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2008年10月28日火曜日

失われた十年とは~その二、期間~

 この連載を始めるに当たってまずやらねばらないのは言うまでもなく、この「失われた十年」が何を指しているのかという定義です。そこで連載一発目の今日はその辺を詳しく定義します。

 実はこの「失われた十年」という言葉は日本で初めて出来た言葉ではなく、もともとはイギリスにおいて二次大戦後、経済的発展が少なく閉塞した時代であった1945~1955の十年を指す言葉だったらしいようです。もっとも今現在でその事実を知っているのはニュース解説者でもほとんどいないでしょう。
 では実質的にどのように使われているかですが、まず世間で流布している一般的な定義としてはバブル崩壊以降の何の進展もないまま延々と不況が続き、気が付いたら十年も経ってしまった、といったような意味合いが主でしょう。別にこの説明に特段疑義を私も持ちません。

 しかしここで重要になってくるのは、実際にいつからいつまでがこの失われた十年の期間に当たるかです。この点は各種の評論においてもいくつか意見が分かれているのですが、始まった時期についてはどの意見も共通してバブルの崩壊時として、年数で言うのならこの場合は日経平均株価が下がりだして本格的に景気が悪化し始めた1991年を指しています。

 株価自体は1989年12月29日の大納会に38915円87銭という最高値を記録してからは下がり続けて90年には一時2万円を割るものの、その後しばらくは日本全体で好景気が続いていました。しかし企業業績の落ち込みが続いてそういった好景気も立ち行かなくなっていき、本格的に「バブル崩壊」という言葉が使われ始めたのはやはり91年頃だったと子供心に私自身も記憶しています。また国際的にもこの年に去年処刑されたサダム・フセイン元イラク大統領によるクウェート侵攻によって湾岸戦争が勃発しており、国際情勢が大きく転換した年でもあるのでひとつの時代のパラダイムとしては適当だと思います。

 問題なのはこの失われた十年が終わった時期です。
 これには様々な意見があるのですが、文字通り91年から十年後で2001年とする説と、昨日までここ十数年のうちで最低株価記録の7607円88銭を出した2003年4月28日という二つの意見が今のところ強いです。
 私の実感で言うと、後者の03年の初期が最も暗いイメージが社会に蔓延していた時期で案の定株価も大底を出しましたが、その大底を境に株価は一応のところ下げ止まり、全体的に暗くはあったものの少なくとも今日より明日はマシなのではないかという実感が徐々に込み上げてきた年だったと思います。株価もその年の10月には11000円台にまで回復し、それまで歴史的な就職氷河期であった大学生の就職戦線も2001年を底にして徐々に採用がまた増え始めてきた頃でした。

 こうしたことを考慮すると、確かに01年が大企業の倒産が相次ぎ実業面で恐らく最も苦しい時期ではあるのですが、そうした状態から脱したという意味合いで03年の方が終結年としては適当な気がします。またこれはちょっとした偶然なのですが、何気に03年はイラク戦争の勃発年でもあってこの年の年末にはフセイン元大統領もアメリカ軍によって拘束されてます。既に述べたように開始年とする91年は湾岸戦争が勃発しており、文字通りフセインに始まりフセインに終わる「失われた十年」と考えるのもなかなか
乙な気がします。

 以上のように、この連載における「失われた十年」というのは1991年から2003年を指す事にします。とはいっても2001年までという説も定義的には決して悪いわけでもなく、先ほどの説明に加えこの01年はその後の政治的、社会的変動の中心となる、小泉内閣の誕生年でもあります。
 その評価はともかくとして小泉元首相がこの失われた十年の構造不況を改革したのは間違いなく、そういった意味で03年が社会実感の転換点としての定義に対し、こっちは社会構造の転換点としての定義とすることも出来ます。そして蛇足ではありますが、01年は日中戦争を代表する人物である張学良がこの世を去った年でもあり、中国とか関わりの深い私としてもこの理由にあわせて01年説を持っていきたくなりそうです。

 なのであえてこの両説を平行して使うのなら、広義としては91~03年、狭義として91~01年と考えるのが失われた十年の期間として適当だと考えます。本連載では先にも言ったとおり基本的には広義を採用するので、2003年に至るまでの事例を思いつくまま解説して以降と思います。

