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2015年12月13日日曜日

南宋末期の襄陽・樊城の戦い

 「樊城の戦い」とくれば三国志マニアにとってはお馴染みの名場面で、魏・呉・蜀がそれぞれの思惑で動き、最終的に関羽が敗死したことで三国間のパワーバランスも大きく変化するなど歴史上でも大きな影響を残した重要な戦いです。しかしこの地こと現在の湖北省襄陽市近郊ではその後の時代においても重要な戦いが起こっており、今日はその一つである南総末期に起こった襄陽・樊城の戦いについて紹介します。

襄陽・樊城の戦い(Wikipedia)

この戦争が起きたのは13世紀の1268年で、この時代の中国は北半分をモンゴル民族が打ちたてた元が治め、南半分を漢民族の亡命政権である宋(区別するため「南宋」と呼ぶ)が治めるという一種の南北朝時代でありました。パワーバランス的には圧倒的に元の方が上でしたが複数の民族の連合政権的な特徴を持っていたことと、当時の中国北方地域は食料や製品などといった物資を南方地域に依存していて交易を続けていたため、南北朝に分かれた後でもなかなか統一実現に動くことはありませんでした。

 しかし当時の皇帝であり日本への元寇でもお馴染みなフビライ・ハーンは長年の悲願でもある中華統一をめざし、南宋への遠征軍を仕立てると重要軍事拠点であった襄陽・樊城へと軍を進めました。この元の遠征軍に対し南宋側は、当時南宋国内でも随一の将軍であった呂文徳と、その弟である呂文煥に守備させることにさせ、長期間の籠城にも耐えられるよう膨大な物資を運びこんだ上で元軍を待ち構えました。

 こうして準備万端整えていた南宋軍でしたが、フビライはかつてこの地の奪取に動いたものの失敗した遠征に同行しており、力攻めが非常に難しいことを理解しておりました。そこでフビライが採った戦法というのも南宋軍と同じく持久戦に持ち込むというもので、補給地をしっかり確保した上で樊城を丸ごと土塁で囲い込み包囲するというこれまたビッグスケールな作戦でした。
 これに動揺というかびっくりしたのは南宋軍で、長距離からの遠征軍だからてっきり力攻めを仕掛けてくると思ったら逆に持久戦を採ってきたので肩すかしを覚えつつも、ただ黙ってみているのではなく包囲の隙を突いて何度か攻撃を仕掛けたりしましたが元軍はほとんど反撃せず守り続けるだけで、仕方なく城内へ引き返すだけという有様でした。

 そして、五年間が過ぎましたとさ……。

 世界史上ではウィーンやコンスタンティノープルなど数年間にも及ぶ包囲戦というのはままありますが、この時の樊城でも長期間の籠城戦が続きました。この間、1271年には兄貴の呂文徳が病死し、また外部から包囲を解こうとほかの地域から送られてきた南宋の援軍が何度か元軍に挑みましたが悉く返り討ちに遭い、この際十万もの援軍を率いた范文虎という将軍は大敗して後に元軍へ降伏しております。
 そんな苦しい逆境にありながらも兄の遺志を継いだ弟の呂文煥は必死の抵抗を続けていましたが、本国へ何度も出す救援要請は以前から折り合いの悪かった宰相の賈似道にあまり相手にされなかった挙句、緊急であるという事実すら皇帝には隠されてしまって文字通り手も足も出ない状態が続きました。そこへきて元軍が新兵器の「回回砲」という原始的な木製大砲を用意して攻撃しはじめ、この兵器によって城壁がもろくも崩れ去っていくのを見て呂文煥もついに降伏を申し出て、足かけ五年にも及んだ籠城戦は1273年に幕を閉じます。

 降伏した呂文煥は敵ながら見事な指導力と持久力を持つとフビライに評価されそのまま元軍の将軍に任命されます。そしてそのまま南宋の首都臨安(現在の浙江省杭州市)に至る途中で各都市を時には陥落させ、時には説得によって無血開城させ、大いに大功を立てたそうです。ただこの進軍中には降伏したと見せかけ、呂文煥を暗殺しようとする将兵が待ち伏せしてて命からがら逃げたということもあったと記録されています。

