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2018年1月22日月曜日

我は求め訴えたり……

 コメント欄で猫娘がかわいくなった第6期「ゲゲゲの鬼太郎」に言及するコメントが来ましたが、この新しい鬼太郎については時代的に、かわいい女性キャラ出さないとどうにもならないから仕方ないかなと私は見ています。その一方、どうせリバイバル作るなら平成も終わりを迎えようとしている時代なだけに、「悪魔くん」の方がいいんじゃないかなという妙な感想も覚えました。

 悪魔くんの詳細についてはWikipediaなどで見ればわかるので省略しますが、私は1989年に放映されたアニメ版の悪魔くんを見ていました。こちらの悪魔くんは社会風刺的意味合いの強かった初代原作とは違って勧善懲悪な如何にもな少年ヒーローものでしたが、悪魔くんとそれに付き従う十二使徒が妖怪だったり西洋の悪魔だったり南米っぽい妖精だったりと和洋折衷バラバラであったのが印象的で、キャラ的にもみんな立っていたと思えて何故かこのところ再評価しています。

 ちょうどこのアニメが放映されたほぼ同時期に当たると思いますが、現在では「ペルソナシリーズ」に系譜がつながる「女神転生」というゲームとその原作となった小説もこの時期に出ていたと思います。この女神転生の特徴はグールやベヒモスと言った悪魔も、エンジェルやスサノオといった神々もすべてひっくるめて「悪魔」と総称しているのが特徴的なのですが、この概念は悪魔くんでも共通しており、世界で有名な悪魔のメフィスト・フェレスも、妖怪の百目も、ぶっちゃけUMAなこうもり男に鳥乙女もまとめて「悪魔」と総称しています。
 作者の水木しげるがそこまで意識していたのかまではわかりかねますがある意味これは、味方となれば「神」であり、敵対すれば「悪魔」だが、本質的にこの両者はどちらも同じような神霊的存在であることを暗喩しているようにも見えます。さっきの女神転生なんかはまさにこれがテーマです。

 現実に「悪魔学」という神話を辿ることで民族の盛衰や歴史の変化を追う民族学では、神霊がどのようにその言い伝えが変わっていくかという変化を捉える学問です。一例を挙げると、バビロニアの豊穣をもたらす神の「バアル」は、バビロニアと対立していたイスラエル地方のキリスト教やユダヤ教では邪心と扱われ、名前も「ベルゼブブ(バアルゼブブ)」に変えられ、「蠅の王」という立場に変えられています。元は同じ存在ですが、味方であるか敵であるかで姿を変えており、そう考えると神と悪魔は相反するものというより同じ存在を言い分けてるだけで、本質的にはやはり「悪魔」と総称する方が適切な気がします。
 こうした価値観から私はよく「神は信じないが悪魔と妖怪はいると信じている」と公言しています。また年齢が下の者に対しても、「この世に自分を助けてくれる神様はいないが、不幸へ引き込もうとする悪魔はたくさんいる」などと教訓めいた説法も繰り返したりしています。もっとも、そんな悪魔を従えるような悪魔くんなら別かもしれませんが。ああ、もっかいみてみたいな悪魔くん。

 最後に本題から外れますが、友人の嫁がやっている「陰陽師」というゲームで茨木童子という鬼が出てくるのですがこれについて、「最近は女性として描かれることの多い鬼」だと説明しました。実際に今昔物語で女性に化けて源頼光四天王の渡辺綱に復讐を仕掛ける話はあるのですが、これに限らなくても私は日本の鬼の性別はすべて女性なのではないかと思う時があります。大江山の酒呑童子もこの例にもれず、こちらは元はプレイボーイの男性であったと書かれていますがむしろ逆で、プレイボーイに恋文送っていた女性の怨念、もしくは送っていた女性そのものではないかと疑っています。
 こう思うのも楠圭氏の「鬼切丸」(続編がクソ過ぎる)の影響かもしれませんが、なんとなく日本の伝承に出てくる鬼の話を見ていて、鬼は女性性が強い存在のように感じられます。

  おまけ
 「太鼓の達人」の「おに」は難しすぎる。

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