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2011年4月20日水曜日

上海モーターショー

 故あって昨日、上海モーターショーに行ってきました。興味ない人にはつまらないかもしれませんが、折角写真も撮ってきたのでいくつかアップしようかと思います。

 まず私が行った昨日の開幕日はプレスデーで、報道関係者と自動車関係の業界関係者のみ入場する日でした。何度か上海モーターショーに参加した事のある人に聞いたところ今年はいつもより人が多かったようですが、昔に行った東京モーターショーの一般日に比べれば私は全然少ないように思えました。
 それで会場全体の様相を簡単に述べると、やはりこれからっていうこともあって各社電気自動車をどこもかしこも一台は持ってきておりました。ハイブリッド車も多くあり、そのほか最近中国で人気の出ている大型のSUV車などがひな壇を飾っていたのですが、中国の自動社会社は地元メーカーと海外メーカーが車種ごとに合弁会社を作って複雑に絡み合っているようなもので、いちいち見ていてどこがどのメーカーだかで激しく混乱させられました。一回細かく調べてここで紹介してみるのもいいかもしれないけど。



 まず目を引いたのはアメリカのZAP社が持ってきた三輪自動車です。正面から見るとただのいかつい車ですが、後ろを見てみると見事なまでの一輪で、なかなか意匠の良さを感じます。ただ重量配分間違えるとスリップ時にぶっ飛びそうで怖いんだけど。

 

 次はおなじみトヨタのプリウス。下手に派手なコンセプトカーを見せるよりこうして性能が裏打ちされた車を持ってくる方が私としては評価ポイントが高く、トヨタの堅実さを感じます。ただ写真を撮る前にこの舞台でなんか変なショーが始まっちゃって、最初にとった写真はこんなでした。



 自分で撮っておきながら、なんでこんなの撮ったんだろうと悩む一枚です。
 このほか同じプリウスだとコンセントで充電する電気自動車バージョンもありましたが、スバルと共同開発(丸投げ?)しているスポーツカーのFT-86はあるかなと思ってきたら、こんなのだけしかきてませんでした。



 これも電気自動車でFT-EVって書かれてますが、多分ベースはアイQでしょう。お世辞にもデザインにセンスは感じられません。



 この写真は吉利汽車の、確か「熊猫(パンダ)」という車種です。国産メーカーの中でもこの吉利汽車は比較的小型車を製作しており、この車種もインターネットで販売するなどそこそこ支持がされております。私はでかい車よりこうした小さい車のが好きなので、こっちのメーカーの中でも好感を強く持つメーカーです。



 続いてのこの写真は、今度中国に進出してくる光岡自動車のオロチです。今の中国だと下手に量産車売るよりこういった高級で派手な車のが売れる傾向があるので、三岡の進出はそんなに間違っていないんじゃないかと思います。それにしても派手だなぁ。



 同じ見栄えで言ったらこっちのスバルインプレッサが白眉でしょう。全車種を通してみてもこのインプレッサのメタリックブルーの塗装は映えており、私の中でも特に好きな車です。ただ個人的にはシンプルイズベストの初代インプレッサの方が好きで、下の写真のような画像をよくパソコンの壁紙にしてます。



 でもっていよいよ私が贔屓にしてやまない三菱自動車ですが、はっきりってここのブースはガラガラもいいところでした。こういうのもなんですが置いてある車に目玉がなく、コンセプトカーも何が言いたいのかよくわからないこの二台でした。



 もう少し配色とか、派手さがあっていいと思う。
 あと中国で売る予定はないからでしょうが、世界初の量産電気自動車のアイ-Miev位はこっちにも持ってきて欲しかったです。日本市場での対抗馬となる日産リーフはいきなり不具合連発で五千台回収にあっているのだからここぞとばかりにPRしてもらいたいものですが、アイ-Mievはレアアース不足で一日三十台くらいしか作れないと聞きますし、中国に持ってくるのもなんか皮肉な気もしないでもありません。



