ページ

2012年4月18日水曜日

ルール変更に対する概念 後編

 前回に引き続き、社会ルールの変更に関する概念について思ったことを書いてきます。それにしても前回記事は調子が悪かったこともあってわかりづらいな。

 まず簡単におさらいすると、社会にははっきりと明示されているわけではないもののたくさんルールというものがあり、みんな無意識にそのルールに従って生活したり仕事をしたりしております。ただそれらのルールは時間と共に意外と変わることが多く、うっかりしていると置いてかれるということもありうるということが前回に言いたかったことです。
 ただ置いてかれると言っても、社会ルールというのは紙に書いて張り出されているものではなく、やたら新ルールを追いかけていたら元のルールに慣れた人間たちから総スカンを食らって袋叩きになることもあり、状況にもよりますがルールを追いかける上で加減というものは非常に大事になってきます。

 こうした新ルールを早くに追い過ぎた例として敢えてここで挙げると、鹿内宏明氏なんかそうだったんじゃないかとこの頃思います。知ってる人には早いですが鹿内氏というのはフジテレビや産経新聞をはじめとしたフジサンケイグループの元会長でしたが、1992年に社内クーデターに遭って経営職から解任された人です。何故鹿内氏が解任されたのかという理由についてはいろいろ説はありますが、一般的にはグループ内の企業を束ねる持ち株会社を作り統一した経営体制を作ろうとしたことに対して反発を受けたことが原因とされています。
 しかしその後のフジサンケイグループはまさにこの時の鹿内氏の構想通りに持ち株会社、フジ・メディア・ホールディングスを中心とするメディアグループが出来上がるわけなのですが、これを推進したのが鹿内氏を追い出した張本人である日枝久会長で、持ち株化を進める過程でかねてからの懸念通りにライブドアによるニッポン放送株の買い付け事件が起きたというのは皮肉以外の何物でもないでしょう。こう言ってはなんですが、初めから鹿内氏に任せておけばライブドアによる混乱も起きなかったんじゃないのというのが私の感想です。

 話は少し横道にそれましたが、基本的に新ルールには適応していかなくてはいかないものの、あまりに先を行き過ぎると失敗してしまうこともあります。ではどんな風にルールを追えばいいかが、まさにこれが重要となってきます。
 結論を述べると、ルールを追うも何もルールを作る側に回ることが一番強いです。これをは国際的に行っているのは言わずもがなのアメリカで、自分ところで新兵器を作っては危険性が高いと言ってほかの国には研究開発を禁止したり、貿易とか金融ルールを、「これがニューヨークのトレンドなんだよ(・∀・)ニヤニヤ」という具合で、偏見入っているかもしれないけど自分たちの都合のいい内容にして押し付けたりするのが異様にうまいです。ただくれぐれも言っておきますが私はこんなアメリカが好きですし、ほかの先進国も多かれ少なかれ、「自分のルールに相手を巻き込む」戦略というものを持っていると思えて、これが本来あるべき姿でしょう。

 それに対して日本、というか日本人はこうしたルール作りが非常に下手で、思考のスタートからして「どうやってルールに追いつこう」と、自らを大きく限定してしまいがちなところがあります。それこそさっきのライブドアのニッポン放送株買い付け事件も、合法だったにもかかわらず前例がないという理由だけであれほどまで総叩きくらって、日興コーディアルとかオリンパスがあの程度で済んだのに逮捕されて実刑くらうまでに制裁を受けるというのはちょっとやりすぎでしょう。
 概して、日本ではやはり保守派が異常に強すぎると言わざるを得ません。社会ルールも競争力があるとか合理性があるとかじゃなく、保守派にとって都合がいいかどうかで決まりがちだと思えますし、新分野を開拓して新ルールを作るなんて以ての外として扱われるでしょう。

 もちろん、重ねて言いますが新ルールを作ったり追従したりすることがなんでもかんでも正しいわけではありません。アメリカなんて自らが作った金融ルールによってリーマンショックを引き起こして自滅したわけですし、保守的な姿勢も伝統芸能とかそういったものを守る上ではいい面もあると思います。またなんでもかんでもルール破りを奨励するというのも、紅衛兵じゃないですけどそれはそれで破滅しか招きません。

