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2015年7月23日木曜日

家庭で親から受ける精神的影響

 昨日は負の連鎖を避けるためにも教育において家庭と学校の距離をしっかりと置いて、学校は独立した立場で子供に教育をしなくてはならないという持論を勝手に展開しました。物のついでなので今日は、家庭で親から受ける精神的な影響についてまたかってな主張を述べていくこととします。

 私は教育学を学んでいないのであくまで社会学の目線でこのテーマについて語っていきますが、社会学において個人の心的発達を考える場合、両親のことを「重要な他者」という言葉で表現します。この言葉の表現する通りに子供が親から受ける精神的影響は計り知れないほどに大きく、人格形成において一般常識通りに無視してはならない存在だと考えます。
 何もここで私がもったいぶって言わなくても、子供というのは多かれ少なかれ親の影響を受けて、その性格も多少なりとも親に似てくるところがあるのは周知の事実でしょう。ただこれだけを語るのであれば芸がないのでここで一工夫したことを書くと、子供が親のことを慕っていようが憎んでいようがその性格は似てくる傾向がある、と私は考えております。

 仲のいい親子で性格が似てくるというのは素直に想像できるでしょうが、仲の悪い親子同士でも性格が似てくると言っても疑問に持つ方もおられるかと思います。しかしこれまでの私の経験から言うと案外この傾向はあり、口汚く片方を批判する姿がもう片方が同じように批判する姿と非常にそっくりだなとみて、「なんだかんだ言いながらよく似てやがる」とほくそ笑んだことも少なくありません。

 では一体何故仲が悪くても似てくるのか。やや極端な例ですが、暴力の激しい家庭なんかがこれを考える上でいいモデルケースじゃないかと思えます。父親が激しく暴力を振るう家庭に生まれ、小さい時から散々に抑圧されてきた子供が成長して同じように子供を持つと何故かかつての父親のように激しく暴力を振るう親となる、このようなケースを耳にしたことのある人は少なくないでしょう。とある教育本で、「暴力で教えられた子供は暴力で解決しようとして、会話で諭された子供は会話で解決しようとする」と教える内容があるそうですが、社会学的にこの過程を分析するなら説得手段がただ単に暴力や会話だったからではなく、単純に親の性格を受け継いだからではと私なりには考えます。

 仮に嫌う人間がいたとしたらそのような人間になりたくないと思うのが普通です。しかし実際には部活動の上級生から下級生へのしごきのように、理不尽な行為を受けた人間が長じて同じような理不尽な行為を課すことは珍しくはないでしょう。
 昔、哲学科出身の友人にこういう事例を話題にしたところ、「恐怖というのは憧れと紙一重だ」といったような内容を教えられました。曰く、暴力に晒されている間は恐怖を感じて強いストレスを覚えるが、その一方で自分もこのような強い人間になりたい、他者をねじ伏せたいという憧れに似た願望が芽生えるそうです。この説明を聞いてなんとなくそうかもしれないと思うと同時に、虐待とまで行かなくても仲の悪い親子間で「こんな人間になるもんか」と思いつつも案外、そのような立場に取って代わりたいという憧れに似た感情を持つ人も少なくないのではと思え、なんかいろいろな疑問が氷解したのをまだ覚えてます。

 何が言いたいのかというと、親子間で仲が良かろうが悪かろうがどうあがいても親からの影響を子供は免れ得ないと言いたいわけです。下手すれば憎悪という感情が強い分、仲のいい親子より仲の悪い親子の方が案外似た者親子になるかもしれません。

 ただもしそうだとすると虐待を受けた子供は将来虐待を必ず行うということになりかねず、人文主義者でもある私の立場からするとそれは認めることができず、必ず後天的な教育によって人間は真っ当に生まれ変われるはずだとして最初に述べた学校の独立性を担保することで矯正を行う価値を強調したいわけです。
 学校で矯正できるとはいっても、親からの影響を100%排除することはやっぱり難しいでしょう。それほどまでに親からの影響は半端なく強いだけに、だからこそ虐待するなどといったおかしな価値観を持つ親からはもっと積極的に子供を隔離させるべきだと思え、子供は社会で育てるものとして行政にもそのような強い権限を持たせるべきではないかと個人的に思います。