 ウィキペディアの記述によると、この呂文煥は国家に背いて降伏したもののその戦いぶりから「反逆者」などと非難されることはあまりなく、むしろ同情の目で見られることが多いと書かれています。果たして本当かなと思い中国のサイトなどを覗いてみましたが、中には「漢民族の奸(漢奸)だ!」と非難する人もいましたが、どっちかっていうと「戦うだけ戦いつくした人物じゃないか」、「降伏しなければ元軍に国土が蹂躙されていた」、「それ以外もう手がなかったのでは」などと、確かに擁護する意見の方が多いように見えました。
 私も同意見で、先程見た中国語のサイトだと「五年間籠城していた頃は英雄、降伏してからは反逆者だ」なんていう意見もありますが、死ぬことが必ずしも国への忠かと言ったらそうでもないと考えてますし、またフビライ側も彼を優遇することによって南宋の諸都市に安心感を与え、無血開城させ余計な被害を抑えようとした向きもあり、敢えて言うなら「国破れて山河在り」という言葉を実践するのに大きな役割を果たしたと思える人物です。

 なお呂文煥は南宋滅亡後も元に重臣として仕え、日本への遠征に賛成していたそうです。また樊城の救援に来て元軍に降伏した范文虎という先程出てきた将軍も同じように賛成したところこっちは1281年の弘安の役に従軍させられ、台風で船が悉く沈む中で将兵を置いたまま命からがら中国に戻ってきましたがそれが後年になってから敵前逃亡だと告発され、1301年に時の皇帝である成宗によって斬首されましたとさ。
 南宋末期のキャラは意外と日本にも関わってくるからこの時代は面白かったりします。

2015年12月12日土曜日

荒れ狂う週末


 今日手袋を購入するため立ち寄ったユニクロが入るショッピングモール内で撮影したのが上の写真です。画像が小さいためちょっと見辛いかもしれませんが池の中にいるのは金魚で、見ての通り子供たちが金魚すくいならぬ金魚釣りをやってて、「ほんま釣れるんかいなこんなん」とか思ってたら目の前で一匹釣る人が出てきて、慌てて携帯カメラ出したが間に合いませんでした。
 なお、自分もちょっとやってみたいなと興味はありました。


 そんな金魚釣りを見てから数分後、同じモール内の広場で会ったのがこの遊具です。また急いで撮影したから左の兄ちゃんが主役っぽいですが真の主役は右から中央にあるクレーン車で、なんとこれ、子供用の遊具でした。
 写真の奥の方で子供が乗って動かしてますが、クレーン部分が動いて目の前にある枠の中の砂を掻き出して隣に移し替えるという遊び方のようです。地味にいい動きして、「俺もこれやってみたいんだけど」と思いならシャッター切りました。子供ばっかりずるい。

 話は少し戻りますが今日なんでユニクロくんだり手袋買ってきたのかというと、単純にそれまで使っていた手袋失くしたからです。自分のような自転車乗りにとって手袋はマジ必需品でこれまでは自転車メーカーGIANT純正のでっかい手袋つけてましたが、この前バス乗った際に社内で脱いでポケットに入れてたら車内で片方だけ落としてしまい、泣くに泣けない状態で雨の中打ちひしがれながら帰宅しました。
 仕方ないので買い直そうと今日午前にGIANTのショップ言ってみてきましたが、まぁどれもこれも高いこと。一番安い夏用みたいな薄いんですら99元(約2000円)だからもうちょい安いのを捜そうとあちこち回って、最後ユニクロにたどり着いてヒートテック仕様の手袋を90元(約1800円)でハンマープライスしました。値段そんな差ないけど、もう探すのが途中でばからしくなってしまったので……。

 余談ですがこの手の手袋は自転車屋とかで買うよりも、ホームセンターで工具用手袋を買った方がずっといいです。工具用手袋なら物握った時に滑らないよう滑り止めが手の平部分についてるし、また比較的丈夫で擦り切れないものも多く、私なんかはよく3Mの780円くらいの手袋を買って使ってました。フィット感がたまらなくよかった。

 そんなこんだして昼飯食って帰宅後、家で一本の電話を掛けました。一体何で掛けたのかというとこのところネットの調子がおかしく、何故かルーターの電源切ってるのにそのルーターから発信される電波が飛び続けており、しかも電源オンの時も時たまネット接続が切れるなど軽いホラー入った状態が続いていたからです。
 あくまで仮説ですが、何者かが同じ電波名でWIFI飛ばしているのかもしれません。なんでそんなことするんのかミステリーですが。