 ではこんなことを言う自分はどんな態度を取っているのかというと、非常に傲慢ですが自分が納得するかどうかでそのルールを守るか無視するかをはっきりと決めております。その為、人によってはどうも異常に従順で安定を求めた生き方をしているようにみられることもあれば、山っ気が強く非常に反抗的な人物と両極端な評価を受けることが多々あります。こうなったのも日本における既存ルール下では不利になる立場であったため、かなり早い時期からルールを作る、もしくは改正する、果てには及ばないところに避難しなければならないという価値観を持ったような気がします。そもそも社会学自体が他の学問では自明とする因果関係をよく疑う学問なあたり、相性が良かったのかもしれません。

2012年4月16日月曜日

ルール変更に対する概念 前編

 大分昔ですが田原総一郎氏の講演会に出た時、田原氏が昔と今の政治の違いについてこう言っていました。

「高度経済成長期の日本は儲かって仕方がなく、当時の政治に求められたのは有り余るお金を如何に平等に分配するかだった。それが失われた十年に入った後は一転し、現代は労働や社会保障などといった負担を如何に分配するかが政治に求められている。無論比べるなら、お金を配る方が簡単に決まっている」

 現代政治の問題点から政治家の資質に渡るまで実に日本政治の要点を突いた一言だったので大変印象に残り、よく知り合いなどにも引用して話しております。ただこの発言内容はもとより私が真に注目したのは、時代に伴って政治のルールというか役割というのは容易に変化が起こり得るということで、今日はちょっとこの「ルール変更」について解説します。
 ルール変更というのは読んで字の如く、それまでのやり方や基準が改まるということです。それこそ何を以って社会ルールが変更したと考えるかは議論の余地がありますが、経年によるルール変更というのは概して徐々に行われることが多く、ルールが変わっている最中には全く気が付かず10年くらい経って初めて気が付く、というより分析されるものだと私は思います。

 ひとつ例にとると、現在真っ盛りの就職活動ではバブル期までいわゆる体育会系こと、上意下達の組織に慣れた運動経験者がとかく持てはやされました。それが失われた十年に入りますと就職氷河期に入って即戦力が求められるようになり、当時に実際に就職活動したわけじゃないので本当かどうかはわかりませんが、「資格を持っていると有利だ」という言葉をあちこちで聞きましたし、またボランティア活動をしていると奉仕意欲が高いと判断され受かりやすいなどいう噂も流れていました。
 それからさらに時代が下った現代に入りますと、まず資格については専門分野で何か持っていて当たり前、専門外においても何かしらあるのが常識化されているような気がします。その上でしょうもない資格については見向きもされなくなり上位資格かどうかが審議され、さらに「コミュニケーション能力」という定義の曖昧なものをどの会社も重要視するようになり、バブル期などと比べると隔世の感があります。

 これはあくまで一例ですが、これ以外にもこの10年間で当たり前だったものが見向きもされなくなり、逆に全く省みられなかったものが急激に評価が高まるという事例はたくさんあります。また評価基準だけでなく方法こと手段も改まることも数知れず、また就活を例にとるなら履歴書の書き方一つとっても数年度単位でかなり変わってきているかと思います。
 この社会ルールが変更されるということを通して私が何が言いたいのかというと、一言でまとめるのなら「昔成功したやり方が現在でも通用するわけがない」という一点に尽きます。それこそ過去の成功体験を持ってきても、、目に見えないところでたくさんのルールが変わっている今でも同じことをすれば成功するわけでなく、むしろ失敗する確率の方が高いかもしれません。

