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2014年1月20日月曜日

沖縄・名護市長選の結果と今後の展望

 今日いじめに関するニュースを昼休みに見ていたら、「クラス全員からハブにされてたのかな」という文章が浮かぶやクラスメイト全員から呪詛をかけられハブの姿に変えられる生徒の姿が思い浮かんで噴き出していました。多分働きすぎなんだと思います。

 そんな自分の明日はどっちだ的な話は置いといて本題に入りますが、皆さんも知っての通りでしょうが昨日に沖縄県普天間市にある米軍基地の移設先候補である名護市で市長選挙が実施され、移設反対派である現職の稲嶺氏が新人の末松氏を破り見事再選を果たしました。当選発表後の会見で稲嶺氏は改めて移設反対の意思を表明し、沖縄県や国からの埋め立てなどと言った工事申請を拒否する考えを示しました。

 まずメディア報道に苦言を呈しますが、新聞各社で言えば産経がつまらなそうに報じた一方で朝日や毎日が楽しそうに報じている辺りは予定調和な感じがします。読売は短く、最後に政府高官の話をのっけているからどっちかっていうと産経寄りかな。
 これらの報道でちょっと気になったのは、朝日や毎日系列各社が候補者の得票差が約4000票となったことをやけに強調している点です。「4000票も差がついた」と書くとさも大差であるような印象を覚え、実際にこう報じたところはそのように認識させようとこういう表現を取ってきたのでしょうが、候補者両者の得票数は稲嶺氏が1万9839票、末松氏が1万5684票で、大まかな比率にして20:16=5:4だから決して圧勝ではなかったように私には見えます。当選した稲嶺氏は前回選挙時より得票数は増えたそうですが、私としては末松氏が受かると移設が非常に現実的になる事を考えると割とアウェイだったんじゃないかと見ていて、それにも関わらずこれだけ票を取ってきたのは正直言って想定外でした。

 とはいえ、どれだけの差だろうと受かったのは稲嶺氏です。移設反対派の稲嶺氏が受かったことによって普天間基地移設のスケジュールに影響が出るという点については産経を含めてどのメディアも指摘しており、勢い上げる朝日や毎日は政府は民意をきちんと反映すべきだとしており、移設計画の修正にも踏み切るべきだと言わんばかりの主張が透けて見えます。対する産経は「名護市長選 辺野古移設ひるまず進め」という実に産経らしい見出しで社説を打ってきて、日米同盟への影響を懸念しつつ稲嶺氏に再考を促すという、まぁ産経らしい香ばしい記事を書いてきてます。

 ただ正直な感想を述べると、私の意見も産経に近いのが本音です。仮にまた移設計画を修正するとなると普天間における現在進行の問題は今後も続くわけだし、基地移設に当たって補助金など出すべきものは税金から出してもいいからどうか計画を受け入れてほしいと個人的な意見として述べます。
 もちろん移設される名護市民としては何故自分たちばかりが負担をという不満を感じるのは当然でしょうし名護市に住んでいない自分がえらそうに言うべきではないのかもという気持ちもありますがそれでも書くと、沖縄に米軍基地を置くのは防衛上、地理上からの観点からであって、これを変な感情や意志によって曲げることは藪蛇にしかならないと私は思います。また神奈川県横須賀市みたいに米軍基地があっても米軍と仲良くやっている都市もあるのだし、軍事上、外交上の課題解消を優先してどうか前向きに考えて欲しいという思いがあります。

 こうした個人的な意見を述べた上で今後の展望についてやっと書き始めますが、たとえ稲嶺氏がどれだけ抵抗した所でやはり移設は強行されるのではないかと見ています。大きな理由としては今現在で安倍政権は支持率も高く、また先日も中国がまた国産空母を計4艦建造しているというニュースが出るなど中国脅威論が現実化しており、メディアがどれだけキャンペーンを打っても全国的な反対運動には至らないのではないかと考えているからです。仮に沖縄県知事である仲井眞氏が移設反対であればまだ話は違いますが今の彼は賛成派に回っており、たとえ名護市がどれだけ手続き面で抵抗しても裏道的な法規解釈によって潰されるのがオチじゃないかと思います。そもそも、自分は日本が法治国家とはあまり思っていませんが。

 あとこれは先ほど自分が述べた個人的意見にもつながるのですが、今月24日からまた国会が召集されますが、この問題で野党民主党は与党自民党に対して何も意見を主張できないし、したところで失笑される結果を自ら招くだけでしょう。理由は言うまでもないですが民主党は鳩山政権時に何の代替策もなしに県外移設を掲げた挙句に結局辺野古へと意見を振替してこの問題で大きな混乱を招いており、米国はおろか沖縄県民からも信頼されているとは思えません。となるとこの問題で批判できる勢力っていうのは、共産党はするだろうけどいかんせん勢力が小さすぎるのもありほぼ皆無ってところです。
 稲嶺氏が移設に反対する理由を全く理解できない訳ではありませんが、じゃあどうするのか、普天間はこのままでいいのかという問いがもたげ、それであればと批判を受ける覚悟で私は辺野古移設に賛成の立場を取るわけです。