 最後に逆の話として、親からの精神的影響をほとんど受けない人間とはどういう人間なのかを考えてみます。勝手な推論ながら結論から言うと幼少時から自我が相当強い人間、言い換えるなら人の話を全く聞かないアナキン・スカイウォーカーのような人間がそれに当たると自分を省みながら思います。
 人の話を聞かないことに関しては周囲から定評がある私ですが、これも周囲から言われますがほとんど親から性格的な影響を受け継がずに今日までやってきてしまいました。なんで昔から自我が強かったのかというともはや先天的としか言いようがありませんが両親と比べても性格的に一致する部分はほとんどなく、価値観に至っては完全に正反対と言っていいほど異なっています。
 もっとも冷静に考えると別に両親に限らなくても、自分みたくハイリスキーな性格が一致する人間というのが周囲に誰もいないように思え、親からの影響云々を議論する以前なような気がします私に関しては。

 なお名古屋に左遷された親父とは趣味は合ってても性格なり行動原理は全く逆と言っていいほど違ってますが、アルコールに弱いという身体的な特徴は完全に遺伝してどっちも甘党です。辛い物は自分の方が親父よりやや耐性が強く、上海で一回火鍋屋に連れて行ったら途中から親父は何も食べなくなりました。

2015年7月22日水曜日

家庭と学校を隔離する必要性

 先日知り合いにちょっと妙なことを吹き込んだので、それとやや関連するネタとして家庭と学校を隔離する必要性について今日は書くことにします。結論から言って、学校は家庭とは隔離するというか一種独立した立場を維持しなければならないと私は考えており、みだりに保護者の意見を聞いたりしてはならない上にむしろ家庭に対して口出しするべき立場を取るべきじゃないかと思います。

 まず何でもってこんなことを言うのかというと、中国で普段目にする子供があまりにもバーバリアンばかりだからです。そりゃ子どもなんだからと自分でも思うものの、中国の子供の身勝手さは日本の子供とは次元が違い、温厚な自分ですらたまにハッサンの様に「とびひざげり」とか「せいけんづき」を全力でかましたくなることがあります。
 どれくらいひどいのか具体例を出すと、これなんか昨日ケンタッキーのレジ前に並んでいたところ、前列が子連れの親子でしたが子供の方は常に動き回ってて、レジの乗ってあるテーブルに飛び乗ったり、飛び降りたりを繰り返し、私がオーダーする版になっても横で飛び乗ったり、飛び降りたりしていて何やねんと思いつつ母親を見ると、そ知らぬふりして携帯を見ているだけでした。

 こういう例は中国にいると本当に多く、電車やバス内を全力で走り回って他人とぶつかってもやめなかったり、金切り声をやたらめったら上げ続けたり、所構わず5秒ごとに唾を吐いたり(これは大人も)と、ガチで文明がない状態とはこういう事かと見ていてつくづく思い知らされます。しかもこのように子供が好き勝手やっている横でその親は大抵はニコニコ見守ってたり携帯見てたりしていて、一向に注意する雰囲気がないのが見ていてほんと腹が立ってきます。
 数少ない例ですが、中にはちゃんと注意する大人もいます。自分が見たのは一回だけですが、高速鉄道の中で大きな声を上げる子供に対して、「電車の中だから静かにしなさい」と、教養のありそうなお父さんが注意したのを目撃しています。逆を言えばマジでこれっきりなんだけど。

 こうした中国のバーバリアンを見ていて思うこととしては、親が親だから子も子なんだろうというのが何よりも大きいです。こうした無作法を無作法と思わない親だからこそ子も無作法とは思わずバーバリアンとなる、いわばバーバリアンの再生産が際限なく繰り返されているからこそ中国は大人も至ってマナーが悪い人が多いと言っても間違いないでしょう。
 ではこうした負の連鎖を止めるにはどうすればいいのか。やはり一番重要な役割を期待できるのは学校教育で、家庭では常識であることを一般社会では常識ではないと突っぱね、きちんとした価値観を子供に培ってもらうことが文明化への第一歩でしょう。実際明治期の日本における学校教育はこうした面を多分に含んでおり、日本という国家意識を植え付けると共に地域ごとの妙な悪習やら迷信を取っ払い、「日本人としての常識」を全国統一的に作り出す役割が大きかったと思います。もっともその過程で妖怪が隅に追いやられた感もありますが。