 こういった観点から私は、保守的か変革的かで比べれば後者の方がやはり強いと考えております。もちろんなんでもかんでも新しいものを追っかけて行って失敗することもあれば、かたくなに伝統を守ることで真価を発揮する分野もあるため絶対ではありませんが、一般論としてはやはり徐々に変化していくという組織や人間、果てには考え方の方がうまいこと渡っていけるんじゃないかと思います。
 言ってしまえばここで書いた内容は本当にごくごく当たり前の話で自分でもわざわざ解説するほどのことかと感じるのですが、それでも何でかこうかと思ったのかというと、政治家や実業家を初めとした責任ある立場にある人間に、ルールが既に変わっているにもかかわらずまだ気が付いていない連中が多いように感じるからです。具体的に言うのなら小泉劇場を批判していた政治家らで、あの時代を経て今の日本は自分が持つ政策論、方向性をきちんと説明しなければならなくなったにもかかわらず未だにサボっている人が数多いです。もっとも、政策論自体を果たして持っているのか、金さえ配っとけば本気で何とかなると思っているのではという人もまだ残っていますが。

 と、つらつらと書き並べてみましたが、ここから敢えて話を発展させてみたいとこの前考えてみました。具体的にどういう風にしたいのかというとずばり、「新ルールをどのように追えばいいのか」、または「新ルールをどのように作るのか」で、この点についてはまた次回に解説します。久々の前後編だ。

円安に対する解説が少ない件について

 今日も帰りが遅かったのでさくっと片づけられる内容です。その内容というのも3月から続く円安についてです。
 為替を毎日チェックしている人なら話は早いですが、1ドル70円台中盤にまで高騰していた日本円が今年3月に入ってからは急激に円安に振れ、現在においても80円台を回復したままとなっております。一時期は77円を越えていたことを考えると急激な変動ぶりと言わざるを得ないのですが、何故だかどこの経済紙もこの円安の動きについてその原因、果てには展望について解説する記事はとんとありませんでした。それこそ78円や77円を突破するごとにあれだけ大騒ぎしていたことを考えると、おかしなことこの上ありません。

 一体何故円安、80円台回復について誰も解説しようとしないのかですが、理由は簡単でこの為替の動きが日本政府による市場介入の結果だとみんな知ってて知らない振りしているからというのが、私と私の周りの意見です。っていうか、これ以外の理由を挙げる人がいるのならぜひ見てみたいしその理由も聞いてみたいくらいです。以前にも日本政府は為替介入をしておりますがここまで露骨にはしてきませんでした。それが何故今回は80円台を突破するまで、ここまで執拗に為替介入をしているのかというと、ひとえに時期が3月、決算月ということ以外にないでしょう。
 決算月には上場している企業はこの1年間の業績から総資産をすべて公開し、発表しなければなりません。また業績発表に合わせてそれまでの支払いなりの取引処理も行わねばならず、未収金なども可能な限り回収する必要があるのですが、これらの面で円高が続いたままだと輸出を多く行っている企業にとっては非常に不利になります。そのため3月に限り可能な限り日本政府は介入し、メーカーなどといった企業を陰ながら支援する必然性がありました。

 もちろんこんなの証拠なんてないし、日本政府も「やってるよー!」って正直に言ってるわけありません。ただみんな今の円安が自然な市場の動きではない上に、円安となっている根拠というか背景は全くなきに等しいです。それゆえこ政府介入は織り込み済みであることと、メディアもいちいち指摘して足を引っ張る、もとい輸出企業ににらまれたくないのもあって敢えて今の為替の動きを何も解説しないんだと思います。また今の動きはあくまで一時的だと思われますし、下手な予想をして下手こいたらかっこ悪いし。

 ただこうした露骨な政府介入について、誰一人として指摘をしないのもまた奇妙な感覚があります。世界史を選択してたくせにやけに古い日本文化に詳しい友人は以前に、「歌舞伎で舞台装置を動かしたりする黒子というのを、日本人はそこにいないものとして見えているけど見えないものとして扱う」という例を引用し、日本人は明らかに現実にあるものを時たま、全く存在しないものとして直視しない、反応しないところがあると指摘してました。なんていうか、いまの円安についても同じような印象を私は持ちます。

2012年4月13日金曜日

中国の雇用慣行

 昨日にあんなこと書いておきながら、北朝鮮のミサイルは今日飛んでしまいました。かっこ悪いことこの上ありませんが、解雇た事には公開してませんしまぁ仕方のないことです。それにしたって北朝鮮は間が悪い。