 ともかくこうした状態を一回見てもらおうと通信業者から聞いた技術者の電話番号にかけたのですが土曜だから一向に出ず、一回だけ繋がって状況を説明すると、「また後で行く時間とか通知する」と言ったっきり、何も通知してきませんでした。その後何度も電話かけるもやっぱり出て来ず、幸いというか昨日はちょくちょくネット接続切れていたのに今日は安定しているのでもう少し様子見ることにします。ってかそれしかできねぇ……。

 それにしても手袋失くしたりネットおかしくなったりと、2011年の「運の尽きの一週間」の時みたく悪いことって重なるものです。これに加え今週はもう一つ、運営している海外拠点サイトのサーバー移転のトラブルでも神経すり減らされて色々参った一週間でした。

2015年12月10日木曜日

朝日新聞の行き過ぎな配慮

 今日たまたまですが目に留まった記事に、ニュース内容をぼかすあまりに本来の事件内容を誤解させかねないひどい記事を見かけました。

居眠り女性を盗撮し投稿 女子生徒を侮辱容疑で書類送検(朝日新聞)

 上記リンク先がその朝日新聞の記事ですが最初にこれを読んだ際、「電車で居眠りしている女性を無断撮影してネットに上げるのは悪趣味と言えば悪趣味だが、書類送検するほどのものなのか?」と、撮影した女子高生に対してやや大袈裟すぎる対応ではないかと違和感を覚えました。考えられることとしては撮影された側がプライバシーの侵害などで過剰に反応したか、もしくは何かほかに取られてはいけないもの、具体的には下着などが映り込んでいたのかもなどといった考えがいくつかよぎったもののどれも確証は得られず、なんとなく消化不良のような気持ちを抱えたまま一旦は記事を閉じました。
 そしたらそうした不満が何かに結び付いたのかもしれませんが、真相をちゃんと伝える記事にすぐ巡り合いました。

「笑いネタにしたい」障害女性の居眠り姿投稿 侮辱容疑で17歳女子高生を書類送検(産経新聞)

 こちらの記事を読んでようやく得心しましたが、書類送検された女子高生は障害を持った方を撮影した上、嘲笑うかのようにしてネットにアップしていたようです。もちろん、事がこうであるのであれば書類送検もやむなしだと私も納得がいきます。

 逆を言えばどうして朝日新聞はあんな風に記事を書いたのか、こっちの方が今度は気になってきます。恐らく「障害」という言葉を使いたくなかったためああいう書き方を取ったのだと思いますが、事件内容からするとこの場合は絶対外してはならない、というより外してしまったら事実からむしろ遠ざかる記事になってしまう類のものだったと私には思えます。実際に私も撮影された側が過剰な反応を取ったのではと想像してしまいましたし、こんな風に書くのであればこのニュースに関しては一切記事を書かずノータッチにした方が良かったのではという気すらします。

 障害者に対する表現は確かに慎重を期すものでありますが、だからと言って障害という言葉を使ってはならないというわけではありません。そこに存在するものが存在など無いように書くことはかえって失礼に当たるのではないかと私には思え、事実は事実として書いた上で、偏見を産まぬような報道を意識し続けることこそが肝要でしょう。
 今回の朝日新聞の記事に関しては明らかに行き過ぎな配慮が見られ、事実を歪めかねない性質を含んでいると思うだけにこの場で強く批判したいと思います。

2015年12月9日水曜日

危機を切り抜けた名パイロットたち その三

 少し間隔が空きましたがまた航空事故の特集です。

7、エアトランサット236便滑空事故(2001年)
事故内容:燃料漏れ  乗客乗員数:306人

 カナダのトロントからポルトガルのリスボンへ向け大西洋を横断するルートで離陸した同便は離陸してからしばらくは問題なく飛行し続けましたが、離陸から約4時間後にタンクから燃料が漏れ始めるというトラブルが起こり始めました。燃料漏れの原因はエンジンの整備不良で、旧仕様から新仕様へと切り替わった際に一部の部品が切り替わっていたにもかかわらず、手元に新部品がなかったこととと数ミリ単位の寸法の違いしかないことから旧部品を取り付けたため燃料配管とエンジン本体が接触することとなり、飛行中の振動で配管に亀裂が生じてそこから燃料が漏れることとなりました。
 燃料漏れが始まってすぐ機長と副機長は燃料ゲージの異常な現象に気が付いたものの、当初はゲージの誤作動と考え特別な対応をしませんでした。片方のエンジンがとうとう停止したことで事態の急を知ったものの、それからしばらくしてもう片方のエンジンも止まり、燃料切れによって完全なエンジン停止状態で着陸先まで飛行しなければならない事態へと迫られました。

