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2016年6月19日日曜日

広島で被爆死した米兵捕虜を追った郷土史家

 漫画「はだしのゲン」の原爆投下直後のワンシーンに、原爆によって亡くなったと思われる米兵捕虜に老婆が石を投げつつ、「アメリカめ、自国民まで巻き添えにしおって!」というような内容のセリフを述べるシーンがあるのですが、このシーンが事実に基づいた内容であったということをつい最近知り、非常に強い衝撃を覚えました。

広島原爆で被爆したアメリカ人(Wikipedia)

 私がこの事実を知ったのは今月の文芸春秋(七月号)にて、広島で被爆死した米兵捕虜を追った郷土史家の森重昭氏の手記を読んだことからです。私は知らなかったのですが森氏は先日行われたオバマ大統領の広島訪問時の式典に招かれ、直接オバマ大統領から抱擁されて翌日の新聞ではどこもオバマ氏と森氏の2ショットが一面に載せられてたいようなので、もしかしたらこのブログを読んでいる方は既に森氏の事はご存じであったかもしれません。
 なおこの時のことについて森氏は直後のインタビューにも答えた通りに「頭が真っ白になった」と書いておりますが、それもそのはずというか式典への招待自体は前もって電話で連絡を受けていったものでしたがてっきり会場の遠くからオバマ大統領を見ることになるだろうと思っていたところ、なんと広島知事らを押しのけて最前列の席に案内され、そのまま上記の通りにオバマ大統領から直接声をかけてもらった上にハグしてもらったとのことです。逆を言えば他の人間を差し置いて森氏にこうした対応を取る辺りはさすがはオバマ大統領だと思うとともに、こうした歓待を受けるほど森氏の功績が高く評価されたのだと思います。

 手記によると森氏は8歳の頃に広島で被爆しています。その後成人して会社勤めをする傍ら地元広島で原爆投下時に米兵捕虜が亡くなっていたということを知ってから、後世のためにきちんとした記録を残したい、そして国籍など関係なく被爆死した人間を弔いたいという考えから調査を始めたと語っています。なお森氏の勤め先は山一證券、次いでヤマハだったとのことで、何気にエリートサラリーマンだったようです。

 調査を始めた森氏は休日を使って当時の資料やまだ生きていた原爆体験者らから話を聞き集めるという地道な活動を行っていきました。そんな折、同じく米兵捕虜を追っていた広島大学研究所の宇吹暁氏が、戦後に外務省がGHQへ提出したとされる被爆死した米兵捕虜20人のリストを発見したことによって手がかりをつかみ、このリストに書かれてあった人名から詳細な確認作業へと着手していくこととなりました。
 最終的にこのリスト内容は完全には正しくなく、実際に被爆死した米兵捕虜は12人だったということが森氏の調査で明らかとなっております。その大半は撃墜された爆撃機B24(リベレーター)のロンサム・レディー号とタロア号の乗組員たちで、彼らの氏名、所属、そして被爆死した状況についても様々な角度から検証されて事実が確認されています。

 特に驚いたのはこの時の森氏の調査に対する熱意で、インターネットもなかった時代に国際電話をかけ、リストにあった米兵捕虜と同姓の家庭へしらみつぶしに電話をかけて親族を探したそうです。そんなことするもんだから電話代はかさんで月7万円を超えた月もあり奥さんからは白い目で見られたそうですが、それにもめげずに努力し続け実際に親族と連絡を取り合うことに成功しています。もっとも最初は胡散臭い詐欺師のように思われて相手にしてもらえなかったこともあったそうですが森氏の熱意を受けて情報を提供してくれる親族らも段々と増えていき、そして幸運なことに撃墜されたB24ロンサム・レディー号の機長であったトーマス・カートライト(2015年1月死去)が当時まだ存命しており、森氏の調査に協力してくれました。
 トーマス機長は尋問のため一人だけ広島市から東京へ移送されていたことから難を逃れ、戦後に解放されて米国へ帰国した後も上層部からは部下が広島で被爆死したことを言明するなと指示されていたそうです。実際、GHQは占領してすぐに原爆で米兵捕虜が亡くなっていたことを把握していたもののその事実は「不都合な真実」として公表せず、被爆死した米兵捕虜の家族らにも当初「行方不明」としか説明していませんでした。実際、ロンサム・レディー号の乗組員だったジェームズ・ライアンの家族には終戦二年後になって初めて、「広島の原爆投下時に死亡」とだけ通知され、原爆との因果関係も何も説明されていなかったようで被爆後に虐待死されたのではという疑念を家族らは持っていたそうです。

 そして、冒頭の石を投げつけられていたという米兵捕虜についてですが、この捕虜はロンサム・レディー号の乗組員ヒュー・アトキンソンだったということが種々の調査などから明らかとなっております。その死の状況については原爆投下地点(原爆ドーム)から400メートル離れた捕虜収容所で他の捕虜ともども被爆したものの、即死してはおらず重傷ではありましたが当初はまだ生きていたそうです。そして被爆直後の混乱の中、移送することもままならず処遇に困った憲兵が一旦相生橋欄干につないだところしばらくしたら死亡しており、そのまま現場に放置したというのが実態だったそうです。
 この死亡時の状況について当初は、「橋に繋がれた米兵捕虜が投石されて殺された」などとも言われており当時現場にいた証言者もそのように述べたそうですが、森氏曰く往々にして記憶というのは変わりやすいもので、以前そのように述べた証言者もその後確認を進めた上で聞き直すと、「既に死亡していて、死体に石を投げつけていた」と証言が変わったりすることも多かったそうです。この一回限りの証言で完結させない辺り、歴史のリサーチャーとして森氏が格段に優れていると思わせられる手腕です。

 また同じくロンサム・レディー号の乗組員であったラルフ・ニールについてですが、彼の家族らは戦後生まれた彼の甥に同じ「ラルフ」という名前を付けたそうです。その甥であるラルフ・ニール氏は森氏をテーマにしたドキュメンタリー映画「ペーパーランタン」の撮影で広島を訪れ、資料館にある叔父の写真を15分間も無言で眺めつづけたそうです。森氏は一連の調査を進める傍らで彼ら米兵捕虜にも日本人と同じく墓碑に名を刻むべきだと考え、既に定年退職した身であったことからアルバイトで貯めた約65万円を投じてわざわざ米兵捕虜の慰霊碑を打ち建てるとともにまだ存命していたカートライト機長を案内したとのことで、重ね重ね森氏の行動には頭が下がります。

 正直な感想を述べると、今までこのような事実があったということを知らなかったこと自体が恥ずかしく感じるとともに、冒頭で述べた「はだしのゲン」のワンシーンにこんな背景があり、そしてそれを事実として確認するために膨大な労力が払われたのだということを考えると森氏には強い尊敬の念を覚えます。そしてそれをきちんと評価してその努力を労ったオバマ大統領をはじめとする米国政府の面々も改めて大した連中だと思うと共に、公式に米兵捕虜が一緒に被爆死していたという事実を明らかにしたその対応はなかなか真似できるものではないとばかりに、米国の底力というものを覚えさせられます。
 逆を言えば、どうして今まで日本はこうした森氏のような人物を取り上げてこなかったのか。先程の映画「ペーパーランタン」も日本では未公開とのことで、「プロジェクトX」ではないですが「地上の星」に対し目が向けられていないのではという気持ちにさせられます。