 もっとも、完全に蛇足でしょうがやはり言わなければならないと思うので主張しますが、そもそも普天間の米軍基地が出来た当初は基地周辺は更地で、後から住民が流入してきたと聞きます。そういった経緯で出来たこの問題に果たしてどれだけ労力を注がねばならないのかと思うと、力技で一気に問題を解決しようとする中国がたまにうらやましく思えます。

2014年1月19日日曜日

電子書籍コミックス、出版各社の戦略

 つい先週までアクセス数トップだった「奈良ドリームランドを偲ぶ」を追い抜き、いつの間にか「足利事件の真犯人について」が二位、「地下鉄サリン事件、医療現場での奮闘と奇跡」が一位に繰り上がってきました。二位についてはこの前小学生の女の子が行方不明になって公開捜査された影響が大きいと考えますが、一位の地下鉄サリン事件についてはどうやらまとめサイトでリンクを貼ってもらったことが原因のようです。ただこのところ地下鉄サリン事件に関する掲示板まとめ記事を数多く見て、これも恐らくは平田被告の裁判が始まった影響でしょうが、事件を知らない世代も増えていることからどういう事件だったのか興味を持つ人が増えている気がします。ちなみに自分の記事ですが改めて読んでみるとよくまとまっていて、まぁこれなら人に見せても恥ずかしくはないかなと勝手に考えてます。

 話は本題に、というかちょっと手のかかる内容なだけに休日じゃないと書けないと思って今日まで引き延ばしてきたのですが、このところあまり自慢できないNexus7で電子書籍を買う機会が増えています。と言っても買うのは全部コミックスこと漫画ですが、日本の出版業界事情は世界的にもやや特殊でこれら漫画がメインであることを考えると電子書籍業界の先行きを占う上で重要なカテゴリーであると私は考えます。そんな電子書籍の漫画ですが、冷静に分析してみてみると出版社ごとに性格があるというか戦略が分かれており、今日は各社が今現在でどのように販売しているのか、どんな戦略を持っているのかを私なりにまとめてみようと思います。
 先に今回の分析での前提を説明しておくと、私が電子書籍を購入しているのはAmazonのKindleなので、今回の分析も基本的にKindleでの販売方法というか価格を前提にしております。


1、集英社:発売時期をずらした上での割安な固定価格
 「少年ジャンプ」を擁する漫画界の王者こと集英社ですが、ここが一番特殊というかもっとも際立った販売の仕方をしております。それはどんな売り方なのかというと、集英社は少年漫画、青年漫画の区別なくほぼ全ての漫画で同じ売り方を展開しており、その売り方というのも実体書籍が発売されてから約3か月後に1冊368円で売るという手法です。
 実体書籍と電子書籍の発売時期をずらしているのは印刷会社への気兼ねでしょうが、販売価格をどの本も368円という固定価格にしているのは実に面白い取り組みです。固定価格せいなので割引率は発行媒体によって異なっており、少年ジャンプコミックスの実体書籍が420円に対しヤングジャンプコミックスの実体書籍が540円であることを考えると、青年コミックスの方が割安で購入できる計算となります。

2、秋田書店:同時発売で小幅な割引
 調べたサンプル数が少ないのでもしかしたら本によって違うかもしれませんが、ここはどうやら実体書籍と電子書籍を同日に発売した上で、電子書籍の方はやや値引いて売っているようです。今回調べたのは私も購入した「実は私は」のコミックスですが、実体書籍が440円に対し電子書籍だと400円(または399円)で買うことが出来ます。こうした売り方が出来るのも、後で説明しますが集英社同様に印刷会社にあまり気兼ねする必要のない出版社だからじゃないかと推理しています。

3、講談社:小幅割引はあっても発売日は書籍別にバラバラ
 価格に関してはたとえば実体書籍価格が450円の漫画だと420円と30円引きになっていることが多いです。しかし発売日は書籍ごとに完全にバラバラになっていると言ってもよく、人気作の「進撃の巨人」や「ダイヤのA」は実態書籍と電子書籍が同日に発売している一方、「七つの大罪」という漫画は電子書籍版の発売日が数ヶ月ずらされております。さらには「はじめの一歩」に関してはどうも新しい単行本は電子書籍化すらされていないようです、最初の方はしてるのにね。