 話は本題に入りますが割と中国関連の話だと、自分の中では当たり前だと思っている内容でも知り合いの日本人に聞かせてみたら珍しがられる話が多いです。そのためどんな話が求められているのか内心よくわからないところがあるのですが、雇用慣行についてはどの人に話しても受けがいいのでちょっと解説しようかと思います。
 まずいきなり数字から出すと、去年の中国の離職率はある所の調査によると18.9%です。これは言うなれば約5人に一人が退職、もしくは転職をしたということを表しており、多分日本人からしたら相当高い印象を受けるのではないかと思います。もっとも計算方法は一部異なるものの日本の離職率も16.4%(2009年)なので実際にはそれほど差がないのですが、日本だと離職する人間というのは見え辛いというか隠すところがあるからかな。

 話は戻しますが、率はともかくとして中国では転職は頻繁に行われており全く珍しいものではありません。それこそ20代で5社くらい経験している人もいれば一年ごとに会社を変える人もいますし、日本とは違って社会全体で会社を辞めるということにためらいがありません。一体何故これほど転職が多いのかというとまずキャリアアップを目指す人が多い上、男性と比べればそりゃハンデはありますが女性でも出来る人は昇進できることもあり、現状より高い給料を用意してくれるというのであれば明日からでもと言わんばかりに転職に打って出てきます。日本でも最近になってキャリアアップを目指した転職が増えては来ておりますが、それでも中国と比べれば受け皿の面といい、まだまだ未発達と言わざるを得ないでしょう。

 その上で中国、というより日本独特の雇用習慣による違いも大きく影響しております。断言してもいいですが日本の雇用習慣の方こそ世界から見れば珍しく、無期採用が基本となっております。これに対して中国を初めとする世界各国は基本的に有期採用ことあらかじめ雇用期間を労使双方で定めて雇用契約を結ぶのが基本となっており、自分も現在の会社とは去年に1年契約で入社し、今年また更新をして現在も残って働いております。イメージ的にわかりやすいのはプロ野球選手の契約で、毎年のシーズンオフに年棒や契約期間を球団と交渉して決めるように、中国では会社と従業員が雇用契約について個々で話を持ち合います。
 もちろん1年契約を結んだからと言って被雇用者はプロ野球選手みたいに他球団へ自分の意志で移籍できないようにプロテクトされるわけではなく、また雇用主側となる企業側も何が何でも1年間は雇い続けなくてはならないというわけではなく、それぞれの都合によって期間中に転職することもあればリストラすることもあり得ます。私の感覚だとこれら有期契約は、「これから1年間はこの給与額で固定する」というような意味合いの契約で使われているような気がします。そのため契約が終了する時期というのは双方にとって給与額を変更するチャンスでもあり、プロ野球選手同様に「残ってやるからには給与を上げろ」とか、「ミスが多いから来年の基本給は10%減」などという熱い議論が交わされたりします。

 日中双方の雇用契約を体験した自分に言わせると、やはり中国、というより国際式の雇用契約の方が自分には馴染みます。日本にいた頃はそれこそ何をやっても給与額が変わるわけでもないですし、自分なんか仕事の少ない部署にいたものの同期は忙しい部署で働いてて、これで同じ給料をもらうというのはなんだか気が引けるように感じていました。もっとも今いる会社も日系なので、新たに担当する仕事が増えたからと言ってすぐその場で給与額が上がるわけじゃありませんが、契約更新の際に給与額を見直すチャンスがある分、アピールの仕方とかそういうものを常に考えられるので気持ち的にはなんか前向きになれます。
 ただ今年の自分の雇用契約について言うと、去年は新人ながらそこそこ頑張ったし多少胸の張れる功績も挙げられたという自負があったので、ジャイアンツの杉内選手みたいに契約更新時にはちょっと強気に出て、なるべく多くの昇給を勝ち取ろうと意気込んでいたのですが、契約更新月の前に上司に突然呼ばれ、「契約更新前だがお前の給与は上げておいたからな。また頑張ってくれよ」と言われてしまいました。自分も自分で「はい、ありがとうございます(;´∀`)」としか言えず、結局給与交渉に望むことなく自動的に契約更新となってしまいました。昇給額は極端に低かったわけではありませんが目標額は下回っており、感謝はしてますがなんていうか先手を打たれた気持ちでいっぱいです。向こうの方が一枚上手でした。