 そんな三菱のブースに多かったのは、一応のフラグシップカーのランサーです。日本ではギャランフォルティスの車名で売られていますがこっちはランサーエボリューションともどもランサーの名前で売られてます。ランエボの場合は「ランサーエックス」、ギャランフォルティスの場合は「ランサーイーエックス」で、なんか見ていていろいろ紛らわしくなります。
 この車はフロントマスクは悪くはないもののバック部がずんぐりむっくりしたデザインで、以前のランサーほど好きになれません。むしろスバルのインプレッサのようにハッチバック仕様に統一してしまえばよかったような気すらします。ちなみにギャランフォルティスのスポーツバックであればハッチバックはありますが、値段が結構高い(190万円から)ので自分は全く買う気は起きませんでした。だったらインプレッサは150万円からだし、みんなこっちを選ぶよなぁ。



 最後はマツダのコンセプトカーです。ここの会社は全くブラックな噂しか聞きませんがデザインはやっぱり群を抜いてて、こうしたコンセプトカーもいつも面白いものを出してきます。トヨタもトヨタでいろいろ言われていますが、社員や取引先に販売する際は二、三万円は割り引いて販売するのに対して、マツダは取引先だろうが下請けだろうが無理やり定価で買わせるそうです。真偽については責任は持ちませんが、技術はあるのにもったいないなぁという気がよくします。

  補足
 何故か一部のアルファベットを全角で入力して投稿するとそこで文章が途切れてアップされてしまう現象が発生しました。恐らくブログの仕様でしょうが、これから運営にも確認をしてみるつもりです。そのため該当箇所はカタカナでと書き直して表記していますので、あまり気にしないでもらえると助かります。

2011年4月18日月曜日

複数人による犯罪の裁き方 後編

 昨日の記事に引き続き、複数人による犯罪をどう裁くかについて書いていきます。
 簡単に前回のおさらいをすると、人間は一人でいる時よりも複数人でいる時の方が抑制が効き辛く、犯罪にも手を出しやすくなるなるということを前提にします。その上である犯罪を複数人が実行した場合、一人がその犯罪を実行した時に課す刑罰を三人全員に課すべきか、それとも役割分担などによって分散などといった差別化を行うべきかという問題提起を行いました。

 この問題について以前に友人と議論したのですが、議論のポイントは集団心理による心理的ハードルの低下を人間性として考慮すべきかどうかでした。これは以前にも書きましたが日本の刑法というのは基本的にはどうすればその犯人を更正できるかという視点で組まれており、更正させるために一年が必要なら懲役一年の判決となり、更正が不可能と判断されれば死刑となります。この更正できるかどうかを判断する上で何が重要となるかといえば言わずもがなの人間性で、私利私欲で犯罪を行ったのか、始めからその犯罪を実行することによって起こり得る結果を知っていたのか、実行後に後悔や反省をしているのかというのがポイントとなり、実際の裁判でもこういった点が審議されるようになります。

 私が複数人の犯罪に対する刑罰について考えたのは、一人では自己抑制が利いてためらうような犯罪行為を複数でいたために実行してしまった場合についてです。一人だったらきっとそんな犯罪を実行しなかっただろうけど、仲間にほだかされて実行してしまった人に対してはまだ更正の余地があるとみて通常より減刑するべきかどうかといった具合に考えたのですが、この問いに対する友人の意見はというと、少なくとも犯罪を実行する段階でそれがどのように帰結するかは大抵わかるはずだとして、確かにそれを人間性と見ることは出来るとしても減刑の必要はないと答えました。その上で最初の問いである一つの犯罪を複数人で実行した場合でも役割によって分散させることなく全員が等しく同じ刑罰、つまり一人がその犯罪を実行した際に受ける刑罰を受けるべきだと主張しました。この友人の意見に私も同感です。

 ただ二人とも全部が全部この原則を当てはめるべきでないとして、たとえば主犯格に強く脅迫されて加担してしまったとか、オウム事件などのように強力なマインドコントロールなどを施された場合はその程度に応じて減刑、場合によっては無罪とする必要があるという意見で一致しました。原則は原則として持つとしても杓子定規的に当てはめるのではなく、やはりケースバイケースで一つ一つの事件を裁くべきだとしました。

 今回この記事で書いた内容は当初は頭の中にしまっておいて書くまでもないだろうと考えていたのですが、昨日に取り上げた連続リンチ殺人事件に続きちょっと考えさせられる事件の判決が出たことをきっかけに書く決心をしました。