 上記三社を今回のサンプルに選んで調べましたが、やはり特筆すべきは集英社でしょう。電子書籍版の割引率で言えば群を抜いており、またどの単行本も区別なく同じ売り方で売っているのは確信犯でやっているように思えます。
 この売り方で効果を発揮するのは、連載開始当初は読んでいなかったけど途中から読み始めて最初の方の単行本を買おうとする購買層でしょう。368円であれば古本価格にも十分対抗できる金額であり古本で買うくらいならスマホやタブレットなどで読めるんだしと、私自身がそうですが電子書籍版を買う人が少なくない気がします。こうした売り方が出来るのは先にも述べた通り、集英社は出版する書籍のうち漫画が大半を占め小説など文芸書が少ないことからほかの出版社と比べて意見力の強い印刷会社を気にせず、独自販売がしやすいためではないかと私は考えます。

 同様に秋田書店も印刷会社を気にしなくていいというか、そもそも少年チャンピオンの発行部数がジャンプやマガジンと比べて極端に低いことからも集英社同様に気兼ねすることがないためだと推察されます。秋田書店のコミックスだと実体書籍にこだわりがない場合は電子書籍で購入した方が価格といい携帯性といい有利な点が多く、また先にも述べた通りに少年チャンピオンはお世辞にも売れている漫画雑誌ではないため、人気漫画だけでも単行本をより多く売るためにこういう手法を取っているのではないかと思えます。「バキシリーズ」といい、なんか単独の作品がバカ売れする傾向が多いしなここは。

 最後の講談社ですが、こう言ってはなんですが中途半端な売り方に思えますが、これは印刷会社への気兼ねから実体書籍の売り上げを維持せざるを得ないためにこういうやり方になっているように見えます。ここは超人気作の「進撃の巨人」などはためらいなく電子書籍版を同時発売していますがそれ以外は大した割引もせず、発売日もずらしているので「だったら実体書籍で買った方がいいじゃん」ってな状況を作ってるようです。多分「進撃の巨人」なんかは電子書籍版を同時発売しても実体書籍も確実に売れるからこうできるのでしょうが、ほかの漫画なども同時発売されると印刷会社に文句とか言われる可能性があるため、こうなっているのではないかとこれで今日何度目だと言いたくなるくらいに勝手に推察します。
 あまり出版業界に詳しくはない(新聞業界のが詳しい)のですが、人づてに話を聞いているとどうも印刷会社に出版社は頭が上がらないそうです。なんでそんな印刷会社がえらそうなんだと色々腑に落ちない点も多いのですが、電子書籍が普及すると間違いなく大打撃を喰らうのは出版業界ではなく印刷業界なので、それこそ嫌がらせとかだってしてくるのも理解できなくはありません。

 話を本筋に戻しますが、売上げ的には集英社のやり方が一番うまく、でもって奇策的には秋田書店のやり方もうまいように思えます。秋田書店のやり方についてもう少し深く書くとこの方法なら最悪、漫画雑誌が売れなくて赤字になっても人気作を作ることにさえ成功できればそこそこ稼ぎ出すことも可能になり、かえって発行部数が少ない少年チャンピオンだからやれるやり方なのかもという風に見えます。私個人としては旧作についてはもう少し割り引いてもいいような気がしますが、同時発売に踏み切る出版社が今後増えることによって漫画業界も今後、売り方がいろいろ変わってくるんじゃないかと思う次第です。

 一旦書き終えた後で再び書き加えますが、これら漫画の電子書籍版販売において何を一番念頭に置かなければいけないのかというと、私は古本との競争ではないかと考えています。特に旧作などは価格も安いということでただでさえ古本に購買層が流れやすい現在の状況からすると、電子書籍を多少割り引いてでもこれらの購買層に買ってもらうという風に誘導することで単行本当たりの収益がかなり変わる気がします。このように考えるなら、集英社がやっぱり一番うまいのかな。

  おまけ
4:スクウェア・エニックス:発売日ずらした上で割引なし
 電子書籍版の漫画販売で一番ファッキンな所となるとここですかね。というのも「EIGHTH」って漫画を読み始めてみようかなと思い電子書籍を見てみたのですが、一切の割引なしのフルプライス売ってやがって、これならブックオフで古本を選んだ方がいいやとなって購入に至っていません。ついでに発売日を調べてみたら最新刊の11巻は同時発売ですがそれ以前の巻は電子書籍版がややずらされています。ただでさえ「鋼の錬金術師」が終わってから不安定なのに、こんなんじゃやってけないぞと言いつつ、頼むからもう少し割り引いてくれという希望を書き残して筆をおきます。

   追記(2014年4月15日)
  この記事中で集英社コミックスの電子書籍版の価格は「368円」に統一されていると紹介しましたが、今日たまたま確認してみたら旧作は「300円」に統一されていました。タイミングとしては今年4月の消費税増税のタイミングで価格改定をしたのかもしれませんが、値下げするならもっと早く下げてくれてればよかったのに(´;ω;`)