2008年10月27日月曜日

失われた十年とは~その一、予告~

 7607円88銭

 今日はこの数字が非常によく出回った一日でした。この数字、というよりも価格が何を表すかというとニュースを見てればわかりますが、これは「失われた十年」と呼ばれた平成不況期の真っ只中である03年4月28日に記録した、今日以前のバブル崩壊以後としては日経平均株価の最低価格です。
 その最低価格も今日の終値でとうとう更新して、これからまたあの失われた十年の再来、もしくはあの時代以上の不況が日本を覆うのではという悲壮感に溢れた意見が飛び交っていますが、そもそもあの失われた十年とは一体なんだったのか、これはかなり以前から私が考えていたことでした。

 それで、一度はやろうとしました。やろうと思ったのですが、ちょうど去年の今頃からちょこちょこ書いて原稿用紙80枚を越えた時点で何故だか飽きて書くのをやめてしまいました。理由は恐らく、私が当時に別の論文の作成で忙しくなったせいだと思います。
 よくこの失われた十年は経済用語として使用されることが多いのですが、私としては専門の関係もありこの時代を日本の現代史、社会史として位置づけており、経済以外の点でもいろいろと今だからこそ検討する材料に溢れた時代だと考えています。

 折も折でこれまで最低だった前述の株価を今日は更に下回り、今後の経済情勢を占う上でこの時代の分析が真に必要なのは今の時代なのではないかと思います。私としてもやりかけた仕事ですし、ちょっと前まで連載していた「文化大革命」の連載を終えて、
「案外、このブログで連載していても、そこそこまともな論文が書けそうだ」
 という確信を持つに至りました。おかげさまでその文化大革命についての連載については様々な方から反響をいただき、また自身で読み返しても胸を張って人に見せられる内容だという自信があり、これならば失われた十年についてもちょっとずつ書いていけそうだと思い、この度連載を始める決心がつきました。

 また私にとっても都合がいいのは、この連載の場合は今後しばらくは昔に書いた内容に補足する程度で進められる点です。はっきり言って前回の文化大革命の際は資料をまた読み返したり、ネット上で情報の確認を取ったりと、書いてて非常に面白かった分、労力も半端じゃありませんでした。けど今度の連載の場合は開始しばらくは楽が出来そう……と思ってたのですが、書き溜めた論文を今読み返すと文章が敬体じゃなくて常体で書かれてました。結構手直しが必要になりそうです。

 ともかくそういうわけで、しばらく普通の記事と平行してこの失われた十年について分析を行う連載をはじめます。それでは今日の最後として、ちょうど一年前の私が書いた論文の前書き部をそのまま引用してお見せします。思えば、この論文を投げたあたりからこのブログも始めたんだなぁ(´ー`)

「結論から述べるとこの「失われた十年」は言い換えると「モラルパニックの十年」と表現できると考えている。明らかにこの時代を境に日本人は変わったし、また国際世界も変わっている。何も変わらなかったのは案外、同世代では自分くらいなんじゃないかなとかちょっぴり思ってたりもする」

解散と選挙の時期について

 簡単にぱぱっと書きますが、日本は国全体でもっと衆議院の解散時期について考えるべきだと思います。

 先週末辺りから与党の議員を先頭に、「今の経済的危機状況で解散などするべきではない」といった発言が公にも増えてきました。それに対して民主党の側もちょっと遠慮し始めてきたのか、こういった与党側の発言を受けて、恐らく逆批判を避けるためでしょうかいささか解散総選挙への主張にトーンダウンが見られます。

 しかし、私としては現時点でも可能な限り早くに選挙を行うべきだと思います。
 その理由としてまず第一に挙がってくるのが、たとえここで解散を引き伸ばしたところで来年四月には任期切れにより解散しなくてはならないからです。遅かれ早かれ選挙が行われるなら何も今に急がなくともという方もおられるかもしれませんが、来年に任期が切れるということで現在の麻生政権は長期的な政策が打ち出せないという致命的な欠陥が生まれるため、私としては勝つにしろ負けるにしろ、早く選挙をやるべきだと思うのです。