2012年4月12日木曜日

北朝鮮のミサイル発射日の報道

 余計な説明は不要ですが、現在北朝鮮が衛星といいつつミサイルを発射する準備を続けております。北朝鮮側はこれまでに発射予定日を12~16日と発表していて今日から予告発射期間内ということですが、生憎というか今日は発射されることはありませんでした。ただこの発射予定日を巡って日本の報道を見ているといくつか奇妙に感じる点が少なくなく、今日はその辺についてささっと書いて寝ようかと思います。

 まずいきなり結論から言うと、どうして昨日から今日にかけて「本日中にも発射か」という報道が多かったのかが気になりました。もう昨日の段階だと発射は完全秒読み、関係各所は対応にてんやわんやとまるで確定的かのような書き方が多く、確かに予告発射期間内に入るとはいえどうしてここまで強気な報道するのかが不思議でした。さらに言うと、その予測の根拠が全くないのも不可思議この上ありません。
 もっとも私がこのように感じるのも、中国での報道を見ているからかもしれません。とうのもこちら中国の報道だと先週から既に、「発射予定日は14日になりそう」という報道が出ており、こちらも予測の細かい根拠こそないものの日本ほど感情的な書き方ではないため、こう言ってはなんですがこっちの方が信頼性がある気がします。北朝鮮と国交のある中国の報道ということもありますが。

 こんなことを書きながら明日にも発射されたらちょっとカッコ悪いことこの上ありませんが、外から見ていて今の日本の報道はちょっと過剰反応し過ぎな気がします。栃木県なんかも防災メールを誤送信したようですし、無警戒というのも問題ですが必要以上に慌てるというのもまた問題です。まぁ理由は恐らくほかに報道するニュースがないからというのが何より大きいからだと思いますが。

2012年4月11日水曜日

富士通元社長の請求棄却について

 ここだけの話、ノートパソコンのカタログを見るのが非常に好きです。多分、中学生くらいの頃にパソコンが欲しくてたまらなかったのに当時は値段が高くて眺めるだけだった反動でしょうが、現在使っているNECのLS550/Eの性能には満足してながら、いろんなメーカーのパソコンを見てはデザインのいいノートパソコンを無駄に買い集めたいという欲求に駆られております。なお今一番注目しているのはエプソンのEndevorで、今まで一度も直販サイトで買ったことがないので試しにネットブック一台を日本で購入して実家に送らせ、親父に上海まで持ってこさせようかなとまで考えています。
 そんなノートパソコン好きの自分ですが、金輪際買うことはないと断言できるメーカーが二社あります。一社はパナソニックで、これはパナ系列の会社に務めている友人も同じこと言っております。もう一社は富士通で、キムタクが出ているFMVのテレビCMが神経を逆なでされるくらいに見ていて腹が立つのと、今日取り上げる野副元社長の不自然な解任劇からです。

富士通元社長の請求棄却、東京地裁が「辞任強要」の訴え認めず(ロイター)

 本日東京地裁で、2009年に虚偽の理由で社長職を解任されたとして損害賠償を求めた野副元社長の請求が棄却されました。この件における私の立場は断然に野副氏側であるため、今回の東京地裁の判決には首をかしげるとともに「この判決を下した裁判官は誰でえヽ(`Д´)ノ」と海原雄山ばりに怒鳴り込みたい気分です。あらいを持って富士通に突っ込もうかな。

特別リポート:富士通を覆う閉塞、社長解任の爪跡とガバナンスの行方(ロイター)