2014年1月18日土曜日

ソフトよりハードな日本人

 また日本人論かと自分でもなんだかうんざりしてきますが、そろそろ打ち止めになるのでどうかご容赦を。それに今日は自分のネタというより友人のだし。

 ちょうど先週の土曜日、モーニングの誘いを華麗にスルーした友人がディナーにしないと提案してきたので焼肉屋に行きましたが、どうも客が大挙してきていたのか、はたまたバイトの店員が足りていなかったのかリアルに怒号が飛び交う店内を堪能しました。そんな焼肉屋を出た後、「甘いものが食べたい」と女子高生みたいなねだり方する友人と今度はミスタードーナツに男二人で行ってきたのですが、そこで「最近の日本人は語彙力が乏しい。かつては様々なニックネームが横行したが近年はこれというニックネームがない」と私が主張し、かつて書いた「センスのいいニックネーム集~プロ野球選手編」で挙げたニックネームを紹介していったところ友人が、「あのさ、全然話が違うんだけどそのニックネームを聞いていてつくづく思うのは、日本じってんってハード思想なんだなってことなんだけど」とぽつりと言ってきました。

 その友人が反応したニックネームというのは元広島カープ投手である北別府氏の「精密機械」というニックネームなのですが、これ以外のニックネームも合わせてやたら機械や道具といったハードに即した物が多いと友人は考えたそうです。更には日本人が得意とする擬人化も、最近だと「艦これ」などが典型ですがハードをキャラクター化するのに長けているもののソフトウェアを元に取ることが少なく、ソフトよりハードにこだわる日本人の思想がこういうところにも出ていると指摘してくれました。

 ソフトよりハード、と言えば聞こえはいいのですがこれは裏返すとソフトを軽視しがちな日本人の欠点も出ております。私の目から見て日本人は過分にこの傾向があり、たとえば製品の開発においてもまずハードこと製品の物質そのものから構想を高め、ソフトからスタートして開発を進める例は多くないように思えます。対照的にアメリカ人はソフト思想が強く、たとえばアップル社などはそれ以前から存在していた携帯音楽プレイヤーに直接音楽をダウンロード購入するサービスを付加させることでi-Podを作り、また同様にそれ以前にノキアやRIM社が製造・販売していたスマートフォンに対してシンプルさとデザイン性を追求した自社OSを組み込んで売ってきたのが言わずとしれたi-Phoneです。どちらもハードとしての製品は既に他社で発売されていたにもかかわらずソフトウェアを新たに組み込むことで半端ない売上げを実現しており、彼らがソフトを重視するという姿勢がよく出ている好例でしょう。

 日本人のハード思想は何も開発現場だけでなく、先ほど述べたニックネームなど文化的な側面にも出ていますし、消費者の志向にも現れています。たとえば自動車会社のホームページを見てみると日本ではどのメーカー、車種でも亥の一番に燃費のカタログスペックが出てきます。お国柄もありますが中国の自動車サイトではこのように燃費が表示されることはほとんどなく、また燃費に限らなくても日本人は家電製品とかでやたらとカタログスペックを気にするという声も聞きます。その一方で私から見て思うのは、デザイン性に対して日本人は無関心すぎるというかなんか日本の製品を見ていると性能はいいんだけど置いておくにはちょっと考えさせられるデザインが多い気がします。

 では日本人はソフト思想が弱いのかですが、これについては私はそうではないと考えます。たとえば先ほどの擬人化の例だとボーカロイドの「初音ミク」はそのソフトの性能と共に世界中で高く評価されたキャラクターでありますし、単純にソフトウェアサービスでも「LINE」は海外を相手に健闘してくれています。
 にもかかわらず何故ハード思想が日本で幅を利かすのか、これはそのまま幅を利かすというかソフトウェア思想の強い人材が出てき辛い環境にあるのかなという気がします。私が言うまでもなく発想力の高いクリエイティブな人材はかねてより、そして近年はこれまで以上に社会で評価され辛くなっており、実際にはそこそこ価値を生み出せる人材はいるのに周囲から評価されなかったりして世に出て来れないというのが現状で、そうした環境が循環するかのようにハード思想特化の道をひた進んでいるというのが私の考えです。

 最後に今後の世界情勢と掛け合わせて話すと、ハード思想特化への道は不利であるよりほかない気がします。かつての高度経済成長期のように物資の少ない時代であればハード思想は大いに威力を発揮して世界で戦っていく上で有利さを持っておりましたが、現代は物が溢れそれら数多くある競争相手から如何にして目に見える差をつけるかが大きなカギとなっており、その差をつける材料こそサービスやデザイン性だと思えます。ソフト思想に転向しろとまでは言いませんが、日本人の強すぎるハード思想を少し緩めてソフト思想をちょっとでもいいから身に付けた方がいいよというのが今日の私の意見です。

2014年1月16日木曜日

自販機業界の便乗値上げについて(#゚Д゚) プンスコ!