 翻って現代日本。いじめによる自殺があれだけ大きく騒がれたにもかかわらず私の予言通りにやっぱりまた繰り返されるなど学校教育に対する信頼感がやや薄れてきていると共に、家庭の一般的な価値観をもっと学校にも反映すべきだというような声も高まっているようにこのところ思います。しかし私の意見はというと学校はやはり家庭とは一線を画した立場を保持するべきで、学校があくまでまともな常識を持っていることが前提ですが、家庭の常識の介入を排した独立した概念をしっかりと子供に伝える役割を持つべきだと考えます。何故なら明らかに社会の常識から逸脱した親も今もってな多いので、そうした親による負の再生産を食い止めるためにも学校は家庭の声を必要以上に聞いてはならないと考えるからです。

 このように考えてみると、いじめ問題のアプローチもちょっと方向性が変わった見方が出てきます。よくいじめ自殺が起こると自殺した生徒をどうして守れなかったのか、どうすれば守れたのかというのが議論となりますが、逆のアプローチをかけるとならば、いじめっ子をいじめることのない無難な人物に変えることはできなかったのか、この点についてももう少し議論があってもいいような気がします。
 私が何を言いたいのかは薄々読んでてわかるでしょうが、報道されている話を見る限りだと案外いじめっ子の家庭というや両親も「ちょっと……」と思わせられるような人が多いようにみえます。そうした親から悪い因子を受け継がせないような教育、繰り返しになりますが負の連鎖を断つ教育法についての議論もあってもいいのではと個人的に思うわけです。

  おまけ
 昔、ある友人に「子育てをしないライオン」の話をしたことがあります。どういう話かというと子育てをしないライオン(♀)は子供を生んでも子育てをしないので、結果的にその子供は死んでしまってそのライオンの遺伝子は後世に伝わず、一種適者生存のような形でちゃんと子育てをするライオンの遺伝子だけが後世に伝えられるというわけです。この話に友人、「うんうん、そりゃそうだね」と納得してたので続けて私は、

「子育てをしないライオンの子供は死んでいく。しかし、人間社会の場合だと行政とかが介入するので……」
「よせ、それ以上言っては駄目だ!」

 と、友人にガチでそれ以上話を続けるのを止められましたが、改めて思い返すにつけ当時も感じましたがいい友人を持ったなと思います。しかし現実問題として虐待を受けた子供は長じて自分の子に虐待を行う確率が優位に高いのは事実であるため、だからこそここで述べた「家庭と隔離する教育」というものをある程度確立させる必要があると案外昔から考えているわけです。

2015年7月21日火曜日

日本の経済犯罪に対する処罰の軽さ

 最近やる気のない記事ばかり書いてたのでたまにヒア真面目に記事を書こうと、今日はまだまだホットな東芝の不正経理問題について書きます。

 電機大手の東芝が社内で不正経理があったことにより決算発表が遅れたことは皆さんの記憶にも新しいかと思います。この問題で調査を行った外部委員会は組織ぐるみの不正で、また歴代の経営陣が問題を未然に防ごうとせず、むしろその原因を作ったとして責任があるとの結論を下し、また社内調査でも同様の結果であったことから本日、東芝の直近三代の社長がそれぞれの役職から辞任することを発表しました。
 個人的にこのニュースを見て思ったこととして、東芝は西田厚聡元社長以降は派閥間の争いが激しくなり、社長職を巡って暗闘が続いていたとかねてから聞いていたので、今回の問題もそれに端を発した物なのかなと考えておりました。ただ今回、直近三代がまとめて辞任するので、こうした派閥間争いも少しは緩和されるのかなという期待も持てます。

 こうした東芝単体の問題と共にこの事件で私が感じたこととして、「アメリカだったらなぁ」という比較した考えです。アメリカだったらどうなのかというと、一言で言えば即刻で東芝は上場廃止になっています。むしろ、「不正経理」、「利益の水増し」、「数年続いている」、「外部からの指摘を無視」、「役員も関与」というフルコンボであることを考えると、一体何をすれば東証で上場廃止になれるのか、かえってわからないくらいです。
 こうした東証の大手企業に対する異常な甘やかしぶりは何も今に始まることではなく、2011年に発覚したオリンパスの不正経理事件の際もあれだけ大きな事件で巨額の不正だったにも拘らずオリンパスは上場廃止を免れており、正直この時は目を疑いました。もっともオリンパスの旧経営陣はさすがに逮捕されましたが、逆に言えば経営陣が逮捕されるような不正事件でも東証は上場廃止にしないってことです。

