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2016年8月22日月曜日

過去のステルスマーケティング事例

 何故か続いてしまったステマ記事ですが、今回はこれまでに起きたステルスマーケティングの事例を紹介します。基本有名どころばかりになってしまいますが。

 まず初めに、ステルスマーケティング(ステマ)の定義づけを先に行っておきます。これに関しては私の言葉で述べると、「組織的な広告・宣伝活動であると明示せず中立な第三者を装って商品やサービスを紹介・宣伝する。または競合先のネガティブキャンペーンを行う」といったところに落ち着きます。実際のところ、どこからどこまでがステマであるのか線引きについては議論の分かれるところで、今日書く記事はその線引きも敢えて意識して作っています。

・ソニー発のステルスマーケティング
1、デビッドマニング事件
2、ゲートキーパー問題
3、その他もろもろ

 既に解説済みだし解説するのにも飽きているので詳細はリンク先を見てください。

ペニーオークション詐欺(2012年)
 こちらも有名な事件なので知ってる人も多いと思われますが、2012年に発覚したペニーオークションサイトを舞台にしたステマ事例です。
 この事例の首謀者はペニーオークションと言って、入札ごとに入札料を支払うという形式のオークションを行うサイトを運営し、初めから一般の入札者が商品を落札できないようにプログラムを組んでいただけでなく、そもそも入札する商品も最初から仕入れてもいないという悪質極まりないサービスが展開されていました。どう見たって怪しいシステムだし全く入札できないという声が集まったことから警察の強制捜査が入り敢え無く御用となりましたが、事件化されたことによってこのサイトではステマが行われていたことが明らかとなりました。

 この業者が逮捕される以前、グラビアアイドルを中心に「ペニオクで安くで商品買えちゃったー」という記事を個人ブログに掲載する芸能人が多数存在しました。当初からそのシステムの怪しさと芸能人らがやや組織立って推薦するような記事を書いていたことから怪しまれていましたが、案の定というか業者から芸能人に謝礼付きで、第三社を装って記事を書くようにと依頼を受けての行為でした。
 事件化によってステマであったことが発覚し、これによりほしのあきや小森純などは騒動を謝罪したものの半引退に追い込まれ、グラビア仲間に「アルバイト」としてステマをあっせんした松金ようこに至っては芸能界から完全に引退する羽目となりました。業者の悪質さやステマの不法行為を考えると仕方のないものかと思われますが、私個人として一番の疑問は引き受けるのに抵抗を覚えなかったのかって点です。明らかに怪しい業者なんだし。

・ハレ晴れユカイ騒動(2006年)
 これは当時リアルタイムで見ていたのでそこそこ詳しい自信があるのですが、当時大人気だった「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメの主題歌「ハレ晴れユカイ」に対するステマがきっかけとなり非常に大きなネット騒動が勃発しました。

第一次ブログ連戦争(ニコニコ大百科)

 大まかな概略は上の記事にも書かれてありますが、今では当たり前の存在となっているいわゆる「2ちゃん記事まとめブログ」という、大手掲示板のスレッド内容を読みやすいように編集加工してのせる「まとめサイト」がこの時辺りからネットで増えていました。ただ当時のネット住民は「のまネコ騒動」でもみられたように無料公開されている2ちゃんねるの記事を商業利用することに対して強い嫌悪感を持っており、まとめサイトに対しても批判が少なくありませんでした。

 そんな中、とあるまとめサイト管理人のmixi(SNSとしてはもはや死語だなぁ)での、他のまとめサイト管理人らとのやり取り内容がネットに流出し、その中には「ハレ晴れユカイをプッシュしよう!」というような内容が書かれていたそうです。ついでに書くと、「アフィうめぇ」というのもあったとも。

 一体これはどういう事かというと、まとめサイトは基本的に自分のサイト内でアフィリエイト広告を掲示し、この広告へのクリックによる紹介料を収入としています。この当時、まとめサイトの管理人らがやろうとしたことは2ちゃんねるでの「ハレ晴れユカイ」に関するスレッドを意図的に多く掲載することによって各サイトにある同曲のアフィリエイト広告へと誘導するという方法で、実際当時いろんなまとめサイトを訪れていましたがこの時に「ハレ晴れユカイ」のプッシュのされようはブームというのを通り越すくらい異常に多かったです。
 このステマで特徴的な点は二つあり、ステマ当事者はその商品・サービスの直接の販売者ではないということと、複数のサイト管理人が共謀してプッシュしていたということです。特に後者に関してはかねてから批判の多かったまとめサイト管理人同士の横のつながりがあったことがわかったことで2ちゃんねるを中心に猛烈な反発が起こり、各まとめサイトでコメント欄が炎上しただけでなく、管理人らの個人情報が暴露されて電話突撃なども敢行されたと聞きます。