 昨年末に書いた「自動販売機の設置台数規制の提案」の記事の中で私はキリンビバレッジ、もとい自販機業界関連企業を批判しましたが、これ以前からもこの業界には不信感を強く持っておりつい最近でも如何なものかと思う行動をとってきたので、賛同者よこのブログに集まれとばかりに私の思うことを書いていくことにします。

コカ・コーラグループが4月に自販機価格を一部値上げ 消費増税3%分の転嫁を調整(産経新聞)

 上記リンク先の記事は数日前に出されたもので読んでいる方もいるかもしれませんが、読んだ方の中にはいくらかの疑問を感じられたのではないでしょうか。記事の内容は見出し通りで今年4月に消費税を現行の5%から8%に引き上げることによって原価コストが上がるって言うで、コカ・コーラグループが自動販売機での飲料価格を引き上げるという内容です。どれくらい上げるかははっきり書かれていないものの、これ以前の記事などではスタンダードとされている120円から130円に引き上げるのではないかとみられています。

 何が納得いかないかっていうと、なんで3%の増税に対して約8%(120円→130円)くらい値段を引き上げるんだよって点です。そもそも消費税が導入される以前の自販機価格は1本100円で、それが消費税が3%で導入された際に110円となりました。この110円という価格は103円にするくらいならと理解できるのですが、何故か飲料業界は消費税が5%に引き上げられた際は120円(+9%)に一律して引き上げてきました。っていうか、3%から5%へ引き上げられた際は100円→103円→105円>110円なんだからそのまま110円でよかったんじゃないのと日本中の誰もが思ったことでしょう。

 私個人としてはメーカーや小売店は自由に価格を設定するべきだし、デフレの世の中だからこそ各社売れる商品についてはどんどん値上げを実施するべきだという立場を基本にしています。しかしこの自販機業界に関しては消費税増税にかこつけた値上げの仕方があざとく、価格に全く合理性が感じられないことから強い不信感を感じずにはいられません。

 なおかつこの業界で腹立たしいのは、これは先月の話ですが業界各社が揃って公開カルテルと称し、スーパーマーケットなど流通業界に対して消費税増税に伴う価格転嫁分をメーカーに負担させないように申し合わせている点です。確かにこのところの小売店はPBブランドなどいやらしいことしているなと私も思いますし、そうした動きに対して個別ではなく業界全体で抗議して要求をするというのは至極もっともな行動です。しかし片一方でほぼカルテル的に便乗値上げをしておきながら流通業界には価格転嫁を認めないと公開カルテルに出るなんて、自分たちに都合のいい主張ばかり唱えていて見ていて癇に障ります。はっきり言えば馬鹿抜かせアホってとこです。

 そもそも自販機関連では最初にリンクを載せた記事でも書いてあるように、キリンビバレッジ社は自社の社員をゾッとするような勤務体系で働かせて過労自殺に追い込んでおり、数メートル間隔で自販機を設置するもんだからその電気使用量など社会コストも決して低くありません。改めて主張しますがこのような他者を省みない連中は社会から排除されるべきで、それこそ私が前回主張したように自販機の設置台数を制限するなどして規制をかけるべきだと思います。
 基本、飲料なんて原価が本当にたかが知れており、どんだけ電気代払っても自販機を設置すればするほど利益が伸びるような商品です。しかしそうして使用される電気消費のコストは社会全体が一部負担することにもなり、またやたらあちこち自販機が立っていう日本の景観も決して美しくなく、多少の不便を確保しても消費者は自販機を減らすよう努力するべきではないでしょうか。私もこのような考えを実行に移すべく、飲料はなるべくコンビニなど小売店でこのところ買うようにして密かな抵抗を続けるつもりです。

 それにしても、こういう意見を言うのが自分だけっていうのはさびしいなぁ。でもってコンビニで買おうとする自分の行動もまたみみっちぃなぁ。買うのは決まって1.5リットルのコーラで、なんで中国みたいに2.5リットル売ってないんだよと文句ばっか言ってますが。

2014年1月15日水曜日

家族のつながり、遺伝子のつながり

 突然ですが高校時代の友人に「火星人」というあだ名の友人がおりました。名付け親は自分ですがそこそこ定着して普段から「火星人テスト何点だった?」という具合で読んでたので携帯電話のアドレス名もそのまま「火星」と登録しておいたら、大学のサークルの先輩が自分の着信履歴を盗み見て、「なんやお前、火星と交信しとったんか!?」とあらぬ疑いをかけられる羽目となりました。