 今回の東芝の事件も役員連中は利益水増しについて知らなかったと話していますが、外部役員が急激な利益の増加ぶりについておかしいと指摘していたにもかかわらず黙殺していた点を考えると知らなかったわけないでしょう。そのように考えると今回の東芝からも逮捕者の一人や二人は出てきてもいい気がするのですが、オリンパス程は長期間に渡って行われた不正経理でなかったので多分見逃されることになるでしょう。
 しかし仮にこれが米国での事件だったらどうなるのか。まず確実に逮捕者は出ていたと予想され、でもって逮捕された元役員は懲役で10年以上はくらっている可能性すらあります。一般の日本人が知ってるかどうかはわかりませんが向こうでは不正経理に対する処分は非常に厳しく、懲役30年とかでるのもざらですし、とんでもないのだと70年とか一生出られなくなるくらいの懲役が科されることもあります。

 私の目から見て経済犯罪に対する米国の処罰はきつすぎるのではと思う一方、日本の処分は逆に緩すぎるように思います。それこそ一年や二年程度の不正経理なら「知らなかった」と言って修正申告済ませればそれっきりですし、長期間にわたるものでも自ら辞任するなど社会的処罰を受けていれば逮捕はまずまぬがれます。そして何より、どれだけトレーダーを欺いたとしても、どんなことしたっても大手なら上場廃止にはならないというのはオリンパスの例で証明されています。

 こうした日本と米国の経済犯罪に対する温度差はどこから生まれてくるかですが、単純に資本主義が成熟しているか否かということよりも何に対する責任に重きを置くのかという点において両国で大きく異なっていることが大きいように思えます。
 言ってしまえば経済犯罪というのは個人に対する罪ではありません。企業が不正経理を行ったところで誰か一人が大きな損害を受けることもなければ権利を侵害されることもありませんが、トレーダー全体では大きな影響となる、いわば社会に対する不正なり裏切りです。私が見る限り日本人は個人が損をする、侵害されるということに対して強く敏感である一方、社会に対する侵害に関してはやや無頓着な所があるような気がします。

 それこそBSEの時とかぺヤングに虫が入っていた際などは激しく動揺するとともに強く憤りを見せますが、社会全体に対しては大きな影響があるものの自分には直接的な被害がまず及ばないような経済犯罪だとほとんど興味を持たず、また処分なども軽めで済ませようとします。私が何を言いたいのかというと、そもそも日本人は社会に対してそれほど帰属意識を持っていないのでは、だからこそ社会に対する不正があっても自分、もしくは身内など周りが影響を受ける恐れが無ければ全く意に介さないのではなんて思うわけです。

 この辺また次回でゆっくり語ってもいいですが、一言で「社会」といってもその範囲は個人によって変わります。私の場合は極端に広くて下手すりゃ「人類全体」を指すこともありますが、一般の日本人にとってすれば「家族」の枠を少し大きく広げた範囲、具体的に言えば「家族+職場」が彼らにとっての社会全体であって、それ以上は関知しない領域となります。
 もちろんほかの国も多かれ少なかれそれくらいの範囲がメインとなりますが、日本と米国で絶対的に異なっているのはエリートが認知する社会範囲で、やはり欧米のエリートは日本と比べるとここら辺で差があるように感じます。なお中国の場合、人が多すぎるのでエリートであっても認知する社会の範囲は割と狭く家族程度であることが多いですが、その分プレイべーとでの友人との紐帯が強いのでピンポイントに範囲が広い人もいる気がします。

2015年7月20日月曜日

千葉のマッドシティ~良文堂書店

 久々にこのブログの投票機能を作って、「新国立問題で誰が戦犯なのか?」というアンケートをトップページ右上部に設けたので、興味がある方は投票していってください。ぶっちゃけ、候補に挙げた全員どれも問題抱えてるような気がするけど。
  そんなわけで本題ですが、今日は松戸ことマッドシティ市民なら恐らく誰もが知っていると思われる、良文堂書店松戸駅前店を紹介します


 上記写真の良文堂書店は松戸駅東口目の前にあり、松戸駅とはコンコースが直結していて夕方くらいになると帰宅者たちが大勢目の前を通っていくのでいやでも目に入ります。写真はそのコンコースから取られた写真で、この入口から入ると良文堂書店の2階に入ります。