闇サイト殺人事件(Wikipedia)

 この事件は「闇の職業安定所」というサイトを通じて知り合った男三人が大金を稼ぐ目的で始めから犯罪をするために集まり、帰宅途中の女性を殺害して現金やクレジットカードを奪ったという事件です。一審では二人に死刑、自首した一人に無期懲役刑という判決が下りましたが、一審判決に対して控訴しなかった主犯格の男は死刑で確定したもののつい先日に下りた二審判決では一審で死刑だった男、無期懲役刑だった男の二人に対して無期懲役が下りました。
 普通に考えるなら、あくまで普通に考えるのなら確かに自首してきた男に対しては減刑もあり得るかもとも思えますが、そもそもこの三人は始めから殺人をも想定した犯罪を行う目的で集まって実際に殺人を実行しております。そんな人間に対して果たして自首したからといって減刑を行う必要があるのかとなると強く疑問を覚えます。また一審死刑から二審で無期懲役刑となった男についても、死刑が確定した主犯格の男が殺害を主導したとしても始めから殺害をも想定した犯罪に加担しておきながら何をかという思いがします。

 この記事では敢えて「複数人による犯罪」と記述し、「集団犯罪」とは書きませんでした。法律的な定義を知っているわけでもなく具体的な違いを意識したわけではありませんが、集団犯罪と書くとなにか意味が異なるような感じがして使う気にはなれませんでした。私自身が個人主義思想が強いことが影響していると思いますが、すべての行動の帰結や責任は集団ではなく基本的には個人が請け負うべきだと考えております。今回取り上げた例はやや極端なものといえるかもしれませんが、集団や組織にいるからといって責任が分散されることはないという原則は集団に染まりやすい日本人だからこそ大事にするべきではないかということでまとめさせていただきます。

2011年4月17日日曜日

複数人による犯罪の裁き方 前編

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(Wikipedia)

 先日、上記にリンクを貼った事件での被告三人に対し、最高刑である死刑が確定しました。最高裁の上告棄却時にはニュースとなって大きく報道されていたので知っている方も多いと思われますがこの事件の概要を簡単に私から説明すると、当時未成年だった三人の犯人はわずか十日間の間、何の落ち度もない人間四人を金銭恐喝目的などのため凄惨なリンチを加えて殺害しました。しかも捕縛後の裁判では犯人らは未成年ゆえに死刑になることはないなどと遺族を愚弄するような発言を繰り返し、反省する態度はほとんど見せることがなかったそうです。

 結局一審では主犯格の一人が死刑、残りの二人が無期懲役となりましたが、続く二審では三人ともに死刑となり、今回の最高裁の棄却で高裁での判決が確定することとなりました。確定時のニュースでは犯行当時未成年だった人間に死刑が下りたというほかに、一度の事件で複数人に同時に死刑が下りたという点が強く取り上げられていたように思います。
 この事件と判決に対する私の感想を述べると、その犯行の凄惨さといい犯人らの態度を見るにつけ死刑以外は考えられず、高裁、並びに最高裁の判断を支持します。ただ今回の判決を受け、複数人による犯罪では責任と刑罰は分散するのか、という点についてすこし思うところがありました。言い換えるなら、一人で一人を殺害するのに対して三人で一人を殺害するのとでは、その処罰は変わってくるのかということです。

 私が今回のこの連続リンチ殺人事件の判決を報じるニュースを見た際に真っ先に思い浮かんだのは、かなり古いですが推理漫画というジャンルを開拓した「金田一少年の事件簿」の小説版第三巻、「電脳山荘殺人事件」という本でした。元々の漫画が推理漫画なだけにこの小説ももちろんミステリー小説なのですが、作中でミステリーマニアの集まりが完全犯罪の実行を目論見、確か八人くらいで役割を分担して目標とした人物の殺害を実行する話があります。
 これだけ見るのならミステリーによくある話なのですが、なかなかに印象的だったのはこの時の殺人を追及された際の犯人メンバーの中の一人が、「私は電話をかけただけだ」と弁解するシーンです。