 もし次の選挙で自民党が負ける場合は民主党を中心とした内閣となり、政策が根本から改められることとなります。そしてたとえ自民党が勝ったとしても、恐らく三分の二を越える現有議席は失い、これまでのように強引な参議院の否決にあっても衆議院による強引な採決が行いづらくなります。このように、どちらにしろ政策の見通しが立たないために現状では一年先を見据えた政策が何も打ち出せないという状態にあると言えます。
 そして市場の反応でも、現在の麻生政権は来年四月までに終わってしまうのではといった不安感が強く、選挙前という非常に敏感な時期が続けば続くほどこの不安感は継続されてしまいます。

 こうした第一の理由に加えて私が心配している第二の理由は、果たして引き伸ばした挙句に今より状況が好転するかという疑問です。恐らく、一ヶ月前の時点で日本の株価がこれほどまでに下がると予想していた人はほとんどいないでしょう。それは逆に言えば今後の状況も全く見通しが立っていないということで、下手をしたら解散を伸ばしに伸ばした挙句にタイムリミットである来年九月を迎えたら、今以上に本当にどうしようもない状況下になっているとも限らないからです。

 折も折で、選挙はもうすぐですが任期によって来年にはアメリカの大統領も変わります。その変わり目にまた何かあるのではと、ちょっと心配しすぎかもしれませんが考えずにはおられません。一番最悪なのは言うまでもなく、にっちもさっちもいかない状態で任期切れで解散するしかないという状況です。それならばまだ日程を選択できる今の状況の方が、いくらか予防線を張るという意味でいいのではないかと思います。

2008年10月26日日曜日

90年代におけるネットをテーマにした作品

 ちょっとこっちは不確かで私の所感でしかないのですが、90年代前半にはいわゆるサイバーパンクともいう近未来の宇宙を舞台にしたハードボイルドな漫画作品が非常に多かった気がします。このジャンルの代表的作品は寺沢武一氏の「コブラ」が最も有名ですが、90年前後にはガンダムでも「逆襲のシャア」や「F91」等の大型SF映画作品も作られ、ガンダム以外でも大友克洋氏の「AKIRA」が公開されるなど環境的に充実していたのが流行した理由なのだと思います。当時の同人誌等を見ていると明らかにこれらガンダム作品を模した巨大ロボットものの作品が多く、また「コブラ」同様にアメコミの画風を取り入れたものが非常に多くありました。

 そしてこうした90年代前半の流れを受けたのか、90年代後半に続く頃にはインターネット時代の幕開けとともに今度はネットをテーマにしたSF作品が次々と生まれていきました。 
 このジャンルの最高峰ともいえるのは言うまでもなく士郎正宗氏による「攻殻機動隊」で、この漫画の中で書かれた「意識と肉体の同一性」というテーマはこれに続いた他の同ジャンルの作品でも一貫して取り上げられています。

 ちょっと攻殻機動隊について簡単に説明すると、この漫画の中の世界では脳だけを取り出して体は全身サイボーグ化することが当たり前に行われており、漫画版では軽くギャグ調に書かれていますが、映画のアニメ版では一つのメインテーマとして、サイボーグ化した自分が本当に脳を持っているかを自らの目で確認することがもちろんできないので、今こうして考えている意識は本当に自分の脳が行っているのか、もしかしたら自分が自分と思っている意識は実はAIが行っており頭の中には脳ではなくコンピューターチップが入っているのでは、といったような疑問が提起されています。
 哲学の言葉で恐らく最も有名な、少なくとも今ここに物事を考える自分が存在しているのは確かであるという、「我思うゆえに、我あり」という価値概念すら、「その自分の意識はもしかしたらAIなのでは?」という疑問でひっくり返すという面白い概念が描かれています。

 ちなみに自分の意識は本当は脳ではなくAIが行っているのではというような話は何も攻殻機動隊が最初ではなく、それ以前にも自分が人間だと思っていたら実はサイボーグだったというような話はよくあり、木城ゆきと氏の「銃夢」(1990~1995)という作品に至ってはある未来都市の住人すべてが成人するとそれまでの記憶をデータ化してコンピューターチップにするとそれを脳のかわりに入れられ、自分が脳をなくした(肉体はそのまま)と知らないまま生き続けるという話が書かれています。