 こうした甲斐あって当時隆盛を誇ったまとめサイトの多くは消滅し、逆に当時はマイナーでこのステマに関わってなかったまとめサイトがメジャーに昇格するという現象が起こりました。当時、まとめサイトの老舗中の老舗である「痛いニュース」を除いて一番勢いがあったと思われる「ニャー速」も、この時の騒動では最大ターゲットとされ荒れに荒れた末に消滅しました。当時よく見てたからなくなった時はちょっと寂しかったですが。


 以上、簡単にステマ事例を紹介しましたが必ずしもこうであるとは限らないものの、どれもインターネットを介したステマ事例となっており、ステマというのは本質的にネットを舞台に行われる違法なマーケティング手法と見ても間違いではないでしょう。またその線引きも曖昧であるため、ペニオク騒動の様に本人らの自覚のないままにステマに加担するような例も今後増えてくるのではないかという気がします。
 私自身もこうした点には注意を払っており、たまにAmazonのアフィリエイト広告を貼っていますがこの際に貼る広告は必ず自分が読んだ本、遊んだゲームなど直接体験した物に限っています。読んでもない本を紹介するのはステマではないものの推薦するのにおかしいと考えるからですが、逆を言えば体験もしていないのに広告を貼る輩も多いと言ったところでしょうか。

2016年8月21日日曜日

ステルスマーケティングの見分け方

 昨夜ブログ書こうとしたら猛烈に頭痛くなってバタンキューしてました。冷房に当たりすぎたのかお昼にケーキ食べに高島屋へ自転車で行く途中に光化学スモッグ吸ったのかわかりませんが、右半身に血液通ってないような感覚になり、なんかふとんの上で寝転がるのも気分悪かったから何故か床の上に何も敷かず寝てました。ちなみに高島屋で示し合わせたかのように同僚二人と遭遇し、暑いからか何故かみんな自然と高島屋に集合してたようです。

 話しは本題に入りますが、前回の記事で私はソニーのステルスマーケティング事例について紹介しましたが、ステルスマーケティングというのは概してそれがステルスマーケティングであるかどうか判別することが困難であることが大きな特徴といえます。それこそかつての事件の様に、ステルスマーケティングを行っていた業者が摘発された際に初めて明るみに出ることもすくなくなく、またネットの書き込みなどもソニーの拙い手法によるものでもない限りは明確な証拠を消費者が確認できる手段はほぼ皆無でしょう。
 そこで今日はあくまで私個人の一意見として、ステルスマーケティングらしき広告文、書き込みの見分け方を紹介しようと思います。この見分け方はあくまで私個人の基準による、ステルスマーケティングと思しき書き込みの見分け方なので、絶対的な基準ではないということをあらかじめご了承ください。

1、投稿者の履歴
 基本中の基本ですが、Amazonや食べログなどではレビュアーの過去の投稿を見ることが可能で、過去の投稿でも商品やサービスをやや過大に絶賛するコメントを延々と繰り返している人間はその手の業者の人間と見て間違いないでしょう。サイトなどもこうした人たちの規制を行ってはいるようですが、その辺はいたちごっこにならざるを得ないので消費者側もある程度判別する能力が求められてきます。

2、一から十まで内容の説明が入っている
 これは漫画や小説などで顕著ですが、その本に収められている内容を最初から最後までびっしり説明しているものはほぼステマと見て間違いないと思われます。具体的には、「この巻にある第○話では××が~で、次の話では~で……」のような具合で、延々と説明が続くような形式です。感想というよりは説明文で、飲食店などに関しても必要以上と思われるくらいにメニューの金額がびっしり入っているものは疑ってかかるべきでしょう。
 自分のライターとして経験から言わすと、無償でレビューをするに当たってびっしりと内容を説明しようとする人間はまずいません。逆に、有償でレビューしようとなると知らず知らずにこうした書き方になる可能性が高いです。理由はごく簡単で、手軽に字数が稼げるからです。