 この本屋の面白い所はなんと6階建ての本屋になっており、階層ごとに置いてある本のジャンルが分けられています。適当な記憶に従って書くと、確か1階は雑誌類、2階以降は文芸書、文庫、漫画、教育参考書、児童書などに分かれてたような気がします。最近行ってないからほんと記憶が曖昧。
 階層は2階ならばコンコースから直接入れますがそれより上は店内の細い階段を昇り降りしなくてはならないのでたまにしんどさを覚える時があります。ただジャンルごとに階層が別れているので捜したい本は割とすぐ見つかるし、雑誌を立ち読みする人とかに邪魔されずに店内を歩き回れるのは地味にいい点だったりします。

 あとこの本屋で特筆すべき点は、個人的には受験参考書の充実ぶりです。松戸駅前には大手予備校の河合塾松戸校舎があり、またその近くには予備校生寮もあることが影響しているのか、ほかの本屋と比べてもこの良文堂にはやたら受験参考書がずらっと置いてあります。私も赤本(大学別の過去問集)は全部ここで買って、関西の大学なんかよそではあまり置いてないのにここにはしっかり置いてあって非常に助かりました。

 オチらしいオチはありませんが、駅の真ん前にあるという立地上、電車で移動する前とか通勤途中に立ち寄るという意味では非常にいい本屋です。ただ松戸はやたらと本屋が多く、競争相手も多そうな気がするので内実はどうなのかなとちょっと気になっていたりもします。

2015年7月19日日曜日

かつて餓えた日々

 適当に書くネタがパッと用意できないというかさっき上海から帰ってきたばかりでもあるので、私が餓えていた学生時代の日々について少し書こうと思います。

 一言で言って、学生時代は本当に金がなかったです。別に使ってもよかったのですがわざわざ東京の大学を蹴って京都に下宿しながら進学した負い目もあったのでなるべくお金は使わないように節約し、差し当たって削りようのある食費は自分の気力の許す限り削っておりました。もちろん自分以上に削っていた人間もおり、具体的には「冷蔵庫は必要ない」と主張してやかんでスパゲッティをゆでていた友人もおりましたが、私自身はとにもかくにも余計なおかずを買わずに白米で乗り切る戦略を取り、そのせいか白米の消費量は一食で2合食べることがざらでした。

 またおかずも60円のコロッケとか、酷い時はキムチのみで乗り切ることもあり、大体夕方くらいになると今晩何を食べるのかという事ばかり考えるほどでした。ひどい時なんかはあまりにもお腹すいて夜眠れなくなったこともあり、また夢でたくさん食べて満腹感を感じた瞬間に目を覚ますという貴重な体験も経験しています。

 あとお腹がすくと甘いものに餓えるというか、お菓子への欲求が非常に高まりました。とはいえお菓子を買うと家系に直撃するため、如何に少ない投資で腹の足しになるお菓子が買えるかを友人などと必死で研究したこともあり、最終的な結論としてはホットケーキを大量生産するか、100円のビスケットを買うかというところに至りました。それでもホットケーキとビスケットだけでは飽きてくるため、具体的に言えばチョコレートが無性に食いたくなる時があり、ある日断腸の思いで「きのこの山」を買って口に入れた時は涙が出そうになるくらいおいしく、今でもあの時の感動というか味覚を覚えている程です。

 なんで今日こんな記事を書いたのかというと、今日たまたま寄った上海の森ビルことSWFCの地下にあるローソンで「たけのこの里」が売られているのを見て、「きのこの山」と「たけのこの里」のどちらが優れているかというのはある意味一つの日本の論点だろうななどと思い浮かべ、そういやあのときの「きのこの山」はうまかったなぁなんて思い出したからです。もっともここまで書いておきながら、私は「たけのこの里」の方が好きだったりします。

2015年7月17日金曜日

三国志で打線組んでみた

 最近ホイールのクリック反応が悪かった私のロジクール製マウスですが、今日思い切って上蓋取っ払って中を見てみたところそもそもホイールスイッチは弄れない設計になってて意味がなく、仕方ないので投げたりしてました。多分に私がマウスを酷使しているということもありますが、どうもロジクールのマウスは値段の割にはやたら壊れやすいような気がしてなりません。前のマウスも一回投げたら壊れちゃったし、デザインも正直気にらないので無線キーボードとセットでなければ使わずに済むのにと思って仕方ありません。しょうがないからまたロジクール製で買い替えるけど。