 現在の大半の民間航空機にはラムエア・タービンという非常用風力発電機が備えられているため、無線や舵の操縦に使う最低限の電力は確保されていました。ただ動力が完全に使えなくなったため飛行できる距離は制限され、近隣にあった大西洋上にあるテルセイラ島のラジェス空軍基地へ途中で高度を調整しながら向かい、そのまま無事に一人の死亡者も出さずに着陸してのけました。

8、中華航空006便急降下事故(1985年)
事故内容:5Gの急降下  乗客乗員数:274人

 台湾のフラグシップキャリアであるチャイナエアラインの同便は台北からロサンゼルスへと向かっていた同便はロサンゼルスまであと550キロメートルという太平洋上で乱気流に遭い、機体の速度を自動操縦で慎重に調整しつつ飛行していました。しかしこの時に航空機関士の排気バルブの設定ミスにより第四エンジンが停止し、それによって機体が左右に偏るのを防ぐため自動操縦のシステムは飛行速度を落としたのですが、その結果設定速度のマッハ0.85を大きく下回る0.75まで落ちてしまいました。
 一方、パイロットらは速度の低下に気付かないまま自動操縦でもなかなか姿勢が回復しないので手動操縦に切り替えたところ、ただでさえ落ちていた速度が一気に落ちてしまってそのまま機体は海面へ向かってまっさかさまにきりもみ状で急降下し始めました。その際、搭乗していた人には5Gもの負荷がかかっていたと言われます。

 とてつもない負荷がかかりましたが機体の一部が落下中の衝撃で吹き飛んだため偶然着陸装置が下りたため空気抵抗が増して落下速度が落ち、また機長が元軍用機パイロットで5Gでも操縦できるという強者であったことも幸いし、何とかエンジンを動かして姿勢を戻し、なんと水平飛行を回復してそのまま最寄りのサンフランシスコ空港へとたどり着きました。
 急激な落下であったため機内では怪我人が出たものの幸い死者はありませんでしたが、文字通り真っ逆さまに墜落する直前での九死の一生と言える事故でしょう。

9、カンタス航空32便エンジン爆発事故(2010年)
事故内容:エンジンの空中爆発  乗客乗員数:469人

 シンガポールからオーストラリアへ向かった同便は離陸からわずか数分後、第二エンジンがいきなり爆発しました。爆発したエンジンの破片は周辺の民家などに落ちたものの幸い衝突した住人などはでなかったのですが、その落下物から当初は同便も墜落したに違いないと情報が出たそうです。
 一方、そのころ同便では、パイロットたちが冷静かつ的確に事態へ対応していました。というのも同便には機長に対する定期的な試験のため経験豊富なパイロットが五人も乗っており、爆発を受けてシステムには無数のエラーメッセージが表示されていましたが各自が手分けして対応し、操縦桿を握る機長は操縦にのみ集中することが出来ました。

 ただエンジンが爆発した際に破片が期待を突き破り、配線を損傷させたため燃料の廃棄、並びにエンジンの停止といった操作が受け付けられませんでした。そんな中でもパイロットたちは落ち着いて旋回、並びに着陸をやってのけ、どうしても停止しなかった第一エンジンは着陸から数時間後に消防が消化液を吹きかけたことによって止まり、乗客乗員は誰一人怪我することなく生還を果たしました。
 なおエンジンが爆発したのはメーカーの製造ミスによるものであったため、同型のエンジンを使用していた世界中の航空機が整備・検査のため飛行を見合わせる事態となりました。