3、他人の評価を引用している
 例えば飲食店で同席した友人の感想を入れるならまだありですが、そうではない知人や家族、他のネットでの評価を引用している場合もステマの可能性が高いような気がします。たとえば本に関してだと、「私の母も熱中して読んでました」等のように、「他の人間もはまっているんだぞ!」と主張するかのような書き方には気を付けるべきです。
 これもライターとしての立場から言えば、企業のプレゼンといったマーケティングならともかく消費者としてのレビューで他人の評価を入れようとするのは自然には起こらない気がします。他のレビュアーの意見に賛同、反対する意見を自分のレビューに書くのはまだ自然ですが、その場にいない人間の評価を自分のレビューに入れ込もうとするのは不自然で、これに関しては以下でもう少し詳細に解説します。

4、同じレビューがシリーズの別の巻にも入れられている
 これも本とかで多いですが全く同じレビュー文章が1巻から10巻まで書かれていることがあり、これは確実にステマと言えます。っていうかこれはやってる人間の気がしれない。

5、過大に褒めちぎる
 これも解説する必要あるのかと思うくらい単純なポイントですが、これでもかと言わんばかりに絶賛の限りを尽くし、しかもそのようなレビューが次の人間以降も延々と続くケースは怪しいです。一人や二人なら絶賛し続けることもあり得ますが、普通は少なからず欠点を指摘する人間も段々と混ざるため、レビューが絶賛一色なのは言うまでもありませんが不自然でしょう。

6、主観か客観か
 ある意味これが一番の見分けポイントで3番にもつながりますが、商品やサービスのレビューは基本的に主観で以って書かれるものであり、レビュー文章が客観的に書かれてある場合は疑ってかかるべきです。考えても見ればわかりますが人はレビューを書く時、誰かに頼まれるわけでもなく自発的に書くわけで、基本的にその文章はレビュアーの主観が色濃く反映されます。具体的にはどの点が気に入ったかどの点が気に入らないのかが盛り込まれることが多く、その後の文章もそうした点の説明に終始するのが自然な書かれ方です。
 それに対し、3番で述べたように自身の評価というよりは周囲の評価を引用したり、他でも取り上げられているといった事例を書き並べるような書き方や、「高い売上げ」だとか「ランキング上位」などと客観的データを引用する書き方するのは普通のレビュアーはまず書かれることは有り得ないと思われます。比較サイトや個人ブログであればそうした客観的な書き方もされることもあり、というよりなくちゃだめですが、商品ページの口コミや書き込みにそこまで書こうとするのは何らかの意図が無ければ有り得ない行為だと、ライターとして思うわけです。

 以上が私のざっとしたステマ書き込み・レビューの見分け方です。一番のポイントはやはり6番の主観か客観かで、変によそよそしく距離を置いた書き方については注意された方がいいというのが私の意見です。
 折角なので続きの記事ではこれまで確認されたステマの事例を一気にまとめあげようと思います。意外と記録に残っていないステマ事例もあるし、いいまとになるんじゃないかな。

2016年8月18日木曜日

ソニーのステルスマーケティング

 本題と関係ありませんがこのところの日ハム大谷選手の活躍には本気で目を見張ります。今年一年の活躍を以ってしても、彼は日本野球界で殿堂入りする資格があるとすら思えるほどです。

 話は本題に入りますが私が中学、高校生だった頃、日本社会で最もブランド力の高い会社はトヨタでも野村証券でも日本テレビでもなく、間違いなくソニーでした。ただそのソニーは2003年の株価大暴落、いわゆるソニーショック以降はその評価が大きく下がり現在の様に「日系エレキ大手の一角」までその地位は落ちましたが、それ以前のソニーは誇張でもなく桁違いのブランド力で、「ソニー製でなければ家電にあらず」と言ってもいいくらいブイブイ言わせていました。実際、私が中学生の頃にパイオニア製ポータブルMDプレイヤーを買ったところ周りから、「ソニー製じゃないの?だっせー」とリアルで言われていました。
 ついでに書くとこの時は野外でも音楽聞いてましたがなんか段々と鬱陶しくなり、高校出てからは外で音楽聞くことは一回もなく、i-Podもとうとう一度も持つことなく終わり現在に至ります。

 話は戻りますがソニーはどうして絶頂からそこまで凋落したのか。理由は一つではなくいわゆるソニータイマーなどの製品品質への不信、業績の悪化、当時CEOだった出井伸之氏の路線失敗などいくらでも挙げられますが、地味に大きかったのではと今更ながら思うものとしてステルスマーケティングの行使があるのではと考えています。