 最後に余談というかなんというか広島で被爆死した捕虜の中にいたタロア号の乗組員たちですが、彼らはどうも、広島に新型爆弾が落とされる予定であるという事実を知っていたそうです。余計なことは書かず素直な心情を述べると、この事実を知って私はゾッとした感情を覚え、被爆時の彼らの胸中は如何なるものだったのかと慮りました。

2023年11月15日水曜日

宝塚歌劇団のいじめ、パワハラ騒動を見て

 先月、大阪で会った後輩とジャニーズ事務所の問題に触れた際、「この次は宝塚でしょう」と後輩が高らかに宣言してました。その後輩の言う通り、宝塚歌劇団もビッグモーターやジャニーズ事務所のように今炎上しています。
 なおその後輩もソ連人民の敵であるうちの親父も何気に宝塚市出身だったりします。もっとも親父は歌劇団についてはあんま興味なさそうで、自分も関心はありません。

 宝塚ではかなり陰湿ないじめが行われているということは以前から自分も聞いていましたが、数年前にも報道された際は今回ほど炎上することはありませんでした。事ここに至って炎上した背景としては、いじめの被害者とされる方が自殺しているなど事案が深刻であったこともさることながら、やはりその前のジャニーズ事務所の炎上も影響しているような気がします。
 ジャニーズについても性的虐待報道はかねてからありましたが、本格的に炎上したのは今年が初めてであり、それまでメディアは文春を除き完全に黙殺していました。なおマンガ「GANTZ」に出てくるあるキャラは、ジャニーズ事務所と思しき芸能事務所に一時所属していたものの、「社長に襲われそうになったからやめた」と語っており、2000年ごろの時点であの疑惑は周知の事実であったことを物語っています。

 話を戻すとジャニーズの問題を受け世間もこの手の権威があるからって好き勝手やっている組織に対して目を向けるようになったほか、メディアも口先だけとはいえジャニーズ問題黙殺について反省する態度を見せ、こうした芸能業界の闇について積極的に報じようとする姿勢を見せるようになってきており、それが今回こうして宝塚歌劇団への批判につながっていたように見えます。
 もっとも宝塚歌劇団はジャニーズ事務所ほどメディアに対する影響度というか脅迫する力は持っていませんでした、それでも固定ファンが非常に強い組織です。メディア関係者の中にも固定ファンが少なからずいてそれらが恐らくこれまでのいじめ報道を閉ざしていた諸悪の根源だと思いますが、そうした固定ファンのディフエンスも今回は役に立たなかったようです。

 もっともそれ以前の話として自殺した方の睡眠時間は1日約3時間、それ以外の時間はほぼすべて演技指導などの勤務をしていたという時点で、労基はいったい何をやっているんだって話になってきます。もちろん劇団員という特殊な職業であることを考慮すると杓子定規に労働時間を制限すべきではないと思いますが、それにしたってこれほどの激務に対し一切指導とか行わないってのはいかがなものかと思います。っていうか残業代を支払うよう指導くらいはしろよな。

 ジャニーズにしろ宝塚歌劇団にしろ、これまでほぼ周知でありながら黙殺されてきた暗部が今年一気に明るみに出るとともに、どちらも記者会見でわざと視聴者の反感を煽ってるのかって言いたくなるほど炎上させた点で共通しています。端的に言ってほかの方も指摘しているように価値観がいまだに古いというか昭和のままで、平成から令和にかけての変化を一切行わず、伝統の名のもとに無意味でカビの生えた思想に凝り固まっているということがそもそもの原因でしょう。
 それこそ根性論が強かったスポーツ界なんかは平成において一気に様変わりしたというか割と早い段階で合理的な方向に移っていき、それが現在の野球やサッカーなどの国際戦における優れた成績につながっているように見えます。これは実業にも言えますが、国際競争が激しい業界ほど市場が合理的になるのに対し、鉄道や電力など国際競争が行われないインフラ系業界ほど改革が遅れる傾向があり、なまじっか権威があってあまり競争にさらされなかったジャニーズ事務所や宝塚歌劇団もその口に入るのかもしれません。

 それにしも時代は変わるもので、しごきで有名な亜細亜大野球部なんかも今後丸くなったりするのだろうか。まぁ今のままでもかなり強いけどあそこ。

2021年6月13日日曜日

和歌山カレー事件に関する所感

和歌山カレー事件 林眞須美死刑囚の娘と孫が関空連絡橋で飛び込み自殺(ガハろぐ)

 既に一部で報じられていますが、先日の関空連絡橋での母娘心中事件で亡くなった母親の方が、和歌山カレー事件の林死刑囚の娘だったと知り、非常に驚いています。そもそもの投身事件自体、自宅では虐待と疑わしき別の娘の遺体があるなど全容が掴めない異常さがあって興味を覚えていましたが、事件とは恐らく関係ないものの、関係者が林死刑囚の係累だったという事実が加わったことでなおさら衝撃を覚えました。
 こっちの事件に関しては関係者の多くが亡くなっているのでこの後全容が解明されるかは、正直難しいでしょう。尼崎事件といい、闇入りする事件が最近多い気がします。

 話を変えると、今回の事件を受けて和歌山カレー事件に関する言及がネットを中心にまた増えてきているような気がします。一時期冤罪事件を調べまくっていたこと、また事件発生時にリアルタイムで報道を見ていた自分としても気になる事件なのですが、私自身の所感を述べると、やはりこの事件は有罪とすべきでなかったという見解を持ちます。

 一部で報じられていますが、犯人とされた林死刑囚は過去に保険金詐欺を繰り返していたことは事実であり、善良な一市民とはとても言えない人間であることは間違いありません。しかしこのカレー事件に関しては有罪の根拠とされた証言があやふやであり、また証拠とされた混入ヒ素の同一性に関しても強い疑いが残されています。確実に林死刑囚が犯人であるという証拠はなく、事件当時に際立って怪しいかというとまたそうでもない立場であるというのが私の見方です。
 では何故犯人視されたのかというと、やはり前述の保険金詐欺という経歴からでしょう。この過去の経歴から容疑者扱いされるという点に関して幾分仕方のない点もあると思いますが、しかし事件の有罪性となると話は別で、確実な証拠がないのであれば無罪とすべきだった、少なくとも死刑ではなく将来の再審を考慮して無期懲役にすべきだったと自分は思います。

 なおこの和歌山カレー事件に関して昔中国で職場に不満を持った中国人が食堂の料理に毒入れたというニュースを話題にしたら、「日本でも前あったじゃん」と中国人の友人に言われました。年代的に事件発生当時に日本にはいなかったはずですが、そんな彼でもこの事件のことを知っているほど有名な事件だったのだなと当時に認識しています。

2011年10月30日日曜日

ハリウッド人気子役のその後

 映画を見る方かと問われるならば「見ない方」と答える私ですが、ハリウッド映画における人気子役のその後の人生について何故かデータがそこそこ集まっているので日本でもおなじみだった子役俳優を何人か紹介しようと思います。

リバー・フェニックス(代表作:スタンド・バイ・ミー
 夏休みの少年による冒険物語と言ったらこの作品しかないとまで言われる「スタンド・バイ・ミー」で、主人公の親友役としてリバー・フェニックスは出演しています。作品の中でリバーが演じた役は準主役ともいうべきキャラというのもありますが、作中で明らかに主役を食うほどの演技力を見せており見た人にとっては忘れられない印象を持ったかと思います。
 この作品以降もリバーは活躍を続け若くしてハリウッドの大物として知れ渡りますが、皮肉にも彼が「スタンド・バイ・ミー」で演じたキャラクター(弁護士となるも喧嘩の仲裁中に刺殺される)のように麻薬の過剰摂取によって23歳の若さで早世しています。もし彼が生きていたら、ハリウッドの勢力図は今とは大きく異なっているのではないかと最近にも報じられるほど、その死は各界から惜しまれています。
 なお彼の弟であるホアキン・フェニックスも俳優をしており、「グラディエーター」では兄に劣らずローマ皇帝コモドゥス役で名演(怪演?)を見せており、こちらも主役のラッセル・クロウを食うかのような存在感を発揮しております。