 それで話は本題ですが、今日日本ではプロ野球のオールスターゲームが開催されていますが、それに触発されたので三国志の国ごとに打線というか野球チームを組んでみました。選考はあくまで私の視点によるもので、有名な武将を敢えて中心にして選んでおります。てなわけでまずは蜀からどうぞ。

<蜀>
(スタメン野手) (ベンチ野手)
1 魏延 レフト 劉封
2 趙雲 ショート 孟達
3 関羽 三塁 廖化
4 張飛 一塁 沙摩柯
5 馬超 センター
6 黄忠 キャッチャー
7 馬岱 ライト
8 関平 二塁

(先発) (リリーフ)
諸葛亮 蒋琬
龐統 費禕
法正 馬良
徐庶 伊籍
姜維 馬謖

 まず蜀チームで特筆すべきは圧倒的といえるくらいの超重量打線でしょう。3番の関羽と4番の張飛を筆頭にどこからでもホームランが飛んできそうな打線でありながら、2番の趙雲の様に小技も効かせられる武将が多いのも特徴です。なおベンチの沙摩柯は助っ人外国人枠として敢えて入れてみました。
 一方、投手陣の方はというと先発は一見すると隙のない布陣に見えますが、龐統と法正はどちらも選手寿命が短く、徐庶もワンシーズン、下手すりゃ1試合限りのレンタル移籍要員ですので、姜維が育つまでは実質的にエースの諸葛亮がほぼフル登板しなくてはならないという、やたら史実に近い台所事情となっています。リリーフ陣は決して悪くないものの絶対的なストッパーはおらず、またこの中から先発に昇格させられそうなのもいません。馬謖に至っては登板するごとに炎上しそうなので運用に当たっては注意が必要です。
 それとどうでもいいけど、「伊籍が移籍」なんていうくだらないダジャレを思い浮かべたことがあれば、あなたはもう立派な三国志マニアです。

<魏>
(スタメン野手) (ベンチ野手)
1 夏侯淵 ライト 李典
2 夏候惇 レフト 楽進
3 張遼 二塁 曹真
4 許褚 一塁 曹洪
5 徐晃 センター 于禁
6 張郃 ショート 曹彰
7 典韋 三塁
8 曹仁 捕手

(先発) (リリーフ)
荀彧 郭嘉
荀攸 陳羣
程昱 鍾繇
賈詡 満寵
司馬懿 劉曄
韓浩
楊修

 魏チームは野手、投手共に選手層がとにもかくにも分厚いという一言に尽きます。打線はさすがに蜀の超重量打線と比べると見劣りしますがそれでも一線級の武将たちで構成されており、また代打要員も粒揃いであるためスタメンの一次離脱があったとしても戦力の低下はほとんど起こり得ないでしょう。
 投手陣も盤石の一言に尽き、先発は一応五人揃っていますがリリーフの中からも先発に切り替えられる武将、っていうか文官もいるため、こちらも打線同様に欠員が出てもすぐ穴が埋まってしまうような充実ぶりです。なお郭嘉は先発にするべきか悩んだ挙句、抑えの切り札にしようと思ってリリーフに入れました。
 強いて弱点を挙げるなら、先発五番手の司馬懿が背信投球をやらかさないか監視が必要ってくらいでしょう。ってかこいつ、首が180度回ったっていうから二塁のランナー警戒する時は便利そう。

<呉>
(スタメン野手) (ベンチ野手)
1 甘寧 ライト 徐盛
2 朱桓 センター 丁奉
3 程普 二塁 蒋欽
4 周泰 三塁 朱然
5 太史慈 一塁 孫韶
6 凌操 ショート
7 黄蓋 レフト
8 韓当 捕手

(先発) (リリーフ)
周瑜 張昭
陸遜 張紘
呂蒙 諸葛恪
魯粛 闞沢
諸葛勤 虞翻

 呉チームは投手陣にいい選手が揃っており、先発が周瑜、陸遜、呂蒙の三本柱が君臨しているだけでなく、抑えも張昭、張紘のダブルストッパーが控えていて、下手すりゃ三国(三鷹~国分寺間)一と言っていいくらい充実しています。
 しかし打線はというと投手陣の充実ぶりとは対照的に一発の破壊力に乏しく、幸い足が早そうな武将(印象でしかないけど)が揃っているので小技を駆使して点を取っていくか、日ハムの大谷選手ばりに打つ方も投げる方も二刀流できそうな呂蒙を主力バッターに組み込んでいくといった大胆な戦術を取らざるを得ないでしょう。
 なお先発の魯粛は、好投しても味方の援護に恵まれなさそうな気がする。