ステルスマーケティング(Wikipedia)

 ステルスマーケティングについてもうこの際説明しませんが、そもそもこの言葉が日本で定着したきっかけもソニーの影響が大きいと思われます。
 ソニー絡みで日本で一番話題となったステルスマーケティングはいわゆる「ゲートキーパー問題」で、これは大手掲示板サイトなどで組織的に、ソニーのゲーム製品を持ち上げる一方で任天堂製品を批判する書き込みがなされていたという事件で、プロバイダーを探ってったところどの書き込みもソニー本社からなされており、しかもホスト名が「gatekeeper??.Sony.CO.JP」と見たまんまだったことから明るみとなりました。詳しく確認してませんがソニー自身はこの問題について「ノーコメント」と無言の肯定していることからほぼ伝聞事実で間違いなく、かなりお粗末なステルスマーケティングをソニーがやっていたということになります。

 なおこのゲートキーパー問題が明るみに出た当時はやはりネット上でのソニーへの批判は非常に大きかったと覚えています。逆を言えばゲームをせず、ネット掲示板もあまり見ない人からすれば事件の存在自体知らなかったと思われ、世間の認知度はそれほど高くないのではとも見ています。

 仮にこのゲートキーパー事件だけであれば「魔が差した」と見ることもできますが、実際にはソニーはかなり古くからステルスマーケティングを組織的に運用しており、こういってはなんですが抵抗なくやってると思う節すらあります。
 そんなソニーの別の代表的なステルスマーケティング例として米国での「デビッド・マニング事件」というものがあり、これは架空の映画評論ライター「デビッド・マニング」にソニーピクチャー製の映画を絶賛させていた事件です。当初からその言動が怪しまれ架空のライターではないかと噂されたためわざわざソニーは合成音声を使ってラジオにまで出演させましたが最終的にはばれてしまい、裁判にまで発展してプッシュされた映画を見たという人に5ドルずつ賠償する羽目になっています。っていうか5ドルで映画見られるんだなアメリカって。

 上記以外にもウィキペディアの「ソニーのステルスマーケティング事件」の項目を見るとこれでもかと言わんばかりにステマを繰り返しており、内心見ていて反省しない奴らだなと呆れてきます。もっともソニーに限らず多かれ少なかれの大企業ではこの手のことをやっていますが、ソニーだけこんだけばれるってことは世間からも強く疑われているのと、ゲートキーパー問題を始めステルス性が極端に低いということでしょう。メタルギアソリッドはプレイステーション用ソフトなのに。

 なお以前、ネット広告サービス会社に取材した時、日本では景品表示法などでステルスマーケティングに対する取り締まりも実際に行われているが、中国だとまだこの方面で緩いところがあるので必要に応じてやることもあるということをこそっと教えてくれました。記事には書かないでくれとは言われたので当時は書きませんでしたが、話してる感じだと広告関係者の間では「ばれなければ大丈夫」な手段として認知されているような感覚を覚えました。
 実際、今の日本においても、というよりネット書き込みが発達した今だからこそステルスマーケティングはそこらかしこで展開されていると断言できます。そこで次回はいくらか実例を出して、ステルスマーケティングと思しき書き込みを紹介しようかなと思います。

2016年8月16日火曜日

自爆攻撃の源流

 この前知人の家に遊びに行ったら、そこの家のビビりな猫が私を見るなり距離を置きつつ身構えてきました。怖がらせるのもよくないので放っておいたら何故か私が脱いだ靴の所に行き、私の姿を伺いつつ何故か必死になって私の靴の中の臭いを嗅いでいました。なんとなく隠れて麻薬吸ってるようにも見えて、なんか失礼な猫だなと密かに思いました。

 話は本題に入りますが、イスラム系テロリストが世界各地で自爆攻撃を展開している現状についてはもはや何も説明は要らないでしょう。かつて自爆攻撃は「神風特攻隊」など日本人の専売特許という見方が世界でも強かったですが、現時点ではお株を取られたというかイスラム系テロリストの代名詞と言ってもよく、米国からクレイジーアタックと呼ばれた攻撃はもはや一般的な攻撃に成り下がったと見ることもできるかもしれません。
 しかし、そもそもイスラム系テロリストは何故自爆攻撃を行うようになったのでしょうか。元々イスラム教は古いキリスト教と同様で自殺を厳しく戒めており、現実に今でも中東地域では自殺が起きても親族は自殺だとは届け出ず、病死や事故死だと役所に届けると聞きます。その甲斐あってか一部の中東諸国では自殺発生数0人という統計を出しており、社会上ではタブーというか恥の極みともとれるような態度を見せています。