エドワード・ファーロング(代表作:ターミネーター2
 映画初出演ながらターミネーター2で主役のジョン・コナー役を演じ大成功を納めるものの、ここで紹介するほかの俳優らと同様に成長とともに麻薬とアルコールに溺れ、リンクを貼っているウィキペディアのページを見てもらえばわかりますがあの若かりし頃に見せた美少年の姿はもうそこにはなく、一応俳優は続けているそうですがそのあまりの堕落ぶりに「ターミネーター3」への出演は見送られたそうです。

ブラッド・レンフロ(代表作:依頼人
 個人的にかなり記憶に残っている俳優です。私が代表作に挙げた「依頼人」のオーディションで上のエドワード・ファーロングを見出した人物に選ばれ、この作品以降も見事な演技と相まって若手俳優として一躍名を上げます。ちょうど全盛期の頃に日本のゲームの「バイオハザード2」のテレビCMで主人公の男性警察官役でも出演していましたが、私生活はまた例によって早くから麻薬とアルコール漬けで、25歳で過剰摂取によって急死しています。

マコーレ・カルキン(代表作:ホームアローン
 天才子役と言ったら自分らの世代にとってまず第一に、このマコーレ・カルキンが挙がってくるんじゃないかと思います。コメディ映画の「ホームアローン」は日米で大ヒットしてその名を世界中に知れ渡らせたマコーレ・カルキンですが、彼の成功後に両親が不仲からドル箱と言っていい彼の親権を巡って対立し、それが影響したのかこちらもまた早くからアルコール浸りとなっていったそうです。一応今でも俳優業はしているそうですが、20代前半期に活躍できなかったというのは非常に残念なものです。
 ちなみにアメリカでは仲が良かった故マイケル・ジャクソンの裁判に証人として出廷し、マイケルの児童虐待裁判で彼の無実判決を決定づける証言を行ったことから、「マイケルを救った人」としての印象が強いそうです。

イライジャ・ウッド(代表作:危険な遊び
 マコーレ・カルキンが子役として当時圧倒的な知名度を持っていた頃、彼と二分する人気を持っていたのがイライジャ・ウッドです。代表作はちょうどそのマコーレと共演し話題となった「危険な遊び」を挙げていますが、彼の真の代表作は有名故にお気づきの方も多いでしょうが主役のフロド役を務めた「ロード・オブ・ザ・リング」に他ならないでしょう。
 イライジャはこれまで上げてきたほかの子役に比べると成人後も俳優として成功しており、今も現役で活動を続けています。一見するとちょっと頼りなさげな見かけをしていて、「ロード・オブ・ザ・リング」の前に主役で出た「パラサイト」もそのまんまな高校生役を演じていますが、やっぱりフロド役は彼でなければ今じゃ想像できないことを考えると相当な演技力だと私は考えています。
 ただ「ロード・オブ・ザ・リング」の3作目ではフロドの従者であるサムがストーリー上であまりにもかっこよかったことから、キャラが食われているのではという指摘が私の周りでよくされていました。そんなサムを演じたショーン・アスティンも、知られざる有名子役だったということに最近気が付きましたが。

ショーン・アスティン(代表作:グーニーズ
 上述の通りに「ロード・オブ・ザ・リング」のサム役で好演を見せたショーン・アスティンですが、なんと彼は往年の冒険映画「グーニーズ」のあの喘息持ちの主人公役も演じていました。実際にグーニーズ以降はヒット作に恵まれていなかったそうですが、あの少年がサムだったなんてと知った際には大いに驚いたものです。どうでもいいことですが、昔ファミコンゲームでよくグーニーズしていました、クリアできなかったけど。

ジョナサン・キー(代表作:インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説
 そんなショーンとグーニーズで共演していた子供の中には、「インディ・ジョーンズ、魔宮の伝説」で主役のインディを助ける少年を演じたジョナサン・キーも出演しています。こちらは現在俳優をしておらず武術指導など映画スタッフとしての道を歩んでいるそうです。

 という感じでざらっと紹介しましたが、日本でもそうですがやはり子役として有名になったからと言って俳優として大成するのは難しいようです。それにしたってアルコールと麻薬依存が多過ぎる気がしますがそれはアメリカ故ということで、今後は「ハリー・ポッターシリーズ」に出演している俳優らがどのように活躍していくのかが注目ですが、私の予想としてはやはり大多数は埋もれていき、ショーン・アスティンのように30代に入った頃にぽっとまた芽が出る人が現れるんじゃないかと見ています。

2014年1月15日水曜日

家族のつながり、遺伝子のつながり

 突然ですが高校時代の友人に「火星人」というあだ名の友人がおりました。名付け親は自分ですがそこそこ定着して普段から「火星人テスト何点だった?」という具合で読んでたので携帯電話のアドレス名もそのまま「火星」と登録しておいたら、大学のサークルの先輩が自分の着信履歴を盗み見て、「なんやお前、火星と交信しとったんか!?」とあらぬ疑いをかけられる羽目となりました。

 話は本題に入りますが今一番ヒートアップしている芸能界の話題ときたらAKB48の大島氏のいきなり卒業宣言よりも、元・光GENJIの大沢樹生氏の長男の血統を巡る騒動でしょう。詳細については説明するまでもないでしょうが、前妻との間の長男のDNAを鑑定した所親子関係がないという結果が出て、まぁその後はごたごたというか未だに何が本当なのかよくわからない状況が続いています。私個人の印象としては会見に出た大沢氏の嗚咽ぶりを見ると嘘をついているようには見えず、またスクープは大沢氏自らが公表した物ではなく週刊女性の報道に端を発する騒動であることを考えると嘘をつく必要もないんだしななどと考えています。

 先日に私は日本人の家族関係は非常に希薄だなどという記事を執筆しましたが、今回の大沢氏の騒動などのように仮に血を分けたと思っていた家族が実は違ったなどと言うのはやはり計り知れないショックを受ける出来事のように思えます。昨年にも生まれた直後に取り違えられて別々の家庭で育っていたという事件がありましたが、ショッキングとしか言いようがなくそれこそ本人でなければ分からない苦悩があったのではないかと推察します。
 そもそも論で話すと、リチャード・ドーキンス先生が言っているように人間を含む生物の本能は自己の遺伝子を最大限増殖することにあり、血を分けた肉親や子供を大事に思うのは普通の感情です。逆を言えばそういう対象である子供を虐待するのは種として終わってるということですがそれは置いといて、肉親だと思っていた存在が実はそうでなかったというのは種として非常に大きなストレスを覚える要因においてほかなりません。それだけに上記の二事件の関係者の方々にはココアらから深く同情の念を覚えます。

 ただこの二事件とも誕生から相当程度の時間をおいて発覚したという点で共通しますが、これはこれで辛いものの誕生した瞬間にわかるというのも結構心が痛むような気がします。ネタにして悪いような気もするので実名をぼかしますが過去にあるスポーツ選手が奥さんの出産に立ち会ったところ、生まれてきた子供の肌が黒かったというお話のような事件があったそうです。もちろんその選手はその後、その奥さんとは離婚したそうですが。