 このように、それまで魂と呼べるような意識と物理的に存在する肉体は基本的にその人個人に対してセットで存在しているのだという前提に対し、90年代前半頃からこれに強く疑問を提起する動きが見え始めてきました。そうした中、ついにインターネット時代に突入するのです。
 インターネットというのは基本的にデータだけの世界です。そのデータの中にはこの私のブログのように意思がこめられた文字データがあれば、チャットのように音声の発生と聞き取りという物理現象を解さずに(キーボードの打ち込みはありますけど)互いの意思を交換することもあり、いわば肉体を解さずに交流される、意識だけが存在する世界とも言えます。

 日本でインターネットが始まったのは1995年からですが、このインターネットの仕組みをヒントにしたのか「データ」、「意識」といった言葉をふんだんに使用して、「もはや肉体と意識は完全に別々に分けられているのだ」というような主張をテーマにした漫画やアニメ作品がこの頃から続々と出てきました。その主張は先ほどに説明したような具合に、インターネット世界というのは完全な意識だけの世界だということを前提にネットに出ることで物理世界から意識だけを開放する……といった具合です。

 攻殻機動隊の中でも意識をネットに接続することによって他者の記憶に干渉する、中には意識そのものを乗っ取るといった描写が展開されていますが、90年代後半に至っては現実世界と意識世界そのものを逆転したMMR的に、
「実はこの世界はネット世界と同様に、コンピューター上のデータの世界だったんだよ!」
「な、なんだってー!?」
 ってな感じで言い出すのも結構ありました。これだと一番代表的なのはアメリカの映画、「マトリックス」ですが、この監督自体が攻殻機動隊の大ファンだしなぁ。

 ちょっと話が二転三転していますが、当初は「肉体が変わっても、意識はそのままなのか」という議論から、「肉体と意識はもはや別々なのは確かだが、果たして我々が認識するこの世界は肉体の世界なのか、意識の世界なのか」といったように徐々にシフトしていったように思えます。私の言葉に直すと、それまでは肉体と魂がセットの一元論の疑問から、肉体と魂は別々という二元論に加え世界も二元なのかという疑問といった具合です。

 そこで90年代後半において最もこういったテーマを強く打ち出しているのが、かなり贔屓も入っていますが「Serial experiments lain」というアニメ作品だと思います。これなんかコアなファンが今でも多くいるのですが、この作品では「記憶=データ」という前提が存在しており、その上我々が知覚する現実世界というのは我々が遊ぶオンラインゲーム上のような世界で、人間の意識(とされるもの)には本質的に他者の意識と接続する能力が備わっているとして、そうした意識同士が接続されあって出来た世界というのがこの世界という具合に話が展開されます。ちなみに、その接続されてできる世界でも上位の接続が出来る人間においてはデータをいじくる権利があり、記憶等の我々が知覚する世界に干渉することが出来るようになってます。

 こういった作品が流行したことについては、やはりインターネットの拡大という影響があったことは間違いないでしょう。ネット上が意識だけの世界ということで、意識だけで世界は成立するのでは、肉体はその存在価値はまだあるのかなどといった様な疑問が次々と出て行ったのだと思います。なお、「バカの壁」の作者の養老猛氏も、現代の世界は意識だけが大きく幅をきかしており、木から落ちて怪我をするといったことがあまり取り上げられもしなければ起こることも減り、肉体の実感が非常に薄くなってしまったというようなことを言っていたと思います。

 本当は漫画のテーマの流行り廃りだけをこの記事で書こうと思ってたのですが、予想以上にわけのわからない内容になってしまいました。また別に質問等があれば細かい解説をしてこうと思いますが、この記事ではとりあえず妙な翻訳はせずに私の言葉で詰め込めるだけ詰め込むことにしました。なので適当にわかる内容で面白いと思ったものだけ拾って読んでください。

 最後にこういった「肉体と意識」をテーマにした作品の現状について私見を述べると、このところはめっきりこういったテーマを取り扱う作品が少なくなったと思います。売れなくなったのか、流行らなくなったのか、はたまたインターネットの拡大が非常に大きくなって一般化してしまったからかもしれません。

2008年10月25日土曜日

社会的共通資本とは

 初めに断っておきますが、今日の内容は紹介こそすれども私は完全に理解している自信はないので、あくまで私の解釈として受け取ってください。そしてできることなら原典である、宇沢弘文先生の「社会的共通資本」(岩波新書)をお読みすることを強くお勧めします。