 それほどまでに自殺に厳しい中東のイスラム系思想グループからどうしてまた自爆攻撃が頻繁に行われようになったか、あくまで俗説の範囲を出ないものの一説として、日本人テロリストによる影響があるという説があります。

テルアビブ空港乱射事件(Wikipedia)

 私と同世代でこの事件について知ってる人間はまずいないでしょうが、一定の年齢層以上であれば忘れることなく覚えている事件だと思われます。この事件は1972年、イスラエルのテルアビブ国際空港内でイスラム系テログループから支援を受けた赤軍派(当時はまだこの組織名で名乗ってはいないが)の日本人三人が銃を乱射し、多数の市民を殺害したという事件です。襲撃を行った三人のうち二人はその場で自殺し、残る一人は警察に捕縛され現在もなお生きている岡本公三です。
 聞くところというか立花隆氏によると、この事件は中東のテログループにとってかなり衝撃的なものだったそうで、自殺は教義で禁止されているものの憎い敵を攻撃するためであれば死ぬことが前提であっても許されるのだという解釈をもたらしたそうです。私はイスラムや中東方面の専門家ではないものの、教義の解釈変更という価値観の転換に着目するならばこの説は決して無理な主張ではないようにも思え、仮にそうであればイスラム系テロリストの自爆攻撃の源流は日本人テロリストの自殺的な攻撃にあったということとなります。でもってこの時の赤軍派の攻撃の源流はどこにあるかと言えば、やっぱ特攻の気風にあったのかなとも思います。

 もう少し話を掘り下げると、多分私以外にこの説を主張する人はいないと思いますが戦時中に特攻攻撃が立案された背景として地味に、「爆弾三勇士」の影響が大きいのではないかと睨んでいます。この爆弾三勇士というのは1932年の第一次上海事変の折、敵陣地の鉄条網に爆弾を抱えて突っこんで自爆し突破口を開いたとされる三人の兵士のことで、当時だけでなく太平洋戦争中も殊更美談に仕立て上げられ戦時中の子供たちですら知ってて、「大きくなったら彼らの様に散るのだ」と小学生ですら言ってたそうです。これが何を意味するのかというと、太平洋戦争が始まるずっと以前から日本では自爆攻撃が奨励こそされないものの賞賛されていたという事実です。
 爆弾三勇士が映画までつくられるほど持て囃されたのは自爆攻撃が攻撃手段として非常に有効だったというより、彼らの死に様が軍・国民双方の士気向上につながると判断されたからでしょう。これは特攻にも言え、対策が取られほとんど成果が上がらなくなった頃にも頑なに継続されたのも士気というか戦意高揚という目的が色濃く、冷たい言い方をすると戦果を期待するより気持ちを維持するためだけに特攻は行われ続けたという側面もあったと思います。

 これは今日のイスラム系テロリストによる自爆テロについても同様で、彼らも戦果を期待するというよりは自分たち組織の戦意高揚、構成員を維持する目的で以って仕掛けているという側面が強いように思えます。根拠としては正面の敵軍に対しては行わず、戦闘とは無関係な市街地で行うことが多い点からです。
 仮にこの通りであれば自爆テロで大騒ぎすることは敵を利する行為になりかねず、フランスは英雄視させないためにも自爆したテロリストの名前は一切公表しないようにすること検討しているそうですが、こうした対策は的を得ているように思えます。被害者への哀悼はもちろん必要ですが、自爆テロに対して恐怖を煽ったり、不安を感じさせるような報道はなるべく控え、このような脅しには一切屈しないしこっちは全く痛くも痒くもないのにまた馬鹿なテロリストが無駄死にしやがったみたいにあざけ笑う態度こそが有効であるかと思われます。そういう意味で自爆攻撃というのは一種の心理戦だというのが私の今日の結論です。

2016年8月15日月曜日

問題を探す力、発見する力

 私は学生時代、下宿していた部屋にとにかく多くの人間を集めていつでも活発に議論できる場所にしようと画策していました。結論から言うとこれは失敗に終わり、そこそこいいメンツは集められたものの活発な議論が行われる場所かというとそこまでには至りませんでした。一体何故失敗したのか、前もって言っておくと集めた面子こと私の友人らの資質が悪かったわけではなく、むしろ優秀過ぎるという人間をかなり集められたとは自負できます。しかし見ようによっては優秀過ぎたゆえというべきか、致命的な面である能力に欠けていたから活発な議論を行え切れなかったのではと恐怖と思いました。その能力こそ見出しに掲げた、問題を探す能力の事です。