 かなり昔に読んだので記憶がやや曖昧ですが、そのミステリーマニア達が殺人の際に一人一人が分担した作業というのは実に小さな作業の連続で、

・偽の電話をかけておびきだす
・あらかじめ電話ボックスのガラスを一部割っておく
・洗剤を捨てておく

 などとさすがに全部は覚えていないのですが、こんな具合に小さな作業を組み合わせて殺人を実行してしまうのです。この殺人について主人公の金田一一はその手口以上に、作業の分担により犯人たちが殺人に対して覚える罪の呵責が非常に小さい点が特徴だと指摘します。正直なところ、本編のトリックは忘れてしまったにもかかわらずこの点に関しては未だに強く記憶に残っております。
 このような一人では出来ないことも複数人ならやってしまうということは、みんなが渡るのを見て赤信号を一緒に渡ってしまうといったように実際の日常生活でも多々あるかと思います。複数人でいる場合、集団心理でも言うべきか倫理観などといった行動を規制するハードルというのは得てして下がるものです。

 私が今回の連続リンチ殺人事件で考えたのはまさにこの点でした。無論この連続リンチ殺人事件の犯人らの行動は許し難く死刑もやむを得ないと思うものの、今後このような複数人によって実行される犯罪には、「ほかに仲間がいたから」という意識が犯行を決心する上で後押ししたのかということを裁判で考慮すべきかどうかということで少し悩みました。また同時に、一つの犯罪を共同で実行した犯人全員に、一人がその犯罪を実行した際に与えら得る刑罰を全員に課すべきなのか、役割分担の内容で刑に差別化(分散)を行うべきなのか、先日に友人と簡単に議論をしたわけです。

 ちょっと長くなったので、久々に前後編に分けます。続きは次回にて。

2011年4月16日土曜日

気になるレジ袋、流通経路の謎

 私は毎朝バナナと食パン(生)を食べて出勤してますが、いつもバナナを買っている青果店のレジ袋が前々から気になって仕方ないので、本日写真をアップします。



 嘘かと思われるかもしれませんが、本当に上海のローカルな青果店で上のレジ袋が配られます。最初もらった時は一体何の間違いかと思いましたが、その後いつ行ってもこの袋があるのですでに四袋くらい保持しております。
 多分このレジ袋に書かれている「ジャパンミート」というのはこの会社のことだと思いますが、一体どういう経路でこのレジ袋がその青果店に回ってきたのか、下手な麻薬とかの流通ルートより気になります。

今日の買い物

 先日に家賃の支払いが終わってどうにかお金周りが落ち着きを見せました。というのも中国で部屋を借りる際は基本的に数ヶ月単位で契約しなければならず、敷金としての一ヶ月分を含めると一回目に支払う金額はなかなか高いものとなってきます。以前に借りていた部屋などは六ヶ月契約ということで最初に六ヶ月分家賃+敷金一ヶ月分で、合計七か月分の家賃を支払う羽目となりました。今度の部屋は大家が割りといい人というかめちゃくちゃしゃべるおばさんだったことが幸いし、二ヵ月分+敷金で、合計三か月分の支払いだけで済みました。金額も多分参考にしたい人もいるかと思うので明かすと、一ヶ月分家賃は3000元(≒36000円)で、京都で住んでた下宿のが安かったりする。まぁ都市部だから仕方ないけど。

 そんなわけでこれまで一回目の支払いがどれくらいになるかつかめずビクビクしていた日々から開放され、普段からケチなことで有名な私ですがさすがに今回はたまりにたまったものがあって消費意欲が高い状態で今日の週末を迎えました。まず買ったのは、これは昨日の仕事帰りですがパナソニック製の掃除機です。
 部屋がフローリングであれば雑巾をつけるモップで十分ですが、今度の部屋は絨毯のために掃除する際には掃除機が絶対的に必要でした。そこで何を買おうかとあらかじめいろんな店へ行っていたのですが、最終的に目星をつけた店で悩んでいると店員が寄ってきてパナソニックの小さい、それこそリビングに置いとくような縦型掃除機を薦められて300元(≒3600円)で購入しました。ちょうど通販サイトに画像が載っているのでリンクを貼って置きますが、見てわかるように明らかに小さいためこれで部屋を掃除することを考えたらちょっと辛いんじゃないか、余っている商品を店員に薦められてるだけなんじゃないかという気もしましたが、「使えないものを使ってこそ一流」だなどと変な気を起こして結局買っちゃいました。