 さて今朝まで連載していた「悪魔の経済学」の記事の中で私は、新自由主義経済学の最大の欠陥的思想は人間の心理、行動から二酸化炭素に至るまですべてのものに対して金額をつけて計算しようとする点だと主張しました。それに対して東大名誉教授である宇沢弘文先生は真っ向からこれに反対する主張をしており、その説のことを「社会的共通資本」と呼ばれています。

 この説の考え方というのは割と単純(だと私は考えている)で、何でもお金に換えて計算する新自由主義とは逆で、社会公益性が高い物に対しては下手に損得勘定を計算できないように市場から完全に切り離して独立させ、原則的にどんなに費用をかけてでも守っていくべきという思想です。

 こういったものとしてまず挙げられているのが自然環境です。基本的に現代では市場に任せておけば森林や山地はどんどんと開発されていきますが、かつての江戸時代に日本の社会は山林に対し「入会地(いりあいち)」という概念を持ち、周辺の住民同士の共有財産として木々を必要な分だけお互いに消費し、また山林の保護も共同で行ってきました。
 それが明治時代に入ると土地などに私有財産の概念が持ち込まれ、こういった共同管理されていた土地は数少ない例外を除いてほぼすべて国有地として吸収され、それまで共同で使用、保護されていた土地は途端に周辺住民が立ち入ることすら出来なくなりました。

 私の恩師のK先生などは社会的共通資本の考え方はこの「入会」だとよく説明してましたが、私の解釈もこれに同じくします。要するに、社会公益性が高いものに対しては経済上の「私有」という概念から外して、社会で「共有」することによって保護していくという考えです。こうすることにより、たとえば周辺住民が反対している土地に住宅会社が無理やりでかいマンションを建てるなど、一個人や一事業者の勝手で社会の公益性が損なわれるのを防ぎ、その上個人では難しい管理や保護を共同にすることによって負担を分配していけるようになります。

 こうした考え方の一つの実例として、私も参加した講演会では中国にあるどこかの川では周辺住民によって年に一回程度、氾濫を防ぐために流れを緩めさせる底石を川底に並べられているという例が紹介されていました。これだと周辺住民が総出でやればそれほど時間がかからず、その上作業に使うのはほんとただの石だけで費用もゼロな上に環境負荷もゼロというお得ぶり。
 この例は日本の防災ダムとの比較がなされていたのですが、よくダムさえ作れば最初に費用はかかるとしても電力も作られ防災にもなって更には半永久的に使えると誤解されていますが、実際にはダムの寿命というのはそれほど長くはないのです。

 実はダムというのは水は通すのですが、上流から流れてくる砂はなかなか流れずに時間とともにダムの壁際にどんどんと堆積していってしまうのです。もちろん堆積していくとえらい山になって川底を押し上げ、防災上にも発電上にも悪影響が発生し、ダムとして使い物にならなくなってしまいます。かといって機能を維持するためにその堆積した砂を地上から掘り返そうものなら、これまた異様なくらいにお金がかかってしまうのです。
 元祖注目知事だった田中康夫なんて今じゃかなり落ちぶれちゃっているけど、長野県知事就任当初の「脱ダム宣言」にはこういったことが指摘されており、社会史的に見るなら非常に意義深い問題提起をやっていたのだと私は評価しています。

 それが最初に紹介した中国の川、っていか今急に思い出したけどこれって「都江堰」です。調べてみると世界遺産にもなっており、古代に整備されたものですが現代においても非常に技術的に高い構造となっているそうです。
 こっちの都江堰と日本のダムを比較した場合、前者は毎年の管理、整備は必要としますが基本的に周辺住民がボランティアで行い資材費もいらないので費用はゼロです。それに対して後者は建設時にものすごい費用をかけた上、時間が経ったらまたすごい費用をかけて整備しなければいけません。
 またダムの場合は砂とともに川の中の栄養も遮断してしまうので大抵は下流の水質が悪化してしまうので、無理やりダムを作ろうとする行政側とそれに反対する市民団体が議論するダム問題は現在も日本各地で行われています。なおこの際の勉強会では、四国のダム建設に反対する市民団体の方も参加しておりました。
 ついでにちょっとかくと、この都江堰に準ずる日本が世界に誇る水利施設と呼べるのはあの「信玄堤」です。これなんかメンテナンスいらずで半永久的に使っているんだから、実はとんでもない代物らしいです。