 当時を思い出すと、友人が集まって私が何かしら問題提起を行ってから議論へと発展していくのが常でしたが、その議論の中で友人らはみんながみんなして鋭い分析力でもって今後の方向性や解決策を見出すものの議論の発端となる問題提起は全くといいほど友人らからは出されませんでした。これが一人や二人ならともかく全員が全員そうで、議論になればそこそこ白熱するし意見もどんどん出してくるものの議論を作る問題提起は誰一人として出してくることはなく、結局私の下宿で自ら議論を吹っかけてくるような友人が出てくることはありませんでした。

 当時を振り返りつつ現在と比べるとやはり自分の周囲と同年代は全体として問題提起、いやそれ以前に何が問題なのかを見つける力が極端に低い傾向があるように思えます。先程述べた友人たちの様に問題を与えてやるとそれを分析し解決策を導き出す能力には優れているものの、まずどこに欠陥がありそれがどのような悪影響を及ぼすのか、どこに根源的な問題があるのかを探し、見つけるということが全体として苦手である気がします。

 もう一つ例を出しておくと、学生時代はそこそこ周囲から何にでも詳しいし聞いたら面白い答えが返ってくると見られたためかよく国際情勢について尋ねられはしたものの、なんていうかその質問のポイントがファジーというかマクロなものが非常に多かったです。「いま世界で何が問題なのか?」とか、「日本人に何が足りないのか?」とか、「必要な経済学とは?」といった、どこに問題点があるのかを尋ねる質問が今思うと圧倒的だったように思え、具体的な問題の解決策(例:年金問題の対応策など)とか既に存在する問題の背景(例:郵政関連改革の発端など)といったことについてはこっちから切り出さないとまず出てくることはなかったでしょう。

 この傾向は最近のニュースを見ている限りでもあまり変わっていないように思え、たとえば憲法議論についても枝葉末節のどうでもいい所ばかり話題に上げて根本的な問題点や今すぐにでも改善しなくてはならない箇所については誰も触れようとしません。また国政全体においても、一部でツッコまれていますが借金漬けの国家財政の立て直しや年金問題について触れた政党は先の参院選ではついぞ皆無でした。

 社会全体はともかくとして少なくとも私の同年代でどうして問題を発見する力が全体的に乏しいのか背景を探るとなると、やはりこの時代の教育にあるのかなという気がしてきます。具体的には与えられた課題を理解し、解答するという訓練が重視されているため課題を与えてやればコロッと説いて見せますが、課題自体を作って見つけて掘り起こすとなるとほぼ誰一人訓練を受けていないのかもしれません。それこそ哲学などの教養があればある程度はこの点もカバーできますが、私の世代は小学生くらいにオウム真理教事件が起きたことによって宗教、思想に関する議論や解説はやはり制限されていた気がします。クラスでキリスト教に被れたのも私くらいなものでしたし。

 逆を言えばなんで私は学生時代、ひいては現時点においても問題の検出能力が周りより高いのかですが、一つは先程書いたように宗教的な素養がいくらか高くキリスト教を含め仏教などにも興味を持って知識を求めたこと、二つ目は出身環境的に自己の存在を常に疑わざるを得ず必然的に内省を深めていったこと、三つ目は何にでも噛みつく性格だったからではないかと考えています。ただ真面目な話、反社会的な人間の方が既存社会に対し疑いを持つから問題を探す力は受験エリートに比べて高いようには思います。解決する能力はそうでもないでしょうが。

 しかし日本の企業からしたらいくら問題発見力に長けているとはいえこういった反社会的な人間はまず採用しないでしょう。だから東芝にしろ三菱自動車にしろシャープにしろ誰がどう見たってはっきりとわかる欠陥を誰も認識せず、「社内問題の解決にはPDCAサイクルで」とか抜かして何も改善してなかったんだからちゃんちゃらおかしくて笑えます。
 なお「PDCAサイクル」という言葉は昔から大嫌いで、昔いたイタリアンマフィアじゃないですけど、「ぶっ殺してやるってセリフは、終わってから言うもんだぜ。俺たちギャングの世界ではな」の方がとかく行動や決断の遅い日本人に対する標語として適当であると信じています。

