に倫理もクソもあるかよ」とタイトルを教えるたびに言われるのですが、戦争という倫理が最も吐き捨てられる場所において最低限どのような概念を持つべきかという内容が書かれているのですが、読んではみたもののいかんせん個々の話がそれぞれ脈絡が少なく覚えている部分が少ないのが正直な感想です。

 ただこの本の中で名指しで批判されていたのが「ゴーマニズム宣言」の小林よしのり氏で、小林氏が自著の「戦争論」において、「戦争とは一種のカーニバルみたいなもので、平時は抑えられている欲望とかそういうものを一挙に開放する場所だ」というように描いた内容についてまさに上記の堀江氏のように加藤氏が、「そうだとすると戦争で殺された人間は平時に殺された人間と比べて運がなかったと言うしかないのか」と、同じ殺人として区分すべきというように批判をしていました。

 実際のところ、この辺をどのように考えるかは非常に難しいです。戦争における殺人を平時における殺人のように個々に裁いていたらとてもじゃないですが裁判や補償が追いつくわけもなく、かといってそれを戦争だからで全部無視していいのか、また戦争を指示した国家が賠償なりに責任を持てばいいのか、考えてたらはっきり言ってこちらも切りがないです。
 実際に「戦争」ということで殺人罪を許された例として、ここで挙げるべきかどうか少し悩みますが小野田寛郎氏の例があります。小野田市は終戦後も29年にわたってフィリピンにてゲリラ戦を行い、この間に現地の警察、米兵を殺害しておりますが、戦争中における行為としてフィリピン政府から特赦を受け帰国しております。

 もちろん小野田氏は上官から命令された行為を行っていただけで今現在の日本でも起きている通り魔や強盗といった自己本位による殺人とは動機や目的において一線を画しますし、彼の過酷な潜伏体験を考えると私もとても責任を求める気にはなりません。ですが戦争での殺人ということで何でもかんでも特別視をすることは本当に正しいのか、それともこういうことを考えること自体が馬鹿馬鹿しいのかという点で悩みは尽きません。

 名前は出しませんがこれは誰かが言っていた台詞で、国家に対して個人というものは非常に弱く、運命なぞ簡単に翻弄されてしまうといって特攻隊やインパール作戦の犠牲者の悲劇を語る人がいますが、戦争における殺人は個人単位ではなくやはり主体となる国家単位で考えるべきなのかもしれません。国家の殺人となると私の中で真っ先に思い浮かぶのはミドリ十字の薬害エイズ事件ですが、そのミドリ十字の設立者たちには731部隊の面々が関わっていることを考えると同じ殺人をする人間はまた同じ殺人をするのかと考えさせられます。

2011年2月9日水曜日

財政再建には増税が必要なのか

 今日もまたネットニュースにて国の借金が増え、国民一人当たりどれくらいの借金を担っているかというニュースが配信されていました。私が小学生の頃の日本の国債発行高は確か400兆円くらいでしたがあれよあれよという間に現在はすでにその時の額から二倍以上にまで膨れ上がり、現今においてこの借金をどう返すかという財政姿勢が主要な政治課題となりつつあります。
 そんな財政再建議論において最前面にいる政治家を挙げるとするなら、それはほかでもなく与党民主党の代表である菅首相が挙がって来ます。菅首相は総理就任後の参議院選挙において消費税の増税を掲げ(批判されるやすぐ引っ込めたけど)て財政再建を強く訴えたことから、それ以前からもなかったわけではないですが俄然この問題が前面に出てきた感があり、そこで今日は財政再建に増税が必要かどうかを含め現況を整理するとともに問題提起を行おうかと思います。

 まず菅首相の増税論については現状で数多くの批判がなされているのは事実です。理由はいくつかありますが主に財界からの批判としては増税を行うと消費が冷え込み、余計に経済が悪化して税収が落ちるというような批判がされておりますが、実際に97年に当時の橋本政権が消費税率を従来の3%から現在の5%に増税した際は増税したその年こそ税収は増加したもののすぐに景気が悪化し、二年後にはそれ以前より少ない税収となって「失われた十年」の最悪期を引き起こしたと現在でも指摘されております。
 では財政再建のためには増税は行うべきではないのかということになってしまいますが、実は私は増税に対しては肯定派の立場を取ります。その理由としては現状でも予算が足らず国債を発行し続けているのに税収を増やさずしてどうしてプライマリーバランスを回復できるのかという考えと、日本の景気を回復させるためにもこうした財政再建を行うという強い姿勢を見せることが必要だと感じるからです。

 そもそも何故現在の日本が不況なのかといえば、一つの大きな理由としてはやはり消費が低い水準のまま維持してデフレが続いているからです。では何故消費が少ないのかといえばいろいろ理由はありますが、その中でも将来の社会保障があまりにも不透明ゆえお金を使おうにも使えないということが特に大きな原因ではないかと私は考えております。
 将来の社会保障というのは単純に年金や医療保障のことで、若い時分であればまだ働くことが出来るけれども老齢時にはただでさえ就職口がないだけに、自分の身は自分で守れとばかりに現在四十代から五十代の方々はうちの両親同様に老後の蓄えを一定度確保するのに執心しているかと思います。