<総評>
 上記のチーム編成案は大体10分くらいですぐに大枠が埋まるくらい簡単に作ることが出来ました。それほど意識して作ったわけじゃありませんが、案外実際の史実通りの国情に近いチーム構成になっており、このように野球チームに見立てて国家なり軍隊なりを分析比較するのも手法としてアリかもとやってて思いました。
 そもそもなんでこんなことを急に思いついてやったのかというと、以前流行った「もしドラ」こと「もしも高校野球部の女子マネージャーがドラッカーを読んだら」という本を思い出し、「もしも高校野球部の女装マネージャーが孔明だったら」というくだらない想像をして、だったらチーム作った方が面白そうじゃんと思いついたことがきっかけでした。ぶっちゃけ、作っててそれなりに楽しかったです。

2015年7月15日水曜日

書評「新・観光立国論」

 どうでもいいネタ挟む余裕ないのでいきなり本題ですが、例の冷凍たこ焼き好きの友人が「これを読め」というので、元ゴールドマンサックスのアナリストで現在は日本で文化建築物の修繕事業を営んでいるイギリス人のデービッド・アトキンソン氏による、「新・観光立国論」を紹介します。もっとも、結構売れてる本だからそこまで宣伝しなくてもいい気はしますが。
 この本では日本の観光事業について元アナリスト、というより日本在住歴の長いイギリス人としての観点からあれこれ物を語っています。全体の内容を一言で要約するならば、「独りよがりの自己満押し付けてんじゃねーよ(#゚Д゚)<JAP!」(意訳)と言ったところです。


1、日本の観光産業の立ち位置
 基本的には元アナリストらしく種々のデータを引用した上で日本の観光産業の立ち位置を説明した上で、現在の課題と日本人の無知ぶりを厳しく指摘しています。いくつかそのデータを引用すると、世界銀行がまとめたGDPに対する各国の観光収入の比率を最初に囲繞し、世界平均が1.8%であるのに対して日本はたった0.4%と極端に低い状態にあるとした上で、国別の国際観光客到着数のデータを連投しています。こちらのデータは下記に私も引用しましょう

<国際観光客到着数ランキング>
1位、フランス:8473万人
2位、アメリカ:6977万人
3位、スペイン:6066万人
4位、中国:5569万人
5位、イタリア:4770万人
12位、香港:2566万人
22位、韓国:1218万人
26位:日本:1036万人

 見てもらえばわかる通り、日本は他の先進国はもとより東アジアの中でもかなり下位に属する位置にあることがわかります。なお24位はクロアチア、25位はハンガリーですが、日本人からしたらこの国は観光的にはそれほど魅力があるようには見えないと思いますが、欧米人から見たら日本も同じ程度のレベルに見られていると作者は指摘しており、意訳するなら「身の程を知れっ(#゚Д゚)<JAP!」、といったところです。

2、観光大国の四条件
 ただ日本の観光産業がこれほどまで小さいということは「伸び代はあるってことだ(#゚Д゚)<JAP!」(意訳)とも語っており、その伸びしろを認識する上で重要な要素となるのが観光大国の四条件だと作者は述べています。その四条件とは「自然」、「気候」、「文化」、「食事」の四つだと述べ、観光大国フランスはもちろんこの条件を備えており、また日本もフランス同様に満たしていると太鼓判を押しています。なお作者の故国である英国は「気候」と「食事」に欠いており、残念ながらフランスに大きく劣ると認めてます。

 ただこの四条件ですが、日本人はほとんど認識していないどころかまともなPRすらできていないと厳しく断言されちゃっています。では日本は外国人観光客を誘致するに当たって何をPRしているのかというと、何故だか「国としての知名度」、「治安の良さ」、「交通インフラの充実」が最も多いとした上で、「三つとも誘致に当たって何の効果もねぇよ(#゚Д゚)<JAP!」(意訳)と批判しています。
 一つ一つ述べてくと知名度があるからわざわざその国に行く奴なんていませんし、同様に治安がいいから観光に行くなんて、じゃあインドとかタイは日本より治安悪いのに何で観光客多いのか。でもって交通インフラが充実しているから見に来るなんて鉄道マニアくらいだと切って捨ててます。なおこの三つを三つともPR文に載せている意味の分からない会社として何故だか「星野リゾート」をここだけ名指しで批判しています。何か嫌なことでもあったのかなここに、俺もあるけど。