 それで早速今日使ってみて掃除をしましたが、確かに小さくて場所をとらないのは非常にいいのですが、吸い口にローラがついてないのと妙に腰を下げて使わなければならないのとでちょっと失敗したかなとも思いましたが、吸ったごみは紙パックではなくプラスチックの内部にためられてすぐに捨てられるという単純な構造と、ごみの吸引力はなかなか高くまだ納得する掃除機でした。といいうのも前の住人のせいなのか自分が来るまで長らく空いてたのか、掃除をしたところリアルにゴミ袋がいっぱいになるまで埃がたまり、よくこんなところに一週間とはいえ掃除もせずに住んでたなどと自分で驚きました。ベッドの下からはタバコの吸殻とかが出てくる始末だし。

 こうした掃除機に加え、かねてから念願だったあるものも本日購入しました。もったいぶらずに言うとそれは自転車で、以前に買った自転車は引越しに持ってくることが出来ずに置いていったこともあってこちらで二台目の自転車を何にするか虎視眈々と調べ続けておりました。今度の部屋は自転車が置き辛く、かといって外においてたらすぐ盗まれそうなので当初はあきらめようかとすら思っていたのですが、ひとつこちらで主流の折り畳み自転車に手を出してみようかという案が出てきました。




 そんなこんだで購入したのが、この自転車です。折り畳むとこんな感じになります。



 折り畳み自転車としては比較的タイヤは大きい方ですが、普通の自転車と比べたらやはり小さく見えます。ギアは六段変速で、何気にSHIMANO製です。
 値段は560元(≒7200円)だったのですが、乗った感想としては思っていた以上に速度が出ます。当初はタイヤが小さいのでそれほど速度は出ないだろうと考えていましたがギアを上げれば通常の自転車と遜色なく簡単に時速20キロ程度の速度が出て、恐らく無風であれば時速30キロも問題なく出すことが出来るでしょう。ただ大きいタイヤに比べてこがない時の減速比率はやはり大きく、また漕ぎ出す際にハンドルを引っ張ると前輪が簡単に浮いてしまうことがあります。その一方でタイヤが小さいだけあって小回りが利き、車体の小ささとあいまって狭い路地で歩行者の動きに合わせる際は非常に運転しやすかったです。

 折り畳んだ状態は写真で見るといかにも小さくまとまっているように見えるかもしれませんが、実際に折りたたんで見ると想定といくつかの点で異なっていました。まず折り畳み方ですが、メインフレームとハンドルを畳めるものの、メインフレームは止め金はずしたら簡単に曲げられるかと思ったらそうそう簡単には曲がってはくれず、前輪持ち上げて軽く蹴らないといけないほど力がいります。また畳んだ後も確かにナリは小さくなっているものの重量は変わらず重たく、片手で持って階段とかを長時間上ったりするようにほいほい持ち運ぶことは絶対に無理です。
 そのほか見ればわかりますが畳んだ形はハンドルやらなにやらいろいろ出っ張ってるので一輪車みたいに壁に立てかけ辛く、架台もないためにこんな変な感じで座らせなるしかありません。むしろ元々の車体が小さいのだから、この際折り畳まない状態でストッパーかけて置く方がいいような気すらしてきました。

 とはいえ通常の自転車より格段にコンパクトでそこそこ乗れるのでまぁ悪くない買い物だったとは思います。余計なトラブルさえなければ。
 この辺が中国らしいというか、買う前から多分一つ、二つ、三つくらいは不具合はあるだろうなと思ってはいましたが、早速買った当日にサドル部のパーツが破損しました。乗ってる途中にちょうどジェットコースターが動き出すような感じで突然サドルが後ろにずれたかと思うと、サドルを突っ込むメインフレームのパイプ口につけられたプラスチック製パッキンが割れてフレーム自体も少し曲がってました。サドルはほとんどメインフレームが支えるのだから、そこまでパッキンに負荷はかからないのに。