10、エアカナダ143便滑空事故(1983年)
事故内容:燃料切れ  乗客乗員数:469人

 なんか今日はやたらと燃料切れ事故ばかり取り上げますがこれもその一つで、カナダ国内のケベックからモントリオールへ飛び立った同便は飛行中、燃料切れが発生して全エンジンが止まってしまいました。
 一体何故燃料切れが起こったのかというと、実は根深いヒューマンエラーが絡んでいました。当時、航空会社のエアカナダではそれまで使ってきた度量衡のヤード・ポンド法をメートル法へと移行を進めており、同便は初めてメートル法によって航続距離、必要燃料を測定して給油される便となりました。空港での給油の際、必要燃料量は正しく計算されたものの残余燃料量の単位計算でミスをしてしまい、結果必要な追加燃料量からかなり少ない量で給油されたため途中で燃料切れを起こしてしまったわけです。しかもコンピューターには正しい燃料量でセットしたため、計器上は燃料に余裕があると表示されてたもんだからパイロットとしてはたまったもんじゃないでしょう。

 突然エンジンが停止したため機内で多くの電気機器が使用不能になる中、機長らはわずかに動く計器類から降下率(一定の高度を降下する間に移動できる距離)を割出し、現在地から着陸できる滑走路を急いで探しました。その結果、副機長のかつての勤務先であるギムリー空軍基地が一番適当だと考えられそちらへ向かったのですが、副機長は知らなかったのですが当時ギムリー基地は民間空港になっており、しかも当日は自動車レースが行われてて多くの家族客が集まっておりました。
 そんな状況もなんのその、元々グライダー飛行が趣味の機長はエンジンなしのまま見事に操縦しつづけ、高度もばっちり合わせて多くの家族客が見守る中で滑走路へ着陸し、無事に停止してのけて見せました。ただ着陸地点からすぐ先には家族客が集まっている場所があり、仮にオーバーランしていれば多くの死傷者が出ていたほどきわどい着陸でした。

 なおこの事故にはオチがあり、乗客乗員全員が無事に生還を果たした陰で、不時着に備え近くの空港からギムリー基地へ向かっていた整備士はその途上、車の燃料切れによって基地にたどり着けなかったとさ。

2015年12月8日火曜日

最近の中国の景況感

 今日知り合いから最近ブログで中国の事を書いていないという苦言があり、反省も込めて自分の肌感覚での中国の景況感について書いてみます。

 結論から述べると、自分が中国に来て移行で言えば現状が最悪なくらいに悪い状態です。しかも現状で底打ちしているのかというとまだわからないだけに、まだまだ楽観はできないといったところです。マクロデータでみると貿易額もこのところ前年比で割っており、また製造業の生産額も大幅な落ち込みを続けていて改善する見込みも余りありません。
 唯一まだ元気なのは自動車産業ですが、これも外資系だけが伸びてて中国民族系メーカーはズルズルと落ちてるだけで見ていてやや痛々しい状態です。何気に日系はトヨタを中心に伸ばしており、VWのこの前の不正を受けてこのままジャンプアップと行きたいところですがこの前知り合いに確認したらそこまでVWは急激には落ち込んでないそうです。

 少し話が脱線しますが、このところ街中でレクサスを見かける機会が非常に増えてきました。昔は乗っているのは日系企業関係者くらいだったもののこのところは明らかに中国人一般ユーザーも乗っているようにみられ、知り合いのホイールメーカー幹部にその理由を聞いてみました。その幹部曰く、レクサスが中国市場で売り上げを伸ばしているのは確かに事実だそうで、何故売れるようになったのかというと中国のユーザーがレクサスの質の良さを理解してきたからだと説明してくれました。
 なんだかんだ言って他のメーカーの高級車と比べても値段に対する品質がレクサスだと高く、「さすが日本車」という具合で購入する人が増えてきているそうです。なお一番見かけるレクサスの車種はステーションワゴンなので恐らくCTシリーズかな。

 話は戻りますが街角景気に関してもほんと悪く、私の近くでも「あそこの工場潰れたんだって」、「あそこも給料の遅配が始まったって」などといった噂が流れたりするなど、やはりどこも不況だねっていう感じでみんな感じてるようです。しかし、こう言いながらなんですがあまり悲壮感めいたものはなく、「どこの会社も大変だね」って割と明るい感じでみんな話し合ってて日本国内ほど切迫じみた印象はありません。

