先日「ドボポプププププ」という記事で描いた「女神転生外伝 新約ラストバイブル2」というゲームを昨夜クリアしました。Steamのレビューを見るとUIが古いとか勝手が悪い、エンカウント率が高いなどという批判をよく見ますが、ファミコン時代のゲームを体験している私からすればあんなの障害に入らず、実際気になることありませんでした。むしろエンカウント率高いから、普通に戦ってればレベリングの必要なくていい感じだった気すらします。
さてこのゲームですが女神転生シリーズの亜種として世界観は西洋ファンタジーで、出てくるキャラクターも歌舞伎っぽいのもいますが基本西洋名で、武器もドスを除けばファンタジーチックです。なのにシナリオのテーマは仏教で、ラスボスも「衆生無辺誓願殺」などと漢字いっぱいな仏教用語で攻撃してきます。
っていうかゲームバランスはかなりおおざっぱで、終盤のボスはこっちが先に必殺技を食らわせるか、向こうが先にこちらをワンパンかましてくるかの二択でした。この辺はちょっと難ありで批判されても仕方ない気がします。
話を戻すと前述の通りシナリオのテーマは仏教が大本となっており、ラスボス前の前座となるボスキャラも「四苦」と「八苦」というキャラでした。この四苦八苦ですが自分も今回初めて知りましたが単なる四字熟語ではなく実は仏教用語でその意味は臨済宗円覚寺の解説によると以下の通りらしいです。
①〔仏〕生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせたもの。人生の苦の総称
この説明の通り、ゲームのラストバイブル2では上記の苦しみの種類がゲームイベントを通してプレイヤーに示されます。特に激烈なのは「病」で、ゲーム中の世界は不治の病が流行しており、感染して末期症状の患者には植物状態のようになる薬によって延々と寝かしつけたりしています。
また薬が手に入らない人の中にはあまりの苦しみから自殺を選ぶ人もおり、あるイベントではそのような患者に敵キャラが安楽死を施すシーンすらあります。もちろん主人公たちは勝手なことはやめろとこの敵キャラを倒して安楽死を食い止めるのですが、その後助け出された患者は病の苦しみから結局自殺することとなります。このほか無理やり恋人を死に追いやられたパートナーの男性も夜を悲観して自殺するというイベントもあり、全編において陰鬱なストーリーが展開されます。
多少ネタバレで話すと、このゲームのラスボスはそのような世の中の不条理や苦しみ続ける人たちを見て、「生きているからこそ苦しみがあり、悲しみが繰り返されるのだから、いっそ人類全員安楽死させる方が苦しみから解放させることとなる」として、人類絶滅を企図することとなります。これに対してやはり主人公らはそんなことさせないと抵抗するのですが、「お前らがやろうとすることは世の中で、人の苦しみを増やすだけだ」と向こうにも言われたりします。まぁこの辺はお約束か。
ただこの辺の「生きているからこそ苦しみも生まれる」というのは、確かに一種の正しい見方だと思います。上記の四苦八苦の概念もまさにその点をついており、円覚寺の解説によると生きることそのものが苦であり、不完全であり、一時の幸福感は苦の裏返しでもあるという風に説明されています。これ自体に私も異論はなく、安楽死というのも一つの救済手段であるという風に感じます。
まぁゲームでは最終的に人類絶滅を図るラスボスを倒して計画を食い止めるのですが、生き残った仲間の一人は実際にこれでよかったのかと戦後に自問しつつ、かつて生きろと言ってくれた者らの思いに応えるため今後も生き続け、世の中の多くの人の苦しみを少しでも減らしていくため努力すると言って幕を閉じます。落としどころとしては、まぁこんなもんでしょう。
以上の流れを見て自分の中でポンと浮かんできたのが、地味に「進撃の巨人」でした。この作品の中では特異な能力を持つために世界中から迫害される民族について、迫害から守りつつ今いる人たちを救う手段として、今後この民族から子供が生まれないようにして民族全体でゆっくり安楽死する案が提唱されます。ちょっと観点は違うかもしれませんが、生まれながらに迫害という苦を追う民族に対し、民族そのものを消滅させることでその苦から解放するという見方では、上記のラストバイブル2のラスボスとも共通する箇所があると思います。
ただ進撃の巨人でも、「子供は未来そのものであり、そんな手段は認められない」として主人公勢力は上記案に抵抗することとなります。もっともその中の一人は、「迫害する他民族を絶滅させればいいじゃん(・∀・)」って結論に至って実際に実行するわけなのですが。
こうした創作の中だけではなく仏教においても、「生きていくことは苦に満ちてはいるが、自殺や安楽死によって解放されるわけではない」という風に説かれているように思えます。あくまで自分の理解ですが、苦も楽もともに受け入れることで初めて生を理解する一歩が踏めるという風に解釈しており、苦は忌避すべきものではないと言っているように感じます。
この辺、考えれば考えるほど追い付かなくなっていく面もありますが、かといって考えないとそれはそれでもったいない概念ではないかとも見ています。最初に私は、安楽死は苦の解放手段の一つと申しましたが、今回こうしてラストバイブル2のエンディングを見て進撃の巨人とか見た後だと、果たしてそうかなという疑問が少しもたげました。元々安楽死については肯定派なのですが、この辺に関してはもっと仏教関係者とも話してみたくなりました。
どちらにしろ、現代社会は幸福について論じたり考えることを求めることが多いですが、苦についてももっと考えるべきかもしれません。大前提としては苦を否定してはならない、一方で安楽死のように苦を求めてもならないといったところじゃないかと思いますが、これらを踏まえて「苦とは何か」、「自分にとっての苦とはなんなのか」といった点や、避けるべき苦、受け入れるべき苦とは何なのかとかももっと考えてみた方がいいのかもしれません。
2 件のコメント:
仏教の世界観である一切皆苦、輪廻の否定、極楽浄土への到達などの思想観と安楽死は相性が良いのではないか?
と考え、安楽死を肯定するお坊さんがいないか検索した事があります。
宗派にもよるでしょうが、案の定というか、お坊さんの立場からは安楽死をあまり推奨していないようです。
お釈迦様が生きていた時代、弟子がある親子に対して「そんなに苦しいのならいっそ死んでしまえば良いのではないか」といったアドバイスをしたそうです。結果、その両親は子殺しをしてしまったそうで、お釈迦様はその弟子をめちゃ叱ったそうです。
仏教に限ったことではありませんが、あらゆる宗教は無用な苦しみを避けるような、より良い生き方を提示し、教え広げる事が存在意義となっている所が大きいので、簡単に死なれては困るというのが宗教関係者の一致見解なのでしょう。
確かに集団自殺をやらかすカルトを除けば、安楽死を推奨する宗教というのはまずなく、それどころか自殺も厳しく禁止するところが多いですね。その辺の乖離が厳しいイスラム教では自爆テロが相次いでいるのはやや皮肉なのですが。
ただ真面目に安楽死についてはもっと議論してほしいし、宗教関係者も何故ダメなのかをもっと発信してもらいたいですね。こういう問いこそ、宗教にガンバてほしいのですし。
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