 事件の背景についてはこちらも同じく上記のロイターの記事がよくまとめてくれているので興味のある方は是非閲覧していただきたいのですが、念のため私の方でも簡単に説明させていただきます。
 まず事件が起きたのは2009年で、野副氏によるとその日の朝にいつも通りに出勤すると突然別室に呼ばれたそうです。別室では役員らがほぼ全員待っていたそうで、野副氏が親しくしていて富士通ともかつて取引のあったファンド企業が反社会的勢力との付き合いがあると告げられたそうです。更に当時の役員は既にこの事実はマスコミなどにもばれそうで、仮に発覚したら富士通は潰れてしまうため、どうか会社を守るために今この場で社長職を辞任してほしいと畳み掛けたそうです。しかも一事が万事で役員会議に出るのも危険だからと他の役員らの動議による解任で済ませ、今後しばらくは自宅から一切外に出ないようにと言われ、そのまま判断するまもなく極秘裏に自宅へ送り返されたそうです。

 野副氏はこの時のことを抵抗しなかった自分にも責任があるとしながらも、判断する間も与えず完全にだまし討ちのような手段で、さらに当時言われた内容は事実とは異なるものであったことから提訴すると決めたそうです。もちろん提訴することによって富士通のイメージは悪くなるため、このまま泣き寝入りすべきかとも検討したそうですが、っとこうした人の内面を他人があれこれ言うのは野暮なのでこの辺でやめときますが、第一、もし解任劇が野副氏の言う通りであれば徹底的に抵抗するのが筋でしょう。

 私が野副氏の立場に立つ理由はいくつかあります。まず第一に富士通は当初、野副氏の解任理由を「急病によるもの」と発表し、その後に野副氏の反論を受けて「反社会的勢力との付き合い」と訂正している点です。そもそも論としてもし野副氏が本当に知ってか知らずか反社会的勢力と付き合っていたのであれば堂々と役員会で解任し、その理由も正面から説明すればいいだけの話で、急病と詐称すること自体がなにか裏があるためとしか思えません。

 第二に、これがある意味核心をなす所でもあるのですが、野副氏と代表が親しくしていて今回槍玉に挙がったファンドことサンドリンガム・キャピタル・パートナーズは、今に至るまで反社会的勢力の交流があるとは一切報じられておりません。それどころかサンドリンガムはこの件で、判決が既に出ているかどうかはわかりませんが、名誉棄損として富士通を提訴しております。
 ロイターもこの点で富士通側に確認しているようですが、富士通側は「該当のファンドがサンドリンガムであるとは限らない」と発表しているようで、さらには問題のファンドが反社会的勢力と付き合っていると判断した理由については「司法以外の場では明かす必要がない」として回答を拒否しているそうです。何度も言いますが、正当性があるというのならもっと堂々とすればいいのに。
 止めに、これなんか私の友人が狂喜乱舞しかねない名前ですが、華麗なる一族ことあの堤清二氏がロイターの取材に対し、「サンドリンガムの代表者が反社会的勢力と付き合いがあるとは思えない」と述べており、しかも今回の解任劇を仕組んだとされる富士通の顧問にもそう説明していたそうです。あまり人を信用し過ぎるのもなんですが、私も堤清二氏が言うのであれば……という風に思っちゃいます。

 そして第三の理由、これはあまり詳しくないのですが野副氏が追い払われる理由が当時の富士通にはあるからです。報道ベースでしか見てませんが、なんでも野副氏が進めていた富士通の子会社であるニフティの経営統合案を快く思わない勢力がたくさんいたそうです。さらにこの統合において、例のサンドリンガムが仕事を請け負っていたというのだから私の中で信憑性は抜群です。

 これだけきな臭い話にもかかわらず東京地裁は今回、当時の役員らが該当のファンドと反社会的勢力が交流があったと信じるに足る情報があった、だから野副氏に辞任を求めたことは問題なかったという判断から賠償請求を棄却したそうです。しかもふざけきっていることに、「該当のファンドが反社会的勢力と関係があることが客観的に真実か否かは問題とされていない」と指摘しています。これはつまり疑惑が真実であるかは関係なく、そういったことが疑われるのならそれだけで解任してもよいとお墨付きを与えているも同然です。仮にこの通りであれば、今後はそれらしい情報を集めて気に入らない人間をいくらでも追放するといった行為が起こりかねず、非常に問題のある判断だと私には感じます。この件で何より大事なのは解任理由が真実かどうかであるはずなのに、この始関正光という裁判長は本当に理解が出来ません。