 こんな感じで、社会公益上で価値が高いものについては共同管理、しかも行政の手に寄らない独立した管理をすることこそが保全、維持につながるというのが社会的共通資本の考え方です。何もこの対象は自然環境に限らず、医療や農業、文化も対象として挙げられ、医療なら下手な厚生省の役人に任せずに医療問題をきちんとわかっている現場の医師や専門家などによって経営や運営を決めていくべきだと宇沢先生は主張されています。また運営上に費用が必要だというのなら、社会全体でこの方面へどんどん投資するべき、何故なら医療も農業も欠くことのできないものだからとも言われております。

 この概念を新自由主義と比較するなら、新自由主義では市場に任せればすべて解決されるのだから規制を取っ払って何でもかんでも商業ベースに乗せればいいという考え方で、社会的共通資本では公益性の高いものは市場に任せるとろくなことにはならないから専門家や周辺住民による共同管理をした上で費用をかけてでも守っていくべき、というような感じになります。

 先ほどの医療を例に取ると、新自由主義では医師同士で経営や技術を競争することによってサービスは向上されて消費者も万々歳なのだから、極端な例だと医療行為の費用も医師個人で決めさせるべきだという主張まであります。そうなると同じ盲腸の手術でも、東京で受けるのと鹿児島で受けるのでは費用が変わり、まぁあえて批判するとお金のない人は医者にかかることすらできなくなる可能性があります。
 それに対して社会的共通資本は、勉強会でいらした医師の方などが主張していたのですが、「いい医療を維持存続させるには、やっぱりお金がいるのだ」と言っておられ、現在は全然足りていないのだから社会はもっと医療に予算を分けるべきだと主張していました。社会的共通資本は新自由主義と違い、公益を守ることをまず前提としてそのためにどうやりくりしていくかを重視し、そのためにかかる必要最低限の費用は議論の余地なく出すべきとしています。新自由主義だと如何に採算を合わすかしか考えないしね。

 大体こんな感じが私の社会的共通資本の理解です。本当はまだまだ紹介するべき例があるのですが書ききれないので、もし興味をもたれた方は宇沢先生の本を手にとることをお勧めします。私なんか最初に「社会的共通資本」を読んだ際、えらくはまって何度も読み返しました。

悪魔の経済学 その三

 前回の「悪魔の経済学 その二」において、新自由主義経済学の最大の欠陥は、本来換算すべきものに対してすらも金額に直して価値を算定し、社会的に不条理とも言えるいえるような行動についても安易な損得勘定から犯してしまうと私は説明しました。今日はその一例とも言える、排出権取引の欠陥について簡単に解説します。
 まず結論から一気に攻めると、排出権取引でCO2排出権を得る費用がCO2削減につながる設備投資費用を下回った場合、逆にCO2排出を余計に誘発するという欠陥があります。

 この排出権取引というのは京都議定書などで算定されたCO2の削減目標を国や企業が達成できなかった場合に、目標を超えた分のCO2排出量の分だけ発展途上国に「CO2削減投資」という名目で資金援助を行うか、逆に目標を超えて排出量を削減できた他の国から超えた分だけお金を払って「排出権」を購入する取引のことを指します。
 たとえば日本のある企業がCO2の削減目標が10トンであるのに対して8トンまでしか削減出来なかった場合、隣の中国でCO2を排出している鉄鋼会社などからCO2の排出を削減する名目で2トン分のCO2削減につながる(であろう)額の投資を行うことが義務付けられます。また発展途上国でなく先進国であっても、その国や企業が目標以上に削減したところから超過した削減量2トン分を先ほどもいったように排出権として購入することによっても、当該企業は削減目標を達成したと認められます。

 この排出権取引によって欧米などの国では、国や企業は削減目標を超えたらよそに販売して利益を出すことになり、逆に目標を下回ったらコストを支払うこととなるので利害的にCO2削減を積極的に行うようになるだろうと主張していますが、この主張には実はある前提が必要になります。というのも、CO2の排出権価格です。

 たとえば先ほどの例だと日本のある企業は目標を達成するのにあと2トン削減しなければいけないのですが、仮にその2トンを削減するのに自社の工場などへ設備投資をするとしたら10億円かかるのに、他国や他企業から排出権2トンを購入するのに5億円しかかからなければ、利害的に設備投資は行わずに利害的に排出権を企業は率先して買っていくでしょう。