 遺伝子がなんでもかんでも家族を規定するわけでなく、三国志における義兄弟みたいに魂のつながりによって出来る家族も存在しますが、このところは遺伝子の解析が進んできたことによってやはり遺伝子の一致性が絶対という風潮が前より強くなっている気がします。ここで少し話を変えますが私はこうした遺伝子絶対論ともいうべき風潮に対して文学部出身の人文主義者らしく「納得できないヽ(`Д´#)ノ 」などと言っては反論を展開してました。その一方で自分の記憶力と集中力は先天的なものがあると主張しているのですが……。
 しかし単に感情論だけで主張していたわけでなく、たとえばヒトとチンパンジーの遺伝子はなんと98%以上も同じだというのにどうして骨格や見かけ、果てには行動や思考力が異なるのか、遺伝子が絶対だというのなら絶対値で2ポイント弱の差がここまで分けるのかという疑問もちゃんと持っていました。そんな風に考えてネットを駆け巡っていたところ、どうもこのところ新説が出ているというか遺伝子だけがその生物のありようを決めるわけじゃないという意見が出ているそうです。では何がそのありようを決めるのかというと、細胞に含まれるウイルスが与える影響が大きいのではないかと出ているようです。

 ウイルスの定義は非常に難しく、問題のない言い方をするとタンパク質の一種としか言いようがありません。その原理や成り立ちなどもまだ研究が進んでいないのですが、一般的にはインフルエンザなどの病気の元のように悪い存在だと考えられがちですが、そうした人間に悪影響を与えるものもあれば普段は無害で細胞にずっとくっついているウイルスもたくさんあると聞きます。これらウイルスはその働きなどもまだよくわかっていませんが、これらの組成によって生物は種を跨いでいたり同じ人間という種においても個体差を分ける要因になっているのでは、というのが私が聞いた仮説です。
 私にとっては夢があるというか面白い話で、遺伝子だけが人間を規定しないという説に魅力を感じます。それと同時にタンパク質が与える影響と聞いて真っ先に狂牛病が浮かび、将来この方面の研究の需要が高まってくるのかなと思う次第です。

2015年7月22日水曜日

家庭と学校を隔離する必要性

 先日知り合いにちょっと妙なことを吹き込んだので、それとやや関連するネタとして家庭と学校を隔離する必要性について今日は書くことにします。結論から言って、学校は家庭とは隔離するというか一種独立した立場を維持しなければならないと私は考えており、みだりに保護者の意見を聞いたりしてはならない上にむしろ家庭に対して口出しするべき立場を取るべきじゃないかと思います。

 まず何でもってこんなことを言うのかというと、中国で普段目にする子供があまりにもバーバリアンばかりだからです。そりゃ子どもなんだからと自分でも思うものの、中国の子供の身勝手さは日本の子供とは次元が違い、温厚な自分ですらたまにハッサンの様に「とびひざげり」とか「せいけんづき」を全力でかましたくなることがあります。
 どれくらいひどいのか具体例を出すと、これなんか昨日ケンタッキーのレジ前に並んでいたところ、前列が子連れの親子でしたが子供の方は常に動き回ってて、レジの乗ってあるテーブルに飛び乗ったり、飛び降りたりを繰り返し、私がオーダーする版になっても横で飛び乗ったり、飛び降りたりしていて何やねんと思いつつ母親を見ると、そ知らぬふりして携帯を見ているだけでした。

 こういう例は中国にいると本当に多く、電車やバス内を全力で走り回って他人とぶつかってもやめなかったり、金切り声をやたらめったら上げ続けたり、所構わず5秒ごとに唾を吐いたり(これは大人も)と、ガチで文明がない状態とはこういう事かと見ていてつくづく思い知らされます。しかもこのように子供が好き勝手やっている横でその親は大抵はニコニコ見守ってたり携帯見てたりしていて、一向に注意する雰囲気がないのが見ていてほんと腹が立ってきます。
 数少ない例ですが、中にはちゃんと注意する大人もいます。自分が見たのは一回だけですが、高速鉄道の中で大きな声を上げる子供に対して、「電車の中だから静かにしなさい」と、教養のありそうなお父さんが注意したのを目撃しています。逆を言えばマジでこれっきりなんだけど。

 こうした中国のバーバリアンを見ていて思うこととしては、親が親だから子も子なんだろうというのが何よりも大きいです。こうした無作法を無作法と思わない親だからこそ子も無作法とは思わずバーバリアンとなる、いわばバーバリアンの再生産が際限なく繰り返されているからこそ中国は大人も至ってマナーが悪い人が多いと言っても間違いないでしょう。
 ではこうした負の連鎖を止めるにはどうすればいいのか。やはり一番重要な役割を期待できるのは学校教育で、家庭では常識であることを一般社会では常識ではないと突っぱね、きちんとした価値観を子供に培ってもらうことが文明化への第一歩でしょう。実際明治期の日本における学校教育はこうした面を多分に含んでおり、日本という国家意識を植え付けると共に地域ごとの妙な悪習やら迷信を取っ払い、「日本人としての常識」を全国統一的に作り出す役割が大きかったと思います。もっともその過程で妖怪が隅に追いやられた感もありますが。

 翻って現代日本。いじめによる自殺があれだけ大きく騒がれたにもかかわらず私の予言通りにやっぱりまた繰り返されるなど学校教育に対する信頼感がやや薄れてきていると共に、家庭の一般的な価値観をもっと学校にも反映すべきだというような声も高まっているようにこのところ思います。しかし私の意見はというと学校はやはり家庭とは一線を画した立場を保持するべきで、学校があくまでまともな常識を持っていることが前提ですが、家庭の常識の介入を排した独立した概念をしっかりと子供に伝える役割を持つべきだと考えます。何故なら明らかに社会の常識から逸脱した親も今もってな多いので、そうした親による負の再生産を食い止めるためにも学校は家庭の声を必要以上に聞いてはならないと考えるからです。

 このように考えてみると、いじめ問題のアプローチもちょっと方向性が変わった見方が出てきます。よくいじめ自殺が起こると自殺した生徒をどうして守れなかったのか、どうすれば守れたのかというのが議論となりますが、逆のアプローチをかけるとならば、いじめっ子をいじめることのない無難な人物に変えることはできなかったのか、この点についてももう少し議論があってもいいような気がします。
 私が何を言いたいのかは薄々読んでてわかるでしょうが、報道されている話を見る限りだと案外いじめっ子の家庭というや両親も「ちょっと……」と思わせられるような人が多いようにみえます。そうした親から悪い因子を受け継がせないような教育、繰り返しになりますが負の連鎖を断つ教育法についての議論もあってもいいのではと個人的に思うわけです。

  おまけ
 昔、ある友人に「子育てをしないライオン」の話をしたことがあります。どういう話かというと子育てをしないライオン(♀)は子供を生んでも子育てをしないので、結果的にその子供は死んでしまってそのライオンの遺伝子は後世に伝わず、一種適者生存のような形でちゃんと子育てをするライオンの遺伝子だけが後世に伝えられるというわけです。この話に友人、「うんうん、そりゃそうだね」と納得してたので続けて私は、

「子育てをしないライオンの子供は死んでいく。しかし、人間社会の場合だと行政とかが介入するので……」
「よせ、それ以上言っては駄目だ!」

 と、友人にガチでそれ以上話を続けるのを止められましたが、改めて思い返すにつけ当時も感じましたがいい友人を持ったなと思います。しかし現実問題として虐待を受けた子供は長じて自分の子に虐待を行う確率が優位に高いのは事実であるため、だからこそここで述べた「家庭と隔離する教育」というものをある程度確立させる必要があると案外昔から考えているわけです。