 野副氏は今回の判決に控訴をする予定だそうですが、私としても是非真実を明らかにしてほしく、陰ながら応援させてもらいます。それにしてもCMがクソなら会社もクソだな、富士通は。

2012年4月9日月曜日

小売りに見る消費文化

 ちょっと古い話ですが、この前に英小売のテスコが日本事業から撤退しました。撤退がわかった当初はそれこそあちこちがその原因を分析した記事を出してて、大体が日本の消費文化になじまなかったということを、すでに撤退しているカルフールの例や不振が続くウォールマートの例を出して解説するのがほとんどだったと思います。実はここだけの話、小売りというのは一見どの世界も同じような形態と見られがちであるものの、実態的には国や地域ごとの文化差が非常に激しい領域だと思え、どれだけ資本量が多かろうとも文化圏が異なれば成立しない業界だと考えております。

 一体何故このように考えるかですが、一つの理由として中国の小売市場を見ているせいだと思います。実は中国でも定期的と言ってもいいくらいにカルフールやウォルマートが撤退するのではというニュースが良く出ており、傍目には客が入っているように見えるものの業績自体は極端によくないという話をよく聞きます。またこれは家電専門店ですがアメリカのベストバイという家電屋は鳴り物入りで中国に進出しましたが、昨年に大幅な赤字を計上した上で撤退しています。

 ベストバイの撤退については現地で非常に細かな分析がなされましたが、最も指摘された原因というのはやはり「アメリカ式」という点でした。中国の家電屋というのは昔の日本と同じく、各家電メーカーごとに販売員が派遣されてきており、それらの販売員が各々客を接客して自社の製品を買わせるという仕組みになっております。なお余談ですが、友人が以前に掃除機か何かを買いに行った際、販売員同士が大喧嘩してえらいことになったと言ってました。
 話は戻ってベストバイですが、どうも進出当初は「豊富な品揃え」をアピールして、メーカーから派遣される販売員の受け入れは拒否していたそうです。そのためやってくる消費者も最初は真新しさで来ていたものの徐々に減り、後になってから販売員の受け入れを行ったものの結局再起を期せずして撤退と相成ったわけです。

 実は自分も以前まで、小売りというのは並べる商品さえ気を付ければどこがやろうともそんなに変わらないだろうと思っていたのですが、どうもこうした日本や中国で欧米勢が苦戦している様を見ると文化的な要因が非常に強い業界ではないかと思うようになってきました。さらに思い返すと、カルフールが千葉県幕張市にできた際に私が通っていた高校の保険のおばちゃんは、「やっぱあそこは広すぎて駄目ね。イトーヨーカドーくらいがちょうどいいわ」ってなことを言ってて、自分も同じような印象を覚えたことがありました。
 さらに言うと、中国ではお土産屋や衣類店などでは店員の給料が歩合制になっており、どれだけ接客して客に買わせたで変わってきます。そのためどの店員もうっとうしいくらいに、「何買う?」、「どれが欲しい?」って見ている傍から聞いてきて、「見てるだけだって」って言っていつも追っ払うようにしているのですが、この辺も日本人からすると程遠い文化に見えるかもしれません。

 なお最後につけ足すと、中国と日本ではまず欲しがる商品の嗜好が異なります。もちろん個人差はありますが全体的な傾向で述べると、中国人は性能や必要性といったものは度外視して、どれだけその商品が高級か、値段が高そうに見えるかを気にします。これに対して日本人はというとスペック偏重というか、どれだけ機能がついているかを重視し、カタログの数値を他の商品と比較するのがことのほか好むように私は思います。考えてみれば自分も、小学生の頃は自転車のギアが何段あるかをよく友達と比較し合っており、今思うと何を馬鹿なことをしてたんだろうという気になります。
 ついでに書くと、自転車のギアは適当に乗るなら3段くらいがちょうどいいと思います。8段とかついていたっていちいち切り替える手間のが大きいし、一番上と下のギアなんて使いどころがはっきりしなくて、専門的に乗らないならよしといた方がいいでしょう。まぁこんなこと言いながら日本で一番乗ってたのは6段ギアだったんだけど。