 この排出権を購入したところで結局世界中で排出されるCO2の総量というのは変わらず、逆にもし排出権取引自体がなくて削減目標が厳しく義務付けていられれば、その企業は10億円を払って設備投資を行ってCO2は2トンも排出量が減ることになります。
 この話は先月の文芸春秋で載っていた記事に書かれていたのですが、確かにこういう風に考えると、なんとなくこの排出権取引のおかしな点が見えてきます。

 それにそもそも設定される削減目標自体に国や企業ごとに差があり、ちょっとダジャレて言うと中には「エコ贔屓だ!」と主張したくなる例も数多くあります。代表的なのは日本とEUの削減目標の大きな差で、バカ真面目に京都議定書を履行するくらいならアメリカを見習ってとっとと脱退した方がいいんじゃないかとすら最近私も思っています。議定書が結ばれた京都国際会館にはよく入り浸っていたんだけど。

 実際に今履行していて色々問題が起きていて、やっぱり当初見込んでいたよりもCO2排出権の価格が世界中でなかなか一定にならなかったりと、日本の企業も削減努力そっちのけで中国など発展途上国からバンバン購入するようになったりとうまく運用できていないそうです。

 ここまでくれば私の言いたい事も勘のいい人ならわかるかもしれませんが、私はこの排出権取引に対して、そもそも二酸化炭素に価格をつけようという価値観自体が間違いだったのだと考えています。この排出権取引の価値観の後ろにはどうも、「商業ベース(市場)に環境問題を乗せれば競争原理が自然に働き、理屈はないけどきっとうまくいくだろう」という考えが見え隠れしており、新自由主義経済学のもう一つの欠陥である「市場至上主義」も働いているであろうと思われます。

 しかし世の中何でもかんでも市場に任せればいいってわけじゃなく、最低限のルールこと規制(あり過ぎてもよくないけど)の上に物事を行わねば何もうまくいくわけでなく、そもそも商業ベースに乗せること事態間違いなものも数多くあります。
 こうした考えの経済学こそ私が一応は属している……と言えるのかぁ、第一、経済学じゃなくて社会学が私の専門ですし。
 まぁそんな疑問は置いといて、こうした考えが展開されているのが私が信奉している宇沢弘文先生の「社会的共通資本主義経済学」です。時期も時期ですし、この「社会的共通資本」の概念については次回に解説します。このところ経済ネタの記事が多いなぁ。

2008年10月24日金曜日

日経平均株価七千円台突入について

 連載の途中ですが、本日の日本株価の大幅な下落について急遽友人とメール会談を行ったので、ちょっとそれについての補足と今日の株価について解説します。

 まず本日日経平均株価は八千円台を切って終値でも7000円台という、十数年ぶりともいえる歴史的な安値を記録して取引を終えました。今回何故これほど日本の株価が下落したかというとその原因はまず間違いなく二つあり、まず直接的な引き金となったのがソニーの経営見通しの下方修正です。今期の世界的な大不況の影響を受けてソニーが今期の売り上げを当初見込んでいたものより大幅に少なくなるという予測から下方修正を行ったところ、このニュースが波及効果を及ぼして他の銘柄の株価も急激に下がったという見方でまず間違いないでしょう。そしてもう一つの株価下落の背景にある実原因、ソニーが下方修正するに至った要因はここ数週間の急激な円高です。

 前にNHKのニュースで報道されて私も以前の記事に確か書きましたが、何でも1ドルに対する円価が1円上がるごとにトヨタだと400億、ソニーだと40億円も売り上げが落ちることになるらしく、実は円高というのは輸出を主力としている企業、ひいてはそういった企業に頼りきっている日本からするとものすごい悪影響を与えるのです。
 なのでここで断言しても良いですが、今日明日の経済記事の一番の見出しが下がった株価のメディアは下で、上がった円価を載せているのは上です。実際、今私がYAHOOの情報を見ると何でももう1ドル=92円と、ちょっと前まで108円位だったということを考えると、トヨタはこの時点で6400億円の売り上げ低下といえることになります。実際にはこれ以上になること確実ですけど。