2010年5月24日月曜日

大学生犯罪の一般化

 ちょっと前にどの番組かまでは忘れましたが、あるゲストが昭和期に起こった「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を引用し、仮に今このような誘拐殺人事件が起きたとしても当時のように大きく騒がれないほど、現代はこのような猟奇事件が一般化して来ていると言っていました。このゲストの発言を聞いて私も素直にその通りだと感じ、凶悪犯罪件数が増えているかどうかについてはまだ検討の余地がありますが、かつてなら連日連夜取り上げられていたような猟奇事件のワイドショーにおける賞味期限は確実に早くなっては来ていると思います。

 ただこうした猟奇事件以上に私が一般化し過ぎて問題ではないかと感じるのが、今日の本題となっている大学生による犯罪です。
 一応、日本の最高学府とされている大学に通う人間は普通の感覚で言えばある程度選抜された学識者と見られるべきなのですが、すでに大学全入時代を向かえている事もあって大学生と言っても日本ではあまり泊がつかなくなっております。それでもかつての大学生はエリートとして扱われており、戦後直後に起きた「光クラブ事件」「日大ギャング事件」といったいわゆるアプレゲール事件の当時の報道は、「どうして学識もあり、将来を約束されているような学生がこのような犯罪に手を染めたのか」、といった論調で以って報じられたと聞いております。

 翻ってみて現在、たとえ大学生が詐欺や殺人事件を起こしたとしても余程の有名大学でなければニュースにすらなりません。まだオウム事件の頃は、「これだけのエリートが何故?」という議論が当時ありましたが、現在に至っては数年前に早稲田大学の学生を中心とした振り込め詐欺グループが逮捕された際に、
「早稲田の学生らだけあって、(詐欺)電話での対応マニュアルまで作られていた」
 という報道がされていました。なんていうか、反応に困るんだけど。

 他の人がどう思うかは分かりませんが、意識しない所で当たり前でなかったこのような概念が当たり前になっているという事に、私は大きく問題がある気がします。大学生は犯罪など起こすわけがない、という概念を持っている社会と、大学生でも変わらず犯罪を起こす、という概念の社会を比べるなら、やはりどうみたって前者の社会の方がまともそうに思えますし、目指すべき社会の形だと思います。実態はどうであれ。

 去年の年末に私は、ほぼ毎日のように東京のどっかしらの鉄道路線が人身事故で止まっていたことについてどこも報じないばかりか、誰もおかしいとは言わなかったことに、今の日本社会はどこか異常なのではないかと書きましたが、この所の犯罪に対する感覚もあってはならないほど麻痺し過ぎてやしないかという気がします。恐らくこのまま行けば、数年後には児童虐待に対しても今ほど報じられる事もなくなるかと思います。

 作家の渡辺淳一氏(勝手にナベジュンって略しているけど)はその著書の「鈍感力」において、気にしなくていいものを気にしないというのは一つの才能であり能力だと書きましたが、その一方で本当に気にしなければならないものに気がつかない、気にしないというのは鈍感力ではなくただの鈍感であって、あってはならない事だと述べていました。私はよく人から何事も気にしすぎだと言われていますが、今日ここで書いた今の日本社会の風潮に対する懸念も杞憂なのかどうか、悩みどころです。

2014年11月28日金曜日

生贄の牛を羊に取り換えるとな

 これは昔々、中国戦国時代のお話です。戦国時代に現在の山東省は斉という国で、この国は「封神演義」でおなじみの太公望を祖とする国でしたが、内紛によって戦国時代には田氏に乗っ取られ、田一族が王となって治めておりました。この田氏斉の四代目は宣王という人物(紀元前4世紀)なのですがこの宣王がある日、宮殿を歩いているとひどくおびえた牛を従者が引いているのを目撃しました。そこでおもむろに宣王はおもむろに、「この牛をどうするの?」と聞いたところ従者は、「はい、煮込んだ鐘に血を塗る儀式に使うので、これから生贄に殺すところです」と答えました。
 この従者の答えに宣王は、「やめなさい。ひどく怖がっているし何の罪もない牛だ。殺すに忍びない」というので、なら血塗りの儀式は中止ですねと従者が確認すると、「いや、儀式はやる必要がある。そうだ、代わりに羊を使えばいい(・∀・)」と閃いたので、その時の儀式は牛の代わりに羊を殺してつつがなく終えたそうです。
 
 私はこの話を大学三回生の頃の中国語の授業で習ったのですが一読して、「これって、羊とばっちりじゃん(;゚Д゚)エエー」と思うのと同時に、牛がかわいそうだからって羊殺してちゃ意味ないんじゃないかと心の中で突っこみました。恐らく、この記事読んでる人たちもみんな同じような感想だと思いますが、出典によると当時の斉の人間ですら「牛をケチって羊を使った」などと揶揄していたと書かれてあります。
 その出典ですがこれは何かというと実は「孟子」からです。「孟子」の説明は省きますが斉の国を訪れていた孟子に対して宣王が民を安んじて治めるにはどうしたらいいかと説いたところ、孟子は「宣王は過去にこんなことやりましたよね」と自分からこのエピソードを切り出します。確かにそんなことがあったと頷く宣王に孟子は、「それこそ仁です」と言わんばかりに激賞し、世間はアホな王やと言っているがこのような心持ちを持つことこそが大事で、王たる資格がある証拠だとまで言います。
 
 正直に白状するとこのくだりまで読んだところで、「孟子もちょっと持ち上げ過ぎじゃないかな?」、「頭のいい人の考えてることはよくわからない」、「もうちょっと単純に事実を見た方がいいのでは」なんていう感想を当時の私は持ちました。しかし牛や羊の肉を食べる時にふとこのエピソードを思い出すことがあり、しかも年数が経つにつれて段々とあの話は含蓄の深い話なのではなどと何故だか熟考することが増えていきました。
 
梁惠王章句上(孟子を読む)
 
 このエピソードについて上記サイトでは原文と共に詳しい解説が載っております。非常に詳しく載っていて、読んでて自分も見入りました。
 直接上記サイトを読んでもらうのが一番なのですが自分の方からここの解説をかみ砕いて説明すると、孟子はこの時宣王に対して、目の前にある生き物に憐憫の感情を持つことが大事だと言いたかったようです。憐憫の心を持つことは仁の心にまで発展させるためのスタートに当たり、結果的には目の前にいない羊を代わりに殺すことになったものの、目の前にいる怯える牛の命を助けたという情けの精神をきちんと実行した宣王の心根は悪くないと孟子は伝えたと解説されています。
 その上で上記サイトの執筆者は補足として、人間は目の前で起こっていることしか関心がなく、目の前にないものにまでは気が回らないのは自然なことであるとして、下記のような例を持ってきています。
 
- どこかの隣国の独裁政治に始終憤激しているのならば、どうして旧ソ連で同様に独裁体制を取っている諸国に激怒しないのか?
- 自分の子には勉強させて高学歴を与えるのに必死なのに、どうして一般論になると「ゆとりある教育を」などといまだにのたまうのか?
 