2016年8月14日日曜日

忘れがたき映画のワンシーン

宮城事件、玉音放送阻止へ偽命令 元近衛兵「慙愧に堪えない」(福井新聞)

 本題と関係ありませんが今日目を引いたニュースです。宮城事件については「日本のいちばん長い日」を参照してもらいたいのですが、この事件の当事者がまだ存命だったということに驚愕しました。と同時に、末端の近衛兵へは定説通りに処分などなかったんだなということを確認しました。

 話は本題に入りますが、少し古いですが2004年に「ヴィレッジ」という映画がありました。どういう映画かというとネタバレしたら面白さが一気になくなってしまう「シックス・センス」などと同系列の映画で、ホラーかと思ったらちょっぴり不思議なオカルトファンタジー映画だったこともあって前評判と比べての公開後の評価はそんな良くなかったと聞きます。私も見た感じ、個々に光る点は感じますがこうした評価に同意です。

 そんなこの映画を何故ここで取り上げるのかですが、見終わった後も序盤のワンシーンがずっと目に焼き付いて離れないからです。それはどんなシーンかというと、ネタバレしても大丈夫な個所なので以下に紹介します。
 場所は18~19世紀の農村らしき場所で朝のお祈りの後、仕事をしながらある娘が村長やってる父親に、「私、好きな人が出来たの(∀`*ゞ)エヘヘ」と打ち明けます。その相手はホアキン・フェニックスが演じる村の青年でまだ恋心を打ち明けていないことを父親に告げると、相手にその気持ちを伝えるまでほかの誰にも言っては駄目だよと諭されます。それを受けてかその村長の娘はすぐ小屋で一人で作業をしているホアキンを訪れると、

「( ・∀・)ノ<こんにちはルシアス(ホアキン演じるキャラ)、あなたにお話したいことがあるの」
「( ゚д゚)<……………」
「(*´∀`)<あなたを愛してる……愛してるのよ」
「( ゚д゚)<……………」
「( ゚∀゚)<何よりも確かな気持ち!太陽と月よりも愛してる!あなたも同じ思いならもう隠さないで!」
「( ゚д゚)<……………」
「( ゚∀゚)<愛は天の賜物よ!感謝しなくちゃ!」(段々テンションアップ)
「( ゚д゚)<……………」
「(゚∀゚)<大きな声で感謝を表すのよ、ありがとうって!」
「( ゚д゚)<……………」
「(゚∀゚)<ありがとう!ありがとう!」
「( ゚д゚)<……………」
~場面が切り替わり~
「。゚(゚´Д`゚)゚。<ウエェェェェン!」(ベッドで妹に抱かれながら)

 娘役を演じるジェイン・アトキンソンの終始ハイテンションな演技に対しホアキンのやたら無表情な佇まいとの対比がなんか凄まじく、英語版で見ると「It's love!」と「Thank you!」を何度も絶叫しており、何故かこのワンシーンだけ繰り返して見ています。実際、このワンシーンだけでもこの映画は見る価値あるでしょう。

 なお主人公は振られて帰ってきたお姉ちゃんを慰める盲目の妹で、この役は「ジュラシックワールド」でヒロインを演じているブライス・ダラス・ハワードがやっています。最初、「ジュラシックワールド」を見た時にどっかで見た様なと思ってましたが、この「ヴィレッジ」のヒロインと「スパイダーマン3」のグウェン・ステイシー役を演じている人でした。ヴィレッジはともかく、ほかの二作品ではかなりお色気むんむんな演じ方する人だなと個人的に見ています。

2016年8月12日金曜日

ベラルーシに渡った松本市長

 また本題と関係ありませんが最近になって初めて「きゆづきさとこ」氏という漫画家兼イラストレーターの存在を知ったのですが、これほど色使いのうまい人はかつて見たことがなく、どうして今まで自分はこの人の存在を知らなかったのだろうかと思うくらいの衝撃を覚えました。色に対する感覚が他の漫画家などと比べて根本的に何かが違うように見え、頭文字Dに例えて言うなら藤原拓海とそれ以外のような……。我ながらよくわからない例えだ。