 話は本題に入りますが今一番ヒートアップしている芸能界の話題ときたらAKB48の大島氏のいきなり卒業宣言よりも、元・光GENJIの大沢樹生氏の長男の血統を巡る騒動でしょう。詳細については説明するまでもないでしょうが、前妻との間の長男のDNAを鑑定した所親子関係がないという結果が出て、まぁその後はごたごたというか未だに何が本当なのかよくわからない状況が続いています。私個人の印象としては会見に出た大沢氏の嗚咽ぶりを見ると嘘をついているようには見えず、またスクープは大沢氏自らが公表した物ではなく週刊女性の報道に端を発する騒動であることを考えると嘘をつく必要もないんだしななどと考えています。

 先日に私は日本人の家族関係は非常に希薄だなどという記事を執筆しましたが、今回の大沢氏の騒動などのように仮に血を分けたと思っていた家族が実は違ったなどと言うのはやはり計り知れないショックを受ける出来事のように思えます。昨年にも生まれた直後に取り違えられて別々の家庭で育っていたという事件がありましたが、ショッキングとしか言いようがなくそれこそ本人でなければ分からない苦悩があったのではないかと推察します。
 そもそも論で話すと、リチャード・ドーキンス先生が言っているように人間を含む生物の本能は自己の遺伝子を最大限増殖することにあり、血を分けた肉親や子供を大事に思うのは普通の感情です。逆を言えばそういう対象である子供を虐待するのは種として終わってるということですがそれは置いといて、肉親だと思っていた存在が実はそうでなかったというのは種として非常に大きなストレスを覚える要因においてほかなりません。それだけに上記の二事件の関係者の方々にはココアらから深く同情の念を覚えます。

 ただこの二事件とも誕生から相当程度の時間をおいて発覚したという点で共通しますが、これはこれで辛いものの誕生した瞬間にわかるというのも結構心が痛むような気がします。ネタにして悪いような気もするので実名をぼかしますが過去にあるスポーツ選手が奥さんの出産に立ち会ったところ、生まれてきた子供の肌が黒かったというお話のような事件があったそうです。もちろんその選手はその後、その奥さんとは離婚したそうですが。

 遺伝子がなんでもかんでも家族を規定するわけでなく、三国志における義兄弟みたいに魂のつながりによって出来る家族も存在しますが、このところは遺伝子の解析が進んできたことによってやはり遺伝子の一致性が絶対という風潮が前より強くなっている気がします。ここで少し話を変えますが私はこうした遺伝子絶対論ともいうべき風潮に対して文学部出身の人文主義者らしく「納得できないヽ(`Д´#)ノ 」などと言っては反論を展開してました。その一方で自分の記憶力と集中力は先天的なものがあると主張しているのですが……。
 しかし単に感情論だけで主張していたわけでなく、たとえばヒトとチンパンジーの遺伝子はなんと98%以上も同じだというのにどうして骨格や見かけ、果てには行動や思考力が異なるのか、遺伝子が絶対だというのなら絶対値で2ポイント弱の差がここまで分けるのかという疑問もちゃんと持っていました。そんな風に考えてネットを駆け巡っていたところ、どうもこのところ新説が出ているというか遺伝子だけがその生物のありようを決めるわけじゃないという意見が出ているそうです。では何がそのありようを決めるのかというと、細胞に含まれるウイルスが与える影響が大きいのではないかと出ているようです。

 ウイルスの定義は非常に難しく、問題のない言い方をするとタンパク質の一種としか言いようがありません。その原理や成り立ちなどもまだ研究が進んでいないのですが、一般的にはインフルエンザなどの病気の元のように悪い存在だと考えられがちですが、そうした人間に悪影響を与えるものもあれば普段は無害で細胞にずっとくっついているウイルスもたくさんあると聞きます。これらウイルスはその働きなどもまだよくわかっていませんが、これらの組成によって生物は種を跨いでいたり同じ人間という種においても個体差を分ける要因になっているのでは、というのが私が聞いた仮説です。
 私にとっては夢があるというか面白い話で、遺伝子だけが人間を規定しないという説に魅力を感じます。それと同時にタンパク質が与える影響と聞いて真っ先に狂牛病が浮かび、将来この方面の研究の需要が高まってくるのかなと思う次第です。

2014年1月14日火曜日

東京都知事選に対する予想(ー_ー)!!