 どちらも自分の胸にグッときました。実際、日本国内で虐待で子供一人が殺されるというニュースを聞くのとアフリカで今日何百人の子供が死んだというニュースでは、感じ方は後者の方が他人事です。同様に、北朝鮮や中国の政治弾圧の方が中東やアフリカの政治弾圧より気になります。上記のサイト執筆者によるとこうした距離感に伴う感じ方の違いは人間にとって当たり前で、誰にでも平等にだなんて言わずにしかるべき距離のしかるべき対象に愛情や憐憫の情を持ち、発展させていくことが大事だと孟子は人生を通して主張しているそうです。
 
 ここからが私の個人的意見になりますが、解釈にもよりますが上記の孟子の考え方はキリスト教の隣人愛とも通じるように思えました。隣人愛の解釈は人によっても変わりますが、私の解釈だとまずは何よりも身近な人を大事にすることに尽きます。身近な人を大事にすることが出来ればもう一つ先の距離の人も大事にすることが出来るようになり、こうして範囲を徐々に拡大していくことによって良好な共同体を作り上げられるというような具合です。
 こうした考え方のほかにもう一つ最近できてきて、たとえばNGOとかNPOみたいに世界中の人々を助けようとして活動する集団が結構ありますが、そうした集団の方々の活動は確かに尊敬できますが果たしてそれで本当に世界はよくなっていくのだろうかという疑問がよくもたげます。単純な話、日本人が地球の反対側のブラジルで活動するにしてもお金も費用も文化的障壁もあります。それであれば日本人は同じ日本にいる困っている日本人を助けることによって、その助けられた日本人が今度はほかの人を助けていくような状態に持っていく方が結果的には効率がいいのでは、しかもこっちの方が外国語能力とか変なバイタリティが無くてもすぐできるのではなどとも思います。
 
 無論、海外に行って救援活動などをされている方は確かに必要とされているし、尊敬もします。しかしみんながみんなそこまで強くはなれないし、それであれば、「貧困の国に井戸を掘るため募金しよう!でもって砒素いっぱいの水飲ませて村の人を病気にしよう」なんて某テレビ番組みたいな主張はほっといて、もっと距離的にも身近な人同士で助け合おうという精神を持つことの方が人間として正しいのではという結論に至りました。マザー・テレサも、「自国の困っている人を無視して他国の人を助けようとするのはちょっと違う」なんて言ってたそうで、この辺は孟子もキリストも一致しているのではなんて思った限りです。
 
  おまけ
 終戦間際の山田風太郎の日記に、「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出すのがキリスト、右の頬を叩いたら左の頬も叩いてくるのがキリスト教徒」と書いてあって吹き出しました。あと自分の大学はミッション系だったのに、「キリスト教は虐殺を繰り返して信者を増やしてったような宗教だ」なんて授業中に言い出す講師がいて、フリーダム過ぎるにもほどがあるずこの大学なんて思いました。

2023年10月9日月曜日

ジャニーズ問題に関するテレビ局の自己検証の欺瞞

 このところ「地球防衛軍4.1」が楽しすぎてブログの更新さぼってました。ウィングダイバーのレーザーチェンソーが正直言って強すぎて、空飛んでるドラゴンは次元ごと叩き切るような感覚がしてマジ楽しすぎて、ほかの巨大生物と比べドラゴンの殺害数だけが異常なカウント数にこのところなっています。

 話は本題ですがまたも飽きずにジャニーズ問題で、このところテレビ局が何故ジャニーズ問題を報じてこなかったのかという自己検証の報告を発表しています。既に発表された中身を見ると、文春との裁判で性的虐待を裁判所が認めた際に報じなかった点について、「週刊誌のゴシップだと思った」、「芸能界のうわさに過ぎないと思った」と当時の報道担当者が述べたとしています。その上で、ジャニーズ事務所からの報道圧力や忖度は一切なかったという結論になっているのですが、あくまで私個人の推論で述べると、これはテレビ局の嘘だと思います。

 何故このように思うのかというと、元記者の立場で言えば、この件に関して絶対にこんな意見が出るはずないからです。記者にとって一番の屈辱は、目の前にビッグなネタが転がっておきながらみすみす報じず、よそに抜かれるという出来事で、上記の事件で言えばテレビ局はこぞって文春一人にやられたような構図となります。
 であれば「何故報じなかった」と言われた場合、本当に報道関係者だったら、被害者に向き合えなかったなどという感傷論は一切述べず、真っ先に報道で負けたことの強い悔しさを見せるのが自然だと私は思います。しかしテレビ局の報告書をみると、そうした悔しさを一切見せないばかりか、どこか他人事というか報じなくてもしょうがないじゃんというような投げやりな印象すら覚え、テレビ局が行ったヒアリング対象者は本当に記者なのかと疑いたくなる証言しか載せられていません。

 以上の意見はあくまで私の推論に過ぎませんが、テレビ局が自己検証報告で嘘とまでいかずとも、自らの責任に向き合わず、むしろ真実を隠蔽しているという明確な根拠は別にあります。それは何かというと、どの報告書にも今年3月に英BBCがこの問題を取り上げた際、黙殺したことについて触れていないからです。
 百歩譲って大分昔となる先の文春との裁判を報じなかった理由についてさっきの言い訳を受け入れるにしても、ならなんで今年BBCが報じた際、これほどの大きな事件内容にもかかわらず報道を避け、他のメディアが徐々に報じ出すにつれてテレビ局も重い腰を上げて後追いしたのか、その点について検証しないのは不自然としか言いようがありません。BBCの報道を一切引用したことがないってんならまだわかりますが、そんなことあるわけないでしょう。

 上記のBBC報道を後追いしなかった点について検証しないのは、今の現場の人間に塁が及ぶ可能性があるのと、自らが無能であることを認めることになるかでしょう。その上で、上記のような歪な内容でいけしゃあしゃあと「自己検証しました」として出すあたり、やはり報告書全体で信用性が低いと感じます。言うなれば、忖度どころかジャニーズ事務所からの報道圧力がやはりあったのではという風にしか見えません。

 以前にも書いた通り、この問題に関してテレビ局はジャニーズ事務所を批判できる立場ではないでしょう。むしろジャニーズ事務所とともに被害者救済を行わなければならない共犯とも言うべき立場で、共犯同士で未だにこの問題を矮小化しようとし続けています。
 例のNGリスト問題でジャニーズ事務所に対しまた会見を行うよう求める声が強まっていますが、以上の態度を見るにつけ、テレビ局は次の会見に入れるべきじゃないと私は思います。むしろこの問題にずっと昔から向き合ってきた文春単独取材会見の方が、筋に沿うでしょう。何ならNGリストに入ってた人も加えてもいいですが、例の某記者は具体的な質問をせず自分の主張を延々と述べるだけなので、あの人だけは外すべきかなとは思います。ほかの人も書いてたけど、あの人だけならNGリストに載っていても「そりゃ仕方ねぇな(´・ω・)」とみんな納得したでしょう。

2011年2月12日土曜日

戦争における殺人

 通常、どの社会においても殺人行為は処罰の対象となります。これは法律とかそういうもので決められているからではなく生物は基本的にメスの奪い合いなどといった例外事態を除くと同属を殺害する際には強いストレスを感じるように出来ているので、いわば本能に根ざした禁止、自然法的な概念だと私は考えております。しかし人間社会において唯一殺人が奨励され、処罰がなされないのが戦争です。

 国際法やら戦争法で決まっているのかどうかまではわかりませんが、基本的に戦争中における兵卒同士の殺人は処罰がなされないこととなっております。もちろん軍属が民間人を殺害した場合は軍法会議などで処罰対象となりますが、双方戦争を行うという合意に基づいての殺人は責任を問われないということになっているそうです。もっとも実際のところは太平洋戦争後のB、C級戦犯などのように戦勝国側に敗戦国側の兵士や仕官が一方的に裁かれることが多く、近年もイラク戦争でもあのアブグレイブ刑務所の捕虜虐待事件とかを見ているとやはりこういったことが行われているのではないかという気がします。