 一体これは何故なのか。原因はいくつかあるでしょうが私がこれはと思うものを述べるならば労働者自身の収入は増え続けているからではないかと思います。最低賃金は現在進行形で毎年引き上げられており、2005年なんか月収500元くらいだった最低賃金が現在は1000元以上となり、上海や深圳では2000元も突破するに至りました。
 そのため全体の景気が落ち込み企業の売上げも下がる中にも関わらず、経営者は前ほど大儲けできなく一方で労働者自体は収入が増えていってるようにみえ、だから中国全体で景気に対する悲壮感は少ないのではと分析しています。また中国の場合は勤め先が潰れたとしても終身雇用制でないこともあってか日本ほど再就職が難しくはないため、「さて、新しい仕事を捜さなきゃ」と切りかえれるのも大きいかもしれません。

 最後にちょっとこの記事準備している最中に気になったこととして、中国の失業率って今どのくらいなのだろうかという点がありました。先程調べてみたらどうやら中国政府はほとんどこの失業率データを公表しておらず、断片的にデータを出したのも2013年が最初だったそうです。よくよく思い返してみると私も記者時代にこの失業率データで記事を書いた覚えがなく、なんていうか久々に中国らしさを感じたってところなのですがニュース記事を検索してみると、以下の記事にヒットしました。

2015年上半年中国31个大城市城镇失业率为5.1%左右(中国青年網)

 上の記事は中国の労働省に当たる部署が記者会見で発言した内容をまとめており、その発言によると全国主要31都市における2015年上半期の失業率は5.1%前後だったそうです。全国規模だと第2四半期(Q2)が4.04%と話していますが、ならなんで31都市のデータもQ2単体で出さないんだと思ってくる当たりがやっぱり中国です。
 一応参考にはなるデータではあるものの、中国なだけに不利なデータはそのまま出さないであろうことから鵜呑みにはできない数字です。もっともそれを言ったら日本の失業率データもちょっと信用に置けないところもあるので他人の事言えませんが、主要都市で5%台の失業率ならばまだまだ低い水準と言えるでしょう。景気こそ落ち込んでいるもののまだ中国ではいくらか労働力不足な状態が続いているようにみられるだけに、先ほどの収入の向上と相まって悲壮感が漂っていないというのが私の見方です。

 逆を言えば、労働力不足してるのに賃金下がり続けているから日本は悲壮感漂いまくりなんだろうな。

2015年12月7日月曜日

統一主義と分離主義

 最近あまり思想めいたこと書いてないので今思いついたことをパパッと書いてみようと思います。

 先日起きたフランス・パリでのテロ事件以降、先進国各国ではテロ組織に対する敵視が一段と強まり、それが影響したかまでは断言できませんが先週米国で起きた銃乱射事件に対してあのニューヨークタイムズが銃規制について言及するなど、何か世論が変わった動きがします。そもそも何故テロ事件が起きるのかですがそれはテロ組織があるからに決まっており、では何故テロ組織が存在するのかですが、イスラム国のようなのはちょっと特殊ですが大抵は統一主義と分離主義の対立が背景にあります。

 同じ記事を読んだ方なら話は早いですが、過去の代表的なテロ組織としてアイルランドの英国からの独立を目指したIRAという組織があります。このIRAは英国内を始めとして世界各国で爆破テロなどを実行しましたが、彼らの主張はアイルランドを英国に取り込むな、異なる存在を認めろというものでした。IRAに限らずとも大半のテロ組織はこういった分離主義を抱えていることが多く、バスク地方、ヨルダン地区などなど、少数派の文化や民族集団が概してテロ組織を発生する土壌にあるということはほぼ間違いないといっていいでしょう。

 ここで出てきた分離主義、そしてその対立軸である統一主義ですが、聞くところによるとこの前発売されたゲームの「メタルギアソリッドV ザ・ファントム・ペイン」でも語られており、この作品では世界から永遠に争いをなくすために世界中の言語を強制的に英語へ統一しようとする組織と、それに対して抵抗しようとする少数派の分離主義者が出てくるそうです。
 多数派から見れば少数派の連中の方が少ないんだし、彼らが従えばグッと物事ははかどるというのに何故抵抗するんだという価値観なのかもしれません。片や少数派は多数派のシマを別に荒らしているわけでもないのにそれまで自分たちが培ってきた言語、文化を何故無理矢理取り上げようとするのか、また自分たちからしたら不都合極まりない要求を何故押し通そうとするのかという価値観なのかもしれません。

 ここで話は日本に持っていきますが、日本という文化は少数派でしょうか、多数派でしょうか?