 年末年始にテレビ付けている際にいくつかお笑い番組を見ましたが一時期のお笑いブームの頃と比べてどれも面白く感じられませんでした。その中で唯一面白かったのが、名前は知りませんが有るコンビがやっていたネタで、

「お会計は5000万円になります」
「猪瀬じゃねぇんだから払えねぇよ!」

 っていうネタがツボにはまりました。本来ジョークというのは政治を風刺するところから生まれたのだし、もっとこういうネタが世の中はやってもいい気がします。そんな猪瀬前都知事の後継を争う次回都知事選ですが、ようやく役者が出揃ったこともあるのでそろそろ私の予想と見方を書こうかと思います。

 まず現在までに出ている著名な候補者を挙げると、元厚生大臣の舛添要一氏、元航空自衛隊幕僚長の田母神俊雄氏、元日弁連会長の宇都宮健児氏の三人に加え、本日になり細川護煕元首相も立候補を表明しました。結論から述べると現時点では舛添氏がリードしているように見え、対抗馬が細川氏、残りの二氏とドクター中松氏は順位予想の賭けの対象にしかならないでしょう。

 当初、というか先週時点で私は次の選挙では舛添氏がほぼ確実と見て、誰が当選するかよりも1~4位までの順位を競馬の連勝枠みたいに予想する選挙だと見ていたのですが、今日になって細川氏が立候補してきたことを受けやや見え辛くなりました。仮に細川氏一人が出てくるというのなら名前は失念しましたがある自民党議員が行ったように「殿、ご乱心」で終わったことでしょうが、同じ脱原発を掲げている小泉元首相がセコンドについたこともあり、何かの拍子にひっくり返されるかもという懸念を覚えざるを得ません。

 それでも現状においてはまだ、舛添氏の方が情勢的に有利ではないかと私は見ています。その根拠としては厚生大臣時代の施政経験と与党自民党との太いパイプ、圧倒的な知名度を持っていることに加え、細川氏が脱原発を掲げて都知事選に出ることに違和感を覚える有権者が多いのではないかと考えているからです。仮に国政選挙であれば脱原発はテーマとして通用するものの、都知事になって原発問題にタッチするかと言ったらやや疑問です。
 その上で個人的な意見を述べると、実現性を無視したむちゃくちゃな理想論ばかり掲げて引っ掻き回すだけ引っ掻き回した鳩山由紀夫元首相となんとなく姿がダブります。また自分と同じ20代ならまだしも40代以降の世代であれば突然政権を投げ出したことを忘れていないでしょうし、こういう変節振りは未だ修正利いているとはとても思えません。

 ここまで読んでもらえればわかると思いますが、私個人としては次の都知事選では舛添氏を推します。理由は単純に無難であることとで、年齢がやや高いのが気になるので仮に40代くらいの若くてビジョンのある方が立候補するならそっちを推しますが、現状では舛添氏がやはり一番な気がします。
 私が次の都知事に期待することとしては第一に2020年の東京五輪を見据えた再開発、都市設計で、具体的には自動販売機設置台数の規制や汚い広告を広告主ごと闇に葬り去る景観規制などで、このほかとしては複雑すぎる東京都の地下鉄再編計画、ブラック企業の見せしめを兼ねた残虐な排除などもやってくれたら文句ないです。そういう意味で、脱原発というのはやっぱ二の次なんですよね。

 しかし相手はあの小泉元首相。セコンド役とは言えやる気は満々のようですし、既に一部で予想する意見が出ていますが、先程の五輪対策など数多くある論点をすべて無視して「原発にイエスかノーか」と言って、原発問題だけを争点にしようと動いてくると思います。もちろん私も原発については廃止論者でありますが、そういう事は国政選挙でやってくれというのが本音です。
 しかし仮に、都知事になってこれが出来るというのなら自分の意見は変わります。それはどんなことかというと東電の徹底的な締め付けです。

 東京都は東電の大株主であり意見なども一応行使できる立場にあります。このストックパワーを用いて大々的なリストラに加え原発作業員の直接雇用などを都知事として確実に踏み切るというのであれば、もしくはそういうビジョンを見せるというのであれば、まだ行っていることにも信憑性というものが湧いてくるでしょう。
 それにしてもこれだけやる気あるならと、小泉元首相が自分で出馬していたら確実に圧勝していたことでしょう。何故小泉元首相は立候補せず細川元首相を推薦したのか、最大の理由は元首相が表舞台に出るべきでないという自身の矜持と、並外れた政局の読みでしょうかね。危ない橋は他人に渡らせとけってとこですか。

2014年1月13日月曜日

家族関係が異常に希薄な日本民族

 このところ日本人論ばかり書いていていい加減食あたり気味ですが、何故か知らないけどこのところこういうネタばかり思い浮かぶので片っ端から書いていきます。これらの日本人論は基本的に日本人を持ち上げる物ではなくむしろ批判的な内容に染まっていますが昨日に友人から、「好きと嫌いは背中合わせだよ」というようなことを言われ、こういう内容でも参考にしてくれればという思いがもしかしたら自分にあるのかもしれません。
 なお私はプロフィールで専門は国際政治と社会学と書きましたが、大学在学中に在籍した学部は社会学で、その中でも人類学のゼミを受講していました。そういう意味ではこれら日本人論は秦に自分の専門にマッチした内容であるのかもしれません。