 もし仮に年金など将来の社会保障がしっかりとしていて国民も安心できるのであれば、壮年層もそこまでお金を貯めようとせずに使える時、まだ元気なうちに使ってしまおうと消費に回ってくる可能性があるとかねてから評論家などに言われております。私自身もこの意見に同感なのですが、現在そういった社会保障に何故信頼が置かれないのかといえば杜撰な年金管理はもとより将来基金が枯渇することが確実な欠陥制度に加え、それを担保する国の財政が借金漬けにあることなどが原因でしょう。
 そのため確かに97年度の増税時には景気は悪化したものの現時点の増税は国民の側も多少は理解を示すようになっており、こうした将来への不安を多少なりとも和らげる効果があるのであれば私は当時ほどの景気悪化は招かずに税収は増加するのではないかと見ております。

 しかし、だからといって私は現時点の菅首相の増税論については真っ向から反対です。先ほども述べた通りに私は増税には賛成ではありますが、菅首相の増税論は日本の借金を返すためというよりはマニフェストに掲げた子供手当てなどといった新たな政策を実行するための資金稼ぎにしかなっておらず、プライマリーバランスの回復にはほとんど寄与しないと断言してもいいです。また仮に増税を行って得た税収をすべて社会保障に回すとしても膨大な借金が残ったままでは福祉がいくら充実したところで国民はやはり安心感が持てず、壮年層の貯蓄傾向と若年層の年金離れは変わらないままでしょう。

 ではどうすればいいかですが、ごくごく単純に増税しつつ支出を減らしていくという、徳川吉宗の享保の改革以来の方法を踏襲するよりほかはないでしょう。
 これまでの財政再建議論は90年代においてはもっと国債を発行してお金を集め、そのお金で公共事業などを行って景気を回復させれば税収が増えて円満解決だという、まるでばくちで作った借金をばくちで取り返すというようなやり方でしたが、こんなの通用するわけもなく結局景気は回復しないまま余計に借金を増やしただけに終わりました。その後小泉政権において積極財政政策は否定され、「聖域を設けない」という言葉通りに社会保障費などドラスティックに削減した緊縮財政政策が行われましたが、恐らく最低限の支持率を確保するためでしょうがとうとう小泉政権は増税には踏み切りませんでした。

 そして今度の菅政権では社会保障+αを増額する代わりに増税を行って財政再建をすると主張していますが、はっきり言いますが論理破綻もよいところです。本気で財政再建を行うというのであれば小泉元首相同様に聖域を設けずに支出を削減した上で増税しなければいけませんが、菅政権、というより民主党には下記のような聖域が明らかに存在します。

・議員定数
・公務員の人件費
・子供手当て
・外国人
・道路

 小泉政権の頃も全く聖域がなかったわけではありませんが、それでも国土交通省関連の予算を大幅に削減するなど従来の常識では考えられない領域に手をつけたのは評価に値します。また小泉政権は社会保障を削減して復旧不可能な水準まで破壊したと私も当時に批判を行いましたが、今思うと本当にそれくらいのことをしなければ財政再建なんて夢のまた夢なのではないかと、たとえ現在が破壊されようとも未来に芽を残せるのであれば耐えなければならないのではとやや考え方が変わってきました。

 ややもするとこの財政議論は増税か、支出削減かの二択で争われる傾向がありますが、私は最早待ったなしで増税もしつつ支出削減もしなければ財政再建など出来ないところまで来ているのではと考えています。もちろんこんなことしたら享保の改革時同様に不況がさらに悪化するかもしれませんが、私はもともとの不況の原因はデフレで、デフレを克服するためにはプライマリーバランスの回復が何よりも重要だと考えており、財政再建政策を執ることは一時的には大きなダメージを日本に残すかもしれませんが長期的な視野に立てば日本にとって最もよい道ではないかと見ております。

 享保の改革時、巷にて一連の改革は確かに厳しいけれども後で効果が出てくるお灸のようなものだと思って我慢するしかない落首が流行ったそうです。人間誰しも痛い目や苦しい思いはしたくはありませんが、それが本当に将来につながるのであれば私は我慢をしてみようという覚悟があります。ほかの人まではわかりませんが。

  追伸
 つい以前まで増税はせずに緊縮財政、景気回復によって財政再建を主張する竹中平蔵氏を始めとした小泉改革のメンバーのことを「上げ潮派」と読んでましたが、なんだかいつの間にかこの言葉は死語になっていたような気がします。リーマンショック以降は景気回復なんて現実味がなくなったからかな。

  追伸2
 このところ自分でもしょうもないと思う記事ばかり書いてて悶々としてましたが、敢えて久々にややこしいテーマを選んで書いたところなかなか気持ちよかったです。人間、高いところ目指してそこに立ってないと駄目になりますね。