 今回株価が下がったのを順序だてて説明するならば、まずアメリカで金融危機が起こりドルの通貨価値が急激に下がりだし、比較的サブプライム問題の影響の少なかった日本の円価がまだ安定している通貨だと世界の投資家に見られたことにより逆に上がることとなった……というのが今日の事態に繋がったと見て間違いないでしょう。

 それでこの下落について友人は、「株価は全然実態を反映していないね」と言ったのですが、厳しいことを言うと、それは違って実体経済も今の株価並みにボロボロだというのが私の意見です。
 というのも、今の日本経済は完璧なまでに輸出頼みで成り立つように作られており、いざ海外、それも消費力の高いアメリカなどが駄目になると途端に一緒になって駄目になるような仕組みとなっており、それを挽回しようと思っても国内市場を放置してきた分、もはや取り返しがつかない状態となっているからです。

 これを細かく解説すると、基本的に経済というのはたとえ100の生産力があっても、50の消費力しかなければ結局50の経済価値でとどまってしまいます。日本は十年くらい前から国の経済体制を大きく改造し、大企業を優先して強くさせて生産力を限りなく上げていったのですが、その代わりに日本国内の消費力、つまり個人が持つお金の量をどんどんと減らしていきました。個人が持つお金の量が増えれば基本的に消費力というのは上がっていくのですが、日本政府は派遣雇用などで個人給与を減らしていき、企業もその政府の動きにあわせて非正規職員を増やすだけでなく残業代といった正規職員の給与までもどんどん減らしていきました。

 その結果、企業は支払う給与が減るのでその分を自社投資に回して生産力を増大させていったのですが、肝心の消費が国内ではそれに追いつかなくなっていきました。そこで政府は国内のかわりに、ガンガンと海外への輸出を誘導することによって消費を補っていく政策を行っていきました。実際うちの親父なんか知った顔して、「今の企業は海外に出ることなしではどこもやっていけない」とよく言うのですが、これは裏を返してみるなら経済のコントロール力、いわば日本経済の生殺与奪権をみすみす外国に握らせるも同然です。そして今実際に、日本企業はサブプライム問題で他国ほど影響は受けず、また金融機関の財務状況も非常に安定しているにもかかわらずここまで株価の下落が起きてしまっているのです。

 ちょっと込み入っているので、先ほどの生産力と消費力の変遷をちょっと図にすると、

    生産力 日本の消費力 海外の消費力
十年前 100   80     20
 今   150   50    100

 といったような感じです。やや極端な数字にしていますが、こんな具合に十年前と今は移り変わっていると考えてください。
 では日本はどうするべきだったか、輸出頼みに舵を切るべきではなかったのかという話ですが、私はあの失われた十年に海外重視に政策を打ったのは大正解だったと思います。しかしその政策をいつまでも続けたというのは、評価が難しいとはいえ結果的には失政だったと言えると思います。もし2006年のまだ日本全体で余裕が戻ってきたあの段階で国内の消費力増加に取り組む、具体的には派遣労働の禁止とか給与の底上げ、減税などさえ打っていれば、今の状況とはまた全然違ったものになっていたと思います。

 最後に、友人は今の状態は政治的な強権が発動されなければもはやどうにもならず、市場メカニズムに任していても解決できるはずがないと言っていましたが、後半は正しいのですが前半の部分は、私もそうあってほしいものなのですが、実際にはほとんど期待できないと思います。
 まず日本の今の麻生内閣はただでさえ解散を控えて不安定であり、その上今の経済混乱に対応できる人材が政治界にいるかとなったら非常に疑問です。田原総一朗氏はこの前のサンデープロジェクトにて、この状況下で中川昭一財務、金融大臣が切り盛りしていてよかったと誉めましたが、この人が具体的にどんな政策を打ち出そうというのかが私にまでさっぱり伝わってこないことを考えると、やはり力不足なんじゃないかなという気がします。少しうぬぼれもありますが。

 そして何より、前回G7、先進七カ国財務大臣会議にて歩調を合わせて持ち前の資金をどんどん流すと約束したにもかかわらず世界中で株価下落を下げとめられなかったことを考えると、日本程度の一国がいくら権力使ったところでどうにもならないのではと思います。
 じゃあどうすればいいかというと、ありていですが耐えるしかないというのが私の意見です。