 話しは本題に入りますが、一昨日発売した文芸春秋九月号の巻頭コラムに現長野県松本市長の菅谷昭氏が寄稿していました。最初名前を見てもピンとこなかったのですが書かれている内容がチェルノブイリで影響を受け甲状腺がんを患った子供たちの話題であったことから、「この人、ベラルーシに単身で渡ったあの医者か?」と一気に記憶が揺さぶられました。読んですぐネットで調べたやはりその通りで、90年代に職を投げ打ちベラルーシへ単身で渡った医師がこの菅谷市長でした。

 私が何故この事実を知っていたのかというとごく単純にテレビ番組、それも往年の人気番組の「プロジェクトX」で取り上げられていたのを見ていたからです。この番組で菅谷市長がどのように取り上げられたのかというと、医師の父親の元に生まれた菅谷市長は長じて自身も医師となり、山々にある遠隔地へ毎日徒歩で往信していた父を見習い自身も弱者に寄り添うような医師を目指していたそうです。
 医師として順調な生活を送っていた菅谷氏ですが、チェルノブイリの爆発事故による放射能汚染の影響を受け、ベラルーシでは子供を中心に甲状腺がんの発症が急激に増加しているというニュースをある日知ります。甲状腺がん自体は切除手術で治療はできるものの、当時のベラルーシでは耳の後ろから顎下まで深々と切り裂いて切除する手術しかされておらず、手術を受けた子供たちは痛々しく生々しい傷跡と一生付き合っていくしかほかありませんでした。

 これを見た菅谷氏は、「俺が行くしかねぇ」とばかりに当時務めていた大学を辞し、医療ボランティアとして単身でベラルーシに渡ります。渡った後しばらくは全く収入もなく手弁当でありながら、ベラルーシの子供たちに傷跡が全く残らない手術で以って治療を行い続け、現地の医師たちにその手術法を伝授していったそうです。この時の菅谷氏に私淑した現地医師の、確かゲンナジーさんだったと思いますが、その施術の正確さといい指導の細やかさといい凄い医者だと思って菅谷氏に追いつこうと自分も甲状腺がんについて海外の医学者などを取り寄せて勉強し始めたところ、甲状腺がんの主要な論文に「Akira Sugenoya」という署名がびっしり載せられているのを見て二度びっくりしたそうです。

 ベラルーシ滞在中、先ほどのゲンナジーさんは勤務地が途中から菅谷氏と離れたものの休日にはわざわざ数時間車を運転してまでやってくるなどして菅谷氏への支援を続け、確かプロジェクトXのスタジオにも現れ二人で再会を喜んでいました。

 菅谷氏はベラルーシで約二年間活動してから日本に戻り、その後共産党の要請を受けて松本市市長選挙に出馬して2004年に当選し、その後もずっと当然し続け既に三選を果たしています。その菅谷氏は今回の文芸春秋のコラムで、ベラルーシでは国内の子供たちに甲状腺がんの検査や治療費を国が負担していることを紹介した上でベラルーシの政府関係者から、「ベラルーシより大きな日本ではこういった国家支援をしていないのか?」と問われたことが書かれています。
 関係ない立場のはずですが、正直私もこの言葉は耳に痛いと感じました。一部で報じられているものの、やはり福島原発周辺では影響を受けやすい子供の甲状腺がん発症率が高まっていると聞きますし、むしろそうでなければ不自然だと考えます。しかしこの方面の検査費、治療費に対する国や自治体の支援については何も聞かず、むしろそうした支援を行うことによる風評被害が起こるのではという懸念は耳にして、そんなことしない方がいいと思っている人の方が多いのではと思う節すらあります。

 私個人の勝手な意見を述べればやはり被災地付近に置いては毎年無料で検査が行えるよう国が支援すべきではと思います。というのも治療において見つけるのは早ければ早いほどよく、また甲状腺がんは手術によりほぼ確実に治療できるからです。

 最後にこのコラムの中で菅谷市長は、かつて自らが施術して今は大人になったベラルーシの子供たちから最近子供を産んだなど連絡が来ていることを明かし、こうした連絡を素直にうれしく思うということを、少し誇らしげに書いて結んであります。
 自分自身がそういう性格をしているからかもしれませんが、何の支援もなく孤立無援の状態でありながら単身で飛び込んでいくような人間がことのほか好きで、野球でも野茂英雄氏のファンですが、この菅谷市長についても初めてその存在を知った時から強い尊敬の念を覚えていました。まさかその後で市長になっているとは露知らずでしたが、やはりこういう強い意志を持つ人間が社会でも大きな立場になるべくしてなる社会が望ましいものです。