 さてこの戦争における殺人ですが、どのように捉えるかは非常に難しいものです。上記のように捕虜や民間人を殺さないという戦争のルールに則っていれば許されるものなのか、それともいくら戦争とはいえ殺人は殺人として許すべきではないのか、人によって意見は様々です。中には日本の自衛隊が影響しているのか自衛戦争において侵略者を殺害するのであれば許されるという意見もたまに見受けられますが、これは戦争には正しい側と正しくない側が存在するという前提があっての意見になり、そうなると戦争に正義はあるのかという議論にまで色々と発展していきそうです。

 先日元ライブドア社長の堀江氏がツイッターか何かで、「殺人は犯罪、しかし戦争で人を殺すのは無罪。両者にどんな違いがあるのか?」と書いたそうでなんか一部で議論となっていましたが、この意見を聞いて少し思い出した本があります。その本は加藤尚武氏による「戦争倫理学」という本で、よく人から「戦争に倫理もクソもあるかよ」とタイトルを教えるたびに言われるのですが、戦争という倫理が最も吐き捨てられる場所において最低限どのような概念を持つべきかという内容が書かれているのですが、読んではみたもののいかんせん個々の話がそれぞれ脈絡が少なく覚えている部分が少ないのが正直な感想です。

 ただこの本の中で名指しで批判されていたのが「ゴーマニズム宣言」の小林よしのり氏で、小林氏が自著の「戦争論」において、「戦争とは一種のカーニバルみたいなもので、平時は抑えられている欲望とかそういうものを一挙に開放する場所だ」というように描いた内容についてまさに上記の堀江氏のように加藤氏が、「そうだとすると戦争で殺された人間は平時に殺された人間と比べて運がなかったと言うしかないのか」と、同じ殺人として区分すべきというように批判をしていました。

 実際のところ、この辺をどのように考えるかは非常に難しいです。戦争における殺人を平時における殺人のように個々に裁いていたらとてもじゃないですが裁判や補償が追いつくわけもなく、かといってそれを戦争だからで全部無視していいのか、また戦争を指示した国家が賠償なりに責任を持てばいいのか、考えてたらはっきり言ってこちらも切りがないです。
 実際に「戦争」ということで殺人罪を許された例として、ここで挙げるべきかどうか少し悩みますが小野田寛郎氏の例があります。小野田市は終戦後も29年にわたってフィリピンにてゲリラ戦を行い、この間に現地の警察、米兵を殺害しておりますが、戦争中における行為としてフィリピン政府から特赦を受け帰国しております。

 もちろん小野田氏は上官から命令された行為を行っていただけで今現在の日本でも起きている通り魔や強盗といった自己本位による殺人とは動機や目的において一線を画しますし、彼の過酷な潜伏体験を考えると私もとても責任を求める気にはなりません。ですが戦争での殺人ということで何でもかんでも特別視をすることは本当に正しいのか、それともこういうことを考えること自体が馬鹿馬鹿しいのかという点で悩みは尽きません。

 名前は出しませんがこれは誰かが言っていた台詞で、国家に対して個人というものは非常に弱く、運命なぞ簡単に翻弄されてしまうといって特攻隊やインパール作戦の犠牲者の悲劇を語る人がいますが、戦争における殺人は個人単位ではなくやはり主体となる国家単位で考えるべきなのかもしれません。国家の殺人となると私の中で真っ先に思い浮かぶのはミドリ十字の薬害エイズ事件ですが、そのミドリ十字の設立者たちには731部隊の面々が関わっていることを考えると同じ殺人をする人間はまた同じ殺人をするのかと考えさせられます。

2012年4月27日金曜日

エスカレートしていく行為について

農大ワンゲル部死のしごき事件(オワリナキアクム)

 上記リンク先の記事はかなり古い(1965年)ですが、今も昔も変わらずというか体育会系部活動による死亡事件を紹介したものです。内容を簡単に説明すると、当時の農業大学ワンゲル部である新入生に対して猛烈なしごきが行われた挙句、最終的に死に至らしめたというものなのですが、この記事で私がどこに注目したのかというと事件発生後にある部員が言った、「自分たちも1年のときから同じ訓練を受けてきた」というセリフです。今日はちょっとこのセリフを出発点に、エスカレートしていく行為と現象について考察しようと思います。

 この農大ワンゲル部のケースに限らず、恐らくほとんどの体育会とか運動部では、「俺たちも下級生の頃は同じことされた」もしくは「俺たちの頃はこんなもんじゃなかった」というセリフが4月か5月ごろに飛び交っているかと思います。意味としてはわざわざ説明する必要があるか悩みますが、「自分たちだってされたんだからこれくらいやってもいい」とか、正当化するのなら「ああいうことをされたおかげで今の俺たちがあるんだから、これは悪い行為じゃない」といってパシリとか理不尽な暴力とか、運動技術や体力訓練とは程遠く無関係な行為が横行しているのでしょう。ちょっと厭味ったらしく名前を挙げると、青森山田の野球部なんかはどうだったのか詳しく内実を聞いてみたいものです。
 こうした運動部などで繰り広げられるしごきについて私は前々から、本当に過去に受けた同じ行為を下級生へ行っているのかという疑問を持っていました。というのも小学生の頃によくうちの姉貴や友達と遊んでて強くぶつかったり、罰ゲームを受けた際に、「今少し痛すぎたからこれお返しね」といって反対に叩き直した後、「最初に叩いたのより今のがもっと痛かった」といってまた逆に叩き直し……というのがエンドレスで続くことがよくあり、過去に受けたしごきと今与えているしごきが同じものかと数値的な根拠なしに果たして言い切れるものか、もしかしたら本人らが気づいていないだけで年々しごきがエスカレートしているのではと思う節があるからです。

 最初の農大の事件についていえば、少なくとも言えることは過去に表立った死者は出ていなかったという点です。過去にいなかった死者が出たということは紛れもなくエスカレートしていると言え、人によっては「死んだ新入生の体がそれまでの部員より弱かったからではないか」というかも知れませんが、リンク先の記事で「背中には直径15cmぐらいのえぐれた外傷があり」と書かれている一点を見る限りだと体が強いとか弱いとかいうものじゃなく、やはり行為そのものに問題があったと私は思います。

 話は行為のエスカレートに戻りますが、では一体何故エスカレートするのでしょうか。検証なしでいいのであればいくらでも仮説は挙げられますが、まず思いつくのだと過去に受けた鬱憤というか復讐心が一つの原因ではないかという気がします。それこそ一年生の頃には散々こき使われたから、上級生になったら思う存分下級生をこき使ってやろうという具合に、たまった鬱憤が過去に受けた行為の再現、下手すりゃそれ以上の行為に踏み切らせる動機となり得るのではと言われれば私はなんか納得してしまいます。
 またこれは哲学科にいた友人が、「人間には恐怖する、畏怖する対象になり替わりたいとする欲求がある」ということを過去に言ってました。友人が使った例は暴力的な父親に虐待を受けていたある男性が、成人してその父親が死ぬや、嫌っていたにもかかわらず父親そっくりの振る舞いを取るようになったという話でしたが、なんでも地震を抑圧する力を逆に得ようと考えるところが多かれ少なかれ人間にあるそうで、これもなんとなく納得できる話です。