 総じて言えばPRのポイントが根本から間違えているとして、「逆にそういった点を少しずつでもいいから修正していけば、ポテンシャル自体は高いのだから高い成長を期待できるぞ(#゚Д゚)<JAP!」(意訳)と、フォローをきちんと入れる辺りは英国紳士です。

3、おもてなしに対する疑問
 恐らく友人が何でこの本を私に勧めたのかという理由の一つとして、この日本の「おもてなし」という言葉に対する作者の意見も大きかったんじゃないかと思います。作者はこの本の中ではっきりと、「もうおもてなしなんて言葉は使うな(#゚Д゚)<JAP!」と述べており、去年あたりからずっとこのブログで私が主張してきた内容と同じことを主張しています
 はっきりいますが日本人の言うおもてなしというのは自己満足そのもので、外国人からしたらそれ程質の高いサービスでもなければむしろ邪魔くさくて鬱陶しいマナーに見えることのが多いです。サービス対応一つとっても日本ではちょっとした注文というか変則オーダーですらやれ規定が、ルールが、上司がなどと言っては対応を断ることが多く、また飲食店などで英語がほとんど通じないというのも地味に問題です。私の方から断言してもいいですが、日本の「おもてなし」は上海市の一般的なサービス水準と比べても質が劣ります。

 更に作者はこうした「おもてなし」に代表される日本人の自己満足に外国人がケチをつけたり満足しなかったら、「あいつらはモノのわからない野蛮人だ(#゚Д゚)<鬼畜米英!」」などと逆批判をして、彼らが求めるサービスを探ったり、能動的に対応していこうとすることに無関心すぎるところがあると指摘してますが、はっきり言えば私もこれに同感です。結局、日本の価値観に合う外国人しか誘致しようとせず、折角誘致できる可能性の外国人を自ら排除して稼ぎ的に非常にもったいないことをし続けているのが日本人だと分析しているわけです。

 以上がこの本の主だった内容ですがこの記事の目的上、敢えて辛辣な文体で書いております。この文体に対して読者がどのように感じるかはさておきこの本の中で作者は実際には、卑屈なくらいにへりくだった文体で内容を説明しております。どれくらいへりくだっているのかというと、「私は日本が嫌いなわけではなく本当に大好きなんです。だからこそ潜在力の高い日本の観光産業はそのポテンシャルを生かし、大きく伸びてもらいたいのです」、といった内容の言葉が一体何回出てくるんだよと言いたくなるくらい繰り返されています。
 これは私と友人の想像ですが、多分作者は日本での駐在生活で相当苦労したんだろうなぁという気がしてなりません。会社の同僚に、「もう彼は半分中国人ですから」とリアルで言われたくらいに日本離れしている私に言わせると、きちんとデータに基づいた当たり前の内容を指摘すると何故だか日本人は強い拒否感を示した上で怒り出す傾向があります。この本に書かれている内容も徹頭徹尾、普通に考えたらその通りだと思える当たり前な内容で占められていますが、恐らく普通に口頭で話したら、「お前は日本を貶そうっていうのか?」とまず反感を買うことが私にも予想できます。それこそ、「日本のおもてなしは日本人の自己満だ」なんて言ったらどうなることやら。

 だからこそ作者は耳を傾けてもらうためにも卑屈なくらいに、「悪気はない、ただ君たちにはもっと良くなってもらいたいだけなんだ」という言葉を繰り返したのでしょう。しかし私としては外国人であるのだからここはびしっと、「いちいちめんどくせーんだよてめーら日本人はよ(#゚Д゚)<JAP!」、というくらいきつく言ってもらった方が案外日本人にとってよかったのではと思う節があり、敢えてこの記事では辛辣な文体に意訳しました。
 もちろん日本の観光産業について、当たり前だけど日本人は当たり前の事すらまともに言えないだけに貴重な意見をたくさん提供してくれてて非常に価値がありますが、それ以上にまともなことを普通に言っても日本人は全く聞いてくれないんだなということがこの本読んでて強く感じ、そっちの方が私の印象には強く残りました。ある意味、海外に出ている人間の方がこの本読んで思うこと多いんじゃないかな。

 勢いで一気に書きましたが、我ながら有り得ない書評になったなという気がしてなりません。