 そんなわけでまた自転車を購入したショッピングセンターに約一時間かけて歩いて戻ったのですが、応対した自転車の販売員からは買った当日にいきなり壊れたことに驚かれた上、本当に今日買ったのかと何度もたずねられました。というのもそこで自転車を購入する場合は通常、自転車専門の販売員がブレーキパッドやギアの調整をした後で清算するのですが、私が購入した際は普通の店員に、「これほしいんだけど」と私が言ったら即、「じゃ、レジ持ってって」とその店員に言われて何の調整もせずに清算したせいで、自転車販売の店員も売った記憶がないために困惑してました。買った私の側も、なんで調整しないんだろうと疑問に感じてたくらいだし。

 ただその後の店の対応は悪くなく、最終的には同じ型の自転車と交換してくれました。最初買った方は調整なしだったために後輪のブレーキが弱かったのですが、新しいのは調整しただけあって以前よりブレーキがよくなりました。その一方で調整したくせにギアの噛みが不安定になり、外出ていきなりチェーンが外れたりしたけど。

 あらかじめ書いておきますが、本当にこういうことは中国では日常茶飯事です。売った後に何のサポートや補償もないことも多く、まだこうして対応してもらえるだけマシだと思えるくらいに自分もこなれてきました。多分この自転車もしばらく乗ってればペダルが外れるなりヒビが入るなりどんどん不具合が発生することでしょうが、そういうのにいちいちムキになってたら冗談抜きで体が持ちません。今回の自転車も、内心では900元の自転車を当初は買おうかと思ってたものの、どうせすぐ壊れるだろうと思ってこっちの560元の自転車にしたくらいですし。
 一番怖いのは乗っている時にどっかが壊れ、事故を起こしてしまう事です。特に自分なんか乗り方がやや激しいので注意してますが、今回はサドルが曲がる程度で済んで幸運だったと思います。漫画みたいに乗ってる最中にハンドルが突然抜けるなんてことがないのを本気で祈りますが、そういうことが実際に起こり得るのが中国だからなぁ。

2011年4月15日金曜日

銃が人を殺すのか

 今日事務所内で作業をしていたところ、どこかから迷い込んできた蜂が窓から入ってきました。さすがにハエ程度であれば誰も気にしませんが蜂ともなるとそうもいかず、誰かどうにかしろとみんなで言い合って最終的には私が新聞で叩き落としたのですが、飛んでいる蜂を叩いたものですから致命傷を与えることは出来ず地面に落ちた蜂は再び飛ばないもののまだ動いていました。そこで止めとばかりに二、三回続けて新聞で叩きましたがそれでもなお蜂は生き続け、それこそ上に新聞を置いて踏み潰しでもすれば一発だったでしょうがどうにもそうした気分にはなれず、散々叩いておきながら最終的には新聞にのっけて外に放り投げました。もしかしたらその後アリにでも食べられたのかもしれませんが、後でその場所に来てみると蜂の姿はありませんでした。

 仮に事務所内に殺虫剤があれば、私は迷うことなく蜂を殺虫していたと思います。私がとどめをためらったのは新聞紙で直接叩き殺そうとしたということにほかなりません。私が何故新聞紙で直接叩き殺せなかったのは思い切り叩いて地面や壁に変にこびりついたら嫌だと感じたのと、もはや飛ぶ力もないのに止めを刺すべきなのかと憐憫を感じたからです。もちろんそんなの私の勝手な感情といえばそれまでですが、殺虫剤だったら躊躇なく殺せるだろうと考えるとなんだか奇妙な感じがしました。
 殺虫剤であれば確かに破片がこびりついたり飛んだりすることなく殺すことが出来ますが、それ以上に変な言い方をするとごくごくスマートに、自分の手を汚さない感じで殺せるからこそ躊躇を覚えないのだと思います。敢えて例えて言うのであれば人間を金属バットで叩き殺すのと拳銃で撃ち殺すのとでは抵抗感が異なるようなものだと考えています。