 もう一つ行為がエスカレートする原因として考えられるのは、単純に慣れじゃないかともいます。これの代表格はエスカレートしていく行為でも代表的ないじめで、伝え聞く限りだと大半のいじめのきっかけは教師による授業中のからかいなどほんの些細なものからだそうです。そうした些細な行為が、「こんなことしても相手は怒らない」と考える良からぬ人間によって、「次はこうしてみよう」とどんどん過激化していくのがいじめの実態だと思いますし、実際にそのような過程を私も目撃してます。いきなり過激な加害行為から始める人間もいないわけではないでしょうが、先ほどのしごきのように過去に行為を受けることで悪い意味で慣れが生まれていくのだと思います。

 上記のような考え方から私は他人に対して、「俺は前にこんなことされた」とか「俺の時の苦労はこんなもんじゃなかった」などという理由付けは一切しないようにしております。自分が受けた行為が今やっている行為と同等のレベルであるかなんてわかるわけなく、自分の基準で物事を測れると勘違いするような人間にはなってはならないと肝に銘じています。もっともそのかわりに他人に作業を指示する時によく、「俺でもできたんだから、きっと君にもできるはずだ(*´∀`)ノ 」などと言って余計なプレッシャーを与えることは多いのですが。
 あと蛇足かもしれませんがよく自分のような比較的若い世代は上の世代から先程の、「俺がお前くらいの頃の苦労はこんなもんじゃなかった」と言われることが誰もがあると思います。もちろん自分の感覚基準で物言ってはいけないとは思うのですが、それこそ年収や昇給カーブが10年前や20年前から格段に落ちていることに加え就職氷河期が続いており、挙句に残業代なんて中小企業だとどこも払わないのが当たり前でブラック企業も平気で上場できる上に、コンプライアンスが重くなったりグローバル化で競争が激しくなったことを考えると、何を根拠にそんなこと言うんだと聞くたびに(# ゚Д゚) ムッ!っとしてしまいます。この自分の意見に対してうちの親父は比較的受け入れてくれていて、「俺らが若い頃は、何もしなくても売り上げ伸びてたしな……」と言ってくれます。ただそんな親父も、

私「うちの会社の人がこの前、団塊の連中は上から指示するだけで自分じゃ何もできねぇんだよ、って言ってたで」
親父「その通りや!」

 とすごい速さで即答してたので、多分苦労してたんだろうという気がします。

2009年7月30日木曜日

映画「ウォルター少年と、夏の休日」について

ウォルター少年と、夏の休日(ウィキペディア)

 この映画を初めて見たのは、確かイギリスから帰国する飛行機の中だったと思います。私は今でもそうですがそれほど映画を見る人間ではなく、この映画も長い飛行機旅にへとへとになって時間が潰せるのならと思ってしぶしぶ見たような感じだったのですが、見終わってみるとそれほど強烈に面白いわけではなかったのですが何故だが深く心に残るような不思議な感覚がありました。
 その後、今年か去年かは忘れましたがちょっと前にこの映画がテレビのロードショーにて放送されました。さっきにも書いた通り私はほとんど映画を見ない人間で、テレビのロードショーに至っては以ての外というくらいに見ないのですが、何故かこの時だけはこの映画を初めから最後まで見ていました。

 そんな「ウォルター少年と、夏の休日」という映画ですが、あらすじを簡単に説明すると以下の通りです。

 主人公のウォルター(12歳くらい)は母親が資格取得の講座を都市で受ける間、半ば強制的に田舎にある大叔父の家に預けられることとなった。このウォルターの母親というのはあまりしっかりした人間ではなく、資格取得とは名ばかりで実際は自分ひとりで愛人と会うためにウォルターを預けるつもりで、また預ける叔父というのも実際に血のつながりがあるかどうかわからない人物だった。またウォルターを預ける前に母親は彼に資産家だと言われる叔父の資産の隠し場所を密かに見つけるようにと言い含め、なんのことはない、ウォルターを預けるのもそれが本当の目的だった。
 そうしてウォルターは大叔父と言われる二人の老人とわけの分からないままに暮らすこととなったが、その二人の老人は資産家だと言われるものの無愛想で頑固な性格で、財産目当てでやってくる人間からセールスマンまで毎日玄関先で発砲して追い返す、破天荒な老人だった。
 そんな破天荒な老人たちと暮らしている間、ウォルターはあることがきっかけに二人の過去を徐々に知ることとなる。二人は若い頃に一攫千金を狙ってアフリカに渡り、傭兵をやり、砂漠の王女と恋に落ち、王女をつけねらう道楽息子の取り巻きと王女を奪い合うといった御伽噺のような二人の過去を知り、最初はわけの分からない間だった相互の距離は徐々に縮まっていったまさにその時、母親が愛人を連れてウォルターを引き取りに来るのであった。


 というようなお話です。
 話のコンセプトとしては素知らぬ仲から徐々に打ち解けあうというよくある王道パターンなのですが、この映画がほかのものよりよかったと私が思う点は、主人公の少年の心の内の変化ではなく、彼と一緒に暮らす二人の老人の過去が徐々に分かっていくという、言わば打ち解け合う相手役の心情と過去にスポットを当てた点だと思います。そうした点もさることながら、駄目な母親と今まで全くの他人だった二人の老人のどっちに心を寄せるかという主人公の心の動きも見逃すことができません。

 ここで唐突に話は飛躍しますが、私は基本的に子供というのは逃げ場がないと考えています。親は子供が嫌いになれば捨てることができますが、子供は親を捨てることはもとより変えることもできません。それこそ真っ当な両親の元に生まれていれば何も辛い思いをせずに成長してゆけますが、以前より問題となっている児童虐待などを行う親の元に生まれてしまえば子供は逃げることもできず、自身の生存をひたすら耐えることしかできないでしょう。
 そんな子供にとって両親以外の大人、それも比較的近しい親類というのは数少ない重要な逃げ場の一つだと思います。私は周りにも自慢できるようないい両親の元に生まれましたが、そんな両親との間でもやっぱり反抗期の11歳から17歳まで(やけに長いな)はいろいろと溝が出来て大変な時期がありました。そんな時、私の叔父や叔母というのはいろいろと揉め事や悩みの相談に乗ってくれたりもすれば、ウォルター少年のように夏休みに自宅に招いてくれて自分の家とは違う環境で生活をさせてくれ、成人となった今になって思えばああした体験が一種の緩衝材のような役割を果たし、致命傷的な問題への発展を防いでくれていたように思えます。

 子供は基本的には親の元で生活するにしても、時折その環境下から一時的にでも抜け出す逃げ場というものが私は非常に重要だと思います。その逃げ場となるのは友人でもペットでもいいのですが、出来れば親と子供の間の目線に立てる祖父母や叔父叔母がなるのが理想的な気がいます。
 私にとっては叔父と叔母がまさにその理想的な逃げ場だったのですが、今朝その叔父が亡くなったということをお袋から連絡されました。肝臓が悪くなって酒は飲むなと医者から言われていたのに、死んでもいいから酒が飲みたい鹿児島人らしく全く言うことを聞かずに飲んでばっかだったそうです。叔父らしいといえば非常に叔父らしい最期だったのですが、この報せを聞いて自分の中では一つの少年時代が完結したような感傷を覚えました。

 今の私は成人しているだけでなく両親とも円満にやっているので「逃げ場」というものは必要ないのですが、今までその役割を果たしてくれた叔父には感謝の気持ちに堪えません。そして、今度は自分がそのような子供らの頼られる「逃げ場」にならねばと強く思うわけです。