 私の答えを述べると多数派で、そう思うきっかけは留学中にルーマニア人のルームメイトと会ったためで、彼曰くルーマニア語は世界的にそれほどメジャーな言語ではないからちょっと調べ物しようとしてもルーマニア語のサイトだけでは不足すると話していました。それに対して日本人ですが、少なくとも1億人以上の話者は存在しており、難しい問題や手続きでもネットで検索すれば誰かしら解説するサイトを開いているはずです。また高等教育においても各分野の専門家が日本には揃っているため明治時代よろしく、英語で講義を聞かなくてはならないというハンデは他の言語と比べると少ないでしょう。話者で言えば世界最大の中国語においてすらもこの高等教育での言語においてはハンデがあるため、見方によっては日本語の方が世界では強いということもできるかもしれません。

 ここでもう一つ問いたいこととして、日本人は言語や文化を取り巻く自分たちの現状についてちゃんと認識しているのか否かです。これもはっきり答えを言うとそもそもそれほど考えたことはなく、自分たちが多数派なのか少数派なのかは意識していないというのが実態でしょう。
 これ自体は別に問題はありませんが、少数派に対してどういう風な態度で接するのかはもうちょっと考えた方がいいと思います。日本国内でもアイヌ民族という少数派がおり、また最近は減ってますが南米からの労働移民、そして技能研修生という名の奴隷制度でやってくるアジア人、彼らは紛れもなく日本社会では少数派です。

 日本は島国ということもあって割かし統一意識が高く、知らず知らずのうちに統一主義的な考えや行動を取る傾向があるのではと密かに見ています。もちろんこれ自体は何も悪いことではないですが、もう少し少数派こと異なる文化や言語を持つ人に対しても対応を取組めばもっと日本社会はよくなるのではという気がします。少なくとも部屋の保証人制度は廃止してもらいたいと思っており、外国人などはこれのせいで部屋探しに半端ない苦労を負うと聞くだけに。

 私自身は日本人ではあるものの、日本社会では常に少数派に回ってきたと自負できます。そのためやや自分でも過剰だと思うくらいマイノリティに対して思い入れを持つ傾向があり、だからこの記事でもどちらかと言えば分離主義的な発言が続くのでしょう。しかし長い時間で見るならばやはり文化や概念、価値観は統一されていくべきだと思っており、そうすることによって地球連邦のような世界統一組織が生まれることも願っております。
 ただそうした統一までにはどうしても時間が必要です。ゆっくりゆっくり自然と各文化や概念を合わせて行く必要があり、それを無理やり統一しようものなら対抗する動きことテロリストが生まれるだけに、決して急いではならないというのが私の持論です。そして同時に、多数派もまた少数派に少しずつ合わせていくという態度も必要であるとも考えています。

 本当に勢いで全部書いたので全くまとまりがない記事になりましたが、結論としては「急いで取り込むな」ということと、もうちょっと少数派に気兼ねしてほしいという要望です。

2015年12月6日日曜日

平成史考察~明治大学法学部大量留年事件(1991年)

携帯料金会議 格安スマホの普及に独自サービス必要との声(毎日新聞)

 上記リンク先はちょっと古い11月26日の記事ですが、現在値下げ議論で盛り上がっている携帯料金について有識者会議の議論内容を伝えているものです。この携帯料金の値下げ議論については以前にもこのブログで書いていますが、この記事で私が注目したのは乗り換えする人への過剰な優遇どうこうではなくこの会議の取りまとめ役をしているある人物の名前でした。
 その人物というのも新美育文明治大学教授で、この人はかつて明治大学で起こったある事件で非常に有名になった人物です。最初この名前をこの記事で見た時は「どっかで見たような……」というくらいの反応しかできませんでしたが、やや気になったので検索してみたところようやくこの人の経歴を思い出せたので、折角だからここでもかつて起きたその事件を紹介しようと思います。
 それにしても、この名前だけで反応できたのは我ながら凄いと思う。