 随分と不謹慎な言い方が続きますが、やはり銃で人を殺すのは殺虫剤で虫を殺すように自分の手をほとんど汚さず、スマートに殺せる手段だと思います。それゆえに鈍器や刃物を使って殺すのとでは抵抗感が非常に低く、仮に手元にあればちょっとした感情で使用して間違いを犯してしまう確率も高い気がします。アメリカ最大のロビー団体である全米ライフル協会は「銃が人を殺すのではなく、人が人を殺すのだ」というスローガンの下に銃の普及を訴えていますが、私はこれは完全にとは言わないまでもやはり間違いであり、銃が人を殺人に誘い込むのだと思います。

 そういう意味で変な間違いを起こさないようにするためには、身近なところに凶器となりうる余計なものは置かないに越したことはないと思います。それこそ90年代後半に一時流行ったバタフライナイフなどは仕事で使う人以外であれば以ってのほかで、使わないのであれば持たない方がその人にとっても周りにとってもよいのではないかと考えています。

 ちなみに私は生来の虫嫌いで見るのも触るのも嫌で、夏休みの昆虫採集なんて誰が考えたんだって言いたい位に毛嫌いしていました。たださすがに一人暮らしの経験を積んだことでゴキブリについては平気で靴で踏み潰す程度のことは出来るようになったのですが、先週にまた移った部屋はそれまでの手入れがあまりされていなかったためかゴキブリが大量に潜んでおりました。ちょうど使うこともあるだろうと思って日本から持ってきていたホウ酸団子を播いて現在対応中ですが、仕事が終わって帰宅するたびに毎夜あちこちにゴキブリの死骸が転がっているのを見て、気分的にはFF6のケフカになったような気がしました。

2011年4月14日木曜日

歴史が逆転する時

 このところ毎晩上司に夕食をおごってもらっている関係でなかなかブログを書く時間がありません。あとどうでもいいですが、OSが中国仕様なのが影響しているのかどうも文章書いてて漢字の変換が妙な具合に反映されます。

 そういうわけで困った時の歴史ネタですが、以前に聞いた話でもしかしたら陽月秘話時代にも書いているかもしれませんが、20世紀後半にヨーロッパで酸性雨が問題となった時期、ヨーロッパの各地では彫像や建築物が雨によって溶ける現象が続発していました。現在では大分改善されてそういったことはほとんどなくなってはいるのですが、そういった時期を過ごしているにもかかわらず観光地になっているような古代ギリシャに作られたような神殿などは一切溶けることはなく、往年のその姿を保ち続けていました。これは一体何故かと言うと、実は古代ギリシャの建築に使われたコンクリートの製造技術は非常に高く、それこそ二十世紀末になるまで同等の品質のコンクリートを作ることが出来なかったそうです。

 現代の生活をしているとパソコンを始めとして技術や製法というものは後の時代になればなるほど優れたものになると思いがちですが、実際の歴史を見るとこのコンクリートの例のように往々にして過去の技術が上回る、というより技術が時代とともに後退するということが起こっています。同じく古代ギリシャを例に取ると数学は次のローマ帝国時代には早くも後退し、十七世紀くらいになるまで追いつくことはありませんでした。

 日本だと職人芸がよく失われることが多く、代表的な例だと戦艦大和は現代のどんな技術を要しても再現することは不可能と言われております。何でも大和の装甲は溶接でもリベット止めでもなく、プラモデルのように何トンもある装甲同士に数ミリ単位の凹凸を設けて、それらを噛み合わせてつなげていたそうです。木や紙ならともかく、削ったり曲げたりすることの出来ない鋼鉄でよくそんな芸当が出来たものだとつくづく戦前の日本には感心させられます。

 これは社会主義の人間に多いですが、進歩主義と言って歴史というのは下っていくにつれて後退することなくどんどん良くなるという思想がありますが、私はこれは根本的に間違っていると考えております。知識や技術というものは本当にちょっとしたことで簡単に失われる可能性があり、それこそ発展させるだけでなく維持するということ自体も本当は大変な作業だと思います。東洋では「温故知新」という言葉を筆頭に比較的過去を省みる思想が多く、儒教に至っては紀元前十世紀の周の時代が最も良い時代で、いかにしてその時代に戻るかということが追求されるほどの徹底っぷりです。まぁそのせいで十九世紀はごたごたしたんだけど。