 それではそろそろ本題に入りますが最終的な結論から述べると、あくまで私個人の実感ではありますが誇張ではなく、私は日本人ほど家族を大事にしない民族を知りません。もちろん戦争中や宗教上の戒律などがある場合は別ですが、一般的な先進国における家族の中隊を見比べるにつけて日本人が最も家族をないがしろにしているように見えます。

 私が比較対象として考えているのは米国と中国ですが、米国に至っては児童虐待事件なども少なくないものの、普通の家庭では子供が成人した後もハグし合ったりしたり、お互いの誕生パーティを派手に開いたりしていて全く屈託がありません。そして中国に至っては儒教的概念からか明らかに一族意識が強く、旧正月には一族で集まったり、記念日などに親へ贈り物を送ったりする習慣がありその中退は非常に強いです。なお以前に日本で夫婦別姓が議論された際にある議員が、夫婦別姓にしたら日本の家族における紐帯が切れるなどと言って反対しましたが、中国は夫婦別姓にもかかわらず家族仲が日本よりよさそうに見えるのは私くらいなものなのでしょうかね。

 話は戻しますがこうした他国に比べ、残念ながらというべきか日本の家族関係はそれほど濃いようには見えません。子供が幼児であればまだアットホームな光景が浮かびやすいですが、一度成人にもなろうものなら非常に関係が希薄になり、私の周囲でもそれほど顔を合わせたくないという人が少なくありません。
 また仕事との関係でもこうした傾向は顕著で、日本では未だに仕事のために家族を犠牲にすることが美徳というか推奨されます。たとえば野球などでは米国から来た外国人選手が家族が病気などになるとシーズン中でも帰国しますがこれなんか批判の的になるし、このほか家族を優先して残業せずに帰ろうとしたら「やる気あるのか?」とすごまれる職場なんて星の数ほどあるでしょう。多分というか中国人なら家族を優先して仕事をさぼる、もとい頼んだって残業をしないほど自分の気持ちに素直に従うと思います。

 もちろん個別の家庭によってこうした家族意識は千差万別でしょうが、社会全体でみるなら家族という単位が日本では非常に弱く、それが組織への概念意識の低さにもつながっているように見えます。蛇足かもしれませんがやっぱり普段ユースを見ていて、児童虐待を行った親に対する報道というか社会の批判が緩すぎる気がします。今日日一人の殺人でも死刑が判決されるのだし、自分の血を分け、さらには何も抵抗できない子供を殺害する人間に対しては例外なく死刑でもいいと思うし、殺害まで行かずとも暴行を行う親に対してももっと社会が厳しい目を持ってヒートアップした報道がされてもいいような気がします。なんていうか、今の状況は淡白すぎるというか。

 また話は戻しますが、じゃあなんで日本人はこんなに家族意識が低いのか、「団塊が悪い」と団塊の世代のせいにしたら楽っちゃ楽ですしあながち間違っていない気もしますがもう少し考察すると、歴史的には日露戦争が一つの区切りだったかなぁという風に考えてます。
 日露戦争ときたら与謝野晶子で、出征する彼女の弟を心配する短歌が新聞に載ったら与謝野晶子が市民から批判されたという事件がありました。何が言いたいのかというと国家意識を高める教育をしていくうちに外見だけ「お国のために」なんて言っていたらいつの間にか本音と建前が入れ替わってしまい家族意識が微塵もなくなった、というには自分で書いておきながらですがやや強引ですね。

 まぁこの際原因は何だったかは置いといて今後日本人はもっと家族関係を濃くするべきなのか、このままを維持するべきなのかを少し考えます。私自身リアルに親戚と絶縁に踏み切るほど家族関係が希薄な人間の一人ですがそれでも敢えて述べると、本気で少子化対策を進める気があるというのであれば「家族を大事にするべきだ」というような標語を国家レベルで普及させるべきでしょう。
 昨日の記事にも続きますが突き詰めると日本の少子化は家族関係の希薄さが大きな原因のように思え、家族というものを大事にする日本人が増えることによってこの方面の問題が少し改善するような気がしないでありません。なのでそれこそさっきみたいに家族を優先したいのに残業を強制する様な企業に対して目立つところを二、三社くらい業務停止させ、大々的に発表しさえすればみんな一斉に黙るんだし、こういうところに着眼点を置いて政策立てたらどうかなって思います。

 最後に面倒な説法は嫌いな人は読まないことをお勧めしますが、自分の思想の原点は良くも悪くもキリスト教の概念が非常に強いです。そのキリスト教における重要な協議の一つに「隣人愛」という概念があり、これはどの人間に対しても隣人の様に愛せよという説明がよくなされていますがそれ以外の解釈として、ただ隣人を何よりも愛せよという説明のされ方もあります。これはどういう事かというと私の解釈で言えば、距離が近い身内の人間を大事にできない人間がどうして多くの人を大事にできるのか、身近な人から大切に思うことが博愛の精神につながるという風に見ております。