明治大学法学部大量留年事件(Wikipedia)

 その事件が起きたのは1991年の明治大学でした。当時、日本はバブル絶頂期で明治大学ほどの有名大学の学生であれば卒業後の進路は引手数多で卒業を控えた四年生の学生は誰もが有名企業の内定を得られ、後は卒業を待つだけの身でした。
 そんなバラ色の将来が確約されのんびり過ごしていた学生に激震が走ったのはこの年の3月。この時、明治大学法学部は四年生の学生257人に対し留年させることを決定し、このうち147人は新美教授が担当する必修科目「債権法」のみが未修了であったことから卒業が認められませんでした。

 この発表に対し慌てたのはもちろん学生たちで、卒業後の進路も決まっていた状態でこの通知が来たもんだからまさに青天の霹靂のように受け取り、多くの留年学生が新美教授に対し採点の再考、つまり単位を出して卒業させるよう求めたそうです。しかしこうした学生たちの訴えに対して新美教授は「あくまで厳正な採点の結果」であるとして突っぱね、ならばとばかりに学生が詰め寄った小松俊雄法学部長も明治大学の「独立・自治」の建学精神を引用し、新美教授の判断を尊重するとして卒業を認めませんでした。

 一見すると新美教授は厳しい採点を強行して多くの留年者を出したように見えますが、実態はそうではなかったようです。問題となった「債権法」の授業は二年生時から履修できる科目で、四年間で卒業する学生は都合、三回履修する機会がありました。しかし留年した学生らはその三回の機会に未履修、または落第し、更には夏に行われる再試と、卒業間際の三月に行われた特別試験でも満足な成績が残せませんでした。
 採点を行った新美教授は最後の特別試験の結果を鑑みてさすがに留年者数が多過ぎると感じ、試験を難しくし過ぎたのかとも感じたそうです。しかし改めてリポートなどで各学生の学力を確認するとやはり学生個人らの学力が不足していると思え、厳しい判断になることは承知の上で大量の「不可」を出すことにしました。

 この決断について新美教授は取材に対し、簡単に内定が得られる時代もあってか最低限の勉強すら行わない学生が増えていると話したそうです。学会内でもこの新美教授の決断に対し、授業への取り組みに対し警鐘を促してくれたなどと好意的な意見が多く集まるなど歓迎され、事件が大きく報道されるにつけ大学入学後は勉強しなくなる学生をそのまま放置して卒業させることに問題があるなど大学教育全体を問う議論へと発展していきました。

 ここから私の所見となりますが大体90年代中盤から後半に至る間、猛勉強して大学入った後は何も勉強しない学生というのがちょっとした社会問題になり、「分数の出来ない大学生」などといった本も出版されていました。実際に昨日会って話聞いた人も午前中に大学行って麻雀のメンツ集めるとそのまま雀荘へというのが普通で、授業なんてほとんど出なかったと述懐しており、こういってはなんですがやっぱり自分の世代とは違ってたんだなぁって気がします。
 この新美教授の行動はその後の世論を考えるだに、勉強しない学生に対する警鐘としては最初期に当たるものだったのではないかと思います。少なくとも一回こっきりのワンチャンスにめちゃくちゃ難しい試験で振り落すということはしておらず、むしろ何度もチャンス与えた上での決断ですから至極真っ当な判断で教育者としては実に立派な態度と言えるでしょう。それだけに最初の有識者会議も仕切っていると聞いて、この件でこの人が関わっているというだけでなんとなく良くなるんじゃないかという期待感が持てます。

 なおこの記事を書くに当たって明治大学出身の友人に、「この人知ってる?」と振ってみたところ、「直接授業を受けたりとかはないが、伝説となっている教授」だと返信が来ました。

  おまけ
 私が学生だった頃、よく大学教授からは「最近の学生はちゃんと授業に出席する」とよく言われ、先ほども言った通り時代というのは大きく変わってきており大学に入って遊び放題する方が今は少数派なのかもしれません。さらに、私はその中でも特別授業に出席する方で、卒業単位は124単位で足りたけど興味ある授業に片っ端から出てたためか最終的には160単位を数え、単位認定されない授業も含めれば180単位くらいは取っていたように思います。なのであんま、大学でもっと勉強したかったと思うことはないな。